第百六話 「飛沫」
五百十三



 真っ暗な部屋の中に、4つの光の玉が見える。
 
 
 
 それがテーブルの下から漏れる光であることに気付くためには、幾許かの時間をおいてこの闇に目を慣らさなければいけなかった。
 
 テーブルから漏れる点々としたその光の、一つ一つに、座る人影が見て取れる。
 
 
 
 鷲鼻の男が、溜め息をつくように、深く……静かに、その身を椅子に沈める。
 
 表情にさほど変化はないが、苛立ちのような感情がその瞳の奥から見え隠れしていた。
 
 この場に居合わせる面々が、このような感情を表に出すのは珍しい。
 
 
 
 「……熊谷ユウ。この男を、どうする」
 
 
 
 数秒の沈黙を経て、男の口から零れたのは、そんな言葉だった。
 
 
 
 「問題だな」
 
 別の、男……黒人の男が、顔の前で両手を組みながら、呼応する。
 
 「そうだ……碇シンジを、独断で殺害しようとした。捨て置けんな」
 
 ロシア系の彫りの深い顔をしかめて、もう一人の大柄な男が呟く。
 
 
 
 「もはや、望むと望まざるとに関わらず……碇シンジを除いて、補完計画の遂行は遂げられん」
 
 「そう……別の因子があればまた別だが、現時点では彼奴以外の適任はいない」
 
 「望むと望まざるとに関わらず……」
 
 「我々は、人類補完計画さえ成されればよい。経過や因子は問うまい」
 
 「だが、問題もある。碇シンジは、計画の遂行を阻害するかも知れん……いまはまだ、分からんが」
 
 「碇シンジのことは、ひとまず置こう。計画に必要な因子だとしても、妨害を企てるようならそれなりの手だてを考える必要もある。だが、今はまだ、明確にそうと決まったわけではない」
 
 「よかろう……だが、いずれにしても、熊谷ユウだ」
 
 「所在は分かったのか」
 
 「霧に消えたか……。自害でもしていれば話は早いが、どこかに隠れて機会でも窺っているようならば問題だな」
 
 「今も、探させている。完全に気配を消すのは、簡単ではない。数日くらいならばともかく、そのうち居所も知れよう」
 
 「まずは、それからだ」
 
 「そうだな、それからだ」
 
 
 
 「もう一人、捨て置けんのは、加持リョウジだ」
 
 
 
 今まで言葉を発しなかった、四人目の男……いや、序列で言えば、一番目の男か。最も上座に座る、バイザーをかけた男が、呟くように、言った。
 
 残りの三人も、その言葉に呼応するように、頷いた。
 
 
 
 「……左様、捨て置けん」
 
 「我々の計画に、明確に叛意を示した。放っておくわけにはいかんな」
 
 「元は、碇ゲンドウに付けた鈴だった。鳴らぬ鈴に意味など無い」
 
 
 
 「……舞台をおりてもらうしかあるまい」
 
 最後に呟いたバイザーの男の言葉に、異を唱えるものは居らず……空間を静寂が支配した。



五百十四



 シンジは、地底湖のほとりまで来ていた。
 
 
 
 加持が冬月と会話した、あのベンチのあたりではなく……もっと、湖のすぐそばだ。
 
 シンジは松葉杖をついて立ったまま、さざめく湖面を見つめている。
 
 
 
 その一区画は、地面に石を敷き詰められており、そのままスロープになって湖面の下に消えている。
 
 十メートルほど先の水面にブイが浮いて、その間に細い紐が張ってある。
 
 おそらく、あのあたりまでこの石畳は続いており、遠浅になっているのだろう。言うなれば、そこまでは溺れる心配の少ない自由遊泳区画……ということなのかも知れない。
 
 
 
 もっとも、こんなところで水遊びに興じるカップルなど居ない。
 
 当初は、NERV職員の福利厚生施設だったのかも知れないが(それにしては随分と貧乏臭いが)、いずれにしても、利用者がいないという状況に変わりはなかった。
 
 
 
 ……今日に至るまで、この場所でも、幾度も戦禍が繰り広げられた。
 
 その結果として、石畳はガタガタと割れたり外れたりしている様子が散見される。
 
 あるいは、職員がここを使わなくなったのは、こうして施設として利用できなくなってからであり、最初の使徒が出現するより以前は、それなりに賑わっていたのかも知れない。
 
 ……まぁ、どうでもいいことだ。
 
 
 
 さざめく湖面を見つめながらシンジが考えていたのは、変わらず、使徒戦についてのことだった。
 
 
 
 ……散々悩んだ結果、やはり、ロンギヌスの槍を使う以外に方法は無いという結論に、シンジは達していた。
 
 悔しいが、仕方がない。
 
 アルミサエルは、また、その時に何とかするしかない。
 
 
 
 ……少なくとも、まずアラエルを倒さなければ、それで人類は滅亡だ。
 
 確かに、その次のアルミサエルをどうやって倒すか、それはとても大事だ。しかし使徒戦に関する限り、常に最初にやってくる使徒との戦いが最優先なのである。
 
 
 
 ロンギヌスの槍を、使う。
 
 それ以外の方法が無い以上、他の選択肢はない。
 
 しかし……その結論に達してなお、障害はある。
 
 
 
 ロンギヌスの槍を、どうやってセントラルドグマから回収してくるか?
 
