第八十九話 「前夜」
四百十三



 トウジは、いつものような明るい「ハリ」を失った風情で、黙って箸を進めていた。
 
 
 
 ミドリは、トウジが野菜炒めをつまんで口に運ぶ様子を、横目で盗み見る。
 
 今日の料理の味付けは、見事に失敗していた。それは、作った本人であるミドリも気付いていたから、当然、兄から突っ込みを受けるだろうと思って臨戦態勢で構えていたのだが……。
 
 ……静まり返った、食卓。
 
 聞こえるのは、僅かな箸と咀嚼の音のみ。
 
 左手に茶碗を持って、ミドリは、怪訝な表情でトウジを窺う。
 
 当のトウジは、そんなミドリにも気付いていないようだった。
 
 
 
 「……お兄ちゃん?」
 
 ミドリが、小さな声で、トウジに言葉をかけた。
 
 目を伏せて、ただもぐもぐと口を動かしていたトウジは、その声に視線だけ上げる。
 
 「もごもご……なんや?」
 
 「なんや……って……うん……別に、何でもないけどさ……」
 
 「……ヘンなやっちゃなぁ……」
 
 ヘンなのはお兄ちゃんの方だ、という言葉を、ミドリは喉の奥で飲み込んだ。
 
 唯一の取り柄のような覇気が、全然無い。
 
 これでは、横にいるこちらの調子が狂う。
 
 
 
 「……元気ないね」
 
 ミドリは、味噌汁の椀を口に運びながら、そう言って、ずずっ……とすすった。
 
 トウジは、ミドリを見る。
 
 「……そうか?」
 
 「うん」
 
 「……ん」
 
 「何か、あった?」
 
 「ん……いや、別に……何もあらへんけどな」
 
 「あらへん、ことないでしょ」
 
 「いや……まぁ……大したこっちゃ、ないんや」
 
 「……やっぱ、何もあらへんこと、ないんじゃない」
 
 「ん?」
 
 「……何でもない」
 
 
 
 ミドリは、最後の一口を食べ終えて、お椀を皿の上に重ねた。
 
 立ち上がって、横に立て掛けてあった松葉杖を脇に挟み込み、空いた手でその重ねた皿を目の前のシンクの中に置く。
 
 「早いな、ミドリ」
 
 トウジが、そんなミドリの背中を見て、言う。
 
 ミドリは、少しだけ振り返って、トウジを見た。
 
 「……お兄ちゃんが、遅いんだよ」
 
 
 
 ピン……ポーン
 
 
 
 ドアホンが、乾いた音を室内に響かせた。
 
 トウジが、箸をくわえたまま顔を玄関の方に向ける。
 
 ミドリは蛇口の水を止めて、掛けてあった布巾で手を拭き、玄関の方に向かって声を上げた。
 
 「は〜い」
 
 言いながら立て掛けてあった松葉杖を掴むと、ガツン、ガツン、と玄関の方に歩いていく。
 
 トウジは、横目でその後ろ姿を見つめながら、再び野菜炒めを口に運んだ。
 
 
 
 ミドリがリビングを出て玄関を開けると……
 
 ……そこには、真っ黒なスーツを着て真っ黒なサングラスをした男が、二人、ロボットのような無表情を顔面に貼り付けて、立っていた。
 
 僅かに、首を動かして……ミドリを、見下ろす。
 
 
 
 ミドリは、唖然として、ノブを掴んだままその二人を見つめていた。
 
 一瞬、馬鹿みたいに思考が停止してしまう。
 
 どう、見ても……近所の自治会のおじさんでも、化粧品のセールスマンでも、ない。
 
 ……少なくとも、自分たちと同じ生活をしている世界の人間とは感じられない。
 
 
 
 そうして、二の句を継げずに、ただ口を開けて見ているミドリに……前に立っていた一人が、声を掛けた。
 
 「NERV諜報部のものです。鈴原トウジさんは、いらっしゃいますか」
 
 言いながら、胸の裡ポケットから、赤い刻印の箔押しされたカードを見せた。
 
 
 
 NERVの、カードだ。
 
 それは、ミドリにも、見ただけですぐ分かった。NERVという組織の存在くらいは、市民に周知されている。
 
 まして、身内にNERVの職員を二人も持つ、ミドリである。
 
 ……しかし。
 
 「……あの」
 
 ミドリは、一歩後ずさるようにして、上目遣いにその男を見た。
 
 眉間に、皺が寄る。
 
 「……何の……ご用でしょうか?」
 
 
 
 「火急の用件です。ご本人に言付けていただければ、分かります」
 
 黒服の男は、視線を崩さずに言葉を続ける。
 
 小学生のミドリ相手に、いんぎんな口調で繰り返す様は滑稽でもあり、怖い。
 
 
 
 「あの……」
 
 ミドリは、対処に困って、口許で右手の甲を左手に包む。
 
 黒服二人は、じっとミドリを見つめている。
 
 ミドリはもう一度黒服に視線を向けて、困惑して視線を落とした。
 
 ……どうすれば、いいのだろうか?
 
 NERVから、トウジのところに使いが来るなど、不自然だ。祖父や、父宛ならば、まだ分かるが……。
 
 このまま取り次いでいいのか?
 
