第百一話 「思惑」
四百七十八



 四方を壁に囲まれた狭い部屋で、パイプイスが耳障りな軋み音を立てる。
 
 加持は背凭れに体重を預けて天井を見つめたまま、口にくわえた煙草の先をくるくると回転させていた。
 
 煙草に火は、ついていない。
 
 2畳ほどの小さな部屋には、左右の壁に天井までの高さのある棚、正面には金属の事務机。他には、加持の座る椅子が入る程度のスペースしかない。
 
 机の上のノートパソコンには目まぐるしく動くスクリーンセーバー。無味乾燥な幾何学模様が、四角から三角、三角から丸へと変化し続けている。
 
 
 
 ポン、と、小さな音を立てて、飛び交う幾何学模様が一瞬にして消えた。
 
 加持がそちらに目を向けると、そのデスクトップには廊下の様子が映る……そこには、見慣れた黒髪の女性が、こちらに向かって歩いてくる姿。
 
 加持はキーボードに手を伸ばすと、廊下の映像のウィンドウを閉じる。
 
 一瞬、何かのプレハブ小屋のような映像が見えたが、続けて加持が幾つかのキーを同時に押すと、画面は再び切り替わり、そこには変哲もない表計算ソフトが、無意味な数字の羅列とともに表示されていた。
 
 
 
 ややあって、扉をノックする音が響き、加持は、振り返る。
 
 加持の応答を待たず、ノブが回って、先程モニタに映っていた女性が姿を見せた。
 
 
 
 「やっぱり、ここだったのね」
 
 女性は軽く髪をかき上げると、開いた入り口のへりに肩を預けて、腕を組む。
 
 「もう……管理職用の居室フロアを使えばいいじゃない」
 
 
 
 言外に不満の色を覗かせるその女性は、ミサトだ。
 
 加持は、体をひねるようにして、後ろに立つミサトの方に顔を向けて苦笑する。
 
 「あそこは広すぎるんでね。落ち着かない」
 
 「ココ、遠くて来るのが面倒なのよ」
 
 「こっちの方が、人通りが少なくて静かなんだよ」



 ここは、NERV本部、地下2階。
 
 空調や電気系などのシステムが集約されたエリアで、加持の言う通り、あまり人通りは多くない。加持のいるこの小さな部屋は、更にそのエリア内でも一番奥の、比較的寂れた場所に位置していた。
 
 
 
 「どうかしたのか?」
 
 加持は、ノートパソコンを閉じながら、背後に立つミサトに声を掛ける。
 
 「何が?」
 
 「何がって……なにか用事があってきたんじゃないのか。遠くて来るのが面倒なんだろ?」
 
 「……ああ……仕事、どう?」
 
 「何言ってるんだ?」
 
 呆れた顔で、加持が振り返る。
 
 ミサトはその視線を、平然とした表情で受け止めた。
 
 「終わりにできるんなら、食事にでも行かない?」
 
 
 
 地下の駐車場で、ハンドバッグを持って立つミサトの前に、奥から加持の車が近付き、横につけて停車した。
 
 加持が、運転席から体を伸ばして、助手席のドアを開ける。
 
 「どうぞ、お嬢さん」
 
 すこしだけおどけた表情を見せて、助手席のシートの埃を払う。
 
 もわっ、と細かい粉が舞い散る様子に眉をしかめてから、ミサトはハンドバックからハンカチを取り出してシートに敷くと、その上に滑るように腰を下ろした。
 
 車はライトを点灯させ、低い唸りとともにカーポッドに向かって走り出した。
 
 
 
 ジオフロントを出た車は、他に走る車の無い道を、ゆっくりと走っていく。
 
 加持とミサトの顔に、街灯の作り出す闇と光の縞模様が交互に通り過ぎていく。
 
 
 
 車はやがて、トンネルに入った。
 
 二人の体は、オレンジ色の光にラッピングされる。
 
 
 
 「……加持君……こないだの、見た?」
 
 顔を外に向けたまま、ミサトが呟く。
 
 加持が、視線だけを一瞬、助手席の方に向ける。しかし、窓の外を向いているミサトの顔は見えない。
 
 「こないだって?」
 
 「……こないだの……使徒との闘いよ。初号機の……」
 
 車がトンネルから飛びだし、再び一直線に伸びる夜の道を走っていく。
 
 
 
 使徒を喰らう初号機の、低く唸るような咆哮。
 
 
 
