第百十五話 「音」
五百六十五



 夕陽に彩られた道を、一台のバスが走っている。
 
 その窓に反射して煌く太陽は、いまやビル群のむこうに沈みかかろうとしていた。
 
 片道三車線の大通りを、しかし他の車がすれ違うことは稀だ。
 
 
 
 「……整理したいんやが」
 
 一番後部の、横に長い座席の中央に腰を下ろしていたトウジが、ゆっくりと口を開く。
 
 横に座るヒカリがその顔を見ると、トウジは真剣な表情で、腕組みをして目を閉じている。
 
 二つ前の席に座ったアスカが体ごと振り返り、背凭れに腕をかけて応える。
 
 「なによ?」
 
 「……気になるんは、そこの、渚っちゅうやつよりもやな……」
 
 トウジは目を開いて、アスカの顔を見る。
 
 
 
 「……なンで、あそこに惣流やシンジがいたんかっちゅうことや」
 
 
 
 トウジの質問にしかし、アスカは、特に意に介した風もなく、軽やかに笑って見せた。
 
 「ま、いいじゃないのそんなこと。減るもんじゃなし」
 
 言いながら、ひらひらと手のひらを泳がせる。
 
 トウジが不機嫌そうな表情でアスカを見返した。
 
 「減るとかそういうハナシやあらへんやろが」
 
 「小さいこと気にするとハゲるわよ」
 
 「アホか! ……なにしとったんや、あそこで」
 
 「夕日がきれいだなぁ、と思って眺めてたのよ〜」
 
 「……ワシらのこと出歯亀しとったんやろが!」
 
 「でばがめ?」
 
 「……覗いとったんやろ、ちゅうとんのや」
 
 「夕日を眺めてたら、偶然視界にあんたらがいただけよ〜。不可抗力ってヤツ?」
 
 「嘘つかんかい!」
 
 「なぁに、見られたら恥ずかしいようなことしてたわけ?」
 
 「そ、そういうわけやないけどなぁ……」
 
 「じゃ、いいじゃない、別に」
 
 「だ、だから、そういうハナシやないやろ! プライバシーっちゅうもんが……」
 
 「なぁに、見られたら恥ずかしいようなことしてたわけ?」
 
 「そ、そういうわけやないけどなぁ……」
 
 「じゃ、いいじゃない、別に」
 
 「だ、だから……」
 
 
 
 ヒカリは、思わず苦笑していた。
 
 こういうのを、いいようにあしらわれていると言うのだろうか?
 
 トウジは怒っているようだが、アスカは全然堪えていないので勝負にならない。
 
 
 
 視線を左に向けると、少し離れた反対側の窓際の座席に、渚カヲルという少年が座っていた。
 
 銀髪、そして、赤い瞳。
 
 色素が足りないからだ、と容易に想像できるし、それはレイと同じだとも、すぐ思う。
 
 僅かに言葉を交わした程度だが、掴みどころの無い印象を抱かせた。
 
 
 
 カヲルは、言い合いをしているトウジとアスカの様子を、ただ黙って眺めている。
 
 微笑んでいるようにも見えるが、それは微かで、無表情なだけかもしれない。
 
 
 
 ふと見ると、その更にいくつか前の座席に座っているシンジが、トウジとアスカではなく、そのカヲルの背中を見つめていることに気がついた。
 
 新しくやってきたその少年の背中を、ただ、見つめている。
 
 その隣に座っているレイは、そうしてカヲルを見つめている、そのシンジの横顔を見ている。
 
 
 
 ……時間を、若干戻そう。
 
 
 
 夕陽に染まる海岸。
 
 トウジとヒカリの目の前に、カヲルと名乗った少年は降り立った。
 
 面食らった表情で、トウジは二の句が継げない。
 
 オレンジ色の光の中で、その少年の柔らかな髪は、自らが発光しているかのように風に揺らいでいる。
 
 透き通るような白い肌は、病的というよりはむしろ、神秘的なものを思わせた。
 
 
 
 「どうかした?」
 
 カヲルは、静かにそう言って微笑む。
 
 「え……」
 
 カヲルの言葉に、ようやく固まっていたトウジの時間も動き出した。
 
 「え……え?」
 
 「なんで、そんな驚いた顔してるんだい?」
 
 「なんでて……いや、え? え……フィフス? え、マジで?」
 
 目を見開いたまま、トウジが呟く。
 
 
 
