第九十四話 「証」
四百三十九



 陽が沈んでから、既に小一時間が経過していた。
 
 
 
 激しく瓦解した敷地の中を、大勢の作業員と救急班、そして特殊消防車を初めとする各種車両が走り回っていた。
 
 投光器が、目の奥を刺すような激しい明かりで煌々と現場を照らす。
 
 幾重にも重なり崩れ落ちた建材の中にはまだ多くの職員が埋もれているはずで、世間が眠りに落ちるべき時間に差し掛かっても、人々の休む暇は訪れる気配もない。
 
 
 
 松代第六駐車場の奥まった場所に、ジュラルミンのスーツケースを思わせる武骨なトレーラーが停車している。
 
 その外面には何も印刷されておらず、その金属壁がただ、投光器から漏れる明かりを照り返すばかりだ。
 
 
 
 トレーラーの中は、簡易医療施設になっていた。
 
 中には折り畳み式の簡易ベッドが4基。
 
 壁面に並ぶ、明滅するライトがびっしり並んだ医療機器が、薄ら寒い印象を抱かせた。
 
 
 
 一番奥のベッドに、リツコは腰掛けていた。
 
 他の病人の姿はない。
 
 リツコの頭には包帯が巻かれており、頬などを赤く擦り剥いた跡が見える。
 
 左腕が、上腕の中ほどから肘、手首までを包帯と石膏で覆っている。
 
 そんな痛々しい様子とは裏腹に、表情はいたって平静のまま、手許の書類をゆっくりとめくっていく。
 
 
 
 コツコツ、と、壁を叩くような軽い音を耳にして、リツコは顔を上げた。
 
 
 
 「よ」
 
 戸口のところに立って軽く片手を上げて微笑むのは、加持だ。
 
 
 
 リツコは小さく溜め息をつくと、再び視線を手許の書類に戻した。
 
 
 
 「怪我をしたって聞いてね……飛んできたよ。大丈夫だったかい?」
 
 加持は屈託の無い笑顔を浮かべたまま車両の中に足を踏み入れると、リツコの座るものとは斜向かいのベッドに腰を下ろす。
 
 リツコは、ちら……と視線だけを上げて、それから、再び書類に落とす。
 
 「こんなところにいるより、恋人のところに行ったら?」
 
 「別に、葛城は怪我してるわけじゃない」
 
 「加持君がここに来たからって、私の怪我が治るわけじゃないわよ」
 
 リツコは無感情にそう呟いて、手元に置いてあった紙コップをとり、一口だけすすった。
 
 加持は、応えずに軽く肩を竦める。
 
 
 
 ……再び、車両の中は、静寂に包まれた。
 
 外から漏れ聞こえる、救出活動の微かな喧騒……それだけが、外界とここを繋ぐ、僅かな証に過ぎない。
 
 
 
 「……参号機は、シンジ君が倒したんだって?」
 
 ……加持は、ゆっくりと、呟いた。
 
 
 
 リツコは、視線を上げる。
 
 
 
 「聞いてるだろ?」
 
 「……ええ」
 
 「ダミーシステムは、上手く起動しなかったみたいだな」
 
 「……どこまで知っているの?」
 
 「別に。これくらい、そこらの諜報組織ならつかんでる」
 
 「………」
 
 「……原因は?」
 
 「……なにが?」
 
 「ダミーは何で暴走したんだ?」
 
 「さぁ……」
 
 「解明待ちか? 何か、分かってるだろ」
 
 「分かってたとして、言うと思う?」
 
 
 
 リツコの言葉は、路傍に転がる石のように、無表情で、飾り気が無い。
 
 だが、それは……立ち止まって触れる者の、指先を凍りつかせるような、冷え切った言葉だ。
 
 
 
 加持はしかし、まるで気にしないような風情で微笑んだ。
 
 「ま……そうだろうな」
 
 言うと、立ち上がる。
 
 
 
 「……そろそろ戻るか……葛城も今ごろ、事後処理で走り回ってるだろうしな」
 
 「何しに来たの?」
 
 「リっちゃんの無事を確かめに来たのさ」
 
 「嘘ばっかり」
 
 リツコの言葉に加持は肩を竦めると、そのままきびすを返してトレーラーの開口部に足を進める。
 
 そうして出口のところまで来てから、ふと……振り返った。
 
 
 
 「葛城は……どう、思ってるかな」
 
 
 
 「……何が?」
 
 リツコが、冷ややかな視線を加持に向ける。
 
 「いや……今回の、ダミーのこととか、さ」
 
 「何の話?」
 
 「とりあえず……司令や上層部の考え方には、納得がいってないはずだ」
 
 「………」
 
 「大人しくしてるタイプじゃない。これから先、軋轢がでるかも知れないな」
 
 
 
 リツコは、しばし……加持の顔を見つめた後、視線を手許の書類に戻し、また、1枚……とめくりはじめる。
 
 「……下らない」
 
 リツコは、呟くように、言う。
 
 
 
 「……そんな感情……ミサトなら、押し込めるわ。
 
 彼女も、大人、なんですからね」



四百四十



 使徒の沈黙を確認した後……管制塔は、初号機とシンジの神経接続を切断した。
 
 
 
 本来、神経接続はダミーシステムに繋がっているところのはずで……今の状態は、シンジが無理矢理それを奪い取ったに過ぎない。
 
 そんなことをいったいどうやって行なったのか、当のシンジにも分からなかったし……と、なれば、いつまたダミーシステムに接続が戻ってしまうとも限らない。
 
 とりあえず闘わなければならない当面の危機は回避されたわけで、で、あれば、早々に初号機の神経接続は切断して解析に回すほうが安全だ。
 
 
 
 シンジにも、異論はなかった。
 
 確かに、どうやって神経接続をダミーシステムから奪ったのか、さっぱり原理はわからない。
 
 もう一度、同じことをやれといわれて、確実に行なう自信はない。
 
 神経接続は、即座に切断しておくほうがいい、と、シンジも思う。
 
 
 
