第九十話 「光」
四百二十



 シンジは、暗闇の中で目を覚ました。
 
 
 
 初め、自分がどういう状況に置かれているのか、理解することができなかった。
 
 朝の眠りから覚めるような、穏やかなカーブを描いての覚醒だったが、同時に脳細胞の隙間に不快な感覚を敷き詰めたような、捕らえ所の無い気持ち悪さが残る。
 
 冷たい床に頬をつけたまま、ただ、だらっと転がって起き上がらない。
 
 
 
 ……僕は、どうしたんだっけ?
 
 霞んだ記憶を辿っても、家を出たところくらいまでしか思い出せない。
 
 だいたい……何故、家を出たのだろう?
 
 何か、用事があったような気もするが。
 
 それに、この暗闇……今は、夜だろうか。自分のベッドで寝ているのか? それにしては、この頬の冷たさは……。
 
 
 
 ぼやけた頭のまま、寝返りを打とうと身体を捻じった。
 
 荒縄が、シンジの手首を締め付ける。
 
 
 
 その痛みが、シンジを現実へと引き戻した。
 
 
 
 「えっ」
 
 シンジは、思わず声を発した。ぎりっ、と手首が締め上げられ、起き上がることが出来ない。
 
 慌てて腰を浮かせようとして、足首も同じように縛り上げられていることに気付いた。
 
 
 
 「なッ……な、なんだ、これ!?」
 
 
 
 シンジは、両手と両足を思い切り振り回した。
 
 暗闇で、ガチャガチャと金属のぶつかり合う音がする。
 
 全く様子が分からないが、どうも、床か何かに固定された金属の鎖のようなものに、手足の荒縄は結びつけられているようだ。
 
 力を篭めても、痛むのは自分の体だけで、荒縄は伸びる気配も、緩む気配も、無い。
 
 
 
 (な、なんだ……どうしたんだ!? 何でこんなことになってるんだよ)
 
 こめかみに冷や汗を浮かべながら、シンジは脳細胞を回転させた。
 
 寝起きすぐのような、いまいちシャキッとしない感覚は拭えない。薬か? ……と、シンジはすぐに思い当たる。
 
 
 
 薬……そうだ、思い出してきた。
 
 確か……NERVに呼び出しを受けて、駐車場へ向かう途中だったはずだ。
 
 エレベーターを待ってて……それで……
 
 ……エレベーターの扉が、開いた音がした。そこまでは覚えてるけど……そこまでしか、思い出せない。
 
 あそこで……誰か、エレベーターに乗っていたのか?
 
 何か、薬のようなものを嗅がされたのかも知れない。
 
 それで、意識を失ってしまったのだ。
 
 
 
 今は一体、昼か夜か? 時間がどのくらい経過したのか、分からない。
 
 まさか……数日も眠っていたのではないか、と思うと、背筋を冷たいものが走る。
 
 バルディエルは、発現してしまったかも知れない。今、零号機や弐号機が、闘っている真っ最中かも知れない。あるいは、もう、サードインパクトが起こる間際、という可能性もある。
 
 (い……い、行かなくちゃ)
 
 シンジは体中に、シャツが纏わりつくような、不快な汗を滲ませていた。
 
 行かなくては。
 
 一刻も早く……行かなくては……いけない。
 
 だが……
 
 ……動くことが出来ない。



四百二十一



 「……起動実験を、中止したほうがいいと思います」
 
 レイは、ミサトに、そう申告した。
 
 管制室の喧騒に紛れ、その声は、そばにいたミサトとアスカの耳にしか届かなかった。
 
 
 
 「えっ?」
 
 ミサトが、レイの言葉に驚いて振り返る。
 
 見ると、いつの間にか……レイは、壁際の座席から立ち上がって、ミサトのそばまで移動してきていた。
 
 アスカも、黙ってその後についてきている。
 
 
 
 「レイ……」
 
 「……起動実験なんて、明日やらなくても、いつでも出来ます。初号機パイロットの安全確保の方が、大事だと思いますが」
 
 レイは、ミサトの瞳を見つめたまま、きっぱりと言い放った。
 
 
 
 ミサトは、心の中で、そっと溜め息をついた。
 
 レイの言わんとすることは分かる。それどころか、それこそ……ミサト自身、一度は自分でもそう判断したことだ。
 
 まして、シンジを心から愛するレイにしてみれば、起動実験とシンジ捜索のウェイトは、歴然とした差があるに違いなかった。
 
 ミサトも、レイの言う通りだと思う。
 
 レイの言う通りに、してやりたいところだ。……だが。
 
 
 
 「私も……そう、思うんだけどね」
 
 ミサトは、力なく呟いた。
 
 「起動実験は、そのまま予定通り、行うことになるわ……。もともと、サードチルドレンは、参号機の起動実験とは関係がないからね。向こうのスケジュールには影響ない、ということみたい」
 
 
 
 「……本気で言ってんの? それ……」
 
 アスカが、険しい表情で、声を発した。
 
 ミサトが黙ってアスカの方に視線を移すと、自分を睨み付ける青い瞳にぶつかった。
 
 アスカの声音に……堅い気持ちが篭る。
 
 「そりゃ……起動実験の方には影響がないのかも知んないけど……シンジを探すほうには影響が出んじゃない。起動実験に割いてる人間を、シンジの捜索に回しなさいよ。その差で、シンジが少しでも早く、見つかるんなら、その方がいいでしょ」
 
 アスカが、押し殺したような低い声で、言う。
 
 アスカがこういう物言いをするときは、本当に、怒りが沸き上がっているのだ。
 
 まるで、彼女の長い髪の毛が怒りで燃え上がっているような、そんなオーラを感じる。
 
 
 
 ……アスカは、シンジの身を案じている。そして、レイの身も、等しく。
 
 しかし……更に言えば、この決定は、言い換えれば「チルドレンの命」自体を低く見積もっているような、そんなふうに受け止められるのだ。
 
 シンジではなく、自分が何者かに拉致されたとしても、NERVは同じように、全力では捜索してくれないかも知れない。それは、アスカの神経を逆撫でした。
 
 
 
 ……ミサトは、ただ……じっと、アスカの視線を受け止めて、彼女の瞳を見つめていた。
 
 そして、ゆっくりと、首を振る。
 
 「……さっきも言ったけど……私も、個人的にはそう思うわ。タイムスケジュールが延期になることで、もちろん法外なお金が飛ぶでしょうけど……シンジ君の命に比べれば、それくらい気にしてはいけないとも、思う。
 
 でも、駄目よ。
 
 ……総司令の、決定なの。決定は、覆されないわ」
 
 
 
 「……司令が!? ……自分の息子なのに……」
 
 アスカが、怒りとも驚きともつかない、微かな呟きを漏らした。
 
 ミサトは、黙って目を伏せる。
 
 
 
