第八十八話 「不明」
四百八



 葛城邸。
 
 
 
 ガラスを開けて網戸にしてある窓から入る午後のそよ風が、優しくレイの前髪を揺らしていた。
 
 レイは、目を閉じて、ティーカップに口をつける。
 
 そんなレイの様子を、シンジは、優しい瞳で見つめていた。
 
 
 
 時刻は、4時を回っていた。そろそろ、空には薄くオレンジ色のヴェールが降り始めてくる時刻だ。
 
 シンジは壁に掛かった時計に目をやって、椅子を引いて立ち上がる。
 
 「ちょっと、寒いね」
 
 そうレイに言うと、そのまま窓の方に向かって歩いていった。レイは、黙ってシンジの姿を目で追う。
 
 シンジは窓の桟に手をかけて、からからと閉じた。ぴたん、と、最後のパッキンが壁に押し付けられると、そよ風が運んできていたわずかな町の喧騒は、耳に届かなくなる。
 
 シンジはカーテンを半分ほど引いて、再び席に戻った。
 
 
 
 「結局、休んじゃったね」
 
 シンジは、窓の外のとばりを横目に見ながら、呟くように言った。
 
 レイは、口許のティーカップを机の上に戻す。
 
 「……ごめんなさい」
 
 「えっ? ……ああ、いや……そういう意味じゃないんだ。気にしないでよ」
 
 「学校……行きたかった?」
 
 「あぁ……いや……別に、たまにはいいかな、と思ったから。毎日休むとか言うなら問題だけど、たまに、ならいいんじゃないのかな……」
 
 
 
 シンジは、前の学校では皆勤賞だった(尤も、一学期だけの短い間ではあったが)。
 
 だが、それは、別に学校が楽しかったからでも、学校に行くことに意義を感じていたからでも、ない。
 
 ……学校に行っても楽しくはない。だが、家に残っていると、それ以上にいたたまらない気分にさせられた。
 
 何も、することが、ない。……のであれば……せめて、「学校には、行かなくてはいけない」という理由付けに従うことで、自己という存在を繋ぎ止めておきたかったのだ。
 
 ……ただ、それだけだ。
 
 
 
 ……今日、休んだのは、レイを見ていたかったからだ。
 
 これだって、充分すぎるほど、充分な理由だ。
 
 気に病むこともない、と、シンジは思う。
 
 
 
 「……アスカは……学校に行ったの?」
 
 レイは、シンジの顔を見ながら呟いた。
 
 シンジは、頷く。
 
 
 
 ……そろそろ、学校が終わる時刻だ。
 
 アスカも、帰ってくるだろう。
 
 
 
 ……いつもなら、学校の帰りに夕食の材料を買って帰るところだけど、今日は休んじゃったから、これから買いに行かなくちゃ。
 
 冷蔵庫の中のものだけじゃ……今日は、ちょっと足りないな。卵と……あと、牛乳も切れてたから買っておかないと。
 
 ミサトさんは、今日はどうするのかな? 確か……朝、アスカが「忙しそうだった」とか何とか言ってたけど……泊まりかな。
 
 まぁ……余分に買っておけば、いいか……。
 
 
 
 もう一度、時計を見る。
 
 時刻は、4時30分。
 
 夕食の支度を始めるなら、もう、買い物に行かないとまずい時間だ。
 
 シンジは、椅子を引いて立ち上がった。
 
 
 
 レイが、シンジの顔を見る。
 
 「……どうしたの?」
 
 「ああ、うん。夕食の材料を、買いに行ってこようかと思って」
 
 シンジは、ソファの上に放り出してあった財布を拾い上げながら、顔だけレイの方に向けて応えた。
 
 レイも、立ち上がる。
 
 「私も一緒に行く」
 
 「あ、いや……アスカが、もうすぐ帰ってくるでしょ。綾波は、待っててよ。別に、そこのスーパーに行くだけだし」
 
 シンジが、微笑んで言う。
 
 レイは、椅子から立ち上がった姿勢のまま、動きを止めてシンジを見る。
 
 「……そう?」
 
 「うん……テレビでも、見ててよ」
 
 レイは、シンジの言葉に頷いて再び椅子に座り直した。
 
 シンジは、玄関の方に足を踏み出す。
 
 
 
 ……TRRRRR
 
 
 
 急にリビングの電話が、電子音を鳴り響かせた。
 
 
 
