第百五話 「互々」
五百四



 アスカたち三人が教室に入ると、教室は一瞬静まり返り……次の瞬間、ワッと生徒達(主に女生徒)が駆け集まってきた。
 
 もちろん、お目当ては、新チルドレンのトウジである。
 
 面食らって固まるトウジの周りに、ヤジ馬根性丸出しの人だかりができ、口々に質問を投げ掛けた。
 
 
 
 「ロボットのパイロットになったって本当!?」
 
 「どうやってなったの!? スカウト!?」
 
 「どうしてアスカと一緒に来たの!?」
 
 「碇君は!? どうして来ないの!?」
 
 
 
 「ちょっ……え、ま……まっ……」
 
 
 
 人の山にまみれてオタオタするトウジを放置して、アスカとケンスケはその人込みから抜け出す。
 
 そうしてアスカは自分の机までやって来ると、鞄を置いて、くるりと後ろを振り返った。
 
 
 
 大半のクラスメイトが入口付近に集中し、人の姿もまばらな教室で、自分の席に座ってその人の山をじっと見つめている少女。
 
 ヒカリだ。
 
 
 
 アスカは、手を軽く挙げて、ヒカリの席に歩み寄る。
 
 「おはよう、ヒカリ」
 
 「あっ……おはよう、アスカ」
 
 ヒカリもアスカに気付いて、微笑んで手を振り返す。
 
 アスカは、ヒカリの横の空いている席に腰を下ろし、半目で笑いながら、親指で人だかりを指差した。
 
 
 
 「すんごい人気ね、彼氏」
 
 「……か、彼氏って……その」
 
 「彼氏でしょ」
 
 「………」
 
 「彼氏でしょ」
 
 「………」
 
 「彼氏でしょ」
 
 「……う……ん、その……」
 
 「彼氏でしょ」
 
 「……まぁ……そう……かな、はは」
 
 ヒカリは小さな声でそう応えると、頬を染めて照れ笑いを浮かべる。
 
 
 
 アスカはそんなヒカリの言葉に、ニコッと笑って見せると……声を潜めて、耳元に口を近付けた。
 
 「あのバカ……ちゃんと捕まえておかないと、どっかいっちゃうわよ」
 
 「え? な……なんで?」
 
 「見なさいよ、あのバカ女ども」
 
 アスカが顎で示す先には、きゃあきゃあと集まる女生徒達と、おどおどしながらも質問に律義に答えているトウジの姿が見える。
 
 アスカは、フン、と鼻を鳴らすと、ヒカリの方に向き直った。
 
 「愛しの鈴原君は、一夜にしてスターって訳よ」
 
 「え……あの、で、でも」
 
 「ナニ?」
 
 「……碇君も、一時、凄い人気だったでしょ? でも、今は、落ち着いたし……その、レイさんとも、大丈夫だったし……」
 
 「う〜ん、まぁ、そうだけど……ホラ、レイは……チルドレンだし」
 
 「………」
 
 「それに……シンジの時は、アイツに、なんちゅうの……その、近寄りがたいオーラみたいなものがあったじゃない? その……」
 
 「………」
 
 「うんと……」
 
 「……うん……言いたいことは、分かるよ」
 
 
 
 シンジには、中学生らしからぬ不思議な「オーラ」がある。
 
 一本、筋の通った「軸」……と言えばいいだろうか。
 
 それは、彼と話してみれば、すぐ分かる。だからこそ……最初は興味本位で話しかけることができても、それ以上先には進みづらい。
 
 それは、シンジが取っつきにくいというのとは、違う。
 
 シンジと付き合っていくためには、ミーハーな視線では辛くなってしまう。
 
 釣り合いの悪さを、感じてしまうのである。
 
 
 
 「それに比べると、鈴原はさ……」
 
 アスカはそう言いかけると、ふっと気付いて、ヒカリの前で人差し指を立てた。
 
 「あっと……先に断っておくけど、悪口ってわけじゃないからね」
 
 「うん」
 
 ヒカリは苦笑気味に頷く。
 
 アスカは頭を軽く掻いて、もう一度、人だかりに目を向けた。
 
 「……鈴原はさ……なんか、庶民的……って言うか、なんて言うの? おんなじ土俵にいる気がするのよね、その……あの子たちから見るとさ」
 
 
 
 アスカの言いたいことは、ヒカリにも、よく分かる。
 
 つまり、「手が届きそう」な、気がするのだ。
 
 
 