 瓦礫の陰に隠れたアスカが、小さく舌打ちをする。
 
 「フィフス? ……本気?」
 
 忌々しそうな声音は理解できる。もともと、アスカは新しいチルドレンが来る事を、そうでなくてもあまり好ましく思わないだろう。
 
 まして今は、チルドレンが余り気味だ。この状態で、何故? とは、アスカならずとも思うところだ。
 
 カヲルは、微笑んだ表情を変えないまま、微かに頷いて見せる。
 
 「嘘をついても仕方が無いだろう? それに、もうNERVには連絡が行っている筈だけどね」
 
 「え……?」
 
 「そんなことより、道に迷っちゃったんだよ。ジオフロントに行くつもりだったんだけど……戻るなら案内してくれないか?」
 
 「え? え〜と……」
 
 慌てたように辺りを見回すトウジ。
 
 わたわた、とポケットから携帯電話を取り出す。
 
 「ちょ、ちょと待ってや。連れてってええんかどうか、ワシじゃ決められんから……」
 
 言いながら、携帯のボタンを数回押す。
 
 
 
 突然、シンジのポケットの中から軽快な音楽が流れ始めた。
 
 「えっ?」
 
 驚いて、シンジがポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出す。
 
 液晶画面には、「鈴原トウジ」と表示されている。
 
 
 
 「え?」
 
 携帯電話に耳を当てたまま、音のした方向……地面に転がる大きな瓦礫を見つめるトウジ。
 
 シンジは、電話を切るわけにも出るわけにも行かず、ただ呆然と手許の携帯電話を見つめている。
 
 アスカは額に手を当てて、はぁ〜っと溜息をつくと、おもむろに瓦礫の影から立ち上がった。
 
 
 
 「そーゆうことを確認するなら、シンジじゃなくてNERVに電話しなさいよ」
 
 言いながらアスカは自分の携帯電話を取り出すと、ピッピッと電子音をさせて、仁王立ちになって携帯を耳に当てる。
 
 「……え?」
 
 突然現れたアスカの姿を、呆然と見つめるトウジとヒカリ。
 
 
 
 「……あ、ミサト?」
 
 「ちょ……ま、なんでそこにおんねん惣流」
 
 「あのさぁ、ここにフィフスチルドレンとか抜かすバカがいるんだけど……」
 
 「おい! ちょ、惣流!」
 
 「うん……あ……そう……ふ〜ん……そ……じゃ、連れてくから」
 
 耳から携帯電話を離して、ピッと通話を切る。
 
 「おい、惣流!」
 
 「連れて来いってさ」
 
 トウジの詰問に応えず、そう伝える。
 
 思わず顎を引くトウジ。
 
 「え……あ、あぁ……」
 
 「……きみは、惣流・アスカ・ラングレーさんだね?」
 
 カヲルが微笑を浮かべて、アスカの顔を見る。
 
 アスカは応えない。
 
 カヲルはそのまま視線をアスカの隣……同じく立ち上がっている、シンジとレイに向けた。
 
 「そして……そこにいるのが、碇シンジ君と、綾波レイさんか。チルドレン勢ぞろいだね」
 
 「行くわよ、バカトウジ」
 
 アスカはそう呟くと、カヲルの言葉を完全に無視して、くるりときびすを返した。
 
 「え? あ、お、おい……」
 
 一瞬、カヲルの横顔とアスカの後姿を見比べるトウジ。
 
 カヲルは、小さく肩を竦めるのみだ。
 
 トウジは慌ててアスカの後を追い、その後ろにヒカリが駆け寄って並ぶ。
 
 カヲルも、ポケットに手を突っ込んだまま、その後ろを歩いてついていく。
 
 
 
 立ち尽くしたままのシンジの横を、カヲルが通り過ぎる。
 
 視線だけをシンジに向けて、微笑んだ。
 
 「よろしく、碇シンジ君」
 
 そのまま歩いていくカヲルの背中を見ながら、シンジはすぐに歩き出すことが出来なかった。
 
 
 
 ……ヒカリの家に近いバス停で、バスは止まった。
 
 「……ほんじゃ、いいんちょ……また、今度な」
 
 バス停を降りたヒカリに、窓からトウジが声を掛ける。
 
 「うん」
 
 ヒカリは微笑んで頷いた。
 
 乾いたクラクションの音と共に、バスはゆっくりと走り出す。
 
 
 
 トウジは、一瞬の躊躇のあと、窓から上半身を乗り出した。
 
 「……また、電話するさかいな!」
 
 赤い顔のトウジは、それだけ言うと、返事を待たずに窓の中に引っ込んでしまった。
 
 驚いた表情でヒカリが見つめるバスは、やがて曲がり角を曲がり、視界から消えていく。
 
 
 
