第九十九話 「屍肉」
四百六十五



 弐号機は、ゆっくりと引鉄を引く。
 
 

 その指先の動きは鈍色の砲身に確かな命令を伝え、火筒からは続けざまに輝く光の玉が吐き出された。

 一列に並んだビーズの群は、吸い込まれるように使徒の正面に突き刺さる。
 
 激しい轟音と共に、使徒の体は爆煙に包まれた。
 
 

 メインモニタに映るその様子を睨みつけながら、ミサトはマイクを握り締める。

 「アスカ、撃ち過ぎないように注意して! 煙の様子を見ながら……距離を取って」

 勿論、そんな初歩はアスカも承知の上だ。後先を考えずにライフルを撃ち過ぎて、爆煙に使徒の姿が隠れてしまっては意味がない。アスカは、慎重に……煙の間から見え隠れする使徒の体を、視線で撃ち抜くかのように凝視する。

 ミサトも、アスカの射撃の技術に疑いを抱いているわけではない。アスカに投げ掛けた言葉は、言うなれば儀礼のようなものだ。

 「……レイ!」

 それゆえ、ミサトの言葉の投げ掛ける先は、すぐにもう一人の少女に切り替わった。



 弐号機が激しく銃撃を加えている、半歩後ろ。
 
 そこに零号機はただ片膝を地に突いて、腰を落としていた。
 
 

 残された左手に持ったライフルも、銃身を下に向けて撃つ意志が感じられない。

 ……なぜ、攻撃に参加しないのか?

 なぜ、わざわざミサトの作戦に反対してまで地表に上ったのか。意味がないではないか。

 「レイ! ナニやってんのよ、アスカを援護しなさい!」

 苛立ちを言葉の端に含ませながら、ミサトは叫ぶ。

 だが、レイは答えない。



 レイは、全身の神経を集中して、使徒と、その体を包む爆煙の渦を見つめていた。

 ……レイの役目は、弐号機を護ること。

 今はアスカの攻撃が使徒の行動を防いでいるが、その波が途切れた瞬間に、攻撃を仕掛けてくるだろう。

 シンジの話によれば、使徒の攻撃は一瞬だ。その瞬間を、逃すことなく見定めてATフィールドを張らなければ、弐号機を護れない。

 使徒の様子に集中していなければ、その、使徒が攻撃に転じる僅かな隙を見逃してしまうかも知れない。
 
 集中して、集中しすぎることなどない。……ミサトと口論をしている余裕はないのだ。



 「……レイ!」

 ミサトはもう一度声を張り上げる。



 ……ミサトが零号機の様子を苦々しく感じるのには、もう一つの理由がある。

 実のところ……アスカの放つライフルの弾は、確かに激しい爆煙を舞い上がらせていたが、使徒に決定的ダメージを与えるに至っていない。

 命中の直前に、その弾がATフィールドに阻まれてしまうからだ。

 それは現象を見るまでもなく、この場の誰もが容易に想像できることだ。だから、出撃するエヴァのうちの少なくとも一体は、ATフィールドの中和を行わなくてはならない。
 
 

 しかし、現状はどうか。

 明らかに、何もしていないエヴァが、二体。

 攻撃に参加しないのならばせめて、ATフィールドの中和という形でアスカを援護すべきではないか。

 それはまさに基本中の基本というか、シンジもレイもそのことに気付いていないとはとても思えない。

 にも関わらず、二体とも動く気配がない。
 
 忙しくて手が回らないのならまだしも、どう見てもその余裕がありそうな二体が中和を行わないことは、ミサトから見れば責務の放棄とも見え、容認しがたい。



 ……レイもシンジも、そんなことは百も承知だった。

 だが、動けないのだ。



 レイは、使徒の動きに機敏に反応して、即座に防御のためのATフィールドを張らなくてはならない。

 ATフィールドの中和などを行っていて……使徒が攻撃に転じた際に、咄嗟にその中和を解いて、改めてATフィールドを張り直す暇などあるのか。
 
 たった一度のミスで、弐号機の首を刎ねられるわけにはいかない。



 そしてシンジには、その存在を使徒に気付かれてはならないという、大前提がある。

 メカニズムに確証はないが、ATフィールドの中和を行って、使徒にその発信源を気取られないとは言い切れない。

 今回の作戦は、とにかく初号機の存在が肝だ。初号機が奇襲に失敗したときのことは何も考えていないのである。

 初号機の存在を使徒に気付かれたら、それで終わりだ。後は、正面から突っ込むような馬鹿正直な手段しか残されていない。

 今は、じっと身動きせずに伏せていなければならないのだ。



 「シンジ君! レイ!」

 ミサトはもう一度繰り返すが、反応はない。

 ミサトがマヤの方に顔を向けると、彼女も当惑したような表情で首を振った。

 確かに、ミサトの声は二人に届いている。それは計器の表示が教えてくれていた。



 「どういうつもりなのよ……全く」

 ミサトは苦虫を噛み潰したような表情で呟くと、荒っぽくハンディマイクを叩き降ろした。

 後ろに立っていたリツコがマヤに声を掛ける。

 「三人のシンクロ率は?」

 「あ、ハイ……えぇと……ファースト90%、セカンド92%、サード96%です」

 「どーゆーコト?」

 リツコの方に振り返って問うミサトの言葉に、リツコは無表情のまま、僅かに肩を竦めてみせた。

 「さぁ……つまり、三人とも大真面目だってことでしょ」

 ……そう、そのシンクロ率は、三人が闘いに集中していることを示していた。

 たとえ、何もしていないかのように見えるレイやシンジも、集中している。

 ……何か、意図があるのである。



 リツコの言葉を聞いて、ミサトは眉間に皺を寄せながら、視線をメインモニタに戻した。
 
 液晶の向こう側にしゃがむ零号機と、姿の見えない初号機とを、見つめて……

 意図? ……いったい、どんな意図があるというのか。

 ミサトの脳裏に、先程のアスカの声が蘇る。



 『……シンジがそうしろって言ったわけ?』



 ミサトは、ただ……モニタに映る、渦巻く煙を見つめていた。



四百六十六



 カシン!
 
