五百四十
壁のスイッチを入れると、部屋の中に明かりがともる。
レイはそのまままっすぐベッドまで歩いていくと、うつぶせにゆっくりと横になった。
アスカ、トウジと一緒にシンジの部屋にいたが、解散した。
一人静かにベッドに横たわっていると、つい先程までの喧騒が夢の中の出来事だったかのように思える。
シンジの言葉を反芻する。
もう、すぐ次の使徒が来ると言う、シンジの言葉。
その為に、零号機を犠牲にしなければならないという、結論。
恐らくは、散々考えた末の結論であろう。
本心を言えば、避けたい方法ではあるがしかし、使徒殲滅の手段が他にないのであれば異論を挟む余地はない。
アスカとトウジが現れてお喋りをしている間も、脳の半分は使徒殲滅の方法を探っていたのだが、結局、ダミーを使用する以外の方法は思いつかなかった。
零号機を、他の機体と比べて特別に思う気持ちは、ゼロパーセントというわけではない。
ずっと乗り続けてきた機体だし、元来、エヴァとパイロットは心の交流がある。
そういう意味で、愛着がないわけではない。
だが、それは、シンジやアスカに比べれば、ずっと希薄なものに違いなかった。
シンクロ時に垣間見える、零号機の裡。
その荒涼とした風景を、決して、レイは好んでいるわけではない。
……シンジと出会う前のレイならば、違っただろう。きっと、あの零号機の中を、居心地のいい場所として捉えていた筈だ。
だが、今は違う。あの闇に侵食された心象風景を、自分の心と結び付けて考えることは、もう、できない。
……だからむしろ、レイにとって零号機を失うことに対する抵抗はやはり、「零号機だから」ではなく、「自分が搭乗する機体が無くなってしまうこと」にあった。
使徒との戦いは、まだ続く。
シンジが初号機で出撃して、ピンチに陥る場面だって、ないとは言い切れない。
そのとき、自分はどうするのか?
為す術なく、見ていることしかできないのか?
今のレイは、初号機にも弐号機にもシンクロすることはできない。
レイ側の問題ではない。エヴァに、レイが拒絶されてしまうからだ。
零号機がなくなってしまえば、こと戦闘に関して、自分の存在意義は無いに等しい。
シンジを、助けるために、全力を尽くすと決めているのに。
その全力を、注ぐ手段がなくなってしまうかもしれない。
壁に架かった時計を見る。
ちょうど、夜の12時を回ったところだ。
先程まで、シンジたちと一緒だった暖かい時間は、既に「昨日」というフォルダに収められて、過去という名の壷にしまいこまれる。
否応なく、時間は前に進んでいく。
その流れに逆らうことなど、誰にもできない。
突然、机の上に置かれた携帯電話が、ベルを鳴らした。
レイは、驚いた表情で、上半身を起こした。
ベルは、2回コールして途絶えた。
メールだ。
レイは立ち上がると、携帯電話を手に取って、受信フォルダを開く。
シンジからのメールだった。
「碇君……?」
つい先程まで一緒にいたのに、わざわざメールで連絡してくるとは、何事だろう。
先程までアスカとトウジがいて話せなかったことがあるのだとすれば、今、改めてレイの部屋を訪れれば良いような気がするのだが。
メールの本文を開くと、スクロールもいらないような短い文章が液晶画面に表示された。
『話がある。誰にも気付かれないように、外のA-32ベンチに来て。シンジ』
レイは首を傾げるがしかし、逡巡の余地もなく、その携帯をポケットに滑り込ませて部屋を出た。
なんだか分からないが、本部内では話せないような内容だということだろう。盗聴を恐れているのかもしれない。
使徒戦のことだろうか?
