第八十七話 「歓喜」
四百四



 音も光も……その全てが吸い込まれてしまうような、隔てのない暗闇……
 
 ……それが、幾重にも折り重なって広がっていた。
 
 
 
 空間の中央に鎮座する細長いテーブルの両側に、数人の、マントを纏ったような男たち。
 
 上座には、幾分年老いて肉のついた、しかし衣服越しにも年齢からすれば不釣り合いな筋肉を感じさせる男が座ってる。
 
 厳つい皺の折り込まれたその顔には眼窩に無骨なバイザーがかけられていたが、その筐体からは何本かの細いコードが伸びて腰の方に消えており、何か、機械じみたものを感じさせた。
 
 
 
 額の禿げ上がった、鷲鼻の小男が、眠そうな表情のまま、呟いた。
 
 「……サードチルドレン……いささか、目に余るようだな」
 
 
 
 「取りたてて、目立った行動は、ない。だが、不穏なのは確かだな」
 
 別の、頬骨の張った白人が呼応する。
 
 「碇ゲンドウの犬ではないか? あの男は信用できない」
 
 黒人が、大きな瞳を、ぎょろりと奥に向けた。
 
 
 
 上座に座るバイザーの男は、息を吸うような一瞬の間の後、低く声を空間に這わせた。
 
 「……いや、碇シンジは、ゲンドウの行動に与しているとは思いがたい」
 
 
 
 「……何故、そう思う?」
 
 「ファーストチルドレンと、常に行動を供にしている」
 
 「ファーストチルドレン……綾波レイ、か」
 
 「碇ゲンドウが、綾波レイに特殊な感情を注いでいたのは、周知の事実だ。だが、今や碇シンジは綾波レイを護り、綾波レイも完全に碇シンジに愛情を向けているようだ。
 
 碇ゲンドウが、それを良しとしているとは、思い難い」
 
 
 
 白人が、眼前の空間を見据えるようにして、静かに、呟く。
 
 「どちらにも与せぬ、第三の力、と言うわけか……」
 
 
 
 「碇シンジには、何らかの後ろ盾がある筈だ」
 
 鷲鼻の男が、言葉を発する。
 
 「調査は、進めていたと思うが……その後、進捗はいかがかな」
 
 「不明だ」
 
 バイザーの男は、身じろぎすることなく、答えた。
 
 「碇シンジの背後から、何も見えてこない。
 
 ……加持リョウジが彼に協力することが希にあるようだが、それは些細な事象に過ぎまい。少なくとも、碇シンジに付随する不可解な状況に説明をつけるには、いささか弱い」
 
 「加持リョウジか……食えん男だ」
 
 「元々、あの男も不穏要素があったのは確かだ。……切り捨てるかね」
 
 黒人が、顔を上げて言う。
 
 鷲鼻は口許を歪めて首を振った。
 
 「まぁ、そう急くこともあるまい……使い方次第で、まだあの男は利用価値がある」
 
 「排除など、必要になればいつでも出来る。急ぐことはない」
 
 白人も、静かに肯いた。
 
 
 
 バイザーの男が、溜め息をつくように、少し、上体を揺らした。
 
 口を、開く。
 
 「……懸念しなければならんのは……碇シンジが、死海文書の内容を知っている可能性があるということだ」
 
 黒人が、視線だけバイザーの男に向けて、肯く。
 
 「そうだ」
 
 「碇シンジが、死海文書の内容を知っていると考えるのは、当然の帰結だ。彼の行動には、これから起こりうる事実を知らねば取れない行動が、多すぎる」
 
 鷲鼻が、ゆっくりと、応える。
 
 
 
