第九十五話 「引越」
四百四十五



 その日の午後……トウジの病室を後にしてから幾許もしないうちに、NERVからシンジたちに、ひとつの連絡が入った。
 
 おのおのの携帯電話の液晶に、黒い文字列が並ぶ。
 
 曰く、「エヴァンゲリオンパイロットは、一時的に、ジオフロントのNERV本部にて生活すること」。
 
 
 
 突然の通達にシンジたち三人は呆気にとられたが、考えてみれば、あながち理不尽な話でもない。
 
 
 
 前回、バルディエル戦の直前……サードチルドレン・碇シンジが何者かに拉致されるという事件が起こっていた。
 
 幸いにも、シンジの身に大きな被害はなかったとはいえ……加持が助けに入らなければ、その後シンジがどうなっていたかは、誰にも分からない。
 
 救出した加持からも、犯人に関する報告はなかった。まだ、誰が、何の目的でシンジを拉致したのか、全く分かっていないのだ。
 
 
 
 これが、個人を狙っての行動ならば、まだシンジ一人を厳重に監視すればよいのかも知れない。
 
 だが……もしも犯人の目的がシンジの拉致ではなく「チルドレンの拉致」にあり、対象が誰でもよかったのだとしたら……彼らにつける監視の人数を増やすよりも、チルドレンを全員、NERVの本部に住まわせたほうが楽だ、との判断だろう。
 
 当たり前の話だが、マンションよりも本部の方が、確実に安全だ。コンフォートマンションの中ならば比較的安全、という神話は崩れたのだし、事実シンジも、あの中で拉致されたのだ。犯人が自由に出入りできる以上、あそこに住み続けるのは、危険だ。
 
 
 
 犯人の特定がなされるまでという期限付きながら、そのような措置が下ったことは、理にかなっている。
 
 異論を差し挟むようなことではない。
 
 
 
 ……ここは、最寄りのバス停からコンフォートマンションに向かう、道の途中。
 
 青空の下……遠くに蝉の声を聞きながら、アスカ、シンジ、レイの三人は、並んで歩いていた。
 
 「NERVに住めって……最初にアタシが行った、あの部屋に住めってことかしら」
 
 アスカは右手に持った携帯電話に表示されている文章を読みながら呟く。
 
 
 
 「……最初? 最初って?」
 
 シンジが、歩きながら、アスカの方に振り向いた。
 
 アスカは携帯電話を鞄に仕舞いながら、横目でシンジの方を見る。
 
 「知ってるでしょ? アタシ、日本に来たばっかりのとき、本部に住んでたのよ」
 
 「そうだっけ?」
 
 「荷物が部屋に入りきらないのなんの、って言ったときに説明したじゃない」
 
 「……そうだったっけ?」
 
 「アンタが過労で倒れたときよ。……だから覚えてないんじゃないの」
 
 「……ああ……あの時か……そう言えばそんな気も……」
 
 シンジは記憶を辿るように首をひねる。
 
 
 
 アスカは、溜め息をついて伸びをすると、頭の後ろで両腕を組んで空を見上げた。
 
 「……NERVの部屋って、今の家より、ずぅ〜っと狭いのよねぇ……。荷物、どうすんのよ」
 
 眉をしかめながら、面倒くさそうに、そう言う。
 
 
 
 レイは、二人の会話を聞きながら、黙って歩いていた。
 
 
 
 ……もちろんレイには、NERVに住むことに異論など無い。
 
 シンジと離れて一人で住む、というのなら問題もあろうが、要は一緒だ。シンジと一緒なのであれば、どこにでも行ける、と思う。
 
 
 
 アスカも、NERVに住むことには、別に違和感はなかった。
 
 もともと、エヴァの訓練や作戦行動には熱心なタイプだ。NERVに住めば、わざわざ出向かなくても訓練などが出来るわけだし、むしろ歓迎すべきだ、と思っている。
 
 それに……彼女ははっきりと意識していないが、シンジやレイも一緒、というのは大事な要素だった。一人なら嫌だったかも知れない。だが、他の二人と一緒なら、それも悪くはない。
 
 
 
 シンジにも、もちろん異論はない。
 
 現実に、拉致されて危険な目にあったシンジとしては……犯人が分からない以上、むしろ積極的にレイやアスカを安全な場所に置きたかった。
 
 NERVの方から通達として「本部に住め」と言うのであれば、それに越したことはない。
 
 
 
 ……シンジは、この問題にいつまでもこだわるつもりはなかった。
 
 家に帰ったらさっさと荷造りをして、今晩にはNERVに移り住んでしまおう。
 
 ……シンジにとって、今、考えなければいけないことは、もっと別にあるのだ。
 
 
 
