第百十七話 「好奇心」
五百七十七



 バスがデパート前の停留所に停車すると、音を立てて扉が開く。
 
 順番に歩道に着地する、五人の足音。
 
 やがてバスはゆっくりと発進し、次の停留所へと向かう。
 
 
 
 バス停の屋根の下で、アスカが額にかかった髪の毛を払った。
 
 すらりと通る鼻梁に、日差しが色濃い影を落とす。
 
 「あつー……日焼けするかも」
 
 言いながら、不快そうな表情を浮かべた。
 
 
 
 並んでいるのは、そのアスカのほかに、シンジ、レイ、トウジ、そしてカヲル。
 
 チルドレンが勢揃い、という状態である。
 
 さほど多くも無い人通りを前に、更にその奥に建つデパートを眺めながら、五人は立つ。
 
 
 
 「……で? これから、ど〜すんの?」
 
 アスカが、傍らのシンジに声を掛ける。
 
 「え? う〜ん……」
 
 言い淀むシンジを、アスカはギロリと睨みつけた。
 
 「……アンタ、もしかしてまた、集めるだけ集めといて、何もプランないワケ?」
 
 「あ、い、いや……その、そう……えぇと。まぁ買い物とかすればいいかなと思って……」
 
 「アンタね、そんな適当な……」
 
 「ワシ、買いたいマンガがあるんやけど」
 
 「アンタの歓迎会じゃないでしょ!」
 
 トウジの鼻先に、人差し指をずびしと突きつけてアスカは怒鳴った。
 
 
 
 そんなアスカの言葉を聞いて、シンジは頷く。
 
 プラン、も何も、そこを履き違えてはいけない。
 
 「そうだよ。カヲル君の歓迎会なんだから……」
 
 言いながら、くるりとカヲルの方に向き直る。
 
 
 
 特に何の興味もなく、ただデパートの白い姿を見上げていたカヲルは、シンジの視線に気付いて顔を向けた。
 
 「ん?」
 
 そのカヲルに、シンジは言葉を続ける。
 
 「えと……今日は、カヲル君の歓迎会なんだからさ。その……何でも、カヲル君の買いたい物に付き合うよ」
 
 シンジの言葉に、しかし、カヲルは軽く両肩を竦めて応えた。
 
 「別に、何も買いたい物なんて無いよ」
 
 「そ、そう? ……でも、引っ越してきたばかりだし、何か、揃えたいものとか、あるでしょ?」
 
 カヲルは首を横に振る。
 
 「いや、必要なものは持ってる。それに、シンジ君もNERVの居室に住んでるんだから知ってるよね? ……あそこは、全部揃ってるんだ。身一つで越してきても、足りないものなんて無いようになってるんだよ」
 
 
 
 「う〜ん……」
 
 シンジは呟いて、頭を掻いた。
 
 確かに、カヲルの言う通りだ。
 
 基本的にジオフロントの居室棟は、地上の家を焼け出されてしまった職員の避難所として機能するように作られている。
 
 身一つであることは前提で、確かに必要最低限の調度品は全て備え付けられているのだ。
 
 
 
 その上で、私物をどのくらい持ち込むかは、個人の好みの範疇だ。
 
 事実、アスカは洋服などを大量に持ち込んでいるが、対してレイの私物は紙袋に収まる程度の量しかない。
 
 トウジもボストンバッグ一つしか荷物がなかったし、シンジも同じようなものだった。
 
 
 
 カヲルの言う通り、差し迫って買わなければいけないものは、無いようだ。
 
 悩んだ表情を浮かべていたシンジは、ふと、そのカヲルの格好に気付く。
 
 カヲル以外の四人は、皆、私服だ(トウジは、まぁ、ジャージだが)。
 
 それに対して、カヲルは制服である。
 
 
 
 予感が、シンジの脳裏をよぎる。
 
 
 
 「カヲル君……」
 
 シンジが遠慮がちに掛けた声に、カヲルは首を傾げる。
 
 「なに?」
 
 「……それの他に、服は持ってるの?」
 
 シンジが、カヲルの制服を指差す。
 
 「持ってるよ」
 
 カヲルは、さも当たり前といった風情で、軽やかに応える。
 
 「制服が、あと二着ある」
 
 
 