 「だから、見てなさいよ、アイツ……絶対、今日の帰りには、げた箱にラブレターのひとつも放り込まれてるから」
 
 「う〜ん……」
 
 アスカの言葉に、ヒカリは苦笑する。
 
 「……そんな……エヴァのパイロットになった、っていうだけで……そんなに、違うかな」
 
 「長年、エヴァのパイロットをやってるアタシから言わせて貰うとね……ゼン・ゼン、違うわよ」
 
 「そ、そう?」
 
 「エヴァのパイロットってね、芸能人みたいなモンよ。扱いは有名人なの。鈴原がモテてるワケじゃなくてね、『エヴァのパイロット』っていう肩書きが、モテるの」
 
 しかし、アスカなら、「エヴァのパイロットという肩書き」がなくても、思いきりモテていたはずだ。そのアスカの経験を語られても……と、ヒカリは思わざるを得ない。
 
 第一、アスカに限らず……その経験を語ることのできる三人の少年少女は、揃いも揃って、美少女・美少年なのである。
 
 参考になるわけが無い。
 
 
 
 「う〜ん……やっぱり、俺もパイロットになりたいなぁ……」
 
 女子生徒の山にもみくちゃにされるトウジを眺めながら、ケンスケが、ボソっと呟いた。



五百五



 「……ひどい目に遭うたわ……」
 
 
 
 屋上で、ぐったりと柵によりかかるトウジは、荒い溜め息とともに、そう、呟いた。
 
 
 
 一時限目の授業が始まるまでの間、ずっと質問漬けにされたトウジは、なんとか授業開始とともに解放された。
 
 ようやく一息つく……と思ったがしかし、今度はノートパソコンに、矢継ぎ早にメールで質問が届く。
 
 その内容たるや、もはやエヴァやNERVのこととは一切関係なく、トウジが好きな食べ物とかよく聴く音楽とか、そういう質問に様代わりしていたが、ともかくそういうメールがひっきりなしに届いて授業どころではない。
 
 たまらずトウジは、一時限目の終了と同時に教室を飛びだし、こうして屋上で身を潜めているのである。
 
 
 
 「……バッカね、鈴原。いちいち質問に答えてるから、つけ上がらせんのよ」
 
 アスカが、心底呆れたという表情で、言う。
 
 「ホントだよ。馬鹿正直というか……ま。トウジらしいけどな」
 
 ケンスケが、トウジにデジカメを向けながら、呼応する。
 
 
 
 「そないなこと言うても、無視するわけにもいかんやろ……」
 
 トウジは言いながら顔を上げて、自分に向けられた、ケンスケのカメラのレンズと目が合う。
 
 「……?」
 
 不思議そうな顔のトウジにピントを合わせたまま、ケンスケがシャッターを切る。
 
 カシャッ、と乾いた音が、風に乗って飛んでいった。
 
 
 
 「……なに、撮っとんのや、ケンスケ?」
 
 きょとんとした表情のトウジ。
 


 ケンスケは尚も続けて数枚シャッターを切ると、顔を離して、液晶で仕上がりを確認する。
 
 「いや……一応、な」
 
 「なにが、一応や?」
 
 「今日の感じだと、案外、商品価値がありそうだからな〜」
 
 「………」
 
 「こんなことなら、もっと前からトウジのことも撮影しときゃよかったよ」
 
 「……って、え? 商品価値って……ワシの、写真のか?」
 
 「当たり前だろ」
 
 さらりと言うケンスケに、トウジは、慌てたように腰を半分浮かせた。
 
 
 
 「ちょっ……ま、待てやケンスケ! ワシの写真を売るんかい!」
 
 「そうだよ」
 
 「まっ、ちょ、いや、……ワ、ワシの写真が、そない……売れるわけあらへんやろ!」
 
 「いやぁ、こういうのは市場が全てだからな〜。何とも言えんぞ」
 
 「ア、アホかい! シンジや綾波や惣流やあるまいし……チルドレンやっちゅうだけで……」
 
 「俺だってそう思うよ」
 
 トウジの反論を、ケンスケはピシャリ、と叩き切った。
 
 二の句が継げないトウジに、ケンスケは、不満の色をその表情にありありと浮かべながら、続ける。
 
 「……別に、碇たちの写真が売れるのはさぁ、ホラ……素材自体がいいからさ、分かるわけ。でも、トウジの顔は、まぁ……十人並みだから」
 
 「やかましい。分かっとるわ、そんなこと」
 
 「でも、さっきの、あの人気だぜ?」
 
 「ぐ……」
 
 「ダメもとで、商品化してみる価値はあるだろ? 売り主としては」
 
 言いながら、ケンスケはメガネのフレームを、くいっと上げる。
 
 
 