 「……死海文書の記す言葉は、我らの理念を体言する、崇高な聖言だ」
 
 「まして、人類補完計画のために、外れることの許されない道を記す」
 
 「そうだ、外れることは許されない」
 
 「碇シンジは、その道から逸脱した因子だ」
 
 「左様」
 
 「しかし、彼を排除するわけにはいかん」
 
 「それもまた然り……少なくとも、あの少年の行動や思想は計画と異なるが、サードチルドレンとしては、存在していなければ困る」
 
 「そうだ、碇ユイの息子として」
 
 「初号機の息子として」
 
 「だが、放っておくわけにはいかん。このまま道を逸脱していけば、やがて存在自体が逸脱した因子となる」
 
 「そうだ……放っておくわけにはいかん」
 
 「だが、どうする?」
 
 「予定外だな」
 
 
 
 「……そのためのフォースチルドレンだ」
 
 バイザーの男が、重々しい口を開いた。
 
 
 
 全員が、僅かに体を男の方に向ける。
 
 バイザーの男は、表情を変えずに、ただ言葉だけを紡ぎ続けた。
 
 「鈴原トウジ……彼だけが、条件を満たす」
 
 「そうだ……しかし、当初の予定したシナリオの通りに進むかな」
 
 「碇シンジ自身が、元々のこちらの想定した基準から外れている。尤も、初号機に碇ユイが入っている以上、彼自身のチルドレン就労は仕方が無いことだが」
 
 「鈴原トウジの存在は、碇シンジを死海文書の軌道に照らしあわせるために、必要な因子だ。だが、当の碇シンジが、予定と違う行動をしていてはな……」
 
 
 
 口々に向けられた言葉に動じず、バイザーの男は、身を乗り出すようにして口を開いた。
 
 バイザーの照り返しが、漆黒に映える。
 
 「論じていても始まらん。鈴原トウジは、聖道の為の、尊い犠牲だ。今は、死海文書の示す道をなぞるより他に無い」
 
 
 
 「……碇シンジが、そう、動いてくれるかね」
 
 
 
 静かに……鷲鼻の男が、中空を見上げて、呟いた。
 
 バイザーの男は、僅かに体を動かして、鷲鼻の方に視線を向ける。
 
 黒人が、片腕を机の上に乗り出して、鷲鼻を見据えた。
 
 「どういう意味だ」
 
 「碇シンジは、死海文書の展開を知っている公算が大きい。当然、来るべきバルディエルについてもまた、然りだ。
 
 ……彼が、鈴原トウジの犠牲を無視するかな? 今までの行動原理から鑑みて、鈴原トウジのフォースチルドレン就労の阻止か……でなくとも、起動実験へ足を運ぶのを阻止しようと動くのは予想がつく」
 
 
 
 白人が、無言で小さく肯き……ゆっくりと、首をバイザーの男の方に向けた。
 
 「バルディエルの殲滅には、碇シンジが向かってくれないと困る。碇シンジの手で、仕留めねばならん。
 
 ……だが、確かに、碇シンジを自由にしておけば、鈴原トウジが巻き込まれるのを、抑えようとするだろう。
 
 ……それは、避けねばなるまい」
 
 
 
 バイザーの男は、静かに……身を、ゆっくりと、背凭れに静めた。
 
 口を、開く。
 
 「……手は、打ってある」
 
 ……視線の先の分からぬバイザー越しに……男は、ただ、暗闇を見つめていた。



四百五



 熊谷ユウは、アクセルをゆっくりと踏みしめると、車を発進させた。
 
 無言で、ハンドルを回し、地下の駐車場を順路通りに進行していく。
 
 
 
 焦るな……と、熊谷は心の中で、自分に言い聞かせていた。
 
 激昂して、自分を見失うのが、一番いけない。
 
 その場の感情に流されるなど、あまりにもプロらしからぬ、熊谷の嫌う行動だった。
 
 
 
 碇シンジに攻撃を仕掛けて、どうする?
 
 それは、あまりにも子供じみた発想だ……と、熊谷は自分でも分かっている。
 
 第一、碇シンジは、NERVにとっては重要すぎるほど重要な人物だ。
 
 彼がいなくなってしまえば、人類はやがて滅びてしまうだろう。それは、碇シンジの(ひいては初号機の)今までの活躍を見れば、誰の目にも一目瞭然だ。
 
 そんな結果に結びつく行動を、一時の感情でぶち壊しにするほど馬鹿ではない。
 
 
 
 ……だが、それでは、この行き場のない怒りはどうすればいい?
 