 弐号機の人差指にかかる引鉄は、急に支えを外されたように、スカッと奥にめり込んだ。
 
 弾切れだ。指先の感覚だけでそれが分かるように、ライフルは設計されている。
 
 一瞬の躊躇もなく、アスカは両手のライフルを投げ捨てると、そのまま後ろに並んだ新しい二丁のライフルをその両手に握り、即座に狙いを定めて引鉄を引いた。
 
 
 
 使徒の周りに渦巻いていた爆煙は、僅かに晴れかけたが、また激しく舞い上がり始める。
 
 アスカは両脇に抱えたライフルの振動を感じながら、睨み付けるように、使徒を見つめていた。
 
 
 
 ……分かっている。
 
 いま、自分がしている攻撃は、何の役にも立っていない。
 
 ……いや、何の役にも立っていないというのは言い過ぎかもしれない。だが、では何が出来ているかといえば、せいぜい使徒の足止めをしているくらいだ。
 
 使徒がその前面にATフィールドを展開している以上、こんな武器では傷もろくにつけられないことは、諭されるまでもなく彼らには当たり前すぎる事実だった。
 
 
 
 ……何故シンジもレイもATフィールドの中和をしてくれないのか、という疑問は、当然アスカの中にも沸き起こっていた。
 
 あまりにも、不自然だ。
 
 だが、口を開いて二人を責めるのは躊躇われた。いつもの自分なら、そうするはずなのに。
 
 ……なぜ?
 
 その言葉を、二人に、そして自分に、投げ掛ける。
 
 
 
 なぜ?
 
 
 
 カシン!
 
 再び……弐号機の人差指にかかる引鉄は、急に支えを外されたように、スカッと奥にめり込んだ。
 
 弾切れだ。手に持っていたライフルを投げ捨て、新しいライフルの銃把を握る。
 
 事態の急変は、その瞬間に起こった。
 
 
 
 ガキィィィン!!
 
 
 
 一瞬、アスカも、そして管制塔のミサトやリツコも、何が起こったのか分からなかった。
 
 煙の渦を突き抜けて、二枚の薄いトイレットペーパーのようなものが、弐号機の顔面、その僅かに前方まで伸びて止まっていた。
 
 アスカの目の前に、七色に輝く壁が陽光に煌めいている。
 
 
 
 「……なっ」
 
 一拍……空気を飲み込むように、ミサトは口をぱくぱくと動かす。



 ……その「トイレットペーパー」が、使徒の攻撃であることは明白だった。
 
 

 アスカも、ミサトも……誰も、その素早い動きに反応することが出来なかった。
 
 しかし……
 
 ……にも、関わらず、弐号機は無傷だ。
 

 
 誰が見ても、疑いようが無い。
 
 使徒の攻撃を寸前で防いだのは……ATフィールド。
 
 それは、零号機の、ATフィールドだった。
 
 
 
 ガキン!
 
 ガキン!
 
 ガキン!
 
 ガキン!
 
 ガキン!
 
 
 
 「なッ……なによコレ!」
 
 アスカが、茫然と……呟くようにそう言って、一歩、後ろに右足を引いた。
 
 零号機は、弐号機の後ろで片膝をついたまま、顔だけを前に向けて、ATフィールドを展開している。
 
 アスカの目の前で、薄っぺらい使徒の両腕が、邪魔をする透明な壁に向かって激しく攻撃を仕掛けている。



 打ちつけられるたびに、ATフィールドが一瞬たわむ。

 「……ッ」

 レイは眉間に皺を寄せた。

 集中が緩むと、使徒の攻撃はATフィールドを突き破ってしまいそうである。

 使徒の両腕がそれだけ鋭利だということかも知れないが、どちらかと言えば、両腕の先端がATフィールドで覆われている、と解釈した方が妥当だろう。

 使徒に破られないよう、ATフィールドをより強固な物にするために、レイは精神集中を僅かでも緩めるわけにはいかない。
 
 
 
 「……マヤ、解析!」

 一瞬のタイムラグを置いて、リツコの短い声が鋭く管制塔の中を飛んだ。
 
 その声に、呆然とメインモニタの様子を見つめていたマヤは、急速に現実に引き戻された。

 慌ててキーボードを激しく叩く。

 その背後に、リツコは腕組をした状態で近付いた。

 マヤの肩に左手を置き、モニタの緑色の光をじっと見つめる。

 マヤの白い指がタン、とエンターキーを叩くと、途端にモニタ画面は回転する夥しい数字の群れに埋め尽くされた。
 
 

 「使徒の両腕の先端から、ATフィールドを計測できます」

 「強力ね」

 「零号機のATフィールドが若干ながら浸食されています。……破られますよ」

 「永くは保たないわね……どうするの、ミサト?」



 水を向けられたミサトは、既にマイクを握って声を張り上げていた。

 「レイ! アスカ! 一度さがって! ……まず、使徒の攻撃の射程外に出るのよ!」



 確かに……現状、この膠着状態を脱するには、その方法しかなさそうだ。

 しかし、レイに動くことはできない。

 動くためには一度、ATフィールドを解除しなければ駄目だ。ATフィールドを解除し、即座に後方へジャンプ。普段なら、それも可能だろうが……現在の、限界ギリギリにまでATフィールドのために精神を集中させている状態では、駄目だ。

 ただ真後ろに跳躍するだけでも、ワンテンポ遅れてしまう。その一瞬で首を刎ねられてしまうだろう。



 「……ッ」

 ATフィールドが歪み、七色の光の壁は、油の膜に水滴を垂らしたように、その彩りをたゆます。
 
 集中の糸が、ほつれる。
 
 「!」

 均衡が乱れ、頼りなく歪んだATフィールドに、使徒の腕が振り降ろされた。



 ガギィン!



 しかし、使徒の攻撃は……再び硬い壁に阻まれた。
 
 

 零号機の横で、弐号機が……その赤い腕を前方に伸ばしていた。
 
 「アスカ……」
 
 レイは、再び必至に集中力を掻き集めながら、小さく、横に立つ少女の名前を呟く。
 
 
 
 「……ン……だッてのよ……ッ」
 
 アスカは、搾り出すようにそう呟いて、前方の敵を睨み付けた。
 
 再び、使徒はATフィールドにその腕を振り下ろし始めている。
 
 ……先程まで、自分の放つライフルの弾にその身を晒していた、敵。
 
 だが、忌々しくも……予想通りと言うか、当然ながら、使徒は無傷だった。こんな作戦が何になるのか? アスカは眉間に皺を寄せる。
 
 
 
 レイが攻撃に参加しなかった理由も、今なら分かる。
 
 レイは、この瞬間のために……使徒の攻撃の瞬間にATフィールドを展開するために、控えていたのだ。
 
 これは、彼女にとって、予想されたシナリオの範囲内の出来事だということ。
 
 ……どうせ、考えたのはシンジだろう。そんなこと、聞くまでもない。この、少女は、自分と同じだ……どんなに普通じゃない女であっても、結局、同じ。同じなのだ。少なくとも……こんな、訳の判らない作戦を立てる女じゃ、ない。
 
 
 
 こんなことを考えるのは、あいつしか、いない。
 
 
 
 アスカは、歯をきつく噛みしめる。
 
 
 
 ……だから、口惜しい。
 
 こんな作戦が何になるのか!?
 