 まるで情報の無いミドリには判断がつきかねた。どうしていいのか、分からない。
 
 
 
 ……そうして、戸惑いを隠すことなく、脅えたように男達を見ていると……その、黒服の影から、見覚えのある姿がぬっと顔を覗かせた。
 
 
 
 「よっ。元気かい?」
 
 黒服の肩越しに、ひょいと片手を挙げてミドリに笑いかけたのは、加持だ。
 
 気の抜けたコカ・コーラのような、緊張感の無い表情。
 
 突然の加持の出現に、一瞬、目を丸くしたミドリは……しかし、そんな屈託の無い笑顔に、思わずホッ……と肩の力を抜いた。
 
 
 
 黒服の一人が、見咎めるように口を開く。
 
 「加持一尉……ここは我々が」
 
 だが、加持は笑ってその言葉の尻をつまんだ。
 
 「おまえらね……もう少し、融通ってもんが必要だよ。分かるか?」
 
 「任を受けたのは、我々です。一尉のお手を煩わせるほどの用件でもありません」
 
 「それがカタいんだよ」
 
 口の端を歪めて笑うと、加持は、すいっと手を伸ばして……黒服のサングラスの中央の支橋をつまみ、無造作に取った。
 
 
 
 「あっ」
 
 
 
 取られた黒服も、その横に立っていたもう一人の黒服も、唖然として加持の顔を見つめた。
 
 加持は、素知らぬ顔で、奪ったサングラスを自分の胸ポケットに差す。
 
 横で顛末を見上げるミドリは、三人の間を流れる妙な間に首を傾げた。
 
 加持は、胸ポケットをポン、と叩きながら、楽しそうに口を開いた。
 
 「こんなレディーを前にして、サングラスくらい、取るのが礼儀ってモンじゃないか? モテないぜ……なぁ?」
 
 言いながら、加持はウィンクをミドリに向ける。
 
 ミドリは、急に話を振られて、思わず赤くなってしまった。
 
 レディーなどと呼ばれると、堪らずこそばゆい。
 
 
 
 ……黒服たちが驚いたのは、もちろん、そんな紳士の嗜みについてではない。
 
 加持が、躊躇無く、自然な動きでサングラスを奪い……それに、全く反応することが出来なかったからだ。
 
 彼らも、訓練を受けてきた者たちだ。だが、今の加持の一連の動きには、全く反応できなかった。……戦闘中であれば、何が起こったのかも分からぬうちに殺されていただろう。
 
 構えることなく……余りにも、自然にそれをやった加持に、茫然とした驚きを覚えたのだ。
 
 
 
 「おまえら、車に戻ってろ」
 
 加持は、ぽん、と黒服の肩を叩いて言う。
 
 黒服は、一瞬躊躇の表情を見せたが……しかし、頷くしかなかった。



四百十四



 黒服たちが車に戻った後、加持は、改めてミドリに向き直った。
 
 「久し振り」
 
 そう言って、微笑む。
 
 
 
 ミドリは、直接加持と、深く話をしたことがあるわけではない。
 
 だが、以前……ミドリの病室にシンジと一緒に現れ、ミドリが退院するよう計らってもらったことがある。
 
 シンジが加持と行動を共にし、兄やヒカリとも顔見知りだったことは、とりあえず……本人のことを深く知らなくても、信頼の一助にはなった。
 
 
 
 加持が、もう一度、トウジを連れてくるように頼み、ミドリは頷いた。
 
 
 
 リビングに戻ると、ようやく食事を終えたトウジが、シンクに漬けられた食器を洗っているところだった。
 
 膜を張ったような視線をミドリに向ける。
 
 「なんや……やっと帰ったんか? 誰だったんや?」
 
 「ううん……まだ、いるけど」
 
 ミドリは、首を振る。
 
 「……加持さんが、お兄ちゃんに、用があるって」
 
 「? ……加持さんが?」
 
 トウジが、蛇口を止めながら、怪訝な表情を見せる。
 
 
 
 「……NERVの人とかも来て、お兄ちゃんに、用があるって、言ったよ」
 
 
 
 トウジは……微かに、眉を上げた。
 
 
 
 ミドリは、トウジが怪訝な表情を見せるだろう……と予想していた。
 
 ミドリには、NERVがトウジの元を訪れる理由が、まるで予測つかない。
 
 まして、同じ「理由が分からない」でも、近所のおばさんに呼ばれるのとNERVに呼ばれるのとでは、状況が全然違う。
 
 警察か軍隊に、出頭の要請を受けたような心境ではないか。不安を覚えるのが、自然だ。
 
 
 
 だが、トウジは、一つ頷いて……顔を上げると、そのまま、すたすたと躊躇無く玄関に向かって歩き出した。
 
 
 
 「おっ……」
 
 ミドリは、驚いたように、声を上げかけた。
 
 自分の横を通過して行くトウジ。
 
 その表情は、心なしか、先程までの霞みがかったようなそれとは、違う。
 
 「……お兄ちゃん?」
 
 慌てて、ミドリもトウジの後を追った。
 
 
 
 トウジが玄関に出ると、加持が電灯の明かりの中で、右手を挙げて笑いかけた。
 
 「よ。久し振り、トウジくん」
 
 「……お久し振り……です」
 
 トウジも、少しだけ頭を下げ、そして、顔を上げて加持を見る。
 
 「あの……何の、ご用ですか?」
 
 
 
 「ちょっと、早めに松代に入ってもらおうと思ってね」
 
 「松代……はぁ……そりゃ、また……何で」
 
 「ちょっと、話せば長くなる。時間も余りないしな。表の角に車を待たせてあるから、車まで一緒に行こうか」
 
 「……ほんなら、支度して」
 
 「いらないよ。必要なものは、言えばNERVが用意してくれる」
 
 そう言って、加持は、肩を竦めて微笑んだ。
 
 「遠慮なく、こき使ってやればいい。どっちかって言えば、トウジくんのほうが、まぁ……そこらの職員より偉い」
 
 
 
 「……ハァ」
 
 トウジは、曖昧にそう応えて、ぎこちなく笑った。
 
 後ろで見ていたミドリは、眉をひそめる。
 
 ……NERVの職員よりも、トウジの方が偉い、とは、一体どういう状態か?
 