 数秒の沈黙のあと、加持はゆっくりと、口を開いた。
 
 「ああ……見たよ」
 
 「………」
 
 「それが、どうかしたのか」
 
 「……どう思う?」
 
 「どうって、何だ」
 
 「初号機よ! ……見たんなら分かってるでしょ?」
 
 「………」
 
 「……アレは、何なのよ……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……俺に聞かれてもなぁ……そういうハナシは、リっちゃんに聞いたほうが早いんじゃないか」
 
 「……リツコに聞いたって……教えてくれないわよ。……大事なことは、みんな隠してるんだから」
 
 「……そんなのは、誰だってそうさ」
 
 「………」
 
 「……秘密の無い奴なんて、信用できないよ」
 
 「………」
 
 「葛城だって、リっちゃんに色んなことを隠してるんじゃないのか?」
 
 「……そんなこと、どうでもいいの。アタシが知りたいのは……」
 
 「俺にも、分からない」
 
 ミサトの言葉を刈るように、加持は上から被せて言う。
 
 ミサトは黙る。
 
 加持も、次の言葉は継がない。
 
 車は、変わることなく走り続けていく。



四百七十九



 床の上をのたうつ、太さ50センチほどのパイプの群れ。
 
 その横を走る職員の足が、偶然、壁際に寄せてあった空き缶に当たる。
 
 カーンンン……と、乾いた音が、その巨大な空間にこだまして吸い込まれていく。
 
 
 
 「足許に注意しなさい!」
 
 缶を蹴飛ばした職員の方に視線は向けずに、両手を白衣のポケットに突っ込んで立っていたリツコが鋭く叱責する。
 
 若い職員は、リツコの声にびくっと体を強張らせると、慌てて深く頭を下げてから、怖れをなしたように、また奥の方に駆けていった。
 
 
 
 ケイジ。
 
 通常なら冷却水をたたえているこの空間も、今は修理のために全ての水を抜いてある。
 
 その最底部となる床にリツコは立っていた。
 
 まわりを、ツナギや白衣を着た職員が、それぞれ何人も忙しく走り回っている。
 
 
 
 幾つものライトが照らすその先に、三体のエヴァが鎮座している。
 
 
 
 無数のパイプ類を、機体の様々な個所からぶら下げて立つ、エヴァ。
 
 専門的知識やデータがなくとも、見ただけで、その被害が甚大なことがうかがえる。
 
 
 
 零号機は、両腕とも肩から先が無い。隣には整備途中の右腕が並べて吊り下がっているが、左腕は見当たらない。
 
 弐号機は、片腕と頭部が無い。同じく腕は隣に吊り下がっているが、頭部は別の場所で整備中のようだ。
 
 その、吊り下がっている腕も、修理が済んでそれぞれの体に繋がるのを待つばかり、という状態ではない。何本ものコードが弓なりに伸び、上腕や肘、手首などに接するクレーンの先から、幾つものマニュピレータが筋肉組織を繋ぎあわせている。
 
 
 
 ……そうして……そこから少し離れた場所に立っている、もう一体のエヴァ。
 
 ……初号機の周りは、まるで別世界のように、静まり返っていた。
 
 
 
 その静けさは、一種異様な雰囲気を感じさせる。
 
 見たところ、決して初号機も無傷ではなく、体中に細かい傷がついては、いる。だが、闘いの障害になるような大きい損傷は見当たらない。
 
 ……確かに、闘いの直後は痛々しい傷が散見していた。
 
 だが、あの使徒戦が終わって以来、まだ初号機に修理の手は及んでいない。それは、つまり放っておいても勝手に治癒してしまうからであった。
 
 
 
 エヴァにはもともと、小さな傷なら自然に治癒してしまう能力がある。
 
 例えば腕を折られたとしても、折れた骨の位置を矯正しておけばそのうち真っすぐになる。
 
 それは、人間の治癒力の延長線上にある能力、と言えるだろう。
 
 それは初号機に限ったことではなく、零号機や弐号機も持っている、エヴァシリーズ全体で共通の特長である。
 
 
 
 しかしながら、それにもさすがに限界は、ある。
 
 人間の治癒力の延長線上、ということは当然……人間の腕を斬り落としても再生しないのと同じく、甚大な被害を被れば医者の力を借りないわけにはいかない。
 
 それが、つまりNERVの整備班の立場なのだ。
 
 
 
 ……だが、初号機は、その力を借りずに、自らの力で治癒する能力を得た。
 
 
 