 ……明後日には……次の使徒が、やって来る。
 
 
 
 シンジは道を歩きながら……暑さの中でアスファルトに揺らぐ風景を、じっと見つめていた。
 
 
 
 ……前回シンジは、二晩ほど病院で昏睡しており、退院後もさらに一晩、拘留を受けた。
 
 その拘留が明けてすぐ、シンジはエヴァを降り……そして、その日の夕方に、使徒が現れたのだ。
 
 要した時間は、三日間。
 
 現在、既にバルディエル戦が明けて一晩が経過している。
 
 あと、二晩だ。
 
 
 
 早急に、どうやって対処するか、その方法を考えなければいけない。
 
 他の問題に、いつまでも関わっている余裕はない……とっとと瑣末な問題を片付けて、計画立案に集中したかった。
 
 
 
 「……部屋が狭いんなら、荷物はそのまま、マンションに置いておけばいいんだよ。別に、これからずっとNERVに住むってわけでもないだろうし」
 
 シンジは、アスカの方に振り返りながら、言う。
 
 アスカは、左手を煽いで顔に風を送りながら、気怠そうにシンジを見た。
 
 「ずっと住むわけじゃないって……そんなコト、何で言い切れんのよ」
 
 「いや、根拠はないけどさ……通達にも、一時的って書いてあるし。
 
 ……それに、なんなら、一人で何部屋か、使ってもいいんじゃないかな?
 
 本部の住居棟って結構広かったよね。部屋は余りまくってるんじゃないかなぁ」
 
 「……ま、そうだろうとは思うけど」
 
 アスカは、片手に持った鞄を大きく振り上げると、所在なくぶらぶらと振り回した。
 
 「……引っ越しかぁ……メンド〜」
 
 「だから、身の回りのものだけでいいんじゃないの」
 
 「身の回りのものって、ナニよ。洋服が何着あると思ってんの?」
 
 「……いや、全部持ってかなくたっていいんじゃないの」
 
 「何言ってんのよ! NERVで生活するって事は、学校にも遊びにも、そこから行くんでしょ? 着替えのためにマンションに戻れるわけじゃないのよ。全部持ってかなきゃダメじゃん」
 
 「そ……そうかなぁ……」
 
 何も、全部着る必要なんて無いのではないか。
 
 と言うか、困るほど洋服があるということ自体が、シンジにはちょっとピンと来ない。
 
 
 
 てくてくと歩きながらレイは横目でアスカを見つめて、少しだけ小首を傾げた。
 
 もちろん、レイにもそんな状態はピンと来なかった。
 
 レイの持っている洋服の枚数は、シンジよりも少ないのである。
 
 そして、それで困ると感じたことなど、未だ一度もない。



四百四十六



 結局、荷物は適当に身の回りの物だけをまとめて、あとは家に置いていくことになった。
 
 本部待機状態がいつまで続くのか分からないが、逆を返せばすぐにでもまた戻ってくる可能性がある。
 
 そのたびに大騒動になるのはごめんだ。どちらかと言えば、やはり本部に住むよりはコンフォートマンションの方が居心地はいいのだし、あまり、大騒ぎして、大引っ越し大会を繰り広げるつもりは、無い。
 
 いざとなれば、生活に必要なものはNERVに揃っている。住んでみて何か足りないものがあれば、NERVの中でも充分、手に入れることが出来るのだ。
 
 
 
 マコトに廻してもらったNERVの小型トラックに荷物を積み込み、自分たちもその荷台に乗り込んだ。
 
 「クーラーって、人間が発明した最も偉大なもののひとつよね!」
 
 アスカはそう言いながら、荷台の後部扉を閉める。
 
 ニコニコしながら座席に腰を下ろすアスカを見ながら、レイは首を傾げた。
 
 「そう?」
 
 そう尋ねるレイは汗ひとつかいていない。
 
 「……アンタ、そのうち唐突に倒れるわよ」
 
 アスカは、呆れたように呟いてみせた。
 
 
 
 揺れる車内で、シンジは窓越しに、外を流れる風景を見つめていた。
 
 
 
 他に、走る車の無い、大通り。
 
 赤信号で車は停車するが、もちろん目の前を横切る別の車がいるわけでもない。暫し時間をおいて、信号の青い点灯とともに、トラックはまたゆっくりと走り出す。
 
 
 
 ……シンジは、来るゼルエル戦のことを、考えていた。
 
 
 