 「……って」
 
 「制服ぅ? 私服は?」
 
 シンジの言葉に被さるように、アスカの声が飛んできた。
 
 振り返ると、腕組みをしたアスカが、眉間に皺を寄せて二人を見ている。
 
 カヲルはアスカの方を向いて、不思議そうな表情を見せる。
 
 「私服?」
 
 「制服以外は持ってないわけ?」
 
 「持ってないよ」
 
 アスカの問いにあっさりと応えて、言葉を切る。
 
 
 
 沈黙。
 
 
 
 アスカは、形容しがたい表情でカヲルを睨みつけている。
 
 カヲルは、そんなアスカの顔を見つめてから……怪訝な表情で、口を開く。
 
 「何で、そんな顔をされるのか分からないよ。何か、問題でもある?」
 
 「………」
 
 黙る面々。
 
 
 
 傍らで会話を聞いていたレイは、そっと、誰にも分からぬように……自らの拳を握り締めた。
 
 
 
 あれは、
 
 
 
 昔の自分だ。
 
 あの当時、シンジが何故悲しそうな表情を浮かべていたのか、
 
 ……今なら、分かる。
 
 
 
 あれは、
 
 昔の、自分だ。
 
 
 
 使徒であるこの少年と、私は、同じだ……。
 
 
 
 拳を、小さく、握り締める。



五百七十八



 ……結局、成り行きで洋服を見て回ることになった。
 
 デパートの中の、洋服売り場が固まったフロア。
 
 その中のティーンズ向けの店に入り、めいめいが服を広げて見ている。
 
 
 
 所在無さそうな様子で、傍らに積んである洋服の裾などを指先でつまんでいるトウジ。
 
 アスカが、自分の上着を探しながら声を掛ける。
 
 「アンタもジャージばっか着てないで、他の服も選びなさいよ」
 
 「ええやろ、別に……ジャージ好きなんやから。気に入っとんのや、動きやすいし」
 
 不機嫌そうな声を漏らすトウジ。
 
 そんなトウジを見てアスカは軽く眉を上げ、また視線を自分の手許の服に戻す。
 
 「ま……アンタの服は、ヒカリが選ぶんだろうけど」
 
 「なっ……な、なん」
 
 アスカの思わぬ言葉に、トウジは赤くなって硬直。
 
 アスカは、無視。
 
 トウジもそれ以上言葉を続けられず、頬を赤くしたまま、不機嫌そうな表情で視線を逸らした。
 
 ……まさか、自宅には既に、何着かヒカリが選んだ服がハンガーに掛かっている、とは言えない。
 
 恥ずかしくて、知り合いの前で袖に腕を通したことなど、一度もないのだが。
 
 
 
 カヲルは、洋服の山を前にして、じっと立っている。
 
 視線はその服の群れに落ちてはいるものの、それを触ろうとはしない。
 
 裾をつまんだだけトウジの方がマシ、という状況である。
 
 
 
 横でその様子を見ていたシンジが、おずおずと声を掛けた。
 
 「……どう? カヲル君……」
 
 どう? とは尋ねたものの、答えは聞くまでもなく分かっていた。
 
 カヲルはシンジの方に視線を向けると、軽く肩を竦めてみせる。
 
 「どれがいいのか、分からないよ」
 
 「そう……」
 
 まぁ、予想通りだ。
 
 カヲルは視線を洋服の山に戻して、言葉を続けた。
 
 「やっぱり、僕はいい。制服が三着あれば、洗濯も問題ないし、これ以上服を持つ意味が分からないよ」
 
 カヲルの言葉に、シンジは慌てて片手を挙げて制する。
 
 「い……いや、待って」
 
 「?」
 
 「その……でも、やっぱり、制服だけってのはおかしいよ。え〜と……その、制服だけじゃ困る場面もあるし」
 
 「例えば?」
 
 「えっ……え〜……う、う〜んと……」
 
 
 
 言われてみれば、私服でないと困る場面とは、なんだろう。
 
 逆のパターンは、幾らでもありそうだが……。
 
 言葉をあぐねているシンジを見て、カヲルは微笑んだ。
 
 「そうだ……じゃあ、シンジ君は、どんな私服を持ってるんだい?」
 
 「えっ? ……ぼ、僕?」
 
 「そう」
 
 「えっ……う、う〜んと……」
 
 「僕も、シンジ君が持っているのと、同じものを買うよ。それなら問題ないだろう?」
 
 「……えっ」
 
 
 