 
 
 真に、熊谷が、彼の理想である人物像に近づきたいのであれば、こんな個人の我が侭に近い感情は封印してしまうべきである。
 
 それは、熊谷本人にも、比較的冷静に見て取ることが出来ていた。
 
 ……しかし、それをすんなり実践して、その通りに出来るほど、人間的な高みには、ない。
 
 もちろん、誰に怒りをぶつけることなくこのまま自宅に帰ってしまい、何事もなかったように、明日、また出勤することは出来るだろう。
 
 しかし、封印したかに見えた怒りはいつまでもくすぶったまま消えることはなく、どこかで破綻を来すのは目に見えていた。
 
 
 
 (くそっ……)
 
 熊谷は、心の中でそう呟いて、小さく舌打ちをした。
 
 どうにもならない。
 
 どうすることもできないまま、時がやがて自分の中のこの黒い炎を鎮火してくれるのを、ただじっと待つしかない。
 
 その事実はしかし、今の熊谷には、更に怒りの炎に油を注ぐ役割しか果たさない。
 
 
 
 ジオフロントの空中カーリフトがトンネルを抜け、やがて金属壁に囲まれた空間に出て停止した。
 
 熊谷の車を載せたカーゴが、右回りにゆっくりと回転する。
 
 90度の角度まで回ったところでカーゴは回転を止めた。
 
 熊谷は、アクセルを踏みしめる。
 
 前方に延びたトンネルを低速で走り抜けると、やがて金属の扉がその行く手を阻む。
 
 熊谷は運転席の横の窓を開けると、手を伸ばして、壁際のレンズの前に自分のIDカードを差し出した。
 
 ガシャッ。
 
 目の前の扉が開き、車が陽光に包まれる。熊谷は手を引っ込めてウインドウを閉めると、再びアクセルをゆっくりと踏みしめた。
 
 
 
 午後の陽の光を浴びながら、熊谷の車は、住宅街の中を走っていた。
 
 熊谷の胸の中にはやり切れない感情が渦巻いていたが、このまま自宅に向かう以外には手が無い。
 
 冷たいシャワーでも浴びて、すっきりしよう……と、熊谷はゆっくりと考える。
 
 
 
 交差点に差し掛かったところで信号が赤に変わり、熊谷は静かに車を停止させた。
 
 
 
 片側三車線の大きな通りだが、熊谷の車以外に走っている車はない。
 
 歩道を歩く歩行者の姿もなく、まるで、住むもののいない打ち捨てられた世界のようだ。
 
 ……しかし、それも、ある意味当然と言えよう。幾度にも渡り正体不明の生命体が襲いかかり、復興しても復興しても、お構いなしに破壊される街……
 
 ……そんなところに、誰が住みたいと思うだろうか。
 
 
 
 (それでいい)
 
 熊谷は、視界に並ぶ三色のライトが赤く灯るのを見つめながら、じっと考える。
 
 それで、いい。
 
 自分の命を賭けられない人間など、この街にいても目障りなだけだ。
 
 
 
 コン、コン。
 
 
 
 耳許で鳴った乾いた音に、熊谷は、不思議そうな面持ちで横を向いた。
 
 (なんだ?)
 
 見ると、窓の向こう側に、一人の老人が立っている。今の音は、この老人がガラスを小突いた音らしかった。
 
 熊谷は、不審に思いながら、三分の一ほど窓を開けた。
 
 
 
 その老人は、皺の刻まれた丸い顔で、熊谷に人懐こい笑顔を向けた。
 
 顎髭と眉毛が、ヘビのように白く長く伸びている。
 
 曲がった背中に白いポロシャツ、綿の膝丈のズボンから伸びた骨と皮の様な足には緑色のゴム草履を履いている。
 
 禿げ上がって見える頭に、不釣り合いなほど大きめの麦わら帽子を被っていた。
 
 
 