 前回と今回で、違う点が、ある。
 
 ……当然のことだが、シンジが最初からいる。
 
 これが、状況に対してどれほど影響があるか分からないが……少なくとも、零号機と弐号機が倒された後に、慌てて駆けつけるような事態は避けられる。
 
 作戦を考える上でも、この違いは大きい。
 
 
 
 ……だが、では……どうやってゼルエルを倒すのか? と言われると、なかなか妙案は思い付かない。
 
 
 
 ゼルエルは、これまでの敵の中でも、恐らく最も強い使徒と考えてよいだろう。
 
 まず手強いのは、あの、鋭利な刃物のような両腕である。
 
 紙のように折り畳むことができ、縦横に向きを変えられる。かつ、どんなものでも一刀両断にする硬さ。あれを防ぐのは難しい。
 
 間合いも非常に広く、相手にすると厄介だ。
 
 
 
 ……また、遠目で見ていたので詳しいことは分からないが、確か、コアを破壊するためにレイがN2爆弾を持って突っ込んでいったはずだ。
 
 にも関わらず、使徒が全く被害を被らなかったということは……コアが、異常に硬いのだろうか?
 
 通常の攻撃ではコアを壊せないかも知れない。それは、十分に考慮して作戦を立てなければいけないだろう。
 
 ……実際には、ゼルエルのコアにはオウムのまぶたのような甲殻があり、それがN2爆弾の爆発をも防いだのだ。だがそれは、地上から肉眼で見ていたに過ぎないシンジには分からなかった。
 
 
 
 ……それに。
 
 非常に口惜しい、もう一つの、事実。
 
 
 
 ……結局……前回、どうやって、シンジはゼルエルを倒したのだろうか?
 
 
 
 (全然……覚えてないもんなぁ……)
 
 シンジは、窓ガラスに額を付けて、小さな溜め息をついた。
 
 ……少なくとも、シンジが……ひいては初号機が、ゼルエルを倒したのは、間違いないだろう。
 
 事実、後からミサトやリツコがそう言っていたし……あの状況から、他の方法で倒せたとも、ちょっと思い難い。
 
 それに、みんなの話をまとめると、どうも初号機は暴走したフシがある。自分で言うのもなんだが、まぁ……暴走した初号機を相手にしては、さすがのゼルエルも敵わなかったというところだろうか。
 
 
 
 問題は、暴走した初号機が、具体的にどうやってゼルエルを倒したのか……その手段が全く分からないことだ。
 
 
 
 前回は、初号機が暴走する以外に、勝つ術はなかったのかも知れない。
 
 だが、今回は違う。二日という短い時間とはいえ、作戦を考える時間も、準備する余裕もある。
 
 最初から綿密な計画を立てれば、あるいは勝利への突破口がないとも限らないのだ。
 
 ……暴走することを大前提にするような作戦を、立てるわけにはいかない。
 
 少なくとも、暴走するかしないかすら分からない、そんな初号機任せの、危うい作戦に頼るわけにはいかない。
 
 
 
 ……暴走しないでゼルエルを倒すということであれば、真正面からただ突っ込んでいくわけにはいかない。
 
 事実、そうして突っ込んだ零号機と弐号機は、なす術なくやられてしまった。
 
 何か、罠を仕掛けるとか、ゼルエルの弱点を突くとか……そういう、取っ掛かりが必要だ。
 
 ……そのためにも、初号機が(暴走中とは言え)どうやってゼルエルを倒したのか……気になるところだったのだが……。
 
 
 
 自分はその暴走の際に、初号機に取り込まれて溶けてしまっていたため、当然記憶はない。
 
 また、あの頃の自分はエヴァの操縦に大して興味もなかったから、後になってからわざわざ事の顛末を確認しようとも思わなかった。
 
 それに……記憶を辿ってみると、ミサトたちもあの時のことを語りたがらなかったような、そんな記憶がある。
 
 
 
 (……何か、あったのかなぁ?)
 
 幾ら考えを巡らせてみても、分かるわけはないのだが、やはり考えてしまう。
 
 ミサト達も思い出したくないような、そんなことがあったのだろうか……?
 