 それでは、お揃い・ペアルックだ。問題がない……わけが、ない。
 
 
 
 「そっ……そ、それはおかしいよ」
 
 慌ててシンジが言う。
 
 カヲルは怪訝な表情を浮かべる。
 
 「なんで?」
 
 「なんでって……えぇと……その、普通、同じものって、着ないし」
 
 「どうして? 制服は、みんな同じだろう?」
 
 「せ、制服と私服は違うよ……」
 
 困った表情を浮かべるシンジ。
 
 カヲルは、シンジの戸惑った様子を意に介することなく、視線を洋服の山に戻す。
 
 「よく分からないなぁ……やっぱり、私服を買う意味が理解できない」
 
 「う、う〜ん……」
 
 理論的に説明することが出来ずに、シンジも言葉に窮してしまう。
 
 
 
 数秒、口を噤んだカヲルは……やがて、もう一度シンジのほうに視線を戻して、口を開いた。
 
 「でも……まぁ、そこまで言うんなら……シンジ君、君が選んでよ」
 
 
 
 「……え?」
 
 「洋服」
 
 「え……選ぶって?」
 
 「僕には、どれがいいのか、全然分からないから」
 
 「えっ? ……ぼ、僕? ……僕が、選ぶの?」
 
 「シンジ君が選んでくれれば、それでいいよ、僕は」
 
 「え、えぇと……でも、その……僕はあんまり……」
 
 「?」
 
 「……その、そういうセンス、あんまり無いから……あっ」
 
 
 
 そのまま、唐突に沈黙が訪れた。
 
 シンジは、何かに気付いたような表情で、宙を見ている。
 
 言葉が不自然に途切れたシンジの様子に、カヲルは不思議そうな視線を向ける。
 
 
 
 ……そうだ。
 
 シンジは、思う。
 
 
 
 もともと、今日は何のために、集まったんだ。
 
 自分とカヲルが仲良くするためじゃない。
 
 仲の悪いアスカを筆頭に、他のみんなとカヲルとの間の親交を図るのが、目的じゃないか。
 
 それなら、ファッションセンスに関して、自分よりもずっと適任の人がいる。
 
 
 
 「……アスカ!」
 
 シンジは振り返ると同時に、棚を二つほど挟んだところでスカートを見ているアスカに声を掛けた。
 
 アスカが顔を上げる。
 
 「え? なに?」
 
 「アスカ、ちょっとごめん、こっちに来てくれない?」
 
 シンジの言葉に怪訝そうな表情を浮かべたアスカは、その隣にカヲルが立っているのに気付いて、露骨に顔をしかめる。
 
 だが、ともかく手に持ったスカートを棚に戻し、アスカは二人のところまでやってきた。
 
 
 
 「……なんか用?」
 
 不機嫌な表情を隠そうともせず、アスカはぶすっと声を出した。
 
 表面を変に取り繕おうとするよりはよっぽどアスカらしいとは思うが、それでもそのあからさまな態度にシンジははらはらしてしまう。だが、その表情が向けられている当のカヲルは、特に意に介した様子もなく、ただ普通の様子でアスカを見ている。
 
 シンジはともかく平静を装い、努めて明るく言葉を発した。
 
 「あの……さ、アスカ。その、カヲル君の洋服を、選んでみて……くれない……か、な……?」
 
 それでも、語尾に行くに連れて気弱になってしまうのはご愛嬌だろう。
 
 「はぁ?」
 
 アスカは、眉間に皺を寄せてシンジを見る。
 
 
 
 「いや……カヲル君が、自分じゃ服を選べないって言うからさ……」
 
 「ナニよ、それ」
 
 「いや……と、とにかく、そういうことなんだよ」
 
 「そんなの、シンジが選んでやったらいいんじゃない?」
 
 「いや、まぁ、その……僕は、あんまりセンスが良くないからね……」
 
 「それはそうね」
 
 「………」
 
 
 