 しかし、本当は、何よりもまして、まず回収した参号機のプラグに駆け寄りたかったのだ。
 
 だが……うっかりしていたことだが、神経接続を切断してしまった後で、自分だけ駆け寄りたくても、ここは仁王立ちして固まる初号機の頚椎……プラグをイジェクトしても自力では降りることの出来ない高さだ。
 
 NERVの回収班を待たねばここを出られない、とは、お粗末な話だった。
 
 
 
 『……ごめんなさい』
 
 背凭れに深く体重を預けるシンジの耳に、小さな……そう、微かとも言える、耳慣れた女性の声が聞こえてきた。
 
 シンジは、首だけを回して、スピーカーの方を向く。
 
 「……ミサトさん」
 
 『……ごめんなさい……謝っても、仕方がないと思うけど……でも……』
 
 
 
 シンジに、ミサトを責める気持ちはなかった。
 
 自分が、ミサトの立場だったら、どうか?
 
 現在の、これから起こる事態を知っているシンジならともかく……今のミサトの立場に置かれたとしたら。
 
 
 
 ダミーシステムの起動について、発案したのは間違いなくゲンドウだろう。
 
 ダミーを一度起動したら止められないことも、起動したダミーが情け容赦なく敵を屠ろうとすることも、ミサトは知らなかったに違いない。
 
 立場上、ダミーの構造的欠陥を知らないミサトが、総司令であるゲンドウの命令を阻止できるとは思えない。
 
 ミサトに最初の起動を止められなかったことは十分に理解できる。
 
 
 
 それに、血も涙もない様子で参号機を叩きのめす初号機を見て、制止を進言したミサトの声は、スピーカーごしにはっきりと耳に残っている。
 
 黙って見ていたわけじゃない。
 
 それで、十分だ。
 
 今のミサトにそれ以上を望むのは、酷であろう。
 
 
 
 「……いいですよ、別に……気にしてません。仕方なかったと思います」
 
 ……だから、シンジは、それだけ言うにとどめた。
 
 それ以上は、是の言葉も否の言葉も、ミサトを責めるだけだ。
 
 ……このスピーカーでのやり取りを、ゲンドウは聞いているだろうか?
 
 一言、ここで言ってやってもいい。
 
 少なくとも、ゲンドウの行動を責めたい気分は、多分にある。
 
 だが、今は……ゲンドウに、何の言葉もかけたくはなかった。
 
 
 
 シンジは、そのまま……すぐに、話題を切り替えた。
 
 いや、むしろ、シンジはもともと、こちらの方が気になっているのだ。
 
 
 
 「……トウジの様子はどうですか? ミサトさん」
 
 
 
 数分前に、地面に転がった参号機のプラグからトウジが救出されたのは、かろうじてモニタの隅に認めることが出来た。
 
 だが、気を失っているのか元気に動く様子は見えなかったし、あの状態では生きているのかどうかもよく分からない。
 
 何よりも、トウジの無事を最初に確認したい、と思っていたのだ。
 
 
 
 『あ……うん……今、救急治療室に入って検査を受けてるけど……身体的には、大したダメージは受けてないみたい』
 
 ミサトの説明に、シンジは、ほっ……と、息をついた。
 
 「そうですか……よかった」
 
 『使徒に侵食されていたわけだし、もしも意識があったのなら相当に怖い思いをしたとは思うし……精神への影響は、まだ、目覚めてみないと分からないわ。今は、精神安定剤を投与されて、眠ってるところよ』
 
 「僕は、回収されたらトウジのところへ行けますか?」
 
 『シンちゃんも戦闘後の定例検査は受けなくちゃダメよ。それに、どっちにしろ、今晩はトウジ君を安静にしておくように指示が出てるわ。シンちゃんが面会できるのは、明日ね』
 
 「そうですか……すぐに、会って様子を知りたかったんですけど」
 
 『鈴原君の容体については、救急班がちゃんと見てるから。心配しないで』
 
 「……分かりました」



四百四十一



 ガタガタと揺れる搬送車。
 
 レイとアスカはその中に、膝を並べて座っていた。
 
 二人とも、口を開かない。
 
 薄暗い後部座席の中で、ただ、二人は畦道に揺られるに任せていた。
 
 
 
 レイは、じっと……シンジのことを、考えていた。
 
 ……確かに……初号機は一度、ダミーシステムに主導権を握られた。
 
 ゲンドウの言葉を信じるならば、そうなった以上、敵を完全に殲滅しない限り、その主導権を手放すことはないはずだ。
 
 
 
 ……だが、シンジは、それを取り戻した。
 
 これは、どういうことだろうか?
 
 
 
 ……シンジが初号機との神経接続を取り戻したと思われる直前、初号機は使徒の侵食に晒されていた。
 
 それが原因だろうか?
 
 例えば、侵食した使徒が、搭乗者であるシンジを直接襲おうとしたために、初号機もシンジの存在に気付いて能動的に神経を接続し直した……ということがあるだろうか。
 
 ……だが、それでは、あの……異常とも言える初号機の動きはどうか?
 
 主導権を取り戻した後のシンジは、はっきり言って、物凄かった。
 
 シンジが凄いのは今に始まったわけではないが……それにしても。
 
 ……何か、シンジの身に、起こっているのだろうか?
 
 未来から戻ってきた……それだけでは済まないような何かが、シンジの身に起こっている……そんなことが、あり得るだろうか?
 