 
 
 ……やがてトラックは、ジオフロント地表部のカープールに進入した。
 
 ぐるりとロータリーを廻り、小さな段差を越えて、丁度……車一台分程度の、壁に開いた窪みに入る。
 
 車が入りきったところで、入り口のシャッターが降りる。このトラック一台だけが入るような、四角い部屋。
 
 マコトが運転席から手を伸ばして、横のスリットにIDカードを通す。
 
 ゴゥン……と重い扉が左右に、そのすぐ奥の扉が上下に開き、その向こうに、ジオフロント内部へと繋がるカートレインが姿を現した。



四百四十七



 白い病室から見える窓の外の風景も、今は帳が降りて、上半分は青から紺へのグラデーションに彩られていた。
 
 地平線の辺りはまだ暖かな夕陽の赤が広がっているが、空の天辺には円い月がはっきりと見える。
 
 
 
 トウジはその月を眺めてから、視線を病室の中に戻した。
 
 おずおずと、口を開く。
 
 「なぁ……そろそろ、遅いんやないか? あんまり暗くならんうちに、帰ったほうがええと思うけど……」
 
 
 
 トウジのベッドの横には、ヒカリが座っていた。
 
 
 
 じっと……膝の上に置いた自分の手の平を、見つめて。
 
 そうして既に、口を開くこともなく長い時間を過ごしていたが、トウジの言葉に、初めて気付いたように顔を上げた。
 
 「……えっ?」
 
 「いや、だから……」
 
 「……あ……なに?」
 
 「ナニ、て……もう、暗くなってまう、言うてんのや」
 
 「えっ……あ……もう、こんな時間……」
 
 壁に掛かった時計を見て、ヒカリは小さな驚きの言葉を漏らした。
 
 
 
 ……しかし、そうして……暫し、時計の文字盤を見つめた後……また、自分の手の平に視線を落とす。
 
 
 
 トウジは、そんなヒカリを、困ったように見つめていた。
 
 ぽりぽりと、頬を掻く。
 
 「なぁ……」
 
 「………」
 
 「……どないしたんや……なんぞ、あったんか?」
 
 
 
 外はもう、真一文字の朱を除いて、満点の星空に変わっていた。
 
 時計の針は、8時近くを指している。
 
 その秒針が、かちこちと微かな音で時の過ぎゆくさまを刻んでいる。
 
 
 
 ……やがてヒカリは、俯いていた顔を、ゆっくりと上げた。
 
 じっと、トウジの顔を見つめて……そして、微笑む。
 
 
 
 「……心配……なのよ」
 
 
 
 「……心配?」
 
 トウジが、ヒカリの顔を見返して……呟くように、言う。
 
 ヒカリが、こくん、と頷く。
 
 
 
 「……鈴原が……心配」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……なして」
 
 「……エヴァンゲリオンの……パイロットに、なったんでしょう?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……心配よ……」
 
 「……いや……あんな、その……よう知らんけど、でも、そんなすぐに素人が戦場に出るわけやないと思うで。ワシは暫く、後ろの方で訓練やろ」
 
 「じゃあ、なんで今、入院してるの?」
 
 「……いや……そりゃ、まぁ……」
 
 「松代に行ったって……訓練だったんでしょ。でも、訓練でそんな怪我を負うこともあるのね。事故? ……どっちにしても、安全じゃ、ないのね……」
 
 「……せやけど……その危険を、いっつも、シンジや綾波や惣流がかぶっとんのや」
 
 「………」
 
 「……ワシら、みんな、あの三人に護られとんのやで」
 
 「……だからって……鈴原が、一緒にやる必要なんて、ない気がする……」
 
 「………」
 
 「……鈴原は……凄いと、思うの。碇君達だけを危険な目に合わせられないんでしょう? そう考えられるのは、凄いと思うわ……。
 
 ……私は……まだ、だめ。文句を言う筋合いじゃないのかも知れないけど……やっぱり……鈴原が、危険な目にあうのは……その、やっぱり、えぇと……」
 
 
 
 ……それは自分も同じだ、と、トウジは思う。
 
 
 
 ……昨日の、あの想像を絶する闘いがなければ、自分がその最前線に参加しようなんて、思わなかっただろう。
 
 だが、今は違う。
 
 シンジたちが今まで、まるで日常茶飯事のように経験してきた闘いを……一度でも、その身で、体験してしまうと、違うのだ。
 
 
 
 二つの選択肢しか残されない。
 
 その恐怖を二度と味わいたくないがゆえに、闘いの場から身を引くか。
 
 シンジたちが今後もその闘いの中に身を投じることを思い、自分もその一翼となるか。
 
 
 
 どちらかが善いわけでも悪いわけでもない。
 
 だが、自分は後者を選んだのだ。
 
 選んでしまった以上……もう、少なくとも現時点では、決意に揺るぎない。
 
 
 
 どちらかと言えば、身を引くほうが自然な選択肢だろうとは、トウジも思う。
 
 事実、トウジも昼まではそう思っていたのだ。
 
 だが……そうして再び、一般市民と同じように生活して、そして使徒がやって来て……みんなと一緒に、シェルターに避難して。
 
 ……そして、以前と同じような気持ちで、ただ戦闘が終わるのを待っていることが、出来るだろうか?
 