 「……でも、ご本人は、アタシなんかに洋服を選んでもらいたくはないんじゃない?」
 
 アスカは、横目でカヲルを見ると、皮肉めいた口調でそう言い、口元を演出気味に歪めて微笑んだ。
 
 カヲルは、きょとんとした表情でアスカを見る。
 
 「え?」
 
 「アタシのこと、嫌いみたいだしさ」
 
 あからさまに肩を竦めて視線をシンジに戻し、笑みを浮かべながら呟く。
 
 
 
 カヲルは、右手をポケットに突っ込んだまま、左手の人差し指で鼻の頭を掻いた。
 
 「……そんなつもりはないけどね」
 
 「ど〜かしら。よく、そんなことが言えるわね」
 
 「う〜ん……まぁ、惣流さんがどう感じているのかは知らないけど」
 
 アスカの敵意をちらつかせたセリフに反応を見せることなく、カヲルは淡々と応える。
 
 「僕は、まぁ……惣流さんがどんな洋服を選ぶのか、興味はあるね」
 
 「え」
 
 カヲルの言葉に、今度はアスカがきょとんとする。
 
 
 
 「そ……そう?」
 
 居心地が悪そうに、視線を泳がせるアスカ。
 
 また前回のように、喧嘩になると思っていたのだろう。予想外に柔軟なカヲルの態度に、戸惑っている。
 
 
 
 「……そうだな」
 
 カヲルは呟くと、考えるように、顎に軽く指を当てた。
 
 そのまま、数秒の沈黙。
 
 そうして、再び視線をアスカに戻し、口を開く。
 
 「……じゃあ、惣流さんに、選んでもらおう。
 
 よく分からないけど、惣流さんなら、いい服を選んでくれるんだろう?」
 
 微笑んで、カヲルが言う。
 
 
 
 「………」
 
 アスカは、口を噤む。
 
 
 
 沈黙。
 
 
 
 カヲルは、アスカの顔を、微笑んだまま、見つめている。
 
 アスカは、その視線を受け止めて……
 
 それから、逸らす。
 
 
 
 視線を、右の洋服の山に、
 
 左の洋服の山に。
 
 
 
 そうして、左右に何度か、視線を動かした後、意を決したように、その視線を目の前のカヲルに向ける。
 
 
 
 「………」
 
 頭のてっぺんから、つま先まで。
 
 品定めをするように、幾度も、その姿をしげしげと見つめる。
 
 
 
 「よし」
 
 
 
 そうして、頭の中で何事か思いを巡らせた後、アスカの口から、小さな呟きが漏れた。
 
 
 
 「……そこまで言うんなら、このアタシが、スッキリバッチリ、完璧にコーディネイトしてやるわよ!」
 
 キッ、と、睨みつけるようにカヲルを見てから、アスカは言い放つ。
 
 と同時に、アスカは傍らの棚に飛びつき、洋服の山を掻き回し始めた。



五百七十九



 紫煙が、風にたなびいて、虚空に消えていく。
 
 
 
 加持の口に咥えられたタバコが、ゆっくりと短くなっていく。
 
 湖畔のスロープに立って眺める世界は、死臭とは無縁に思える。……それだけに、また、自分自身も、この場所には似つかわしくない、と感じていた。
 
 
 
 「……何故、私に?」
 
 加持が、静かに……ゆっくりと、呟く。
 
 
 
 数メートルは離れた場所で、同じように湖面を見つめていた冬月が、加持の方に顔を向ける。
 
 加持はタバコをつまむと、胸元から携帯灰皿を取り出し、それに押し付けた。
 
 「私を、信用していただけてる、ってことですかね」
 
 携帯灰皿を再びしまいながら、言う。
 
 
 
 「君自身を信用することほど、愚かなことはない……と、思っているよ」
 
 冬月が応える。
 
 「だが、君の実力については、信用に値すると思っている」
 
 「それはどうも」
 
 加持が肩を竦めて微笑んだ。
 
 
 
