第百九話 「意思」
五百三十



 レイの言葉に、その場にいた全員が振り返った。



 シンジも驚愕の表情で、レイの顔を見つめる。

 「綾波……」
 
 思わず、レイの名を呼ぶシンジ。

 しかし、そんなシンジの言葉には反応せず……レイはただ、まっすぐ、前にいるリツコの顔に視線を固定する。

 「……ロンギヌスの槍を、使うべきだと思います」

 もう一度、同じ言葉を繰り返した。



 リツコは、僅かに眉間に皺を寄せると、レイの顔を見返す。
 
 

 「そんなこと……」

 できるわけがない、という言葉を飲み込んだ。
 
 

 確かに、レイの言う通り、ロンギヌスの槍を使うという考え方は間違っていない。

 現状、有効な手だてが無いに等しいこの状況では、確実な戦法と、言えるかも知れない。

 ……実は、リツコも、ロンギヌスの槍を使うことに、思い至らなかったわけではないのだ。槍を使えば、少なくとも、確実に使徒を殲滅することができる。実証はないが、確証はあった。あれは、そういう物だ。



 ……だが、それが許されないのもまた、百も承知のことだ。

 ロンギヌスの槍は、人類補完計画に欠かせないピース。

 正直、リツコにとって、補完計画などどうでもいい。だが、ゲンドウや冬月がそれを許さないのは分かっていたし、委員会も黙ってはいないだろう。

 だからこそ、気付いても言わなかった。

 だからこそ、言っても無駄なことだと、口を噤んでいたのだ。



 ……リツコは、レイの顔を見た。

 (そんなこと……レイだって、分かっているはずよ)

 だが考えてみれば、レイは自分以上に、人類補完計画の行く末など、どうでもいいと思っているに違いない。

 愛する少年が困っている状況にいて、自分が現状を打開する術を知っていながら、何故黙る必要があろうか?

 彼女にとっては、碇シンジが他の全てに優先される。

 そんなことは、日頃の彼女を思えば、当たり前のことだ。



 リツコは、レイの瞳を見つめながら、僅かに口許を歪めてみせた。

 自らを、嘲るように。

 そしてまた、愛に生きる少女の愚かさを見透かすように。

 「……許されるはずが、ないでしょう」

 呟くように、リツコは言う。

 その言葉だけで、通じるはずだ。

 レイは口を噤んで、ただ、リツコを見つめ返していた。
 
 
 
 呆気にとられたように二人のやり取りを見つめていたミサトが、我に返ったように口を挟んだ。
 
 「ちょ……ちょっと、どっちにしても……そんなのムリよ。アダムとエヴァの接触は、サードインパクトを引き起こす可能性があるじゃない!」
 
 慌てて、レイに問い掛ける。
 
 レイは、視線をミサトに向けて、すぐに戻した。
 
 短く、言葉を発する。
 
 「その心配はありません」
 
 「えっ……」
 
 レイのセリフに、ミサトは言葉を詰まらせる。
 
 
 
 再び、場が沈黙に包まれた。
 
 
 
 シンジは、驚きの表情を浮かべたまま、レイの横顔を見つめていた。
 
 ……自分が言おうと思っていた言葉を、代わりにレイに言われてしまった。
 
 だが、それが、功を奏している。
 


 ロンギヌスの槍がどんな威力を秘めているのか?

 どうして、槍を使えば使徒を殲滅できると思ったのか?
 