 
 
 アスカは、じっと……先程の、初号機と参号機の戦いを、反芻していた。
 
 
 
 まさに、人間の処理能力を大きく上回った動きだった。
 
 もちろん……極限までシンクロ率を高めれば、エヴァンゲリオンの動きはどんどん鋭くなっていく。
 
 だがそれにも限界はある。エヴァが勝手に動くのではない。あくまでも、パイロットが操縦して動かすのである。
 
 操縦者である人間の、脳の処理速度を越えた動きが出来るわけではないのだ。
 
 例えば、第十使徒の落下地点に向かって疾走したときとは、条件が違う。あの時は、目的地点に向かって闇雲に突進すればよく、脳の回転はそれだけに集中すればよかった。
 
 今回は、それでは済まない。ただでさえ予測の非常に難しい動きを見せる強敵と戦いながら、先を取る。それを超人的な動きでやって見せるというのは、尋常ではない。
 
 
 
 それに……と、アスカは思う。
 
 ……あの、有利に見えたマウントスタイルの途中で、急に使徒に殴りかかった不可解な行動は何なのだろう?
 
 突然、容赦なく参号機を打ち付けた拳は、中にトウジが乗っていることを知っているはずのシンジとはあまりにもかけ離れた印象だった。
 
 だが……それについては、もうひとつ、別の疑問が浮かび上がる。
 
 
 
 ……ダミーシステム。
 
 レイは、配電車の中で……そんなことを言っていた。
 
 よく分からないが、初号機の急変の原因は、ダミーシステムにある、と。
 
 
 
 ダミー、システム。
 
 
 
 …それは、何だろう?
 
 
 
 「……レイ」
 
 アスカは、呟くように、隣に座る少女に声をかけた。
 
 レイは、顔を上げてアスカを見る。
 
 ガタガタと、車は激しく揺れて、腰に響いてくるような振動と騒音を二人に与えた。
 
 殆ど明かりの無い車内で、レイとアスカは、お互いの瞳を、見つめあう。
 
 
 
 「……ダミーシステムって……なに?」
 
 
 
 アスカの口から零れた言葉は……一度、戦いの中で、彼女の口から出た言葉だった。
 
 レイは、じっと、アスカを見る。
 
 
 
 アスカは、すぐには言葉を継がず……ただ、レイの瞳を見返す。
 
 
 
 がたん! と、路傍の畝を踏み上げて、車体が大きく揺れた。
 
 壁に並んでぶら下がっている緊急用の工具が、ぶつかり合ってがちゃがちゃと厳つい音を立てる。
 
 
 
 ……レイは、ゆっくりと視線を外し……
 
 ……そして、口を開いた。
 
 
 
 「……エヴァにとっての、パイロットの、代わり」
 
 
 
 「……代わり?」
 
 「そう……」
 
 「……どういうことよ?」
 
 「……プログラムされた人格……。パイロットの、ダミー。エヴァに、そこにパイロットがいると思い込ませるための、プログラム」
 
 レイの言葉に、アスカは、小さく目を見開いた。
 
 「……何でそんなのがいんのよ? ……アタシたちがいれば、それでいいじゃない」
 
 「知らないわ……エヴァの量産計画に対して、パイロットはまだ、私たち三人……鈴原君を入れても四人しかいないから……ダミーシステムを使えば済む、と思ってるのかも知れない」
 
 
 
 実際……レイには、ダミーシステムを開発する詳細な理由までは知らなかった。
 
 ダミーシステムの開発に関与していた頃は、そんなことには一片の興味もなかったし……今はむしろ忌避している傾向があるので尚更だ。
 
 
 
 「……はん……そんなモン、アタシたちの、何ヶ月も訓練してたのに敵う訳ないじゃない」
 
 アスカはそう言うと、足を組んで、肘を突いた。
 
 「……ダミーシステムはプログラムだから……設計さえ上手くいけば、理論上は、訓練したのと同じような動きを見せることが出来るわ」
 
 「上手くいけば、でしょ。……そんなにカンタンに、アタシたちの訓練で培った動きをアルゴリズムに押し込めると思って貰っちゃ困るわよね。だいたい、端から見てるだけのプログラマに、闘いの何が分かるっていうのよ」
 
 アスカは、半目でそう言うと、口許を歪めて笑って見せた。
 
 
 
 ……現実には……レイが、ダミーシステムの開発に関わっている以上、端から見ているプログラマの視点などではなく、完璧なフィードバックを得ることも可能だった。
 
 だが、さすがに、レイもそれは口にしない。
 
 
 
 「……で……なに? じゃ、あの、途中で急に初号機が変な動きをしたのは、そのダミーシステムとやらが暴走したってワケ?」
 
 「……たぶん、そうだと思う」
 
 「いい気味。当然よ」
 
 
 
 搬送車は、また、大きくバウンドした。



四百四十二



 トウジは、真っ白な世界にいた。
 
 
 
 (……なんや……ココ)
 
 トウジは、うつろな表情で、あたりの風景を見回す。
 
 真っ白な……上も下もない、境界もない空間。
 
 その中に、膝を抱えるようにして、トウジは座っている。
 
 
 
 身体を起こして、自分が裸であることに気付いたが、それは特に何の感情も呼び起こさない。
 
 立ち上がって、頭をぽりぽりと掻く。
 
 (……えぇと……どこや、ココ。ワシ、どうしたんや?)
 
 足を踏み出して、歩き始める。
 
 だが、元より、自分以外の何も存在しない世界だ。自分の足の裏が、ちゃんと地面を捉えているのかどうかすら、自信がない。
 
 (戻らな……)
 
 そう、思いながら、ただ、機械的に左右の足を踏み出し続ける。
 
 ……そうして……ふと、立ち止まる。
 
 (戻らな……って、どこにや? ワシ、どこに戻らなアカンのやろ)
 
 記憶は、漠として捕らえ所が無かった。
 
 これは、夢だろうか?
 
 ふと、そう、思い……トウジは、ゆっくりと、目を見開いた。
 
 夢……
 
 ……夢?
 
 ……これは、夢……?
 