 冬月は、そのまま言葉を続けた。
 
 「……もちろん、そんな曖昧なものを理由に、君を選んだわけではない」
 
 「そうでしょうね」
 
 そう、その方がむしろ、信用できる。
 
 綺麗事より、打算で動く人間の方が、信頼に足る、と加持は思う。
 
 「君の立場というものも、考慮したうえで、ということだ。……君は、NERVとゼーレの、双方に使われる身だからな」
 
 「………」
 
 「今更、言葉を濁すことはあるまい」
 
 「……今は、ゼーレには見限られた身ですよ」
 
 「知っている」
 
 当然、冬月はそれを理解している。
 
 加持がゼーレに切られたその原因の一翼は、彼が冬月をゼーレの手から救ったことにある。
 
 その因果関係は、冬月でなくとも容易に知れるだろう。
 
 冬月は、加持を見た。
 
 「だが、種は撒いたはずだ」
 
 「………」
 
 「君が、ただ見限られるだけでいたなどとは思わないよ。そういう意味でも、実に信頼できる男だ、君は。……だからこそ、ゼーレから送り込まれた渚カヲルの調査を、他ならぬ君に頼みたいと思っているのだ」
 
 
 
 しかし、加持はゆっくりと首を振った。
 
 「それは、買い被りというものです」
 
 「そうかね?」
 
 加持の拒否の言葉に、冬月は淡々とした視線を向ける。
 
 加持は溜息をつく。
 
 「そうでなくても、渚カヲルは、経歴全て抹消済み……それでゼーレ絡みとなれば、そんなに簡単に調べがつくとも思えませんね」
 
 「それは理解している。……だが、君ならそれを突き止められるのではないか、と踏んでいるのだがね」
 
 「そんな、大層なものじゃありませんよ、私は」
 
 「そうかね?」
 
 冬月の言葉に、加持は頭の後ろを掻いた。
 
 
 
 「……何と言うか……」
 
 言葉を探すように、加持が呟く。
 
 「………」
 
 「……そうだな……そう、例えば。……同じように、経歴が抹消されている人間が、一人、いますね」
 
 
 
 誰、とは問わずとも、それが綾波レイを指すことは冬月にも分かる。
 
 冬月は黙って加持の顔を見つめた。
 
 加持は、そのまま言葉を続ける。
 
 「彼女の経歴を、調査しようと試みたことがあります。……まぁ、本腰を入れていたわけではなく……試しに、という程度ではありましたが」
 
 「………」
 
 「……ともかく、結局、大したことは分からなかった。彼女と渚カヲルは、そのデータの持ち方において近い。彼女のことが分からなかった以上、渚カヲルの調査も、望み薄ですね」
 
 「……それは本心かね? 本気で調べれば、色々と分かったのではないかね」
 
 「そんなことはありません」
 
 「………」
 
 「そうだ、試しに彼女のこと、教えていただけませんかね? それを手掛かりに、渚カヲルの調査も進むかもしれませんよ」
 
 「……そんな口車には乗らんよ」
 
 冬月は、ただ、穏やかな口調で呟く。
 
 加持は、軽く笑って肩を竦めた。
 
 
 
 ……やがて加持が立ち去り、湖畔には冬月が一人、残された。
 
 初夏の陽気でも、その頬に触れる風は冷たい。
 
 水泳にも適したはずの湖の水温も、まるで凍える冷たさのように感じられるのは、錯覚に過ぎないのだろうか。
 
 
 
 綾波レイと、渚カヲル。
 
 その、共通性。
 
 
 
 「……そんなことは、我々にも分かっている」
 
 冬月が、静かに呟く。
 
 傍らに立つ、自分自身に話しかけるかのように。
 
 
 
 「渚カヲル……彼が、アダムより生まれし者だとして」
 
 ただ、その言葉が風に舞って、湖の上に微かなさざなみを立てる。
 
 軽く、
 
 撫でるように。
 
 
 
 「ゼーレが、その彼を何故、送り込んできたのか。彼らの計画にとって、それが何を意味するのか。
 
 我々が知りたいのは……そこだよ」
 
 そう、呟いて、湖水を、じっと見つめる。



五百八十



 試着室のカーテンが開く。
 
 
 
 その向こう側に、カヲルが立っている。
 
 開いたカーテンの前で、アスカがそのカヲルの姿を、腕組みをして睨みつけている。
 
 
 
 「う〜ん……線が細いから、案外もう少し、ゆったりとした服の方がいいのかも……」
 
 眉間に皺を寄せて、ぶつぶつと呟いている。
 
 
 