 
 
 ……それは出来ないだろう。
 
 遥か遠くで爆撃のような音を耳にするたびに……衝撃が地鳴りのように自分の体を襲うたびに……思い出すだろう。
 
 あの、恐怖の連続。生と死の縁で闘った、あの時のことを。
 
 
 
 ……そして、その中で今も闘う、三人の親友たちのことを……。
 
 
 
 飛び込むにしろ、背を向けるにしろ。
 
 一度、体験してしまった者は、もう……二度と、昔のような、何も考えていない生活には戻れないのだ。
 
 
 
 「……ワシは、それでも……やっぱり、もう、戻れん」
 
 トウジは、小さな声で、そう、呟いた。
 
 ヒカリが、顔を上げる。
 
 トウジは、手許に視線を落として……口を開く。
 
 「アイツらの命と引き換えに、生きられん。前ならそれでも、良かったのかも知れんけど……もう、今は、アカンのや。知ってしもうたから……目は、瞑れんのや」
 
 傲慢かも知れない。
 
 だが、それも、真実なのだ。
 
 
 
 コツ、コツ……と、扉をノックする音が、病室の中に響いた。
 
 
 
 「あっ……? ハイ」
 
 突然のノックに、トウジが、視線を扉の方に向けて声を挙げる。
 
 間髪を入れず、カチャッ、とノブが廻り、扉の向こうからブロンドの女性が姿を現した。
 
 
 
 「あっ……リツコさん」
 
 リツコの姿を見て、トウジが、慌てたように背筋を伸ばす。
 
 ヒカリも、急に病室に現れた線の強そうな女性に、驚いたように姿勢を正した。
 
 リツコはトウジに軽く右手を挙げて応えると、横にいるヒカリに視線を向ける。
 
 「……クラスのコ?」
 
 「あっ……は、はい、私、洞木と言います」
 
 ヒカリは、慌てて椅子から立ち上がると、ペコリと頭を下げた。
 
 そんなヒカリを、リツコは冷ややかに見つめる。
 
 「面会時間は終わってるわよ」
 
 「す……すいません……」
 
 リツコに指摘され、小さくうなだれてしまうヒカリ。
 
 そんなヒカリとリツコの様子に、トウジが慌てて声を掛けた。
 
 「あっ……い、いや、ワシが引き留めたんで……」
 
 「彼女?」
 
 「あいッ!? あ、い、いや……え〜……その……」
 
 「一緒にいたい気持ちは理解するわ。でも、暗い道を帰すのは危ないでしょ? 恋人なら、そのあたりも配慮してあげなさい」
 
 「い……いや……恋人……っちゅうか、えぇと……」
 
 「あとでNERVの車を出すわ、送ってあげるから乗っていきなさい」
 
 「あ……は、はい……」
 
 あっという間に決めてしまうリツコに、トウジとヒカリは、呆気にとられたように頷くしかなかった。
 
 
 
四百四十八



 「アタシ、この部屋とこの部屋とこの部屋とこの部屋とこの部屋と……」
 
 アスカはそう言いながら、廊下をたったったっと駆けていく。
 
 シンジとレイは、並んでぽつん、と廊下の端に立っている。
 
 廊下を30メートルほど走り、くるりと振り返って、両腕を広げる。
 
 「……ここまで、使うわよっ」
 
 大きな声で、アスカは叫んだ。
 
 
 
 「……それは、使い過ぎじゃないかなぁ……」
 
 シンジは、苦笑しながら頭をぽりぽりと掻いた。
 
 
 
 ここは、ジオフロント中階、職員用の仮住居フロアだ。マコトにここまで案内されたときに、実際には職員はこのフロアを使っていない、と説明されていた。
 
 「だから、好きに使っていいよ」とのことだったが……それはまさか、三人くらいで幾つも部屋を使うこともないだろうと思ったから出た言葉だろう。
 
 
 
 アスカは再び、たったったっと駆け戻ってくると、シンジとレイの前に立ち、両腕を組んで胸を反らせる。
 
 「なぁによ……いいでしょ、別に。このフロアは全部使っていいって言われてんだから」
 
 「いや……だって、そんなに沢山使ってどうすんのさ。荷物もみんな置いてきちゃったんだし、使い道ないだろ……クラスのみんなをここに呼べるわけでもないんだし。一部屋あれば充分だと思うけどなぁ」
 