 熊谷は、表情には表さずに心の中で舌打ちをした。
 
 どう見ても、話の通じなさそうな、そこらを緩慢な動きでうろうろしているような老人である。
 
 基本的に、熊谷の最も苦手とするタイプだ。
 
 現実には決してそんなことはないのであるが、熊谷の目から見ると、生き恥をさらしてのうのうと他人に寄生して暮らしているように見え、許しがたい。
 
 まぁ、例えば加持に対する怒りとは違い、勝手にやっていろ、と醒めた目で見ることは出来るが、自分がああはなりたくないと思う。
 
 
 
 「……なんだ」
 
 熊谷は、老人を横目で睨み付けたまま、低い声で呟いた。
 
 有無を言わさずアクセルを踏んで走り去ってしまってもいいのであるが、窓を開けて反応してしまった手前、それでは少々体裁も悪い。
 
 大通りの交差点であるためにまだ久しくの間があるが、信号が青になるまでくらいであれば、話を聞いてやってもいいか……と、熊谷は思う。
 
 
 
 「あんの……な、わしゃ……駅へ、行きたい、んじゃが、な」
 
 咽の奥に篭ったような声音で、老人はもぐもぐと呟き、にかっと笑う。
 
 熊谷はその言葉を聞いて、今度はあからさまに舌打ちをしてみせる。
 
 まさに、引っ掛かりたくなかった相手だ。
 
 「で、な……道が、分からん、もの。どっちかな」
 
 尚も呟き続ける老人を睨んで、あからさまな溜め息をつくと、指先だけ動かして、前を指さした。
 
 「まっすぐだ」
 
 「あ?」
 
 「ま・っ・す・ぐ・だ」
 
 「あ……まっすぐ? あん。そうか?」
 
 「まっすぐ行けば、そのうち標識が出てくる。あとは、それを見ろ」
 
 詳しい道順まで、とても教える気にならない。どうせ、普通に説明する、十倍くらいの時間がかかってしまうに決まっている。
 
 吐き捨てるように熊谷は言うと、視線を信号に向けた。
 
 まだ、赤だ。
 
 だが、横の歩行者信号は、青が点滅し始めている。
 
 
 
 「ん……あ、そ。わりね」
 
 「ああ」
 
 もごもご、と頭を下げる老人の言葉に、視線は前に向けたまま、熊谷は素っ気無く応えた。
 
 老人は頭を上げると、もう一度、にかっと笑う。
 
 「じゃ……じゃ、アンタに、いいこと、教えたろか?」
 
 「いい」
 
 「ま……そ、言うな。な。な。」
 
 「いい。気にするな」
 
 「聞いたほが……いいぞ」
 
 「いい」
 
 「そか?」
 
 「ああ」
 
 「な……熊谷」
 
 「ああ……」
 
 「アンタにゃ、いい、話……なん……だがなぁ」
 
 「……待て。何だと?」
 
 「なんが?」
 
 「何故、俺の名前を知っている?」
 
 「なんがよ……だって、アンタ……アンタ、に、話が……あったんだもの」
 
 「貴様、誰だ?」
 
 「じじぃ〜、だよ……」
 
 「おい」
 
 「じじぃ〜、だってば、よ」
 
 「おい……ふざけるなよ」
 
 「なんも……だって、見なよ。アンタも、じじぃ〜、だと、思う? 思う、だろ?」
 
 「貴様……」
 
 「なん……ちゅうたか、な」
 
 「?」
 
 「ワシ……そう……めっせんが〜、だったか……」
 
 「めっせん……メッセンジャー?」
 
 「それ」
 
 「メッセンジャー……何だ、誰のだ? 俺にか」
 
 「だから、アンタに、話が、あるって……言ってる」
 
 「……言え」
 
 「言うんか」
 
 「おい」
 
 「言うよ……言う。焦るな、よ」
 
 老人は、呟いて、もう一度、笑った。
 
 
 
 信号は、既に青に変わっていた。
 
 熊谷の車以外に、走る車はない。
 
 気にするものか、と、熊谷は思う。
 
 
 