零号機を使わないための手段を思いついた……などという話であれば良いが、それは期待しない方がいいだろう。
シンジの部屋の脇を通り、レイは、エレベーターホールに向かう。
エレベーターを降りて、レイは非常扉を開けた。
外界が夜であれば、ジオフロントの中も夜である。暗闇に包まれた森を背景に、街路灯がかろうじておのおのの足許を照らす。
レイは左右を注意深く見回してから、遊歩道を歩き出した。
幾度か交差する道を越えて、普段あまり足を踏み入れることのないエリアまで来た頃、前方にA-32番のベンチが姿を見せた。
ベンチの上にも一本の街路灯があるのだが、電球が切れているのだろうか、灯りがついておらず、ベンチも闇に包まれている。
暗闇の中、レイはベンチのそばまでやってきて、周りを見回した。
シンジの姿は見えない。
「碇君?」
言いながら、ベンチに腰を下ろす。
茂みを揺らす葉音に、そよ風か、と思った瞬間、うなじに冷たい感触が触った。
そのまま、崩れるように前のめりに倒れ、アスファルトに額を打つ。
地面にぶつけた際にどこかを切ったのか、温かい感触が額から鼻梁を伝うのを感じる。
だが、体は動かない。
地面につけた耳に、何者かの足音が届き、すぐ横でしゃがみこむ気配。
もう一度、冷たいものが首筋に当たり、ブレーカーが落ちるように意識を失った。
五百四十一
シンジはベッドの上で横になりながら、天井を見つめていた。
考えるのは使徒戦のこと、
それから、レイのことだ。
レイの気持ちを蔑ろにしてきたかもしれない、という問題は、会話の上では解決を見た。
レイの気持ちは正しいと思うし、理解できる。
自分の、レイを護りたいという気持ちも、冷静になった今なら、エゴではないと信じられる。
だが、主観的な感情と、客観的な事実は切り離して考えなければいけない。
レイを庇護下に置き過ぎていただろうか、と、シンジは瞼を瞑る。
いやしかし、もしも愛する人が危険に晒されそうになったら、自分が犠牲になってでも助けたいと思うのは、自己満足云々という以前に、当然の感情ではないか?
お互いに信頼しあえばこそ、「彼女ならきっと大丈夫」と思うことができて、あえて任せられるのだろうか。
信頼が足りない、というのか。
だが、それとこれとはまた別の問題ではないか?
彼女を信頼している。
それは間違いない、と、思う。
だが、信頼していることと、命の危険に平気で晒せることとは、違う。
それを、信頼のバロメータなどというのであれば、愛情の薄い人間の方が信頼が厚いことになりはしないか。
考えても、分かるはずが無い。
この問題は、一介の中学生が結論を簡単に導き出せるような、解法のはっきりした問題ではないのだ。
シンジは溜息をついた。
こんな状況、こんな立場でなければ、ぶつかる必要の無い壁。
世界のカップルの多くは、今の自分と同じ悩みを抱えることは、おそらく一生無い。
真の意味で、命の危険に晒されることなど、無いのだから。
だから、本来は、気にする必要が無い問題なのだ。
「僕は……どう、したいんだろうな……」
呟いて、寝返りを打った。
悩んでも仕方がない、
でも、
悩むのをやめて、うっちゃっていい問題でもない。
普通のカップルなら直面しない問題だとしても、自分はもう直面してしまった。
直面してしまった以上、無かったことにしてしまうことは、出来ない。
白い壁を見つめる。
ミサトのマンションとは構造が違うので、壁のすぐ向こうは台所になるが、その更に向こうには、レイが眠っているはずだ。
その姿を想像して、ゆっくりと瞼を閉じる。
明日、考えよう。
明日……。
レイのことも、使徒のことも、
明日だ。
携帯電話のコール音で目を覚ます。
時計を見ると、既に朝の8時になっていた。
コール音は、2回で途絶える。
メールだ。
「今日は……訓練は、午後からだったよな……」
シンジはボリボリと頭を掻くと、あくびを一つして、机の上の携帯電話を手に取った。
液晶を見る。
見覚えのない、発信者。
首を傾げて、本文を開く。
『碇シンジ君へ
綾波レイは我々の手にある。
彼女の身を案じるならば、我々との交渉の席について貰いたい。
添付の地図の場所へ、一人でこられたし。
既に君の行動は、我々によって逐一モニタされている。他の者に助力を仰いだり、不審な行動を取るなどの行動全てが、彼女の身を危険に晒すと心得たまえ』
一瞬にして、シンジの全身が、総毛だった。
眼球から後頭部の先端に、バシッと音を立てて電流が駆け抜ける。
シンジは即座に立ち上がった。
携帯電話をポケットに放り込む。
脳細胞が激しく回転する。
どうする?
いや、悩んでいる余地はない。
勝手に抜け出すことになるが、書置きを残すのも危ない。
「所用で外出する、心配するな」と、当たり障りないことでも書いておけばいいのでは?