 「バッカね……大は小を兼ねるって言う日本の諺、知らないの?」
 
 「知ってるけど……この場合とは意味が違うんじゃないかなぁ……」
 
 
 
 アスカは腰に手を当てると、ずいっ、とシンジの前に顔を突きだした。
 
 「じゃ、アンタは一部屋にしなさいよ。別に止めやしないわよ……アタシは、ここからあそこまで使うから」
 
 「い……いや、だって、それじゃ残り全部、アスカが使うってことじゃないか」
 
 慌てて、シンジは両手を顔の前で振ってみせる。
 
 「綾波だっているんだよ。綾波の部屋も残してよ」
 
 「あら……だってアンタら、どうせ一緒に住むんでしょ? 一部屋あれば充分じゃない」
 
 「いっ」
 
 「それでいい」
 
 ぴとっ。
 
 「あっ……あやな……」
 
 「夫婦別居なんて、流行らないわよ」
 
 「ふ、夫婦じゃないよッ」
 
 「おんなじようなモンでしょ」



四百四十九



 ヒカリを送るための車が病院に到着するまで、ヒカリは再び椅子に座って、居心地悪そうにもじもじとしていた。
 
 もちろん、居心地の悪さはトウジも同じだ。リツコがいるだけで温度が数度は下がったような気がする室内の空気に、肌寒さを覚えるほどだ。
 
 
 
 リツコは、右手に持ったカルテをぱらぱらとめくると、視線をトウジに向けた。
 
 「調子はどう?」
 
 「あっ……いや、別に、どうっちゅうこともないです。もう、全然平気で動き回れるくらいで」
 
 「そのようね」
 
 パラパラと、もう一度カルテを戻りながら、そう言う。
 
 
 
 「あの……リツコさんは、その……左手、大丈夫ですか?」
 
 「かすり傷よ」
 
 リツコは、カルテの上に目を走らせながら、事も無げにそう言う。……もちろん、ギブスでがっちり固定された状態で、かすり傷もないものであるが。
 
 「……すんません……その」
 
 「別に、あなたは何もしていない。関係のないことで責任を感じたり謝って見せたりするのは、エネルギーと感情の、無駄遣い」
 
 言いながら、カルテをパン、と閉じる。
 
 
 
 「……で」
 
 リツコはカルテを小脇に抱えると……くるり、と、トウジの方に向き直った。
 
 
 
 「……最後の意志を、確認していなかったわね。……トウジ君」
 
 
 
 ……まっすぐに、トウジの瞳を見つめながら、そう……言葉を紡ぐ。
 
 
 
 「あ……あの、私……席を外していたほうが……」
 
 ヒカリが腰を浮かせながら、おずおずと言う。
 
 しかしリツコは、軽くヒカリを一瞥しただけで、すぐに視線を戻した。
 
 「聞かれて困るような話なら、こんなところで切り出さないわ。座ってなさい」
 
 「は……はい」
 
 ヒカリは上目遣いにリツコを見つめると、一瞬トウジの方に視線を向けてから……再び、椅子の上に腰を下ろした。
 
 
 
 「……それで、どうするの?」
 
 リツコはトウジの瞳を見つめたまま、言葉を続ける。……まるで、出前のメニューを確認するような、醒めた言葉。
 
 トウジが、リツコの瞳を見つめ返す。
 
 「どうする……て……」
 
 「チルドレンに……なる? それとも、ならない? ……どちらでも、あなたに任せます」
 
 
 
 「……なります」
 
 トウジは、殆ど躊躇することなく、そう応えた。
 
 ヒカリは、そんなトウジを見つめたまま……膝の上に置いた手を、ぎゅっと握り締める。
 
 ……戸惑う素振りもなかった。
 
 ……トウジの中では、もう、決まってしまっているのだ……。
 
 
 
 「そう。……では、この口頭の契約をもって、正式にフォースチルドレンとしての就労を認めます」
 
 リツコは、トウジの言葉に驚いた様子もなく、そう応える。
 
 初めから予想していたのだろうか……と、トウジは思ったが、もしかしたらこの病室での会話を盗聴でもしていたのかも知れない。幾度も「チルドレンになる」と口にしていたのだし……。それとも、シンジから聞いたのだろうか? 
 