 シンジが槍の使用を進言すれば、それをシンジの口から、説明しないわけにはいかないだろう。
 
 当然、真実を語るわけにはいかない。例えリツコに怪しまれようとも、無理矢理、力技で押していくしかない。
 
 ……だが、レイならば違う。
 
 レイは、ロンギヌスの槍がどんなものか知っていて当然の立場だ。レイならば、この状態で、それを言い出してもおかしくはない。



 静寂の中、アスカは、眉間に皺を寄せて、対峙する二人を睨み付けていた。
 
 ……意味が分からない、という表情で、不機嫌そうに頭を掻く。

 「……何のハナシ?」

 オーバーアクション気味に、両手で宙を仰いでみせた。
 
 面々が、アスカの顔を、振り返る。
 
 

 ……突然「ロンギヌスの槍」などと言われて、意味が分かるはずがない。
 
 自分を蚊帳の外に置いて進む議論に不機嫌な表情を浮かべつつ、アスカはレイの方に視線を向ける。

 「その、なんとかいう槍があれば、倒せンの、使徒を?」
 
 アスカの言葉に、レイは、小さく頷いた。
 
 アスカは、リツコのほうに向き直る。
 
 「だったら使うわよ。なんで駄目なの?」

 

 リツコは、ため息をつく。
 
 

 「……事情があるのよ」

 「事情って何よ? 成功確率100パーセントの方法を捨てて、ゼロを選ぶ理由ってナニ? アタシらに死んでこい、っていう理由は何よ」

 「そんなこと、言っていないわ。やってみなくちゃ分からないわよ」

 「またその話? 確率はゼロだって言ってンのよ、ゼロ! 成功するわけないでしょ!」

 「………」

 「その、なんとか言う、え〜……なんだっけ……ロ、ロン?」
 
 
 
 視線を泳がせるアスカに、シンジは静かに言う。

 「……ロンギヌスの槍」

 「そう、そのロンなんとか言う槍、使わせなさいよ! ……って、え?」



 アスカは思わず、隣に立っている少年の顔を見た。

 ……シンジは、視線だけアスカに向けて、また、戻す。

 同じくシンジの顔を見つめていたリツコは、静かに口を開く。

 「……シンジ君……知ってるの? 槍を」

 「おかしいですか?」
 
 シンジも、静かに答える。



 シンジの答えに、リツコは、思わず瞼を閉じた。

 ふーっ……と、ゆっくり、息を吐く。

 目を開ける。
 
 

 「いいえ……」

 囁くような声で、リツコは答えた。

 そう、この少年がロンギヌスの槍の存在を知っている、という程度の事は……彼が今まで巻き起こした数々の事件に比べて、なんと些細なことか。
 
 
 