 恐るべき再生能力である。本来、人間と同じく、エヴァも「ヘイフリックの限界点」と呼ばれる、細胞の再生回数の上限が決まっている。ここを超えると、細胞は死んでしまう。
 
 しかし、初号機は、ヘイフリックの限界点を超えて再生を続ける、「無限再生」の能力を得たのだ。
 
 その能力の源が何なのか、それは、科学的な裏付けを取らずとも、S2機関であることは想像がつくだろう。
 
 思い出してみていただきたい。逆行前の世界での闘いで、最後に弐号機を襲ったエヴァ量産機の群れ。彼らは全機がそれぞれS2機関を備えており、その強力な治癒能力は完膚無きまでに葬られたと思われた後も、さほど時間をおかずに再起動してみせた。
 
 あの状況から推論すれば、むしろ初号機はまだS2機関の能力を活かしきっていない、とすら言える。今、初号機が完治まで数日かけている傷は、量産機なら短時間で治してしまうだろう。
 
 
 
 「零号機、弐号機の修理には、あと一週間はかかりそうですね」
 
 リツコの後ろに立つマコトが言う。
 
 リツコは、零号機、弐号機の双方に視線を向けてから、目を瞑って溜め息をついた。
 
 「せめて、あと一週間、使徒が出現しないことを祈るしかないわね……」
 
 「来ないで、くれるでしょうか」
 
 「さぁ、それはあちらの気分次第ね。最悪……初号機のみで出撃、という可能性も考えておかないといけない」
 


四百八十



 「あなたって、いつもそうよね」
 
 ミサトは、呟くようにそう言って……僅かに、寂しさを含ませた表情で、微笑んだ。
 
 「そうやって……誰にも、何も、言わない」
 
 ゆるやかな有線の音楽が微かに聞こえる中、ミサトは、ゆっくりと、加持の胸板に頬を寄せる。
 
 
 
 そうして、体を重ねて横になりながら耳を付けると、彼の鼓動が確かに伝わってくる。
 
 それは、加持がここにいる、という、数少ない証のひとつだ。
 
 加持は、いらぬ心配だとばかりに飄々と笑うだろう。だがミサトにとって、加持は、いつ目の前から消えてしまうか分からない、そういう存在だった。
 
 それは、彼が、常に命の危険と隣り合わせである、と言うこと。
 
 もちろんミサトも、一般の人々よりは遥かに、死の危険と常に共にいる、と言える。だがそれは、加持のそれよりはずっと甘い。
 
 加持の存在を肌で感じたくて、頬擦りするように、その体を押し付けた。
 
 
 
 加持は、ミサトの言葉には応えずに、ただ口にくわえた煙草の先から上る紫煙が、天井の空調に吸い込まれて消えていく様を眺めていた。
 
 
 
 思えば……昔は、毎日のように肌を重ね合っていた。それを愛情、と言ってしまうのは容易いが、若さゆえ、とも言えるだろう。
 
 時を経て今、あの頃と同じように、こうして肌を重ねている。だが今の二人に纏わりつく空気は決してあの頃のように瑞々しい若さに溢れた空気ではなく……暗い影をお互いの後ろに背負いながら、それを見て見ぬふりをして傷を舐めあうような、そんな空気だった。
 
 それはきっと、お互いの道が、もはや修正の効かぬほどに離れてしまったからだろう。
 
 あの頃は、その事実に耐えることができなくて、別れてしまった。
 
 今は、そこまで相手に寄りかからずとも生きていける、ということかも知れない。
 
 
 
 「ねぇ……さっきの話」
 
 ミサトが、少しだけ頭を動かして、加持の顔に視線を向ける。
 
 枕に頭を載せていた加持は、表情を変えることなく、視線だけミサトのそれと合わせる。
 
 
 
 「話って?」
 
 「初号機の話」
 
 「……あぁ」
 
 
 
 加持は、体を起こした。それに併せてミサトも起き上がる。
 
 加持は煙草の灰を一度、ベッドサイドの灰皿に落とした。
 
 
 
 「……意見はある。だが、まぁ……個人の解釈の域は出ないよ」
 
 加持は灰皿を見つめたまま……淡々と、呟く。
 
 ミサトは、じっとその横顔を見つめて、口を開いた。
 
 「それでいい。それが聞きたいわ」
 
 「いずれな……こんなところで話すことじゃないさ」
 
 加持の言葉に、ミサトはハッとした表情を見せる。
 
 「……盗聴?」
 
 「いや……そんなことはないと思う。一応、調査済みの部屋を選んだつもりだ」
 
 
 