 今だって、何をしているわけでもない。ただ、必死に、相手の攻撃に耐えているだけではないか。この状態があと何時間続いたって、使徒を倒せるわけが無い。そんなことは、小学生にだって判る。
 
 ……だから。
 
 ……だから、口惜しい。
 
 
 
 ……自分に見えない何かを、
 
 この少年は、
 
 一人で、見ている。
 
 

 二体分のATフィールドはまた元のように堅牢な壁となり、危ういとは言え使徒の攻撃を跳ね返していた。
 
 もちろん、人間の集中力には限界がある。極限まで高めた集中力を、永久に維持することは出来ない。
 
 だが、とにかく……今は、使徒の攻撃は完全に跳ね返されていた。僅かな隙も存在しない。

 使徒は、再び両腕をハンマーのように振り降ろしながら、その威力を増すためか、一歩、二体の方ににじり寄った。



 シンジが待っていたのは、この瞬間だった。



 踏み出した使徒は、横たわる初号機の目の前で、その背中を無防備に晒していた。

 初号機の存在に、全く気付いていない。


 
 ……カモフラージュの木々が、激しく飛び散り、空中を舞い上がる。

 使徒が振り返るよりも早く、立ち上がった初号機はプログナイフを振りかぶっていた。



 この瞬間のために高められた集中力。

 一条の光の如く、目にも止まらぬ早さでナイフの先端をコアめがけて突き立てた。



 「!」



 シンジは驚きのあまり、目を大きく見開いた。

 コアに突き刺さる筈だった、ナイフの先。
 
 しかし……それは、コアを一瞬でくるんだ、硬い瞼に阻まれていた。
 
 

 (しまッ……)

 脳が状況を判断するよりも早く、シンジは両手に握られた操縦把を、強く引いていた。

 ナイフを振り降ろした体勢のまま、初号機は地を蹴る。

 その反射は、これ以上考えられないほど速く……一瞬の目瞬きの間に、初号機は数十メートルを跳躍していた。

 使徒が、体全体で振り返るように初号機の方を向く。

 その動きは鈍重だったが、地表スレスレを木々を薙ぎ払いながら滑る両腕は、常人の目で追えるようなスピードではなかった。



 初号機の肘から先が、飛沫を上げながら空高く舞い上がった。



四百六十七



 「ぐあぁ……ッ……!」

 シンジは苦悶の声を上げた。

 

 肘の焼け付くような痛み。

 常人なら痛みで気を失ってもおかしくない状況だったが、それでもなお、使徒の次の攻撃を咄嗟に躱したのはさすが、と言えるだろう。



 「碇君!」

 レイは叫びを挙げると同時に、自分と弐号機を護っていたATフィールドを解いた。

 即座に、零号機の左腕に携えられていたライフルが激しく火を吹く。

 その光の弾は狂い無く使徒の背中に命中し、初号機に向かって腕を振り降ろそうとしていた使徒は、その衝撃でバランスを崩し地面に倒れ込んだ。

 その僅かな隙に、初号機は必死に跳躍して間を取る。
 
 

 使徒は振り返り、攻撃を仕掛けてきた零号機に腕を伸ばす。
 
 ライフルを構えていた零号機は、咄嗟にATフィールドを展開することが出来ない。



 「はッ!」

 その瞬間、鋭い声を発して、弐号機が前方に腕を突き出した。
 
 ガン!
 
 危うく零号機の首を刎ねかけたその腕は、寸前で再び、七色の壁に阻まれた。
 
 
 
 ……失敗した!
 
 ……シンジは痛みに顔を歪めながら、素早く距離を取りつつ、使徒の背中を睨みつけた。

 間違っていたのか!? ……確かに、「使徒が突然の動きに弱い」という理論は、状況証拠から勝手に想像した、推測でしかない。

 前回の闘いでは、確かに、そうと解釈できるような状況があった。それは、事実だ。だからこそ、唯一とも思えたこの予想にリアリティを感じたのだ。



 ……だがそれも、確実だと言い切れるわけではない。

 

 前回……零号機の突撃に対し、何故、使徒は両腕を使ってあっさりと倒さなかったのか。

 それは結局、あの、コアを護る外甲殻の強度に絶対の自信があるからではないか。

 強度に自信があればATフィールドを張る必要がないはずだ、だからATフィールドを張った使徒は、強度の自信がなかったはずなのだ……などという逆推論は、考えてみればこじつけでしかない。

 外甲殻に自信があるからと言って、事前にもう一つ防御策を施して何が悪い。引き換えにするリスクがあるのならばともかく、利あっても害など無いのだ。

 

 甘かった。

 何もかも。

 よく考えて、更に奥の奥まで思考を押し進めなければならなかった。

 適当な頃合で「問題ない」と判断してしまい、思考を停止してしまった、自分のミスだ。



 跳躍した初号機は、湖を越えたあたりの山肌に着地した。

 しかし、片肘を失ってバランスが崩れたせいか。

 着地の慣性を受け止めることができずに、そのまま地滑りを起こすように背中から転倒してしまった。
 
 

 木々を薙ぎ払って滑る初号機めがけて、一直線に使徒の腕が伸びてくる。

 「……くぁッ!」

 シンジは鋭く声を発して、すんでのところでATフィールドを展開。
 
 ATフィールドに斜めに当たった使徒の腕は、上方に向きを逸らされた。

 しかし、痛みに耐えながらであることに加え、とっさの攻撃に対応した行動だ。シンジの集中力が高まっていたとは言い難い。

 何とか攻撃を逸らすことは出来たが、その衝撃でフィールドは維持できずに霧散してしまう。

 倒れたままの初号機は、即座に地面を回転しながらその場を離れる。
 
 しかし、何とか体を起こしたその瞬間を狙って、再び使徒の腕が、まっすぐに初号機めがけて伸びてくる。
 
 間に合わない!
 