 「まずは、市場調査の意味も込めて……受注生産のみという形でスタートするかな。ウチのクラスをテスト市場と仮定するとして、そうだな……まずはネットか。サムネイルをアップして、URLを回覧して……注文を受け付けてみるか? この場合、マーケットが既に小さいコミュニティを形成してしまっているから、コピー防止の観点からも、商品はデータじゃなくて紙焼きだな。バラ売りと5点割り引きセット、いや、会員制にするか? 毎月十枚程度の新作をアップして、会員料金を支払えば購入時の優待割引を受けられるようにして……そうなると、やっぱり商品バラエティは幅広くないとまずいよな。よし、トウジ、まずは水着に着替えてくれ」
 
 「アホかぁッ!!」
 
 
 
 そんなバカ騒ぎをしている二人を、アスカは溜め息をつきながら、眺めている。
 
 柵によりかかって横を見ると、同じように、二人を眺めている、ヒカリ。
 
 しかし、その視線は、明らかにアスカのそれとは違う。アスカの視線は、呆れた視線。ヒカリの視線は、どちらかと言うと、もっと暖かなものだ。
 
 アスカは小さく肩を竦めると、体重を柵に預けたまま、ずりずりと横に移動して、ヒカリのそばに立った。
 
 
 
 「……ヒカリ、アンタ……あいつの、どこが、いいわけ?」
 
 アスカは、呟くように、そう言った。
 
 その言葉が耳に届くやいなや、ヒカリは、動揺したような表情で、頬を染めながら振り返る。
 
 「アス……なっ、なに、言ってるのよ」
 
 「もう一度、言って欲しい? ……あいつの、どこが、そんなに、いいの?」
 
 アスカは、わざとらしく、もう一度同じ言葉を繰り返した。
 
 ヒカリは耳の先まで赤くなって、俯いてしまう。
 
 
 
 柔らかい風が、屋上を渡って、二人のスカートを緩やかにはためかせる。
 
 
 
 はぁ……と、アスカは小さく、溜め息をついた。
 
 もう一度、視線をトウジたちの方に向ける。……いつの間にか二人は、どうでもいいお喋りに興じているようだった。
 
 「全く……ホント、お似合いの二人よね……。オクテが二人揃って、もう……オクテが倍々になってる感じ」
 
 アスカの、半ば呆れたような言葉に、ヒカリは、赤くなりながら唇をとがらせた。
 
 「……そ、そんな……そりゃ、オクテ、かも……知れないけど、でも……」
 
 「悪いって言ってるわけじゃないわよ」
 
 アスカは、微笑んで、言葉を返した。
 
 「言ったでしょ? お似合いだって、言ってんの。鈴原が、物凄いプレイボーイの超軽い男だったら、ヒカリとは絶対うまくいってないわよ。いいじゃない、別に」
 
 「……そんなの、誰だってうまくいかないわよ」
 
 「ふふ、まぁ、そうか……。でも、ま、最初は何で鈴原なんだろうって思ったけど……結局、ヒカリの相手は、鈴原がちょうどいいのよね、きっと……」
 
 
 
 空を、見上げる。
 
 
 
 蒼い、空。
 
 突き抜けるようなその青は、眩しく目の奥を刺して、少しだけ痛みを覚えた。
 
 吸い込まれるような、どこまでも……果てのない、空。
 
 
 
 「……何の話をしとるんや、二人とも」
 
 トウジの声に、アスカは上げていた視線を、下界に下ろした。
 
 トウジとケンスケが、アスカ達の方に歩いてくる。
 
 「ううん……何でもないの。ただのお喋り……ね?」
 
 ヒカリが、笑いながらそう応え……アスカの顔を見た。
 
 
 
 いつもなら、「そうよ」と笑って応えるところだろう。
 
 だが、アスカは、にこっ……と、優しく微笑むと……違う言葉を発した。
 
 
 
 「……アンタとヒカリが、お似合いのカップルだって話をしてたのよ」
 
 
 
 「……なっ……! ア、アス……!」
 
 ぼん、と顔を真っ赤にして、ヒカリが口をパクパクさせた。
 
 トウジはと言えば、話しかけた姿勢のまま、石のように固まっていて動かない。完全にハング・アップしているようだ。
 
 ヒカリは真っ赤に染まった顔のまま、おろおろとアスカとトウジの顔を交互に見る。
 
 
 
 アスカはにこにこと微笑んだまま、ヒカリの肩に手を置いた。
 
 「ホラ、仲のいい恋人同士、そっちのほうで二人きりで、話しでもしてきなさい……よっと」
 
 言いながら、どん、と肩を押す。
 
 
 
 よたよたっ、と、トウジの前まで歩み出てしまうヒカリ。
 
 真っ赤な顔をしたまま、ヒカリが、おず……と顔を上げると、自分の視線とトウジの視線がもろにぶつかりあった。
 
 思わず、バッと俯いてしまう。しかしそれは、トウジも同じようで……いかにもモジモジと、頭の上に蜃気楼が浮かぶかと思うほど、二人はゆで上がって、固まってしまった。
 
 
 