 加持は、煙草を口にくわえながら、言葉を続ける。
 
 「それに、……なんだ。盗聴なんかされてたら、恥ずかしいんじゃないか、葛城」
 
 軽い口調でそう言う加持の言葉に、ミサトは澄ました顔で応える。
 
 「何が?」
 
 「何がって……まぁ……色々さ。この部屋でさっきまでしてたことを、ずっと聞かれてるわけだ、どっかの誰かに」
 
 「そんなもの、恥ずかしがる歳じゃないわ」
 
 ミサトは表情を変えずに、髪をかき上げた。
 
 加持は苦笑する。
 
 確かに、お互い、そんなことを恥ずかしがるような歳じゃない……。
 
 
 
 加持は、煙草を灰皿に押し付けると、ベッドの横に脱ぎ捨ててあった上着を取り、そのポケットに手を突っ込んだ。
 
 新しい煙草を取り出すのかと思ったがそうではなく、取り出したのは小さなカプセルだった。
 
 
 
 カプセル……それは赤と白の不透明な殻に包まれて、中は覗けない。
 
 よくある、風邪薬のようにも、見える。
 
 それを自分の手の平に置いて、ミサトの方に差し出す。
 
 そんな加持の顔を、怪訝な表情でミサトは見つめた。
 
 加持は微笑む。
 
 ミサトはもう一度、加持の顔を見て……微笑むその表情に、おずおずと手を伸ばして、そのカプセルを拾い上げる。
 
 ライトに透かしてみても、何も変わらない。
 
 
 
 「……なにコレ? なんの薬?」
 
 目の前まで持ってきたカプセルを、片目を瞑ってまじまじと見つめるミサト。
 
 
 
 加持は、微笑んだまま、応えた。
 
 「いいクスリさ」
 
 
 
 加持の言葉に、ミサトは顔をしかめる。
 
 「……ナニ、やばいクスリ?」
 
 「まぁ、やばいと言えばやばいかな。葛城が欲しがってたクスリだ」
 
 「……人聞きの悪いこと言わないでよ。……加持君、そんなことに、手を出さないタイプだったのに」
 
 「何年、会わなかったと思ってるんだ? 人は、変わるさ」
 
 おどけた表情でそう言う加持に、ミサトは、カプセルを突き返した。
 
 「いらない。……飲まないわよ、私」
 
 怒ったように、言う。
 
 
 
 しかし、加持は受け取らない。
 
 カプセルを受け取らない加持に、ミサトは手を伸ばしたまま、困惑した表情を見せる。
 
 
 
 「ホラ! ……飲まない、ってば」
 
 「ああ、それがいい」
 
 加持がゆっくりと言う。
 
 そのセリフに、ミサトは怪訝な表情になった。
 
 今のは、会話が噛み合っている、と言えるだろうか?
 
 
 
 「……なに、言ってんの?」
 
 「飲まなくていい。ずっと、持ち歩いててくれれば」
 
 「……なにそれ、気持ちワルイ」
 
 「俺が言うまで、飲むなよ」
 
 「ずっと飲みゃしないわよ」
 
 「それでいい。持っていてくれれば」
 
 そう言って笑うと、加持は体を起こして、ミサトの体に覆いかぶさった。
 
 「わっ。なによ、誤魔化さないでよ」
 
 「誤魔化してるわけじゃないさ……恥ずかしくないんだろ?」
 
 そう言うと、ミサトの体にそっと口付けた。



四百八十一



 ベッドに横になったシンジは、じっと天井を見つめていた。
 
 
 
 まだ、この部屋の天井は、慣れない。
 
 それは、枕が変わると寝つけないようなもので、シンジの頭を冴えさせる。
 
 おのずとシンジの心は、この先どうするか、という点に集約されていった。
 
 
 
 次回の使徒は、確か……軌道上に現れた、と、記憶している。
 
 
 
 記憶が朧げなのは、自分が出動していないからだ。
 
 まともに闘える機体は初号機だけだったにも関わらず、その初号機はゲンドウの指示で凍結。シンジは指をくわえて見ていることしか出来なかった。
 
 
 
 ……何故、初号機が凍結されたのか? それは、シンジにはよく分からなかった。ゲンドウが、初号機を危険に晒すことを恐れたのか、とも思ったが……だとしたら余りにも、他の使徒戦で惜しげもなく初号機を使い過ぎだろう。
 