 シンジは、思わず目を瞑った。



 しかし、その瞬間。
 
 使徒の背中に再びライフルの弾が続けざまに命中し、攻撃を受けた使徒の腕は初号機を掠って後ろの地面に突き刺さった。
 
 
 
 シンジは目を開け、同時に地を蹴る。
 
 空中を飛びながら、視線を素早く動かした。
 
 
 
 湖の向こう側に、片膝をついて引鉄を絞る零号機の姿が見えた。



 使徒は初号機への攻撃をやめて振り返る。

 その脇腹に更に光の弾がはじけ飛び、衝撃に押されるように使徒は数歩、後退した。



 『……レイ!』

 照準を睨みつけながら、折れよとばかりに引鉄を引くレイの耳に、咎めるようなアスカの声が届く。

 レイは応えない。

 モニタの向こう側で、連なる光の弾が使徒のシルエットに吸い込まれていく。

 『レイ!』

 もう一度、先程より、もう少し強い口調が響く。

 一拍置いて……レイは、照準を睨みつけたまま、口を開いた。



 「……なに」

 『なにやってるのよ?』

 「なにって、なにが」

 『見てて分かってるでしょ! ライフルなんか効きゃしないのよ、ATフィールド張ってんだから!』

 「分かってるわ」

 『だったら……』



 その刹那、爆煙の向こう側から、使徒の両腕が煙を突き抜けて一直線に伸びてきた。

 一本は零号機に。

 もう一本は、弐号機に。

 一瞬、零号機の反応が遅れる。だが、咄嗟に弐号機が零号機の体を蹴り飛ばし、すんでのところで二体とも、その攻撃を躱す。

 回転してそれぞれ着地した二体は、すぐさま地を蹴って距離を取った。

 空中を飛びながら、零号機は再び引き鉄を引く。

 使徒の体は、また爆煙の中に消えた。



 アスカは、唇を噛んでその様子を見つめていた。

 見ろ……

 効いていない。

 ライフルの攻撃なんて、効きはしないのだ。

 そんなこと、最初の攻撃で、さんざん自分が証明してみせたではないか。



 このもやもやした感情はなんだ?
 
 
 
 『レイ!』
 
 三度、レイの耳に自分を呼ぶアスカの声が届く。
 
 『見たでしょ!? 効いてないのよ! どうするつもりなの!?』
 
 レイはしかし、静かに、凛とした口調で答える。
 
 「……役に立ってないわけじゃない」
 
 『……何だってのよ』
 
 「……例え、目眩しでも、時間稼ぎでも……役に立っていないわけじゃない。その間に……碇君が、少しでも逃げられる」
 
 
 
 アスカは舌打ちした。
 
 なんだ?
 
 何がそんなに気に食わないのか。
 
 曖昧模糊とした感情を整理するよりも先に、怒気を孕んだ言葉が口をついて飛び出す。
 
 『バカじゃないの!? ……シンジが逃げる時間稼ぎ? ハッ! アイツの犠牲で無駄死にしようっての!? 冗談じゃないわよ!』
 
 
 
 そうだ。

 確かに、冗談じゃない。



 だが、自分の言葉を、同時に否定する、自分の声が聞こえる。



 レイは、そんなこと、思ってない。



 その声を裏打ちするように、スピーカ越しにレイの声が聞こえた。



 『……死ぬつもりなんて、無いわ。ただ……少しでも時間稼ぎが出来れば、碇君が、何とかしてくれるかも知れないから』



 ……そう。

 レイは、そういう少女だ。

 他力本願という意味ではなく……たとえどんな危機的状況であっても、シンジなら打破できる、と信じて疑わない。



 何故?



 誰がどう見ても……今まさに、自分たちは危機的状況に陥っている。

 使徒の攻撃は辛くも躱しているが、闘いの主導権は完全に相手側にあった。

 このまま、いつまでも膠着状態が続くとは思わない。だが、では均衡が崩れたときにどちらに天秤が傾くかと言えば、それは間違いなく使徒の方だろう。

 ましてや、初号機は片腕だ。

 この状態で、どうやって自分たちが勝利を収めるというのか?
 
 この状態で……シンジが使徒に勝つ、と言い切るなど、それこそ思い込みで判断が鈍っていると言われても反論できまい。
 
 
 
 ……そう、分かっている。
 
 
 
 にも、関わらず……
 
 
 
 ……レイの、次の言葉も、手に取るように、分かるのだ。
 
 
 
 『碇君なら……何とかしてくれる』
 
 「なんで……そう、言い切れんのよ」
 
 
 
 『……碇君を……信じてるから』
 
 
 
 ドン!
 
 その瞬間、零号機の脇腹をすり抜けるように、使徒の腕が地面に突き刺さった。
 
 
 
 反応が遅れた零号機は、直撃は避けたがしかし、脇腹を1メートルほど深く薙いで、地面に弾き飛ばされてしまう。
 
 零号機は激しく土塊を巻き上げながら地を這ったが、それでも即座に立ち上がって使徒の方に向き直った。
 
 しかし、一瞬散りかけた思考が再び収束するよりも早く、使徒の両腕が眼前に迫る。
 
 
 
 その、使徒の腕は、零号機の頬を切り裂いて横に逸れた。
 
 使徒の背中に、初号機のキックが命中したのだ。
 
 
 
 蹴り飛ばされた衝撃で、使徒は逆さまになって顔面で地を滑った。
 
 人間であれば痛みに思わず顔をしかめるところであろうが、あいにく使徒にそんな感覚はなさそうである。
 
 キックを見舞った初号機は、着地すると即座に地を蹴って右に跳んだ。
 
 
 
 『綾波!』
 
 シンジの声に、レイは眉間に皺を寄せたまま、凛とした声を発した。
 
 「大丈夫」
 
 声はいつもと変わらないが、脇腹の痛みに、僅かに眉をしかめている。
 
 強いて言えば、レイも、シンジも、この痛みには慣れていた。今までの闘いで、二人は何度も腕をもがれ、腹を割かれる痛みを味わっている。
 
 通常であれば有り得ないことで想像すらも許さないものがあるが、痛みに対する精神的な耐性があるとは言えるだろう。
 
 
 
 大きく跳ねた初号機は、そのまま木々を薙ぎ倒して着地する。
 
 『シンジくん!』
 
 スピーカーごしに、突然ミサトの声が飛び込んでくる。驚いてシンジが振り返ると、その瞬間、初号機の横の地面から物凄い勢いで細長いカーゴが飛び出してきた。
 
 ガシャン!
 
 地表に出ると同時に、その勢いでカーゴの蓋が開く。見ると、中にライフルが入っている。
 
 『使って!』
 
 ミサトの声が耳に届くよりも早く……目の前のものがライフルだと頭が認識するよりも早く、初号機はそのライフルを掴んでいた。
 
 
 
 初号機は、そのライフルを構えもせず、ぶん、と弧を描くように振って、同時に引鉄を引いた。
 
 倒れていた零号機に向かって再び腕を振り下ろしかけていた使徒は、着弾の衝撃で再びバランスを崩す。
 
 その隙に、零号機は大きくジャンプしてその場を離れた。
 
 零号機は跳躍しながら、残された左腕で、再び引鉄を引く。
 
 
 
 まただ。
 
 忌まわしいものを見るように、アスカは深く眉間に皺を寄せた。
 
 また……何の役にも立たない、張り子の弾を撃っている。
 
 時間稼ぎ?
 