 ……レイは、静かな心持ちで、その言葉を聞いていた。
 
 ゆっくりと……視線をミサトから外し、体をひねって……頭上を、見上げた。
 
 
 
 レイ達がいる、管制室第三艦橋。
 
 その、すぐ上に……ひときわ高い、白亜の塔。
 
 その、白い肌に禍々しき赤いNERVの刻印を背負う、その上に、口許で手を組んだ男の顔が見える。
 
 
 
 レイの心は、さざめくこともなかった。
 
 数日前ならば……ゲンドウを前にして、例え表面的には無表情を保てても、心の裡の動揺を抑えることは出来なかったに違いない。
 
 だが、今……こうしてゲンドウの顔を見つめていても、もはや、以前呼び起こされたようないかなる感情も沸き起こらなかった。
 
 
 
 この男は、シンジに愛情の欠片も抱いていないに違いない……と、レイは、思った。
 
 それは、じつに違和感が無い。この男は、誰に対しても、一片の愛情も注がない。
 
 今は亡き、一人の女性を除き、心を開くことなど無いのだ。
 
 
 
 ゲンドウが、自分の方に視線を向けた気がした。
 
 サングラスに隠れて、実際の目の動きまでは、分からない。
 
 レイは、逃げなかった。しっかりと……ゲンドウの視線を、自分の視線で受け止める。
 
 シンジと出会うよりも以前は、この視線が、嬉しいと感じた時期もあった。だが、今は……冷えきった、氷のような、感情。
 
 
 
 「……もちろん、シンジ君の捜索に、手を抜く気はないわ」
 
 ミサトは、小さな声で、しかしきっぱりと呟いた。
 
 レイは、再びゆっくりと振り返って、ミサトの顔を見る。
 
 「当たり前よ……手なんか抜いたら、ただじゃ済まさないわ」
 
 アスカが、憤然とした表情で吐き捨てる。
 
 ミサトは、少しだけ口許にほほ笑みを浮かべてアスカを見つめ……それから、表情を険しく結んで、前方の暗闇に視線を投げた。
 
 「アスカが怒るのはよく分かるわ……でも、堪えて。絶対に……シンジ君は、見つけ出してみせるから」
 
 
 
 「分かりました……お願いします」
 
 レイは、そう言って頭を軽く下げると、くるりときびすを返し、再び席に戻って歩き出した。
 
 「えっ?」
 
 あまりに急なレイの動きに、アスカとミサトは、思わずきょとん、として、その後ろ姿を見る。
 
 なんと……予想外に、あっさりとした対応。
 
 「あッ……え? あ、ちょ、ちょっと待ちなさいよレイ!」
 
 取り残されたアスカは、慌ててその後を追った。
 
 
 
 席に戻ったレイは、元のように腰を下ろして、ただ……前方の喧騒を、じっと見つめていた。
 
 
 
 ……参号機、起動実験の延期。
 
 ミサトにその進言をしたのは、もちろん……アスカの言うように、全力でシンジを捜索して欲しいという思いがあったのも、確かだ。
 
 だが……それ以上に気になったのは……トウジのことだ。
 
 レイは、シンジからあらかじめ、ごく大雑把な事件のあらましを聞いている。
 
 トウジが、フォースチルドレンに選ばれて……参号機の起動実験に参加する。それは……つまり、バルディエルの発現に彼が巻き込まれるのが、もはや必至だということだ。
 
 
 
 レイは、事細かな事件の詳細を知らない。それに、シンジの方が自分よりも頭が回るような気もする。
 
 その意味でも、こんな、シンジがいないときではなく……シンジが見つかってから起動実験が行われたほうが良い、と思ったのだ。
 
 とにかく翌日に起動実験が行われるのを延期させられれば、若干の時間的猶予も生まれる。
 
 シンジが直接トウジに会うことも可能になるだろうし、リツコやゲンドウの考えを覆す策略も、彼になら巡らせることが出来るかも知れない。
 
 ……自分は駄目だ、と、レイは思う。この段階で、もはや……どうすればいいのか分からない。起動実験を延期させたくても、それを説得させるに足る根拠を説明できない。
 
 
 
 ……最悪、シンジが見つかるよりも前に、バルディエルが発現する可能性もある、と、レイは思う。
 
 シンジが生きている、と信じる心は揺るぎないが、彼が早く発見されるかどうかはそれとは無関係だ。
 
 たとえばシンジが眠らされでもしていたら、彼の意志ではどうにもならないだろう。
 
 (……そうなったら……私が、絶対に参号機を止めなければ、いけない)
 
 相手がトウジであることに、躊躇してはいけない。
 
 結局、心を鬼にして完膚無きまでに叩きのめすことが、トウジを救う唯一の術なのだ。
 
 シンジが戻って来たときに、トウジを死なせたり、彼が以前いた世界のようにトウジの片脚を失わせるようなこと……それだけは、絶対に、避けなければいけない。



四百二十二



 「じゃあ、明日の朝……10時頃に起こしに来るわ。それまで、ここで休んでいて頂戴」
 
 リツコはそう言いながら、片手を挙げてトウジに部屋に入るよう促した。
 
 
 
 トウジが連れてこられたのは、中央管制塔の中にある職員用の寝室であった。
 
 ジオフロントの本部であればもっと待遇のいい部屋もあろうが、もともとここは研究施設だ。職員の、言わば仮眠用の部屋はあっても、客用の寝室はない。
 
 広さが僅か2畳ほどのその部屋は、トウジに収監部屋のような印象を抱かせた。
 
 
 
 「それじゃ、おやすみなさい」
 
 そう言って部屋を去ろうとするリツコの背中に、トウジは慌てて声を掛けた。
 
 「あ……あのぉ」
 
 「なに?」
 
 おずおず、という口調で掛けられた声に、リツコは振り返る。
 
 
 
 トウジは、上目遣いにリツコを見ながら、呟くように口を開いた。
 
 「その……」
 
 「?」
 
 「……もともと、ワシ……明日ンなってからここに来る、いうハナシでしたよね?」
 
 「え? ああ……そうね」
 
 「ナンで……急に、今日、早めに来るっちゅうことになったんでしょうか……」
 
 
 
 リツコは、じっと、トウジの瞳を見つめていた。
 
 
 
 射竦められたように、トウジは、思わず体を堅くする。
 
 じっと……
 
 ……自分の瞳の中、その奥の心にまで突き刺してくるような、冷たい、視線。
 
 ……氷の、視線。
 
 
 
 (……な)
 
 トウジは、首の後ろに冷たい汗が浮き出すのを感じていた。
 
 視線を逸らすことが、出来ない。
 
 (な……なんや。……なんか……悪いこと、聞いたんか? ナンで、こんな目で……見るんや)
 
 
 
 実際には、沈黙に包まれたのは、僅か数秒のことである。
 
 フッ……と、リツコは視線に篭めた力を抜き、そのまま視線をトウジから逸らした。
 
 トウジは、思わず、ドッと体中に引力を感じて、肩を落とす。
 
 
 