 訳が分からない。
 
 
 
 「じゃ、行こうか」
 
 加持は、そう言って一歩後ろに下がった。
 
 トウジも、頷いて歩き出す。
 
 
 
 「お……お兄ちゃん」
 
 ミドリが、慌てて兄の背中に声を掛けた。
 
 ……加持とトウジが、振り返る。
 
 二人に見つめられて、ミドリは言葉を失った。声を掛けたものの、何を言えばいいのか、良く分からない。
 
 
 
 「……お兄ちゃんを、ちょっと借りるよ」
 
 加持は、微笑んでそう言うと、片手を挙げて見せた。
 
 トウジも、少しだけ、微笑む。
 
 「……明日には、帰るさかい。オジイには適当に言っといてくれんか」
 
 「あ……う……うん」
 
 「ほんなら、また明日な」
 
 
 
 歩いていく二人に、もう一度声を掛けることは、できなかった。
 
 
 
 細い路地に隠すように停めてあった車の後部座席にトウジが乗り込むと、加持はそれには続かず、ドアを閉めた。
 
 トウジは、窓を開けて加持を見る。
 
 加持は少し腰をかがめ、トウジに話しかけた。
 
 「この車で松代まで一直線だ。悪いが、トイレ休憩はないんで、我慢してくれよ。着いてからのことは、向こうに赤木博士がいるから、彼女に聞いてくれ」
 
 「……加持さんは、行かへんのですか」
 
 「俺は、ちょっとやることがあるんだ」
 
 そう言って、ニッと不敵に笑うと、そのまま視線を外し、前部座席のドアを拳で軽く叩いた。
 
 「頼んだ」
 
 その言葉に、助手席に座った黒服が小さく頷く。それに併せるように、車は低い唸りをあげて、するすると路地から抜け出して行く。
 
 
 
 通りに出て一気に加速して走り去っていく車の後ろ姿を見つめながら、加持は、ゆっくりと呟いた。
 
 「さぁて……俺は、シンジくんを探しださないとなぁ」



四百十五



 「ファースト、セカンドチルドレン、到着しました」
 
 NERV管制室に、シゲルの声が響き渡った。
 
 
 
 ミサト、マヤ、マコト……オペレータたち。
 
 その全員が、その声に思わず振り返る。
 
 視線の先には、丁度、管制室の扉を開けたシゲル……そしてその後ろに、レイとアスカが続いていた。
 
 
 
 ぱっと見ただけでは、レイにいつもとの違いは感じられない。
 
 ……だが、彼女が平気でいられる、とは思いがたい。
 
 ミサトは、マヤに一瞬頷いて見せてから、三人のところに駆け寄った。
 
 
 
 「……お疲れさま、二人とも。非番に悪いわね」
 
 少しだけ乾いた微笑みを浮かべて、ミサトは二人に笑いかける。
 
 
 
 ミサトの言葉と殆ど間を置かず、レイが声を出した。
 
 「……碇君は、その後、見付かりましたか?」
 
 ……ぴしり、とした声音。
 
 思ったよりも、その声がずっとしっかりしていたことに、ミサトはちょっと驚いて眉を上げる。
 
 レイは、じっと……まっすぐに、ミサトの瞳を見つめていた。
 
 「あ……ああ、うん、今、全力で捜索中よ」
 
 「……見付かっていないんですね」
 
 「……うん」
 
 「……分かりました。引き続き、お願いします」
 
 レイは、そう言って、頭を下げた。
 
 
 
 ミサトは、戸惑うように視線をアスカに向けた。
 
 それに気付いたアスカは、レイの後ろで軽く肩を竦めて見せる。
 
 
 
 ミサトは、とりあえず気を取り直して、再び二人の方に向き直った。
 
 「……まぁ、まずは、二人は仕事があるわけじゃないから、控室にでも行っていてくれる? 本部の中なら安全だとは思うけど、一応、諜報部を護衛につけておくから……」
 
 「いいえ」
 
 ミサトの言葉に、間髪を入れずにレイは首を振った。
 
 ミサトは、驚いてレイを見る。
 
 「……レイ?」
 
 「ここにいます」
 
 「何か、別に、ここでやる仕事があるわけじゃないのよ」
 
 「ここにいたほうが、情報が集まってくると思います……碇君の捜索のことも。私も、何か思い付いたときに、控室にいるよりもここにいるほうが意志がすぐに反映されていいと思いますので」
 
 レイは、きっぱりとそう言い放つと、そのままくるりときびすを返して、管制室の隅の方へ歩き出した。
 
 
 
 唖然としているミサトに、アスカが声を掛けた。
 
 「……ってことみたいだから……まぁ、アタシもここにいるわ。一人で控室にいても退屈だし」
 
 ミサトも、アスカの方に振り返り、曖昧に応える。
 
 「あ……ああ、うん……まぁ、いいけど……」
 
 「シンジのこと、何か分かったらみんなアタシたちにも教えてね」
 
 アスカもそう言って、レイの座る隅の座席につま先を向けた。
 
 
 
 ミサトは、ただ、口を開けてそんな二人を見つめていた。
 
 
 
 ……ミサトは、特にレイが、シンジが何者かに拉致されたことで激しく落胆しているのではないか、と心配していた。
 
 シンジの生死が分からない、という意味で言えば、先日のディラックの海にシンジが取り込まれた時と、状況は変わらない。
 
 あの時の、まさに心が壊れてしまいかねないレイの様子を思えば、その心配は当然と言えるのではないだろうか。
 
 
 
 ……しかし、この、レイの毅然とした態度は、どうだろうか?
 