 シンジにとっても、今のセリフは賭けだった。
 
 だが実際、最初に槍の話を持ち出したのがシンジではなくレイだったことで、話はうやむやになった感がある。
 
 いきなりシンジが「ロンギヌスの槍を使うのがいい」と言い出すインパクトに比べれば、かなり平穏な筈だ。
 
 駄目押しの一言を、口の中に用意する。
 
 リツコの顔を、シンジは横目で見つめる。

 数秒後、リツコから視線を外すと、そのまま口を開いた。

 「槍が、アダムに刺さっているのを、見ました」

 「えっ」

 思わず顔を上げるリツコを一瞥して、シンジは言葉を続ける。

 「……ミサトさんと一緒に」

 「え!」

 リツコは、バッとミサトの方に振り返った。



 リツコに釣られるように、他の面々も一斉にミサトの顔を注視した。

 「えっ?」

 話題の突然の転換に振り回されるように、ミサトは目をしばたかせる。

 リツコは、カツッと踵を鳴らせて向き直ると、そのままミサトを睨み付けた。

 「どういうこと?」

 「えっ? ああ、う〜んと、その……まぁ、ちょっち前に……ね」

 「あそこは立入禁止のはずよ」

 「あぁ、その、まぁ……いろいろあって……」

 「説明して貰うわよ」

 「そ、そんなこと、今は関係ないじゃない!」

 「誤魔化さないで」

 「誤魔化してないわよ!」



 アダムの許にミサトとシンジを連れていったのは、加持だ。

 それは、いわゆる重規律違反だから、ミサトには事情は説明しづらいだろう。
 
 ミサトには悪いが、責任分散というか、矛先を霧の中に置き去りにする程度の効力はあったに違いない。

 睨み合うミサトとリツコを眺めてから、シンジは、背後……遙か上をに視線を向けた。



 白く高い、まるで塔のような威容の上に、最高司令と、副司令の姿が見える。

 どこを見ているのか定かではない視線はしかし、確実に自分を見下ろしている、と感じられた。

 シンジは、短く声をかける。

 「父さん」

 もちろん、答えはない。

 だが、気配が、自分に向けられている。

 シンジは続けた。

 「父さん……ロンギヌスの槍を、使おう」



 場は、静まり返った。



 数秒の沈黙の後……掛けられた言葉は、父のものではなかった。

 「あれは、そんなに簡単に使うわけにはいかんよ」

 冬月の声が、微かに反響しながら届く。

 シンジは、ゆっくりと、首を左右に振る。

 「アスカの台詞じゃないけど……他に方法はありません」

 「まずは、出撃したまえ。その結果を踏まえて、必要ならば考慮しよう」

 「今でも後でも変わらないんじゃないですか?」

 「あれは、ここで使うわけにはいかん」

 「そちらの都合でしょう」

 「いかんかね? 我々には我々の事情がある」
 
 「僕にも都合があります」
 
 シンジは言葉を切ると、俯き……深呼吸をするように……小さく、息を吸い込んだ。
 
 そして、吐く。
 
 「父さん」
 
 ゲンドウに呼びかける。
 
 
 
 「彼等の言うとおりにするつもり?」
 
 
 
 数秒の沈黙。
 
 
 
 ゲンドウが、ゆっくりと、口を開く。
 
 
 
 「何が言いたい」
 
 「シナリオ通りに進めても、父さんの思うようにはならない」
 
 「……考えはある」
 
 「槍は、必要じゃないだろう?」
 
 「………」
 
 「使わせてもらう。どっちにしても、他に方法はない」
 
 「取り戻せるのか」
 
 「それは、無理だよ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「依代は必要だ」
 
 「初号機がある」
 
 
 
 張り詰めたような空気が充満し、誰もが息をするのも躊躇うほどだった。
 
 使徒は、今のところ動きを見せてはいない。
 
 ミサトは、思わず唾を飲み込んで二人のやり取りを見つめつつも、頭の中には大きなクエスチョンマークが浮かんで蠢いていた。
 
 彼等?
 
 シナリオ?
 
 依代?
 
 NERVの最高幹部の一人であるはずの自分に、意味の分からない会話を繰り広げる、エースパイロットと、最高司令官。
 
 見れば、冬月とリツコも、シンジの言葉に驚きの表情を浮かべているようではあるが、決してそれ以上ではない。
 
 彼らには、会話の内容が分かっている。
 
 自分に分からないだけなのだ。
 
 
 
 いったい、なんなんだ?
 
 
 