 「別に……早めに来ていれば、準備に都合がいいと思っただけ。
 
 明日は忙しいわ。あなたも、早めに寝ることね」
 
 リツコは視線を逸らせたままそう呟くと、そのまま、トウジの方に再び視線を向けることなく、後ろ手にドアを閉めた。
 
 リツコのハイヒールの音が遠ざかっていく、その音を、トウジは立ち尽くして聞いていた。



四百二十三



 ……この職員寝室は、床から1メートル程の高さにベッドがあり、その下に荷物などを入れる棚がしつらえてある。
 
 トウジは何も荷物を持っていなかったので、そのまま梯子を登ってベッドに横になった。
 
 
 
 ベッドに寝転がると、顔のすぐ横に、30センチ四方くらいの小さな窓があった。
 
 寝返りを打って覗き込むと、外の様子が見える。
 
 ……実験施設が建ち並ぶその間を、人や運搬車がせわしなく走り回っている。投光器の明かりは落とされることなく、周囲が闇に包まれた分、むしろ輝きを増しているようにすら感じられた。
 
 ……時刻はもう深夜に差し掛かっているはずだが、ここはおそらく、夜じゅう眠らない場所なのだ。
 
 
 
 ……自分は、ここで、明日……エヴァンゲリオンに乗る。
 
 トウジはそう思い、思わず生唾を飲み込んだ。
 
 緊張するな、と言うのは無茶だ。まして、何度も実験を繰り返している者ならばまだしも、自分はこれから何をするのか、その内容すら知らない。
 
 じっと……一人で横になっていると、緊張と恐怖が、じわじわと体中に染み渡ってくる。
 
 
 
 トウジは、思わず窓から視線を背けた。
 
 ベッドに俯せに寝転がり、頭の上から両手で枕をかぶせる。
 
 (……シンジも……綾波も、惣流も、みんな……やってるコトや。心配する必要なんて、あらへん……なんも、心配なんて、いらんのや……)
 
 トウジは、そう念じて、ギュッ……と瞼を閉じた。



四百二十四



 加持は、夜の闇に包まれる公園のベンチに座っていた。
 
 
 
 口にくわえた煙草は、既に火が消えている。
 
 ベンチの背凭れに首を預けて、ただ、夜空に広がる星々を眺めていた。
 
 首筋に触れるベンチの木肌が、ひやりと心地よい。
 
 
 
 「おっ……」
 
 加持は、思わず呟いた。
 
 見上げる頭上に、一条の流れ星が横切ったのだ。
 
 (……流れ星なんて……何年ぶりに見たかな)
 
 少しだけ口の端を歪めて、加持は心の中で嗤う。
 
 ……ここ数年に渡り、ゆっくりと星空を眺めた記憶など、あまり無い。
 
 もちろん、今だって、別にただ時間を潰しているわけではないのだが。
 
 
 
 (これは……やっぱり、吉兆と見るべきかな?)
 
 加持は、ゆっくりと首を起こしながら、そう思う。
 
 ポケットを探って100円ライターを取り出す。小さな火をつけ、それをくわえた煙草の先に移した。
 
 ライターの火が消えた後、煙草の先がオレンジ色にボゥ……と灯る。
 
 
 
 「……何か、分かったか」
 
 煙を一つ、吐き……加持はゆっくりと、呟いた。
 
 
 
 ……確かに、先程まで……ベンチには、加持一人しか座っていなかった。
 
 だが今、加持の座るベンチと背中合わせに設置されたもう一つのベンチに、疲れたような中年のサラリーマンが座っている。
 
 膝が伸びたスーツに、脂で固めた、すだれのような頭髪。
 
 腹の肉は無駄に存在を主張する。
 
 ぐたっと肩を落とし、両足を投げ出すようにベンチに座る姿は、まるでリストラされて途方に暮れる帰宅拒否症候群といった風情である。
 
 
 
 男は、頭を前にたれたまま、呟くように口を開いた。
 
 「……アンタの言う時間帯に前後して、コンフォート17マンションを出た車の目撃情報がある」
 
 加持は男の言葉には特に応えずに、もう一つ煙を吐く。
 
 男は、唇を小さく動かしながら言葉を続けた。
 
 「最近は夜間の交通量がろくに無いのが幸いしたな。割と見間違いや記憶違いの入りにくい情報が複数手に入った。もっともガセも混じっているかも知れんが、それを選択するのはアンタの役目だ」
 
 男はそう言うと、横に置いてあった擦れてヨレた革の鞄の蓋を開け、中から三枚ほどのA4の紙を取り出した。
 
 「ほら」
 
 男がそう言って後ろ手に回した手から、加持は、ひょいっとそれを受け取った。
 
 
 
 紙には、目撃情報と、そこから類推される車種、およびその資料写真などが記載されていた。
 
 加持はパラパラと、それをめくっていく。
 
 「参考になるかね」
 
 パチン、と鞄を閉じながら、男が言う。
 
 
 
 「……ああ……これは、かなり助かるな」
 
 加持は、呟くようにそう言った。
 
 じっと、そこに書いてある全ての情報を記憶するかのように、つぶさに眼球を動かしている。
 
 「分かってると思うけどな……ラクじゃなかったぜ」
 
 「ああ、分かってる。恩に着るよ」
 
 「恩なんかどうでもいいが、言葉で礼を貰ってもしょうがないんだよな」
 
 「ああ……いいさ。これなら、3割ノセてやる」
 
 「オォケイ。またいつでも言ってくれ」
 
 男は、格好通りによたよたと立ち上がり、肩を落としたまま、僅かに振り返った。
 
 「……アンタも、珍しいよな。調査なら、自分のところを使やいいじゃないか」
 
 加持は、前を見つめたまま、口元を歪める。
 
 「……小回りが利かないもんでね」
 
 「俺はその方がありがたいけどな。組織の中じゃ嫌われるぜ」
 
 「とっくに村八分だよ」
 
 「はん……まぁ、だろうな」
 
 男は、面白そうに肩を竦めて、くっ、くっ……と含み笑いを漏らした。
 
 
 
 男が闇の中に消えた後、加持は、くわえていた煙草を、ぎゅっ……とベンチに擦りつけた。
 
 煤と、ベンチの焦げ目が、黒い煙を残す。
 
 加持はもう一度紙に書いてある内容に目を通して、それから立ち上がった。
 
 
 
 公園を出て夜の道を歩きながら、加持は、携帯電話を取り出してそのボタンを押した。
 
 足を止めて、携帯電話を耳に当てる。
 
 ……暫し、置いて……カチャリ、と、回線の繋がる音が聞こえてきた。
 
 
 
 『23568……シャープを押して下さい』
 
 聞こえてきたのは、機械的な女性の声。
 
 加持は、ボタンを10回ほど素早くプッシュする。
 
 再び電話を耳に当てると、向こう側は断続的な呼び出し音に変わっていた。
 
 
 