 使徒の精神攻撃……あれを予見していて、シンジを守ったのか? とも思ったが……ゲンドウがシンジを守ろうとしたとは思い難い。
 
 それに、どちらにしても、使徒の精神攻撃まで予見するのは不可能だ。死海文書には、使徒の細かな能力まで記されているわけではないからだ。
 
 
 
 ……もしかしたら、委員会が何らかの行動を取ったのかもしれない、と、シンジは思う。
 
 そうであれば、理由を推し量るのは無意味だ。
 
 ともかく、初号機が凍結されていては作戦に関与することが出来ない。アスカの精神を、危険に晒すことは絶対に避けなければいけなかった。
 
 
 
 シンジは、ごろんと寝返りを打った。
 
 部屋は暗い。それは、ミサトの家にいても変わらないのだが……やはり、この部屋とあそこは全然違う、と、思う。
 
 
 
 もうひとつ、心の隅っこに、なにか小さな骨のようなものが引っ掛かっている感覚を除くことが出来ない。
 
 何だろう、と思っても、霧の中を歩くように、何も分からない。
 
 確か……使徒との闘いよりも前に、大事な事件があったような気がするのだが……
 
 (……思い出せないなぁ)
 
 シンジは、口惜しそうに目をきつく閉じた。
 
 何だか、分からない。
 
 分からないが……
 
 ……それは、確かに、大事なことだったはず。
 
 なにか、取り返しのつかないような事件だったのでは……。
 
 
 
 ……絶対に避けなければいけない事件が起こるのならば、時代を逆行してきた者として、それを何としてでも回避するように努力しなければいけない。
 
 それは、そうなのだが……
 
 (……思い出せないもんは、どうにもならないよなぁ)
 
 第一、本当に大事な出来事だったのか? それも、記憶があやふやな状態では怪しい。
 
 シンジはもう一度寝返りを打つ。
 
 考えなければいけないのは、そんなもやもやとしたものよりも、まず、使徒のことだ。



四百八十二



 加持は、車を走らせていた。
 
 朝日が差し込む助手席に、ミサトはいない。たった今、彼女をジオフロントまで送り届けてきたところだ。
 
 眩しく照らす陽光に、加持は天井のサンバイザーを下ろした。
 
 アクセルを踏みしめ、排気音が人影のない街に響き渡っていく。
 
 
 
 車は第三新東京市を出て暫くしてから停車した。
 
 現在の日本、特に第三新東京市周辺は、都市部と過疎部の落差が著しい。つい先程まで高層ビル群の中を走っていた車が停っているのは、のどかな畑に囲まれた丘陵地帯である。
 
 一応、第三新東京市に連なる幹線道路ではあるのだが他に車が通る様子もなく、蝉の声だけが青い空にこだましていく。
 
 
 
 加持は車から降りると、横の雑木林の中につながる道に足を踏み入れた。
 
 人の手によって、砂利を敷き詰めた道。ところどころに見られる畝や段差には丸太を埋めて階段状にしつらえてある。しかし、その砂利の間から激しく雑草が伸び、管理が全くされていない様子である。
 
 暫くその道を登っていくと、やがてぽっかりとした空間に出た。
 
 その空間は、雑木林の中を丸くくりぬいたように、木が生えていない、広場のような場所だった。
 
 もちろん広場として使われているわけではなく、くるぶし辺りまで雑草がびっしりと生えて風に揺れている。
 
 広場の端の方に小さなプレハブの小屋が建っていた。
 
 加持は、ポケットに手を突っ込んで、その小屋に向かって雑草をかき分けていく。
 
 
 
 開けっ放しの扉の横には、古びた木の板に墨の文字で「気象庁第七十八衛星監視施設」と書かれている。
 
 確かに見上げれば、屋根にはこの建物には不釣り合いに大仰なアンテナが一基、その横には小さなパラボラアンテナが一基ついている。だが、それとて折れていて使い物になりそうもない。
 
 ここはもう、使われなくなって久しいようである。
 
 加持が中に入ると、そこは6畳ほどのガランとした部屋だった。ここで寝泊まりすることは想定していないのだろう、そういう生活感のある設備は何もない。トイレも見当たらないが、これはもしかすると、外で用を足すのかもしれない。
 
 四面の壁には窓がついているが、ガラスが嵌っておらず、無防備に陽光が部屋全体に差し込んでいる。
 
 おかげで、室内を舞うホコリの渦が、光の帯の中で踊っているのが見えていた。
 
 
 