 まるで落ち着いている。
 
 むしろ、凛々しささえも感じてしまう。
 
 
 
 ……そうして突っ立っているミサトに、シゲルがひそひそ、と声を掛けた。
 
 「……レイちゃん、意外ですよね」
 
 「え? ……あ、ああ……うん……驚いたわ」
 
 「もう少し、狼狽するかと思ったんですが」
 
 シゲルが、視線をレイに向ける。
 
 ……レイは、部屋の隅でアスカと何事か会話を交わしている。
 
 シゲルは、肩を竦めてミサトに視線を戻した。
 
 「……葛城さんの家に迎えに行ったときは、俺もかなり心配していたんです。こう言っては何ですが、その……レイちゃんの壊れ方の想像ができなくて、チャイムを鳴らす指が一瞬躊躇したくらいですよ」
 
 「うん……まぁ、分かるわ」
 
 「……ですけど、レイちゃんはあんな感じで、スタスタッと出てきましたから。驚いてる俺を尻目にとっとと歩いていっちゃって、数歩行ってから振り返って『早く行きましょう』ですからね。思わず、アスカちゃんと顔を見合わせましたよ」
 
 シゲルは、そう言って、「分からない」とでも言いたげに髪をかき上げてみせた。
 
 
 
 ……一方、部屋の隅の座席に移動したレイは、アスカと幾つか言葉を交わした後は、一人思索の海に潜っていた。
 
 
 
 ……シンジを拉致した人間は誰か?
 
 その目的については、良く分からない。
 
 チルドレンを排除して得をする人間なのだろうが、それは逆に可能性のある組織の数が多すぎて、とても絞り込めない。
 
 自分もシンジもアスカも、いつも平気で街を歩き回っているが、チルドレンをどうにかしてしまいたい組織は実際には腐るほどあるのだ。
 
 あるいは、そういった組織に身柄を売るためだけに捕獲を企てる組織まで視野に入れると、もはや組織の特定は不可能だろう。
 
 ……しかし、手掛かりはある。
 
 少なくとも、あまり弱小の組織ではあるまい。それにしては、内部の事情に詳しすぎた。
 
 ……シンジに電話をかけてきた男は、松代で起動実験が行われることを知っていた。この実験は当然トップシークレットであり、そんじょそこらの組織ではその事実を掴むことはできないはずだ。
 
 また、一瞬のこととは言え、コンフォートマンションを通信管制下に置かれたように装って見せた。
 
 あのマンションは、末端とは言え、一応MAGIの制御下にある。あそこにそんな処理を施すことができるのは、相当な力を持った組織でなければ不可能だろう。
 
 
 
 ……実際には、起動実験の情報については、そんなに難しい諜報活動をしなくても分かる。
 
 それは、前回シンジが体験した人生で、ケンスケがその事実を掴んでいたことからも窺い知れよう。
 
 もっとも、それはケンスケが物凄い諜報能力を持っているからだ、と仮定することも可能なのだが……それはともかく、弱小と言えども何らかの諜報活動を専門に行っている組織であれば、それくらいの事実は掴むことができる筈であった。
 
 
 
 しかしともかく、レイにはそんな事実は分からない。
 
 レイは、犯人を「スパイ」か、それとも「内部の人間の手引きを受けた組織」ではないか、と考える。
 
 レイの想像は間違ってはいない。熊谷もゼーレも、内部の人間であり、そのあたりの情報は筒抜けなのである。
 
 
 
 「……アンタ、結構、平気そうね」
 
 ……隣に座るアスカの言葉が、レイの思考を分断した。
 
 レイは、顔を上げてアスカを見る。
 
 アスカは組んだ足の上に肘をつき、頬杖の姿勢でレイの顔を見つめていた。
 
 
 
 「………」
 
 「アタシはさ……こう言うと何だけど、ホラ……もう少し、動揺するんじゃないかと思ってた」
 
 「……動揺?」
 
 「そうよ。……だって……シンジ、どこに行ったのか、誰に連れてかれたのか……今……その……生きてんのか、死んでんのか、それも分かんないのよ。
 
 アンタは、もっと……何て言うのかなぁ、前後がわかんないくらい取り乱すんじゃないかって思ったのよ」
 
 「……取り乱したって……仕方がないもの」
 
 「そりゃ、そうよ。そうだけど……」
 
 「……碇君は、いつも、頑張ってる。
 
 ……すごく。
 
 ……すごく、頑張ってるから……
 
 
 
 ……私は……碇君が……心配。
 
 とても、心配してるわ。
 
 ……でも、取り乱したって仕方がない。取り乱したって、碇君が帰ってくるわけじゃないわ。
 
 碇君は、生きてる。碇君が、誰かに殺されたりするなんて、想像したくないし、信じない。
 
 ……生きているんなら、助けなくちゃいけないわ。碇君が捕まっていて身動きが取れないのなら、私たちが何とかして碇君を探しだして、助け出さなくちゃいけないのよ。
 
 
 
 ……今は、私たちが、頑張らなくては、いけないの」
 
 
 
 アスカは、目を見開いて、レイを見つめていた。
 
 レイも、じっと、アスカを見つめている。
 
 
 
 ……ふと、アスカは、気付く。
 
 ……レイの肌が、真っ白になっていることに。
 
 ……生来の白さを更に越えた、病的なまでの白さ。その白さに、レイが、染まっている。
 
 
 
 ……心配で、ない、わけがない。
 
 レイの心の奥底は、張り裂けそうな想いを内包している。
 
 ……本当に、シンジは、生きているのだろうか?
 
