第八十六話 「夕暮」
四百



 漆黒の床と、漆黒の天井。
 
 その双方に、同心円状の文様と、複雑に絡み合い枝分かれした不可思議な軌跡、そして数知れぬさまざまな経文が怪しく光っている。
 
 中央に真っ黒のデスク。
 
 ゲンドウは、そのデスクの向こうに座り、肘をついたまま両手を口許に合わせている。
 
 横には、後ろ手に両手を組んで、冬月が立つ。
 
 
 
 ゲンドウのデスクから、2メートルほど離れた場所で、リツコが書類を片手に立ち、二人に対峙していた。
 
 
 
 「……赤木博士。詳しい話を、もう一度聞かせてもらおう」
 
 冬月が、淡々とした口調で、言葉を紡いだ。
 
 リツコは、表情を変えることなく、視線だけ、僅かに伏せる。
 
 「既に、昨日書面にて提出してある通りです」
 
 「君の口から聞きたい」
 
 「………」
 
 「正直に言わせてもらえば……これで納得しろというのは、虫のいい話ではないかね。
 
 君も、自分で、そう分かっているだろう。
 
 赤木君。君の言葉で、もう一度、正確な報告が聞きたい。我々の質問にも、答える義務がある」
 
 
 
 「……分かりました」
 
 静かな……ゲンドウ達の耳には届かぬような、微かな溜め息を漏らした。
 
 
 
 冬月は、直立不動の姿勢のまま、口を開いた。
 
 「まず……改めて、最初から確認させてもらう。
 
 我々が赤木博士に出した指令は、パイロット候補生を選出すること。
 
 ……ひいては、そのために必要な手段として、候補生の近親者の魂を参号機のコアにインストールすること、だった筈だ」
 
 「………」
 
 「赤木博士……君は、この鈴原トウジという少年を、候補生として選んだのではなかったのかね」
 
 「そうです」
 
 「では……なぜ、みすみす、鈴原ミドリを帰してしまったのかね?」
 
 「積極的に退院を促したわけではありませんが、患者本人の希望でしたので。技術部としては、別段、彼女を拘束する必要はないと判断し、退院を許可したまでです」
 
 「そこを聞きたい。
 
 鈴原ミドリの魂……鈴原ミドリの命が、必要だったのではないのかね」
 
 「……いいえ。必要ありません」
 
 「何故だ? 今、参号機のコアには、魂はインストールされていないのかね」
 
 「いいえ。鈴原ミドリの魂が、インストールされています」
 
 「しかし、鈴原ミドリは生きている」
 
 「はい。
 
 ……実験を兼ねている、と、申し上げるべきかも知れません。
 
 参号機のコアにインストールしてあるのは、鈴原ミドリの魂そのものではありません。
 
 鈴原ミドリのパーソナルパターン……鈴原ミドリの、ダミーです」
 
 
 
 冬月は、僅かに眉を上げてリツコを見た。
 
 ゲンドウは一見、感情の動いたような素振りを見せないが……そのサングラスと、組んだ手の向こう側で、どのような表情をしているかは窺い知れない。
 
 
 
 冬月は、目頭に小さな皺を寄せて……リツコの瞳を見据えるように、目を細めた。
 
 「……ちょっと、待ちたまえ。
 
 ダミー……鈴原ミドリの、ダミーかね?
 
 コアに……そんなことが可能なのかね」
 
 
 
 「正直に申し上げれば、成功するという確証があるわけではありません」
 
 リツコは、小さく、首を左右に振る。
 
 「しかし、理論的には可能ではないでしょうか。
 
 エヴァンゲリオンにとって、コアにインストールしてある魂は、本物である必要など、ない筈です。
 
 要は、パイロットと『一対一対応』であれば、構わない。その為には、コアにインストールされた魂が本物である必要はありません。それこそ、コアとパイロット、その双方がダミーであってもいいくらいなのです」
 
 「しかし、安全の保障もないのだろう?
 