 「……俺の方が、絶対上手くやれる自信があるけどなぁ」
 
 その言葉にアスカが振り向くと、いつの間にか、ケンスケがアスカの横に立って、同じように柵に体重を預けていた。
 
 「何が? エヴァの操縦?」
 
 敢えて、問う。
 
 「恋愛だよ」
 
 ケンスケは、視線を前に向けたまま、言葉を続ける。
 
 
 
 「……アンタ、女の子とつきあったこと、あんの?」
 
 「あるわけないだろ」
 
 アスカの言葉に、ケンスケは、特に何の感情を込めるわけでもなく、さらりと応えた。
 
 「惣流は?」
 
 「……アタシと釣り合う相手なんて、そうそう転がっちゃいないのよ」
 
 アスカも、軽く、受け流す。
 
 
 
 空。
 
 
 
 青い、空。
 
 
 
 その、抜けるような空に、細く……飛行機雲が、たなびいている。
 
 成層圏の、チリひとつない澄んだ青が、瞳に映っている。
 
 
 
 この……空の、下の。
 
 どこかに……。
 
 
 
 ロマンチシズム、と、笑われそうな気がして、アスカは目を瞑り、小さく首を振った。
 
 目を開けても、空の青さは変わらない。



五百六



 「……加持さんが、死ぬところだった……なんて」
 
 レイは、静かに、呟いた。
 
 シンジは黙って、頷いて……そして、口を開く。
 
 
 
 「……今回は、運が良かっただけだよ。
 
 本当なら、もっと……充分安全に、加持さんを助けることが出来たはずだった。……もう少し、うまく、立ち回れていたら……僕だって、こんなふうにベッドに横になって、綾波に心配をかけることもないんだけど、ね……」
 
 シンジの語る言葉は、彼自身の中で、何度も反芻されてきた言葉だ。
 
 
 
 終わってしまったこと……過ぎてしまった、取り返しのつかないことで、いつまでも暗く、悩んだりはしたくない。
 
 だが、後悔しているのは、紛れもない事実だ。
 
 もっとも、その後悔を何とか生かして、次には悔やまなくてもいいようにしたい、という感情は強く……それだけ、前向きだと言えるかもしれない。
 
 
 
 「……でも、碇君は、ちゃんと間に合った。遅れたのは、仕方がないことだと、思う」
 
 レイは、静かに、言う。
 
 シンジは、小さく肩を竦めた。
 
 「間に合ってないよ」
 
 「そんなこと、ない」
 
 「加持さんが撃たれたときは、僕はその場にいないも同然だった。偶然、ペンダントに弾が当たって、加持さんは死ななかったけど……それには、僕は全く関与していない。正直……加持さんの命に関する限り、僕がいてもいなくても、関係がなかったんだ」
 
 「………」
 
 「加持さんが助かったのは、はっきり言ってしまえば……運が良かっただけだ。同じことがもう一回起ったら、絶対に助からないよ。……でも、もう少し、僕が早く辿り着いていたら、確実に加持さんを救えただろう。この差はやっぱり、大きいと思う」
 
 
 
 しかし、レイは、俯いて小さく首を振った。
 
 シンジは、覗き込むように、レイの顔を見る。
 
 「綾波……」
 
 「ちがう」
 
 レイは、短く……はっきりと、そう、呟く。
 
 
 
 「それは……違うわ」
 
 レイの言葉に、シンジは、困ったように頭を掻いた。
 
 「そう言ってくれるのは、嬉しいけど……」
 
 「碇君」
 
 しかしシンジの言葉尻を刈るように、レイは顔を上げて言葉を被せる。
 
 レイの瞳は、じっとシンジの瞳のその奥を見つめていて……思わず、シンジは口を噤んでしまう。
 
 
 
 「碇君……」
 
 「な……なに?」
 
 「……碇君、考えてみて」
 
 レイは、一言、一言……区切るように、はっきりと、言葉を発した。
 
 
 
 「……前の時は、加持さんは、死んでしまった、って……碇君は、そう言ったわ」
 
 レイの言葉に、シンジは、おずおずと頷く。
 
 「うん……まぁ、確認したわけじゃ、ないけど……そうだったと、思う」
 
 「でも、今回は、助かった」
 
 「うん、そうだね」
 
 「違いは、何?」
 
 
 
 レイの言葉に、シンジは、思わず目を見開いていた。
 
 レイは、じっとシンジの瞳を見つめたまま、視線を外さない。
 
 
 
 ……レイの言いたいことは、すぐに理解できた。
 
 シンジだって、そのことに思い至らなかったわけではない。
 
 ただ、自分でそれを口にするには、傲慢かもしれないという思いが、それを言葉として発する気持ちを抑えていたのだ。
 
 
 
