第百十話 「逡巡」
五百三十三



 帰還した零号機の機体をロックボルトで固定し、ケイジは再び冷却水に満たされていく。
 
 槍を投擲するために全力を振り絞り、熱を帯びた機体は、徐々にその熱さを水に溶かし込んでいく。
 
 
 
 レイは更衣室でプラグスーツを脱ぐと、シャワールームでその体についたL.C.L.を洗い流す。
 
 髪の毛の奥深くまで染み付いた血の匂いはしかし、拭ったくらいではもはや取れはしない。
 
 
 
 蛇口を締めてカーテンを開けると、レイはバスタオルでその白い肌を伝う水滴を拭き取る。
 
 蒼い髪に艶やかな輝きが戻ると、レイはロッカーから制服を取り出して、袖に腕を通した。
 
 
 
 更衣室から出たレイは、いきなり、目の前の廊下でシンジと鉢合わせになった。
 
 いつもテキパキと準備に素早いシンジらしからず、まだ着替えを済ませていないようで、プラグスーツに身を包んだままだ。
 
 「あっ……綾波」
 
 シンジも、突然出てきたレイに驚いたように顔を上げた。
 
 視線がぶつかって、レイは戸惑うように、思わず目を泳がせる。
 
 つい先程までの、戦闘。
 
 シンジの言葉に従わなかったという思いが、レイの気持ちを乱す。
 
 
 
 だが……間違っていた、とは、思えない。
 
 
 
 ……ぎゅ、っと、拳を握る。
 
 顔を上げる。
 
 「……あの」
 
 意を決して、レイが声を掛けようとした瞬間、レイの背後から声が飛んだ。
 
 「……あれ、シンジ君、まだ着替えてないのかい?」
 
 
 
 振り返ると、そこには両手に書類を抱えたシゲルが立っていた。
 
 「あっ、はい……すみません」
 
 「赤木博士が呼んでたよ。あまり遅くならない方がいいんじゃないか」
 
 「……はい……すいません、すぐ着替えます」
 
 一瞬の逡巡の後……シンジは俯いたまま小さく頷くと、顔を上げて、レイの横を通り過ぎた。
 
 そのまま、奥の更衣室に入っていく。
 
 一度も、レイと視線を合わせず。
 
 
 
 閉じるドアの音とともに、レイは、見えなくなった後姿を、静かな悲しみを湛えた瞳で見つめていた。
 
 
 
 シゲルは、更衣室の扉と、レイの顔を交互に見比べて、困ったように頭を掻く。
 
 「……なんか……邪魔、しちゃったかな……?」
 
 
 
 シャワーの冷たい水を浴びながら、シンジは、両瞼をきつく閉じていた。
 
 「……なにやってるんだ、僕は……」
 
 どん、と、こぶしを壁に打ちつける音が、空しくシャワールームの中にこだました。



五百三十四



 加持は、頭の後ろでその両手を組むと、肩甲骨を締めるように、両肘をぐっと後ろに反らす。
 
 狭苦しいこの倉庫のような居室では、この程度の動きでしか、息の詰まった体をほぐすことはできない。
 
 「……っ……くはぁ〜〜……っ」
 
 ゆっくりと息を吐いて、両手の指を解く。
 
 首を左右に動かして、こきこきと音を立てる。
 
 
 
 机の上のノートパソコンには、冷却水に肩まで沈んだ零号機の姿が映っている。
 
 ケイジの周りを、ツナギに身を包んだ作業員が時折横切る姿が映し出されるが、それでも、いつもの使徒戦の後のような慌しさはない。
 
 ……結局、戦いの内容としては、零号機が槍を投擲しただけ。
 
 いつもなら殲滅した後、使徒の死体の始末にも時間がかかるのだが、相手が宇宙とあってはその必要もない。
 
 上層部にしてみればロンギヌスの槍を失った影響は大きいだろうが、現場の作業員としてみれば、出撃したエヴァは二機とも早々に、しかも無傷で帰ってきたのだ。
 
 まさに、理想的な結果と言えるだろう。
 
 
 
 「……結局、弐号機の停止工作は、何だったのかなぁ……」
 
 加持は、顎を撫でながら、例によって火のついていないタバコを口の先でくるくると回す。
 
 「何の意味もなかった、ように見えるけど……結果論かな」
 
 淡々とした口調で呟いた。
 
 
 