 ……5回ほどの呼び出し音の後、カチャリと相手が受話器を取る音がした。
 
 『ハイ、管制塔』
 
 ……電話に出たのは、日向マコトである。
 
 
 
 「日向君かい? 加持だ」
 
 『あっ、ハイ』
 
 「例の、フィルタリングされた会話記録があるだろ。あれ、フィルタの種類をD-98で解除してみて貰えるかな」
 
 『D……ですか? 諜報部の……』
 
 「色々、事情があるんだよ。生成した元音声を聞かせて貰えれば、いいから」
 
 『分かりました。5分後にお聞かせします』
 
 
 
 電話が切れ、加持は再び歩き出した。
 
 チャチャチャッ、と、加持はNERVとは別の番号をプッシュする。
 
 今度の相手は、ちょうど23コール目で出た。
 
 
 
 『………』
 
 「加持だ」
 
 『ああ……何ですか?』
 
 「車を貸してくれ」
 
 『タクシーじゃないんスから……』
 
 「悪いな。他に思い付かなかったんでね」
 
 『いいスけどね……恩返しだと思いますよ。どこです?』
 
 「ココは……A-35番あたりかな」
 
 『シャワーあびてっていいスか?』
 
 「駄目だ」
 
 『冗談スよ。じゃ、10分で行きます』
 
 カチャリ、と、音が途切れた。
 
 
 
 5分後に再びマコトからかかってきた電話を聞いた後、滑り込んできた車の助手席に乗り込んだ。
 
 
 
 ハンドルを握っていたのは、少し小柄な、髪の毛を金髪に染めた少年だった。
 
 見た限り、年齢は17〜8というところか。片方の耳たぶに6つのピアスが嵌っている。
 
 顔立ちは、どちらかというと中性的な、比較的整った顔立ち。眠そうな表情をしているが、これは、叩き起こされたからではなくこれがデフォルトである。
 
 全身真っ黒の衣装を着込んでいたが、そこかしこに、僅かな街灯の明かりを照り返すネジ頭のような細工が施されていた。
 
 
 
 「どこ行きます?」
 
 横目で加持を見て、少年は呟いた。
 
 「再開発地区へやってくれ」
 
 「……広いスよ」
 
 「旧病院区のあたりだ」
 
 「了解」
 
 覇気のない視線を前方に移動して、少年はアクセルを踏みしめた。
 
 
 
 ……加持は、再び懐から書類を取り出し、それを広げてみた。
 
 記載されている目撃情報を元にした車種のファイルに、ひとつ、「特定不能」と書かれたものがある。
 
 目撃情報を元に、似たような車種の一覧をリストアップしてあるが、まぁ、「どこにでもあるような車」ばかりである。
 
 一見すると、「結局、車種は良く分からなかった」と見られそうだ。
 
 だが……
 
 
 
 (他人には分からんかも知れないがな……)
 
 加持は、リストアップされた車種の一覧を目で追いながら、そう心の中で呟いた。
 
 
 
 NERV諜報部が使用する、特殊専用車。
 
 それは、外見的特徴を排除した、目撃されても車種を特定できない車である。
 
 この車を民間人が目撃した場合、勘違いでリストアップされるであろう既存車種の一覧があらかじめ想定されており、それは加持の頭の中に入っている。
 
 
 
 この、目撃情報でリストアップされた車種は、その加持の記憶のままだ。
 
 見る者が見れば、逆にNERVの特殊専用車だと丸分かりである。
 
 
 
 ……そのため、加持は、今回の事件に諜報部の人間が絡んでいる、と当たりをつけた。
 
 だとすれば、犯人がシンジにかけてきた電話に使われた変声フィルタも、諜報部で使われているものではないかと推測できる。
 
 ……諜報部が主に使う変声フィルタ、Dシリーズ。
 
 特にD-98はDシリーズの中でも一番中間に位置している。他のDシリーズが使われていたとしても、D-98で解除した音声を聞けば、だいたい元の声がわかるのである(実際には違うのだが、使い慣れているので類推できると言うべきか)。
 
 それを見越して、マコトにD-98でフィルタを解除した音声の生成を依頼したのだが……。
 
 
 
 (……さあて)
 
 加持は、三枚目の紙をめくる。
 
 第三新東京市の地図と、車を目撃した地点、およびその時刻の一覧。
 
 ……これによれば、コンフォート17マンションを出たNERV特殊専用車は、郊外の再開発地区に向かっていると見るのが間違い無さそうだ。
 
 加持はそれを見てから、紙を畳んで懐のポケットにしまった。
 
 車の時計を見る。
 
 もうすぐ、陽が昇る。
 
 ……そっと、目を閉じる。
 
 
 
 (確か、旧病院地区に、おまえの隠遁拠点があったよな……熊谷)



四百二十五



 まんじりともせずに、トウジは翌朝を迎えていた。
 
 
 
 ゆっくり休めと言われたし、実際にこれから気の張る作業が待っていると思えば睡眠を取っておくべきなのだろうが、そんなことができる精神状態ではない。
 
 腫れぼったい瞼を手の甲で擦って、トウジは身体を起こした。
 
 
 
 「……朝ンなってしもぅたな……」
 
 ……ぼそっ……と、呟くように、言う。
 
 体中の間接が軋むようだ。
 
 ベッドの端に腰を下ろした姿勢のまま、身体の周りに蝋を塗られたように、固まってしまう。
 
 
 
 昨晩、外の様子を覗いたあの窓から、早朝の光が差し込んでくる。
 
 本来は爽やかなはずのその光が、まるで鋭利な刃物のようなギラつきを感じさせた。
 
 
 
 「実験て……ナニやるんかなぁ」
 
 ボケッとした口調で、トウジは呟いた。
 
 ……気付けば、実際の実験内容は、漠然としたものしか聞いていない。
 
 エヴァンゲリオンに乗る、そのことだけで、キャパシティを越えるほどに頭が一杯になってしまい、本来聞いて当たり前のことまで、すっかり確認するのを忘れてしまっていた。
 
 
 
 (別に……出てって、バケモンと闘う、いうワケやない)
 
 トウジは、心の中で、そう呟く。
 
 「起動実験」というものが何を意味するのかもよくはわからないが、あくまで「実験」だ。
 
 チルドレンとして認定されれば将来的には戦場へ出ていくこともあるかも知れないが、とにかく、今日はそういうこともあるまい。
 
 気楽にしていればいいのだ。
 
 
 
 ジオフロント……NERV管制塔も、朝を迎えていた。
 
 
 
 時刻はまだ8時頃だったが、レイもアスカも、すでに着替えて再び管制塔に戻ってきていた。
 
 ミサトやオペレーターたちも、交代で短い仮眠を取っただけで、昨晩からずっと働き詰めである。
 
 尤も、エースチルドレンが行方不明という状態であれば、それはスクランブル状態でいて当然だ。
 
 
 