 カヲルは、アスカに渡された洋服で上から下まで身を包んではいるが、無表情で立っているだけだ。
 
 そのカヲルを睨みながら、更に両手に持ったシャツを見比べてぶつぶつと呟くアスカに、カヲルは目を閉じて口を開いた。
 
 「別に……いいよ、これで」
 
 カヲルの言葉に、アスカは顔を上げる。
 
 カヲルは、既に好奇心が醒めてしまったような目で自分の姿を見る。
 
 「洋服なんて、着れれば何でもいいだろう? もう、これで充分だよ。これ以上やっても、時間の無駄だと思う」
 
 
 
 「……何ですって?」
 
 ムッ、とした表情でアスカがカヲルを見る。
 
 「アタシのコーディネイトが、気に入らないって言うの?」
 
 「何を言ってるんだ?」
 
 アスカの言葉に、怪訝な表情を浮かべるカヲル。
 
 「この服を選んだのは、君だろ」
 
 「だから、その組み合わせじゃダメだって言ってんのよ」
 
 「だから、別にいいよ。僕は気にしない」
 
 カヲルの言葉に、アスカは眉間に皺を寄せた。
 
 「……アンタがよくても、アタシが気にすんのよ!」
 
 「分からないな。自分の服じゃないんだから……そこまで、固執する必要なんてないだろう」
 
 
 
 アスカは、ぶすっとした表情で、両腕を腰に当てた。
 
 「うっさいわね。アタシが任されたんだから、アタシの気が済むまでやんのよ」
 
 「僕の意見は無視かい?」
 
 「センスのない奴の意見は、この場合は無視!」
 
 バシッ、とアスカが言い放った。
 
 
 
 アスカの言葉に、カヲルは苦笑ともつかぬ表情を口元に浮かべた。
 
 「強引だね」
 
 「……うるさいわね。大体、シンジにしろアンタにしろ、最低限、顔に見合うカッコしなさいよ。それは、アンタらみたいなのの、義務よ、義務」
 
 「ふぅん?」
 
 アカヲルは、片方の眉毛を上げる。
 
 「顔? ……顔なんて、気にしたこと、ないけどな」
 
 「鏡くらいみなさいよ、アンタ。朝、顔洗わないわけ?」
 
 「洗うよ?」
 
 「そーゆー意味で言ってんじゃないわよ」
 
 「どういう意味?」
 
 「………」
 
 「?」
 
 「……顔がいい、って言ってんのよ」
 
 「顔が、いい? ……どういう意味?」
 
 「本気で言ってんの? ……整ってるってことよ。分かんないの?」
 
 「……顔なんて記号だろう? 顔がいいとか、悪いとかいう概念が、意味が分からないな。顔は個体の識別子に過ぎない。そういう意味では、より他と差があればあるほどいい……というんなら話は分かるけど、整っている方がいい顔だ、っていうのは理解できない」
 
 
 
 「……それ、何? ……イヤミ?」
 
 こめかみに血管を浮かせながら、押し殺した声で、アスカが言う。
 
 「イヤミ?」
 
 怪訝な表情で、アスカを見る。
 
 「それこそ、何を言ってるのか、分からないな」
 
 
 
 そのカヲルの顔に、バシッ、と丸めたシャツがぶつけられた。
 
 アスカが、手に持っていたシャツを投げつけたのだ。
 
 こめかみに青筋を浮かべたアスカは、投げつけたポーズのままカヲルを睨みつけると、そのままくるりと後ろを向き、肩をいからせて歩き出す。
 
 その後姿を眺めながら、カヲルは頭の上に乗ったシャツを取り、声を掛ける。
 
 「服を選ぶんじゃ、なかったのかい?」
 
 「アンタは、ゴミ袋でも被ってりゃ充分よ!」
 
 
 
 振り返ることなく、そう言葉をぶつけたアスカは、そのままエスカレーターの方へ、歩いていってしまった。



五百八十一



 机の上に積み上がった書類の向こう側で、ミサトは親指の爪を噛みながら、目の前の画面を見つめていた。
 
 ノートパソコンのキーをタッチする音が断続的に響くこの部屋は、ミサトの執務室だ。
 
 机の上は始末書で酷い有様だが、それ以外は思ったほど散らかっていない。
 
 モニタの上では、幾つものウィンドウが、入れ替わり立ち代わり、閉じたり開いたりしている。
 
 
 
 「だめか」
 
 小さく、呟く。
 
 
 