 ……一番大きな問題は、これだ。
 
 当たり前の話だが、使徒が現れるまで、初号機を動かすことは出来ない。自力では初号機を起動できないからだ。
 
 シンジの手には、加持が渡してくれた、あの「MAGIの制御を一時的に遮断する」小さな匣がある。しかし、例えシンジが一人でエレベーターを降り、リリスの前に立っても、小さな人間に過ぎないシンジにはどうすることも出来ない。
 
 初号機に乗って、セントラルドグマに向かわなくてはならないのだ。
 
 
 
 どうしたって、初号機を起動してセントラルドグマを降り、ロンギヌスの槍を回収して再び地上に戻るのに、最速でも数分から数十分はかかる。
 
 しかし昨晩も考えたことだが、使徒はそんなに悠長に、初号機が戻ってくるのを待っていてくれるとは思えない。
 
 ……確かに前回は、弐号機が出撃するまで、使徒は攻撃してこなかった。
 
 だがそれは、「誰かが出てくるまで攻撃してこない」ということとイコールとは、全く限らない。
 
 もしもあのまま、誰も出撃しなかったら、そのまま本部の中にいる誰かが精神攻撃を受けていた可能性は、充分にある。
 
 
 
 攻撃の対象を、使徒に無作為に選ばせるわけにはいかない。そうなると、もはや誰をどのように守っていいのか分からなくなってしまう。
 
 ……つまり、誰かが出撃することで、使徒の精神攻撃の矛先をそちらに向ける必要があるのだ。
 
 誰かがエヴァで出撃して、犠牲にならなければいけない。
 
 
 
 「……あれっ、シンジ君。一人かい?」
 
 
 
 急に人の声がして、シンジは思わず振り返った。
 
 そこに立っていたのは、青葉シゲルだった。
 
 
 
五百十五



 「青葉さん」
 
 シンジが松葉杖でそちらに向かおうとする姿に、シゲルは慌てて片手を挙げた。
 
 「ああ、いい、いい。そのままで」
 
 言いながら駆け寄ってくると、シゲルはシンジの横に立つ。
 
 シンジはシゲルの顔を見上げてから、視線を湖面に戻した。
 
 
 
 「……どうしたんだい、シンジ君? ベッドで安静にしてなきゃいけないんじゃないか」
 
 シゲルは、特に責めるふうでもなく、軽い口調で問いかけた。
 
 シンジは、視線を前に向けたまま、少しだけ肩を竦める。
 
 「……何だか、じっとしていると、体が錆びついちゃうような気がして」
 
 「まぁ……白い天井ばっかりじゃ、気分も暗くなるよな」
 
 シゲルは頷く。
 
 
 
 「足は大丈夫かい?」
 
 シゲルは言いながら、しゃがむように腰を下ろした。
 
 尻を地面につけるわけではなく、敢えて表現するならば「ヤンキー座り」という体だが、シゲルだと妙に違和感が無いのがおかしい。
 
 シゲルは尻のポケットから潰れたタバコのソフトボックスを取り出し、真ん中あたりが緩く折れたタバコを一本、取り出して口にくわえる。
 
 ライターで火を点けると、白い煙が風にたなびいて消えた。
 
 
 
 「……まぁ……弾が貫通しているので、良くはないです」
 
 シンジは、苦笑まじりに、そう呟いた。
 
 シゲルも、同じような表情で笑う。
 
 「そりゃ、そうだ。だから、安静にしてなきゃいけないんだろ」
 
 「ですよね……」
 
 「こんなところまで、どうしたんだ? 考え事かい?」
 
 「……まぁ、そんなところです」
 
 次の使徒戦のことを考えていたとは、言えない。
 
 
 
 「……シンジ君は、ちょっと、頑張り過ぎかもしれないな」
 
 シゲルは、ぽつり……と、呟いた。
 
 
 
 「……え?」
 
 一瞬、聞き流しかけた。
 
 シンジは、慌てたように視線をシゲルに向ける。
 
 シゲルは黙って、シンジの顔を見つめる。
 
 「……そんな、こと、ないですよ」
 
 数瞬の隙間を置いて、シンジは追いかけるように否定したが、シゲルは小さく首を横に振った。
 
 
 