 「おはよう、二人とも」
 
 何冊もの報告書を小脇に抱えたミサトは、そう言って、入ってきた二人の方に振り返った。
 
 レイもアスカも、まっすぐにミサトの方に向かって来る。
 
 
 
 「……その後はまだ、芳しい報告はないわね」
 
 ミサトが渋い顔で、その事実を二人に伝えた。
 
 レイもアスカも険しい顔をするが、特に表情に大きな変化はない。
 
 「加持さんは? 別個に動いて貰ってる筈だけど」
 
 アスカが尋ねる。
 
 「報告はないわね。ただ、途中で何度か、情報の確認の電話があったから、ちゃんとやってるとは思うけど」
 
 「なんか、加持さんの方が上手くやってる気がすんの、気のせい?」
 
 「……ウチは、小回りが利かないのよ」
 
 ミサトは肩を竦めた。
 
 レイは、アスカとミサトの会話を、横で黙って聞いている。
 
 
 
 ややあって、レイは、ゆっくりと口を開いた。
 
 
 
 「……私は、零号機でスタンバイしています」
 
 
 
 「……はっ?」
 
 ミサトとアスカが、呆気にとられたようにレイの顔を見つめた。
 
 レイは大真面目な表情で二人を見返す。
 
 
 
 ミサトが、怪訝な表情で、レイの方に向き直った。
 
 「スタンバイって……レイ、別にエヴァが出る用事なんてないわよ」
 
 「準備は必要です」
 
 「準備って……何の準備よ」
 
 ミサトが、不可解な表情で眉をひそめた。それはアスカも同様である。
 
 「レイ……アンタ、なんかあんの?」
 
 「……なにかって、なに?」
 
 「なにってアンタ……なんか、エヴァが出なくちゃいけないようなことがあると踏んでるんじゃないの?」
 
 
 
 レイは、アスカの言葉にはすぐには応えず、視線を前に向けた。
 
 コンソールの前に浮かぶ、ホログラムウィンドウ。
 
 幾つか開くそれには通常業務のもののほかに、シンジの捜索に関する情報、そして、松代で起動実験のために控えるエヴァ参号機の映像が映し出されている。
 
 
 
 特に珍しくもない、起動実験……
 
 ……例え最悪、参号機が暴走状態に陥ったとしても、それは硬化ベークライトで固めてしまえば済む話だ。
 
 
 
 ……誰も、危機感など、抱いていないに違いない。それが、当然だ。
 
 ……だからこそ、安穏とはしていられない。
 
 
 
 「……特に、なにもないわ。気になっただけ」
 
 レイは、前を向いたまま、ゆっくりとそう、呟いた。
 
 そして、そのままミサトの方に向き直り、小さく頭を下げる。
 
 「すいません、気にしないで下さい。失礼します」
 
 「えっ」
 
 「碇君が見付かったら必ず連絡して下さい」
 
 呆気にとられるミサトを残して、レイはスタスタと出口に向かって歩き出す。
 
 
 
 「ちょ、ちょっと待ちなさいよレイ!」
 
 アスカは慌ててレイを追い、その肩に手を置いた。
 
 「失礼しますって……どこ行くのよ? ここでシンジの情報を待つんじゃないの?」
 
 その言葉に、レイは少しだけ首を回して、視線をアスカに向ける。
 
 アスカは、その瞳を見て、思わず、続く言葉を呑み込んだ。
 
 ……冗談を言っている表情では、無い。
 
 
 
 「……控室」
 
 「え?」
 
 「……どこに行くかって聞いたから」
 
 「あ……そ、そう」
 
 「……アスカ」
 
 「……なに?」
 
 「……アスカも、一緒に来て」
 
 「……はっ?」
 
 
 
 何度か言葉を交わしてそのまま管制室を出ていってしまう二人の後ろ姿を、ミサトは、呆気にとられたように見つめていた。



四百二十六



 再開発地区に入って暫くしてから、加持は車を降り、少年に待っているように伝えて歩き始めていた。
 
 まさか、隠遁場所のすぐそばまで車で乗りつければ、さすがに熊谷に感付かれてしまう。
 
 時刻は10時。陽は、高くなり始めていた。
 
 
 
 職員寝室で、じっとベッドの端に腰を下ろしていたトウジは、ドアを叩く音に我に返った。
 
 顔を上げると、ドアが開いて、向こうからリツコが顔を覗かせる。
 
 「おはよう、眠れたかしら?」
 
 トウジは、ぎこちなく笑って応えた。睡眠など、合わせて1時間も取れたかどうか、怪しい。
 
 リツコはトウジの反応には特に何も言葉を添えずに、カツ、と右足を後ろに引いて、体を開けた。
 
 トウジを見つめて、口を開く。
 
 「時間よ。ついてきて頂戴」
 
 
 
 アスカがレイの後ろについていくと、その行き先は控室ではなく更衣室だった。
 
 「……更衣室? ……プラグスーツに着替えるわけ?」
 
 中に入ってドアを閉じながら、アスカがレイに問いかける。
 
 レイは、アスカの瞳を見つめながら、小さく頷いた。
 
 
 
 「……ミサトに、スタンバイは出来ないって、さっき言われたじゃない」
 
 「……プラグスーツに着替えて、ケイジで控えていることは出来る。そこまでは、準備していたいの」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……一体、なんなのよ?」
 
 「………」
 
 「……アタシも連れてきたってコトは……アタシにも控えてろってことでしょ。なんで? エヴァが出撃することなんて、無いでしょ」
 
 「………」
 
 「レイ……なんか、隠してない?」
 
 
 
 二人の間に沈黙が訪れた。
 
 レイは、応えない。
 
 アスカは、そんなレイの目を、じっと……眉をひそめるでもなく、ただ、見つめている。
 
 
 
 ……ややあって、レイは、小さな声で、頷いた。
 
 「……出撃は、あるわ」
 
 「……なんでよ?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……シンジ?」
 
 レイは、バッと顔を上げる。
 
 アスカは、そんなレイの表情を見て、溜め息をついた。
 
 「……アイツが……出撃はある、って言ったの?」
 
 「………」
 
 「……ハァ……じゃ、しょうがないわね……」
 
 「……アスカ」
 
 「……シンジがあるって言うんなら……あるんでしょ。ったく……自分の心配をしなさいよね、アイツは……」
 
 アスカはそう呟くと、少しだけ肩を竦めて、それから自分のスーツケースの扉を開けた。
 
 プラグスーツを取り出すアスカの背中を、レイは、じっと見つめていた。
 
 
 
 「こ……」
 
 トウジは、困ったように、後頭部を掻いて首をかしげた。
 
 「……これ……着るんか? ……ホンマに?」
 
 
 
 ここは、松代第二実験場、中央管制塔の更衣室。
 
 トウジが目の前に広げているのは、フォースチルドレン用……黒と紫の、プラグスーツである。
 
 
 
 トウジは、赤面して目の前のプラグスーツを見つめていた。
 
 ……トウジの目には、どう見ても「早朝・お子様向け戦隊ドラマ」か何かのコスチュームにしか見えない。
 
 こんなものの袖に、まさか自分が腕を通すことになるとは……。
 
 「しかも、ナニナニ……なんやて? ハ……裸になるんかいな」
 
 手許の印刷された用紙に目を走らせながら、トウジは呆れたような溜め息をつく。
 
 
 
 何とか、試行錯誤しながらトウジはプラグスーツに身を包む。
 
 何となく、ダブダブとした感触で、余り着心地はよろしくない。
 
 「なんや、ダブダブやな……サイズ間違いちゃうんか。    そんで……えぇと……手首のボタン?」
 
 ぶつぶつと呟きながら、用紙の順序に沿いつつ、トウジは手首の黄色いボタンを押す。
 
 
 
 バシュッ!
 