 画面には、赤い警告が開いている。
 
 そこには「MAGIによりブロックされました。この先の情報にアクセスするにはレベル6以上の権限が必要です」と表示されていた。
 
 ミサトは溜息をつくと、傍らに置いてあったカードリーダから自分のIDカードを引き抜いた。
 
 途端、画面に大量に開いていたウィンドウは瞬く間に閉じ、ただのデスクトップ画面に変わる。
 
 
 
 ミサトは、背凭れに体重を預けた。
 
 手に持ったIDカードを、天井のライトにかざしてみる。
 
 四角い影が、彼女の顔の上に落ちた。
 
 
 
 レベル6、なんて、自分には無理だ。
 
 ハッキングの技術があるわけでもないから、裏口から不可侵エリアに入るような真似も出来ない。
 
 この領域に入れる人間となると……
 
 司令か、
 
 (頼めるわけが無い)
 
 副司令か、
 
 (こちらも頼めるわけが無い)
 
 加持か、
 
 (既にスパイではなくなった彼に、それが可能だろうか?)
 
 リツコか。
 
 (………)
 
 
 
 「リツコか……」
 
 指先で、IDカードをくるりと回す。
 
 弾みでカードがその指から落ち、慌てる間もなく彼女の鼻の頭に当たる。
 
 「あたッ」
 
 驚きで目を閉じた弾みで、カードが跳ねる。
 
 そのまま胸の上に落ちたカードが、その膨らみを滑り落ちかけて、ミサトは慌てて手を伸ばしてそれを掴む。
 
 カードの角が当たった鼻先を指で撫でながら、そのカードを内ポケットにしまいこんだ。
 
 
 
 椅子を引いて立ち上がる。
 
 ノートパソコンの電源を落としてから、彼女は執務室を後にした。
 
 
 
 「……リツコぉ、いる?」
 
 コンコン、と扉を叩いて、ミサトは返事よりも前にドアノブをスライドさせた。
 
 ガシャン、と重い金属音を立てて扉が開くと、その中は電気が点っておらず、しかし数個のモニタの光に照らされたリツコがこちらに振り向くところだった。
 
 
 
 「ミサト? よくここが分かったわね」
 
 言いながら立ち上がるリツコに、ミサトは扉を閉めながら笑った。
 
 「アンタの行動なんてお見通しよ。任せなさい」
 
 実際には、リツコの執務室や管制塔、彼女の実験室など既にしらみつぶしに探し回った過程であったのだが、それは言えない。
 
 
 
 壁のスイッチを入れると、電気がついて部屋は明かりに包まれた。
 
 リツコの専用と化したこの実験室は、余り使い勝手が良い方ではなく、彼女もそれほど足繁く利用しているわけではない。
 
 だからこそ、ミサトもすぐには探し出せなかったわけだが。
 
 リツコは傍らのコーヒーメーカーのポットを手に取り(彼女の実験室に共通する特徴は、その全てにコーヒーメーカーがあることだろう)、紙コップに黒い液体を注ぐ。
 
 「はい。冷めてるけど」
 
 リツコが差し出すコップを、ミサトは受け取る。
 
 
 
 「……で? 何の用?」
 
 リツコはそう言うと、自分のマグカップにもコーヒーをついで、それを少しだけ飲んだ。
 
 ミサトはそんなリツコを見てから、一気に紙コップの中身をあおる。
 
 空になった紙コップを傍らのゴミ箱に放ると、乾いた音が僅かに空気を震わせた。
 
 
 
 「……ちょっち、頼みたいことが、あってね〜」
 
 「フィフスのことね?」
 
 ミサトが言うや否や、リツコが短く応えた。
 
 ミサトが、目を丸くする。
 
 「あら……」
 
 「なに?」
 
 「いや……よく分かったわね」
 
 ミサトの言葉に、リツコは目を閉じた。
 
 「別に……私も今、調べてたところなのよ」
 
 そう言うと、椅子を引いて再びそこに腰を下ろす。
 
 
 
 キーを数回タッチすると、画面の上にプログレスバーが伸び始める。
 
 ミサトはそこに歩み寄り、座るリツコの肩越しに画面を覗き込んだ。
 
 数秒の沈黙を置いて、画面には小さなウィンドウが開く。
 
 そこには、ただ「NO DATA」とだけ記されている。
 
 
 