 シンジは、足を止めて振り返る。
 
 レイは電話の音に一瞬腰を浮かせたが、シンジはそれを制して電話に近付く。
 
 「きっと、ミサトさんだよ。やっぱり、今晩は泊まり込みかな」
 
 シンジはそう言うと、受話器を手に取って耳に当てた。
 
 
 
 「はい、葛城です」
 
 ……そう言うシンジの言葉に、一拍置いて……受話器から聞こえてきた声は、聞き慣れない男性の声だった。
 
 
 
 『……サードチルドレン、碇シンジさんですか?』
 
 
 
 ミサトが出るだろう……と思っていたシンジは、一瞬驚いたように目を見開く。
 
 テーブルの前に座って再び紅茶を飲んでいたレイは、そんなシンジの様子に、僅かに小首を傾げた。
 
 
 
 シンジは、ほんの一瞬、答えあぐねたように沈黙したが、ややあって頷きつつ口を開いた。
 
 「は……はい、そうですが……あなたは?」
 
 『NERV管理局の者です』
 
 「ああ……」
 
 微かに篭った肩の強張りを抜いて、シンジは息をつくように応えた。
 
 「はい……あの……何でしょうか?」
 
 『口頭で失礼いたします。NERVより伝達事項がありますので』
 
 「はぁ……何ですか?」
 
 『サードチルドレンは、現時点より松代第二実験場に移動。別命あるまで待機せよ……とのことです』
 
 
 
 シンジは、男のそんな言葉を、最初は何の感慨もなく聞いていた。
 
 松代……ふぅん……何だろう……
 
 何か、あったかな……?
 
 ……だが、一拍、一拍、過ぎるごとに……その言葉は、違和感を輪郭として纏いながら、シンジの頭の中で、明確な形に変化していく。
 
 
 
 ……ゆっくりと……目を、開く。
 
 
 
 ……松代……第二実験場?
 
 
 
 シンジの背中に、じわり……と、汗が染み出した。
 
 冷たい…汗。
 
 
 
 「……あの……な、何ででしょう……」
 
 声が、乾く。
 
 『松代で明朝行われるエヴァンゲリオン参号機の起動実験に備えてと言うことです。詳細は私では分かりかねますので、現地で当該担当者か赤木博士にお聞き下さい』
 
 受話器の向こう側では、男性が淡々と、感情のこもらぬ機械的な様子で言葉を紡ぐ。
 
 
 
 参号機……起動実験。
 
 
 
 ……バルディエル!?
 
 
 
 今度こそ、間違いなく、体中の毛穴が収縮した。
 
 どっ、と、汗が噴き出る。
 
 目の前が、一瞬……チカチカ、と激しく瞬いた。
 
 
 
 しまった……明日か!
 
 
 
 何故……いや……そうだ。確かに、日付を特定できるようなことは、何もなかった。
 
 そろそろ、起こってもおかしくない……
 
 そうか……!
 
 ……しまった!
 
 
 
 のほほんと、危機意識無く構えていた自分に、眩暈がする。
 
 何と言う……!
 
 ……自分が、何のためにここにいるのか……忘れてしまっているのか!?
 
 
 