 ……もちろん……何の意味もなかった、などということは有り得ない。
 
 シンジにしてみれば、加持にあんな頼み事をする時点で、相当にリスキーな選択だったはずだ。
 
 必要のない工作であったはずがない。結果だけ見れば必要なかったように見えるが、おそらく、もしも工作しなかったら別の結果になっていた可能性があった、ということだろう。
 
 
 
 エヴァを一機、使用不能にすればよかったということではない。
 
 弐号機を、使用不能にしなければいけなかった。
 
 何故、零号機と初号機なら大丈夫で、弐号機は使用不能にしなければいけないのか。
 
 初号機は、当のシンジが乗る機体なのだから、まぁ、当然だろう。
 
 では、零号機は?
 
 
 
 レイも、シンジと情報を共有している……ということだろうか?
 
 
 
 「……まぁ……そうだろうな」
 
 加持は、呟くように言って、背凭れに体重を預けた。
 
 驚きはない。
 
 あの二人ならばむしろ、それが当然だと、思えた。



五百三十五



 天井と床に文様を刻んだ巨大な部屋。
 
 ゲンドウと冬月以外の人間の姿はない。
 
 ゲンドウはただ、じっと虚空を見つめている。
 
 その後ろに立つ冬月も、無言で窓の外の風景を眺めていた。
 
 
 
 「……槍は、回収不可能だそうだ」
 
 冬月は、ゆっくりと……まるで、世間話でもするように、言葉を紡いだ。
 
 ゲンドウの表情は変わらない。
 
 冬月は振り返ると、机の前まで歩いていき、ゲンドウの前に相対する。
 
 
 
 「……近日中に、ゼーレの呼び出しがあるだろうな」
 
 「……そうだな」
 
 「槍の使用は、老人たちのシナリオにはない。詰問されるぞ……どう答える」
 
 「どうとでもなる。使徒殲滅を優先させた結果だ」
 
 「それで納得するかな」
 
 「納得するしかあるまい。安全な穴の中からただ吠えているだけの人間に、代わりが勤まるわけではない」
 
 「……まぁ……そうだな。せいぜい警告と言うところに過ぎんか」
 
 溜息をつくようにそう言うと、冬月は腰を伸ばした。
 
 
 
 「……問題なのは、別の件の方だな」
 
 冬月は、静かに、呟く。
 
 
 
 「………」
 
 ゲンドウは答えない。
 
 冬月は目を瞑ると、もう一度、ゆっくりと目を開いた。
 
 「シンジ君のことだ」
 
 「……ああ」
 
 
 
 「どう思う?」
 
 「………」
 
 「『彼ら』……とは、委員会か……ゼーレのことだろう。委員会のことくらいなら、知っていてもおかしくはないがな……」
 
 「………」
 
 「……放っておいていいのか?」
 
 「今はまだ、敵対しているわけではない」
 
 「それは、そうだが……」
 
 「必要ならば、冬月の方で調査を進めてくれ。今は、排除する必要はあるまい」
 
 「……むしろ、ゼーレに対する駒になるということか」
 
 「我々も、老人たちの言いなりになるわけではない」
 
 「……シンジ君の言う、通りだな」
 
 「今は、むしろ、シンジの存在は、ゼーレにとって脅威であり、我々に利する」
 
 「その立場が、敵とならなければいいがな……」
 
 
 
 冬月は、小さく首を横に振ると、後ろ手を組んで、扉の方に体を向けた。
 
 「まぁ……いいだろう。シンジ君のことは、調査させよう」
 
 「………」
 
 「おまえと離れていた数年の間に、何があったのか……」
 
 言いながら、冬月は少しだけ振り返る。
 
 ゲンドウの表情に変化はない。
 
 
 
 ……息子のことが分からない。
 
 そんなものは父親失格だ、と、大学に籍を置いていた頃の自分ならば、そう思うだろう。
 
 
 
 だが、そうして声を挙げることに、何の意味があるのか。
 
 父親失格がどうのと言うよりも先に、この男は、自ら「父親」という立場を捨て去った。
 
 そんな男に「父親たれ」と求めるのはそれこそ意味がないし、当の息子も、それを求めているフシが無い。
 
 
 
 歪な親子だな、と、心の中で小さく溜息をつく。
 
 尤も、そんなことを言う資格は、冬月にも無い。



五百三十六



 暗闇。
 
 その暗闇の中に鎮座する長方形の机に、数人の老人が座っている。
 
 
 