 「どわッ!」
 
 
 
 鋭く空気の排出音が響き、プラグスーツが、瞬時にトウジの体にフィットした。
 
 トウジは、手首を押さえた姿勢のまま、茫然と固まっている。
 
 
 
 「……な……」
 
 慌てて、自分の股間を覗き込むトウジ。見たところ、問題はないようだが……。
 
 「か……か、鏡ないんか……」
 
 困ったように、落ち着かぬ様子で、トウジは左右に首を動かした。
 
 全く、こんな格好……よく、シンジは平気でしているものである。それとも、毎回恥ずかしいのを堪えているのだろうか……?
 
 (……っちゅうか……シンジよりも、惣流と綾波やで……ナニ考えとんのや、NERVも……セクハラちゃうんか?)
 
 
 
 加持はやがて、一つの廃屋に辿り着いた。
 
 すぐ隣のビルの影からそれを見上げた加持は、ポケットから、トウジの家の前で諜報部員から奪ったあのサングラスを掛ける。
 
 
 
 ……そのサングラス越しに見ると、3階のあたりが赤く光っているのが見えた。
 
 簡易的ながら、サングラスが赤外線スコープを兼ねているのである。
 
 
 
 その赤い光を見ながら、加持は、少しだけ肩を竦めてみせた。
 
 あの赤い光は、恐らく熊谷が仕掛けたトラップの類いだろう。
 
 知らずに引っ掛かると、途端に撃たれたりするような仕掛けではないだろうか。
 
 (いかんなぁ……熊谷。
 
 用意周到なトラップはいいが……肉眼で見えないからと言って、外から見える場所に仕掛けたらいかんだろ。
 
 赤外線探知スコープで見たら、自分から位置を喧伝してるのと変わらないぜ)
 
 それでは、隠遁しているとは言えない。
 
 こんなことは、初歩の初歩ではないか?
 
 加持は、素早く目の前のビルの裏側に走り込むと、窓から建物の中に滑り込んだ。
 
 
 
 廊下に出て目を凝らすと、何メートルかおきに赤い光線が廊下を横切っているのが分かる。
 
 光線の両端にあるはずの装置は、例え加持ほどの人間が注意して目を凝らしても、肉眼ではとても発見できないように巧妙に隠してある。
 
 だが……
 
 
 
 (探知スコープで丸見えじゃ意味ないんだよ)
 
 加持は身を低くすると、そのトラップを簡単に飛び越えながら、階段を上った。
 
 
 
 2階から3階にかかる階段で加持は一度立ち止まり、注意深く辺りを見回した。
 
 暫くすると、壁の一角に、隠しカメラが設置されているのを発見した。
 
 見たところ、カメラだけで他のトラップは見当たらない。
 
 
 
 加持は、無精ヒゲを撫でながら、小さな声で呟く。
 
 「さて、じゃ……熊谷にも逃げる時間をやるか。
 
 あいにく、おまえといちいち、やりあってるヒマはないんでな」
 
 そう言って、加持はゆっくりと足を踏みだした。
 
 
 
 モニタを見つめていた熊谷は、突然現れた人影に、驚愕の表情で立ち上がった。
 
 完全に、警戒を解いていた。
 
 だが、目の前のモニタに写っているのは、紛れもなく……加持、その人である。
 
 
 
 「な……ッ……」
 
 
 
 熊谷は絶句したあと、慌てて左右を見回し、それから腕時計に目を向けた。
 
 時刻は、10時15分。
 
 (……任務の内容は、参号機の起動実験まで、碇シンジを拘束することだが……)
 
 松代での起動実験は、準備を含めれば10時から開始されている筈だ。完全に実験そのものがスタートするまで拘束しておこう、と思っていたが……しかし、もう、今シンジの拘束を解いても任務は無事終了と見ることも出来よう。
 
 熊谷は瞬時にそう判断すると、バッと窓際に駆け寄った。
 
 
 
 窓の陰から外を見ても、特に他の人間の気配はない。
 
 熊谷は立ち上がると、壁に掛けてある筒を肩に担いですぐ隣のビルに向けた。
 
 構えた手で指先のボタンを押すと、バンッ!、という空気音とともに一瞬にして向かいのビルにロープが届く。
 
 筒を壁のフックに固定すると、床に置いてあった金属の滑車のような装置を持ち上げ……それを両手で持ってロープにかけ、足で思い切り床を蹴り出した。
 
 
 
 隣のビルに移った熊谷は、ロープをたぐり寄せながら、沸き上がる憤怒を抑えることが出来ずにいた。
 
 叫びだしたい思いに駆られたが、今はこの場を退散するほうが先だ。
 
 都市迷彩の施された茶色いマントを身に羽織り、部屋を飛びだした。
 
 
 
 ……何故、加持がここに辿り着いたのか?
 
 熊谷には、皆目見当がつかない。自分には、落ち度はなかったと思いたかった。
 
 ……しかし、現実に、加持はやってきた。
 
 ほぼ任務終了の時刻だったから良かったものの、もっと早く加持が現れていれば、熊谷も立ち向かわなければならなかったかも知れなかった。
 
 
 
 ギリギリと、歯頭が噛み合って軋んだ。
 
 奥歯が割れて血が出るのではないかと思えるような怒り。
 
 こめかみに血管が浮き出てくるのが自分で分かる。
 
 額に幾筋もの鋭い縦皴が走った。
 
 
 
 信じられない!
 
 ……何故、加持がここにいる?
 
 ……何故……あの男は、自分の邪魔をするのか!?
 
 「何時も……」
 
 熊谷の怒りは、口の端から表に漏れ聞こえた。
 
 血走る想い。
 
 「何時も……何時も……何時も……」
 
 
 
 何時も!
 
 何時も、何時も何時も何時も!!
 