いやだめだ、敵のモニタリングの精度が分からない。
書置きの内容まで読み取れず、ただ「書置きを残した」という事実だけ敵に把握されるかも知れない。
そんなことでレイの命を危険に晒すわけにはいかない。
ぱっと入り口の扉に向かいかけて、足を止める。
くるっときびすを返して、机の一番下の引き出しを開ける。
中に入っていたのは、一丁の拳銃。各部屋に、護身用として必ず備えてあるものだ。
この行動もモニタリングされているのなら奇襲の役には立たないが、ないよりはましだ。
取り出して、ズボンのベルトに挟みこむ。
一度も使ったことがないが、使い方は訓練で知っている。もっと巨大な銃なら、エヴァを通して数え切れないほど引き鉄を引いている。
引き出しを閉めて、シンジは駆け出すように部屋の出口に向かった。
廊下に飛び出し、エレベーターホールに向かって走り出そうとした瞬間、柔らかいものに顔面から突っ込んだ。
「えっ?」
「きゃっ!」
シンジは驚いて反射的に飛び上がり、尻餅をついて、勢いでゴチッと廊下の壁に後頭部をぶつけた。
「あでッ!」
キン、と目の前が真っ白くなり、咄嗟に頭を抱えてうずくまる。
1秒ほどして耳鳴りが通り過ぎ、シンジは顔を上げた。
目の前には、同じ様に尻餅をついて廊下に座り込んだアスカが、胸を押さえて、赤い顔をしてシンジを睨みつけている。
「あっ……アスカ。ぶつかった? ごめん……大丈夫?」
「………」
「アスカ?」
「スケベ」
「え?」
「……このスケベ! ヘンタイ!」
「え、ちょ……ちょ、ちょっと」
アスカは赤い顔でシンジを睨んだまま、ずびしっと顔の前に人差し指を突きつける。
気圧されたように後さずるシンジ。
「な、ちょっと、なにがヘンタイなんだよっ」
「ヘンタイだからヘンタイって言ってんのよ! このヴァカシンジッ!」
「ヴ、ヴァって……」
「そぉ〜ゆ〜コトは、レイ相手だけにしなさいよねッ!!」
アスカの口からレイの名前が飛び出した瞬間、シンジの顔色が変わった。
一瞬にして、今、自分が為すべきことを思い出す。
少なくとも、アスカとこんなお喋りをしている場合ではない。
……いやむしろ、アスカとお喋りをするのは、危険だ。
どこからモニタしているか分からない。音声も聞いているだろうか? 映像だけしかモニタしていないかもしれない。
会話している、その事実だけで、不審な行動と取られてしまうわけにはいかない。
「ごめん」
シンジは短く呟くと、アスカの横をすり抜けようとした。
その腕を、アスカが掴む。
「ちょっと……シンジ、どこ行くのよ?」
「………」
シンジは慌てたように左右を見回す。
人影はない、しかし、MAGIのカメラがあるはずだ。それを傍受しているのだろうか? アスカと会話するわけにはいかない。
「ごめん、離してくれ」
「何言ってんのよ、ちょっと大丈夫? アンタ、顔が青いわよ」
先ほどまでの怒りの表情が、一転して、怪訝な顔に変わっている。
そんなアスカの鋭さが、今は困る。
「平気、ごめん、急いでるんだ」
「……怒ってるの? ……バカね、こんなことで、そんな本気で……」
「怒ってない! そんなことじゃないんだ、頼むアスカ」
思わず荒げたシンジの声に、アスカは驚きで目を見開いた。
シンジは、挙動不審に、左右を見回している。
アスカは、目だけを動かして、同じように廊下の左右を見渡す。
もちろん、人影はない。
数秒の沈黙の後、アスカはシンジを睨みつけた。
シンジも、切羽詰ったような顔でアスカを見ている。
囁くような声で、アスカは呟く。
「……戻ってくるんでしょうね」
シンジは、頷いた。
アスカは、掴んでいた手を離した。
シンジは一瞬の躊躇の後、はっきりとした口調で、「必ず戻る」と言い残すと、物凄い勢いで、エレベーターホールに向かって駆け出していった。
残されたアスカは、腕組みをして、シンジの背中を睨みつけていた。
……あの慌てぶりは、なんだ。
どうしたというのか……?
シンジは、廊下の先で角を曲がろうとして、今度は別の人物と鉢合わせになっていた。
驚いた顔をしているのは、加持だ。
先程のアスカとのやり取りと同じように、挙動不審な様子を見せるシンジ。
加持と二言三言交わした後、加持が紙屑のようなものを渡して、そして二人は別れた。
エレベーターホールの向こうに消えていったシンジを、加持が首を傾げて見送っている。
アスカは、腕を組んで、その様子を見つめていた。
シンジの慌てようは、尋常ではなかった。
いざというときほど冷静になるシンジらしからぬ、落ち着きを失った姿だった。
首を傾げる。
何か、よからぬ事態に巻き込まれたのだろうか?