 「碇め……あやつ、勝手にロンギヌスの槍を使いおって」
 
 四角い顎を撫でて、一人の男が呟く。
 
 「我々のシナリオにはない」
 
 「どうするつもりだ」
 
 「このままでは問題が生じる」
 
 他の老人も呼応する。
 
 
 
 黒人が、憤懣やるかたないといった表情を隠さずに、背凭れにゆっくりと体重を預けた。
 
 「奴も馬鹿ではない……補完計画の発動時には、槍が月から戻ると考えているのだろう」
 
 「フン……そんなものは推論に過ぎん。戻らなかったらどうする? セフィロトの樹には、あれが不可欠だ。唯一無二の存在だぞ」
 
 「使徒を見たか? 彼らは宇宙から現れた。彼ら然り、槍然り、必要な時に宇宙も地球も区別はないと思うが」
 
 「その時になって後悔しなければ良いがな」
 
 ロシア訛りの男がそう応える。
 
 
 
 「過ぎた事を言っても始まらん」
 
 鷲鼻の男が、隈の乗った瞳で、口論していた二人に視線を向けた。
 
 「……もはや、我々の力で槍は戻せない。その時になってみなければ、どうなるかは分からんよ」
 
 「……それは、そうだがな」
 
 ロシア訛りが応える。
 
 鷲鼻は軽く息を吐くと、目を閉じて、呟いた。
 
 「我々にとって、問題はもう一つある。いつまでも目を背けてはいられまい」
 
 
 
 「……碇シンジのことか」
 
 
 
 「初号機のパイロットとして、彼奴は依り代になって貰わねばならん。だが……いささか、予定が狂っているな」
 
 「さよう……本来は、鈴原トウジが、その手にかかる筈だった」
 
 「碇ゲンドウとの確執は良い。だが、碇シンジに人格的ダメージを見受けられないのはいささか問題だな」
 
 「人格の歪化は重要なファクターだ」
 
 「計画とは違うな」
 
 「要因は、二つ」
 
 鷲鼻の男が、皺だらけの指を二本挙げる。
 
 
 
 「一つは、本来すでに起こって然るべき、彼と近しい人間を彼自身の手で排除する、というフェーズが未だ発動していないこと」
 
 「もう一つは、ファーストチルドレンの存在だ。あの人形が、背後から彼奴を支えている」
 
 黒人が、後を継ぐように応える。
 
 
 
 「タブリスを使うか」
 
 「いや……まだ時期尚早だ。順序は守らねばならん」
 
 
 
 「……あの人形は、補完計画には必要な存在だ」
 
 「ファーストチルドレンには、代わりは幾らでもいる。シナリオに影響はしない」
 
 「……では」
 
 
 
 キールが、静かに、呟く。
 
 
 
 「まだ、手はある。
 
 ……ともかく、碇シンジの心に根ざす存在を、碇シンジの手で、殺させるのだ」



五百三十七



 インタホンが鳴り、シンジはノートに走らせていたペンを止めて立ち上がった。
 
 扉を開けると、そこに立っていたのは、レイ。
 
 シンジは驚かなかった。むしろ、あとで自分から訪ねようと思っていたのだから、先にレイに行動させてしまったことを悔やむ気持ちさえ起きた。
 
 
 
 レイは扉の前で、頭を下げた。
 
 シンジは驚いたように目を開く。
 
 「綾波……」
 
 「ごめんなさい」
 
 頭を下げたまま、レイは、呟く。
 
 「……勝手なことを、して……ごめんなさい」
 
 
 
 「……いや……そんなことない」
 
 シンジは、目を瞑って、頭を左右に振った。
 
 
 
 あれからの2時間ほどの間。
 
 脳細胞が擦り切れるほど、考えた。
 
 今までの自分と、今までのレイと。
 
 その、関係を。
 
 
 
 「謝るのはこっちだ」
 
 シンジは静かに、口にする。
 
 顔を上げたレイを、シンジは部屋に招き入れた。
 
 扉が閉まる。
 
 
 
 シンジとレイはベッドに並んで腰掛けると、申し合わせたように、二人で同時に頭を下げた。
 
 頭と頭が、軽くぶつかり合う。
 
 「いて」
 
 思わず頭を押さえて、また同時に顔を上げる。
 
 
 