 『……また、ファースト、セカンド両チルドレンは、第三新東京市にて、使徒襲来などの有事に備えて待機して下さい』
 
 シンジの動揺をしり目に、受話器の向こうの男性は変わらぬ口調で言葉を紡いだ。
 
 シンジは、慌てて受話器に齧り付く。
 
 「あッ……あの」
 
 『何でしょう?』
 
 「あの……フォースチルドレンは、その……誰に、なったんですか?」
 
 『申し訳ありませんが、お答えできません。現地で当該担当者か、赤木博士にお聞き下さい』
 
 シンジは、心の中で小さく舌打ちをした。
 
 この調子では、この電話の男性は詳しい事情を何も知らないのだろう。
 
 あるいは、電話では何も伝えないように厳命されているのか……とにかく、このまま話していてもろくな情報は得られそうにない。
 
 「あの……ミサトさんに、この電話を繋げられますか?」
 
 『申し訳ありませんが、あと1分でコンフォート17マンションは通信管制下に置かれます。葛城三佐に限らず、全ての通信は出来なくなりますので、ご了承下さい。
 
 また、既に地階の駐車場に迎えの車が入っているはずですので、即座に移動を開始していただきたいのですが』
 
 「えっ……えっ? 今、すぐですか?」
 
 『そうです』
 
 「あの……何か、あったんですか?」
 
 『何も……あくまで、有事に備えての作戦です』
 
 「は、はぁ……いや……でも、前は……」
 
 『何でしょう?』
 
 「あっ……いえ……」
 
 前は、呼び出されなかった。
 
 それを一瞬言いかけたが、しかし……それは説明しても意味がない。
 
 前と今回と、何が違うのか……あるいは単純に、今回のシンジは前回よりも頼りになる、それだけの理由かも知れない。
 
 とにかく、余り深く考えている時間はなさそうだった。
 
 『あと30秒で通信管制に入ります。何かありますか?』
 
 「あ、いえ、ないです」
 
 『では、早急に地下駐車場へおいで下さい。失礼します』
 
 「はい……すいません」
 
 プチッ、と小さな切断音を最後に、受話器からは不通音が聞こえるのみとなった。
 
 
 
 「碇君」
 
 レイは、心配そうな表情で立ち上がる。
 
 「綾波、ちょっと待ってて」
 
 シンジは、何か言いたげなレイをとりあえず制し、ポケットから取り出した携帯電話の電話帳を繰る。
 
 ……30秒しかない。
 
 ジョグダイヤルの動きに従って、素早く「す」の項目を探しだし、決定のボタンを押した。
 
 耳に当てる……しかし、いきなり耳に飛び込んできたのは呼び出し音ではなく、相手の携帯電話が圏外にいる旨を伝える女性のガイダンスメッセージだった。
 
 
 
 ……トウジ!
 
 
 
 ピガッ。
 
 半ば茫然とガイダンスを聞いていたシンジの耳朶を、急に高オクターブの雑音が襲う。
 
 「わ……」
 
 驚いて一瞬耳を離し、慌ててもう一度近付けると、そこにはもう潮騒のような低い雑音の波が聞こえるのみだった。



四百九



 「碇君……どうしたの?」
 
 レイが、心配そうな表情を浮かべて、シンジに声を掛ける。
 
 シンジは、気付いて電話を切り、レイの方に顔を向けた。
 
 
 
 「……明日、参号機の起動実験だって」
 
 シンジの言葉に、レイは、一瞬の間を置いて、表情を険しくする。
 
 「……パイロットは……? ……鈴原君?」
 
 「分からない……トウジに電話してみたけど、圏外だった。ここは、通信管制下に置かれるって。もう、電話自体が繋がらないよ」
 
 言いながら、シンジは片手に持った携帯電話を掲げてみせた。
 
 シンジはそのまま視線を逸らすと、自分の部屋の前に移動して、中に入る。
 
 「……どこかに行くの? ……鈴原君のところ?」
 
 荷物を持って再び部屋から戻ってきたシンジを見て、レイは数歩、足を踏み出して尋ねた。
 
 シンジは、かぶりを振る。
 
 「いや……なんか、僕は松代に来いって」
 
 「……何故?」
 
 「有事に備えて、ということみたいだけど……」
 
 
 
 予想外の展開だが……しかし、考えてみれば、これはある意味好都合だ。
 
 トウジに電話するのは、これから松代に行く往路の道すがらでも、出来る。それに、もしもこのまま連絡がつかなかったとしても、松代に控えていれば、少なくともトウジが参号機に搭乗するのに間に合わない……などということはあるまい。
 
 もちろん、トウジがフォースチルドレンではない、という確率の方は高い、とシンジは思う。
 
 だが、トウジではないとしても、思わぬ知り合いが選ばれているかも知れないし……でなくとも、誰か、同い年の子供が乗るのは間違いない。
 
 とにかく、バルディエルの発現に、誰かが巻き込まれるのは最大限に阻止したい。そのためにも、事前に松代に入っていられるのはラッキーだ、と見ることだって出来るのだ。
 
 まだ、明快なアイデアはない。
 
 だが、松代にいれば、起動実験前に出来ることは、遥かに多くなる……と、思う。
 
 
 
 くいっ。
 
 シンジは、服の袖を引っ張られる感覚に気付いて、振り返った。
 
 ……見ると、レイが袖の裾をつまんで、シンジを見ている。
 
 「私も……」
 
 レイは、そう言いかける。
 
 だが、シンジは、その手を、上からそっとかぶせるように握って、首を振った。
 
 
 