 シンジが、答えを知っている。
 
 そのことに、既に気付いているレイは、そこから先の言葉を継がずに、そのままシンジの顔を見続けている。
 
 
 
 しばし、の、沈黙を経て……
 
 ……シンジは、諦めたように、一度目を閉じてから、口を開いた。
 
 
 
 「……違うのは、僕がいること……だね」
 
 
 
 シンジの言葉に、レイは、静かに、微笑んだ。
 
 
 
 シンジも、とうに気付いていた。
 
 決して、今初めて、レイに気付かされたわけではない。
 
 前回と、今回と……。
 
 ……突き詰めて考えれば……違うのは、シンジという存在だけ。
 
 シンジのみが時代を遡り、全く同じ状況である世界をたった一人で変えようとしているのだから、それは当然だ。
 
 だから、極論してしまえば……前回と今回で、何か違うことが起ったとすれば、それは全て、シンジがその原因だと、言える。
 
 
 
 ……だが、それはやはり、少々傲慢な考え方だと、シンジは思う。
 
 少なくとも……他の誰かに指摘されるのならばともかく、シンジ自身は、そう思ってはいけない、ことだ。
 
 
 
 ……確かに、皆が変わるきっかけを与えたのは、他ならぬシンジかも、しれない。
 
 だが、世界を動かしているのは、そうして変わった、それぞれの人達だ。
 
 シンジが、動かしているわけではない。何かが前回と違うのだとすれば、それは、自らを変革した、みんなの力によるものなのだ。
 
 
 
 ……しかしシンジはとりあえず、その考えをレイに告げるのはやめた。
 
 レイの、シンジを元気づけようとしてくれる気持ちは、素直に嬉しい。
 
 シンジはレイの瞳を見つめると、小さく……頷いた。
 
 
 
 「ありがとう……綾波」
 
 
 
 シンジの言葉に、レイは柔らかく微笑むと、そのままベッドに上がって、シンジの頭に手を回した。
 
 そのまま、シンジの首筋に鼻先をうずめる、レイ。
 
 シンジも、そんなレイの頭を抱き締めながら、病室の窓の外の風景を眺めている。
 
 
 
 そう……。
 
 どんなことであれ、悔やむのは、いつだってできる。
 
 ……最後の、人類の滅亡を防ぐその時まで、前を向いていなければいけないのだ。



五百七



 四畳半の部屋。
 
 壁じゅうに、空母や戦闘機のポスターが貼りめぐらされている。
 
 机や棚には、さまざまなミリタリ系、コンピュータ系、カメラ系の専門誌が並ぶ。ガラスケースの中には精巧な戦車のプラモデルが飾られている。
 
 電灯の消えた部屋の中は暗く、机のスタンドの明かりのみが、ついていた。
 
 
 
 その机の上に置かれたノートパソコンに向かっているのは、ケンスケだ。
 
 画面を凝視したまま、滑らかな動きでキーボードを叩く。
 
 
 
 やがて、画面に小さく、「COMPLETE.」と表示され、画面に細かなリストが表示される。
 
 
 
 びっしりと、何かの情報が書き込まれた、リストが、ケンスケの眼鏡に映り込む。
 
 ケンスケは暫くそのリストをスクロールしていたが、やがて溜め息をつくと、マウスからその手を離した。
 
 両手を頭の後ろで組んで、大きく反り返る。
 
 頭を後ろに倒して、背凭れにその重さを預ける。
 
 見上げる天井にも、大きな戦闘機のポスターが貼られている。
 
 
 
 「……やっぱり、新しい機体は無し、か……」
 
 誰に言うともなく、呟く。
 
 
 
 「……ってことは、新しいパイロットの募集も、なし……か。……いいなぁ、トウジ……ちぇっ」
 
 
 
 コンコン、と、ドアを叩く音が響く。
 
 ケンスケは、無言で目を瞑り、体を起こす。
 
 返事はしない。
 
 ギッ、と、椅子が錆びた軋みを上げる。
 
 
 
 『……ケンスケ。ゴハンよ』
 
 ドアの向こうから聞こえてくるのは、ケンスケの母親の声だ。
 
 
 
 ケンスケは小さく舌打ちすると、ノートパソコンのシャットダウンボタンを押す。
 
 『ケンスケ……』
 
 尚も聞こえる母親の声に、ケンスケは机の上のボールペンを掴むと、体をひねるようにして、思い切りドアに向かって投げつけた。
 
 
 
 渾身の力を篭めたといっても、所詮はボールペンだ。
 
 乾いた、軽い音を立てて跳ね返ると、ボールペンは絨毯の上に力なく転がった。
 
 
 
 暫しの、沈黙。
 
 やがて小さな足音が聞こえて、ドアの前の人物は、静かにその場から離れていく。
 
 
 