 時間を稼いで、何になる?
 
 自分だって……時間が経てば事態が逆転する、そういう起死回生の一手があるのならば、例え一日中だって時間を稼いでやる。
 
 その自信はある。
 
 だが、レイの行動はなんだ?
 
 このまま100日経ったって、使徒には敵わない。人類滅亡のときを、僅かながら先延ばしにするだけだ。
 
 妙策がなければ、時間稼ぎは意味がない。
 
 当たり前ではないか。
 
 
 
 『……碇君を……信じてるから』
 
 
 
 レイの言葉が、脳裏にこだまする。
 
 
 
 碇君を、信じてるから。
 
 
 
 歯を、噛みしめる、痛いほどに。
 
 
 
 碇君を、信じてるから。
 
 
 
 碇君を、信じてるから。
 
 
 
 碇君を、信じてるから。
 
 
 
 信用してくれない人を……信用できると思う?
 
 
 
 ブアッ、と喉元を通りすぎた使徒の腕を、弐号機は寸前で躱していた。
 
 弐号機の首筋から赤い血が噴き出す。
 
 「フッ!!」
 
 アスカは短く息を発して、身をよじるように回転した。
 
 地を蹴る。
 
 そうして距離を取る弐号機を、それ以上の速度で使徒の腕が襲う。
 
 空中では躱せない。そうアスカが思う瞬間、レイのライフルが火を吹いて使徒のバランスを崩し、また、その腕はぎりぎりのところで宙を切った。
 
 
 
 アスカは激しく操縦把を捻じり、ダンスを踊るように地を走った。
 
 使徒は立ち上がりながら、たった今銃弾を見舞った零号機の方に腕を伸ばすが、その背中を今度は初号機のライフルが狙う。
 
 激しい爆煙とともに再び使徒は転倒し、その隙に零号機はその場を離れる。
 
 
 
 まるでいたちごっこだ、と、アスカは思う。
 
 確かに、初号機が腕を一本失った以外、使徒の攻撃は掠る程度で致命傷には遠い。
 
 逆に、こちらは常に、初号機、零号機のどちらかがライフルで狙っている。そういう意味では、こちらの優勢のようにも見えるのだが……。
 
 
 
 違う。
 
 初号機と零号機の攻撃は、辛くも自分たちの身を護っているに過ぎない。
 
 ライフルの弾が幾ら使徒に直撃しようと、使徒には擦り傷だってついてはいないのだ。
 
 腕相撲に例えれば、両者の腕が立って中央で拮抗しているわけではない。こちらの拳が机に接触する、その僅か手前で必死に足掻いているだけ。
 
 とどめを刺されていないだけなのだ。そこから、逆に盛り返すのは殆ど不可能に等しかった。
 
 
 
 レイの言葉が、再びアスカの脳裏をよぎる。
 
 信じてるから。その言葉は、およそ字面で想像できるよりも、ずっと深い想いをたたえていた。
 
 レイの、シンジを信じる想いは、揺るぎない。
 
 シンジが何とかしてくれる。それを、信じられる。
 
 レイにとって、時間稼ぎには意味があるのだ。自分に妙策がなくとも、……シンジには、何かが思い付くかもしれない。
 
 シンジには、何とか出来るかもしれない。
 
 それが……

 レイに、ともすれば緊張の糸が途切れかねない泥沼のような闘いの中で、ぴしりと揺るぎ無く、背筋を伸ばさせる。



 それが、たまらなく、苛立たせる。



 アスカの心の中こそ、泥沼のようだった。

 足掻いても、足掻いても、淀んだ液体の中に沈んでいく。

 真っ暗闇の中で、自分はいったいどこに進んでいるのか?

 ただ、周りが何も見えないだけではない。自分が進むべき、その目的地すら、自分でも理解できていないのである。

 どちらに進めば、このタールの如くまとわりつく感情から抜け出せるのか?

 この感情は、何なのか。

 自分の感情が、何故分からない?



 『……信用してくれない人を……信用できると思う?』



 『アスカッ!!』

 シンジの叫びに目瞬くと、目の前に使徒の腕が伸びてきていた。
 
 ドン!
 
 衝撃が肩甲骨を抜け、一気に足の爪先まで駆け降りる。
 
 見ると、赤い腕が肩から千切れて飛んでいる。
 
 そして、痛みがバシッ! と音を立てて彼女を襲った。
 
 
 
 「ぐぁ……ッ!」
 
 アスカは歯を食いしばりながら、それでもその場で回転して、一気に身を低く屈めてから跳躍した。
 
 ちょうど初号機のライフルが使徒に着弾したこともあり、続けて攻撃を喰らう危険は何とか避けられたようだ。
 
 しかし、これで、3体。もともと片腕だった零号機に加え、初号機、弐号機もみな片腕を失った。
 
 誰が、どうみても、圧倒的な劣勢。



 『……信用してくれない人を……信用できると思う?』
 
 
 
 使徒は、今度は零号機に向かって腕を伸ばしていた。
 
 その背後で、初号機のライフルが火を吹く。



 『……信用してくれない人を……信用できると思う?』
 
 
 
 首を狙った使徒の腕は逸れ、しかし、そのまま零号機の左腕にヒットした。
 
 静から動へ。
 
 立ち止まっていた零号機の腕は、ぶん、と短い音を立てて、一瞬にして背後の地面に突き刺さった。
 
 鮮血が宙を染める。



 『……信用してくれない人を……信用できると思う?』
 
 
 
 『あやなみッ!!』
 
 シンジの鋭い声。
 
 ライフルを構え、その弾が宙を舞う。
 
 しかし、振り返った使徒は僅かにそれを躱し、その腕をしならせるようにして、初号機を襲う。
 
 咄嗟に初号機は体を捻じる。攻撃は躱すが、その勢いで宙をくねったアンビリカルケーブルが切り離される。
 
 転倒する初号機。
 
 その初号機の上に、使徒の腕が振り下ろされる……。



 『……信用してくれない人を……信用できると思う?』
 
 
 