 やがてバスの走行音も聞こえなくなり、ただ風とオレンジ色の光だけが彼女の周りに残った。
 
 ヒカリは、バスがいなくなった先を暫く見つめて……
 
 それから、微笑んで、瞼を閉じた。
 
 「……うん……」
 
 暖かな想いと共に、それだけを、呟く。



五百六十六



 管制室。
 
 ミサトの前に、5人の子供たちが並ぶ。
 
 
 
 ミサトは書類をめくりながら、口を開いた。
 
 「えーと……渚、カヲル君ね? 就労は明日からと聞いてるけど?」
 
 「道に迷っていたら、鈴原君に会ったので、連れて来て貰ったんです。どちらにしても、チルドレンはジオフロントに住むと聞いてますんで、来させてもらいました。問題がありましたか?」
 
 「いいえ。まぁ、一日早くこの街に来ちゃったんだからしょうがないわね。野宿させるわけにもいかないし」
 
 言いながら、赤のサインペンを口にくわえ、きゅぽっとキャップを取る。
 
 そのまま手元の書類に何事かサインをして、くるりと後ろに振り返った。
 
 「日向君」
 
 「はい」
 
 すぐ後ろに控えていたマコトは、その手から書類を受け取る。
 
 「じゃ、悪いけどこれ稟議まわして、早急にID発行よろしく」
 
 「わかりました」
 
 ミサトの言葉に頷いて、マコトは管制室を小走りに出て行った。
 
 
 
 「さて。……じゃあ、一日早いけど、みんなに紹介しておくわね」
 
 ミサトはそう言うと、5人の方に向き直った。
 
 一見して、アスカは不機嫌、トウジは当惑、シンジは無表情、レイはそのシンジを横目で見ている。
 
 大体想像通りのリアクションかな、と心の中で思いながら、一番端に立っていたカヲルを片手で呼び寄せ、自分の横に並ばせた。
 
 
 
 「まぁ、本人から既に聞いているんでしょうけど、改めて。フィフスチルドレンの渚カヲル君よ」
 
 ミサトの紹介に合わせて、カヲルが微笑む。
 
 「よろし……」
 
 「機体が無いのに?」
 
 カヲルの挨拶を喰うように、アスカの棘の生えた言葉が飛んだ。
 
 
 
 カヲルは、そのまま口を噤む。
 
 ミサトは、異を唱えたアスカの顔を、じっと見つめた。
 
 アスカはそんなミサトを睨んだまま、言葉を続けた。
 
 「別に、人数は足りてるわ。ただでさえ、レイや鈴原は余ってるのに……今更5人目なんて、必要ないんじゃない?」
 
 
 
 ミサトは、ゆっくりと瞼を閉じる。
 
 
 
 ……当然、出てくるだろうと思われた疑問だ。
 
 言われるまでもなく、自分だって同じことを疑問に思う。
 
 だが……それを決めたのは自分ではないし、カヲルでもあるまい。少なくとも、彼本人を前にして、まるで必要のない人材のように決め付けるのは芳しくないと思われた。
 
 「……これは、様々な理由から組織が定めたことよ」
 
 目を開いて、ミサトが言う。
 
 実際には、「様々な理由」など、一つだって知りはしないのだが。
 
 「それに、チルドレンの育成には時間がかかること、アスカだってよく分かってるでしょう? 補助要員が多くて困るということも無いわ」
 
 
 
 ミサトの言葉に、アスカは口を閉ざした。
 
 暫く……じっと、ミサトの目を見る。
 
 ミサトも、その視線から、自分の視線を外さない。
 
 
 
 ……そうして30秒ほどの沈黙を横たえ、アスカは静かに息を吐いた。
 
 目を閉じて……開き、顔を上げる。
 
 
 
 「ま……いいけどね」
 
 アスカは呟く。
 
 
 
 ともかく、自分を納得させたようだ。
 
 そのまま、視線をカヲルに向けた。
 
 「……渚、って言ったっけ?」
 
 「ああ」
 
 アスカの言葉に、微笑んで応えるカヲル。
 
 
 
 アスカはそのまま、口許を歪めるようにして笑うと、腰に手を当てて胸を反らせた。
 
 「ま、よろしく。あたしとシンジがいるから、出番なんて無いけどね」
 
 半ば睨みつけるような視線で、そう言い切る。
 
 
 
 カヲルは微笑んだままアスカを見つめると、両手をゆっくりとポケットの中に突っ込む。
 
 「……ふぅん?」
 
 呟く、ように。
 
 そう言って、アスカを見返す。
 
 
 