 部屋の中には、机と椅子がひとつずつ、唯一の調度品として置かれている。
 
 その机の上に、これまた年代物のラジオがひとつ、無造作に倒れていた。
 
 
 
 加持は軋みを立てて椅子に座ると、右側のポケットからドライバを取り出す。
 
 机の上の、倒れたラジオを手に取って、裏に嵌ったネジを外し始めた。
 
 ……暫くして、完全にネジを外してしまうと、裏蓋を取り……左側のポケットから小さなイヤホンと金属の箱を取り出すと、その箱からカラカラとコードを引っ張り出し、基盤の一部に指で押し当てる。
 
 イヤホンを耳に当てて、そのプラグを、箱のジャックに差し込む。
 
 
 
 加持がラジオのスイッチを入れると、かろうじて、という感じで音楽が微かに流れ出した。
 
 ダイヤルをくるくると回すとつぎつぎと番組が変わるが、感度は余りよくないようで雑音混じりにかすれ気味だ。
 
 やがて、ある一点……右にも左にも、1ミリでも回せばそこから外れてしまうような、僅かな帯域を見つけ出す。
 
 
 
 そこから流れてくる音は、ただの雑音と区別の無いような音だ。
 
 
 
 暫く、加持は無言で天井を見つめていた。
 
 
 
 そうして、やがて、呟く。
 
 
 
 「……なりふり構っちゃ、いられないってことか……」
 
 
 
 加持は車に戻ると、エンジンをかけて、ゆっくりとUターンした。
 
 そのまま再び第三新東京市への道の方に車を向け、静かに走り出す。
 
 そうして5分ほど走り、また停車する。
 
 
 
 そこは、うらぶれたバス停だった。
 
 停留所の標識が取れかかっている。既に廃線になっているのかも知れない。
 
 
 
 待合所に、セカンドインパクト前の古い緑色の公衆電話がある。
 
 加持はそこで受話器を上げると、受話器を上げてコインを数枚放り込む。
 
 プッシュホンを手早く押すと、受話器の向こう側で数回の呼び出し音が流れた後、カチャリと留守番電話に切り替わる。
 
 
 
 『はい、葛城です。只今留守にしております。ご用の方は、ピーッという発信音の後にメッセージを録音して下さい……』
 
 
 
 加持は暫く何事かを話し、そして、ゆっくりと受話器を下ろした。



四百八十三



 暗い部屋で、熊谷はじっと椅子に座っていた。
 
 目の前の壁を見つめる。
 
 もちろん、壁に何か、目を引くようなことが書いてあるわけでもない。
 
 閉じたカーテンの隙間から差し込む陽の光が、かろうじて今がまだ夜ではないことを教えていた。
 
 
 
 サードチルドレンの誘拐。
 
 加持リョウジの介入。
 
 ……あれ以来、NERVに行っていない。
 
 
 
 自分の人生は、先日の失敗で、終わってしまったに等しい。
 
 加持が、あれから自分に、何か接触してきたわけではない。だが、あの拠点を探り出してやって来た加持が、自分の存在を連想していないとは思えなかった。
 
 当然、すぐにNERVの諜報部がやって来るだろうと思っていたが、その様子は今のところ、ない。しかし、あの時の自分の犯罪行動が、NERVにばれていないとは思い難い。
 
 
 
 人類補完委員会の命を受けてあのような行動に至ったことは、彼のプライドを満たすに足るものだった。
 
 だから、それがイコール、NERVに仇なす行動であったとしても、それは何の抵抗もなかったし、今でも後悔は無い。NERVよりも委員会の方が上、という認識が、そういう意味では彼を落ち着かせていた。
 
 だから、逃げるつもりもなく、熊谷は自宅にいた。
 
 自分の正体がばれるという意味ではツメを誤ったが、委員会からの指令は遂行したはずだ。自分の仕事に自信を持ってもいいだろう。
 
 加持がやって来たとき、思わず逃げてしまった熊谷だが……元々、「危機に直面して立ち向かわないのは恥」と思うような男だ。あのとき逃げた自分を悔やむ思いもあり、座して連行されるのを待とう、と決めたのだった。
 
 
 
 しかし、熊谷の許には、誰もやって来なかった。
 
 
 
