第九十六話 「ベンチ」
四百五十一



 「綾波……」
 
 シンジは、驚いたように、レイの瞳を見つめ返した。
 
 レイは、じっとシンジの視線と向かい合っている。
 
 
 
 「碇君……」
 
 レイが、静かに言葉を紡ぐ。
 
 「……一人で、抱え込むのは、やめて……。
 
 ……今までは、碇君がどんなに苦しんでいるか、横で見ていて感じられても、何も出来なかった。……ただ、後ろで見ているしかなかった。
 
 でも、今は違う。全く同じ立場にはなれないのかも知れないけど、一緒に考えて、手助けは出来るわ。
 
 ……お願い。
 
 私にも、碇君の手伝いをさせて。碇君を……助けたいの」
 
 
 
 シンジは、口を噤んだまま、レイの顔を見つめていた。
 
 
 
 レイは、まっすぐにシンジの瞳を見つめていて……その、曇りのない紅い視線に、シンジは息を飲んだ。
 
 まっすぐ……何の屈折もなく、一直線にシンジの心に注がれる、その……真摯な、視線。
 
 
 
 ……そうだ……。
 
 
 
 何を、一人で抱え込もうとしていたんだろう?
 
 何故、こんなところに一人でやって来て……誰にも知られないように、考えていなければいけないんだろう。
 
 
 
 ……もちろん、アスカや、ミサトさんや、他のみんなには、まだ未来の出来事は話せない。
 
 だけど……綾波は違う。
 
 もう、他のみんなとは、同じじゃない。
 
 ……綾波は、僕と一緒に考えてくれる、唯一の人なんだ……。
 
 
 
 「……そう、だね」
 
 ……数秒の時を置いて、シンジは……ゆっくりと、呟いた。
 
 そして、レイの瞳を見て、そっと微笑む。
 
 「……僕は、あの時……力を貸してくれ、って、お願いしたんだもんね」
 
 「うん……」
 
 レイは、シンジの言葉に小さく頷いて、同じように、優しく微笑んだ。
 
 右手を伸ばして、膝の上に置かれたシンジの拳の上に、そっと手の平を重ねる。
 
 暖かい……と、シンジは心の片隅で思う。
 
 「……碇君は、一人じゃない。私が、いるもの……」
 
 レイはそう呟いて、ふわり……とシンジの首筋に、その鼻先をうずめた。
 
 
 
 鼻先を、まるでこすりつけるようにして甘える、レイのいつもの仕草。
 
 シンジはその頭を優しく撫でながら、どこか……懐かしい思いに包まれていた。
 
 そう……ひどく、久し振りにレイに触れているような気持ち。
 
 だが、確かに……そこはまるで、自分の還る場所のように、穏やかで、暖かい……。
 
 
 
 シンジは、目の前に見える蒼い髪の毛を撫で付けながら、そっと、口を開いた。
 
 
 
 「……もうすぐ、次の使徒が来る」
 
 
 
 シンジの言葉に、レイの体が硬くなるのが分かった。
 
 ゆっくりと、レイは、体を起こす。
 
 シンジは、黙ってレイを見た。
 
 レイの瞳に広がる、驚きの色……。
 
 「……いつ……?」
 
 「……明後日だよ」
 
 肩を竦めるような仕草で応えるシンジの言葉に、レイの瞳は、更に大きく見開かれた。
 
 
 
 言葉を失っているレイの顔に少しだけ視線をとどめてから、シンジは、顔を前の方に向けた。
 
 レイは、そんなシンジの横顔を、じっと見つめている。
 
 シンジは、ゆっくりと言葉を続けた。
 
 「……もっと正確に言うなら、明後日の昼過ぎくらいだね。
 
 前回……事情があって、僕はそのとき本部にいなかったから、出現の詳しい状況はわからないけど……市内に避難警報が発令されてから、使徒はすぐにジオフロントに現れたから、出現場所もそんなに遠くはないと思う。
 
 今度の使徒は、目からレーザー光線のような……何だろう、あれは、加粒子砲なのかな? とにかくそういうのを撃ってくる。それから、折り畳まれた両腕は、鋭利な刃って感じだね。あと、コアに確かに攻撃がヒットしたのにかすり傷一つ追わせられなかったことがあったから、硬い……というか、何かコアの防御法があるのかも知れないな」
 
 
 
 「……弱点のようなものは……何か、ないの?」
 
 レイが、抑えたような、静かな声音で呟く。
 
 シンジは、首をゆっくりと横に振り、溜め息に似たものをひとつついて、視線をレイに向ける。
 
 「……分からない。
 
 はっきり言って、これといったものはないと思う……完全に、パワー・ゲームだね」
 
 
 