 「……何よ?」
 
 アスカは、眉間に微かな皺を寄せてカヲルを睨む。
 
 カヲルは、口許に笑いを浮かべたまま、小さく肩を竦めて見せた。
 
 「でも、僕のほうがシンクロ率が高ければ、出番が無くなるのは君の方じゃないかな」
 
 「……なんですって」
 
 「自分の立場が安泰だなんて、思わないほうがいいよ」
 
 
 
 アスカの背中に、オーラのようなものが立ち上るのを、シンジは見た。
 
 これは、怒りだ。
 
 いけない、と、シンジは手を伸ばしかけるが、それよりも早く、アスカは右足をドン! と一歩、踏み出した。
 
 
 
 「……っざけんじゃないわよ」
 
 アスカの低い声が、管制室の中に響いた。
 
 決して大きくはなかった声に、しかしコンソールでキーボードを叩いていたシゲルとマヤが、驚いたような表情で振り返る。
 
 ミサトが、困惑した顔で口を開いた。
 
 「ちょっと、あんたたち……」
 
 「勝手なこと言ってんじゃないわよ! 弐号機にアタシ以外の誰が乗るって言うのよ!?」
 
 ミサトの言葉など耳に入っていないように、アスカの声が迸る。
 
 横にいたトウジなどは完全に狼狽した表情で、半歩下がってアスカの背中とシンジの顔を交互に見ている。
 
 だが、その怒りをぶつけられている張本人のカヲルは、全く表情を変えず、飄々とした風情で口を開いた。
 
 「君ねぇ……」
 
 先ほどまでの、穏やかな微笑とは違う。
 
 苦笑、と呼ぶに相応しい笑いが、カヲルの口の端を彩る。
 
 「……それを選ぶのは、君じゃない。エヴァだ」
 
 「……弐号機が、アタシを選ばないとでも言うの!?」
 
 「さぁ? それは、エヴァに聞いてみないとね」
 
 「弐号機はアタシを選ぶわよ! アタシの機体なんだから!」
 
 「だから、それを決めるのは、君じゃない」
 
 
 
 カヲルに掴みかかろうとするアスカの腕を、咄嗟に後ろからシンジが捉えた。
 
 「ア、アスカ! やめろよ!」
 
 「止めんな、シンジ!」
 
 こめかみに血管が浮き出るような憤怒の表情で、シンジを睨みつける。
 
 「ま、待てって! 落ち着けよ、アスカ!」
 
 「血の気が多いね」
 
 やれやれ、といった顔で、カヲルが言う。
 
 ガッ、と再びカヲルの方に向き直り、殴りかかろうとするアスカ。
 
 慌ててシンジが、後ろから羽交い絞めにする。
 
 「カ、カヲル君! 挑発しないでよ!」
 
 「バカシンジ! 離せ! どこ触ってんだ、このスケベ! 変態!」
 
 「そ、そんなこと言ったって……」
 
 「ちょっと二人とも、いい加減にしなさい!」
 
 ミサトが当惑した表情で、間に割って入る。
 
 「僕は何もしていませんよ。彼女が好戦的なだけだ」
 
 「渚君、いいから、あなたはもう居室棟へ行きなさい。青葉君、案内してあげて!」
 
 「は、はい!」
 
 慌ててカヲルを手招きするシゲルの方に、カヲルは悠然と歩いていく。
 
 その背中に、アスカの怒号がぶつけられた。
 
 「こらぁ! 逃げるのか!」
 
 「ア、アスカ! いいから、落ち着いてよ!」
 
 聞こえている筈のカヲルは、アスカの声には特に反応せず、そのまま管制室の自動ドアの向こう側に消えた。



五百六十七



 ドカン! と、激しい音を立てて壁を蹴る。
 
 アスカが白い壁から足を離すと、くっきりと靴底の模様がそこに残った。
 
 
 
 「……なんなのよ、アイツは!」
 
 アスカは搾り出すようにそう言うと、もう一度、同じ壁を蹴りつけた。
 
 「う〜ん……」
 
 横に立つシンジも、どう言っていいか分からない。
 
 
 
 管制室を出た4人は、ともかく最寄の休憩室に足を運んでいた。
 
 アスカを除く三人は自動販売機で買ったジュースを手にしているが、アスカはさっきからずっと壁を蹴り続けている。
 
 
 
 「……いやぁ、惣流、怖いわ」
 
 トウジが、困ったような表情で、シンジに向かって声をひそめた。
 
 「ま……気持ちは分からんでも無いがな。なんや、あの渚っちゅうやつ、やたら好戦的やな。あんなん、ワシかて言われたらきっと怒るわ」
 
 「う〜ん……」
 
 トウジの言葉にも、シンジは曖昧に頷く。
 
 
 