 危険なのではないか。エヴァが暴走するようなことはないのかね。
 
 無理して実験などせずとも、鈴原ミドリの魂をインストールしてしまえば、済む問題だと思うのだが」
 
 「目の前の起動実験だけを見るならば、そうかも知れません。
 
 しかし、ここでダミーによる起動実験に成功すれば、今後のエヴァの量産に、非常に役立ちます。わざわざ、危険を冒してパイロットの近親者を殺すような必要が無くなるのですから。
 
 それに、候補生の適性実験も手軽です。候補生を選び出すたびに、人間を一人殺していたのでは、埒があきません」
 
 
 
 執務室の中は、まるで毒素が混じったような空気が、充満していた。
 
 毛穴が、ぴりぴりと弾けて開く感覚。
 
 同時に、身体の芯が氷のように、冷え切っていく感覚。
 
 
 
 だが、リツコには、それを嫌だと感じる気持ちはなかった。
 
 この空気は、自分には……自分たちにはふさわしい、と思って心の中で自嘲する。
 
 
 
 「……ダミーシステムは、完全ではない」
 
 ……突然、それまでずっと口を閉ざしていたゲンドウが、言葉を発した。
 
 地を這うような、声音の低さ。
 
 リツコは、ただ、視線を冬月からゲンドウに移動した。
 
 見つめるその先には、自分に視線を注ぐ瞳があるはずなのだが……サングラスの向こう側に、その姿を認めることは出来ない。
 
 
 
 ゲンドウは、言葉を続けた。
 
 「……レイを基準としたダミーシステムの開発に、これだけの技術と時間を費やし、まだ完成に至らないのが現状だ。
 
 一晩の、パーソナルパターンの抽出で、使用に耐えうるレベルに到達しているとは思えん」
 
 
 
 リツコは、目を閉じた。
 
 当然のごとく……言われるだろう、と充分予測できた質問だった。
 
 ゆっくりと、目を、開く。
 
 
 
 「……同じダミーシステムでも、ダミープラグ用とコアへのインストール用では、おのずと求められるものは異なります。
 
 コアにインストールされる魂は、エヴァとパイロットとの間を繋ぐ掛け橋であり、そこに自主性が求められているわけではありません。
 
 エヴァの物理的な神経系と、パイロットの思考……その双方の中立ちとして、精神的な存在が必要なだけで、この精神は独立思考する必要はないのです。
 
 ダミープラグは違います。あれは、エヴァの操縦自体をパイロットに成り代わって行うわけですから、それらの各種判断が可能な思考が必要です。また、コア側が、パイロットを認識するためにも、コアから見て人間と勘違いするだけの精巧さが求められます。
 
 コアは、そこまで精巧である必要はありません。エヴァ自体には、コアの魂が本物か偽物かを判断するような思考は存在しませんし、パイロットにしても、パイロット側から歩み寄って魂が本物かどうかを判断するようなステップはありませんので」
 
 
 
 ……滔々と、理路整然とした説明をして、リツコは言葉を切った。
 
 
 
 ゲンドウも冬月も、押し黙ったまま、答えない。
 
 三人の間には、冷え切った、鋭利な刃の山が、それぞれの心臓に向けて乱立しているかのようだ。
 
 リツコは穏やかな面持ちで、ゲンドウの眼鏡の向こう側を見つめていた。
 
 気負いもせず、畏れも抱かない。
 
 ただ、毅然としていた。
 
 
 
 ややあって……冬月が、小さく、溜め息をついた。
 
 微かに、肩を竦めるような動作をしてみせてから、顎を上げてリツコを見た。
 
 「分かった。
 
 赤木博士、君の意欲と行動理念を尊重しよう。
 
 まずは、目前の起動実験だな……あれがうまくいけば、杞憂はなくなる。
 
 ……フォースチルドレンは、パイロットになることを了承したかね?」
 
 リツコは、無表情のまま、頷く。
 
 「はい。今日の昼に、本人から了解を得ました」
 
 「起動実験は、明日だったな」
 
 「私は実験準備のために、今晩のうちに松代に移動します。本部からは、他に葛城三佐が明日早朝に現地に移動、残りのスタッフは松代の職員が担当します。
 
 フォースチルドレンは、明日の昼までに現地に入り、一四〇〇から実験開始を予定しています」
 
 「うむ。詳細は報告を受けている。準備に当たってくれたまえ」
 
 「はい、失礼します」
 
 リツコは目を瞑って軽く頭を下げると、脇に抱えた書類に手を添えて、きびすを返した。
 
 ヒールの音を響かせて歩いていくと、やがて音もなくその姿は闇の中に消えた。
 
 
 