 「うん……いや」
 
 「………」
 
 「……シンジ君は、自分で気が付いてないのかも知れないけど、やっぱり頑張り過ぎだと思う」
 
 「………青葉さん?」
 
 シゲルは、静かに煙を吐く。
 
 「……知ってる? ここって、昔は、泳げたんだよ」
 
 「え? ……あ、ああ……そう、やっぱり。そうかな、って思ってました」
 
 突然の話題の転換に戸惑いながら、シンジは答える。
 
 
 
 「……今は、もう、使われてない。それどころじゃないし、危ないしね」
 
 「……はい」
 
 「……戦いは、色んなものを変えていく。物も、人も、環境も」
 
 「……えぇと」
 
 「……上手く言えないけど、シンジ君も、そう思うだろ?」
 
 「はい……まぁ」
 
 「誰だってそうさ。変わっていくのはシンジ君だけじゃないし、戦っているのもシンジ君だけじゃない。俺もそうだし、伊吹や日向もそうだよ」
 
 「ええ」
 
 「君たちのように、最前線に立ってるわけじゃないけど」
 
 「それは……いえ、そんなことは思ってません。僕らはエヴァの中にいるから、何だかんだ言っても、安全なんですよ。みなさんの方が危険だし、命を賭けてる」
 
 「生きるか死ぬかって意味ではそうかも知れない。けど、それはつまり、俺達の命まで、シンジ君たちが背負ってるってことさ。そうだろ?」
 
 「それは……」
 
 「シンジ君たちが安全だと言うなら、逆にますます背負うものは重い。だって、自分は安全なのに、他人の生死は自分に掛かってるわけだから」
 
 「………」
 
 「……背負い込むなよ」
 
 「………」
 
 「シンジ君を見てると、時々怖くなる。何を見てる? 何を焦ってる。俺とシンジ君じゃ比べ物にならないかも知れないけど、それでも、シンジ君が背負ってるものは、決して一人で抱えられるものじゃないんだ」
 
 「……青葉さん」
 
 「……まぁ……口では何とでも言えるよな。分かってる……そんなこと言っても、結局、しょわせてるんだもんな。シンジ君に」
 
 「いえ……そんな」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……また……ここで、泳げたらいいな……」
 
 「……そうですね……青葉さんは、前に、ここで?」
 
 「ああ。何度か……な」
 
 「そうですか……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……知ってるか?」
 
 「……はい」
 
 「……伊吹って、結構スタイルいいぞ」
 
 「……は?」
 
 
 
 目を点にして固まるシンジを見ながら、シゲルは、ニヤッと笑って見せた。
 
 「言ったろ? ここ、昔は泳げたんだよな」
 
 「……は……はぁ」
 
 「それで、本部配属になってワリとすぐの頃かな。初めて見る顔も多かったし、親睦を兼ねてみんなでここで泳いだんだよ」
 
 「……へぇ〜」
 
 「で、日向や伊吹もいたわけだけど……ホラ、彼女、着痩せするって言うのかな。制服姿だと、まぁ、普通のプロポーションだろ? な?」
 
 「い、いや、同意を求められても困りますけど」
 
 「それがまぁ、水着姿になると、違うんだよなぁ〜、これが。ダイナマイトっていうわけじゃなくて、どっちかと言うとスレンダー系なんだけど、出るとこ出てるというか、絞まるとこ絞まってるというか、ギャップって言うのか? 制服姿とは違う魅力でさ」
 
 「は、はぁ」
 
 「葛城さんや赤木博士もいて、ホラ、あの人たちはもっと、ダイナマイト! って感じだろ? 男職員どもの視線はあの人たちに集まっちゃってたんだけど、伊吹の場合はジャンルが違うって言うか、また別の魅力があるワケ」
 
 「へ……へぇ……」
 
 「それに、葛城さんたちは、なんかこう……注目を集めるのに慣れてるんだよ。堂々としててさ。赤木博士はけっこう際どいビキニだったし、葛城さんは、なんかワンピースなんだけど背中がガバッと開いててなかなか扇情的なのさ。で、みんなに見られるわけだけど全然、平気。……だけど、伊吹は違うんだよ。正直、そんなに注目されてるってわけでもないのに、妙に恥ずかしがってさ。タオルとかで隠しちゃったりして。でも、そこがいいんだよなぁ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……何の話だっけ?」
 
 「……さぁ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……平和な時代だったってことか」
 
 「……うまくまとめましたね」
 
 
 
 ……さざ波が、静かに、そよぐ。
 
 
 
 もう一度、ここで、みんなで泳ぐ日が来るだろうか?
 