 「……レイ」
 
 ゲンドウが、ゆっくりと、呟くように言った。
 
 突然名前を呼ばれたレイは、驚いたように表情を固くして、その男の顔を見上げる。
 
 「はい」
 
 「ドグマに降りて、槍を使え」
 
 冬月が、驚いた表情でゲンドウに振り返った。
 
 「いいのか、碇。老人たちが黙っていないぞ」
 
 「確かに、他に方法はない」
 
 「しかし……」
 
 「父さん、駄目だ。地下には僕が降りる」
 
 シンジが、慌てたように声を掛けた。
 
 冬月はゲンドウとの会話を切って、身を乗り出すようにシンジを見下ろした。
 
 「ドグマのことは、レイの方が詳しい。レイに任せたまえ」
 
 「いえ、それは……!」
 
 「何故こだわるのかね? 別に、彼女が取りに行けば構わんだろう」
 
 「……槍を取って戻ったら、そのまま地上で投擲する必要があります。危険です」
 
 「それは、初号機の場合でも変わらん。初号機にしろ零号機にしろ、投擲する役割を担うエヴァが、一時的にでも危険に晒されるのは、仕方がないことだ」
 
 「………」
 
 「……レイの安全に心を砕く気持ちは分かる。だが、君が行けば、代わりにレイが心配する。同じことだ」
 
 「でも……」
 
 「4thを除くチルドレンはケイジへ。急ぎたまえ」
 
 なおも言い縋ろうとするシンジの頭上に、冬月の、最後通告とも言うべき言葉が響き渡った。



五百三十一



 「つ……着いたで、センセ」

 トウジはそう言うと、よろけるように柵に寄り掛かり、シンジを床に下ろした。

 肩で息をするトウジの背中に掴まって、プラグスーツ姿のシンジが立ち上がる。

 「ありがとう、トウジ」

 「いや……構わへんて。ワシ、他にすることないしな」

 額の汗を拭ってトウジが笑う。



 ここはケイジだ。

 更衣室で着替えたシンジを背中におぶって、トウジはここまで疾走してきたのである。

 見回すと、既にアスカとレイが立っているのが見えた。

 トウジの肩を借りて、そこまで駆け寄っていく。



 近くまで来ると、アスカが憮然とした表情で、腕を組んでいるのが分かった。

 「どうしたの、アスカ?」

 シンジの言葉に、アスカはギロリと睨み返した。

 思わず後ずさるシンジに、アスカは眉間に皺を寄せたまま、大袈裟に溜息をついてみせた。



 「……弐号機が、使えないって言うのよ」

 「えっ?」

 アスカの不機嫌そうな声に、シンジは思わず聞き返した。



 振り仰いで弐号機を見上げると、停止プラグを頸椎から抜いた状態のまま、数人の作業員が所在無く立っているのが見える。

 「なンか知らないけど、プラグが使えないって」

 不機嫌さを言葉の裏側に滲ませながら、アスカが呟く。



 加持が、何かしたのは明白だ。

 シンジはアスカに振り返る。

 「え、それ……使えるようになるまで、どれくらいかかるって?」

 「一時間」

 アスカが吐き捨てるように言う。

 シンジは、一瞬レイと視線を交差させる。

 それから再びアスカの方に振り返ると、努めて明るく声を出した。

 「まぁ……何があったのか分からないけど、仕方がないよ……使えない、っていうんなら、さ。……幸い、今回の作戦は、綾波が槍を取ってきて投げるだけだからね。今回は見物に徹することにしたら?」