 レイは、小さく眉間に皺を寄せて、口を開いた。
 
 「……じゃあ、どうやって倒したの?」
 
 「え?」
 
 「碇君が……前、いたところでは……」
 
 「ああ……初号機が、暴走したんだ」
 
 シンジの言葉に、レイは僅かに表情を硬くする。
 
 シンジは、視線をレイから再び前方に戻して、言葉を続けた。
 
 「実際……強い使徒って言っても、暴走した初号機の敵じゃあなかったんだろうね。
 
 でも……その、暴走している最中は、僕は意識を失っていて何も覚えてないんだ。初号機がどうやって使徒を倒したのか、それは分からない」
 
 「………」
 
 「初号機をわざと暴走させるなんてできないから、何とか自力で倒さなくちゃいけない。
 
 でも……その方法はまだ、思い付いてないよ。それで、頭を悩ませていたんだ」
 
 
 
 レイは、じっと、シンジの横顔を見つめている。
 
 シンジは、決め手を見つけられずに、悩んでいる……。
 
 
 
 レイは、そっと、自分の拳を握り締めた。
 
 ……一人では気付けないことも、二人なら気付くことができるかも知れない。
 
 頭の中のスイッチを、カチン、と入れる。
 
 レイは、じっと、シンジの横顔を見つめている。
 
 考えろ……。
 
 ……碇君の力に、なれるかも、知れない。



四百五十二



 ミサトは、目を閉じていた。
 
 頬に感じる風は、何故起こるのだろう? ここは、地表とは隔絶された空間……青空の広がる世界とは、違うのに。
 
 
 
 ……こんな話をリツコにしたら、きっと、「空調が効いているからよ」などと言われてしまうに違いない。
 
 だが、もう少しのロマンチシズムを、感じたい気持ち。
 
 こんな気持ちは、リツコには分かってもらえないのかも知れないな、と、心の隅っこで、思う。
 
 
 
 目を開くと、遥かな高みにオレンジ色の壁が広がっているのが見える。
 
 あの、壁の向こう側が、本当の空。
 
 このジオフロントでは、たとえ緑生い茂る大地を踏みしめても、本当の外ではない。
 
 
 
 ベンチの背凭れに頭を預けたまま、ミサトは、ぼんやりと天井を見上げていた。
 
 
 
 ……ややあって、聞き慣れた靴音を耳に遠く感じ、ミサトは頭を起こした。
 
 振り返ると、加持が軽く微笑んで手を上げる姿が見える。
 
 
 
 加持は、ミサトの座るベンチのそばまで歩いてきて、その横に同じように腰を下ろした。
 
 「待ったか? すまない」
 
 「時間通りよ。私が早めに来てただけ」
 
 加持の言葉に、ミサトは首を振る。
 
 
 
 「……ベンチ、新しいのにしたのね」
 
 ミサトが、自分の座るベンチを手の平で撫でながら、呟くように言う。
 
 前の木製のベンチとは違い、今度は白いプラスチック製だった。
 
 いずれにしても、あまり頑丈そうではない。
 
 「前のは壊れちまったからな」
 
 加持が、煙草をケースから一本取り出しながら言う。
 
 
 
 ここは、加持のスイカ畑の前。
 
 ミサトと加持は、ここで待ち合わせをしていたのだ。
 
 
 
 フゥッ……と、加持の口から紫煙が立ち上る。
 
 
 
 「……で、今日は何の用だ?」
 
 たなびく煙を目で追いつつ、加持は呟いた。
 
 
 
 「……加持君は、まだ……アルバイト、してるの?」
 
 ミサトは、スイカ畑を見つめながら、呟くように言う。
 
 加持は、指に持った煙草をくるくると回転させて、横目でミサトを見た。
 
 「どうしたんだ、急に?」
 
 「……ううん……ただ」
 
 言葉を濁すミサトに、加持は少しだけ視線を留めてから、前方に目を移す。
 
 「……まぁ……少しはな。昔ほど、おおっぴらにはやってない」
 
 加持は、軽くそう言って、再び煙草を口にくわえた。
 
 煙を吐く。
 
 「それが、どうかしたのか?」
 
 呟くように、言う。
 
 
 
 「……加持君は……どこまで、知っているの?」
 
 「何を?」
 
 「……何もかもを……」
 
 
 