 知らぬうちに、熊谷の焦燥感は募る。
 
 本来であれば、自分を捕らえようという手が伸びてくるのであれば、むしろ避け、遠ざけようと思うのが、人間の自然な心理だろう。
 
 だが熊谷には、一種の開き直りともいえる心情からか、諜報部が現れるのを心待ちにするような気持ちさえあった。
 
 諜報部がやって来たときに、運悪く外出などしていてはいけない、そう思って食事に出ることもなかったが、数日を経てそろそろ備蓄も底をつき始めていた。
 
 
 
 (どうして来ないんだ……)
 
 
 
 熊谷は、眉間に皺を寄せて爪を噛んだ。
 
 何度考えても、加持が上層部に自分のことを報告をしていないとは思えない。
 
 あるいはもしも加持が何らかの意図で報告を怠っているとしても、だったら何故、加持自身がアプローチを仕掛けてこないのか?
 
 ここ数日間は、監視の目を感じることもなかった。熊谷が逃げようとさえ思っていたら、周到な準備の上で、今頃誰にも見付からない外国の僻地にだって行けただろう。
 
 それをよしとする意味があるか? 加持の真意が掴めない。
 
 
 
 いつだって、そうだ。
 
 
 
 あの男は、自分とは全く違う世界にいるのかも知れない。
 
 
 
 熊谷は、無力感にさいなまれて深い溜め息をついた。
 
 ずっと、勝ちたいと思ってきた男。だが、その男に勝つなど、非現実的な遠吠えに過ぎなかったのかも知れぬ。
 
 まだ、それを信じられない思いは強い。だがここ数日、こうしてたった一人で考え続けていると、その言葉は徐々に現実味を帯びてきていた。
 
 
 
 認めたくない。
 
 
 
 だが、それが、事実だ。
 
 
 
 「くそ……」
 
 
 
 熊谷は呟くと、椅子から立ち上がった。
 
 いっそ、打ちのめされてしまいたい。
 
 
 
 自分は諜報部であり……立場上、背任の罪は重い。
 
 状況によっては銃殺も免れないだろう。まさに今回の「適格者の拉致」という行為は、死刑かそれに準ずる刑が下される可能性が高い、と思ってよい。
 
 
 
 加持に負けた今、生きている意味はないという感情が心を占める。
 
 むしろ、今すぐ、殺されて、しまいたい。
 
 どんなに拷問を受けようと、委員会の存在を口にしない自信はある。それ相応の訓練は受けてきたし、諜報部の拷問の仕方は知っている。まるで真実のように、自分の独断専行だと信じさせることはできるだろう。
 
 それでいい。
 
 それで、全ての責を負ったまま死ぬ。
 
 それが、プロフェッショナルとして自分が守るべき矜恃ではないか。
 
 
 
 その瞬間、玄関のインタホンが、乾いた音を立てた。
 
 
 
 熊谷は、ぎょっとした表情で玄関の方に目を向けた。
 
 
 
 誰か、きた。
 
 それは、ある意味待ち焦がれた存在であったが……熊谷の背中を汗が伝った。
 
 何故なら、このマンションには数々の警報装置が人知れず仕掛けられており……実際には、呼び鈴を押すよりもずっと前に、訪問者の存在を熊谷に知らせる仕組みになっているからである。
 
 ……NERVの諜報部に、これらの罠を全てかいくぐれる者などいない、と自負している。一つ二つなら気付くかもしれないが……幾重にも張り巡らされた警報の全てを避けるなど、生半可な者では不可能だ。
 
 
 
 (まさか……)
 
 加持か? と思う熊谷の心理は自然なものだろう。自分に勝る存在を、他に知らない。
 
 熊谷はごくりと唾を飲み込むと……意を決したように、玄関の前に足を運んだ。
 
 
 
 玄関の扉の前に立って、しかし……訪問者に声を掛けることも、監視モニタを見ることもなく、熊谷は鍵を順番に開けていく。
 
 加持だろうが、そうでなかろうか、知ったことではない。
 
 扉を開けた瞬間に銃で撃たれても、それは本望だ。
 
 まぁ、もしも扉の外に立つ人間が加持なら……できるだけ顔を合わせたくない、というのは事実だ。鍵を開けながら、同時に自分の心に順番に鍵をかけて、何があっても動揺しないポーカーフェイスをかぶっていく。
 
 最後の鍵を、ガチリ……と外して、熊谷は小さく呼吸をすると……ゆっくりと、扉を開けた。
 
 
 
 ……しかし、扉の外に立っていたのは想像していた全ての予測から外れた人物だった。
 
 金髪でひょろりとした二十歳前の青年が、頭の悪そうな表情でガムを噛みながら、ポケットに手を突っ込んで、立っている。
 
 「……アンタが、熊谷さん?」
 
 平坦なアクセントで、そう言う。
 
 
 