 「……ぅうあぁああああッ!!」
 
 アスカは、喉が焼けつくような叫びをあげて、引鉄を引いた。
 
 光る弾は、初号機に向かって伸ばしかけていた使徒の腕の真ん中あたりに立て続けに命中し、その勢いで腕は「く」の字のように折れ曲がる。
 
 シンジの見ている目の前で、今まさに首を刎ねんとしていた腕は大きく横に逸らされた。
 
 勢いで、使徒も僅かに体勢を崩す。そんな様子を茫然と見ているシンジの耳朶を、アスカの激しい声が叩いた。
 
 
 
 『……なにボサッと座り込んでんのよッ! とっとと立ち上がりなさいッ!』
 
 
 
 「あ、う、うんっ」
 
 シンジは慌てたように応えると、勢いよく身を起こして、そのまま地を蹴る。
 
 跳躍する初号機を、体勢を整えた使徒の腕が追いかける。しかし、その使徒の体に、再びアスカのライフルが着弾する。
 
 
 
 「グズグズしないッ! 早く逃げなさいよ! ……そんで、何とかしなさいよッ!」
 
 アスカは、そう叫ぶながらきつく引鉄を絞り続ける。
 
 初号機は体を傾けて走り、大きく跳躍する。
 
 『何とか……って言われても』
 
 「何とかしなさいよ! できないの!? レイが、アンタを信用してるのが……わかんないの!?」
 
 『………』
 
 「できないの!? どうなのよ! 何とか……しなさいよッ!」
 
 
 
 視界が霞む。
 
 きつく、きつく、唇を噛む。
 
 血が滲んで、LCLに溶けていく。
 
 
 
 何とかしなさいよ!
 
 
 
 できないの!?
 
 
 
 『……碇君を……信じてるから』
 
 
 
 ……あたし……
 
 ……だって……
 
 
 
 『……あたし……だって……』
 
 先程までの檄とは打って変わって、スピーカー越しに聞こえるアスカに微かな声。
 
 シンジは走りながら、聞き咎めるように聞き返す。
 
 「アスカ?」
 
 
 
 きつく、目を、閉じる。
 
 美しいまつげがLCLに揺れる。
 
 そうして……バッ、と、その瞼を開く。
 
 
 
 『……あたしだって! アンタを、信じてんのよ!!』
 
 
 
 激しい叫びに、シンジは、驚いたように目を見開いた。
 
 「アスカ……」
 
 『……しょうがないじゃん! だってさぁ! シンジが何を隠してようと……どんな男だろうと……もう、信じちゃってんだから! とっくに信用しちゃってんだから! いまさら、変わんないのよッ! だって……だって……信用しちゃってんだからさぁッ!!』
 
 
 
 『弐号機の神経接続切断!!』
 
 
 
 ミサトの叫びと同時か……あるいは、僅かに遅いくらいだろうか?
 
 ブンッ、と、仁王立ちする弐号機の首が飛沫を撒き散らしながら宙を舞った。



四百六十八



 泣いていたのだろうか?
 
 アスカの最後の言葉は震えていて……そして、一瞬の後に雑音に変わっていた。
 
 「弐号機パイロットの生死確認!」
 
 ミサトが鋭く叫ぶ、その声に被るようにシゲルの声が続く。
 
 「パイロット、生きています! ……かろうじて、神経接続切断の方が早かったようです」
 
 その報告に、管制室の中はホッとした空気に包まれた。
 
 
 
 シンジの頭の中は激しく混乱していた。
 
 アスカの言葉は、厚く曇った心の中に差し込んだ、確かな光明だった。
 
 しかし……弐号機は戦線を離脱した。
 
 零号機は?
 
 「綾波!」
 
 シンジの言葉にレイの応えはない。代わりに、ミサトの言葉が飛び込む。
 
 『零号機は既に電源切れよ。レイは無事……でも、シンジ君。あなたの初号機も、もう時間がない』
 
 「………」
 
 ミサトの言葉に、シンジは口を噤んだ。
 
 レイが無事、それは良かった。しかし……。
 
 
 
 ミサトの言う通り、もう、さしたる時間はない。
 
 表示された内部電源の残時間は、あと2分程度だった。
 
 何とかしなさいよ!
 
 できないの!?
 
 アスカの声が、シンジの頭をこだまする。
 
 
 
 シンジの頭に思い浮かぶのは、いつも、危機に瀕したときに起こる、あの超人的な現象の数々だ。
 
 自分の脳裏に浮かぶ、光の渦……そして、謎の人物の、微かな姿。
 
 
 
 どこか、また今回も起こるのではないか、と期待していた自分……。
 
 
 
 馬鹿な!
 
 シンジは短く……自分にだけ聞こえるように、小さく毒づいた。
 
 その結果がこれだ。
 
 レイもアスカも、手ひどい損害を被っての、戦線離脱。
 
 唯一の越された自分も、既に片腕を失ってなお相手を倒す手掛かりがない。
 
 残された時間も、後2分を切った。2分の後……初号機も葬り去られ、使徒はドグマへの侵攻を開始する。
 
 今回は、それに対抗する術はない。全てのエヴァは、満身創痍で地上に横たわっている。使徒は何の障害もなく最深部まで到達し……人類は、滅亡する。
 
 
 
 馬鹿な!
 
 
 
 奇跡は起こらない。
 
 自分の力で、何とかしなければいけない。
 
 それが……自分を信じてくれた、アスカの、レイの、その想いに対する……精一杯の、自分の気持ちではないか。
 
 
 
 だが、どうしてよいのかわからない。
 
 
 
 奇跡は起こらない。
 
 
 
 なぜ?
 
 
 
 いつも、自分を助けてくれた、あの光は……なぜ、今日は自分を包まないのか?
 
 「……どうしたら……いいんだよ」
 
 使徒の腕を、一瞬の差で躱す。
 
 ぎりぎりまで精神力を引き絞って……それでも、躱すのが精一杯だ。
 
 このまま攻撃に転じて、使徒にどう対抗していいのか、まるで思い浮かばない。
 
 「なんで……」
 
 なんで、今日は、奇跡が起こらないんだ?
 
 意地悪じゃないか。
 
 いつも、助けてくれた、あの光……。
 
 
 
 (……どうして、そう想うの)
 
 
 
 シンジは、驚いて顔を上げた。
 
 
 
 知らない風景。
 
 だが、どこか、かすかに……見覚えがあるような……。
 
 夕陽の中で、吊り革のシルエットが規則正しく左右に揺れる。
 
 自分の目の前に、幼い頃の自分が座っている。
 
 
 
 「どうしてって?」
 
 シンジは、幼い「自分」に声を掛ける。
 
 幼い「自分」は、背中に赤い光を背負いながら、シンジの瞳を、じっと見つめている。
 
 
 
 (……どうして、そう想うの)
 
 「……どうしてって」
 
 (奇跡に頼るの?)
 