 ……暗い表情で物言わぬ扉を睨み付けていたケンスケは、暫く無言でいたあと、再びくるりと机の方に向き直り、一度は落としたマシンに再び電源を入れた。
 
 モニタにOSの起動画面が表示される。
 
 その光はケンスケの眼鏡に反射して、その瞳は見えない。
 
 やがて立ち上がったマシンのキーボードに、再び指を走らせる。
 
 
 
 やがて表示されたのは、エヴァンゲリオンを特集した、アンダーグラウンドサイト。
 
 かなりの遠距離から、荒い解像度で撮影された、使徒やエヴァの写真が並んでいる。
 
 ケンスケを始め、肉眼でエヴァや使徒を見た人間は、決していないわけではない。だが、こうして公表される画像や映像ともなると、全貌を掴むこともままならないこの程度の情報に限られてしまう。
 
 
 
 ケンスケは、その画面を眺めながら、椅子の上で膝を抱える。
 
 真っ暗な部屋で、ただ、じっと、見つめるエヴァの写真。
 
 
 
 「……なりたいなぁ……パイロット……」
 
 
 
 小さく……呟いた。



五百八



 夜。
 
 
 
 レイが帰ったあとの病室で、シンジは、ベッドに横になりながら、じっと天井を見つめていた。
 
 
 
 昼間思った通り……確かに、悔やんではいられない。
 
 悔やんでいる暇などない。
 
 まだまだ考えることは、山ほどあるのだ。
 
 
 
 さしあたって考えなければいけないのは、次の使徒……アラエル。
 
 この使徒を、どうやって倒すか、だ。
 
 
 
 第15使徒アラエルは、軌道上に現れる。
 
 もちろん、最初の出現位置が軌道上だったのはアラエルが初めてではない。サハクィエルも、同じように、軌道上に現れた。
 
 だが、あの時は向こうの方から、落下して手許までやって来た。
 
 それを、待っていれば、よかった。
 
 
 
 ……対してアラエルは、軌道上から動かずに、攻撃を仕掛けてくる。
 
 軌道上でとどまっていられては、こちらの通常兵器は全て届かない。
 
 最大の射程距離を誇るポジトロンライフルをもってしても、成層圏に到達するのがせいぜいで、アラエルの衣一枚、焦がすことは出来ないのだ。
 
 この差は大きい。
 
 
 
 (前回は、ロンギヌスの槍で始末したんだよな……)
 
 シンジは考える。
 
 零号機が投擲したロンギヌスの槍は、大気の壁をひきちぎって、一気にコアを貫き、使徒の殲滅を果たした。
 
 あれだけ離れた距離で、零号機が、小さなコアを狙えたとは思えない。まさに、ロンギヌスの槍が、自分の意志でコアに突き刺さったのだ。
 
 あの槍なら、軌道上のみならず、銀河の果ての使徒だって貫くことが出来るだろう。
 
 まさに、最強の兵器である。
 
 
 
 (……だけど、あの槍は、出来れば使いたくないな……)
 
 シンジは、ごろりと寝返りを打って、溜め息をついた。
 
 
 
 なぜならば、アラエルの後も、強敵が控えているからだ。
 
 ……ロンギヌスの槍は、最強の武器だ。あの槍ならば、どんな使徒でも、倒すことが出来る。
 
 で、あれば……シンジの気持ちとしては、その次の使徒・アルミサエル……前回、レイを自爆に追い込んだ、あの忌まわしき使徒の殲滅に、使いたいのである。
 
 
 
 そう……
 
 ……アラエルも、アルミサエルも、現時点ではロンギヌスの槍以外で倒すすべのない使徒だ。
 
 
 
 アラエルにしてもアルミサエルにしても、今までの使徒とは違う、強敵である。
 
 殲滅のための決定的な手段がないまま、迂闊にその前に、無防備に姿を晒すことは出来ない。
 
 まず、当面の敵であるアラエル……この使徒は、こちらの手の届かない遥かな高みから、一気にパイロットの精神に攻撃を仕掛けてくる。
 
 これでは、出撃もままならない。
 
 アスカを、そしてもちろんレイを、そんな目に合わせるわけには、いかない。
 
 
 
 ……アラエルの精神攻撃は、光の渦だ。
 
 本部にいたNERVの職員や避難していた市民が精神攻撃を受けずに、アスカだけが精神汚染を受けたのは、光の真下に姿を晒したからで、陰に隠れている分には、安全である……
 
 ……と、思いたいが、それはいささか早計だろう。
 
 ただ単に、使徒の攻撃が指向性を持っているだけかも知れない。狙いをアスカに定めていたから、アスカだけが精神汚染を受けたのであって、遮蔽物など用をなさない可能性は、充分にある。
 