 ……カヲルが好戦的、というのとは、ちょっと違うとシンジは感じていた。
 
 好戦的とか、そうじゃないとか、そういう感じではない。
 
 カヲルは、喧嘩を吹っかけているわけでも、意図的に怒らせようとしているわけでも無いだろう。
 
 
 
 言ってみれば、「歯に衣を着せない」と言えば近いだろうか。
 
 言いたいこと、感じたことを、オブラートに包まない。包もう、という気すら感じない。
 
 ただ、思ったことをそのまま言っている。
 
 そこに配慮というものが無いのだ。
 
 
 
 よく咀嚼してみれば、カヲルの言っていることが間違いではないことは、分かる。
 
 確かにNERVにから見れば……弐号機とシンクロさえすれば、パイロットは誰だっていいのだ。
 
 まぁ、現実的にはパイロットと機体は一対であるためにそういう競争は起こらないが、理論的には、弐号機とより高くシンクロできる人間がいるならば、その者とパイロットが交代するのは必然だ。
 
 そして、アスカたちは知らないが……カヲルが弐号機で高いシンクロ率を叩き出すことができることを、シンジは知っている。
 
 当然、カヲルも自分で理解しているだろう。
 
 先ほどの言葉は、かなり現実味のある言葉だ。
 
 
 
 しかし、いくらカヲルの言葉が真理を捉えているとは言っても、ああいう言い方をされては、言われた方が怒るのは当然だ。
 
 
 
 「……ったく」
 
 もう一度、ドン、と壁を蹴ったアスカは、ゆっくりと息を吐くと、苦虫を噛み潰したような表情のまま、くるりとシンジたちに向き直った。
 
 そのまま彼の横にある自動販売機の前まで行き、コインを投入する。
 
 出てきた紙コップを手に取ると、中に入った清涼飲料水を一気に飲み干し、ぷはぁっと息を吐いた。
 
 目の前の空間を睨みつける。
 
 「……あそこまで言うんだったら、次のシンクロテストでそれなりの結果が出せるんでしょうね……。もしショボいシンクロ率だったら、土下座して謝らせてやるわ」
 
 言いながら、紙コップをグシャッと潰して、ゴミ箱に放り込んだ。
 
 
 
 ……結果は、出すだろう。
 
 シンジは思う。
 
 完全に、弐号機とのシンクロを果たすはずだ。
 
 だが、それを言うわけにはいかない。
 
 
 
 「………」
 
 小さな声が耳に届き、シンジは振り返った。
 
 シンジの横に立つレイが、じっと床を見ている。
 
 「綾波? ……何か言った?」
 
 シンジが問う。
 
 
 
 沈黙の後、レイが、静かに口を開く。
 
 「……私、あの人、嫌い」
 
 
 
 ……う〜ん、
 
 ……まぁ……そう、だろうな……。
 
 
 
 先ほどのやり取りを見て、カヲルに好感を抱く人間は少ないだろう。
 
 シンジは小さく、誰にも悟られぬように、溜息をついた。



五百六十八



 六畳ほどの、白い壁に囲われた部屋。
 
 空調は効いていて、むしろ寒いほどだ。
 
 部屋の中央に無骨な、天板だけの鉄製のテーブル。
 
 その奥側にカヲルが、手前側にリツコが座っている。
 
 リツコの後ろでミサトが壁に寄りかかって立っていて、その後ろに一つだけ扉がある。
 
 天井の蛍光灯はお世辞にも明るいとは言えず、部屋の中は陰鬱な空気に包まれていた。
 
 
 
 「……話を、聞かせてもらうわよ」
 
 リツコの言葉に、カヲルは少しだけ首を傾げた。相変わらずの、微笑み。
 
 「どうぞ、なんなりと」
 
 部屋に充満する重圧は、しかしカヲルには何の影響も与えていないように見える。
 
 
 
 「過去の経歴、全て抹消済み……」
 
 手許の書類をめくってリツコが言う。
 
 「……それで、納得できると思う?」
 
 「いいえ」
 
 カヲルは肩を竦めた。
 
 「出自を聞かせて頂戴」
 
 「それは話せません」
 
 「何故?」
 
 射抜くような視線で、リツコはカヲルを見る。
 
 「話せば都合が悪くなる人がいますから。綾波レイの過去が公表されれば、あなたの都合が悪くなるようにね」
 
 「………」
 
 
 
 ミサトが、微かに眉根を寄せる。
 
 ……レイの過去が、リツコの都合を悪くする?
 