ミサトかリツコの耳に入れておいたほうがいいのかも知れない。
アスカはそう思い、管制塔へ向かおうと、足を一歩踏み出した。
しかし、いつの間にか、アスカの前に加持が立っていた。
「よう」
「あっ……加持さん」
軽く手を挙げる加持に、アスカは足を止める。
「なんか、慌ててたなぁ、シンジ君。トイレかね」
笑いながら、加持が言う。
「あの……さっき、何を渡してたんですか?」
「え? あぁ、下に降りるみたいだったから、ゴミを捨ててもらおうと思ってさ。でも、あの様子じゃゴミ箱よりトイレが先だな」
加持が笑う。
そして、加持は、アスカの顔を見て、小さく首を振った。
「言わないほうがいい」
「えっ?」
一瞬、意味が分からなくて、加持の顔を見返す。
だが、リツコかミサトに言っておいたほうがいいかも、と考えたことについてだと、すぐに思い至った。
加持は、前を向いたまま、小さな声で呟く。
「シンジ君は、何も言わなかった。つまり、言えないことだってコトだ」
アスカは、加持の顔を見つめる。
何か変だ。……一拍置いて、違和感に気が付く。喋っているのに、まるで腹話術のように、加持の唇が動いていない。
唇の動きを読まれまいと、するかのように。
「……加持さん」
「シンジ君は俺が追いかける。アスカは普通にしていろ」
加持はそれだけ言うと、急に唇を動かして、アスカに笑いかけた。
「じゃ、俺は、コーヒーでも飲んでくるよ」
アスカの肩に、ぽん、と手を置くと、加持は早足で、シンジの消えたエレベーターホールに向かって歩き出す。
その背中が廊下の奥に消えるのを、アスカは無言で見つめ続けていた。
五百四十二
暗闇。
自分が座っている椅子以外、何も見えない。
この部屋が四畳半なのか、それとも地平線まで続いているのか。
叫んだ声も闇に吸い込まれて反響しない。
物音もしない。
無骨な金属製の椅子。
両手は背凭れの後ろ側に回されて、固定されている。
両足は、椅子の足に縛り付けられている。
当然その椅子は床に溶接されていて動かず、自分に出来ることは身をよじるくらいだ。
目を覚ましたのは、5分前。
暫くは何とか逃げ出そうと、がちゃがちゃと暴れていたのだが、今は諦めていた。
僅かでもゆとりがあるのなら何とかしようという気になるが、縛られた手足は完全に固定されていて、例え一時間暴れても解けそうな気配はなかった。
5分。
しかし、体感的には、既に何時間も経ったような気がする。
いや、やはり5分か?
音も光もない世界で、早くも時間の感覚が朦朧としてきたとき、前方に突然光がともった。
1メートルほど前の暗闇に、四角く切り取られた光が現れる。
暗闇に慣らされた目には眩しく、咄嗟に顔をしかめる。
数秒置いて、恐る恐る目を開けると、それは液晶ディスプレイだった。
まるで闇に浮いたように見えるその画面には、首から上にモザイクのかかった男が座っている姿が映っていた。
『相田ケンスケ君』
ノイズフィルタを通したような、機械質な男の声が自分の名前を呼ぶのに、ケンスケは弾かれたように反応した。
「……おいッ! ちょっと! なんなんだよ、これ!!」
ケンスケは大声で怒鳴るが、ディスプレイの向こうの男は動じない。
『手荒な真似をして済まない。少々、事情があってね』
「どーゆーことさ! ……放してくれよ、もぉ……!」
男の落ち着いた態度が逆に癇に障り、ケンスケの声は更に大きくなる。
『焦らずとも、すぐに解放する』
「だったら今すぐ放してくれッ!」
『まぁ、落ち着きたまえ。話をしようじゃないか』
「俺を放したって、幾らでも喋れるだろ!」
『少し静かにしたまえ。自分の立場が分かっているのか? 痛い目を見てもらうことも出来るのだよ』
「うっ……」
感情の篭らない男の声に、思わずケンスケは口を噤む。
もともと感情の起伏に乏しい声音が、機械のフィルタを通すと、ますます冷たく感じられる。
この男が「痛い目を見てもらう」と言えば、脅しではなく、本当にやりかねないという雰囲気を覚える。
静かになったケンスケの姿に、男は満足そうに頷いて、ゆっくりと口を開いた。
『まず自己紹介させていただこう。私は、NERVの人間だ』
男の言葉に、ケンスケは目を見開いた。
「ネ……NERV? えっ……?」
『チルドレン四人の知り合いだそうだね』
「え……あ、はい……」
相手の素性がハッキリしたことで、逆にケンスケの言葉もかしこまってしまう。
どこの誰だか分からなかった状態ならともかく、NERVの人間だといえば、ケンスケにとっては無遠慮な態度は取りづらい。
姿勢を正すケンスケの姿に、男は数秒口を噤んでから、言葉を続けた。
『彼らが羨ましいかね』
「はっ……?」
男の言葉に、ケンスケは思わず眉をひそめた。
何を言い出すのか?