 
 
 トウジの視界には、薄暗い天井が映っていた。
 
 
 
 (……あだだ)
 
 トウジは、体中を覆うような鈍い痛みに、微かに眉をしかめた。
 
 両腕を突いて、引きずるように身体を起こす。
 
 瞼をこすりながら、周りの様子を見回した。
 
 
 
 そこは、トウジの見覚えの無い部屋だった。
 
 薄暗くてよく分からないが……周りは、白い壁に覆われている。
 
 自分はベッドの上に寝ていて、体中から細いコードのようなものが伸びて、傍らの大仰な機械に接続されていた。
 
 その機械のモニタに、ドラマなどで見慣れた心拍を表す折れ線グラフが小さな電子音に合わせて流れている。
 
 トウジは初め、それをぼけっと見つめて……それから、耳の奥に響く微かな心拍音に気付いて、やっと、それが自分の心電図だということを理解した。
 
 (は……これ……ワシんか)
 
 自分の心電図を、自分で眺めているのは何だか不思議な気分だ。
 
 確かにそれは自分の命の証なのだが、例え今、それが止まっても、平気で眺めていられるような、そんな気がしてしまう。
 
 
 
 反対側を見ると、窓から外の様子が見えた。
 
 ……と、言っても、夜の闇だ。ほとんど何も見えない。
 
 微かに遠くに見えるピラミッド状の建物……あんなもの、第三新東京市にあっただろうか? と、トウジは首を傾げる。ここは、第三新東京市ではないのか?
 
 
 
 ……ふと、枕元のプレートが視界に入った。
 
 
 
 もともとベッドにくっついているスリットに、カードが差し込んであるようだった。
 
 トウジは右手でそのカードを外すと、窓から漏れる光に翳して見る。
 
 
 
 NERV
 スズハラ トウジ
 TOUJI SUZUHARA
 
 
 
 トウジは、じっと青く光る、そのカードを見つめていた。
 
 
 
 「夢……や、ないんやな……」
 
 小さな声で……呟く。
 
 
 
 「……そうさ、夢じゃない」
 
 突然、部屋の隅から聞こえてきた声に、トウジは飛び上がった。
 
 
 
 「うぉおわぁあッ!! ダ、ダ、ダ、ダレやッ!?」
 
 「俺だよ」
 
 枕を抱えて裏返った叫びを上げるトウジに、加持は、微笑んで片手を挙げて見せた。
 
 
 
 ……さっき窓の方を見たときには、確かにいなかったはずだ。
 
 だが、今、いつの間にか……一番端の窓が開き、その桟に、加持は腰掛けていた。
 
 
 
 「かっ……か、加持さんでっか……」
 
 へなへな、と、トウジは腰を砕けさせて、ぐずぐずと布団の上に倒れ込んだ。
 
 「驚かしたかな」
 
 「あ……当たり前ですワ、そんな……」
 
 「スマンな、面会謝絶だったもんでね。ちょっと、裏口からな」
 
 そう言うと、加持は無邪気にウインクをして見せた。
 
 
 
 加持は、上着のポケットに手を突っ込むと、腰を浮かせてベッドの横まで足を進めた。
 
 「どうだい、身体の調子は?」
 
 「いや……う〜ん……ま、ちょっと筋肉痛みたいなカンジですわ」
 
 トウジは、そう応える。
 
 実際、筋肉のハリのような痛みは体中に感じるが、それ以上の怪我は見当たらない。
 
 「不思議なモンですね」
 
 「何がだい?」
 
 「何がて……あれだけ痛い思いして、身体は平気っちゅうのが……」
 
 そう……言いかけて。
 
 
 
 トウジは、静かに、目を見開いた。
 
 
 
 忘れていた感覚が、甦る。
 
 
 
 つい……数時間前の、自分を襲った例えようもない、恐怖。
 
 普通に生活していて、到底感じることなど無いはずの、激しい痛みの渦。
 
 
 
 自分に向かって死のあぎとを開く初号機の姿が、脳裏を走り抜けた。
 
 
 
 「あ……」
 
 トウジは、焦点の合わぬ視線のまま、茫然と、声を漏らした。
 
 体中の毛穴から、うっすらと、脂汗のようなものが滲む。
 
 両方の肩を、ぎゅっと抱え込んだ。
 
 あの……恐ろしい情景が、体中に貼り付く。
 
 
 
 「……怖かったかい」
 
 ……加持が、頭上から、低く……しかし、いたわるような、声をかけた。
 
 トウジは、震える表情のまま、顔を上げて加持を見る。
 
 加持は、微笑んだ。
 
 「怖かったかい?」
 
 「……あ……う、そ、そりゃ……あんなん……」
 
 こくこく、と、頷くように首を振るトウジ。
 
 
 
 「……その恐怖の中で……シンジ君や、レイちゃんや、アスカは闘っているんだ」
 
 
 
 ……加持の言葉に、トウジは、小さく目を見開いた。
 
 加持は、屈託の無い微笑みを浮かべる。
 
 「別に、だからどうだっていうわけじゃないけどね……覚えておいて欲しいんだ。
 
 君は、得難い経験をした、とも言える……普通、チルドレンでもないものが、エヴァに乗って、しかも闘いの真っ只中に晒されることなんて無いからね」
 
 「……い……いや、その……そ、そんなん……嬉しくないですけど」
 
 「ま、そりゃそうだろうけどな。
 
 なんて言うのかな? あの三人の闘いは、どんなに分かったつもりでも、俺達には分からない。
 
 理解できる、なんて、大人の戯言さ。だけど、君は、分かるんだよ。世界中で……彼ら三人の戦いを、唯一分かることが出来る人間ってわけだ」
 
 「は……はぁ」
 
 「理解してあげることが出来る人間が、いるのといないのとでは、全然違う。俺達では、いまいち足りなくてね」
 
 加持は、そう言って、肩を竦めて見せた。
 
 
 
 ……そう言われても、トウジにはぴんと来ない。
 
 それに……そう言われて、別の思いが、ふとトウジの脳裏によぎった。
 
 あの……同じような闘いに晒されていたシンジ。
 
 彼は、大丈夫だろうか? 今の自分と同じように、どこかの病室に搬入されていたりしていないだろうか。それに、先に倒してしまった二人は無事だろうか?
 