 疑問は湧き上がったが、それを口には出さない。
 
 今は、そんな話をするタイミングでは無い。
 
 
 
 「……あなたを送り込んだのは、誰?」
 
 リツコは、意に介した風もなく、そのまま質問を続けた。
 
 カヲルが目を細めて笑う。
 
 「送り込んだ、とは人聞きの悪い」
 
 「マルドゥック機関を通していないのは分かっているわ」
 
 言いながら、リツコは書類を軽く手の甲で叩いて見せた。
 
 カヲルは表情を変えずに応える。
 
 「それが、何です?」
 
 「……委員会なのね?」
 
 「さぁ〜、どうでしょうね」
 
 「はぐらかさないで」
 
 「教えて差し上げてもいいんですが、まぁ、やめておきます。僕にメリットも無いしね」
 
 不敵な笑み。
 
 「想像は、どのようにして頂いても構いませんよ」
 
 
 
 沈黙。
 
 ゼリーのように、粘性を持った空気が部屋に充満している感じがして、ミサトは思わず喉の奥を鳴らした。
 
 リツコは、じっと、カヲルを見つめている。
 
 カヲルも、ただ、その視線を受け止めて、見返している。
 
 
 
 ……リツコの口が、開く。
 
 
 
 「……あなたは、誰なの?」
 
 
 
 「……僕は、フィフスチルドレン、渚カヲルですよ」
 
 
 
 微笑み。



五百六十九



 疎開が進み、教室の席はもう3分の2近くが空席となっている。
 
 昼休みである今は、クラスメイトも屋上や校庭、中庭に散り、更に人影はまばらだった。
 
 
 
 窓の桟に手をかけて、ヒカリが雲を見ている。
 
 開いた窓から流れ込む風が、その髪を揺らす。
 
 
 
 横に立つケンスケが問う。
 
 「フィフスチルドレン……?」
 
 「うん……そう、言ってた」
 
 ヒカリが、頷く。
 
 
 
 フィフスチルドレン……。
 
 
 
 もう、5人目か。
 
 ケンスケが、心の中で呟く。
 
 5人目……。
 
 
 
 少なくとも、騙されて5人目になりかけた自分よりは、ずっとまともな奴なんだろう。
 
 自分よりは……ずっと。
 
 
 
 小さな溜息をついて、口を開く。
 
 「……どんな奴?」
 
 ヒカリの視線の先に浮かぶ、小さな雲を目で追いながら、ケンスケが尋ねる。
 
 ヒカリはケンスケの顔を見て、一瞬思いを巡らすように視線を動かしてから、問いに答える。
 
 「……変な人」
 
 「変な人?」
 
 ヒカリの言葉に、ケンスケは彼女の顔を見る。
 
 
 
 ヒカリはケンスケを横目で見て、頷いた。
 
 「捉えどころが無いって言うか……」
 
 「……存在感が薄い、っていう感じ?」
 
 「ううん、違う」
 
 ヒカリは首を振る。
 
 存在感は、あった。ありすぎるほどに。
 
 
 
 なんと説明すればよいのだろう?
 
 ヒカリは、的確な言葉を捜して、脳の引き出しを掻き回した。
 
 怪訝な表情で、ケンスケがそんなヒカリの横顔を見ている。
 
 
 
 やがて、その指先に引っかかった言葉を、ヒカリは拾い出した。
 
 その言葉は、事実とはまるで違う。
 
 そんなこと、誰にだって分かる。
 
 しかし……まるで違うのに、違和感が、無い。
 
 その矛盾を感じながら、しかし他の表現が見つからずに、ヒカリは口を開いた。
 
 
 
 「……人間じゃ、ないみたい」



五百七十



 高い天井に、湯気が篭る。
 
 時折、その天井から落ちる水滴が湯面を叩き、小さな音を響かせる。
 
 その音を耳にする者は、今はシンジしかいない。
 
 
 
 NERV職員用の共同浴場。
 
 ジオフロント内には、ここと同じような共同浴場が何箇所もあり、どこを使うかは職員の自由だ。
 
 しかし居室階に一番近いこの浴場は、チルドレン以外の職員が使うことは滅多に無い。使う時は大体貸し切りか、トウジと二人だけということが殆どだった。
 
 湯船の大きさは十畳ほどあろうか。その前に、カランの並んだ洗い場がある。
 
 シンジの浸かる湯船の背中には富士山のペンキ絵が描かれている。ジオフロント内の浴場に、このような「銭湯」然とした意匠が必要なのかと疑問にも思うが、まぁ、これがゆとりというものなのかも知れない。
 
 
 
 「ふぅ……」
 
 シンジは呟いて、顔を両手で拭った。
 
 湯船の縁に後頭部を預ける。
 
 
 
 見上げる天井に、カヲルの横顔が浮かぶ。
 
 
 
 (カヲル君……)
 
 シンジは、静かに思う。
 
 
 
 出会って、しまった。
 
 とうとう、彼が、やってきた。
 
 フィフスチルドレンとして……。
 
 
 
 少なくとも、今はまだ、歴史は変わっていない。
 
 彼に関する限り、今のままでは、決まった結末に向かって時間は流れていってしまうだろう。
 
 ……彼を、止めるために、自分はどうしたらいいのだろう?
 