 シゲルの言うように……マヤや、ミサトや、リツコが水飛沫をあげる日が来るだろうか。
 
 
 
 足が、微かに疼く。
 
 心臓の鼓動にあわせて、鈍い痛みは熱を持つ。
 
 生きている、証として。
 
 
 
 誰の灯も消してはいけない。
 
 全てが終わったときに、一人も欠けることなく……ここで、またみんなで泳ぎたい。
 
 そのために……。
 
 
 
 ……シンジは、小さく、拳を、握り締めた。



五百十六
 
 
 
 病室に戻ると、空っぽのベッドに二人の少女腰掛けていた。
 
 誰もいないと思っていたシンジは、びっくりして固まってしまう。
 
 「……や、やぁ、二人とも。来て……たんだ」
 
 「来ちゃ、悪い?」
 
 組んだ脚をぶらぶらさせながら、膝に頬杖を突いたアスカは、そう応える。
 
 「い、いや、そんなこと言ってないよ」
 
 シンジは慌てて、かぶりを振った。
 
 
 
 「どこ行ってたの?」
 
 「え? ……ああ、あの、地底湖の方にね」
 
 アスカの言葉にシンジは応える。
 
 「……ったく、どっか行くなら行くで、断って行きなさいよ……」
 
 「え?」
 
 「いいでしょ、っさいわね。……大体、安静にしてなきゃいけないんじゃないの? ホントに……」
  
 
 
 なおもぶつぶつと呟くアスカに、シンジは、ばつが悪そうに頭を掻く。
 
 「いや……あの、まぁ……その……えぇ……ご、ごめん」
 
 アスカは、フン! と、鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
 
 
 
 銃で撃たれて、安静にするように命ぜられた……と言っても、アスカの言うような絶対安静、というわけでは決して無い。
 
 松葉杖が用意されているのが、そのいい証拠だ。松葉杖をついて行ける範囲には、気分転換に歩き回っても問題にはされない。
 
 アスカが怒っているのはむしろ、「黙っていなくなってしまったこと」に対して、であろう。心配の裏返しである。
 
 
 
 レイは、ベッドを降りるとシンジの側まで駆け寄ってきた。
 
 「碇君……怪我、大丈夫?」
 
 心配そうな表情で、シンジの胸に手をあてる。シンジは、苦笑気味に微笑んで応える。
 
 「大丈夫だよ。片脚、使えないだけ。松葉杖があれば、平気だから」
 
 「そう? ……無理しないで」
 
 「うん……大丈夫」
 
 シンジは優しく微笑む。
 
 
 
 アスカはベッドから軽やかに降りると、その布団の上を手の平でぱんぱん、と叩いて見せた。
 
 「ホラ! いちゃつくのはいいけどね、アンタ、何時間、松葉杖で移動してたのよ? ベッドに横になったほうがいいんじゃないの?」
 
 アスカの言葉に、シンジは苦笑する。
 
 「ありがとう……でも、平気だけど」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……そうします」
 
 
 
 松葉杖をベッドの脇に立て掛けると、シンジはベッドに手をついて、体重を預けるようにその上に移動した。
 
 横でアスカが、手伝おうかと身構えていたが、この程度のことに困ることはない。
 
 シンジは改めてベッドの上に横になると、毛布をかぶった。
 
 
 
 「なんか、元気そうね」
 
 アスカが、溜め息混じりにそう言う。
 
 シンジも、苦笑いで返した。
 
 「そうだね……はっきり言って、ちょっといらいらするよ。安静にしてなきゃ治らないって分かってるんだけどさ」
 
 「ま、骨休めだと思えばいいんじゃないの。うろうろして体力使うなんて、効率悪いわよ」
 
 「……そうだね、でも、まぁ……寝っぱなしだと筋力落ちるしね」
 
 「まぁねぇ……」
 
 アスカも、そう言うと腕を組み直した。
 
 
 
 「トウジは?」
 
 シンジの問いに、アスカは、首を傾げる。
 
 「ん……そう言えば、今日は会ってないわね」
 
 「……朝、部屋の前で会ったわ」
 
 レイの言葉に、二人は彼女に視線を向ける。
 
 レイは、そのまま言葉を続けた。
 
 「今日は、赤木博士に呼ばれて、朝からシンクロテストだって、言ってたわ」
 
 
 
 「……大変だな、トウジも」
 
 シンジは、そう、呟く。
 
 トウジは、他のみんなよりスタートラインに立つのが随分と遅かった。それが大きなハンデになっているのは、自明のことだ。
 
 せめてエヴァを起動するレベルまで持っていかないと、出撃してもサンドバッグにしかならない。
 
 それではいくらなんでも、意味がないだろう。
 
 
 