 ……間抜けな出来事に、シンジの口の端が、僅かに綻ぶ。
 
 そう……
 
 ……これくらい、普通のこと。
 
 これと同じくらい、普通のことなのに。
 
 
 
 今までは、それが分かっていなかったのかも知れない……。
 
 
 
 「……もう一度、言うよ。……悪かったのは、僕だ。謝るのは、僕の方だよ」
 
 シンジは、噛み締めるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 
 
 
 「……綾波のことを、考えてなかった。綾波は僕の何なのか……。綾波は、僕の、……恋人だ。僕の、一番愛している人」
 
 シンジの言葉に、レイの頬に朱が差す。
 
 言っているシンジの方だって、耳が赤い。
 
 「……私も……碇君が、この世で一番好き」
 
 「うん…………ありがとう」
 
 恥ずかしい。
 
 でも、照れている場合じゃない。
 
 言葉を濁してはいけないところだ。
 
 
 
 「綾波は、僕のパートナーだ。言葉の上だけじゃなく……それは正真正銘、真実だと思う。
 
 恋人だから、……愛しているからというだけじゃなくて……僕が未来から戻って来た事を知っているのも綾波だけだし、この世界で綾波にだけ、全てを話した」
 
 「………」
 
 「……それは、綾波を、信頼しているからだ」
 
 「それは、私も……」
 
 「分かってる」
 
 シンジは、微笑んで言葉を切る。
 
 
 
 「……綾波は、僕を、信頼してくれる。痛いほど、感じてるよ。……でも、僕は、その信頼に応えていなかったのかも知れない」
 
 
 
 「そんなこと……」
 
 「綾波も、指摘してくれただろう?」
 
 レイの言葉を止めて、シンジは呟いた。
 
 「僕は……綾波を護る事ばかり、考えていた。……綾波を護る気持ちは間違ってない、と思いたい。でも、それが、綾波の心を無視していたんだ」
 
 「……そんなこと」
 
 ない、とは言えない。
 
 レイは、俯いて……膝の上で拳を握り締める。
 
 
 
 「でも……僕はまだ、どうしていいのか、分からない」
 
 シンジは、ゆっくりと呟く。
 
 
 
 レイは、顔を上げた。
 
 シンジの横顔を見る。
 
 
 
 「……理屈では、分かるよ。
 
 綾波の言う通りだ。
 
 綾波の言うことが正しい。
 
 ……でも、綾波を護りたい、綾波が危険な目に遭うんだったら、少しでもそこから遠ざけたいと思う気持ちは、やっぱり間違っているとは思えない」
 
 
 
 「………」
 
 「……危険が迫って……例えば、僕か綾波の、どちらか一人しか助からない場面に遭遇したとする。
 
 もちろん、最後の一瞬まで、二人が助かる方法を考えるよ。
 
 ……でも、もし……それでも、一人しか助からなかったら?
 
 
 
 ……僕は、喜んで、綾波のために死ぬ」
 
 
 
 レイは、思わずシンジの手を握り締めた。
 
 悲痛な表情で、首を左右に振る。
 
 「駄目……碇君。駄目……」
 
 「綾波……」
 
 「……そんな場面になったら、私が死ぬ。碇君は、絶対に、助ける」
 
 
 
 シンジは、穏やかに微笑んだ。
 
 
 
 そっと……シンジは、レイの手を握り返した。
 
 レイの瞳を見つめる。
 
 「昔の僕だったら……言い返すだろうね」
 
 「え……?」
 
 「そんなことをするなってね。でも……綾波が、そう思うのは、当然だよ。それが……正しいんだと、思う」
 
 
 
 「碇君……?」
 
 「僕は、綾波を、絶対に助けたいし……綾波も、僕を、きっと絶対に助けたいと考えると思う。
 
 それが正しいんだ……それが、当たり前だよね。
 
 僕も、ちょっと、勘違いしてたんだ……」
 
 レイは、戸惑うように、首をかしげた。
 
 意味が分かるようでいて、シンジの言う意味が、微妙に理解できていない気がする。
 
 「……えぇと」
 
 「綾波がそう思うのは、当然なんだ。でも、僕も、自分が死んででも、綾波を助けたいと思う。それも正しいんだと思ってる」
 
 「でも……」
 
 「いいんだ」
 
 シンジはそう言うと、手を離した。
 
 「まぁ、実際には、そんな場面は起こらないし、起こさせない。どんな危険に遭ったとしても、二人で助かるんだ。それが一番だもんね」
 
 「……うん」
 
 レイも、頷く。
 
 その言葉に、異論の余地はない。
 
 
 