 「………」
 
 (……自分で何とかしようとは、想わないの)
 
 「……だって……」
 
 (……自分で何とかしようとは、想わないの)
 
 「……今までだって、ピンチの連続だった。何とか出来るときは、自分で何とかしてきたよ」
 
 (じゃあ、今回だって)
 
 「……今回は、もう……どうしていいのかわからない」
 
 (だから、奇跡に頼るの?)
 
 「……そうさ……だって、今までも、本当にどうしようもなくなったときに、あの光が助けてくれたじゃないか! 綾波も……アスカも……もう、動けない。僕だって、もうすぐ、動けなくなる。奇跡にすがって何が悪いのさ!」
 
 (奇跡は、奇跡でしかないんだ)
 
 「分かってるよ! そんなこと……分かってるけど……どうしようもないじゃないか」
 
 (もし、奇跡は絶対に起こらないとしたら?)
 
 「そんなこと……」
 
 (もし、奇跡は絶対に起こらないとしたら?)
 
 「………」
 
 (もし、奇跡は絶対に起こらないとしたら?)
 
 「絶対に起こらない……」
 
 (そうだよ)
 
 「………」
 
 (奇跡は、起こらないんだ)
 
 「………」
 
 (……どうする?)
 
 「……そうなったら……使徒に飛び込んででも、止めるよ」
 
 (そんなことができるの?)
 
 「分からないよ……でも……そのまま死を待つなんて出来ない」
 
 (失敗するかもしれない)
 
 「分かってる……でも……綾波を、アスカを……みんなを、死なせるわけにはいかないもの」
 
 (本当に?)
 
 「………」
 
 (本当に?)
 
 「………」
 
 (本当に……命を掛けて……みんなを護るの? ……奇跡は、絶対に、起こらないのに?)
 
 
 
 シンジは、微笑んでいた。
 
 
 
 我知らず……そして、そんな自分の表情に気づいて、自分で驚いた。
 
 顔を上げると、目の前の少年も、そんなシンジを見て、微笑んでいた。
 
 シンジは、ゆっくりと、口を開いた。
 
 
 
 「本当に……命を掛けて……みんなを護るよ。
 
 奇跡が……絶対に……起こらないんだとしても。
 
 
 
 みんなが……僕を、信じてくれた。
 
 僕が、自分を信じるよりも……ずっと揺るぎなく、僕を信じてくれたんだ。
 
 ……だから、僕は、みんなを護る。
 
 みんなが、そんなに信じてくれた、僕を……僕が、信じなくちゃ、いけないんだ。
 
 
 
 みんなのために……そして、僕の、ために」
 
 
 
 (じゃあ……助けてあげる)
 
 
 
 シンジは、驚いたように顔を上げた。
 
 目の前の少年のシルエットは、いつの間にか大人の女性の姿に変わっていた。
 
 目を見開くシンジ。
 
 「か……」
 
 シンジの言葉は、女性の微笑みとともに、その背後から広がる血のように赤い光の渦に飲み込まれた。
 
 
 
 ズギュゥウゥウゥウッ
 
 
 
 不自然な音とともに、あたりにはゴムが焼けたような匂いが立ち込めていた。
 
 管制室のミサトは、驚いたように目を見開いている。
 
 初号機が、指を大きく広げて使徒の腕の前に手の平を晒し……そのまま、使徒の腕が、短冊のように初号機の指に切り裂かれていた。
 
 今まで、誰にも止めることの出来なかった使徒の腕を、初号機が残された左腕で押さえている。
 
 「なっ……」
 
 ミサトは、口を広げて絶句した。
 
 
 
 横たわった零号機の顎の上で、レイは、じっと、その初号機を見ていた。
 
 今まで……あれほどエヴァの体を切り刻んでいた鋭利な刃物を、初号機がその手の平で受け止めた。
 
 異常な光景……だが、レイの心は、驚きはしても異常とは思わない。
 
 こんな異常は……今までシンジが起こしてきた、様々な闘いと比較すれば、決して異常ではない。
 
 
 
 アスカは、エントリープラグの中に座ったまま、前方の初号機を見つめている。
 
 
 
 「ホラ……見なさいよ」
 
 小さな声で、アスカは呟く。
 
 「何とか、しちゃうんでしょ……シンジ」
 
 
 
 初号機は、指の間から短冊状に切り裂かれた使徒の腕を鷲掴むと、そのまま、ぐいっと勢い良く自分の方に引き寄せた。
 
 弾みがついて、初号機の方に転がり込む使徒。その腹を、初号機は右足をあげて、ドン、と受け止める。
 
 そのまま、ギリギリと使徒の腕を引っ張る。
 
 ……ぶちっ。
 
 ぶちっ……ぶちっ。
 
 繊維が切れていくように使徒の腕の根元に亀裂が入り、そのまま……ぶちぶちぶちっと勢い良く千切れてしまう。
 
 使徒の腹を押さえていた初号機の足がぐん、と伸び、蹴り出されるように数十メートル先の地肌にぶつかってめりこむ使徒。
 
 
 
 「千切った……!?」
 
 リツコが、唖然とした表情でモニタに映る初号機の姿を見つめる。
 
 
 
 よろめきながら立ち上がろうとする使徒に、一瞬で駆け寄った初号機が続けざまに蹴りを加える。
 
 バウンドしながら使徒は激しく地を跳ねる。
 
 顔、に当たる部分が激しくひしゃげている。そのまま、使徒は地面に転がって起き上がらない。
 
 
 
 更に追い討ちをかけるとか思われた初号機は、しかしそれを追わずに、その場に立ち止まる。
 
 そのまま初号機は、左腕で掴んでいた使徒の千切れた腕を、右腕の切断面に押し付けた。
 
 
 
 「……!?」
 
 ミサトが、怪訝な表情でその様子を見つめる。
 
 そして、表情が変わった。
 
 
 
 押し付けられた使徒の腕は、ぶくぶくとアブクを浮かび上がらせるように膨れ上がり、別の生き物のように激しく蠢いた。
 
 紙のように薄かった使徒の腕が、まるで、風船に空気を吹き込むように輪郭を増していく。
 
 皆の見ている目の前で、その腕は初号機のそれに融合し……やがて、失った右腕を補うように、一本の腕になった。
 
 
 
 その姿が異様なのは、それが……つまり、まるで人間の腕のように……肌色で、皮膚にくるまれ、その皮の裏側に筋肉を感じ、指の先には爪があったからだ。……これが、異様でなくて何だ? エヴァ。ロボットのように思われている、エヴァ。そのエヴァに、人間の、生身の腕が生えている。
 
 
 
 ミサトは、目を見開いて……その姿を見つめた。この姿に驚かない人間がいるだろうか?
 