 
 
 「いつか……きっと、殺してやるぞッ……加持ッ!!」
 
 呪詛は、はっきりとした形を帯びて、熊谷のどす黒い心を天に浮かび上がらせていく。
 
 
 
 「準備は出来たかしら? 説明するから、一緒に来てくれる?」
 
 管制室にトウジが姿を現すと、リツコは一瞥してきびすを返した。
 
 オペレータたちの衆目の中、トウジは、ばつが悪そうにもじもじと管制室を横切る。
 
 
 
 反対側の角の扉で待つリツコは、怪訝な表情でトウジを見つめていた。
 
 「何してるの? 急いで」
 
 「あっ……ハァ、す、すみません……あがってしもて」
 
 「……トウジくん……インターフェイス・ヘッドセットは?」
 
 「はっ? 何です?」
 
 「ヘッドセット……頭に付けるやつがあったでしょ? してないじゃない」
 
 「は……あの……二つあって、輪ッかがついてるやつでっか?」
 
 「そうよ……分かってるなら、何故、してこなかったの?」
 
 「えと……あの、これと、ちゃうんですか?」
 
 「?」
 
 
 
 トウジがおずおずと自分の頭を指さすのを見て、リツコが眉をひそめた。
 
 ……一見すると、ヘッドセットの姿は見えないが……
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……あの」
 
 「トウジくん……それは、前後が逆」
 
 「は……?」
 
 「後ろじゃなくて前に着けるの」
 
 「あッ……あ、あっ、あぁ、す、すんませんっ」
 
 トウジは、顔を赤くしてヘッドセットを付け直した。
 
 
 
 ……非常に簡単なガイダンスを受けたトウジは、ひとり、おずおずとエントリープラグのシートに腰を下ろしていた。
 
 
 
 (これじゃ……外の様子が、何も分からんやないか)
 
 トウジは、茫然と周りを見回す。
 
 トウジの乗る、エントリープラグ……
 
 ……どう見ても、ただの、金属の筒である。
 
 こんなところに座って操縦しろと言われても……外の様子が分からなければ、どうにもならない。
 
 (いや……待てよ。
 
 前にシンジの乗ってるとこに乗り込んだときは……外の様子が見えたで。
 
 違和感なかったから気付かへんかったけど……どんな風やったかな?
 
 なんか、モニタみたいなモンがあったんやったかな。今日やる……起動実験、いうんでは操縦の必要がないから、外してあるんかも分からんな)
 
 
 
 丁度、両手を前に伸ばしたところに、左右一対のハンドルのようなものがある。
 
 これを握って操縦するのだろう、とは想像がつくが、ではどうやって? と言われると皆目見当がつかない。
 
 ……第一、エヴァが闘っている様子を外から見たことがあるが、どう見てもロボットというよりは、巨大な人間と言ってよいナチュラルな動きだった。
 
 あんな動きを……
 
 (……こんなハンドルだけで、どうやれっちゅうねん)
 
 トウジは、溜め息のようなものをついた。
 
 リツコは、訓練すれば他の三人と変わらぬようになれると言ったが……とても、そんな操縦が出来るようになれるとは思えない。
 
 それとも、やはり、死ぬ気で物凄い訓練を積み重ねなければいけないのだろうか……?
 
 それを想像すると、思わず気が滅入った。
 
 
 
 『トウジくん、準備はいい?』
 
 突然、いないはずのリツコの声が耳に届いて、トウジは仰天した。
 
 「あッ、あ、は、はいッ」
 
 『なに?』
 
 「あ……いえ……あの、びっくりしたもんで」
 
 『こんなことでびっくりしてたら身が持たないわよ。で、準備はいい?』
 
 「準備……いうても、座ってるだけですけど……」
 
 『心の準備よ。その様子じゃ、まぁ、よさそうね』
 
 「……心の準備が必要なんでっか……」
 
 『L.C.L.注水開始』
 
 「は? なんです?」
 
 耳慣れない言葉にトウジが眉をひそめた瞬間、インテリアが一段ガクン、と下がり、同時に音を立てて足下に液体が注水され始めた。
 
 
 
 トウジは、黙ってそれを見つめていた。
 
 (なんや? あんなところに水を溜める必要があるんかいな……エヴァが逆立ちでもしたら、体が濡れてまうで)
 
 初めは、そんなことを思いながら、徐々に溜まっていくL.C.L.を見つめていたのだが……。
 
 
 
 「……って……あわぁ!」
 
 そのまま水面がザバザバと足首を濡らすに至り、トウジは、慌てて声を裏返らせた。
 
 迫る水面を凝視しながら、思わず声を張り上げる。
 
 「あ、あの、赤木さん! 水、止まってへんですよッ!?」
 
 『リツコでいいわよ、トウジくん』
 
 「そ、そんなコト言うてる場合やないですッ!」
 
 青い顔で、トウジはシートから腰を浮かせかける。
 
 しかしそこにリツコの叱咤が飛び、トウジは思わず首を竦めてしまった。
 
 『じっとしてなさい!』
 
 「じ、じっとって……あわあわあわ、む、胸まで来た来た。お、溺れますてッ」
 
 『水の中に入ったら、思い切りその水を吸い込みなさいね。呼吸は出来るから』
 
 「えぇえぇえ!? ……ちょ、待っぶくぶくぶくぶくぶくぶく」
 
 
 
 (……し、死んでまうがな)
 
 トウジは、口の中に空気をはち切れんばかりに貯め込み、風船のように頬を膨らませていた。
 
 水面はトウジの頭上を越え、あっという間にプラグはL.C.L.に満たされている。
 
 
 
 こめかみに血管を浮かび上がらせながらトウジが血走った目で耐えていると、スピーカーからリツコの声が聞こえてきた。
 
 『飲みなさい』
 
 トウジは、ぶんぶんぶんと首を左右に振る。
 
 『……そのまま、何時間でも耐えられるとでも言うの? 意味がないから、飲みなさい』
 
 トウジは、ぶんぶんぶんぶんと首を左右に振る。
 
 『………』
 
 トウジは、ぶんぶんぶんぶんぶんと首を左右に振る。
 
 『……出力最低、心臓マッサージ』
 
 
 
 バコン!
 