 シンジは立ち上がると、机の上にあったノートを手に取った。
 
 「……だから、今、これを書いてたんだ」
 
 言いながら、レイに手渡す。
 
 
 
 突然渡されたノートに、レイは不思議そうな顔でシンジを一度見て、それからページに視線を落とした。
 
 シンジの字で、びっしりと色々書いてあるが、理路整然としているとは言いがたく、軽く目を走らせただけでは、よく意味が分からない。
 
 ……だが、内容が、次の使徒についてであることだけは、見て取れた。
 
 
 
 レイは顔を上げて、シンジを見た。
 
 「……次の使徒が、来るの?」
 
 シンジは頷いて、再びレイの横に腰を下ろした。
 
 
 
 「そのノートは、読んで貰うためのものじゃなくて、自分の頭の中を整理してたんだ。自分にだけ分かればいいんで、かなり汚いけど……状況を整理したら、綾波のところへ行こうと思ってた」
 
 シンジはノートをレイから受け取りながら、言う。
 
 「僕一人で考えようとするから、無理が出るし、綾波に負担もかける。初めから、知っていることは全部話して、一緒に対策を考えた方が、効率もいいし、確実だよね……」
 
 ……わかってはいたんだけどね、と、シンジは苦笑してみせた。
 
 今思えば、どうして前回は、自分一人で何でも考えようとしてしまったのか?
 
 レイの助けは、確かに借りた。
 
 でも、全面的に協力を仰いだとは言い難い。
 
 今回は、初めから、レイと意見を交換するつもりだった。
 
 
 
 「……一緒に考えて欲しいんだ。情報は、全部共有したい」
 
 「うん……全部、話して。力になるから」
 
 レイも、微笑んで、頷いた。



五百三十八



 シンジは、アルミサエルについて、知り得る限りの情報をレイに話した。
 
 
 
 「アルミサエルには、攻撃は全く効かなかった。倒す方法はあると思うけど、物理的攻撃ではダメージを与えられない。
 
 触れるものみんなに、融合してしまう……ATフィールドを中和するような作用を、使徒本体が持っているんだと思う」
 
 「………」
 
 「前回は……結局、零号機と融合したところで、零号機そのものが自爆して、殲滅したんだ」
 
 
 
 シンジの言葉に、レイは、きょとんとした表情を見せる。
 
 
 
 「零号機が……」
 
 「自爆」
 
 シンジが繰り返す。
 
 レイは、首を傾げる。
 
 「自爆装置?」
 
 「そう……かな」
 
 「パイロットは?」
 
 
 
 「綾波は……三人目になったよ」
 
 
 
 レイは、目を見開いていた。
 
 シンジは、レイを見る。
 
 シンジと視線を絡ませた後、レイは、目を伏せた。
 
 「……代わりが……いたから……それで」
 
 「………」
 
 「……今だったら、そんなこと、できない」
 
 「……させないよ」
 
 「………」
 
 「……でも、僕のせいで、綾波は自爆した」
 
 「え」
 
 レイが再び顔を上げる。
 
 シンジは、床を見つめて、淡々と口を開いた。
 
 「……後から、ミサトさんに聞いたんだ。綾波は使徒を押さえる為に、融合した使徒と一緒に、零号機をATフィールドで包んでエネルギーを逆転させた。自爆装置を起動した後、綾波だけ脱出することは不可能じゃなかった……分からないけど。でも、綾波はそうしなかった。ATフィールドを維持するために、エヴァの中にいる必要があったからだ」
 
 「………」
 
 「ちょうど、僕が出撃したところだった。
 
 使徒は、零号機に続いて、初号機と融合しようとして、その触手を伸ばしてきていた。
 
 それを、綾波が押さえ込んだんだ。
 
 僕を助けるために、綾波は助からなかった」
 
 
 
 何度も、苦しんだ。
 
 二度と、繰り返してはいけない、と思った。
 
 
 
 実際に、初号機が出撃しなければ、レイは助かったのだろうか?
 