 「言われなくたって分かってるわよ、そんなコト」

 言いながら溜息をつく。

 「あたしが騒いだって動かないもんは動かないんだから、しょうがないわよ、そんなコト分かってる。納得いかないから不機嫌なだけ」

 「ア、アハ……ま、まぁ、仕方がないよね……」

 実はプラグを使えないようにした張本人だけに、笑うしかない。



 ともかくアスカはトウジと並んで、ケイジの隅に移動した。

 搭乗できないのだからここにいても仕方がないのだが、それでも修復は急ピッチで進められている。

 準備が完了し次第、エヴァに搭乗して待機という態勢になる以上、管制塔には戻らずに、この場に止まることとなったのだ。

 トウジは戻ってもいいのだが、まぁ成り行きである。



 エヴァの前に立ったシンジは、同じく零号機に向かって歩き出そうとしていたレイを呼び止めた。

 「綾波」

 シンジに声を掛けられて、レイは振り返る。

 シンジは柵に手を掛けながら数歩駆け寄ると、耳元で囁くように話しかけた。

 「綾波……槍を取ってきたら、初号機に投げて渡してくれ」

 「えっ……?」

 レイは、驚いたように、少しだけ目を見開いた。
 
 「初号機で、あらかじめレールシャフトの途中に待機しておく。投げてくれれば、受け取って僕が地上に出よう」

 「でも……」

 「命令では、槍を回収した綾波がそのまま地上で投擲も担当することになってるけど……投擲は、僕がやるよ」

 「駄目……危険だわ」

 「危険なのは、綾波でも変わらないよ」

 シンジは、ゆっくりと首を左右に振る。

 「同じことなら、僕がやるよ。その方がきっと、うまくやれる」

 「駄目。危険だもの。同じことなら、私がやる」

 「いや、それは……」
 
 「同じことだわ」
 
 「いや……僕のほうがうまくやれるよ」
 
 「どうして?」
 
 「………」

 「碇君の方がうまくやれる、っていうのは、もしかしたらそうかも知れない。でも、言い切れる訳じゃない」

 「それは、そうだけど」

 「理由があるの?」

 「………」

 「私の方が、うまくやれるかも知れないわ」
 
 
 
 数秒の沈黙。
 
 口を噤んで見つめあう二人だったが、レイはやがて静かに瞼を閉じると、ゆっくりと息を吐き出した。
 
 そして、目を開く。
 
 「……碇君は、私を危険に晒したくないの?」
 
 「!」
 
 シンジは、思わず目を見開いた。
 
 レイは、じっとシンジを見つめている。
 
 それこそ、揺ぎ無く。
 
 シンジは言葉が継げない。
 
 
 
 「……もし、そうなら……それは、嬉しい……嬉しいの。
 
 嬉しいけど……
 
 ……でも、私だって、碇君を危険に晒したくない。
 
 絶対に、危険な目に遭わせたくないわ……。
 
 
 
 ……碇君。
 
 碇君がやったほうがいい、碇君が前線に立ったほうがいいという理由があるのなら、あるいはそれも、いいと思う。
 
 でも、ただ私を危険な目に遭わせたくないんだって言うのなら……
 
 碇君の言うとおりにするわけには、いかないわ」
 
 
 
 シンジは、驚きの表情を浮かべたまま、身動きを取る事が出来なかった。
 
 レイの視線の力強さを、押し返すことが出来ない。
 
 
 
 「綾波……」
 
 
 
 『そこの二人! なにやってるの、搭乗しなさい!』
 
 突然、リツコの声がケイジに響き渡る。
 
 シンジは完全に虚を突かれて、驚いたように首を竦める。
 
 レイは、一瞬スピーカーの方を一瞥すると、もう一度、シンジの顔に視線を戻した。
 
 「……ごめんなさい……碇君」
 
 
 
 「綾波!」
 
 しかし、シンジが掛ける声を振り切るように、レイはタラップを駆け上がって、エントリープラグのハッチの中に飛び込んだ。
 
 金属音と共にハッチはスライドして閉じ、そのままプラグは僅かに回転しながら、零号機の頚椎に吸い込まれる。
 
 「綾波……」
 
 『シンジ君も、搭乗しなさい!』
 
 呆然と立つシンジの後頭部にリツコの声が浴びせられて、シンジも慌てて柵に寄りかかりながらプラグに向かって走って行った。
 
 
 
 「……なんか、ケンカしよったぞ、アイツら」
 
 壁際に寄りかかっていたトウジが、呆然と呟いた。
 
 満々と湛えられていた冷却水は、徐々にその水位を下げていき、同時に零号機を固定するロックボルトが蒸気を上げて解除されていく。
 
 その横にいる初号機のプラグに、シンジがようやく飛び込むのが、小さく見えた。
 
 「……何やってんのかしらね、この非常時に」
 
 アスカも、呆れた表情で、腕を組む。
 
 ベタベタカップルの二人にはかなり珍しい光景であったが、会話の内容も聞こえなかったし、そんなに険悪な雰囲気でもなさそうだった。
 
 もともと、ケンカもしない二人が異常なのであって、言い争いの一つや二つ、カップルなら幾らあってもおかしくはない。
 
 少なくとも、あの二人をずっと横で見てきたアスカにとっては、ちょっとした言い争いで二人の仲が揺らぐとはとても思えないので、静観できる、ということもある。
 
 「ま……あの二人には似合わない言葉だけど……ケンカするほど仲がいい、とも言うしね」
 
 アスカは、独り言のように、呟いた。
 
 
 
 ……でも、そんな二人が、いったい何を言い争っていたというんだろう?