 「どごわッ! あがごばごぼごぼごばぼばごばぼごばがばがばが」
 
 
 
 ……加持は、人気の無くなった部屋の中を覗き込み、肩を竦めて苦笑していた。
 
 ありありと、直前まで人間のいた様子を見せる、部屋。机の上に置いてあるモニタには、階段の様子が映ったままだ。
 
 熊谷が、慌てて逃げ出した様子が、ありありと伝わってくる。
 
 
 
 「さて……シンジくんはどこかな」
 
 加持はきびすを返すと、隣の部屋に向かってつま先を向けた。
 
 
 
 熊谷の性格は分かっている。
 
 経緯はわからないが……とにかく彼がゼーレの命を受けたとなれば、100%忠実にそれに従おうとするだろう。
 
 そこから、二つの結論が導き出せる。
 
 一つは、シンジはおそらく無事だろう、ということ。ゼーレにとって、初号機のパイロットであるシンジを害するわけにはいくまい。その意味で、拘束はしても彼の命を奪うような真似は絶対にしないように、命ぜられている筈だ。
 
 二つ目は、ここで加持にシンジを奪われても、熊谷の任務の内容に問題がないということ。
 
 もしも、シンジの身柄を拘束し続ける必要があるのならば、熊谷はここで逃げたりせずに、加持と対峙したことだろう。あっさり身を引いたのは、ここでシンジを取り戻されても問題がないからである。
 
 (シンジくんを拘束して……何がやりたかったんだろうな)
 
 加持は、ドアノブに手をかけながら、首をかしげた。
 
 
 
 バン、と扉を開けると、真っ暗な部屋にバッと光が差し込んだ。
 
 
 
 「うわッ!」
 
 光の中で、床に転がっていたシンジは目をきつく閉じた。
 
 眩しくて、咄嗟に目を開けられない。
 
 (だ……誰がドアを開けたんだ!? 犯人か!?)
 
 暗闇に長時間放置されていたため、全く目が慣れない。
 
 そうして体を堅くして転がっていると、床の振動を通して何者かが近づいてくる気配を感じ、やがて自分の手首に縛られている荒縄に抵抗を覚えた。
 
 一瞬、手首の傷に荒縄が食い込み、すぐにフッと戒めが解ける。
 
 耳元で、声。
 
 「遅れてすまなかった、シンジくん」
 
 
 
 「えッ……か、加持さん!?」
 
 シンジは、驚いたように顔を上げ、涙を堪えて薄目を開けた。
 
 光の洪水の中で、見覚えのあるシルエットが、自分の足首の縄を解いている。
 
 「暴れたな、シンジくん……結構、傷が出来てるな。ちょっと暴れて身動きが取れないことが分かったら、あとはじっとしていたほうがいいぞ」
 
 「か……加持さん、ここ、どこですか!? 犯人は?」
 
 「ここは再開発地区だよ。犯人は逃げた」
 
 「加持さん……探してくれたんですか」
 
 「まぁ、結果的にはそうだが」
 
 加持は、そう言うと微笑んだ。
 
 「君の可愛い彼女から、依頼を受けたんでね」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……その……綾波……ですか?」
 
 「他に誰がいるんだ」
 
 加持は、苦笑して、解いた縄をポケットにしまった。
 
 
 
 「さ、行こうか。君を必ず連れて帰る、って約束したからな」
 
 加持は、シンジの腕を掴んで、立ち上がらせる。
 
 シンジは思わずよろめき、加持が差し伸べた腕を掴んで何とか体を支えた。
 
 「すいません」
 
 「仕方がない。長いこと、縛られていたんだからな」
 
 
 
 ……長いこと……
 
 
 
 (あっ)
 
 
 
 ……その言葉を聞いて、シンジの脳細胞は、急にシナプスを連結させた。
 
 シンジの頭脳を、情報が駆け巡る。
 
 最も懸念していたはずの事実に電流が到達し、それは一気にシンジの頭いっぱいに飛び散った。
 
 
 
 シンジは、バッと加持の方を向いた。
 
 加持はシンジの切羽詰まったような表情に、怪訝な顔で眉を上げる。
 
 「? なんだい?」
 
 「か、加持さん……僕はどれくらい捕まってましたか!? ……今は何時です!?」
 
 「ああ……まぁ、大体一晩というところだな。今は、朝の10時半過ぎだよ」
 
 
 
 「……松代に電話をして下さいッ!!」
 
 シンジは、加持に鋭く言葉を突きつけた。
 
 加持は、一瞬呆気にとられたような表情でシンジを見た後、すぐに携帯電話を取り出した。
 
 素早くプッシュホンを押してから、それを耳に当ててシンジを見る。
 
 「電話してどうする?」
 
 「参号機の起動実験を中止して下さい!」
 
 「中止? それは……ああ、松代広報? 諜報部加持リョウジ一尉だ。参号機の起動実験はどうなってる?」
 
 加持は電話の向こう側に問い掛けた後、数秒話を聞いて、「そうか」と電話を切った。
 
 シンジは、じっと加持を見ている。
 
 
 
 加持は、シンジの方に向き直って、ゆっくりとかぶりを振った。
 
 「事情は知らないが、間に合わない。もう、秒読み態勢に入った」
 
 
 
 シンジは、その言葉を、茫然とした表情で聞いていた。
 
 ……秒読み態勢に入った……起動実験開始まで。
 
 ……バルディエルの、発現まで。
 
 
 
 「……そんな……バカな……!!」
 
 
 
 『トウジくん、心拍数が高いわよ。落ち着いて』
 
 リツコの言葉を聞きながら、トウジはふざけんな、という思いで、肩で大きく息をしていた。
 
 ……幾ら何でも、こんな水の中で呼吸が出来るなんて、言われてもハイハイと出来るわけが無い。
 
 スピーカーの向こうで、リツコは、溜め息混じりに言葉を続けた。
 
 『トウジくん……あなた、シンジくんのプラグで、L.C.L.は経験してるでしょ』
 
 「はっ?」
 
 『いいわ……実験を続けます。シートにきちっと座り直して。神経接続開始』
 
 リツコの言葉に、慌ててトウジは居住まいを正す。
 
 プラグの内壁に、パパパパッ……と細かい光の粒が走った。
 
 
 
 「おわ……」
 
 トウジは、思わず驚きの声を上げて、周りを見回した。
 
 先程、ただの金属の壁だと思ったプラグの内壁に、一斉に複雑な映像が浮かび上がり、目まぐるしく変化し始めた。
 
 トウジの体の周りを、アルファベットの文字列が駆け抜けていく。
 
 『主電源接続。全回路動力伝達』
 
 『起動スタート』
 
 『A10神経接続異状なし』
 
 『初期コンタクト異状なし』
 
 スピーカーから、トウジの理解の範疇を越えた言葉が矢継ぎ早に届く。
 
 トウジは、そんな一連の出来事を、まるで別世界の光景のような面持ちで見、聞いていた。
 
 
 
 (……ん?)
 
 トウジは、ふと、眉をひそめた。
 
 足許の、映像。
 
 その、一番奥に、網目状の光が見える。
 
 それは、一見、他の目まぐるしい映像の一部のように見えて……何か、異質だ。
 
 (……なんや……)
 
 
 
 スピーカーからリツコの声が響く。
 
 『双方向回線開きます』
 
 
 
 次の瞬間……
 
 ……トウジの体中を、細かい編み目の光が覆い尽くした。
 
 激しい振動と、おぞましい這蟲感覚が襲う。
 
 「あ……ぐわッ!!」
 
 トウジの叫びが、エントリープラグの中に響き渡った。
 
 
 
 松代第二実験場は、眩い光に包まれた。