 
 
 「……シンジは、どうですか?」
 
 トウジは、おずおず……と切り出した。
 
 「それに、綾波や惣流は大丈夫でしょうか……ワシが乗ってるエヴァが、ひどいことしたみたいに見えましたけど……」
 
 「大丈夫、三人ともぴんぴんしてるよ」
 
 加持の言葉に、トウジは、ほっと息をつく。
 
 
 
 「……これから、どうする?」
 
 加持の、突然の言葉に、トウジは少しだけ驚いたように顔を上げた。
 
 
 
 「……は? これから、て……」
 
 「チルドレンにはなりたくないだろう?」
 
 「………」
 
 トウジは、言葉に詰まったように口を噤んだ。
 
 もちろん……その通りだ。
 
 二度と……あんな、怖い思いをしたくはない。
 
 「トウジ君……君は、他の三人とは、立場が違う」
 
 「は……?」
 
 「選択肢が与えられていることさ」
 
 「選択肢て……」
 
 「チルドレンになるか、それとも辞めるか……それは、君の自由意志に任されている」
 
 
 
 加持の言葉は、確かに……ある種の重さをもって、発せられたはずだった。
 
 しかし、その声音のあまりの軽さに、トウジは、思わず……晩ご飯の献立を聞かれたような気がしてしまう。
 
 
 
 「は……」
 
 気の抜けたような返事を返すトウジに、加持は、微笑んだまま目を瞑って見せた。
 
 「別に、今決めろとは言われないとは思うが、退院の前には決めなけりゃいけないだろうな。今のうちに、心の準備をしておくといい」
 
 「は……あ……そ、そうでっか……」
 
 曖昧な表情で、トウジは頷く。
 
 
 
 加持は、窓の桟に手をかけた。
 
 「さ……長居してもあれだ。そろそろ帰るよ」
 
 「あ……そ、そうでっか? ほ、ほな……」
 
 「トウジ君」
 
 「はい?」
 
 「君は、何のために生きている?」
 
 「は?」
 
 「人は、胸に抱いた何かのために生きている。それがどんなに些細なものであろうとね。さしずめシンジ君なら、最愛の少女を守るために生きているというところかな」
 
 「……は、はぁ……」
 
 「君は、何のために生きている?」
 
 「何……て……」
 
 「君は、何かのために生きていると……胸を張って言えるかい?」
 
 
 
 トウジの言葉を聞く前に、加持の姿は消えた。
 
 開いた窓の向こうから緩やかに吹き込む風に、トウジは言葉を失っていた。



四百四十三



 トウジは、暗闇の中で横になりながら……ただ、目だけが冴えて、天井の節目を見つめていた。
 
 
 
 『君は、何かのために生きていると、胸を張って言えるかい?』
 
 頭の中に、加持の言葉が響く。
 
 
 
 ……何のために、と言われても、言葉は出てこない。
 
 誰だって、そうだ。誰だって、何かのために生きているなどと、胸を張って言えたりはしない。
 
 そう思っても、トウジの中には何か、中途半端に千切れたミシン目のような気持ちの悪さが残り、思わず幾度目か知らぬ寝返りを打った。
 
 
 
 結局まんじりともせず、朝を迎えていた。
 
 
 
 朝になって病室を白衣を着た職員が数人訪れ、トウジの体を詳細にチェックした。
 
 脳波を計りながらのテストのようなものも行われたが、これは精神に対する後遺症を調べるものだろう。
 
 小一時間の調査が終わった後、トウジの容体には特に問題なしとの太鼓判が押されたようだ。その証拠に、トウジは地上の一般病棟に移動させられていた。
 
 
 
 一般病棟の個室に入れられて、トウジは再び、独り残された。
 
 
 
 ……暫し、ぼうっとベッドに横になっていたが、やがて、トウジは上半身を起こした。
 
 ベッドの横に揃えてあるスリッパに、つま先を突っ込む。
 
 壁に掛かっていたホワイトボードに、「ブラブラしてきます」と書いて、トウジはドアノブに手を掛けた。
 
 
 
 廊下に出ると、そこは見知った病院の風景だった。
 
 伸びる白い廊下の左側には、今のものと同じドアが並ぶ……恐らく、こちら側は同じような個室が並んでいるのだろう。
 
 廊下の右側は、一面に窓が並んでいた。窓から差し込む柔らかな陽射しが、今の時刻を昼頃だと感じさせる。
 
 近寄って外を見ると、病院の前のバスプールが見える。その風景には見覚えがあった。ミドリの見舞いに、幾度も降りたバスターミナルだ。
 
 
 
 (ああ……ココ、あの病院か)
 
 トウジは、ゆっくりと窓際を歩きながら、そう思う。
 
 前にここに来たときには……まさか、こんな状況になるとは思いも寄らなかった。
 
 自分がエヴァンゲリオンに乗り、戦闘のど真ん中に放り込まれて、意識不明で担ぎ出されるなんて事が起ころうとは……。
 
 
 
 『その恐怖の中で、シンジ君や、レイちゃんや、アスカは闘っている』
 
 
 
 加持の言葉が、またトウジの耳の奥にこだました。
 
 トウジは、ゆっくりと歩きながら……病院特有の、リノリウムの白い床に映る自分のつま先を見る。
 
 そう……あの、戦闘のただ中にいる、恐怖。
 
 命のやり取りが、絵空事ではない現実として目の前に突きつけられる戦禍の中で、あの三人は闘っている。
 
 それは、確認するまでもない、紛う方なき事実だ。
 
 
 