男は、ゆっくりと左右の足を組みかえる。
『聞いているよ。エヴァのパイロットになりたい、と公言しているようだね』
「あ……」
ケンスケは虚を突かれたように黙り、一拍置いて、上目遣いに男を見る。
「……はい……その……まぁ」
おず、と首を竦めるように、小さな声で答える。
その気持ちに偽りはないつもりだ。
少なくとも、エヴァのパイロットになりたいという気持ちは、ずっと胸に秘めてきた。
だが、直接NERVの幹部と思われる人間にそう言われると、気恥ずかしさもある。
シンジ、アスカ、レイが、才能を見ても自分と根本的に違うものを持っていることは、疑いようがない。
なりたい、という気持ちだけでエヴァのパイロットになれるのなら誰にも負けない自信があるが、才能という意味では自分はどうか?
少なくとも、運動神経はいいほうではない。
戦略的な知識で言えば、ミリタリーの趣味も相まってそれなりのものがあるのではないかと思ってはいるが、それだってあくまで主観的なものだ。
当たり前の話だが、その知識を実際の最前線に生かしたことなどあるわけがない。いざその場に立ってみると、まるで趣味の域を出ていない可能性だってある。
あくまで同級生であるシンジたちに夢を語るのはいい。
だが、それをNERVの人間に語るのは、子供の世迷言と笑われそうで、強くは言えない。
だが同時に、それでも、パイロットになれるものならなりたい、という思いは切実だった。
特にその思いを強くしたのは、トウジがエヴァのパイロットになった時だ。
その事実を知ったときの衝撃は、大きかった。
トウジが、エヴァのパイロット?
シンジやアスカ、レイならばともかく、トウジと自分に、そんなに大きな差があるとは思えない。
何故、トウジがエヴァのパイロットになれて、自分では駄目なのか。
鬱屈した思いが腹の底に、泥層のように沈殿していくのを、自覚していた。
「……なれるものなら……なりたい、です」
ケンスケは、小さな声で、そう呟いた。
モニタの向こうの男は、応えない。
「聞いても、いいですか……?」
ケンスケが、言う。
『答えられる範囲でなら、構わない』
「はい」
ケンスケは頷いて、口を開く。
「何故、トウジなんですか?」
『………』
単刀直入。
ケンスケは、燻っていた疑問を、オブラートに包むこともなく、ストレートに口にした。
男は、顎を撫でながら沈黙すると、僅かに腰を浮かせて椅子に座り直す。
『何故、自分ではなく、鈴原トウジなのか……と、いうことかね?』
「……はい」
ここまできて、隠しても仕方がない。
ケンスケは、小さく、しかしはっきりと頷く。
「碇たちみたいに……明らかに、才能に差があるのなら、分かります。でも、トウジと自分に、そんなに大きな差があるとは思えません。……少なくとも、意欲の上では、自分のほうがトウジより遥かにある、と思っていますし……」
『意欲でパイロットを選んでいるわけではない』
「それは分かっています。だから、教えていただきたいんです。……トウジと自分の、どこに、どんな差があるのかを」
『……差は、ない』
男がゆっくりと、口にした言葉に、ケンスケは、虚を突かれたように口をあけた。
「……は?」
『君達の間に、そんなに大きな差はない。君と、鈴原トウジと、どちらが選ばれてもよかった。差があったとすれば、運の差かな』
最も、納得し難い答えだった。
自分には分かっていなかっただけで、トウジには優れた資質がある。
そうであれば、構わなかったのだ。
正当な理由があれば、悔しさは残るが諦めもつく。
納得するだけの価値がある。
……だが、運?
その程度のことで、これだけパイロットになりたいと切望している自分がパイロットになれず、そんなこと露ほども考えていなかったトウジが、パイロットになったというのか?
「……そう……ですか」
ケンスケは俯いて、感情を押し殺したように、そう、呟いた。
運……。
悔しさは渦巻くが、ここで不満を口走っても、意味はない。
ただ、もしも両手が自由になれば、何か掴んで地面に叩き付けたいような衝動が、一瞬、背骨の中心を駆け抜ける。
俯いて床を見つめるケンスケ。
その姿を、男は静かに見つめ……そして、口を開く。
『……君に、チャンスをあげたいと思う』
「えっ?」
ケンスケは、ポカンとした表情で顔を上げた。
男は腕を組んで、モニタ越しにケンスケを見つめている。
まるで、得体の知れない強い意思をぶつけられているような気配を感じて、ケンスケは顎を引いた。
「……チャンスって……」
『もう一度聞こう。エヴァのパイロットに、なりたいかね?』
ゆっくりとした、問い掛け。
一拍……間を置いて、ケンスケは、背筋を伸ばした。
喉の奥で咳払いをして、視線を、モザイクの向こう側の目に合わせる。
「はい。エヴァのパイロットに、なりたいです」
はっきりと、聞き違えのないように、通る声で、そう、応えた。
『……では、テストをさせてもらおうと思う』
男の言葉に、ケンスケは唾を飲み込んだ。
「テスト……ですか」
『そうだ』
「他のみんなも、同じテストを……?」
『彼らと君の条件は、同じではない』
「……申し訳ありません」
当然だ。
彼等と対等の条件でなくても、構わない。二度と得られないかもしれないチャンスだ、贅沢を言ってはいられない。
ケンスケは、口を真一文字に結んで、じっと男を見る。
しかし、ケンスケをパイロットに……というのであれば、何でこんな回りくどい方法を取ったのだろう?