 ……ミサトの言葉に、加持は軽く肩を竦めた。
 
 「……さぁな……謎は、それが一体どれほどの大きさなのか……それさえも分かっちゃいない。
 
 俺が知っていることなんて、ほんの僅かな欠片に過ぎないよ」
 
 加持の言葉に、ミサトは小さく首を振る。
 
 「……それでも、私よりは、遥かに知っているわよね」
 
 「まぁ……そりゃぁな」
 
 「……教えて欲しいの」
 
 「何を?」
 
 「何もかもを……よ」
 
 ミサトの言葉の最後は、微かに風に千切れて、消えた。
 
 
 
 ミサトの口が、言葉を紡ぐ。
 
 「……碇司令は、何をしようとしているの?」
 
 
 
 「………」
 
 「最初の頃は……世界を、人類を救うために、行動しているんだと思ってた。
 
 司令のやり方には時々疑問を感じることもあったし、冷徹だと思うこともあったけど、目的がはっきりしているなら……と、思ってたわ。
 
 ……でも……何か、違う。最近、そう思えるようになったの」
 
 ミサトは、そう言って口を噤んだ。
 
 二人の間に、沈黙が横たわる。
 
 加持はミサトを見るでもなく……ただ、くわえた煙草から煙をくゆらせた。
 
 
 
 「……碇司令が何を考えているか……本当のところは俺にも分からない」
 
 ややあって……加持は、呟くように低い声で、そう言った。
 
 ミサトが加持の顔を見る。
 
 加持は、視線を一度だけミサトに向け、そのまま言葉を続けた。
 
 「おそらく、副司令だって、司令の本当の目的は知らないだろう。一応、建前のようなものはあるだろうが……真実は、司令だけが知っていることだ」
 
 「……じゃあ、その、建前っていうのはなに?」
 
 ミサトが、加持の顔を見つめて言う。
 
 加持はゆっくりと、かぶりを振った。
 
 「俺の知っていることなんて、些細なことだ」
 
 「些細でもいいわ。知りたいの」
 
 「いずれにしても、こんなところで話すようなことじゃない」
 
 加持は、言いながら立ち上がった。
 
 
 
 ミサトは、俯いて、自分のつま先を見つめていた。
 
 そう……加持の、言う通り……こんなところで、話すようなことじゃない。
 
 誰が聞いているのかも知れないし……それに、確証もないのだ。
 
 それに……
 
 
 
 司令の周りを……それこそ最深部まで探りを入れようと動けば、危険も飛躍的に増していく。
 
 加持も、そう軽々と、安請け合いすることは出来ないだろう。
 
 仮に、ミサトの言葉を詳しく聞いて、調査に動いてくれたとしても、それは綿密な検証の結果だ。
 
 加持は、この方面において絶対の信頼が置けるプロであり……だからこそ、そんなに簡単には頷いてくれるはずがない。
 
 ……そう、ミサトが思った、その時。
 
 
 
 「……だが、俺も白黒つけたいと思わないでもない」
 
 
 
 加持の呟きに、ミサトは、ゆっくりと、彼の横顔を見上げた。
 
 加持は、懐から小さな銀色のケースを取り出し、フタを開けて煙草の先を押し付ける。
 
 ジュッ、と小さな煙が上がり、消える。加持は親指でフタを閉じると、再びそれを内ポケットにしまい込んだ。
 
 
 
 「加持君……」
 
 ミサトが、加持の横顔を見つめたまま……ただ、その名前を、呼ぶ。
 
 加持は、体をミサトの方に向けた。
 
 「……葛城のためってばかりじゃない。きっかけが欲しかったのかも知れないな」
 
 そう言って、少しだけ悪戯っぽそうに肩を竦め……
 
 ……それから、まるで滑らかな水の流れのように、ゆっくりと言葉の波を静まらせていく。
 
 「……俺も、司令の考えていることに興味がある。
 
 調べてみよう……出るのは、鬼か蛇か……いずれにしても、それは葛城にも報せるよ」
 
 そう言う加持の表情は、既に、深い湖のように穏やかだった。
 
 
 
 ミサトは、加持の瞳を見つめながら、立ち上がった。
 
 
 
 加持とミサトは、無言で……お互いの瞳を見つめあう。
 
 それは……恋人同士の愛の絆のような、湿度を持たず……
 
 ……しかし、見つめる視線に何の不純物も混じらない。
 
 
 
 ……加持の言葉に隠れた色は、決して一色ではない。それを、ミサトは感じていた。
 
 
 
 子供のような好奇心と、
 
 戦士のような闘争心と、
 
 老練な職人のような清廉な心と、
 
 愛情と。
 
 
 
 その奥に、更に幾重にも編み込まれた想いは、混じり合ってミサトには掴みきれない。
 
 別に、加持に限った話ではなく……人間とは、そういう生き物だ。不格好なほどに、複雑な心を抱えている。
 
 だから、予測できない。
 
 
 