 老人は、口を噤んだまま、喋りださない。
 
 
 
 「……おい?」
 
 怪訝な表情で、熊谷は、老人に声を掛けた。
 
 
 
 老人は、一度閉じていた瞼を、開いた。
 
 「………」
 
 熊谷は、僅かに目を開く。
 
 先程までの、朴訥な表情と、違う。
 
 まるで別人のような眼光。
 
 
 
 『……熊谷、ユウ』
 
 老人の、小さく開いた口から、声が流れ出した。
 
 熊谷は、驚いて思わず身を引いた。
 
 地を這うような、声音の低さ。先程までの、危なっかしい抑揚さの欠片もない、地に足を降ろしたような、重厚な声。
 
 
 
 『熊谷ユウ……おまえは、我らの思想の先鋭となり、遥かなる未来の一部を担う道を選ぶか?
 
 その意志があるならば、おまえにその仕事を与えよう』
 
 「誰だ、アンタ……」
 
 老人の言葉に、熊谷は警戒レベルを最大級に上げた状態で、睨みながら呟いた。
 
 老人は、ぎょろ……と眼球を熊谷に向けて、口を開く。
 
 『我々は、人類補完委員会だ』
 
 「じん……」
 
 熊谷が、ぎょっとしたような表情で、目を見開く。
 
 もちろん、人類補完委員会の存在は知っている。ゼーレは完全秘密裏の組織だが、委員会なら、熊谷レベルの人間であればその存在くらいは知っていて当然だ。
 
 だが、熊谷も、委員会が深いところで何をしているのかなど知りようが無いことであるし、また今まで委員会と何らかの形で接触することなど有り得なかった。
 
 あくまで熊谷から見れば、委員会は「超上層部組織」なのである。
 
 
 
 『意志があるか否か?』
 
 老人は、変わらぬ表情で呟く。
 
 熊谷は、固まっていた。
 
 まさか、思いも寄らないアプローチだ。
 
 まして、委員会と接触する機会など、想像したこともなかった。
 
 「……何故、私、なんですか」
 
 熊谷は、尚も老人に警戒信号を発しながらも、口調を改めて尋ね返した。それくらいの予防線は、張っておいて当然だ。
 
 『条件に合う』
 
 「条件……とは」
 
 『我々の眼鏡に適う。それでは不満かね』
 
 「い……いえ」
 
 老人の、風体とは不釣り合いな眼光に、熊谷は思わず矛を収めた。
 
 
 
 老人は、視線を逸らすことなく、じっと熊谷を見つめている。
 
 『今一度だけ、問う。意志があるか否か?』
 
 「……ない……と、言えば」
 
 『これより先はなかったこととなる。我らのことも忘れてもらう。また、変わらず生きていくのみ』
 
 「………」
 
 『答えは如何』
 
 決まっていた。
 
 
 
 熊谷の答えに、麦わら帽子の落とす影の向こう側から、老人の瞳がぎょろりと光った。
 
 『では、指令を伝える』



四百六



 『……サードチルドレン、碇シンジ。この少年を一時的に足止めしてもらう』
 
 老人の口から出た指令に、熊谷は片方の眉毛を上げた。
 
 「……は? ……碇、シンジですか……」
 
 『そうだ。但し、幾つかの条件がある』
 
 「条件……」
 
 『我々の存在を知られてはならない。また、熊谷ユウ。おまえの存在もまた、然りだ。
 
 全て、秘密裏に行動せよ。誰の助けも求めてはいけない』
 
 
 
 老人の言葉に、とりあえず熊谷は頷いた。
 
 内容の詳細はともかく、誰か第三者に助けを求める気は、熊谷にはもともとない。
 
 老人は続ける。
 
 『碇シンジを足止めする期間は、明日、松代で行われるエヴァンゲリオン参号機の起動実験の開始まで。同時に、起動実験の開始と同時に、必ず碇シンジの身柄を自由にしておかなければならない』
 