トウジだって、まさか拉致されてパイロットになれと言われたわけではあるまい。
ケンスケの瞳に浮かんだその思いに、男は気付いたように声を上げた。
『あぁ……なぜ、こんな慌てた手段をとったかと言えば、少々事情があってね』
男は足を組み直すと、そう言った。
「事情……ですか」
ケンスケが、怪訝な表情で応える。
『そうだ。本来であれば……鈴原トウジのパイロット就労で、暫くは新しいパイロットを取る必要はなかったのだ』
それは、そうだろう、とケンスケは思う。
そうでなければ、こんな中途半端なタイミングで、ケンスケに声を掛けるはずが無い。
男は続ける。
『だが、事情が変わった』
「………」
『欠員が出たのだ』
「……欠員?」
ケンスケの目が、見開かれる。
『ファーストチルドレン、綾波レイは、エヴァのパイロットとしての資格を失った』
「……えっ?」
……男の言葉が、右の耳から左の耳に抜けて、脳に残らない。
それでも、必死にその残滓を掻き集めて、頭の中で再構築する。
「綾波が……パイロットの、資格を、失った……?」
紡ぎ出された言葉を、繰り返すようにケンスケが口にすると、男は小さく頷いた。
「え……ど、どうしてですか? 怪我でもしたんですか……」
『怪我……と言えば、怪我と言えないこともないがね』
「……病気、ですか」
『病気と言えば、病気と言えないことも、ない』
「……あの」
『精神的な障害だよ』
男はそう言うと、自分のこめかみの辺りを指差して見せた。
「え……」
『直接的な原因は、戦闘中の事故による衝撃だが……脳障害というべきかな。ともかく、彼女は最早、正常な判断能力を失っている。その双肩に人類の未来を託すことはできない』
瞬間、部屋が眩しい光に包まれた。
「わ……」
ケンスケは、光の眩しさに目を瞑った。
突然のことで、状況が理解できない。
10秒ほど、目を瞑り……そのあと、目を瞬かせた。
網膜を刺激する光。
天井の蛍光灯が、真っ白な光を注いでいる。
眉間に皺を寄せて目を開けると、前方には、ただ机の上に置かれたディスプレイがあり、変わらず男の姿が映っている。
なぜ、急に部屋の電気がついたのか?
部屋の中は床も壁も天井も白く、広さはせいぜい8畳ほどしかない。
訝しく思いながらも、状況を把握しようと、右側に視線を向けた。
もちろん、何も無い。
続いて左側に振り返って、ケンスケの時間は止まった。
椅子に固定されたケンスケから見て、左、斜め後ろ。
その床に、レイが、横たわっている。
「……え」
手を伸ばせば届くような距離にレイがいる衝撃に、ケンスケは、目を大きく見開いたまま、言葉を発することができない。
私服で横たわるレイは、両手を体の後ろに回している。
こちらから見ることは出来ないが、恐らく拘束されているに違いなかった。
顔を見ると、その白い肌はさらに白磁のように白く、まるでこの世のものではないかのように透明。
意識は無いようで、睫毛の先も動かない。
生きているのか死んでいるのか、外見から判断することは出来なかった。
「……あ、やなみ……?」
ケンスケが、かろうじて……掠れた声を発するのに合わせて、男が、ゆっくりと呟いた。
『……では、テストをしようと思う』
「……え?」
ケンスケが、モニタのほうに振り返る。
それで、初めて気付いた。
モニタの前。
机の上に、
短いナイフが、置かれている。
『……綾波レイを、君の手で、殺して見せろ』
「……は?」
ケンスケは、ただ、不思議な言葉を聴いたように、表情のない顔でモニタを見つめた。
男は、どうと言うこともないような声音で言葉を続ける。
『君の覚悟が見たい』
「……は……え? で、でも……」
『エヴァのパイロット、とは、そういうものだ』
「そういう……もの、……って」
『君たちの肩には、人類の未来がかかることになる。君たちの行動で、何十億という人類の、未来の全てが決まるのだ。
例えば……知り合いの命が、危険に晒されているとしよう。君は、その知り合いを、助けられるかもしれない。だが、もしもその知り合いを助けるために行動したら、同時に人類は滅亡してしまう……そんな場面は、起こり得る』
「………」
『君は、そのとき、どうする?』