 信じている。信じているけれど、それとは無関係に、シンジを失う恐怖は胸の裡で蠢き、レイの心を塗り潰そうとしている。
 
 
 
 だが、ここで動揺していても、何にもならないのだ。
 
 シンジは……ずっと、一人で闘ってきた。きっと、まだレイの知らない事実や、シンジが抱え込んできたもの、それはまだまだ溢れるほど存在し、自分はその一端しか垣間見ていないに違いない。
 
 ……しかし、シンジは、話してくれた。
 
 自分を……共に闘う、仲間として、選んでくれたのだ。
 
 
 
 取り乱している場合ではない。
 
 子供のように、泣いていても始まらない。
 
 例え……力のない自分には何もできなくても。
 
 何も、できなくても……何とかしてみせる、その、気持ちだけは失ってはいけない。
 
 
 
 ……絶対に、立ち止まっては、いけない。
 
 立ち止まっていても、何も、変わらないのだ。
 
 シンジは、そうやって……ずっと、歩き続けてきたに、違いないのである。
 
 
 
 身体が、震えだしそうになる。
 
 だが、それに負けてはいけない。
 
 
 
 「……強いね、レイ」
 
 ……ゆっくりと、アスカは、呟いた。
 
 レイが視線を向けると……アスカは、微笑んでいた。
 
 「……そんなこと、ないわ」
 
 「ううん……」
 
 アスカは、首を振る。
 
 
 
 レイの、肌の、白さ。
 
 それを見て……アスカは、理解した。
 
 レイの、想いの、その一端を……。
 
 ……シンジを心配することもなく、ただ毅然としているだけならば……否定するつもりはないが、それは、強さとは別のものだろう。
 
 ……だが、レイは、違う。心配、なのだ。心配、なのだが、それでも……前を向いていることに、決めているのである。
 
 ……恐怖と、闘っている。
 
 ……これを、強いと言わず……何と言えばいいのだろう?
 
 
 
 「……そうね」
 
 アスカは、頷くと……前に向き直った。
 
 「助けなきゃ……シンジを。……でも、どうしたらいいのか……」
 
 「……私は、内部の人間の犯行だと思っている」
 
 「えっ?」
 
 「でなければ、納得できない点が多いわ。内部事情に詳しすぎるし」
 
 「スパイ……ってこと?」
 
 「分からない。それに、内部の人間が犯人と言っても……それだけでは、やっぱり、万単位の人間が候補に上がるだけ。私たちでは分からないわ。専門的な、諜報機関が調べたほうがいい」
 
 「じゃぁ、NERVに任せるってこと?」
 
 アスカの言葉に、レイは、首を振る。
 
 「……もちろん、NERVの諜報部にも動いてもらうわ。彼らにしかできないことも、かなりあると思う。……でも、犯人が内部の人間である可能性がある以上……同時に、外部の組織も、独立並行的に調査しなければ駄目」
 
 「アタシ、外部の組織なんて知らないわよ」
 
 「私も知らない」
 
 「……ダメじゃん」
 
 「……でも、組織に近い人を、知っているわ」
 
 「……えっ?」
 
 
 
 「……俺のことかな?」
 
 突然、背後から聞こえてきた声に、アスカは驚いて振り返った。
 
 レイも、黙って振り向く。
 
 アスカは、背後にいる人物の顔を見て、目を見開いた。
 
 「……加持さん!」
 
 
 
 座る二人の後ろに、加持がにこにこしながら立っていた。
 
 「よっ、二人とも」
 
 加持は軽く手を上げてみせる。
 
 
 
 しかし……いつ、背後に回り込んだのか?
 
 レイとアスカの座る座席は、壁際に設置された座席であり、後ろには人、一人分くらいのスペースしかない。
 
 そこに入り込むには、レイかアスカの真横を通らなければいけないはずなのだが……
 
 ……しかし同時に、わざわざ必要もないのにそんなことをしてみせるあたり、余裕綽々というか……緊張感ゼロというか。
 
 
 
 加持は、レイの方に視線を向ける。
 
 レイは、頷いてみせた。
 
 アスカが、レイの顔を見る。
 
 「え……外部の組織って……加持さん?」
 
 「そう……加持さんなら、NERVとは全く無関係に動けるし……信用できるわ」
 
 「光栄だね」
 
 加持は、肩を竦めてみせる。
 
 
 
 「もっとも、俺もそのつもりだ。
 
 さっきレイちゃんが言ったように……NERVだけが調査するよりも、被りあわない別動隊が複数、調査に動いた方がいい場合もある。相手に悟られやすくなる弊害はあるが、この場合、NERVが動くのは相手からも承知のことだろうしな。
 
 ……それに、さっきレイちゃんが言ってたように……もしも、敵の仲間に、NERVに通じた人間がいた場合、NERVの諜報部はそれだけで機能しなくなってしまう場合がある。その意味でも、別に俺が動いたほうがいいだろう」
 
 「私も、そう思います」
 
 「うん……俺は、ここでちょっと情報を集めてから、シンジ君の捜索に移るよ」
 
 加持は、そう言ってウインクすると、ポケットに手を突っ込んで、ミサト達のいるほうに歩き出した。
 
 
 