 以前の自分には、それでも、シンジたちの立ち向かう世界を現実とは受け止められていなかった気がする。
 
 それは……当然、とも言えた。当事者ではないのだ。
 
 加持の言う、「他人には分からない」という言葉が、実感として肌に触れていた。そう、一昨日までの自分には、まるで分かっていなかったのだ。
 
 シンジたちが……どんな闘いに、その身を投じているのか。
 
 
 
 廊下の向こうから、看護婦が二人、談笑しながら歩いてきた。
 
 トウジは、無意識に窓側により、道を空ける。
 
 すれ違っていく彼女達の軽やかな笑い声が、羽毛のような感覚をトウジの頭に残した。
 
 
 
 去っていく看護婦達の後ろ姿を、トウジは、じっと見つめている。
 
 
 
 どちらの世界が、現実だろうか?
 
 一昨日までの自分のいた世界と、昨日の世界。
 
 少なくとも、昨日の世界が自分にふさわしいとは思えない。
 
 ……だが、知ってしまった自分に、一昨日の世界にまたどっぷりと戻ることができるだろうか?
 
 
 
 窓の1枚が、5センチほど開いていて、そこからそよ風が舞い込む。
 
 微かな蝉の声が、トウジの耳に届いた。
 
 
 
 まるで……時間の流れがひどく緩慢に、ゆったりと流れていくような、そんな感覚の、中……。
 
 
 
 「……鈴原」
 
 
 
 背後から……まるで、蝉の声に掻き消されるように、小さな……声が、自分を呼ぶのが聞こえる。
 
 トウジは、ゆっくりと振り返り……
 
 ……その、少女の姿を、見つめて……口を開いた。
 
 
 
 「……委員長……」



四百四十四



 病室に戻って、トウジは再びベッドに横になっていた。
 
 体は思ったほど何ともなく、ヒカリの前で横になっているのは気恥ずかしいと抵抗したのだが、それをヒカリは許さなかった。
 
 今、ヒカリは、備え付けの小さな椅子に腰を下ろして、ベッドのすぐ横に座っている。
 
 病室には、トウジとヒカリ以外の人の姿は、なかった。
 
 
 
 「……なんで、ココが分かったんや?」
 
 両手を頭の後ろで組みながら、トウジはヒカリを見上げてそう呟いた。
 
 「シンジか誰かから、聞いたんか?」
 
 「ううん」
 
 ヒカリは首を振る。
 
 「加持さんが……」
 
 「えっ……加持さん?」
 
 「あの……前に、ミドリちゃんの病室で、碇君と一緒にいた人がいたでしょ? あの人が、今朝……来て、教えてくれたの」
 
 ……ヒカリは、まだ、トウジと加持があの後も幾度か会っていることを知らないようだ。
 
 しかし……おせっかいと言うべきか? 加持が何をしたいのかよく分からなくて、トウジはぽりぽりと頬を掻いた。
 
 
 
 「加持さんから……どこまで聞いたんや?」
 
 
 
 「……どこまで……って?」
 
 ヒカリが、きょとん、とした表情でトウジを見る。
 
 トウジは上半身を起こして、ヒカリを見た。
 
 「いや……ワシが、何で入院しとるのか、とか」
 
 「何か……事故に遭ったって、言ってたけど。詳しいことは、加持さんも知らないって。直接、鈴原に聞いたほうが早いって言われたわ」
 
 ヒカリは、思い出すように、そう呟く。
 
 
 
 加持が、詳しいことを知らないわけが無い。
 
 暗に、「トウジの口から説明しろ」と言っているのだろう。
 
 トウジは心の中で、腕組みをした。
 
 何と説明すればいいだろうか? エヴァでの戦闘に巻き込まれた、なんて、言うのは簡単だが心配をかけるだけだ。
 
 かと言って、嘘をつくつもりはないし……どちらかと言えば、言い方を考えあぐねている、といったところだろうか。
 
 どう説明すれば、ヒカリに気を揉ませなくて済むだろうか?
 
 
 
 「松代で、何をしてたの?」
 
 トウジが考えあぐねていると……そんな様子に気付かず、ヒカリは屈託の無い表情で問い掛けた。
 
 トウジは、我に返ったように、ヒカリを見る。
 
 「えっ……松代て……何で、知ってるんや?」
 
 「……一昨日、鈴原が自分でそう言ってたんじゃない」
 
 「……せやったか?」
 
 「帰ってきたら、話す……って、言ってたのよ」
 
 「はぁ……そう言うたら……そんなこと、言うた気も……」
 
 曖昧な表情で頭を掻くトウジに、ヒカリは、苦笑混じりで微笑んで見せた。
 
 
 
 「……何があったのか……聞いても、いい?」
 
 
 
 ……優しい表情を篭めて、ヒカリはそう呟き……微笑んで、トウジを見つめた。
 
 
 
 トウジが、ヒカリを、見返す。
 
 「ん……まぁ……ええけど」
 
 「……よかった」
 
 ヒカリが、少しだけ……ほっとしたように、息をついた。
 
 「何だか、一昨日……聞いていいのかどうか、分からない感じだったから……」
 
 そう言って、もう一度、微笑む。
 
 
 
 トウジは、口を噤んで、ヒカリの微笑みを見つめていた。
 
 そう……
 
 ……確かに、一昨日……チルドレンの候補生として実験に参加することを、ヒカリに語ることは出来なかった。
 
 それは、自分の中で、説明できるほど整理がついていなかったことも、ある。
 
 だが……
 
 
 
 ……心配をかけたくなかったのだ、と、トウジは……ゆっくりと、思う。
 
 実験が、何を意味するのか……あっけないほど簡単なことなのか、それとも互いを別つほど危険なことなのか、それも、あの時点では見当がつかなかった。
 
 あの状態で、ヒカリに説明できなかったのは……中途半端に説明して、ヒカリの気を揉ませたくなかったのだ。
 
 
 