 「いや……ファースト、セカンドチルドレンは、ここに待機だって」
 
 「何故?」
 
 「何故……って、使徒が、来るかも知れないから……だって言ってたよ」
 
 「来るの? ここに? 来ないでしょう?」
 
 「うん……まぁ、来ないけどね」
 
 シンジは、頷く。
 
 「だったら……」
 
 「待って。二人行く必要は、ないよ」
 
 「碇君と一緒に行きたい。それに……私も……知っている。碇君の、力になれると思う」
 
 「うん……」
 
 
 
 詰め寄るレイに、シンジは、視線で頷いて、一呼吸置いた。
 
 そして、口を開く。
 
 
 
 「……だから……綾波には、ここにいて欲しいんだ」
 
 「………」
 
 「今まで……僕は、一人で、やってきた。でも……必ずしも、いっつも上手くいってたわけじゃない。
 
 かろうじて、最悪の事態を乗り越えて来ただけで、もっと上手くやれそうな方法が、いつも、思い付いてた。
 
 だけど、その「上手い方法」をとる術が無いことが、殆どだったんだ。
 
 ……綾波。
 
 今は、綾波がいる。今までとは、違う。
 
 綾波。僕が松代に行って……何か、第三新東京市で、やらなければいけないことが、出てくるかも知れない。
 
 でも、僕は戻ってはこれない。今、作戦が思い付いていればいいんだろうけど、そんなに頭も回らないしね。
 
 だから……綾波。もしも何かあったら、綾波に連絡するよ。そうしたら、僕を助けて欲しいんだ」
 
 
 
 レイは、じっと、シンジを見ていた。
 
 シンジも、レイを見る。
 
 
 
 シンジは……レイの瞳を見つめて、そっと……微笑んだ。
 
 
 
 ……ややあって、レイは、シンジの身体に、とん……と、額を付けた。
 
 シンジは、少しだけ眉を上げて、自分の胸に頬を寄せる、レイの髪の毛を見つめる。
 
 レイは、数秒、そうしてじっとシンジに体重を預けた後……ふっと身体を起こして、シンジから一歩離れた。
 
 シンジは、レイの顔を見る。
 
 レイは、シンジの瞳を見つめ返して……そっと、柔らかく、微笑んだ。
 
 「行ってらっしゃい……気をつけて……碇君」
 
 
 
 シンジは、靴を履いてドアノブに手を掛けた。
 
 「……じゃあ、綾波。アスカが帰ってきたら、説明しておいて。トウジのことは触れても触れなくてもいいけど、僕のこととか」
 
 「うん……分かった」
 
 「……それじゃ……待たせてると思うから、行ってきます」
 
 「行ってらっしゃい……碇君」
 
 
 
 シンジは頷くと、ドアを開けて表の廊下に飛びだした。
 
 
 
 玄関の扉を閉じ、シンジはエレベーターホールに向かう。
 
 電話の男性は、出来るだけ早くに地下駐車場に来るように、と言っていた。
 
 少し、時間がかかりすぎたかも知れない。
 
 人を待たせている、と言う思いが、若干シンジの警戒心を緩ませていたのも、この場合はいたしかたないことかも、知れない。
 
 
 
 エレベーターホールで、シンジは下向きの矢印のボタンを押す。
 
 エレベーターの通過階を示す電光表示が、ポッ、ポッ、とシンジのいる階に向かって昇ってくる。
 
 シンジは、忘れ物はないか……と、背負ったリュックを身体の前に回して、ジッパーを開けた。
 
 
 
 シンジの前で、エレベーターの扉が開いた。
 
 
 
 短い空気音と、人が倒れる音が、廊下に微かに響く。
 
 だが、それを聞くものは、誰もいない。



四百十



 レイは、再びリビングのテーブルに戻り、ひとり、椅子に腰掛けていた。
 
 手の平に包んだティーカップには、うっすらと紅茶が残るが、それはすでに香しい芳香もなく、冷えてくすんでいる。
 
 欠片のような僅かな茶葉が、レイの手の動きで静かにたゆたうのを、目で追っていた。
 
 
 
 ……私は、どうしたらいいのだろうか?
 