 ミサトは、少しだけ首を傾けて、……微かに微笑んで、口を開く。
 
 「……前」
 
 「ん?」
 
 ミサトの言葉に、加持は少しだけ瞼を広げて反応する。
 
 ミサトは、微笑みを……ほんの……目の前の、加持にだけ分かるくらいに、そっと浮かべて……言葉を続けた。
 
 「……加持君が……私の父に、似てる……って、言ったことがあったわね。……覚えてる?」
 
 「ああ……そんなこともあったな」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……それが、どうかしたか?」
 
 「ん……」
 
 「なんだ?」
 
 「……やっぱり……そんなに、似てないな、って思って……ね」
 
 「……ん?」
 
 「………」
 
 「……そりゃぁ、喜んでいいのか?」
 
 「さぁ」
 
 「おまえな……」
 
 「フフッ……まぁ、違うのは当たり前よね」
 
 「何を言ってるんだ?」
 
 「人間なんだから……違うのは、当たり前」
 
 「酔っぱらってんじゃないだろうな」
 
 「ちゃかさないでよ」
 
 「笑ってるのはおまえの方だ」
 
 「あ〜あぁ……今まで、どうして……」
 
 「なんだ?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……何でもない」
 
 「……葛城」
 
 「………」
 
 「……どうかしたのか?」
 
 「加持君……これ」
 
 ミサトは、そう言いながら自分の首の後ろに手を回し、その首からネックレスを外した。
 
 
 
 ネックレス……それは、まるでミサトのトレードマークのように、いつでもその首に掛かっていた、武骨な十字架。
 
 およそ彼女らしからぬ、装飾性のないデザインには首を傾げる者もいたが、彼女の自然な振る舞いは、その違和感を解消させていた。
 
 しかし、そのネックレスが父親の形見であることを知る者は多くない。
 
 
 
 口を噤んだまま、加持はミサトを見つめる。
 
 ミサトは手の平にその十字架を置くと、そのまま、加持の方にゆっくりと差し出した。
 
 加持はその十字架を見つめて……再び、視線をミサトに戻す。
 
 「……どういう意味だ?」
 
 とぼけた表情で、加持は尋ねる。
 
 そんな加持の優しさに……ミサトは、くすっと微笑んで、口を開いた。
 
 「あげる」
 
 「俺に?」
 
 「加持君に、持ってて欲しい」
 
 「……似合うとは思えないけどな」
 
 「別に、首に掛けなくたっていいわよ。家に仕舞っておくんでもいい……でも、加持君に、受け取って欲しいの」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……そうか」
 
 
 
 加持は手を伸ばすと、ミサトの手の平から、そのネックレスをつまみあげた。
 
 目の高さまで持ち上げ、二、三度、くるくると回す。
 
 そして、無造作に片手でポケットに突っ込んだ。
 
 
 
 そのぞんざいな仕草が、加持の優しさ。
 
 それが分かっているから、ミサトは、ただ暖かく、微笑んでいた。



四百五十三



 「あっ、いたいた。なにやってんのよ、こんなトコで」
 
 突然聞こえてきた耳慣れた声に、シンジとレイは共に考え込んでいた頭を上げた。
 
 休憩室の入り口の方を見ると、アスカが仁王立ちで立っているのが見える。
 
 
 
 「あ、ああ……アスカ。どうしたの?」
 
 シンジが驚いたように言うと、アスカは憤然とした表情で、腕組みをしながら応えた。
 
 「どうしたの、じゃないわよ。とりあえず荷物を一通り入れたから、アンタらのところを覗きに行ってみたら、二人ともいないんだもの。いちゃつくんなら、夜にでもしなさいよね」
 
 「い……いちゃついてたわけじゃ……」
 
 「こぉんな広い部屋で、二人しかいないのにそんなにぴったりくっついてるヤツが、いちゃついてないとでも言うわけ?」
 
 呆れたように言うアスカの言葉に慌てて自分たちの姿を見ると、確かに……この10畳ほどもある空間で、肩と肩を触れ合わせて座っている様は、まさにいちゃついているとしか言い様がない。
 
 シンジは、さすがに赤面して頭を掻いた。
 
 対してレイは、ただきょとんとして、アスカの顔を見ている。
 
 アスカが言っている意味が分からないわけではなく、どちらかと言うと、「ぴったりくっついていて何が悪いのか」といった風情だ。
 
 
 
 実際のところ……探しに来てみれば、一見するとラブラブに愛を語り合っているかのような二人。
 
 これを見つけたのがアスカではなくトウジやヒカリあたりだと、二人の邪魔をしないようにと、赤面しつつ姿を隠すところだ。
 
 しかしアスカは容赦ない。それは、その程度のことを二人が「嫌」と言わないと分かっているせいでもあり、また、三人の距離の近さの現れでもある。
 
 
 