 ……やはり自分には、絵空事だろうか? と、トウジは思う。
 
 少なくとも、覚悟のようなものは何もなかった。どんなにぎりぎりの緊張感の中にいる気がしても、それは、昨日の戦闘の渦中に比べればお子様の抱く甘い感覚に過ぎない。
 
 ぴしり、と、自分の中に筋が通っていないことが、ヒカリに語る言葉にも使いあぐねるような曖昧さを生んでいるような気がする。
 
 
 
 ……だから、シンジは、強いのかも知れない。
 
 と、トウジは、思う。
 
 だから……レイは、強いのかも知れない。
 
 だから、アスカは、強いのかも知れない。
 
 
 
 それは、毎日を……その、一分、一秒を、はっきりと背筋を伸ばして見つめている者にしか現れない、眩しいような、強さ。
 
 その、同じ強さを、シンジにもレイにもアスカにも、感じる。
 
 ……昨晩、加持は自分のことを、「三人の戦いを、唯一分かることが出来る人間」と言った。
 
 だが、あの三人と自分は、全然違う。
 
 あの三人が共通して持つ強さを、自分は持たない。
 
 
 
 ……あの三人の強さは、何だろう?
 
 
 
 ……トウジは、ゆっくりと、考える。
 
 
 
 『人は、胸に抱いた何かのために生きている』
 
 ……昨晩から、幾度か去来した加持の言葉が、再び胸の奥に浮かぶ。
 
 ……シンジは、レイのために生きているのだろうか。
 
 ……レイは、シンジのためだろうか?
 
 ……アスカは? アスカの思いは……自分にはよく分からないが、さしずめ「自分のため」かも知れない。
 
 
 
 自分は、何のために生きている?
 
 
 
 何のために、この命を賭けても構わないと、言い切ることができるだろうか?
 
 
 
 「……委員長」
 
 トウジは、小さく口を開いた。
 
 ヒカリは、少しだけ首を傾げてトウジを見る。
 
 トウジは、自分の手許を見つめたまま、言葉を続けた。
 
 「……委員長は……何のために、生きてる?」
 
 
 
 ヒカリは、少しだけ面食らったように……目を見開いた。
 
 トウジの口から出てくると思っていたのは、昨日の顛末についての説明だった。
 
 だが……問われた言葉は、およそかけ離れた、禅問答にも近い質問だ。
 
 
 
 「……え?」
 
 ヒカリは、おずおずと問い返した。
 
 トウジは、少しだけ口許に笑みを浮かべて、視線をヒカリに向ける。
 
 「人は、胸に抱いた何かのために生きている……ちゅうこと、みたいやで」
 
 「……えぇと……」
 
 「……正直……ワシには、よぅ分からん。委員長はどうや? 委員長は、今……何かのために、生きてる……て、言えるか?」
 
 
 
 ヒカリは、口を噤んで、トウジを見つめる。
 
 トウジも、じっと、ヒカリの瞳を見つめていた。
 
 いつもなら……こんな風に見つめあうのは、何か、こそばゆいような照れ臭さがあって、とても出来ない。
 
 ……だが、今は、自然と相手の顔を見つめることが出来ていた。
 
 
 
 ……ヒカリは、トウジの顔を見つめながら……心の中で、今のトウジの言葉を反芻していた。
 
 
 
 ……今、自分は……何かのために、生きているだろうか?
 
 
 
 分からない。
 
 普通に暮らしている中学生が、そんな問いに答えられるだろうか?
 
 クラスの友人達に、同じ問い掛けをしてみたとする。果たして、何人が、答えてくれるだろうか。おそらく、一人もいないのではないか?
 
 ……だが、トウジは、じっと……自分を見つめている。
 
 言葉は羽毛のような軽さだが、冗談で言っているのではないようだ。
 
 
 
 ……何か、答えてあげたい、と、ヒカリは思う。
 
 トウジが、真面目に問い掛けているのだったら……それが下らない答えでも、真面目に考えて、答えてあげたい。
 
 そう思い、ヒカリは必死に思考をたぐり寄せる。
 
 
 
 ……今……何かのために、生きているなんて……思えない。
 
 ………
 
 ……じゃぁ……
 
 ……これから……何かのために、生きられるとしたら……
 
 ……何のために、生きていくことができるだろうか?
 
 
 
 トウジとヒカリの間には、穏やかな静寂が流れていた。
 
 トウジは、言葉を紡ぐことなく、ただ、ヒカリの答えを待っている。
 
 ヒカリが、トウジの言葉を、考えているのが分かる。
 
 何か、答えを示そうとしてくれているのが分かるから……
 
 ……口を挟まず、じっと、その言葉を待ち続けていた。
 
 
 
 そうして……三十秒ほどの、時が流れ。
 
 
 
 「……?」
 
 トウジが、不思議そうな表情で、ヒカリを見た。
 
 
 
 ヒカリの顔が、見る見ると赤くなっていき……
 
 照れたように、顔を伏せてしまった。
 
 
 
 「……どないしたんや……委員長?」
 
 トウジが、怪訝そうにヒカリの顔を覗き込む。
 
 ヒカリは、ちらっ……と、トウジの顔を見て……
 
 ……また、目を伏せてしまう。
 
 
 
 真っ赤だ。
 
 
 
 「……委員長?」
 
 「………」
 
 「……委員長……どないしたんや。どうかしたんか?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……なぁ」
 
 「……わ」
 
 「……?」
 
 「……私、は……その……」
 
 口ごもりながら、上目遣いに……ヒカリは、トウジの顔を見上げた。
 
 
 
 突然、トウジは、ヒカリの言わんとするところを理解した。
 
 
 
 ……あっ……。
 
 
 
 目が、ゆっくりと……見開かれていく。
 
 
 
 ……ワシ……か……?
 