 それは、正直、疑わしい。
 
 既に使徒の融合が、パイロット本人まで及んでいたのは、各種計器の記録から分かっていた。
 
 バルディエル戦を見ても、融合した時点でプラグのイジェクトは不可能だったに違いない。
 
 だが逆に、バルディエル戦では、完全に融合したエヴァから、パイロットを救出することに成功した。
 
 自爆という手段を取らなくても、使徒の殲滅とパイロットの救出は可能だったのではないか?
 
 
 
 シンジは、小さく首を振った。
 
 
 
 ……それは、無理だ。
 
 バルディエルとアルサミエルは、まるで違う。
 
 バルディエルは、戦って勝つことができた。
 
 だがアルミサエル相手に、バルディエルと同じような感じで戦いを挑めば、あっという間に取り込まれて融合してしまうだろう。
 
 ……どんなものでも、どんな状態からでも、融合する。それがアルミサエルだ。
 
 結局、ああするしかなかったのだ。
 
 
 
 分かっては、いる。
 
 だが、後悔の念は残るし、それはいささかも弱まることは無い。
 
 繰り返してはいけない。
 
 それだけは、刻印のようにしっかりと、何度も自分の胸に刻み込んだ言葉。
 
 
 
 「……アルミサエルを倒す方法は、他になかったと、思う」
 
 シンジは、小さな声で、そう呟いた。
 
 「アルミサエルには物理的攻撃が効かない。……弱点となるコアもなかった。
 
 これは想像だけど、零号機と融合することで、零号機と使徒は同じものとなった。だから、零号機のコアが、そのまま使徒のコアとなったんだ。
 
 アルミサエルを倒すためには、エヴァと融合させて、そのエヴァごと倒すしかないと思う」
 
 
 
 「……エヴァを一機、犠牲にするしかない……と?」
 
 レイが、おずおずと、呟く。
 
 シンジは、顎を撫でる。
 
 「……少なくとも、僕は……今の時点では、他に思いつかない」
 
 「……どのエヴァを?」
 
 「………」
 
 目を瞑る。
 
 
 
 「……初号機は……リリス唯一の分身である以上、使徒との融合に晒すことはできない。どうなるかは不確定だけど、最悪のパターンとして、融合によってサードインパクトが発生する可能性は捨てきれない。
 
 弐号機は、アスカが許さないよ。アスカは、弐号機以外の機体とシンクロできないしね」
 
 「……ということは……零号機……?」
 
 「……消去法で行くと……そうなる」
 
 
 
 レイは、僅かに俯いて、視線を伏せた。
 
 
 
 「それは……」
 
 小さな声で、呟く。
 
 
 
 シンジは、そんなレイの顔を見つめている。
 
 ……レイの逡巡は分かる。
 
 ……零号機は、レイの機体だ。
 
 レイだけが、シンクロすることができる、エヴァンゲリオン。
 
 
 
 零号機を失えば、次から、レイは戦闘に参加できなくなってしまう。
 
 それは、避けたいだろう。
 
 零号機が大事だからというよりも、戦闘の最前線でシンジを助けられないことの方が、辛いに違いない。
 
 
 
 「……考えているのは、ダミーを起動して出撃することだ」
 
 シンジの言葉に、レイは顔を上げた。
 
 
 
 シンジは、淡々と言葉を繋げる。
 
 「……バルディエルのことを思えば、使徒に融合された機体から脱出することはできないと思った方がいい。
 
 そうなると、どうしても、パイロットが中にいる状態では使徒の前に姿を晒せない。捕まったら最後だからね。
 
 でも、じゃあ、空座の機体を、ただ案山子のように放置すれば囮になるかというと、それも厳しいと思う。……不思議な感じだけど、使徒は、人間を理解しようと努めているフシがある。今日の使徒が照射した可視光線も、精神汚染というよりは精神を覗き見する攻撃じゃないかと思うんだ。
 
 使徒は、一直線に、零号機と融合しようとした。
 
 周りの樹と融合しないのは?
 
 土と融合しないのは?
 