五百三十二



 操縦把を握ったレイは、眼前を巡る光の渦を見つめていた。

 『シンクロ完了』

 マヤの声がスピーカー越しに届き、同時に風景は全天の映像に切り替わる。

 レイは前方を揺るぎ無く凝視しながら、機敏に操縦把を引いた。



 歩き出す零号機が映し出されるモニタを見つめながら、リツコが腕を組む。

 マヤがキーボードを叩きながら声を上げた。

 「ファーストチルドレン、シンクロ率108%」

 ミサトは、その報告に、眉を軽く上げて肩を竦めた。

 「シンジ君のお株を奪うシンクロ率ね〜」

 「相当、集中しているようね」

 リツコも、頷いて応える。



 零号機はシャフト脇に取り付くと、そのすぐ横のタラップに立って、背筋を伸ばすようにしてリフトに両肩を固定した。

 数秒後に、轟音とともに、零号機を乗せたタラップは地下に向かって吸い込まれる。



 目の前を高速で通り過ぎるライトの筋を見つめながら、レイは確かに集中していた。

 極限まで引き絞られた、弓のように。

 あとは、矢をつがえ、放つのみだ。



 ……いつも、シンジを危険な目にばかり遭わせてきた。

 それを横で見ているしかなかった。

 シンジは自分より、全てに渡って優れていたし。

 彼がやると判断した作戦は、常にその時点で取り得る最高の方法であり、異を唱える余地も、その必要もなかった。



 だが、いつも、歯痒かった。



 シンジの作戦は、常に、不測の事態が起こった際の危険を、シンジが背負うように設定されていた。

 いつでも、シンジは……自分やアスカを危険に晒さないために、自らを危険に晒す。



 いつも、歯痒かった。



 程なくして、四方を囲んでいたトンネルが開け、暗く広い空間が、目の前に広がった。

 足下に、赤色の湖が広がる。

 零号機はまだ降下中のリフトから肩を外すと、10階建てのビルほどもある高さから一気に飛び降りた。

 着水と共に、衝撃で大きな水柱が上がる。



 シンジは初号機の中で操縦把を握りながら、ただじっと、零号機の消えたレールシャフトを見つめていた。

 

 レイに投げかけられた言葉は、未だシンジの脳蓋を反響し続けていた。

 (……でも、ただ私を危険な目に遭わせたくないんだって言うのなら……碇君の言うとおりにするわけには、いかないわ……)

 シンジの胸の裡に、何とかして言い返したいような、そんな気分が渦巻く。

 だが、例え口を開いても、言葉を発することは出来なかった。



 レイを護りたい。

 その気持ちに、僅かな綻びだってありはしない。

 それは、エゴか?

 自分勝手な想いを押しつけているとでも言うのか?



 違う!

 そう叫ぶ心の声に、力が籠もらない。

 シンジは、思わず両目をきつく閉じて、頭を左右に振った。



 零号機の前に、十字架に磔られた白い巨人が、こうべを垂れて立ち塞がっていた。

 意志の感じられぬ面を貼った首から、赤い血の如き液体が胸まで伝っている。

 腰から下が無く、その後ろの見える十字架の脚部を、同じく血が流れ湖に続いていた。



 ならば、この一面に広がる赤い湖は、全てこの巨人の血なのだろうか?



 零号機は、そのまま踝まで浸かった水を掻き分けて、巨人の目の前に歩み寄った。

 巨人の胸板に、深く、刺さる、一本の槍。

 ……ロンギヌスの槍だ。

 二本の棒を捻ったような形状で、その先が刺叉のように二つに割れ、白い躰に飲み込まれている。

 零号機は、両手でその槍を掴み、一気に引き抜いた。



 突然、巨人の腰が泡のように膨れ上がったかと思うと、一気に下に向かって生え伸びた。

 地響きと共に水柱が上がる。

 「!」

 レイは、驚いたように目を見張って、身構える。

 飛沫が晴れると、そこには先程まで無かった二本の足が垂れ下がっていた。



 一瞬、レイは動揺した。

 この槍は、アダムの成長を止める役割を果たしていた、ということか?