 まぁ、考えても仕方がない。
 
 
 
 「今後についての詳しい説明は、改めて機会を設けます。あとで解説用の冊子を渡すから、目を通しておくこと。IDカードも、今日明日中に発行して渡します。
 
 とりあえず、暫くは訓練生活になるわね。シンジ君たちのように戦闘に出るためには、まだ時間がかかるでしょう」
 
 リツコの言葉に、トウジは頷きつつも、口を開いた。
 
 「あの……暫く……ちゅうと、どれくらい……」
 
 「個人差があるから、一概には言えないわね。
 
 初めてエヴァの操縦席に座ってから、実際に戦闘に参加するまで……アスカは4ヶ月、レイは7ヶ月かかったわ。それに、二人とも……基本的な身体訓練は、幼い頃からずっとやっているしね」
 
 「7……」
 
 トウジが、驚いたように声を挙げた。
 
 シンジたちを助けるどころの話ではない。
 
 
 
 リツコは、そんなトウジを一瞥してから、何事もなかったかのように目を閉じた。
 
 ゆっくりと……口を開く。
 
 「まぁ……シンジ君は……一日もかからなかったけど」
 
 
 
 トウジとヒカリは、無言で目を見開いていた。
 
 
 
 「……とにかく、人によって大きな差があるってことは分かるでしょう?
 
 これは、運動神経とか、そう言うレベルとは別物。適性みたいなもので、優劣とは別の次元のものよ。
 
 トウジ君も一日で乗れてしまうかも知れない。それは、やってみなければ分からないわ」
 
 
 
 そう言ったところで、リツコの携帯電話から「ネコふんじゃった」の旋律が流れはじめた。
 
 
 
 人物とメロディのギャップに唖然とする二人を尻目に、全く意に介さぬ素振りでポケットから携帯電話を取りだすと、それを耳に当てる。
 
 「もしもし。……じゃあ、下の駐車場で待っていて。フォースも連れていくわ」
 
 短く応答して、すぐに通話を切る。
 
 「車が来たわ。待たせているから準備して頂戴。トウジ君の退院手続きは済んでるから」
 
 リツコが、二人の方に向き直って言う。
 
 
 
 「あの……えと、ワシももう、退院ですか?」
 
 トウジがおずおずと、言う。
 
 「どこも悪くないでしょう? 精密検査入院みたいなものだから」
 
 「はぁ」
 
 「一度家に寄るから、簡単に荷物をまとめて頂戴。そのまま、NERVに行きましょう」
 
 「は?」
 
 
 
 ぽかんとした表情を自分に向けるトウジに気付き、リツコはトウジの方に向き直った。
 
 「何?」
 
 「あ……いや、その……えぇと、打合せかなんかですか?」
 
 「何が?」
 
 「いや……これからNERVに行くて……」
 
 「ああ、言ってなかったかしら」
 
 リツコはそう言うと、右足を引いて体を空ける。首だけをトウジに向けて、淡々と言葉を紡ぐ。
 
 「暫定的措置として、チルドレンはこれからしばらくの間、NERVに住むのよ」
 
 
 
 「はっ……」
 
 
 
 トウジとヒカリが、間の抜けた表情でリツコを見る。
 
 リツコはくるりと体を回すと、カッカッ、と歩いてドアの前まで行き、ノブに手を掛けて再び振り返った。
 
 「何してるの? 早く支度をしなさい。これも訓練……迅速な行動が、生死を分ける場合もあるのよ」



四百五十



 休憩室の、安っぽいビニールが張られた長椅子に腰かけながら、シンジは、手許の紙コップをゆっくりと回して、中で柔らかな渦を巻くオレンジジュースの水面を見つめていた。
 
 中央廊下に隣接した休憩室は、観葉植物のプランターで廊下と隔ててあるだけの、むしろ「廊下の一部」と言っても良い空間だ。
 
 長椅子が4基、それと紙コップ式の自動販売機が二機。今は、シンジの姿しか見えない。
 
 
 
 結局アスカには、比較的広めの部屋を3つ使うのみに留めてもらい、シンジとレイは、それぞれ他に1部屋ずつ使用することになった。
 
 レイは、シンジと一緒に住むことをまた主張したが、そこは何とか諦めてもらうしかなかった。
 
 ともかく、そうしてそれぞれに部屋をあてがって別れた後、シンジは荷物を置いてすぐに、ここにやって来ていた。
 
 
 
 レイやアスカの緊張感のない騒動の渦中にいると、自分も緩んできてしまう。
 
 日頃なら、無論それでも構わないのだが、今回に限ってはそんな悠長なことは言っていられないのである。
 
 もう、一日半……考えることのできる猶予の半分を消費している。しかし、シンジにはこれと言った決定打がなかった。
 
 どうすればいいのか?
 