 何故、零号機と融合しようという結論に至ったのか。……それは、中に綾波がいたからだと思う」
 
 「………」
 
 「つまり、エヴァの中に、精神を持ったパイロットが必要なんだ。
 
 でも、もちろん、そんな危険な目に、誰も遭わせるわけにはいかない。
 
 ……そうすると、使徒に精神体だと勘違いさせて、かつ命の心配が要らないものといえば、ダミーしかないと思う」
 
 
 
 「……つまり、零号機をダミーで出撃させて、その零号機と融合した隙に、零号機ごと殲滅するということ……?」
 
 「そう。……そういう意味でも、零号機以外はこの役割は難しい。……いま、初号機は、ダミーを受け付けないと思う」
 
 「………」
 
 「前回ダミーで起動したときに、僕が激しい拒否反応を示して、しかも主導権を強制的に奪い返したからね。……もう、ダミーでは起動できない」
 
 「……うん」
 
 「弐号機は多分、それ以前に、アスカ以外シンクロできないよ。だからムリ」
 
 「………」
 
 「……だから、零号機を使うしか、無いんだ」
 
 
 
 にわかには、頷けない。
 
 零号機が無くなってしまえば……それはつまり……戦闘が始まったら、管制室で、死ぬかもしれない愛しい人を、ただ見つめていることしか、できなくなってしまうのだ。
 
 もしも、それで、何か致命的な事態が起こったら?
 
 どうすることもできず、ただ、シンジの命が消えていくのを、見つめることしかできなかったとしたら……。
 
 
 
 「……綾波の逡巡は、分かるよ」
 
 シンジは、静かに、口を開いた。
 
 「……僕も、綾波がそれを受け入れがたいのは分かってた。だから、あんなにノートにびっしり、色々考えたんだけど……でも、結局、僕はそれ以外の方法を思いつかなかったんだ。
 
 ……他の方法があるなら、もちろん、その方がいい。綾波と議論しようと思ったのは、それもある。
 
 二人でディスカッションして、零号機を失わなくてもいい方法が思いつくなら、その方がずっといい」
 
 
 
 レイは、目を閉じた。
 
 
 
 ……もちろん、考える。
 
 だが……難しいだろう。
 
 ……シンジが、それほど考え、それでもこれしかないという結論に達したのなら……つまり。
 
 やはり、それしかないのだ。
 
 
 
 「……まぁ、例え、そういうことになっても……どうやってダミーで出撃することをリツコさんに認めさせるのか、っていう大問題が待ち構えてるけどね」
 
 シンジは、肩を竦めるように、そう言った。
 
 
 
五百三十八



 それは、一瞬の出来事だった。
 
 
 
 歩道を歩く自分の斜め前に、一台の車が音も無く寄せて停車する。
 
 もとより、自分はなんらかの揉め事に巻き込まれるような立場であるとは思っていない。停車した車も、目の前のビルにでも用があるのだろう、と、そう頭の片隅で考えるに留まった。
 
 だが、その横を通り過ぎる瞬間、確かに、耳に小さく、何かを発射するような音が届く。
 
 チクッ、と、虫に刺されるような痛みを首筋に覚え、同時に、膝が崩れ落ちた。
 
 脇の下を押さえられ、一瞬にして、車の中に引きずり込まれる。
 
 扉が閉まり、車が走り出すところで、記憶は途絶えた。



五百三十九



 インタホンの音が、部屋に響いた。
 
 シンジとレイは顔を上げる。
 
 シンジは立ち上がると、扉を開けた。
 
 
 
 廊下に立っていたのは、アスカだった。
 
 シンジの脇に首を突っ込み、部屋の中を覗き込む。
 
 「あ、やっぱりここに居たか」
 
 レイの姿を見てそう言うと、当然のように部屋に入り込んで、自分の部屋だと言わんばかりに、ベッドの上にごろりと横になった。
 
 

 「どうしたのさ、アスカ?」

 シンジは扉を閉めながら、呆れたように声を掛ける。

 アスカは寝転がって天井を見上げたまま、その言葉に応えた。

 「さっき、レイの部屋に行ったのよ」

 「私の部屋?」

 ベッドに腰掛けているレイが、アスカに振り返る。

 「これ、貸そうと思って」

 言いながら、手に持っていた本を、レイの方に差し出した。
 
 レイが受け取る。

 シンジは元のようにレイの隣に腰を下ろしながら、レイの手の中の本を覗き込む。
 
 

 表紙には、ドイツ語でタイトルが箔押ししてある。

 「こないだの本、読み終わった?」

 「半分くらい……ドイツ語だから」

 「これ、その続き」



 そう言えば、レイの部屋に、アスカから借りたという詩集があったことを思い出す。

 レイは、ぱらぱらとページをめくってから、頷いた。

 「うん……読む。ありがとう」

 「どういたしまして」

 アスカはそう言って、頭を枕に預けた。
 
 
 