 「……加持さん」
 
 そんな加持の背中に、レイが、声を掛けた。
 
 加持は、立ち止まって……そして、振り返る。
 
 「……何だい? レイちゃん」
 
 
 
 レイは、じっと……まっすぐに、加持のことを見つめていた。
 
 
 
 ゆっくりと……息を吸い……
 
 ……そして、息を、吐く。
 
 
 
 「……碇君を……お願いします」
 
 
 
 加持は、レイの言葉を聞いて……少しだけ眉を上げてから、そっと、微笑んだ。
 
 「……必ず、もう一度……レイちゃんのところに、連れて帰るよ」
 
 そう言うと、加持は、再び前を向いて歩き出した。



四百十六



 トウジを乗せた車が松代第二実験場に到着したのは、夜も深夜に近くなってからのことであった。
 
 車から降りたトウジは、そのまま諜報部の人間に護衛されて、中央管制塔に向かう。
 
 
 
 駐車場から中央管制塔への道は、そのまま外の実験施設の間を徒歩で移動することになる。
 
 トウジは遅れないように歩きながらも、周りの風景に目を奪われていた。
 
 
 
 ……何台も連なるように配置された投光器の光の中に、幾重にも重ねられた物々しい実験施設が軒を連ねる。
 
 姿の見える職員達は、みんなツナギか、でなければ白衣だ。立ち止まっている者は殆ど無く、誰しもが書類をめくったり携帯電話で話をしたりしながら、肩にケーブルや荷物を担いで走っている。……尤も、これは屋外だからだろう。
 
 コンクリートの地面にも、縦横無尽にケーブルが走り回っており、トウジは幾度かつまづきそうになった。
 
 常に唸りのような低周波音が響き、それは聴覚のみならず足の裏からも確実に伝わってくる。時折激しいエンジン音のようなものがトウジの耳朶を叩いた。
 
 
 
 一見すると、まるで工事現場にいるような錯覚を覚える。
 
 だが、まるで、違う。
 
 空気を伝播して、トウジの体中にまとわりつく、ピリピリした緊張感が、はっきりとそれを伝える。
 
 
 
 ここは、戦場だ。
 
 ……ここは、最前線なのだ。
 
 
 
 数百メートルほど歩いて辿り着いた建物は、しかしそれらの実験施設とは明らかに趣を異にした。
 
 周りの建物が、まさに「工場」という印象だとすれば、さながらこれは「病院」である。
 
 同行した諜報部員によると、この建物が「中央管制塔」であり、ここがこの松代第二実験場の、事実上の統括施設だという。
 
 
 
 重い金属のドアを開けて建物の中に入ると、急激に騒音は耳に届かなくなった。完璧に近い防音設備である。
 
 急に訪れた静寂に、逆にキィン、と耳鳴りがしてトウジは眉をしかめた。
 
 
 
 やがて連れられていった部屋は、小さなコンピュータールームだった。
 
 トウジが部屋に入ると、ここまで一緒だった黒服の男は一礼して部屋から出ていってしまう。
 
 自動ドアの閉じる音がする。
 
 そして、部屋にはトウジと……もう、一人だけが、残された。
 
 
 
 トウジは、黙ったまま、じっと立ちすくんでいた。
 
 光量のぐっと落とされた、薄暗い部屋。
 
 いくつかある棚や机の上には、資料や書類が乱雑に積み上げられている。
 
 正面の壁はガラス張りだが、その表面にはダンボールが無造作にガムテープで留められて、目張りされている。
 
 これは、おそらく、光が入るのを嫌ったのだろうか?
 
 その、目張りされた正面の壁の手前には、一列にコンピューターのモニタが並び、それぞれが緑や赤の文字列をドラッグ映像のごとく流し続けている。
 
 その、中央……
 
 一番大きなモニタの前に座り、物凄い速度でキーボードを叩く後ろ姿には……正確に言えば、そのブロンドには、見覚えがある。
 
 
 
 「……ちょっと、待っててくれる?」
 
 急に、その女性は、振り返ることなく声を出した。
 
 「あ……ハイ」
 
 トウジは、急に声を掛けられて内心驚きながらも、慌てて応える。
 
 
 
 そうして、再び空間には、コンピューターの冷却ファンの音と、パーカッションの如きキータッチ音だけがこだまする。
 
 
 
 やがて、その白い指が、タン! とエンターキーを押し、同時に膨大な文字列が画面上を流れ出した。
 
 女性はそれには目もくれずに、くるりと椅子を回転させてトウジの方に向き直った。
 
 
 
 「ようこそ、鈴原トウジくん」
 
 リツコは、そう言うとサッと椅子から立ち上がった。
 
 「到着早々悪いけど、一緒についてきてくれる?」
 
 「あ、え? あっ、ハァ」
 
 ツカツカッとトウジの横を通り抜けていくリツコに、慌ててトウジは頷いて後を追った。
 
 こんなところで取り残されては堪らない。リツコを見失っては、あと、どうしていいか分からないではないか。



四百十七



 「電話に出た男の声紋は、フィルタで変換されています。変換記号が判明しないので、元の声紋を割り出すことができません。何のフィルタを使ったのか、分かればいいんですが……」
 