 レイは、ゆっくりと、考える。
 
 
 
 とりあえず、最低……アスカが戻ってくるまでは、ここにいるべきだろう。
 
 アスカには、説明しなければいけない。帰宅したところでシンジもレイもおらず、あまつさえ電話も通じないという状態では、彼女も混乱してしまうに違いない。
 
 陽はすでにかなり陰りを見せ、もはや、地平線の付近がほのかにオレンジ色の光を残すのみだ。
 
 どちらにせよ、もう、そう遅くないうちにアスカも戻ってくるに違いない。
 
 問題は、その後だ。
 
 
 
 ……シンジは、ここに待機していて欲しい、と言っていた。
 
 シンジの口ぶりでは、NERVの人間も、そう言っていたようだ。
 
 だが……それでいいのだろうか?
 
 明日の起動実験まで、いくらも時間は残されていない。例え限りがあるとしても、自分にも何か、出来ることがあるのではないだろうか?
 
 
 
 (フォースチルドレンは……本当に、鈴原君ではないのだろうか)
 
 レイは、揺れる茶葉を見つめたまま、思う。
 
 シンジは、確かにトウジがフォースチルドレンになることを、阻止したように思える。
 
 事実ミドリは無事であるようだし、加持が鈴原邸を警護しているということであればそれは今も変わるまい。
 
 ……だが。
 
 
 
 ……NERVは、本当に、トウジを諦めたのだろうか?
 
 フォースチルドレンが、誰になるのでも良いのであれば、そうだろう。
 
 結局、他の子供がフォースチルドレンになるのは変わりないが、とりあえずトウジはその対象から除外されているかも知れない。
 
 ……だが、もしも、「鈴原トウジ」がフォースチルドレンに選ばれる、確固たる理由があるのであれば?
 
 ただ単に、適格者だからトウジが選ばれたのではない。トウジが、トウジであるからフォースに選ばれる……何か自分たちの気付いていない要因が無い、とは言い切れない。
 
 
 
 もしもそうであれば……逆に、NERVがそんなに簡単に、その手を緩めるはずが無い。
 
 ミドリを確保する必要なく、トウジをフォースチルドレンにする方法が、何かあるかも知れないではないか。
 
 
 
 (……鈴原君)
 
 レイは、ティーカップを揺らす手を止め、顔を上げた。
 
 一瞬電話に視線を向けて、かぶりを振る。
 
 ……通信管制下で、電話は使えない。
 
 (……アスカが帰ってきたら、外に出て鈴原君に電話をかけよう)
 
 レイは、目を瞑って、そう思う。
 
 ……もちろんシンジも、NERVの護衛車でこのマンションを出たところで、当然同じ行動を取っているはずで、どちらの結果になっていたにせよシンジはすでに真実を知っているはずだ。
 
 だから、必ずしも急いで連絡を取る必要はないのだが……それはそれとして、レイも真実を知りたかった。
 
 トウジが、フォースチルドレンか、そうではないのか。
 
 それを知っているか否かで、取れる行動も違ってくる。情報は多いに越したことはない。
 
 
 
 カチャンッ
 
 玄関の扉が、アンロックの音を立てる。
 
 レイは顔を上げて廊下の方に視線を向けた。
 
 数秒の後、肩に鞄を担いだアスカが部屋に入ってきた。
 
 
 
 「おかえりなさい、アスカ」
 
 レイが、アスカを見ながら言う。
 
 「ただいま」
 
 アスカはそう言いながら鞄をソファに放ると、きょろきょろと視線を漂わせた。
 
 再び、レイの方を向く。
 
 「あんたのダーリンはどこ行ったの? 買い物?」
 
 「碇君は、松代」
 
 「そんな店、あったっけ?」
 
 「松代第二実験場に行ったわ」
 
 「ああ、そう……って、えぇ?」
 
 アスカが、眉を上げて動きを止めた。
 
 
 
 「……何で?」
 
 怪訝な表情で、アスカが問う。
 
 「参号機が、起動実験をするの。知ってるでしょう?」
 
 「ああ、うん……でも、いつかは知らないけど」
 
 「明日よ」
 
 「あ、そうなの? ……え、ナニ? アイツが起動実験するの?」
 
 「違うわ。起動実験をするのは、フォースチルドレン」
 
 「え!」
 
 今度こそ、アスカは目を丸くした。
 
 
 
 アスカは慌てたように、テーブルの前に座る、レイの向かいに詰め寄った。
 
 「え……フォース? フォースがいんの?」
 
 「そう」
 
 「誰だか、レイ知ってるの?」
 
 レイは、黙って首を振る。
 
 「……いいえ」
 
 「あ……あ、そう……」
 
 アスカは、息をついたように、レイの瞳を見つめた。
 
 レイも、じっとアスカを見つめ返す。
 
 そうして……数秒の間を置き、アスカは立ったままの自分に気付き、椅子を引いてレイの向かい側に腰を下ろした。
 
 
 