 地下に潜っていれば安心とは、到底言えない。
 
 使徒が現れたら、とにかくすぐにでも殲滅する必要がある。相手に攻撃する暇を与えてはいけない。
 
 
 
 「やっぱり、ロンギヌスの槍、か……」
 
 シンジはそう呟いて、溜め息をついた。
 
 仕方がない。
 
 
 
 誰にも阻止されずに、セントラルドグマからロンギヌスの槍を回収して、地上にて投擲する。
 
 それは決して簡単ではない。
 
 まだまだ、問題は山積している。



五百九



 「……そう、仕方がないわね……。わかったわ、ありがとう」
 
 
 
 リツコはそう言うと、ゆっくりと受話器を下ろした。
 
 キーボードを叩く指を止めて、マヤが振り返る。
 
 「……どうかしましたか、先輩? 浮かない顔ですけど……」
 
 怪訝そうな表情でそう尋ねると、リツコは、一瞬視線をマヤに向けてから、右手で髪の毛を掻き上げて、溜め息をついた。
 
 
 
 「次の、トウジ君の機体は、いつ用意できるかと思って、ね……ドイツ支部に連絡してたんだけど」
 
 リツコは、呟くように言う。
 
 「……時間がかかりそうなんですか?」
 
 「まぁ……それほどでもないんだけどね。最速で2週間、遅ければ1カ月かかるって言われたわ」
 
 「2週間……」
 
 リツコの言葉に、マヤも表情を曇らせる。
 
 
 
 「……その間、使徒が来なければ、いいですけど……」
 
 「まぁ……そううまくいけば、話は早いけど」
 
 不安そうなマヤの言葉に、リツコは、軽く目を瞑って見せた。
 
 「どっちにしても……トウジ君は、まだ実戦は無理よ。そう言う意味では、機体の用意が早くても遅くても関係がないけどね」
 
 「……でも、早く機体が用意できれば、それだけ訓練を積めます。つまり、それだけ早く実戦に参加できるということです」
 
 「理論上はね」
 
 言いながら、リツコはつかつかとコンソールに近付くと、軽やかにキーボードを撫でた。
 
 スリープに入っていた画面が生き返り、同時に一つのグラフを描きだす。
 
 
 
 一目瞭然……それは、四人の子供たちのシンクロ率を、棒グラフで表したものだ。
 
 右側の三本のグラフが高い位置まで伸びているのに対し、一番左の一本はかなり背が低い。
 
 その一番低いグラフの少し上に引かれている横のラインが、おそらく起動可能な数値であろう。つまり、フォースチルドレンである鈴原トウジは、まだ、起動に至っていないということだ。
 
 
 
 「まぁ……レイやアスカの時を思えば、訓練を始めてまだ半月のトウジ君が起動できなくても、おかしくはないわ。……でも、敵はそうは思ってくれないのよね」
 
 「ですから……シンクロ率を高めるためにも、機体が必要です」
 
 「まぁね……」
 
 リツコはそう言うと、タン、とキーを叩く。
 
 ブン、と小さな電子音を立てて、再びモニタは真っ暗になった。
 
 
 
五百十



 「Hi,Mam! Wie geht es dir? nun...」
 
 
 
   着替えを取りに、シンジが松葉杖をついて自分の部屋に戻ると、部屋の中から、聞き慣れた少女の声の、聞き慣れない言葉が耳に飛び込んできた。
 
 
 
 覗き込んでみると、アスカが受話器に向かって快活そうに何かを喋っている。
 
 ベッドの上にレイが座っていたので視線を向けると、レイもその視線に気づいて、口を開いた。
 
 「国際電話……アスカのお母さんから」
 
 「ああ……」
 
 シンジは納得した表情で、松葉杖を壁に立て掛けてから、椅子を引いて腰を下ろす。
 
 
 
 と、言うことは、この意味不明な言葉は、ドイツ語か。
 
 そう言えば、と……確か前回のときも、アスカの母親から電話がかかってきたのを思い出す。
 
 あの時は、シンジが電話に出た。しかし、相手が何を言っているのか訳が分からず、かろうじて聞き取れた「アスカ」という言葉を頼りに、彼女に取り次いだ記憶がある。
 
 
 
 「...Ach, so ist das? Atohnen...Wenn er ihm hilt,hat...」
 
 
 
 (すごいなぁ……しかし)
 
 シンジは椅子の背凭れに体重を預けて、アスカが楽しそうに話す様子を眺めていた。
 
 いつも自分とお喋りしている少女が、こうして一言も意味の通じない言葉を発していると、なんだか不思議な空間に迷い込んだような違和感を感じる。
 
 シンジはもちろん日本語以外喋れないし、学校の英語の成績はいいが、だからと言って日常英会話が流暢にできるかといえば、それは全くの別問題だ。
 
 アスカは永らくドイツで暮らしていたのだからドイツ語が堪能なのは当然で、頭の良さとはまた別なのだが、それは分かっていてもやはり二カ国語以上喋れる人は尊敬してしまう。
 