 「起動実験……」
 
 『おまえの方から我々に連絡をとる必要はない。必要であればこちらから連絡する。
 
 今後も、我々の力になってもらう必要もあろう。そのためにも、我々とおまえとの繋がりは、一切を表に知られてはならん』
 
 言いながら、老人はズボンのポケットをまさぐり、小さな金属の箱を取り出した。
 
 
 
 ……手の平に載るほどの、武骨な四角い箱。
 
 その上面に、一つだけ、青いボタンがついている。
 
 老人は、それを載せた手を、熊谷の方に差し出した。
 
 
 
 『受け取れ』
 
 「?」
 
 
 
 怪訝そうな表情で、熊谷はその箱を受け取った。
 
 手許でくるくると回してみるが、その上面のボタン以外には、何の造作も無さそうだ。
 
 熊谷は、顔を上げて老人を見た。
 
 「……何ですか、これは?」
 
 『そのボタンを押すと、一時的にMAGIの機能を遮断することが出来る』
 
 「はっ……?」
 
 『勘違いするな……ごく、小規模なものだ。もちろんMAGI本体にそんなものは効かない……あくまで、末端の機構のみだ。
 
 だが、目眩しにはなる。
 
 有効に使え』
 
 
 
 熊谷は、老人の言葉に、思わずもう一度手許の箱を見る。
 
 MAGIの機能を、一時的に遮断する……
 
 ……記録機能を、解除する?
 
 
 
 『何か他に質問はあるか』
 
 老人が、呟くように、言う。
 
 熊谷は、慌てて顔を上げた。
 
 「あ……いや、あの……」
 
 『何だ』
 
 「あ……いえ、……別に」
 
 急な展開に、思考が若干の混乱をきたしている。それを、自覚することが出来る。
 
 何かを確認しなければいけないような気もするが、何を聞いていいのか、分からない。
 
 『では、行け』
 
 老人は、そう言って瞼を閉じた。
 
 
 
 熊谷は、次の言葉を継ぐことが出来ずに、老人の顔を見つめ続けていた。
 
 陽光の降り注ぐ中……熊谷と老人以外には、時折聞こえる蝉の鳴き声くらいしか、生き物の気配を感じられない。
 
 老人は、口を噤んでいる。
 
 熊谷も、どうしていいのか分からず、じっとしていた。
 
 
 
 そうして……30秒ほど経過し、熊谷は、おずおずと口を開いた。
 
 「あ……あの……」
 
 
 
 老人は、ゆっくりと瞼を開いた。
 
 
 
 「……あ……?」
 
 老人は、もごもご……と、咽の奥から言葉を発した。
 
 熊谷は、黙って老人を見続けている。
 
 老人は、熊谷の顔を見つめ返して、首を傾げた。
 
 「なん……なに、やっとんの、アンタ?」
 
 そして、きょろきょろ、と辺りを見回した。
 
 「あれ……ワシ、なんで、こんなとこ……おんの?」
 
 
 
 熊谷は何も言わずにウィンドウを閉じると、一気にアクセルを踏みしめた。



四百七



 熊谷は、唇を、真一文字に結んで前方を凝視していた。
 
 道路の左右に立ち並ぶ街路樹が、物凄い速度で後方に飛び退っていく。
 
 地べたまで完全に踏みしめたアクセルを通して、足の裏から、エンジンの胎動を感じる激しい振動が伝わってくる。
 
 
 
 熊谷の胸の裡は、真っ赤に燃え上がる炎が、弾けるように火の粉を散らして踊り狂っていた。
 
 
 
 狂おしいほどの躍動!
 