 「アンタたち、二人とも部屋の片付けは済んでるの?」
 
 「ああ……まぁ、別に大した荷物もないし」
 
 アスカの問い掛けに、シンジが答える。大体、身の回りのものだけをまとめて来たのだから、タンスひとつにスカスカな程しか仕舞うものなどない。適当に詰めても、ものの15分程で片付けなど済んでしまう。
 
 だが、アスカはくるりときびすを返すと、二人に向かって手招きする。
 
 「じゃ、ちょっとアタシの片付け手伝ってよ。量が多くて収拾がつかなくなってきたのよね」
 
 そう言ってスタスタと歩いていくアスカの背中を、シンジは唖然と、レイはきょとんとして見つめていた。
 
 
 
 住居フロアに三人が戻ってみると、前方の廊下に、見知った人影があった。
 
 ブロンドの髪に白衣の後ろ姿など、該当する人物は約一名を除いて記憶にない。
 
 その姿を認めたアスカは、その女性の背中に向かって、手を振りながら声を掛けた。
 
 「リツコ! どうしたの?」
 
 その声に、リツコが振り返る。
 
 そして……アスカが、そしてシンジとレイも、リツコの体の陰に隠れて見えなかった人物の姿に気付いて、思わず歩みを止めた。
 
 
 
 「……トウジ」
 
 シンジが、少しだけ驚いたような表情で呟いた。
 
 
 
 そこに立っていたのは、鈴原トウジだ。
 
 いつものジャージ姿に、片手に小振りなボストンバッグがひとつ。
 
 荷物が少ないのは、彼があまり荷物に執着しないこともあるだろうが……それよりは恐らく、突然のことで取るもの取りあえず出てきたからであろう。
 
 トウジは、照れ臭そうな表情で空いた右手を挙げ、シンジの声に応えてみせた。
 
 
 
 「あなたたち、どこに行ってたの」
 
 リツコが腰に手を当てて、三人に向かって言う。
 
 「一通り引っ越しが済んだら、当面のことについて伝達事項があるから部屋にいなさいって言ってあったでしょ」
 
 「……すいません」
 
 シンジが、バツが悪そうに頭を下げた。
 
 アスカは憤然とした表情で、リツコに向かって胸を張る。
 
 「アタシは、コイツらを呼びに行ってたのよ。見に行ったらいないから」
 
 「しっかりしなさい……幾ら使徒が目前に迫っているわけじゃないとはいえ、勝手な行動は禁物よ」
 
 リツコは、やれやれといった表情で溜め息をつきながら、首を左右に振りつつ呟いた。
 
 
 
 もちろん、普段ならばシンジも言われた通りに行動するだろう。
 
 だが、今は……それこそリツコの言う通り、「使徒が迫っている」のである。尤も、それを説明するわけにはいかないが。
 
 
 
 「まぁ、それは置いておくとして……もう知っているとは思うけど、改めて正式に伝えておくわ。新しいあなたたちの仲間……フォースチルドレン、鈴原トウジ君よ」
 
 リツコはそう言いながら、一歩後ろに下がって道を空け、トウジに向かって目で促す。
 
 トウジも緊張気味の面持ちで、おずおずと口を開いた。
 
 
 
 「なんちゅうか、その……いっつもどつきあっといて、こういうんも……その、なんかヘンやけど……
 
 ……よろしゅう、お願いします」
 
 言って、ペコリと頭を下げる。
 
 
 
 「……彼もこれで、正式にチルドレンになったわけだから、あなたたちと同じく、今日から暫くはここで暮らすことになるわ。
 
 ジオフロント自体も初めてだから、色々と教えてあげて頂戴」
 
 リツコは続けてそう言うと、手首の内側に填めた腕時計をちらりと見る。
 
 「じゃあ、トウジ君は部屋に荷物を置いて。30分後に第三会議室で今後のミーティング。今度は遅れないように」
 
 そう言い残して、リツコはくるりときびすを返し、廊下の奥に向かってカツカツと歩いていった。
 
 
 
 残された四人は数秒ほどその後ろ姿を見つめたまま黙っていたが、やがてまず口を開いたのはアスカだった。
 
 アスカは小さく溜め息をつくと、半目でトウジに視線をくれて、腰に手を当てて演出気味に肩を竦めてみせる。
 
 
 
 「……よっく、こっちに来る気になったわね」
 
 
 
 アスカの感想は、ごく自然なものだろう。
 
 あの闘いで、トウジがどれほどに恐ろしい目にあったか、それは想像に難くない。
 
 普通であれば、二度とエヴァには近寄りたくない……と思うだろう。
 
 
 