 引き抜いてしまってよかったのか……だが、すぐに、口を真一文字に結び直す。

 今、考えるべきは、そこじゃない。

 シンジの経験してきた世界でも、同じように槍を引き抜いた。それで問題があるのなら、シンジがこの作戦を提案するはずがない。

 零号機は槍を携えたまま、ざばっと水面を割って振り返る。

 今は、このまま地上に出て、槍を投擲することだけを考えるのだ。



 初号機は、零号機が消えたレールシャフトの側に駆け寄ると、跪いて、遥か闇に消える穴を覗き込んだ。
 
 零号機が戻ってくる気配は、まだ無い。
 
 (どうする?)
 
 シンジは考える。
 
 レイが、シンジの言うとおり、槍を投げてくれればともかく……そのまま地上に出たら?
 
 そんな、綾波を危険に晒すわけには……
 
 だが、そんなシンジの脳裏を、激しく火花が散る。
 
 もう一人の自分の声がする。
 
 (……それは、傲慢だ!)
 
 シンジは目を瞑って首を振る。
 
 
 
 違う!
 
 
 
 (だが、言い返せなかった)
 
 違う、それは……
 
 (分かっているんだろう?)
 
 違う! 僕は、綾波を、危険な目に遭わせたくないんだ!
 
 (それが、傲慢だって言うんだ! それは、彼女を対等に見ていない証拠さ)
 
 そんなことはない!
 
 (彼女の保護者を気取っているんだ)
 
 違う、それは……
 
 (そうして、自己満足に浸っているだけなんだろう? それを、綾波に見透かされたんだ)
 
 ……自己満足なんて……そんな、そんなことは……
 
 (本当に、彼女を救いたいと思っているのか? 彼女が成長するのを助けたいと思っているのか? 彼女の意思を取り上げて、訳知り顔で頷いているだけじゃないか)
 
 ……そんな……ことは……ない!
 
 (自己犠牲にその身を晒して、いい気分になっているだけさ)
 
 
 
 「……だったら、手を出さずに見ていろって言うのか!?」
 
 噛み殺したような声が、喉を伝って、口の端から零れ出た。
 
 目頭に皺を寄せて、ぎゅっと閉じる。
 
 「……そんなこと……できるわけが無い! 綾波を助けたい気持ちは……嘘でも偽りでも、無いんだ!」
 
 微かな声と共に漏れる泡が、L.C.L.に満たされたプラグの中を揺らす。
 
 
 
 自分と相対したもう一人のシンジは、口元に笑みを浮かべていた。
 
 (そう、信じているだけじゃないと、何故言い切れる?)
 
 そんなこと……
 
 (自分の気持ちは、自分には見えない。近過ぎるから……そういうものだろう?)
 
 いや……この気持ちは、確かだ。間違いなんて、ない!
 
 (仮に気持ちに間違いがないとしても、自分の行動が全て正しいと言い切れるかい?)
 
 ……そんな、こと
 
 (言い切れないだろ?)
 
 ………
 
 (綾波を……認めるんだ)
 
 
 
 認めてる! 今だって! 認めているさ!
 
 
 
 (認めている、と、勘違いしてるだけだ)
 
 
 
 そんなこと……!
 