 マコトは、振り返って首を振り、そう報告した。
 
 加持は、笑って応える。
 
 「まぁ、予想はついてたよ。そんな、すぐに分かるようなチャチな装置は使っちゃいないだろ……
 
 ……マンションの入出記録は?」
 
 「ノイズに変換されています」
 
 「消されているのか」
 
 「記録自体が途中で遮断された感じですが、これは巧妙ですね。
 
 これ、MAGIの自動チェックにはかからないですよ。信号が通常映像に近いランダムさを持っています」
 
 「諜報部がモニタを監視していただろう。見ていて、ノイズに変換されていたら気付くんじゃないか」
 
 「いや……これは、そんなに単純じゃないです。詳しく説明すると長くなるんですが……MAGIからの配信映像が上書きされたというよりは、一時的に配信が遮断されたことになります。その場合、別経路からの録画をタイムラグつきで放送し直すんですが、これが別のものと差し替えられていたというか……」
 
 「……う〜ん」
 
 加持は、無精髭をポリポリと掻く。
 
 「……分かりそうなもんだがな」
 
 「じっくり気合いを入れて凝視していたら分かるかも知れませんが、普通に見ていたら分かりませんよ。他のカメラの映像と言っても、一見すると異常が無いわけですから……」
 
 「それを見つけるのが、プロだ」
 
 加持は、片方の眉を上げ、肩を竦めて微笑んでみせた。
 
 
 
 ……まぁ、護衛の減棒、降格は免れまい。
 
 ことによったら、洗脳、記憶操作の上で放逐ということにもなりかねないが……
 
 加持は、目を瞑る。
 
 ……相応のリスクをもたなければ、到底、やっていけない。
 
 甘く考えてもらっては、困る。
 
 
 
 (……それもこれも、まぁ……シンジ君が生きて帰ってきて、初めて成る議論だ)
 
 
 
 「……気になるのは……ここ1〜2週間ほど、同じような記録操作が行われた形跡があることです」
 
 キーボードを叩きながら言うマコト。
 
 その言葉に、加持は、ん? という表情をする。
 
 「前から、この犯人が同じようなことをしているっていうことかい?」
 
 「いや……もちろん、工作の種類は違うんですが、しかし、突き詰めれば『MAGIの情報を遮断する』という意味で、同じ機能です」
 
 「……具体的には?」
 
 「例えば一昨日の晩、メインシャフトの使用記録が遮断されています」
 
 
 
 「……了解、分かった」
 
 加持は、一瞬の沈黙の後、小さく頷いた。
 
 ……そうか。
 
 「……引き続き、頼む」
 
 「は……あ、はい、分かりました」
 
 唐突に話題を切り上げた加持に驚きながらも、マコトは慌てて応える。
 
 加持はマコトの言葉に片手を挙げて応えると、きびすを返し、出口に向かって歩き出した。
 
 
 
 管制室を横断しながら、加持は、静かに、マコトの言葉を咀嚼する。
 
 ……それは、シンジ君の仕業だ。
 
 メインシャフトの、使用記録の遮断。それは、十中八九、シンジ君がやったことだろう、と、加持は思う。
 
 ……加持が貸した、あの、金属の箱を使ったものだ。
 
 
 
 MAGIの記録を一時的にでも遮断する……それは、生半可な組織では実現することのできない、大きな壁だ。
 
 それをやった以上、犯人探しは一筋縄では行くまい、と思っていたが……。
 
 
 
 (……委員会か)
 
 加持は、前方を見据えたまま、そう思う。
 
 ……そうだ。間違いなく……加持が持っているものと、同じ装置を使ったのだろう。
 
 
 
 (……委員会が糸を引いているのならば、納得がいく。
 
 シンジ君のことを快く思っていないのは間違いがないだろうが……
 
 ……だが、逆に、シンジ君の命は保証された。委員会の計画に、シンジ君の存在は必須だ……シンジ君を殺すようなことは、むしろ絶対に許すまい。
 
 ……どこにいるのかは分からないが……シンジ君は、生きている。
 
 ……それは、間違いない)



四百十八



 トウジが連れられた部屋は殆ど何も見渡すことのできない真暗闇で、隣にいるはずのリツコの存在さえも覚束なかった。
 
 何も見えないが、前方からかすかな水音が聞こえる。
 
 音の静かな反響から、想像以上に広い空間にいることも想像がついた。
 
 
 
 「……あの」
 
 トウジは、おずおずと……(おそらくリツコがいるであろう方向に)声を掛けた。
 
 「なに?」
 
 闇の中から、声だけが聞こえてくる。
 
 「すんません……ここ……何なんですか」
 
 「今、電気をつけるわ」
 
 
 
 その言葉に合わせて、かなり高い位置にある電灯が3個、ポポッ……と点く。
 
 トウジが、それに気付いて顔を上げると、一拍置いて……一斉に、部屋は光の渦に包まれた。
 
 「ぉわッ……」
 
 慌てて、目を瞑って顔の前を手で隠すトウジ。
 
 そうしたまま、数秒……して、やがて、こわごわと瞼を開けた。
 
 指の間から、前方を、見る。
 
 
 
 「………」
 
 
 
 トウジは、前方の様子に、思わず目を見開いていた。
 
 横に立っているリツコは、腕組みをしながら、そんなトウジの様子を横目で見つめている。
 
 トウジは、茫然とした表情で……目の前の物体をただ、見つめていて……
 
 ……そして、裕に30秒ほど過ぎてから、ようやく、乾いた声を発した。
 
 
 
 「………
 
 ……こりゃ……
 
 ……その……
 
 ……エヴァ……でっか?」
 
 
 
 ……目の前の、満々と水をたたえる水面から、首の上だけ出しているのは、紛れもなく……エヴァンゲリオン参号機であった。
 
 
 