 これから暫く、毎日テストや訓練が続くのだろう。
 
 もちろん学校にも行くだろうし、他にも色々時間はあるだろうが、それでもハードスケジュールに変わりはない。
 
 しかし……アスカやレイは、起動試験にパスするまでの期間は、同じようなハードスケジュールで訓練を受けていたに違いなかった。
 
 起動するまでは、チルドレンとしては即戦力とは言えない。その段階に達するまでの間、頑張らなければいけないのは、仕方がないことだ。



五百十七



 トウジは、肩で息をしながら、緑色の畳の上でごろりと横になった。
 
 ミサトはその横に立って、タオルで汗を拭いながら、ミネラルウォーターのペットボトルをあおっている。
 
 スパッツにTシャツ姿のミサトは健康的な色気があり……それを下から見上げている今の状態は、昔のトウジなら鼻の下を伸ばすところだが、今はそれどころではない。
 
 最大限に酸素を肺に取り込むために、口を大きく開けて、荒い息とともにバクバクと胸板を上下させる。
 
 
 
 シンクロテストが終わって、小休憩を挟んだ後に、そのまま格闘訓練になった。
 
 今日は、トウジにとって最初の格闘訓練だ。
 
 シンジの時もそうだったが、訓練の相手はミサトだった。トウジとしては、相手が女性だということで戸惑いを隠せなかったのは事実だ。
 
 「本気を出してもいいのだろうか」……と、思ってしまうのは、ミサトの実力を知らない身としては仕方がないだろう。
 
 かくして、気合いの入っていない中途半端なパンチを繰り出した次の瞬間、トウジは上下逆になって数メートル先の床に叩きつけられていた。
 
 
 
 「トウジくん、どう? 疲れた?」
 
 寝転がるトウジの上に身を乗り出して、ミサトは微笑みながらミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
 
 トウジは手を伸ばしてそのペットボトルを受け取ったが、ぜぇぜぇと息をするばかりで、頷くのが精一杯だ。
 
 「……ちょっと、最初からトバしすぎたかな? ……まぁ、シンちゃんも、最初に手合わせしたときには、ろくに私に触ることも出来なかったから、同じ同じ」
 
 
 
 そう言われても、やはり情けなさが先に立つ。
 
 トウジはゆっくりと上半身を起こすと、なおも肩で息をしながら畳の上に胡座をかき、ペットボトルのキャップを開けて、一気に煽る。
 
 ……ミサトの言葉を信じるならば、シンジも同じように、格闘訓練を始めたばかりの頃は酷い有り様だったのかも知れない。
 
 だが、シンジは代わりに、一発目でエヴァを起動するという大きなアドバンテージがあった。
 
 秀でるところがあれば他が劣っていても構わないというわけでは決して無いが、それでも、「この分野ならば負けない」という部分があれば、随分と違うだろう。
 
 喧嘩に自信があったわけでは毛頭無いが、それでも、どう頑張ればいいのか良く分からないシンクロテストなどよりは希望を持っていたのだ。だが、結果はミサトに完敗。
 
 この先、訓練を積み重ねていけば、本当に強くなれるのだろうか?
 
 確証が持てない。
 
 
 
 リツコは自室でキーボードを叩いている。
 
 メールを打っているようだが、文面は日本語ではない。
 
 途切れなくキーをタッチしてから、さっと2、3度読み返して、送信ボタンをクリックする。
 
 
 
 傍らのコーヒーカップを取ってずずっとすすると、逆の手でデスクの受話器を上げた。
 
 「もしもし? 赤木です。そのあたりに、マヤいるかしら?」
 
 電話をかけた先は管制塔のようだ。保留音に変わり、数秒の間を置いて、再び喧騒が聞こえてきた。
 
 
 
 『はい、お電話代わりました、伊吹です』
 
 「ああ、マヤ?」
 
 『どうかしましたか?』
 
 「いま、ドイツ支部と話がついたわ。トウジ君の機体、来週半ばに届くわよ」
 
 『あっ……早まりましたね、一カ月だって言ってたのに』
 
 「そうね。ただ、最終換装はまだ。作業はこっちでやることにしたわ。
 
 ドイツに任せてると、いつまで経っても終わらないから。……零号機と初号機造ったのは日本ですからね。そのあと、建造部は欧州に移設しちゃったから、今こっちでゼロから造るのは無理だけど、最終換装くらい、ウチに任せてくれればドイツの半分の期間で終わらせられるわ」
 