 「いや……なんや、こう……手伝えればと思うて」
 
 トウジはそう言いながら頭を掻く。
 
 口にすると、何とも軽薄な言葉だ。もっと上手く説明したい気持ちはあるのだが、ボキャブラリがそれに追いつかない。
 
 「ヒカリがよく許したわよね〜」
 
 続けて呟くアスカの言葉に、トウジは僅かに赤面した。
 
 「……いいんちょが許すも許さんも、関係あらへんやろ」
 
 「そう? ホントに? アタシたちが帰ったあと、ヒカリと話をしたんでしょ? ……ヒカリが、微笑んで『いってらっしゃい。がんばってねダーリン』なんて言ったの?」
 
 アスカが、口許に微かに笑みを浮かべて言う。
 
 こういう時は、いわゆる「ミサトモード」である。君子危うきに近寄らず。シンジは、30分後のミーティングに備えて、トウジの冥福を祈りつつそっと自室に戻るのであった。



四百五十四



 シンジとレイが、それぞれ25分後に自室から廊下に出てみると、驚くべきことにトウジはまだアスカにやり込められていた。
 
 泣きそうな顔で自分を見るトウジの、子犬のような視線に苦笑しつつ、二人を促して第三会議室に向かう。
 
 リツコを前にして、連続で二度も遅刻をする恐ろしさは重々承知である。遅れるわけにはいかない。
 
 
 
 第三会議室のミーティングは、大した内容ではなかった。
 
 NERVに住むにあたっての諸注意事項のようなものだが、もともとシンジ、アスカ、レイの三人にとっては目新しい内容ではない。
 
 だが、横で一緒に聞いていたトウジは、目新しいのなんのというよりも、出てくる単語自体がちんぷんかんぷんなようであった。
 
 
 
 「……じゃあ、今日のところはこれで解散。自由にしていていいわよ。明日はまず学校へ行って、放課後はまっすぐ帰ってきて訓練ね。
 
 シンジ君、アスカ、レイの三人は格闘訓練、トウジ君は差し当たりシンクロテストをやってもらうわ」
 
 「……しんくろてすと?」
 
 トウジが、目の玉を?マークにして首を傾げる。
 
 リツコはポケットに手を突っ込みながら立ち上がると、片手でトウジを指さす。
 
 「さっき渡した冊子に目を通しておいて。基本的なことはみんな説明されてるから」
 
 「あ……ハァ」
 
 「それじゃ、用があったら内線で呼んで頂戴」
 
 リツコはそう言うと、きびすを返して部屋から出ていった。
 
 
 
 四人は廊下を並んで歩きながら、居住区へ向かっていた。
 
 廊下を何度か曲がった先のエレベーターに乗り込む。
 
 
 
 上昇する白い匣の中で、四人はカチン、カチン、と通過階を刻むダイヤルを見つめていた。
 
 
 
 「ハァ〜……なんや、わけわからんワ」
 
 沈黙の中……やがてトウジが、溜め息をついて呟き、肩を落とした。
 
 シンジがトウジの顔を見る。
 
 「……それは、でも、仕方がないよ。僕も、最初はちんぷんかんぷんだったからね」
 
 「ワシが思うに、その『ちんぷんかんぷん』の度合いが、既にワシとシンジじゃ違うんちゃうかなぁ〜……」
 
 トウジはぶつぶつ言いながら肩を竦めてみせる。
 
 
 
 アスカが振り返りながら、じろりとトウジの顔を睨んだ。
 
 「……そんなコト言っても、やるしかないでしょ? アンタが、やるって決めたんだから……。アタシらも、ずっとおんなじことやってんだからね」
 
 「わかっとるがな……」
 
 アスカの言葉に僅かに口許を尖らせてトウジはそう言い、口を噤んだ。
 
 内心、「それは元からの出来が違う」と思ってしまうのは人情というものだ。だが、確かにアスカの言う通り、やると決めたのは自分だ。ここで泣き言を繰り返すのも情けない。
 
 アスカは、フン、と鼻を鳴らして、再び前に向き直った。
 
 
 
 居住区に着いてから、四人は各々の部屋に別れていった。
 
 アスカは、収拾のつかなくなった荷物をまとめるのにてんやわんや。
 
 トウジは渡された冊子を読みながら、何度もページを戻っては頭をひねる。
 
 レイは、ベッドの上に座って、来るべき使徒について思いを馳せていた。
 
 
 