 
 
 細胞の核、その一つ一つが沸点を超えて弾け飛ぼうと蠢く。
 
 
 
 時間を置いて熊谷を襲う喜びは、久しく遠ざかっていた感覚だった。
 
 人類補完委員会……
 
 ……今までの熊谷には、及びもよらない存在。
 
 その組織から、自分が、直々に使命を受けたのだ。
 
 
 
 いつものように、顔面に貼り付けていたポーカーフェイスが、一瞬の隙を突いて剥がれ落ちそうになる。
 
 口許が、思わず笑みを浮かべて吊り上がり、慌てて押さえ込もうと試み……失敗。
 
 「……はは」
 
 熊谷の口から、小さな笑い声が漏れる。
 
 それは……最後の防壁を突破したように、一気に……顔中に、そして、全身に広がっていった。
 
 
 
 「……は……は……はははッ はッ! ははははははははははッ!!」
 
 
 
 途中から、熊谷は笑い声を堪えるのを諦めた。
 
 どうせ、誰が見ているわけでもない。
 
 この、今の物凄い喜びを、抑えることなど出来そうもなかった。
 
 熊谷は、アクセルを踏み込んだまま、大声で笑い続けていた。
 
 
 
 熊谷の全身を喜びに震え上がらせている要因は、幾つかある。
 
 どうすることも出来ないと思っていた怒りを、碇シンジにぶつけることが出来る名分を得たのが、まず一つ。しかしこれは、今になってみれば……その「怒り」自体、もはやさほど重要ではなくなってきている。
 
 あまりにも、今、得た新たな事態の重さが大きいからだ。
 
 また、いつかは自分自身の誇りを満足させる、大いなる評価や登用を得たいと思っていた熊谷にとって、NERVを一足飛びに飛び越えて、いきなり人類補完委員会から連絡を受けたことは、自尊心を満足させるのに十分すぎるほどだった。
 
 自分を完全に認めることのない、馬鹿な上層部……その者たちが愚かであり、自分は現在の待遇の何倍も優れている、と認められる、最高の証明と言えた。
 
 
 
 そして……何より、自分が、加持よりも上である、そのことの、証明。
 
 
 
 自分は、人類補完委員会に声をかけられた。
 
 彼らに、認められたのだ。
 
 加持ではなく、自分に声をかけたのだ!
 
 
 
 (やったぞ)
 
 ハンドルを両手でぎゅっと握りしめて、心の中で繰り返した。
 
 やった、やった……やった!
 
 やったぞ!
 
 
 
 加持には、今の自分では、敵わない部分が多くある。
 
 それは、認めよう。
 
 だが、加持の下にいる限り、いつまでも彼を抜くことなど出来はしない。
 
 (だが、俺は新しい展開を得た)
 
 (そうだ……)
 
 (あの男にはない、新しい何かが、始まる!)
 
 
 
 ……そのためにも、この任務を失敗するわけにはいかない。
 
 委員会から提示された条件は、簡単そうに見えて決して楽ではない。
 
 熊谷は、ハンドルを自分の家に向けていた。
 
 準備が、必要だ。
 
 
 
 (……一番簡単なのは、眠ってもらうことだ)
 
 熊谷は、心の中で呟く。
 
 脳細胞が回転する。
 
 熊谷クラスの諜報部員であれば、有事に備えて催眠薬の類いも持ち出して保管しておくことが可能だ。
 
 熊谷も、当然自室に厳重に保管してある。
 
 それを取って、また戻り……
 
 (時間は決して余裕があるわけではない。
 
 委員会から貰ったこの撹乱装置を使えば、碇シンジの居住するマンションに入り込むのは容易い。
 
 あそこの警備は、はっきり言って、ザルだ……前から苦々しく思っていたが、こうしてみると感謝だな。
 
 まず、碇シンジを眠らせて、それから連れ出すとするか。
 
 確か、碇シンジは葛城作戦部長と同居していたはずだ。三佐が戻ってくる前に、連れ出さないとまずい。
 
 両隣は、同じチルドレンが住んでいたな……彼らにも見つからないようにしなければいけない。必要ならば、それぞれも眠らせたほうがいいかも知れないな。
 
 目が覚めるのは、いつでもいい。
 
 とにかく、それまでに完全に軟禁できれば、後はいつ目を覚まそうが、放っておくことだ。
 
 翌日の……
 
 ……昼。
 
 ……それまで、扉を開けなければ……
 
 ……それで、いい)