 机の上に両腕を置くと、アスカは僅かに身を乗り出すようにして、再び口を開いた。
 
 「レイ……何で、そんなことまで、知ってるの?」
 
 「そんなことって?」
 
 「フォースが起動実験をやるってこと」
 
 「……前から、噂されていたこと。特に、私が誰かに教えられたわけじゃないわ」
 
 「そう……ふぅん……で?」
 
 「なに?」
 
 「シンジは、何しに松代に行ったわけ?」
 
 「起動実験に際し、有事に備えて……と、言っていたわ」
 
 「ああ……また、実験に失敗して暴走でもすんのかしらね。……シンジだけ?」
 
 「私達二人は、第三新東京市待機。チルドレンが三人とも松代に行っている間に、ジオフロントが使徒に襲われたら、抵抗できないもの」
 
 「……ナルホド……ね」
 
 アスカは、机の上に上半身をごろりと横たえると、ぽりぽりと頭を掻いた。
 
 「ま……どっちでもいいけどさ。どうせ、何にもないだろうし……でも、そしたら、誰が夕食作んのよ」
 
 「私が作るわ」
 
 レイは、そう言いながら腰を浮かせた。
 
 そうだ。どちらにせよ、夕食の材料を買いに外に出なくてはならない。
 
 その時に、ついでにトウジに電話を入れれば、丁度いいだろう。
 
 
 
 立ち上がったレイを見て、アスカは片手を挙げて微笑んだ。
 
 「あ、レイ、作ってくれる?」
 
 「アスカには作れないでしょう」
 
 「レシピがあれば作れるわよ。ミサトと一緒にしないで欲しいわね」
 
 レイの皮肉にも特に気分を害した様子もなくさらりと応えると、アスカも腰を浮かせて立ち上がった。
 
 「買い物なら、アタシが行くわ」
 
 「……いい。私が行くから」
 
 「いいわよ、別に。レイは、夕食作ってくれるんでしょ? 買い物くらい、してくるわよ。どうせ、ヒマだしね」
 
 「………」
 
 「二人分で、いいわよね? ミサトは? 今日は、泊まり?」
 
 「分からない。連絡はまだ無いわ」
 
 「電話、無いの?」
 
 「今、通信管制……」
 
 
 
 ……TRRRRR
 
 
 
 リビングの電話が、鳴った。
 
 
 
 レイは、固まったように目を見開いて、その電話を見つめた。
 
 リビングの、隅の、黒い電話機。
 
 着信を報せる電子音と……赤い、ランプの、明滅。
 
 
 
 鳴っている。
 
 
 
 レイが……電話を凝視したまま……思う。
 
 
 
 電話が……
 
 ……通信管制下で、繋がらないはずの、電話が。
 
 
 
 ……鳴っている。
 
 
 
 「あ、きっとミサトよ」
 
 アスカはそう言うと、ひょい、と受話器を手に取った。
 
 「ア、アス……」
 
 慌てて、レイが一歩、足を踏みだす。
 
 「はい、こちら、葛城」
 
 アスカは、明るい声で声を発した。
 
 
 
 「あ、ミサト?」
 
 アスカは、微笑んで、そう、言った。
 
 
 
 レイの脳細胞を、激しく電波が駆け巡る。
 
 矛盾した状況に、シナプス中をレイの意志が飛び回った。
 
 「ナニ、やっぱ帰れないの? うん、今、夕食の買い物に行こうかって言って……」
 
 「アスカ!」
 
 レイは、会話中のアスカに構うことなく、鋭く言葉を発した。
 
 アスカは驚いたようにレイを見る。
 
 「え……レイ? なに?」
 
 「アスカ! ……電話、貸して!」
 
 「なに……アタシが、いま、話してんのよ」
 
 「いいから!」
 
 レイは、言いながらバッと右手を差し出した。
 
 アスカは、その剣幕に思わず腰を引く。抗すれば、奪い取りかねない勢いだ。
 
 「何だってのよ……急がなくたって、電話もミサトも逃げやしないわよ」
 
 ぶつぶつと言いながらも、アスカは受話器をレイに手渡す。
 
 
 