 
 
 ……ワシ、か。
 
 
 
 そうなんか……?
 
 
 
 曖昧な霧の中に埋もれていた心が、自分の中で、突然拓けた海原のように突き抜けた青空になった。
 
 ヒカリの顔が、脳裏に浮かぶ。
 
 なんや……。
 
 ゆっくりと、噛みしめるように。
 
 
 
 そう……なんや……。
 
 そうや。
 
 そう……
 
 
 
 ワシかて……そりゃ……。
 
 
 
 ……まだ、ヒカリのために……すべてを賭けることなんて、出来るわけが無い。
 
 中学生の少年が、「好きな少女のために命を懸ける」など、言うのは簡単だが結局、戯言の域を出ない。それは、自分にもよく分かっている。
 
 
 
 だが、ヒカリのいない人生を、もはや描くことの出来ない自分。
 
 例えとりとめの無い、どうということの無い人生だとしても、そこにヒカリがいないことの、何と違和感のあることか。
 
 愛している、と、公言するにははばかられる。
 
 恋人だ、と胸を張って言い切る姿もどうかと思う。
 
 だが、まるで欠けた穴にぴたりと嵌るジグソーパズルのピースのように、彼女の存在は自然なのだ。
 
 
 
 ……それが、自然なんじゃないか?
 
 
 
 恋人であることが重要だろうか?
 
 違う。
 
 むしろ大事なのは、お互いがお互いを、まるで自らの半身のように感じられることだ。
 
 二人きりで、違和感を感じないこと。
 
 
 
 愛の言葉を交わす必要など無い。
 
 触れ合ってお互いの存在を確かめあえなどと言わない。
 
 ……ただ、そこにいてくれることが嬉しいこと。
 
 それが大事なのではないだろうか?
 
 
 
 ……それが、ヒカリなのだ。
 
 ……それが、ヒカリなのだ。
 
 
 
 「……鈴原?」
 
 頬を染めていたヒカリは、しかし……トウジが目を見開いたまま固まっている様子に、心配そうに視線を向ける。
 
 トウジは動かない。
 
 ただヒカリの顔を凝視したまま……まるで驚きの表情で、石像のように固まっている。
 
 「鈴原……あの……どうか、したの?」
 
 おずおず、と、ヒカリが問いかける。
 
 
 
 ……その時、コツコツッ、と、ドアを叩く音が二人の耳に届いた。
 
 
 
 ヒカリは一瞬トウジの顔を見てから、慌てたように振り返ってドアの方に声をかけた。
 
 「……はいっ、どうぞ」
 
 そのヒカリの声に併せて、がちゃり、とドアノブが回り、扉が開く。
 
 
 
 ……部屋に入ってきたのは、シンジ、レイ、アスカ……の、三人だった。
 
 
 
 「あっ……三人とも」
 
 ヒカリが、表情を綻ばせて腰を浮かせると、椅子を引いて少しだけ奥の方に移動した。
 
 「あ……ヒカリ、来てたんだ」
 
 「こんにちは、ヒカリさん」
 
 アスカとレイが、口々にヒカリに声をかける。
 
 
 
 「……トウジ。大丈夫?」
 
 シンジはベッドのそばに駆け寄ると、トウジの顔を覗き込んだ。
 
 もちろん、検査の結果に異状が無かったことは既に聞いている。その点では安心していたが、本人に会って、その口から聞きたかった。
 
 
 
 「あ……お、おぉ……シンジか。いや……別に、平気や」
 
 トウジは、急に我に返ることが出来ず、ぎこちなく返事をする。
 
 「ごめん……トウジ、本当に……」
 
 「い、いや、そりゃ別にええんや……シンジがどうこう言うことや無いことは、ワシもわかっとるから……」
 
 トウジはそう応えながら……視線を、シンジに移した。
 
 
 
 剛とした、シンジの強さ。
 
 凛とした、レイの強さ。
 
 華とした、アスカの強さ。
 
 
 
 ……それは、彼らが……はっきりと、守るべきものを理解しているからかも知れない。
 
 自分たちの強さの……その根源を、自分自身で理解しているものの強さなのかも、知れない。
 
 
 
 ……ヒカリを守れるような存在に、自分が在ることができるかどうか、分からない。
 
 だが……
 
 ……それを知る者は、確かに、知らない者とは違うのだ。
 
 それは……
 
 
 
 ……もはや、戻ることの出来ない、確かな、一歩なのだ。
 
 
 
 「……トウジ?」
 
 シンジが、トウジの顔を、心配そうな表情で見る。
 
 固まったままのトウジの様子に、シンジは、昨日の戦闘の影響だろうか……と、不安にかられてしまう。
 
 
 
 ……だが、トウジは、ゆっくりと目を瞑ると……
 
 ……そのまま、もう一度、……今度はしっかりと、シンジの瞳を見つめた。
 
 
 
 「……シンジ」
 
 「……あ……うん、なに?」
 
 トウジから呼びかけられたことに微かな安堵を抱きながら、シンジが応える。
 
 
 
 ……立ち止まることは、出来ない。
 
 トウジは、そう、心の深いところで……そっと、決める。
 
 
 
 ……正しいかどうか、決めるのは、未来の自分でいい。
 
 
 
 ……今は……立ち止まらない。
 
 それが……たった今、見つけた、自分への証なのだから……。
 
 
 
 「……これから、よろしゅう頼むわ」
 
 「は?」
 
 トウジの言葉に、シンジは怪訝な表情を浮かべる。
 
 トウジは、もう一度目を瞑り……そして、ゆっくりと、目を開いて。
 
 
 
 微笑みながら……。
 
 
 
 「フォースチルドレン……鈴原トウジ……ちゅうわけや」
 
 
 
 穏やかな蝉の鳴き声が、そっと、白いカーテンを揺らしていた。