 シンジは、ページをめくるレイと、シンジの本棚から勝手に雑誌を取り出しているアスカを、ただ交互に見つめていた。



 「……二人で、何してたの?」

 数分後。
 
 雑誌をめくりながら、アスカが言う。

 「えっ?」

 「何してたの、って言ったの」
 
 

 「……何って、おしゃべり……してただけだよ」

 「おしゃべりしながら、いちゃついてたわけ?」

 「……いちゃついてないってば……」
 
 アスカの言葉に、シンジは赤くなってかぶりを振る。
 
 アスカは特にシンジの方を見るわけでもなく、「はいはい」と言いながら、雑誌に視線を落としている。
 
 レイは、不思議そうな表情で、赤面するシンジを見つめていた。



 そのとき、ふと、シンジの頭に、アイデアが浮かぶ。



 ダミーで出撃することを、リツコに認めさせる。

 アスカだったら、どうするだろうか?



 「アスカ」

 「ん?」

 シンジに声を掛けられて、アスカは上半身を起こす。

 「あのさ……」

 その声に被るように、再びインタホンが響く。



 顔を見合わせる三人。
 
 ここに三人いる、ということは、残る一人ということか。
 
 シンジが立ち上がって扉を開けると、果たして、その予想通りだった。
 
 

 「おっ……なんや、お揃いやな」

 入ってきたのは、トウジだ。

 「どうかしたの、トウジ」
 
 トウジを部屋の中に招き入れて、シンジは言う。

 「いや、別に……暇でな。おまえらこそ、ナニしとったんや、三人で」

 「アタシはさっき来たとこ。レイに用があって来たら、二人で」

 「いちゃついとったワケか」

 「い、いちゃついてないってば!」



 さすがに四人ともなると、シンジの部屋でも若干の狭さを感じる。
 
 シンジは台所から柔らかな湯気を上げたカップをトレイに載せて戻ると、サイドボードの上に置いた。

 トウジは、椅子に腰掛けながら、ぐるりと回転させて体の前に持ってきた背凭れに顎を乗せている。

 「さっき、何か言いかけなかった? シンジ」

 アスカは壁に寄り掛かって、ベッドの上に足を投げ出しながら、シンジに言う。

 アスカに声を掛けられたシンジは、思い出したように顔を上げて、レイの顔を見てから、アスカの方に視線を向けた。



 「いや、まぁ……。
 
 例えば、さ。
 
 ダミーシステムで出撃する、っていうようなことを、リツコさんに認めさせようと思ったら、アスカならどうする?」
 
 
 
 面食らったように目を見開いたアスカは、膝の上に置いていた雑誌を閉じた。
 
 「はぁ? ……なんで、そんな必要があんのよ」
 
 「いや……必要とかそういうことじゃなくて。例えばさ」
 
 「例えばって……そんな状況ってことは、当然、ダミーを使う理由があるってことでしょ。それをリツコに説明するしかないじゃない」
 
 「いや、うん、その……まぁ……そうなんだけど。その……うん」
 
 「何言ってんのよ」
 
 「まぁ、その……例えば、その理由を話せない状況だとしたら?」
 
 「それこそ何言ってんのよ。理由ナシで、そんなこと出来るわけないじゃない」
 
 「うん……まぁ……そうだよね……」
 
 「アンタ、大丈夫? 自分の言ってること、意味分かってる?」
 
 「大丈夫大丈夫、あは、その……うん……ま、いいや……」
 
 シンジは頭を掻いて、曖昧な笑いを浮かべるしかなかった。
 
 アスカの言う通りだ。
 
 リツコに理由を話すしかそれを認めさせる方法はないし、理由を話さないのならそれを認めさせることはできない。
 
 
 
 だが、そうはいかないのだ。
 
 なんとかして、考えなければいけない。
 
 あと1日……あるいは、明日か。それとも、明後日か。
 
 
 
 すぐに、使徒はやってくる筈なのだから。
 
 
 
 ……椅子に座ったトウジが、おずおず、と、右手を挙げた。
 
 「あの……お話中すんません……ダミーって何のことか、全然分からへんのですケド……」