 熊谷の警戒心は、むしろ飛躍的に高まった。
 
 単なるお使いのわけが無い。そこらの馬鹿な若者に、あの罠をかいくぐれるはずが無い。
 
 「……誰だ、おまえ」
 
 能面のように表情を固めたまま、低い声で言う。先程までは「殺されて本望」などと言っていたが、百歩譲っても殺されるなら諜報部だ。誰だか素性の分からぬものに殺されるのは勘弁願いたい。
 
 「どうやって……ここまで来た」
 
 「どうやってって、まっすぐだよ。……っつうか、んなことはいいんだよ。アンタ、熊谷さん?」
 
 「………」
 
 「違うの?」
 
 「……誰だ、おまえ」
 
 熊谷は応えず、先程と同じ質問を繰り返した。
 
 若者は、くちゃくちゃとガムを噛みながら、あからさまに眉間に皺を寄せる。
 
 「質問してんのは、こっちが先だよ、オジサン」
 
 「………」
 
 「アンタ、熊谷さん?」
 
 「………」
 
 「なぁ」
 
 「……そうだ」
 
 熊谷は、低く、呟いた。
 
 頭の中を計算が走る。……この男が誰だかわからないが、まさか自分の素顔も知らずにここまでは来ないだろう。
 
 質問そのものに意味はない。こちらの反応を見ているのではないか。嘘をつくのと真実を言うのと、どちらがいいかは判断材料が少なすぎるが、嘘は一つついたら、後から幾つも嘘をつき続けることになる。それならば、真実を言うまでだ。
 
 
 
 若者は、ニッと笑った。
 
 そして、そのまま、スッと表情を消し去る。
 
 熊谷は、限界まで警戒レベルをあげる。……武器を持ってから扉を開けるべきだった。失敗した、と、熊谷は心の中で舌打ちする。
 
 若者は、動かない。
 
 視線がうつろになり……そして、再び、先程までとはまるで別の、威圧感のある眼光を取り戻す。
 
 ゆっくりと、口を開く。
 
 
 
 「……久し振りだな、熊谷ユウ」
 
 
 
 熊谷は、驚きのあまり、開いた口を閉じることさえ忘れていた。
 
 
 
 ……メッセンジャー!
 
 
 
四百八十四



 冬月は、むしろ微笑を口許に含んで、加持を見ていた。
 
 
 
 「いつか、私にも手が伸びるとは思っていたが……君か」
 
 その言葉は、まるで緊迫感を孕んでいない。
 
 加持も、冬月に微笑み返す。……まるで、その手に握られた拳銃が、おもちゃだとでも言うかのように。
 
 「……私も、本意ではないんですがね」
 
 
 
 白い光が差し込む廊下で、5メートルほどの間隔を置いて、加持と冬月は対峙している。
 
 
 
 「抵抗は、無駄だろうな」
 
 冬月は呟くように言うと、両手を広げて、顔の高さまで挙げた。
 
 「まさかその銃で、殺す気でもないだろう? 大人しくしよう、だからせめて、優しく扱って貰えると助かるんだがね」
 
 しかし加持は、その言葉を聞いても、銃身を下ろしはしない。
 
 加持は微かな微笑みを浮かべたまま……ゆっくりと、口を開いた。
 
 「もちろん、副司令を殺すなんて気は、最初からありませんよ」
 
 「……なるほど、麻酔銃か」
 
 冬月は、向けられた銃口を見つめながら、言う。
 
 
 
 「……抵抗しない、という言葉は、本当だと思います。ですが、それをそのまま信じて、痛い目に遭うわけにはいかないもので」
 
 「仕方がないな……」
 
 やれやれ、という表情で、両手を挙げたまま冬月は溜め息をつく。
 
 「少しくらいの痛みは諦めよう」
 
 「申し訳ありません」
 
 加持は、そう言いながら、ゆっくりと引鉄を引いた。
 
 微かな空気音がして、その数秒後に、人の倒れる音が、誰もいない廊下に響いた。
 
 
 
 加持は銃をしまうと、倒れた冬月の体を抱きかかえる。
 
 冬月は、既に昏倒してしまっているようだ。
 
 加持は背中に背負い直すと、ゆっくりと歩き出す。
 
 
 
 「私も……なりふり構っては、いられないんですよ」。