 「なにこれ」
 
 ミサトの言葉に、リツコは溜息をついて、「OK」のボタンを押す。
 
 ウィンドウが閉じ、ただのデスクトップ画面になる。
 
 「見ての通りよ」
 
 「だから、何が?」
 
 「今、言ったでしょ? ……フィフスの情報よ」
 
 「……はぁん」
 
 ミサトは言いながら腰を伸ばした。
 
 「それは、正面玄関? それとも裏口?」
 
 「どっちもよ」
 
 リツコが応える。
 
 
 
 「サーバ上には、何もデータが残ってないのかもしれないわね」
 
 リツコはそう言って、またコーヒーを一口啜る。
 
 「初めから、完全なオフラインで情報を管理しているってこと?」
 
 「信じられないけどね」
 
 言いながら、キーボードを叩くリツコ。
 
 「十年前ならともかく……今、そんな管理は有り得ないわ。どっちかと言うと、全てのデータを隈なく消し去ったってラインの方がまだ、信憑性があるわね。……そっちも信じがたいけど」
 
 「どっちにしても、同じでしょ。……データが何も残って無いんだから」
 
 「違うわよ。ともかく一度でもアップされたデータなら、それこそ根絶なんて不可能だわ。どんな微かな存在でも……その残滓が、どこかに残っていても不思議じゃない」
 
 「可能性は、まだある、ってこと?」
 
 「ゼロじゃない、っていう程度ならね」
 
 
 
 リツコは椅子を少し引くと、別のマシンのキーボードを叩く。
 
 スリープモードが解除されて、液晶にデスクトップ画面が浮かぶ。
 
 「ともかく、いいところに来てくれたわ。ちょっと手伝って頂戴」
 
 言いながらモニタの前を空けるリツコの言葉に、ミサトは表情を引き締めた。
 
 「なに? 私が手伝えることなら、やるけど」
 
 「私が調査してる間、滞ってる事務の書類を片付けてくれる?」
 
 
 
 引き締まったミサトの表情が、一瞬にして情けない顔に変わった。
 
 
 
 「はぁ? ……そんなの、マヤにやらせなさいよ」
 
 「あのねぇ、これは、私の仕事なの。大体、マヤから上がってきた書類をマヤに決裁させてどうするのよ」
 
 「……だったら、自分でやりなさいよ! 知らないわよ、私」
 
 「私がフィフスチルドレンの調査をしているのは、基本的に秘密なのよ、当たり前だけど。他人から見ると、手は空いてるはずなの。それなのに、書類が滞ってるなんて、おかしいでしょう?」
 
 「……だから?」
 
 「私がフィフスチルドレンの調査をしていること、知っているのはあなただけなのよね」
 
 
 
 ミサトは、はぁ〜……と、深く、溜息をついた。
 
 両肩をがっくりと落とす。
 
 「……頼みに来なきゃ良かった」
 
 
 
 「よろしく」
 
 リツコは微笑むと、再びモニタに向き直り、キーボードをめまぐるしくタッチし始めた。



五百八十二



 暗い部屋。
 
 
 
 電気がついていない。
 
 こうしてベッドに横になっていると、暗がりが苦手な自分の目でも、徐々に慣れて天井の目地が見えるようになる。
 
 自室に戻ってベッドに寝転がって、既に30分程度が経過している。
 
 
 
 首を横に向ける。
 
 ドアの隣の壁に、無造作に立てかけてある紙袋。
 
 開封すらしていないその紙袋の中には、アスカが最初に選んだ洋服が一式、詰め込まれている。
 
 
 
 昼間のアスカの姿が、脳裏に浮かぶ。
 
 どちらにしようかと、両手に持ったシャツを見比べて、眉間に皺を寄せている、アスカ。
 
 
 
 苦笑、と言えばいいのだろうか。
 
 ほんの僅かな笑みが、カヲルの口の端に浮かぶ。
 
 
 
 「人間って……どうして、あんなに、他人の為に一生懸命になれるんだ?」
 
 
 
 分からない。
 
 別に、分かろうとも思わないが。
 
 全く、自分とは別の生き物だ。
 
 理解と呼ぶには越えがたい溝が、種別の間に横たわっているのを感じる。
 
 
 
 だが、興味は、湧いた。
 
 
 
 人間という生き物に対する、根源的な好奇心。
 
 
 
 カヲルは目を閉じた。