 『……そうですね。そうか……じゃぁ、でも、届いてすぐ使えるってわけじゃないですね』
 
 「それでも3日で終わるわ」
 
 『そんなに早く? 可能ですか?』
 
 「可能よ」
 
 『そ、そうですね。じゃあ、準備しておかなくちゃ……』
 
 「そう。届くのは六号機ってことになるけど、六号機の初期データを送るから、早急に解析、検討して頂戴。MAGIにデータを組み込んでおいて、それからトウジ君のシンクロテストのプラグデータを六号機のと切替えて。訓練は先行して、最小限のロスタイムで起動に持っていくわよ」
 
 『鈴原君、シンクロテスト、うまくいくといいですね』
 
 「そうね。どっちにしろ、今はまだデフォルトデータでシンクロを試みてるから、そうじゃなくてもシンクロはしにくいはずよ。これで六号機のデータに切り替えたら、一気にシンクロ率が上がる可能性もあるわ」
 
 『そうですね。そうなればいいけど……』
 
 「いつまでもテストだけに時間を費やしてるわけにはいかないわ。戦いに参加してもらわないとね」
 
 『………』
 
 「なに?」
 
 『……いえ。ただ……』
 
 「青臭い正義感は横に置いておきなさい。今は、一人でも戦える人数が多いことが大事」
 
 『分かってます』
 
 「とにかく、作業宜しく。これからデータ送って、私もそっちに行くわ」
 
 『はい、お待ちしてます』
 
 
 
 受話器を置いて、リツコはずっと右手に持っていたコーヒーカップをもう一度口に運んだ。
 
 砂糖の入っていない、苦いコーヒーを喉に流し込む。
 
 キーボードを叩き、ファイルを送信すると、マシンを終了させてリツコは立ち上がった。
 
 
 
 送られてきたファイルを解凍しながら、マヤはじっと考えていた。
 
 また一人、わずか14歳の子供を、戦いの最前線に送り込む。
 
 代わってやることなど出来ないのは、確かに事実だ。エヴァとのシンクロが成功するか否かにはパイロットの適正が大きなウェイトを占め、そう簡単に役割を入れ替えることは出来ない。
 
 それに、彼らが戦わなければ、人類は滅亡してしまうのだ。
 
 例え彼らが出撃せずに平和な布団の中にいても、人類が滅亡すれば同じである。そう言う意味では、結局、生命の危険に代わりなど無いのかも知れない。
 
 (……違う、違う違う。そうじゃないわ……)
 
 マヤは目を瞑る。
 
 違う。
 
 どんなに理屈をこねたって、戦場に送り込む行為自体が正当化されるわけではないのだ。
 
 
 
 ……いま、できること。
 
 それは、エヴァを完全な状態にし、戦闘時に完璧なバックアップ体制を敷いて彼らをフォローする。
 
 それによって、結果的に、彼らの命を守るのだ。
 
 <14歳の子供を、戦場に送りたくない>
 
 ……リツコは、それを「青臭い正義感」と言った。
 
 自分にも分かっている。
 
 ここで、ヒューマニズムに振り回されたような意見を出すのは、無意味な行為だ。
 
 自分の自尊心を満たすだけ。
 
 「私は、決してあなたたちを戦場に送りたいわけじゃない」
 
 と、アピールしたいだけ。
 
 「でも、仕方がないでしょ?」
 
 そう言って、免罪符を手に入れたいだけなのだ。
 
 
 
 だけど、心の中で思うのは、決して間違いではない。
 
 心の中、だけでも……
 
 ……決して、忘れずに。
 
 
 
 いつも、心の片隅に、忘れずに、覚えておかなければいけない。



五百十八



 陽が沈む。
 
 
 病室の中は、夕暮の朱色から、すでに暗い闇に移りつつあったが、シンジは電気をつけずに、外の林が黒いシルエットにぼやけていくさまを眺めている。
 
 シンジは、じっと考えていた。
 
 
 
 昼間……シンジは、セントラルドグマに行くための時間稼ぎに頭を悩ませていた。
 
 使徒が出現してからでなければ、初号機を起動できない。
 
 それからロンギヌスの槍を回収に行って、戻ってくるまでの間、どうにかして時間稼ぎをしなければいけない、と……。
 
 
 
 だが……
 
 本当に、そうだろうか?
 
 考えてみれば……別に、事前に勝手に動かしても構わないんじゃないか?
 