「……どう、……する……って……」
『友人を助ければ、何十億という命が失われる。逆に、友人たった一人の命を犠牲にすれば、何十億という人の、命が救われるのだ』
「………」
『当然、我々が求める解答は一つしかない。これは、他の子供たちにも、徹底してあること。この意識が、骨の髄にまで浸透していなければ、エヴァには乗せられない』
「………」
『私の言いたいことが、分かるね?』
心臓が、早鐘のように、鳴る。
握った掌に、粘り気のある汗が溜まる。
こめかみや額に、ぶつぶつと汗が浮かび、鼻梁を流れて、眼鏡が僅かにすべり落ちた。
喉が張り付いて、声が出ない。
シャツが、汗で、胸や背中に張り付いていく。
壁や天井が、ぐにゃりと曲がって、ゆっくりと迫ってくる……。
カチャン。
音がして、手首や足首を押さえていた金具が開放された。
瞬間、ドキン、と、鋭い痛みが心臓に突き刺さる。
『立ちたまえ』
男の声。
まるで操り人形のように、ケンスケの腰は上がる。
ガクガクと、膝が震える。それは、決して、長いこと拘束されて固定していたことだけが原因では、ない。
『ナイフを握って』
導かれるように、ケンスケの指が、伸びる。
まるで何十メートルも先にあるかのようなナイフ。
震える指先は、そのナイフの柄に触れ、そして、それを取り落とす。
カラァン、と音を立てて床に落ちるナイフ。
「あ……わ」
反射的に、ケンスケは慌ててしゃがみこみ、それを掴んで立ち上がった。
気付くと、自分の手の中に収まっている、一本のナイフ。
自分の意思で取ったはずのナイフ。
それを、何故ここにあるのか、といった驚愕の表情で、呆然と見つめている。
『さぁ……彼女の前に、行きたまえ』
男の声に導かれるように、ケンスケは、横たわるレイの方向につまさきを向けた。
狭い部屋。
震える歩みが遅くとも、僅か数歩で、レイの前まで来てしまう。
足元に倒れるレイの姿を見て、ケンスケの視界が歪んでいく。
綾波を?
殺す? 俺が?
呆然と、レイの姿を見つめる。
これから……この、ナイフで?
殺すのか?
この、ナイフで……
ナイフ?
ナイフってナンだ。
ナイフって……
この、手の、中の。
ナイフ。
この、短い、金属の、板が。
彼女の中に、めり込んだら。
それで、
死ぬ?
死ぬのか。
死ぬのか?
殺すのか?
殺す?
殺すってナンだ。
殺すって……
殺すのか、
綾波を。
この、手で。
そんなこと。
できるのか?
この、短い、金属の、板が。
彼女の中に、めり込んだら。
それで、
死ぬ?
死ぬ。
そう、
死んでしまう。
簡単に。
そう、
そんな、簡単に。
簡単に。
死んでしまう。
綾波。
死んでしまう。
綾波。
死んでしまう……
友達なのに。
友達。
友達だ。
そう……友達だ。
……本当に?
本当に?
綾波。
エヴァのパイロット。
エヴァのパイロットに、
なりたかった。
本当に?
本当だ。
今でも、
なりたい。
そう……
トウジ。
トウジより、
自分のほうが。
ずっと。
ずっと。
ずっと……。
ずっと、適任だ。
惣流。
彼女には、敵わない。
でも、トウジよりマシだ。
碇。
碇にも敵わない。
でも、トウジよりマシだ。
碇。
碇……。
碇は、綾波の、恋人だ。
綾波を、殺して、
碇が、
許して、くれるか?
くれない……
そう、だ。
許してくれる、はずがない。
いかりが、ゆるしてくれないのに、
パイロットニナレルハズガナイ。
「……こ……こ、ころ、殺す必要は……」
ケンスケが、まるで別人のようにしわがれた声で、呟いた。
目は、レイの姿に縫い付けられたまま、動かない。
まるで病人のように、血の気を失った蒼い顔で、
滝のように流れる汗が足許にぽたぽたと垂れる。
「……だ、だって……その、そんな、精神に……異常って、言っても、そんな」
そうだ。
そんなことで、人を殺すなんて、ありえない。
掠れる様に、口の端から言葉が漏れていく。
「そ、そうだ……そんな、そんなことで、殺すなんて、そんな……バ、バカな……」
そうだ、当たり前じゃないか。
パイロットを降ろされるのは仕方が無いにしても、何故、殺す必要がある?
殺す必要なんて、これっぽっちも、ないじゃないか!