 
 
 カヲルがドグマに降りて、自らの死を選ぶまで……どの程度の時間があっただろうか。
 
 1週間? いや、もっと短かったかも知れない。時期に関しては相変わらず記憶が曖昧だが、これはもう諦めるしかない。
 
 ともかく1週間として……自分は、その間に、一体何が出来るだろうか?
 
 彼が死を選ばなくてもいいように。
 
 
 
 彼の考え方を変えたい。……の、だが。
 
 ……カヲルが何を考えて死を選んだのか、彼の信念や思想は、いったいどういうことだったのか。
 
 結局それが理解できていない今、何をすれば考え方を変えてもらえるのか、よく分からない。
 
 
 
 (どうすれば、いいんだろう……)
 
 レイやアスカの手を借りるという方法もあるかも知れないが、今回に関しては望み薄だ。
 
 あの場面に唯一居合わせたシンジですら理解していない、彼の思想。
 
 それを、シンジの口からレイに説明することなど出来るわけが無いし、それならレイはシンジ以上に取っ掛かりを見出すことが出来ないだろう。
 
 それにレイやアスカは、彼を好ましくは思っていない。
 
 まだレイはそれでも、シンジの為に何とかしようと考えてくれるかも知れないが、アスカは「好ましく思っていない」などというレベルではない。
 
 あそこまで嫌ってしまって、彼に助けの手を差し伸べてくれるだろうか。
 
 
 
 ガラリ、と、扉が開かれる音がした。
 
 トウジか、と思って視線を天井から入り口に向けたシンジだが、その予想は外れた。
 
 
 
 「やぁ、碇君」
 
 湯煙の向こうで、カヲルが人懐こそうな笑顔を向けた。
 
 「あ……」
 
 「へぇ……結構広いね。貸切状態だ」
 
 見回しながら、カヲルはタオルを手近な棚に置き、洗面器に湯を張ってそれを肩からかぶった。
 
 シンジはただ、その様子を呆然と見ている。
 
 カヲルはその湯をかぶる動作を三度ほど繰り返し、立ち上がって湯船に歩いてくる。
 
 シンジは反射的に少し脇へよけたが、カヲルは湯船に入ると、そのままシンジのすぐ隣に腰を下ろした。
 
 
 
 ざぶん、という、カヲルが湯に浸かる音が響く。
 
 
 
 「ふぅ〜」
 
 カヲルはそう呟いて、目を瞑った。
 
 シンジは、横目でそんなカヲルを見る。
 
 ……透き通るような肌に、蒸気が細かい湯の珠となって伝う。
 
 視線を、前に戻す。
 
 場を支配するのは相変わらず、水滴が湯面に落ちる音のみ。
 
 
 
 沈黙。
 
 
 
 ……何か話さなければ、という思いが、シンジの頭をよぎる。
 
 視線を横に向ける。
 
 カヲルは目を瞑ったまま、ただ静かに湯に浸かっている。
 
 ……何を、焦ってるんだ?
 
 前を見る。
 
 穏やかな空間はしかし、シンジには居心地の悪さを覚えさせた。
 
 分からない。
 
 分からないが、この沈黙を、この後も耐える自信がない。
 
 
 
 だんだんと、のぼせてきたような気がする。
 
 だが、この状態で、自分だけ立ち上がって湯船から出るタイミングは、既に完全に逸しているような気がした。
 
 考えすぎだ。
 
 それは、自分が一番分かっている。
 
 だが、捉えようも無い居心地の悪さは、そんな理解とは無関係に、シンジの背筋を縛る。
 
 
 
 「……あの、……渚、君」
 
 ともかく、口を開いた。
 
 何を言うか、何も決めていないのに、沈黙に耐えかねて、言葉を発していた。
 
 カヲルが、目を開けてシンジを見る。
 
 
 