 アスカから受話器を受け取ったレイは、そのまま齧り付くような勢いでそれを口許に持っていき、声を発した。
 
 「……ミサトさん!」
 
 『あら、レイ? どしたの?』
 
 耳元で、ミサトの声が聞こえる。その、平静と変わらぬ声の重さが、逆にレイの脳細胞を緊張させた。
 
 「ミサトさん……明日……松代で、参号機の起動実験があるのは本当ですか?」
 
 『えっ……』
 
 レイの言葉に、一瞬、ミサトが息を飲む。
 
 
 
 ……数秒の間を置いて、僅かに息を吐く音に続いて、ミサトの声がレイの耳に届く。
 
 『……そうよ。この電話で、伝えようとは思ってたんだけど……知ってたのね』
 
 「碇君が、知っていました」
 
 『シンちゃんが? ……そう、シンちゃん、知ってたの……。加持にでも、聞いたのかしら……』
 
 「……NERVの人から、連絡を受けたようですけど」
 
 『NERV? 誰? リツコ? マヤ? 司令ってコトはないわよね』
 
 「知らない人だったみたいです。……それで、碇君は……松代に、行きましたけど……」
 
 『は? ……松代? 何で? 一人で?』
 
 「NERVの迎えが来ていると言っていました」
 
 『……迎え?』
 
 「有事に備えて、サードチルドレンは松代に待機ということのようでした」
 
 『待って……ちょっと、待って』
 
 「………」
 
 『サードチルドレンが……松代に待機?』
 
 「コンフォート17マンションは、明朝まで通信管制下に置かれる、とも言っていました」
 
 『……今、電話してるじゃない!』
 
 「ハイ。私も、それで驚いているんです」
 
 『ちょ……レイ、ごめん、ちょっと待ってて』
 
 ミサトが少し慌てたようにそう言うと、その語尾に被さるように、受話器から流れる音は耳慣れたクラシック音楽に切り替わった。
 
 
 
 受話器を耳に当てたまま立ち尽くすレイの横で、アスカが呆気にとられたように、その横顔を見つめていた。
 
 口を開く。
 
 「……え……ナニ、どうかしたの?」
 
 レイは、目の前の白い壁をじっと見つめたままだ。
 
 アスカは、足を踏み出して、レイの肩を掴んだ。
 
 「レイ!」
 
 アスカが、不安と苛立ちを微かに声音に孕ませて、耳許で叫ぶ。
 
 レイは、視線を前に向けたまま、ゆっくりと口を開いた。
 
 
 
 「……碇君は……騙されたのかも知れないわ……」
 
 
 
 「……えっ?」
 
 アスカが、レイの言葉の意味を一瞬咀嚼しかねて言葉に詰まる。
 
 その瞬間、電話の保留音が、再びNERVの喧騒に変わった。
 
 『……レイ!』
 
 「ハイ」
 
 『いい? 今から、誰か顔見知りのNERV職員が、あなた達の迎えに行くわ。すぐに着くから、待ってて。それで、一緒に来て頂戴。知らない人間が来たら、絶対応対しては駄目よ』
 
 「……どうなったんですか」
 
 『話してる時間はないわ。この電話も、盗聴されているかも知れない』
 
 「……碇君は、どうなったんですか!」
 
 『………』
 
 「………」
 
 『……現在、ロストしているわ。いい? 数分で着くから、指示に従って。いいわね』
 
 「………」
 
 『……がんばって、レイ……』
 
 プツン、と、電話は途絶えた。



四百十一



 「じゃぁ、二人を迎えに行ってきます」
 
 少しだけ緊迫した表情で、シゲルが立ち上がる。
 
 「悪いわね、何があるか分からないから、諜報部の人間を誰か連れていって」
 
 「分かりました」
 
 ミサトの言葉に頷いて、シゲルは扉の外に駆け出していった。
 
 
 