 
 
 弐号機がドイツからやって来たときを思い出していただきたい。
 
 航海中に艦隊が使徒に襲われたあの時、アスカとシンジは、勝手に弐号機に乗り込んで勝手に起動させた。
 
 それが出来たのは、幾つか要因がある。
 
 まず、弐号機が横になっていて、簡単にプラグのところまで行けたからだ。自力で頚椎のところまで行ければ、外側にあるコックを捻ることでプラグの排出が可能だ。
 
 他にも幸運が重なった。本来は誤起動を避けるためにエントリープラグの代わりに停止信号プラグが挿入されているはずなのだが、なぜか普通にエントリープラグが挿入されており、中はL.C.L.で満たされていた。
 
 基礎充電が済んでいたのも大きい。
 
 まるで、使徒の襲撃を予測していたようにも見える。
 
 
 
 ともかく、あの時チルドレンだけでエヴァを起動することが出来たのは、弐号機がいつでも起動できる状態になっていたから、である。
 
 ……初号機も、条件は変わらない。初号機側で起動準備が整っていれば、あとはオペレータなどがいなくても起動できるのだ。
 
 
 
 「基礎充電は……たぶん、あんまり心配する必要はないな」
 
 ケイジに格納されている状態でも、エヴァは常に基礎充電済みだ。
 
 いちいち起動時に充電していたら埒が明かないからで、これは当然だろう。
 
 
 
 問題となるのは、停止信号プラグとL.C.L.だ。
 
 
 
 はっきり言って、自力で停止信号プラグを抜くなど、不可能だ。
 
 もちろん、L.C.L.の注水もそう。管制塔で、実際の指示を出すか、あるいはコントロールができる人物に、事前に頼んでおく必要があるだろう。
 
 
 
 (と、言ってもなぁ……)
 
 
 
 オペレータであるマヤ、シゲル、マコトの3人ならば、この作業は可能だ。だが、彼らにこんなことを頼むわけにはいかない。
 
 彼らが信頼できないとか、そう言う意味ではなく……密かに準備を整えておいてもらうとなると、それはつまりミサトやリツコに内緒で作業をするということになる。
 
 職務上、彼らにとって、それは犯罪だ。ばれると何らかの処分が下される可能性も高い。
 
 そんな迷惑をかけるわけには、ちょっといかないだろう。
 
 
 
 とすると、残るは首脳陣だが、リツコに頼むのは危険だ。
 
 「ロンギヌスの槍を取りに行く」などと言えるわけもないが、何らかの理由は必要だ。しかし、何を言うにしても嘘をつくことになるわけで、それを最後まで、リツコ相手に騙し通すことができるのかどうか、はっきり言って自信がない。
 
 ゲンドウや冬月は論外。
 
 と、なると、ミサトということになるのだが……。
 
 ミサトに頼んで、かつ、リツコに知られないというのは難しい。
 
 また、ミサトに機器の操作ができるわけではないから、ミサトからオペレータの誰かに命令を下してもらうことになるだろう。それをリツコに知られないように、というのも大変だ。
 
 
 
 もちろん、最後までリツコに秘密にしておかないといけない、というわけではない。
 
 ミサトに初号機の起動準備をしてもらう時に、その場にリツコがいなければいいのだ。
 
 あとは、出撃までリツコと顔を合わせなければいい。ミサトがシンジの説明で納得してくれれば、ミサトがリツコに、適当な説明をしてくれるはず。
 
 その場でリツコに「詳しく説明しろ」と面と向かって言われる機会さえなければ、あとは何とかなる。
 
 
 
 ロンギヌスの槍を回収に行く。
 
 その行動も、きちんと理由を考えておかないと、後から厳しく追及されるのは明白だ。
 
 シンジが何故、ロンギヌスの槍の存在を知っているのか……それは、以前、加持から磔にされたアダムを見せられているから、何とか説明できる。
 
 あの場には、ミサトもいた。だから、シンジが槍の存在を知っていてもおかしくないことを、彼女が証言してくれるだろう。
 
 ……では、何故、その槍を使徒の戦いに使おうと考えたのか?
 
 それを何とかして説明できなければ、つらい。
 
 今までも、使徒との戦いはあった。
 
 にも関わらず、今まで、シンジはロンギヌスの槍を使おうとしたことはない。
 
 今回に限って、しかも事前に回収に赴くというのだから、理路整然とした根拠がないと怪しいことこの上ないだろう。
 
 
 
 一番妥当な線は、「ロンギヌスの槍以外では倒せないと考えた」から、というものだ。
 
 敵は、軌道上に現れる。
 
 通常兵器では届かない距離であることは、事前に把握できるはずだ。
 
 ロンギヌスの槍を投擲する以外に、使徒を殲滅する方法はない……そうシンジは考え、いち早く槍を回収に行った、とする理論だ。
 
 これは、実情からみてもそう外れた意見ではないので、説得力がある。
 
 
 
 この方向で理論を進めていくと、気を付けなければいけない点がある。
 
 「なぜ独断専行で動く必要があるのか?」
 
 
 