 執務室に残ったのは、ゲンドウと、冬月の、二人のみ。
 
 
 
 冬月は、小さく溜め息をついて、視線を横に座るゲンドウに向けた。
 
 「いいのか?」
 
 呟くように尋ねる。
 
 
 
 「……構わん。彼女がいいというのならば、口を挟む問題でもない」
 
 ゲンドウは、姿勢を変えることなく……ただ、それだけ、応えた。
 
 冬月は体をひねって、ゲンドウの方に向き直る。
 
 
 
 「結果が良しならば、それでよし、というわけか。
 
 整然とした意見に惑わされそうだが、彼女が犯したのは、間違いなく規律違反だ。何か、我々の下した命令に従えないような意見があるのであれば、それはそれで、事前に報告をするのが筋というものではないかね?
 
 彼女の独断専行で、重大な実験の根幹を左右されるのは、いい傾向とは言えんな」
 
 
 
 「赤木博士は尊重に値する」
 
 「それは、盲信というものだよ」
 
 「彼女に全権を渡しているわけではない。
 
 成功すれば、それでいい。
 
 プロセスは問題ではない」
 
 
 
 「失敗すれば?」
 
 
 
 「……彼女が、その責任を負うだけだ」
 
 ゲンドウは、それだけ呟いて、口を閉じた。
 
 
 
 下降するエレベーターの中で、リツコは、ただ……回転する表示板を見つめていた。
 
 一定のリズムを刻む無機質なメトロノームは、リツコを自らの思考の中に埋没させていく。
 
 
 
 ……先程、自分の口から紡ぎだされた理論は……完璧な、口からの出任せだった。
 
 もちろん、全くの嘘八百ではない。
 
 だがそれは、後から考えたこじつけの理論であり、実際にそのようなメカニズムが働いているかどうかはリツコにも分かってはいなかった。
 
 
 
 リツコが、鈴原ミドリの魂そのもののインストールを拒み、場当たり的なダミーの採集にとどまったのは、思えばシンジの顔がちらついたからに他ならない。
 
 鈴原ミドリを、コアに魂をインストールするという目的で、殺すこと。
 
 それを、シンジに悟られずに行えるとは、到底思えない。
 
 シンジがそれを知り……なお、自分たちに協力してくれるとは考えにくかった。
 
 
 
 何より……シンジがその懐に隠し持つ、得体の知れない、刃。
 
 全くの憶測でしかないのだが……まるで、シンジがその刃を振るえば、この世に敵うものなどいないような錯覚に捕らわれる。
 
 シンジ自身、その刃の振り方に気付いていないだけか。
 
 あるいは、はっきりとその力の大きさを知りながら、敢えて鞘に収めているだけか。
 
 
 
 ……いずれにせよ、シンジを敵に回して、ただで済むとは思えなかった。
 
 それが、鈴原ミドリを殺さず、敢えて危険を冒しながらもダミーのインストールという手段に出た、おおまかな理由だった。
 
 
 
 ……実際には、そのようなロジカルな判断以外に、リツコ自身にも説明のつかない、もやもやとした感情がある。
 
 リツコは、その感情を整理するのを嫌った。はっきりとした根拠の見出せないような感情を、表にあらわにして検討するのを躊躇う。
 
 その……まるで、「シンジに嫌われたくない」とでも言うような、子供じみた感情を、リツコは、静かに隠蔽していく。



四百一



 冬月は、微かな溜め息をついて、リツコの消えたあたりを見つめていた。
 
 ゲンドウは、ただ、無言で動かない。
 
 カッ……と音を立てて冬月は一歩、歩み出ると、そのままゲンドウの座るデスクの前に移動した。
 
 
 
 冬月は、机の上にある小さなボタンを叩く。
 
 ホログラムのように、二人の間に薄いスクリーンが浮かびあがった。
 
 ……向こう側の漆黒が透けて見えるその画面には、オレンジ色の光に浮かび上がった部屋が映し出されている。
 
 
 
 「……計画は、大幅に狂ったな」
 
 画面を見つめながら、冬月は呟く。
 
 「どうするつもりだ? これで、レイに無理はさせられなくなった」
 
 
 
 ゲンドウは、じっと、そのホログラムを見つめていた。
 
 オレンジ色の部屋……
 
 ……クローン再生工場。
 
 
 