 「カヲルでいいよ、碇君」
 
 「えっ?」
 
 「呼び方」
 
 そう言って、カヲルが微笑む。
 
 「あ……う、うん。……じゃあ、僕も、シンジでいいよ……カヲル君」
 
 「わかった、シンジ君」
 
 
 
 沈黙。
 
 
 
 「……で、何?」
 
 「え?」
 
 カヲルの言葉に、シンジはその顔を見た。
 
 カヲルは、不思議そうな顔でシンジを見返す。
 
 「今、僕に話しかけたじゃないか」
 
 「え……あ、あぁ、うん……」
 
 話題など、何も決めていない。
 
 焦りが、シンジの脳を支配する。
 
 「何?」
 
 「……えぇと……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……?」
 
 「そ、その……えぇ……カ、カヲル君は、ここに、何の為に来たの?」
 
 
 
 言ってから、しまった、と思った。
 
 不自然な質問だ。
 
 だが、カヲルは、特に意に介した様子もなく、軽く肩を竦めて見せた。
 
 「何の為? 理由が必要?」
 
 「そ……そういうわけじゃ……ないけど」
 
 シンジは歯切れの悪い様子で呟いた。
 
 カヲルは片手で顔を拭って、その手を再び湯の中に戻す。
 
 カヲルを中心に波紋が広がって消える。
 
 
 
 「シンジ君……君は、何の為に、ここに来たんだい?」
 
 カヲルに、逆に質問を返されて、シンジは困ったように視線を泳がせた。
 
 「……何の為……って……」
 
 「確かに、誰にだって理由はある」
 
 「………」
 
 「でも、それは……自分だけが分かっていれば、それでいいんじゃないかな?」
 
 「……それは……そう、かも……知れないけど……」
 
 「おかしなことを言ってるかい?」
 
 「……いや……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 
 
 「……あ、あのさ……アスカと、仲良くしてよ」
 
 話題が途切れ、慌てたようにシンジが言葉の接ぎ穂を向けた。
 
 「ふぅん?」
 
 カヲルは、興味なさそうに眉を上げた。
 
 シンジは言葉を続ける。
 
 「だ、だってさ、さっき、喧嘩してたじゃないか」
 
 「そんなつもりはないけどね」
 
 「アスカは怒ってたよ。ああいう風に、言う必要は無いって気もするし……」
 
 「僕の言ってること、間違ってたかい?」
 
 「え……っ?」
 
 カヲルは、風呂を楽しむように穏やかに目を閉じる。
 
 目を閉じたまま、口を開く。
 
 「別に、間違ったことを言った気は無いよ」
 
 「い、いや、合ってるとか間違ってるとかじゃなくて……その……言い方の問題っていうか……」
 
 「事実を正しく伝えることが大事だと思うけど?」
 
 「……いや……その……と、とにかく、……みんなと、仲良くして欲しいんだよ」
 
 「必要があれば、そうしてもいいけどね」
 
 「………」
 
 カヲルが目を開いて、横目でシンジを見て微笑む。
 
 「でも、向こうが僕を嫌う分には、どうしようもないよ。彼女の方こそ、僕が大嫌いみたいだし」
 
 「い、いや、それでも……君のほうからだけでも……」
 
 「ふぅん……まぁ、僕は特に、嫌われようと思ってるわけじゃないからね。普通に接するだけさ」
 
 「う……うん」
 
 「シンジ君は、僕のことが嫌い?」
 
 「えっ?」
 
 
 
 カヲルの突然の問いに、シンジは驚いたようにカヲルの顔を見る。
 
 カヲルは、そんなシンジを見て、穏やかに微笑んだ。
 
 「君は、僕のことを嫌うかい?」
 
 「そ……それは、そんなつもりは……ないけど」
 
 「なら、それでいいんじゃないか」
 
 カヲルは、そう言って、湯船から立ち上がった。
 
 蒸気の中、カヲルの白い肌を水滴が伝って落ちる。
 
 シンジは思わず目を逸らす。
 
 
 
 「僕も、君のことを嫌うつもりは無いよ。
 
 僕らがよければ、他の人のことは、別にどうでもいいことじゃないか?」
 
 
 
 カヲルの透き通る声が、浴場に反響して、まるで幻覚のようにシンジの耳に届く。
 
 顔を上げることが出来ない。
 
 
 
 湯面の向こう側で、屈折して揺らめく自分の膝を見つめる。
 
 
 
 カヲルが湯船から出る音がして、やがて、扉が開く音と、閉まる音が聞こえた。
 
 そうして、また、一人取り残される。
 
 
 
 顔を上げられない。
 
 自分の膝を、じっと見つめる。
 
 
 
 カヲルと、どう話をしていいのか、分からない。