 独断専行で動かなければいけない理由は、言えば止められるか怪しまれるか、するからである。
 
 ミサトは理解してくれるだろう。使徒が軌道上に現れて、それを倒すためにあの槍を回収に行くのだと言えば、分かったと言ってくれるかも知れない。
 
 だが、それをリツコやゲンドウ、冬月に知られれば、確実に怪しまれるし、止められるのではないか。
 
 彼らにとっては、シンジは、槍の存在を知らないはずだというのがひとつ。だがそれは、先ほど述べたように、ミサトの口添えがあれば何とかなる。
 
 もうひとつは、彼らにとって、ロンギヌスの槍はただの槍ではないということだ。
 
 ほいほいと、シンジの思い付きで槍を放り出されて、回収不能な地点まで飛ばされてしまうわけにはいかないはずだ。
 
 
 
 ……いや、待て。
 
 前回……レイがロンギヌスの槍を使ったのは、当然、レイの独断専行ではないだろう。
 
 まず間違いなく、ゲンドウがそれを命じたからに相違ない。
 
 と……言うことは、シンジが槍を投げることになっても、ゲンドウや冬月は特に困らないということか?
 
 
 
 「……うぅ」
 
 頭のてっぺんから湯気が立上っているような気がして、シンジは両手で頭を抱え込んだ。
 
 考えることが多すぎる。
 
 確実に正解に近付いている気はするのだが、整理されている気がしない。
 
 筋道ははっきりしてきているのだが、それを解決するための方策が、スポッと正解に嵌っている気がしない。
 
 
 
 シンジは体を起こすと、傍らの松葉杖を取って床に脚を下ろした。
 
 そのまま覚束ない足取りで窓のそばまで歩いて行く。
 
 
 
 窓を開けると、昼間の熱気を僅かに孕んだ、優しく涼しい風が、シンジの前髪をなでた。
 
 外は既に闇に包まれていて、森の中を点々と続く僅かな街灯の明かりが微かに木々の間から見えていた。
 
 シンジは、窓枠に体を預ける。
 
 そうして、しばし、風そよぐ夜の世界を眺めている。
 
 
 
 ゆっくりと、熱を持った脳が、冷えていくのを感じる……。
 
 
 
 「……加持さんに、助けてもらうしか、無いのかな……」
 
 シンジは、小さな声で、呟いた。



五百十九



 四畳半の畳の上には、脱ぎ散らかした衣服が散乱していた。
 
 部屋の真ん中に、盛り上がった布団が敷いてあり、ゆっくりと上下している。
 
 誰かが眠っているようだ。
 
 部屋はどちらかというと古めかしい造りで、まるで苦学生の一人暮らしといった様相である。
 
 
 
 その、窓の外に、一人の黒ずくめの人影が貼り付いていた。
 
 闇に溶け込むようにして、物音も立てずに貼り付いているその男は、窓のさんに開いている小さな穴に、髪の毛ほどの細い針金を挿し込んでいる。
 
 ……警報装置を解除しているのだ。
 
 こんな、セキュリティも何もないような家に、警報装置がついていることも異様だが、それに気付いて解除を試みているこの男も、相当の手練と言えよう。
 
 
 
 暫くして、男は補聴器の様なものを窓と壁にあて、それから素早く窓を開けた。
 
 滑り込むように、部屋の中に入り込む。
 
 音もなく……という表現が、まさにぴったりとくる。人間の気配を感じさせない。まして、室内は外以上に闇に覆い尽くされており、その輪郭は完全に消えてしまった。
 
 男がかけた暗視レンズには、部屋の中央で、何も気付かずに眠っている男の布団が見えている。
 
 補聴器のパワーを増強すると、確かに寝息が聞こえる。
 
 サーモスタットには熱源反応もある。
 
 怪しい機械音も聞き取れない。
 
 
 
 男は懐から小さな銃を取り出すと、その銃口に、不釣り合いに大きな消音装置を取り付けて、それを構える。
 
 狙いは、中央の布団に。
 
 そして、ゆっくりと、引鉄を引く。
 
 
 
 激しい爆音とともに吹き飛んだ建物を眺めながら、加持は僅かに口許を歪めた。
 
 思った通り……この、三間離れたビルからなら、全てが見渡せる。
 
 数秒前まで、加持の隠れ家のひとつだった部屋は、今は大きな炎と煙に包まれている。
 
 
 
 加持は双眼鏡をしまうと、ビルから出て、陰に止めてあった車に乗り込んだ。
 
 エンジンをかけて、ゆっくりと走り出す。
 
 少しずつ、消防車にサイレンが遠ざかっていく。
 
 
 
 「……俺も、NERVに住むしかないかなぁ」
 
 加持は、楽しそうな表情でハンドルを握りながら、そう、呟いた。
 
 NERVが、加持のために部屋を用意してくれるのか?
 
 目下、一番の課題は、そこだった。