 シンジは、すぐに再び部屋を出ると、エレベーターに乗って下向きのスイッチを押していた。
 
 下……と言っても地下に潜るわけではない。もともと居住区は、ジオフロントのピラミッドの中で、中層階に位置する。
 
 程なくして到着した階で降りたシンジは、通路を歩いて、やがてピラミッドの外に足を踏み出していた。
 
 
 
 上空に広がる天井には、逆さまに幾条ものビルが生え、それは今や暗がりに包まれている。
 
 腕時計を見ると、既に8時を回っていた。
 
 シンジは特に目的があるわけでもなく、ただ、点々とする街路灯の明かりを頼りに遊歩道をゆっくりと歩いていた。
 
 
 
 歩きながら顔を上げると、遠くに鬱蒼とした森が見える。
 
 あそこで……と、シンジは思う。
 
 ……あそこで、弐号機は両腕と首を斬り落とされ、零号機は爆発で大破した。
 
 初号機も、地下から使徒と一緒に上ってきて、確かにあそこを戦いの舞台としたはずだ。
 
 今はまだ、微かな風のそよぎを感じるのみで、世界は静けさに包まれている。しかし、ここが戦場になるまで……もはや、あと1日半しかない。
 
 
 
 道の隅にあったベンチに気付いて、シンジは腰を下ろした。
 
 ひんやりとした夜の冷たさが、腰や背中に吸い付く。
 
 シンジは、小さく溜め息をついた。
 
 
 
 ……使徒との闘いに、まだ打開策は見出せない。
 
 きっかけになりそうな事象は掴んでいる気がするのだが、その実、それが何なのかはまだ見えていない。
 
 あの時の……零号機に対する使徒の動きに、何かきっかけがあったような気がしたのだが……しかしそれは、思い過ごしだろうか?
 
 使徒は気紛れで戦法を変えただけかもしれない。
 
 いたずらに、零号機の攻撃を弄んでみせただけだったのかも……。
 
 
 
 砂利を踏む音を耳にして、シンジは視線をあげた。
 
 見ると、遊歩道の前方で、街路灯の明かりの下に立っていたのは、加持だ。
 
 
 
 加持は、少しだけ驚いたような表情で、シンジを見る。
 
 「……何してるんだ、こんな時間に?」
 
 「……加持さんこそ」
 
 シンジも軽い驚きを含んで呟く。
 
 加持は、軽く肩を竦めてみせるだけで、それには応えなかった。
 
 
 
 「……隣、いいかな?」
 
 加持が、シンジの座るベンチを指さした。
 
 シンジが慌てて自分の左側を空けると、加持はポケットをごそごそと探りながら、そこに腰を下ろした。
 
 取り出したくしゃくしゃのソフトボックスの中から、煙草を一本取り出して、火をつける。
 
 暗闇の中で、シポッ……と、煙草の先だけがオレンジ色に光った。
 
 
 
 「……何してたんだ、こんな時間に」
 
 加持が、穏やかな表情で、先程と同じ質問をもう一度繰り返す。
 
 シンジは、小さく首を横に振った。
 
 「別に……何も。気分転換、みたいなもんです」
 
 「ああ……なるほどな。……俺も同じようなもんだ」
 
 加持はそう言って……一口だけ、煙草の煙を口に含んだ。
 
 
 
 「……今日からここに住むんだって?」
 
 「ええ……そうみたいですね」
 
 「他人事みたいだな」
 
 「え……あ、いえ、そんなつもりは」
 
 「いいさ……結局みんな一緒だからな。もともとここにいる時間も長かったんだし、さほど環境は変わってないか」
 
 「トウジは、随分面食らってたみたいでしたけどね」
 
 「それはそうだろう。何もかもが、初めてずくしだ」
 
 「そうですね……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……加持さん」
 
 「ん?」
 
 「僕をさらったの……誰だか、分かりましたか?」
 
 「……いや」
 
 「そうですか……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 
 
 二人はそうして、5分程の時間を無言で過ごした。
 
 加持の煙草が少しずつ灰に変わっていく、そのゆっくりとした歩みが、経過した時間を知らせる唯一のものだった。
 
 たなびく煙が虚空に消える。
 
 風が、そよぐ梢の騒めきを耳許に運んでは、通り過ぎていった。
 
 
 
 フィルタぎりぎりまで吸って、加持は煙草を携帯灰皿に押し付けてもみ消した。
 
 「じゃあ、俺はそろそろ行くかな……」
 
 言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
 
 腰を伸ばして、二、三度首を左右に振ってから、ふと振り返ってシンジを見た。
 
 「ここにいるって、ちゃんとレイちゃんに言ってから来たのかい?」
 
 「えっ……いえ」
 
 突然の加持の言葉に、驚いたようにかぶりを振るシンジ。
 
 加持は少しだけ目を細めて笑う。
 
 「ちゃんと言っとかないと……あんまり心配させない方がいいぞ」
 
 そう言い残して、加持は静かに立ち去っていった。
 
 
 