 
 
 「……なによ、アレ」
 
 アスカも、半分体を起こすようにして、初号機を凝視した。
 
 失われた腕を、あんな方法で復元した。
 
 しかも、あの、腕。
 
 右腕だけが裸身のように晒された姿はまるで、右腕の着ぐるみが取れた、エヴァのぬいぐるみの中に、人間が入っているように見える。
 
 そう思って、アスカは思わずぞっとした。エヴァのぬいぐるみの中に入っている、人間?
 
 そう……そう、思ったほうが、しっくりする威容。
 
 右腕だけが人間、なんじゃない。
 
 全身が人間で、右腕だけ、殻をかぶっていないだけ……。
 
 
 
 初号機が、突然、両腕を搾るような姿勢で高く空を見上げ、そのまま、口を開いた。
 
 
 
 ヴァロォロロロロォオォオォオォオォオオオォォォ……!!
 
 
 
 「ひっ……」
 
 マヤが、驚いたように眉をしかめ、両耳を塞ぐ。
 
 シゲルが振り向いて声を掛けた。
 
 「どうした、大丈夫か?」
 
 シゲルの声に、マヤはモニタを見つめたまま、微かに首を左右に振り……呟く。
 
 「……イヤな、こえ」
 
 
 
 「パイロットの生死確認!」
 
 初号機の叫びに我に返ったミサトが、鋭く声を発した。
 
 その言葉に、マヤが慌ててキーボードを叩く。
 
 ミサトは、腕組みをしたままリツコの方に顔を向ける。
 
 「どう思う?」
 
 「暴走……しているんでしょうね」
 
 リツコは、睨み付けるように……冷ややかな視線をモニタに映る初号機に向けながら、静かに呟いた。
 
 マヤは、モニタに流れる文字を見つめながら、緊迫した声を挙げる。
 
 「初号機パイロット、生命反応確認! ……シンクロ率200%、それ以上の情報は不明。意識を失っているかも……」
 
 「でしょうね」
 
 マヤの報告に、リツコは小さく応える。
 
 
 
 ガシャッ、と、初号機は突然倒れ込むように地に伏せた。
 
 
 
 いや……正確には、四つん這いになったというほうが正しいだろうか?
 
 驚く面々。およそ、エヴァらしからぬ……
 
 
 
 初号機はそのまま、獣のような動きで倒れる使徒のそばに移動し、そのまま、使徒の上にまたがった。
 
 
 
 初号機は、使徒の上にから、覗き込むようにその顔を近づけた。
 
 使徒はふるえながら、自分と初号機の間に、光る七色の壁を出現させる。
 
 初号機は、そのATフィールドに弾かれるように一瞬体を起こし、一拍置いて……まるで不思議なものを見るように、僅かに首を傾げた。
 
 そのまま、生身の右腕を振りかぶり、無造作に振り下ろす。
 
 
 
 バキィイン!
 
 
 
 何の障害もなく、ATフィールドは一瞬にして砕け散った。
 
 初号機の右腕は、そのまま使徒の腹部に深くめり込み……
 
 ……数瞬の後、まるで噴水のように、紫色の血を吹き上がらせた。
 
 
 
 圧倒的な初号機の力に、ミサトたち管制塔の面々は、ただ茫然とモニタを見つめるしかない。
 
 
 
 「……あんなに、簡単に」
 
 アスカが、唖然としながら、呟く。
 
 初号機が使徒から腕を引き抜くと、血の噴水は益々高く、ジオフロントを染め上げる。
 
 使徒と初号機に降り注ぐ、紫色の雨。
 
 初号機はそうして噴きだす噴水を気にすることもなく、腹に開いた穴に顔を近付けた。
 
 
 
 そうして、ゆっくりと、口を開く……。
 
 
 
 「……ヒッ!!」
 
 マヤが、肺から空気の抜けたような声を挙げた。
 
 ミサトが、眉間に皺を寄せる。
 
 リツコも、驚愕に僅かに目を見開いた。
 
 
 
 ……初号機は、使徒を喰っていた。
 
 まるで、むさぼるように。
 
 ときどき、顔を鋭く上げて周囲を警戒し、また屍肉に顔を伏せる。
 
 その、肉を漁るおぞましい音だけが、既に陽の落ちかけた空間に響いていく……。
 
 
 
 「……まさか……S2機関を、直接取り込むつもりなの……!?」
 
 リツコは、茫然と、呟いた。
 
 
 
 レイは、言葉を失ったまま、その凄惨な情景を見つめていた。
 
 既に、レイの体も、使徒の血の雨で紫色に染まっている。
 
 その雨を拭おうともせず……
 
 「……碇君」
 
 ……ただ、それだけを呟くのが、やっとだ。
 
 
 
 アスカも、その情景から目を逸らすことが出来なかった。
 
 「……あんな」
 
 掠れた声が、喉から漏れる。
 
 アスカの脳裏に浮かぶのは、シンジが取り込まれた……あの、虚数空間を内包した使徒との闘い。
 
 あのときも、思った。
 
 こんなものに、乗っているのか、と……。
 
 ……こんな、ものに。
 
 ……こんな、ものに……。
 
 
 
 ……私達は、本当に、エヴァを操縦できているのだろうか?
 
 操っている、と思っていても、本当は……。
 
 茫然と初号機を見つめるアスカの背中を、おぞましい感覚がよぎった。
 
 
 
 「……スイカには悪そうだなぁ」
 
 加持は、木陰で自分のスイカ畑を見つめながら呟いた。すでに、スイカの群れは紫色に染まっている。
 
 顔を上げると、立ち並ぶ木々の間から、激しく上下する初号機の背中だけが見える。
 
 加持は、僅かに口の端をあげ……笑うように、呟いた。
 
 「初号機の覚醒と解放。ゼーレが黙っちゃいませんな……これもシナリオのうちですか? 碇司令」



四百六十九


 
 ゲンドウの執務室。
 
 その、暗闇の中で……使徒をむさぼる初号機の姿を、二人の男が、じっと見つめている。
 
 
 
 初老の男が、静かに、呟く。
 
 「はじまったな」
 
 
 
 もう一人の男が、それに、応える。
 
 「ああ……全ては、これからだ」
 
 
 
 そして再び、部屋には静寂が訪れた。