『詳しくは説明できないが、彼女は判断力を失ったことで、非常に大きな問題を起こした』
動揺するケンスケの様子を気にも留めず、男は淡々と応える。
ケンスケは、男の言葉に、まるで壊れたおもちゃのように反応する。
「……も、もん……問題……?」
『機密に触れるので解説は出来ない。ただ、彼女は、銃殺刑に匹敵する由々しき問題を起こした』
ケンスケは、ディスプレイを見た。
男の姿勢は、先ほどまでと、いささかも変わっていない。
まるで、花言葉を呟くような軽快さで、言葉を続ける。
『だから、君がここで彼女を殺さなければ、我々で銃殺するだけだ。彼女の命に先がないことは、もう、変わらない』
「………」
『だったらせめて、君のテストに使おうと思ったまででね。彼女を殺すことに、責任を感じる必要はない。君自身が、手を汚す覚悟があるのかどうか、それだけの問題だ』
「………」
『……ついでに、付け加えておこう。今回の措置は、碇シンジ、惣流アスカラングレー、鈴原トウジ、三人とも了承済みだ。苦渋の決断ではあっただろうがね』
ケンスケの視線が、レイに戻された。
眼球が、せわしなく動いている。
肌は、眼前のレイと見紛うばかりに、真っ白だ。
震える手に握り締められたナイフは、カタカタと激しく揺れている。
……碇が?
碇が、認めている?
だったら、
いいのか?
頭の奥のほうで、警戒信号が鳴り響く。
だが、それを掻き消すような騒音が、耳鳴りのように脳の中を駆け巡り、ケンスケに冷静な思考を許さない。
碇が、認めている。
だったら……
責める者は、もう、いない。
だって……
エヴァの、パイロットに。
なりたいんだ。
なりたいんだ。
俺は、
なりたいんだ……。
何が悪い。
そう、
そうさ、
そうだ、
ハハ
ハ
そう……
そうだ。
悪くない。
どうせ、殺されるんだ。
俺が殺しても、
殺さなくても、
変わらない。
変わらないんだ。
そうだろ?
ハハ
ハハハハ。
変わらない。
悪くない。
変わらない。
悪くない。
なりたい、
変わらない、
悪くない。
ケンスケは、ナイフを、大きく振りかぶった。
五百四十三
メールで指定されたのは、行政による管理を放棄された、荒れ果てた地区だった。
熊谷ユウに拉致監禁された場所とは、ジオフロントを挟んで大体反対側にあたる。
シンジは粗大ゴミ置き場で拾ってきた自転車から降りると、瓦礫が散乱する道を歩き始めた。
数分して着いた、崩れかけた家屋の扉を開ける。
指定されていたのは、この建物だ。
シンジは玄関に入って油断無く左右に視線を走らせるが、人の姿が無くなって久しい、埃と瓦礫にまみれた様相を呈している。
「綾波……」
シンジは拳を握り締めて、更に奥の部屋に足を踏み入れた。
入った部屋は、リビングルームのようだった。
足の折れたテーブルに、スプリングの突き破ったソファ。
窓ガラスは無く、戸板が打ち付けられているが、その板も隙間だらけで外の光が差し込んでいた。
部屋の奥のテレビ台の上に、一台のディスプレイが置かれている。
朽ち果てた建物の中で、明らかに新しいディスプレイに、シンジは注目する。
歩み寄って、その上面に手を置くと、突然電源が入った。
砂嵐のような激しいノイズが画面を踊る。
「……?」
シンジは怪訝な表情でその様子を眺める。
少なくとも、シンジを呼び出した人間が、このディスプレイを用意し、電源を入れたのは間違いが無い。
一歩後ろに下がり、正面からディスプレイを見据えると、突然、スピーカから声が聞こえてきた。
『碇シンジだな』
機械のフィルタを通した、無機質な声。
シンジは部屋の周りを見回したが、ぱっと見た感じでは、特に監視カメラのようなものは見当たらない。
もっとも、そんなに簡単に見つかるような場所に、隠されてはいないだろう。
シンジはディスプレイのほうに向き直ると、頷きながら応えた。
「綾波を返せ」
『そうしたいのはやまやまだがね』
抑揚の無い声音で、スピーカは応える。
『少し、遅かったな』
「え?」
シンジの声と同時に、画面の砂嵐が消えた。
電源が切れたわけではない。映像が映ったのだ。
そこに移っているのは、暗い部屋。
スポットライトのように、部屋の中央だけが明かりに照らされている。
その光の筒の中に立っているのは、相田ケンスケだった。
呆然とした表情で、自分の目の前の空間を見詰めている。
そして、その足元に横たわる、綾波、レイ。
その胸の中央から屹立するナイフは、まるで現実のものとは思えない。
彼女の上半身は、真っ赤に染め抜かれ、対するケンスケの体も、血で染まっていた。
白と、黒と、赤で彩られた世界。
シンジの時間は止まった。