 
 
 「...ja. Wirklicher dank. Dann,Auf Wiedersehen!」
 
 アスカは笑いながらそう言うと、ゆっくりと受話器を置いた。
 
 チン、と、電話機が小さく乾いた音を立てる。
 
 
 
 ……そうして、置いた受話器を握ったまま……
 
 アスカは、静かに、息を吐いた。
 
 
 
 「……すごいね、アスカ」
 
 シンジの言葉に、アスカは、我に返ったように顔を上げた。
 
 「……え? 何が?」
 
 「ドイツ語がペラペラなのがさ」
 
 「……こんなの、当たり前よ。子供の頃から、ドイツに住んでたんだから」
 
 「まぁ……そりゃ、そうだけど」
 
 「シンジだってレイだって、ドイツで育ったらドイツ語で話せるようになってるわよ。別に、大したことじゃないわ」
 
 アスカは事も無げにそう言うと、レイの隣のベッドに腰を下ろして、そのまま後ろにボフッと倒れ込んだ。
 
 天井を、じっと見つめている。
 
 
 
 そんなアスカを、レイは目で追っていた。
 
 気配を感じたアスカがレイの方に視線を向けると、ちょうど、レイの視線とぶつかり合った。
 
 アスカは顔を天井に向けたまま、瞳だけをレイの方に向けて、口を開く。
 
 「……なに?」
 
 「……ううん、元気がないような気がして……」
 
 「……そう? そんなことないわよ」
 
 アスカはそう言うと、むくりと上体を起こした。
 
 
 
 その状態で、横に座ったレイと、椅子に座るシンジの顔に順番に視線を動かして……そして、小さく肩を竦めて見せた。
 
 「……嘘じゃないわよ。元気がないなんてこと、ないわ。ただ……ちょっと、苦手なだけ」
 
 アスカの言葉に、レイが首を傾げる。
 
 「なにが?」
 
 「……母さんが」
 
 
 
 沈黙のとばりが、静かに部屋を覆う。
 
 
 
 アスカは立ち上がると、スカートのしわをぱんぱん、と叩いて伸ばす。
 
 そのまま、出入り口の方に歩いていき……壁に片手をかけて、振り返った。
 
 「もう遅いから、寝るわ。……シンジも、安静にしてなきゃいけないんじゃないの? 早く病室に戻りなさいよ」
 
 
 
 「あ……うん」
 
 シンジとレイが軽く手を挙げると、アスカも微かに頷いてそれに応えて、そして部屋を出ていった。



五百十一



 ……母親が、苦手。
 
 その会話は、前回もした、と、シンジは思い出す。
 
 
 
 その気持ちは彼女の家庭環境によるもので、それは前回と今回に変わりはない。
 
 だが前回は、彼女が自分で言い出したにも関わらず、「何でアンタにそんな話をしなくちゃいけないのか」と、逆ギレ気味に激昂された。
 
 今回は、もっとずっと穏やかだった。それは、彼女自身の変化によるものだろう、と、シンジは思う。
 
 
 
 アスカが、育ての親と表面上の付き合い方しか出来ないのは、実の母親との間の出来事がトラウマになっているからであろう。
 
 嫌われることを、恐れているのだ。
 
 
 
 弐号機の中にアスカの実の母親がいることを、シンジは知っている。
 
 だが、それを直接知る術は、アスカにはない。
 
 感覚で、アスカ自身が、その絆に気付くしかないのだ。
 
 
 
 前回と違い、今回のアスカは、弐号機の中の「意志」の存在を拒んでいない。
 
 それは、アスカが操る弐号機の立ち振る舞いからも、それから彼女のシンクロ率からも推し量れる。
 
 ……あとは、彼女自身が何とかすることで、シンジたちにどうこうすることは出来ない。
 
 
 
 ……いつか、アスカが気付くときが来るだろうか。
 
 その時、彼女はどうするだろう?



五百十二



 水の流れる音を背に、アスカはトイレの扉を閉めた。
 
 そのまま部屋の中央まで歩いていくと、まるでその身を投げるように、ベッドの上に体ごと倒れ込む。
 
 
 
 「……ったく……」
 
 小さく……自分の耳にしか届かないように小さく、舌打ち。
 
 なんで……
 
 ……女だっていうだけで、毎月毎月、こんな苦しみを味わわなければいけないのか。
 
 
 
 「……子供なんて、欲しくないのに……」
 
 
 
 小さく……もう一度呟いて、目を、閉じた。