 ベンチに一人残ったシンジは、空に広がる暗闇を見上げながら、ゆっくりと後頭部を背凭れに預けていた。
 
 日が沈むと、かすかに肌涼しい。
 
 しかし、夏秋につきものの虫の音は、この地下の世界では殆ど聞こえない。
 
 
 
 加持の、最後の言葉を頭に思い浮かべる。
 
 ……確かに、何も言わずに出てきたのは、レイを不安がらせているかも知れない……と、頭の片隅で思う。
 
 しかし、もはや彼女は、出会ったばかりの頃のような、いわゆる赤ん坊に近い存在とは違う。
 
 いつも一緒にいることばかりが、お互いにとってプラスとも言えまい。
 
 
 
 (僕も戻るか……)
 
 シンジは心の中で呟くと、立ち上がって尻をはたいた。
 
 そうは言っても、やはり、シンジの方こそレイの顔が見たいのだ。
 
 (……それに、ここで幾ら考えても、もう……あまり上手い手は思い付かないし)
 
 明日の使徒に対する闘い方は、有効な手段を見出せずに、もう数時間……無限ループに陥っていた。
 
 もはや、一人で考えていても事態は進展しない。
 
 レイと二人で、お互いに頭を突きあわせてブレインストーミングするのは、こういう八方塞がりの状態を打破するには有効な手段だ。
 
 それは、今までの使徒戦では有り得なかったことで、シンジの負担を格段に軽くする。
 
 シンジはつま先をNERV本部に向け、歩き出した。
 
 二人で考えれば、いいアイデアが浮かぶかもしれない。



四百五十五



 エレベータの扉が開くと、居住区の廊下は既に主灯が落ち、副灯の弱い明かりに変わっていた。他の階と違い、居住区には時刻の移り変わりがある。
 
 シンジは自分たちの部屋……と言うか、レイの部屋に向かって廊下を歩いていった。
 
 
 
 最後の角を曲がって……前方の風景に、シンジは僅かに眉をひそめた。
 
 居住区……その、自分の部屋の扉の前。
 
 そこで、扉に寄りかかって立っている人影が見える。
 
 薄暗いのと、若干距離が遠いのとで、この位置からは誰なのか良く分からない。
 
 (……綾波?)
 
 ……と、思ったが、髪の毛の様子が違う。だが、洋服の感じに見覚えがないし……。
 
 シンジは、少しだけ足を早めて、その人影に向かって歩き出した。
 
 
 
 15秒ほど歩いて、その人影の正体に気付き、シンジは思わず瞳を見開いた。
 
 その、部屋のドアに寄りかかっていた人物も、シンジの足音に気づいて、立ち上がる。
 
 
 
 「……アスカ?」
 
 シンジはそう言いながら、彼女の前まで足を進めて立ち止まった。
 
 なるほど、見覚えのない姿だと思ったのは……パジャマだったのだ。
 
 もしかしたら前回の世界では見ていたかもしれないが、あいにく余り鮮明に記憶していない。
 
 
 
 アスカはシンジの前に歩み寄ると、腰に手を当てて、眉間に皺を寄せながらその顔をシンジの方に突き出した。
 
 「……どこ行ってたのよ。部屋に行ったらいないし……レイの部屋も覗いたけど、いなかったし」
 
 「ああ……うん、ちょっと、外を散歩してたんだよ」
 
 アスカの不満そうな言葉に、シンジは頭を掻いて取り繕った。
 
 「あっそ」
 
 「アスカ……綾波の部屋、行ったの?」
 
 「うん」
 
 「……心配してた? ……出掛けるって、言っておくの忘れたから」
 
 「知らないわよ、そんなの。見たらアンタがいなかったから、挨拶だけして出てきちゃったもの」
 
 「あ、そうなんだ」
 
 「そ」
 
 「……え、何か用?」
 
 「何が?」
 
 「何がって……探してたんだろ、僕を」
 
 「……ああ……うん、まぁ……ね」
 
 「?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……あのさ」
 
 
 
 薄暗い廊下の中でも、アスカの髪の毛は、まるで発光する海百合のように緩やかにたゆたっていた。
 
 その、輪郭のはっきりとした存在感に、シンジは少しだけ瞬きをする。
 
 アスカは、深く息をついて……
 
 ……そして、ゆっくりと、息を吸う。
 
 
 
 「……ちょっと、つきあってくれない?
 
 ……聞きたいことがあるのよ」