 「……一時間22分前から、15分間、コンフォート17マンション周辺の通信が完全に遮断されていた形跡があります」
 
 ひとしきりキーボードを叩いていたマヤが、目の前のホログラムスクリーンにウィンドウを広げて報告する。
 
 腕を組んで、ミサトはその報告を聞く。
 
 眉間にしわを寄せて、親指の爪を噛んだ。
 
 「通信が遮断された時点で、異常に気付かなかったの?」
 
 「すいません……あの、MAGIの機能自体が、簡易的に遮断されていたようなので……」
 
 「……そんなコト、できるの?」
 
 「大々的にMAGIが機能を失ったわけではないんです。末端の通信が、一時的に『なかったこと』になっただけですので……」
 
 マヤは、表情を曇らせて、言葉を濁した。
 
 「じゃぁ、当然逆探知は無理ね」
 
 ミサトは、マコトの方に振り返る。
 
 「テープの音紋分析はどう?」
 
 「詳細までは分かりませんが、おおまかな解析は終了しました。ですが……これは、フィルタがかかってますね」
 
 マコトが、ミサトの方に視線を向けて、応える。
 
 「なかなか、高度なフィルタです。特徴が無くて、フィルタの種類が特定できないので、元の音紋の解析までは、ちょっと……」
 
 「……今のところ、シンちゃんをさらった連中は、不明ってことね……」
 
 ミサトは、まるで前方の空間に犯人が立っているかのように、その闇を鋭く睨み付けた。
 
 
 
 ……とにかく、最優先にしなければいけないのは、シンジの安全の確保であろう、と、ミサトは思う。
 
 NERVにとっての最重要人物であるサードチルドレンとしてももちろん……愛すべき弟として、絶対に助けなければいけない。
 
 (犯人が全く不明……と言っても、ただ唇を噛んで待っているわけにはいかないわ)
 
 まず、いくらMAGIの機能が一時的に遮断されていたと言っても、マンション付近に警護の人間がついていたのは確かだ。
 
 曰く「MAGIからの配信映像しか見ていなかった」とのことだが、そんな生ぬるい報告は認めない。
 
 髪の毛一本の証拠でも探し出し、絶対に手掛かりを掴んでもらわなければなるまい。
 
 また、当然のことながら……シンジをさらった側にしてみれば、その結果として明確な利益があるのだろうから、とにかく何らかの因果関係がある組織を洗い出す必要があるだろう。
 
 
 
 また、「シンジ」ではなく「チルドレン」を害することが目的であった場合、当然、ファーストチルドレン、セカンドチルドレン……そして(その組織が存在を掴んでいる可能性は低いとはいえ)フォースチルドレンも身柄の安全を図る必要があるだろう。
 
 レイとアスカの元へは、たった今、シゲルが飛んだ。
 
 トウジについても、誰か走らせてNERVに連れてきたほうがいいだろう。
 
 明日の起動実験は中止にせざるを得ないが、仕方がない。チルドレンの安全が確保されない状態で、強行しなければいけない理由はない。
 
 「明日の起動実験は、中止ですね」
 
 マコトがキーボードを叩きながら言う。
 
 ミサトも、頷いた。
 
 「そうしたほうがいいわね。リツコにも意見を仰がなきゃいけないけど……基本的に、その方向で。起動実験は来週でもいいわ。それよりも、サードチルドレンの捜索に全力を注いで頂戴」
 
 
 
 「……起動実験は行う」
 
 突然、頭上から、低い声が振り落とされた。
 
 ミサトが、驚いて振り仰ぐ。
 
 背後の、一段高い席……総司令席に座るゲンドウと、その横に佇む、冬月。
 
 
 
 ミサトは、口調に抗議の意を孕ませながら、慌てて両手を広げた。
 
 「起動実験……延期しないのですか!?」
 
 「そうだ」
 
 ゲンドウが、変わらぬ口調で応える。
 
 「タイムスケジュールの遅れは認められん」
 
 「しかし……サードチルドレンの安全も確認できていません! 生存している確証もないんです……まず、全力でその安全の確保を図るべきではありませんか」
 
 鋭い口調で、ミサトは言う。信じがたい……何より、自分の息子ではないか。
 
 何の感情も、抱かないのか?
 
 
 
 「松代での起動実験は、サードチルドレンの安全とは関係がない。スケジュール通りにやってもらおう……フォースチルドレンは、直ちに松代に移送する。危険分散の観点から見ても、チルドレンは集まっていないほうが良いだろう」
 
 冬月が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
 
 ゲンドウの表情は、いつもと変わらず……全く、何の変化もない。
 
 その、心の裡は、分からない。



四百十二



 老人は、バイザーの向こう側で……ゆっくりと、呟いた。
 
 
 
 「そうだ……起動実験は、中止するわけにはいかん。
 
 サードチルドレンの邪魔の入らないうちに、準備を完了する……
 
 ……そして、サードチルドレンの手で、葬るのだ」