 
 
 微かな轟音が響き、シンジは、ハッと目を開いた。
 
 遥か下から、タラップが高速で上がってくるのが見える。
 
 「……わッ!!」
 
 初号機が驚いたように身を引くと、瞬間、ゴッと音を立てて、零号機を載せたタラップが通り過ぎ、天井に消えていった。
 
 「……綾波……!」
 
 シンジは、それを見上げたまま、名を呟くことしかできない。
 
 追いかけて、地上に出なければ……
 
 ……だが、体が動かない。
 
 ただ、見上げているだけだ。
 
 
 
 タラップの上に片膝を突いた零号機の中で、レイは、ただ前方の闇を見つめ続けていた。
 
 たった今……一瞬、視界の中に現れた初号機。
 
 その中にいるシンジのことを思うと、胸が絞まる。
 
 
 
 目を瞑る。
 
 
 
 深く、息を吸い込んで……ゆっくりと、目を開く。
 
 
 
 集中しろ。
 
 研ぎ澄まされた、一本の糸のように。
 
 考えるのは、後で幾らでもできる。
 
 
 
 今はただ、矢をつがえ、放つことだけを、考えろ。
 
 
 
 突然光が降り注いだ。
 
 ガンッ! と音を立てて、タラップが地表に到着する。
 
 雨が降り注ぐ空には、分厚い雲が敷き詰められている。
 
 一瞬の隙も置かず、零号機は立ち上がると、ロンギヌスの槍を握った右手を後方に引き絞った。
 
 
 
 二叉に分かれた槍が、生きているもののように、ぐるりと渦を巻いてお互いにより合わされる。
 
 そしてそれは、一本の、鋭い棒となった。
 
 
 
 厚い、雲の向こう側。
 
 遮られて、使徒の姿は見えない。
 
 だがレイには、その姿が、まるでそこにあるかのように、目に映っていた。
 
 それだけしか、見えないかのように。
 
 
 
 零号機が、まるで助走をつけるかのように、一歩、前へ漕ぎ出した。
 
 
 
 もう一歩、
 
 もう一歩、
 
 
 
 その歩みは加速度的に速くなり、次の瞬間、零号機そのものが一本のしなる弓と化す。
 
 全体重を預けるかのようなストロークで、瞬きの間に、右腕は振り下ろされていた。
 
 
 
 雲は渦巻き、砕け散った。
 
 一瞬にして霧散するその向こうに見える青空の先を、一筋の光となって、槍が空気の壁を突き抜ける。
 
 その光が肉眼で捉えられなくなった次の瞬間、確かな光芒が、その空に浮かび上がった。
 
 
 
 「使徒、殲滅しました!」
 
 マヤの報告が管制室に響き渡る。
 
 もちろんその報告を聞くまでも無く、使徒の様子はメインモニタに大きく映し出されていた。
 
 使徒は槍が届くよりも一瞬早く、A.T.フィールドを展開していた。
 
 だがそのフィールドも、僅かコンマ1秒すら耐えることができなかった。
 
 使徒の体は、まるで槍に吸い込まれるように渦を巻いた後、逆進するように、一気に砕け散った。
 
 
 
 「一撃で……」
 
 ミサトは、睨み付けるように、その映像を見つめていた。
 
 あんなもの、人間が作り出したものである筈が無い。
 
 
 
 「槍は、今、どうなっているの?」
 
 リツコの言葉に、シゲルはキーボードの上に指を走らせる。
 
 サブモニタに、宇宙空間を、ゆっくりと回転しながら浮いている二叉の槍が映し出された。
 
 「第一宇宙速度を突破。現在、月軌道に移行しています」
 
 「……回収は、不可能に近いわね」
 
 「はい。あの質量を持ち帰る手段は、現在のところありません」
 
 
 
 「……いいのか、碇」
 
 冬月は、呟くように、傍らに腰掛ける男に言う。
 
 ゲンドウは答えない。
 
 ただ、じっと……モニタに映るロンギヌスの槍を見つめている。
 
 
 
 そうして、静かに、口を開く。
 
 
 
 「……早いか遅いかの、違いに過ぎん」
 
 
 
 地上。
 
 霧散した雨雲は、不用意に空いた席を我先にと埋めるかのように、再び元の絨毯へと変わっていた。
 
 零号機の体にも、大粒の雨が降り注いでいる。
 
 
 
 零号機はただ、じっと空を見つめていた。