 その、黒い威容は、思わずトウジの腰を引かせた。
 
 初号機や零号機、弐号機の姿などは遠目ながら記憶にあるが、どちらかと言えば、初号機のような装飾に見えるものの多い様子ではなく、零号機や弐号機のようなシンプルなタイプに見える。
 
 顔の前部に据えられた双眸が、ぎらりとトウジを睨んだような気がして、我知らず背筋を怖気が走った。
 
 
 
 「これが……あなたが、明日起動実験をする、エヴァンゲリオン参号機よ」
 
 リツコが、静かに、呟いた。
 
 トウジは、ただ、茫然と……その言葉を聞く。
 
 「……乗るン……でっか、ワシが……
 
 ……この、バケモンに?」
 
 自分のことを言われているのに、まるで信じられない。
 
 明日……
 
 ……この、エヴァンゲリオンに乗るのだ。
 
 自分が。
 
 アニメか何かの世界の中でしか、有り得ないと思っていた、巨大ロボット。
 
 その、パイロットとして、このロボットを操縦するのである。
 
 
 
 とても、現実のものとして捉えることができない。
 
 まして、こうして眼前に……現実のものとしてエヴァを見せられると、逆にますます信憑性が失われていくような錯覚を覚える。
 
 
 
 「ワシに……こんなん……ホンマに、動かせるンでしょうか……」
 
 トウジは、擦れた声で、そう、呟く。
 
 リツコは、ゆっくりと目を閉じた。
 
 「明日、やるのは、あくまでも起動実験。
 
 いきなり操縦までしろとは言わないわ……まずは、きちんとシンクロできるかどうかのテストよ」
 
 「シンクロ? ……って、なんです?」
 
 「詳しい話は、後日きちんと講義してあげる。とにかく、操縦はちゃんと、それなりに訓練をするから心配しないで。アスカもレイも、何ヶ月も……それこそ何年も訓練して、ああなってるのよ」
 
 「何年……」
 
 トウジは、目を見開いて、リツコを見る。
 
 何という、時間の流れか。
 
 ……そう……確かに、二人とも、どこかしらオーラが浮世離れしているとは思ったが……
 
 ……幼いころから、ずっと、エヴァンゲリオン操縦者として生きてくると、ああいう風になるのだろうか?
 
 
 
 ……だが、浮世離れしているといえば、もう一人も極め付けだ。
 
 そう思って、トウジはおずおずと声を出した。
 
 「あの……したら、シンジも……もう、子供ンときから、ずっと?」
 
 
 
 リツコは、じっと……トウジを見つめて。
 
 トウジは、そのリツコの様子に、怪訝な表情をする。
 
 リツコはそうしてトウジを見つめ続けて……
 
 そして……
 
 ……ゆっくりと、視線を、外す。
 
 
 
 「……シンジ君は……例外」
 
 「……は」
 
 「……シンジ君は……訓練なんか、一度もしたことがなかった。
 
 それどころか、エヴァのことも、何も、知らなかった。
 
 ……その状態で……シンジ君は、残りの二人よりも、比べ物にならないほど上手く、操縦して見せたわ」
 
 
 
 「………」
 
 トウジは、何も喋ることができなかった。
 
 そうして佇む二人を、ただ、参号機のレンズが見下ろしていた。



四百十九



 そう言えば……と、ふと、レイは思い出した。
 
 ……シンジのことに余りにも気を取られすぎて、肝心なことを忘れていた。
 
 もともとは、一番最初に確認するつもりだったことではないか。
 
 レイは、椅子から立ち上がる。
 
 アスカは、急に立ち上がったレイに怪訝な表情を見せたが、続くように席を立ち、後を追って歩き出した。
 
 
 
 管制塔の中央で、ミサトは報告書の束に目を通していた。
 
 「ミサトさん」
 
 レイは、そんなミサトの背中に声を掛ける。
 
 「……あ、レイ。なに?」
 
 ミサトは気付いて振り返ると、そう言った。
 
 レイは、ミサトを見て、口を開く。
 
 
 
 「……フォースチルドレンは……誰になりましたか?」
 
 
 
 ミサトが、強張った表情で、固まった。
 
 レイは、じっとミサトの瞳を見つめている。
 
 レイの後ろで聞いていたアスカも、はっとした表情でレイを見て、それからすぐにミサトに視線を向けた。
 
 「……そうそう! そうよ……フォース、決まったんでしょ? ダレ?」
 
 
 
 「ん〜……とね、それは……」
 
 ミサトが、困ったように頭を掻いた。
 
 言ってはいけないわけではないのだろうが、言い辛いのだろう。
 
 言葉を濁すミサトを見て、レイは、静かに確信した。
 
 
 
 「……鈴原君……ですね」
 
 
 
 目を見開いて固まるミサト。
 
 
 
 アスカは、唖然とした表情で、レイを見る。
 
 「……すずはら……?
 
 ……え……すずはらぁ!?
 
 な……な、なんでよ!?」
 
 「碇君が、知っていたわ。
 
 それに、私たちの教室は、もともと管理のために適格者が集められているの。
 
 誰が選ばれるにしても、私たちの教室から選ばれて不思議はないわ」
 
 
 
 そう、応えながら……茫然とするアスカを置いて、レイは、そっと、目を閉じた。
 
 ……トウジが、選ばれた。
 
 ……それは、シンジの腐心が……結局、失敗してしまった、ことに違いなかった。
 
 トウジが、フォースになるのを、避けること。
 
 ……それは、結局、叶わなかったのだ……。