 闇雲に突っ込むのでは馬鹿みたいだ。シンジ自身が、前回に比べて劇的に変化しているわけではない。僅かな違いで勝敗を分けるような程度の実力差であればともかく、次の使徒は、圧倒的な強さを誇っているのだ。
 
 無策で行くほど、愚かなことはない。
 
 
 
 (……まずは、あの、紙みたいな両腕をどうにかしないと)
 
 あの、射程がやたらと広くて、そのうえエヴァの装甲をものともしない硬さを持つ両腕が、まず何より厄介なのは間違いない。
 
 あの攻撃で両腕や首が斬り落とされた、弐号機。
 
 性急さを除けば、訓練されたかなりいい動きをしていたはずの弐号機が、そこまでの被害を受けるには相当な戦力差があったと見てよいだろう。
 
 事実、弐号機ばかりか、零号機も……。
 
 
 
 (……ん?)
 
 
 
 シンジは、座った自分の足のつま先を見つめて、眉をひそめた。
 
 一瞬、脳裏をよぎった違和感。
 
 その、僅かな違和感がするりと逃れてしまう前に、必死にしっぽを捕らえて手繰り寄せる。
 
 
 
 「……あれ」
 
 
 
 ……確か、あのとき使徒は……零号機の攻撃を、ATフィールドで受け……そして、N2爆弾の攻撃も、コアが硬かったのか、びくともしなかった。
 
 でも……
 
 
 
 シンジは、眉根を寄せた。
 
 
 
 ……N2爆弾の強さが、コアの硬さを下回るなんて、何故分かる? もしかしたら物凄い爆撃で、やられてしまうかも知れないじゃないか。
 
 まぁ……使徒が、N2爆弾の爆撃を、大したことがないと読み切っていたんだとしよう。
 
 でも、それだったら、別にわざわざATフィールドでN2爆弾を防御しなくても、爆発させるままにしておけば良かったはずだ。
 
 ……使徒が、ATフィールドで零号機の攻撃を防御したということは、爆撃には巻き込まれたくなかった……つまり、零号機を退けたかったからだ。
 
 
 
 だったら、何故、弐号機を倒したように、その圧倒的な武器を使わなかったんだ?
 
 あの、射程の広い両腕で零号機の首を斬り落とせば、それで済んだ。
 
 零号機は、近付くことさえ、出来なかったはずではないだろうか……?
 
 
 
 (あの時の……零号機の行動に、ヒントがあるのかも知れない)
 
 シンジは、紙コップの中のオレンジジュースを見つめながら、そう、心の中で呟いた。
 
 
 
 それに、考えてみれば、もう一つ。
 
 確かに零号機・弐号機はあっけなく倒され、初号機に関しても暴走して初めて使徒の殲滅に成功した。
 
 しかし、初号機について言えば、暴走前に歯が立たなかったわけでは、ない。
 
 ……内部電源が切れてしまったために、なす術なく敵の攻撃にその身を晒してしまっていたが……
 
 
 
 もしも、内部電源が切れずに、あのまま闘い続けていたら、どうだっただろう?
 
 自分は激昂して頭が熱くなってしまっていたが、確かに……あの時、初号機はむしろ、押していたのではなかったか?
 
 
 
 「……碇君」
 
 急に、自分を呼ぶ声に、シンジは顔を上げた。
 
 
 
 見ると、休憩室の入り口に、レイが立っていた。
 
 
 
 レイは、じっとシンジの顔を見つめていた。  
 「……綾波」
 
 シンジが呟くようにレイの名を呼ぶ。
 
 レイは、そのまま休憩室の中に入ってきて、そして、シンジの横に並んで腰を下ろした。
 
 自分のおしりと肩を、シンジのそれに密着させるように、ぴったりとくっつける。
 
 「あ……綾波」
 
 シンジは、少しだけ頬を染めた。
 
 「ど……どうしたの?」
 
 「碇君の部屋に行ったら、いなかったから……」
 
 「あ……う、うん……ちょっと、考え事がしたくて……」
 
 淡々としたレイの言葉とは裏腹に、シンジは、少しどもるように、顔を赤くしながら応える。
 
 
 
 ……レイは、ゆっくりと視線を上げ……シンジの、顔を見た。
 
 
 
 「……考え事って、なに?」
 
 レイの言葉に、シンジは、レイの顔を見返した。
 
 「えっ?」
 
 「……これから、何か……起こるの?」
 
 
 
 レイの、じっと……自分の瞳を見つめる視線に、シンジは、僅かに息を飲んだ。
 
 まるで……吸い込まれるような、深い、紅。
 
 揺らぐことの無い緩やかな湖面が、その奥にたゆたいながら広がっている。
 
 
 
 「……私にも……手伝わせて」
 
 レイが、静かに……呟いた。