 本来、無数の「綾波レイ」が浮かんでいるはずの水槽には、今や、何もいない。
 
 
 
 「……MAGIの記録は消去されていた」
 
 冬月は、重々しい口調で続ける。
 
 「時刻については、ごく……おおまかな特定は出来るが……結局、誰がクローンの破壊を行ったのかは、不明なままだ。
 
 バルブを開放したためにクローンが破壊されたことも分かっているが、バルブの表面は錆が荒れすぎていて、そこから指紋も検出できない。
 
 内部の人間の犯行か、それとも、何らかの組織によるものか……」
 
 
 
 「……さしあたり……ダミーは一応の完成を見た」
 
 ゲンドウは、低い声で、呟く。
 
 冬月は、視線をスクリーンからゲンドウに移した。
 
 ゲンドウは、じっと……画面に映る、空の水槽を見つめている。
 
 
 
 「レイ、本人が実験に参加しない以上、最高の状態とは言い難い。
 
 だが、クローンを使用して出来うることは、既に完全だ。
 
 この先、ダミーをより完成に近づけるにはレイ本人が必要であり、クローンに用はない」
 
 「ダミーシステムについてはそうかも知れんが……」
 
 冬月は渋い顔でゲンドウに問い質す。
 
 「レイ自身の代わりがいない、というのは大きいぞ。
 
 正直に言って、シンジくんやアスカはどうでもいい。だが、レイが補完計画の時にいないわけにはいかんのだ。
 
 今まで、失敗すれば死ぬかも知れんような作戦にも、均等にチルドレンを割り振ってきた。だが、今後、ともかくレイに危険な真似はさせられん」
 
 「扱いは変えられない」
 
 「言いたいことは、分かるがな……」
 
 「……レイに危険が及ぶ時には、シンジがレイを護るだろう」
 
 
 
 ゲンドウの言葉に、冬月は、小さく眉毛を上げた。
 
 「……信用しているのか? 彼を」
 
 「いや」
 
 冬月の疑問符を、ゲンドウは短い言葉で受け流す。
 
 「だが、シンジはレイが傷つくのを耐えられまい。
 
 シンジが、レイを護ろうとする……それは信用してもいい。
 
 ……シンジがレイを護るというのならば……最大限に、利用させてもらおう」



四百二



 「戻ってこなかったわね」
 
 午後の道を、学生鞄を片手に歩きながら……アスカは、軽い口調で呟いた。
 
 「え? ……ああ、鈴原?」
 
 「そ」
 
 ヒカリが尋ねると、アスカは前を向いたまま頷く。
 
 
 
 午後の授業は、滞りなく2限を終了し、今は放課後となっていた。
 
 トウジの荷物が残ったままだったのでヒカリは少しの間教室で待っていたのだが、様子が気になって職員室に行くと、「既に帰った」とだけ聞かされた。
 
 驚いたが、そうであれば待っていても仕方がない。
 
 ヒカリの手には、右手にヒカリの鞄、左手にトウジの鞄……
 
 ……これから、トウジの家に行くつもりだった。
 
 
 
 「アイツも、一言くらい、恋人に声を掛けて行きゃぁいいのにねぇ」
 
 「こっ……」
 
 「冷たいじゃん。ないがしろにされてるぅ、とか、思わないわけ?」
 
 「い……え、いや、それは……別に……事情が、あるんだろうし」
 
 「どんな事情が、恋人に優先するってのよ」
 
 「その……あ、あたしたち、恋人同士ってわけじゃ……」
 
 「恋人同士じゃなきゃ何だっつのよ」
 
 「……と……友達、かな……あはは」
 
 「あははって、アンタねぇ……」
 
 アスカは、やれやれと肩を竦めて、天を仰ぎながら大袈裟に溜め息をついてみせた。
 
 ヒカリは、頬を染めて小さくなる。
 
 「だ……だって」
 
 「だって、ナニよ」
 
 「でも……だって……」
 
 「なに?」
 
 「………」
 
 「ヒカリ」
 
 「……だって……鈴原……何も、言わないし」
 
 「………」
 
 「……わ……わた、私だって……鈴原と、その……その……そういう風に、なりたいとか、思うけど……
 
 ……でも、今のままでもいいの」
 
 「……良くないでしょ?
 
 恋人同士になりたいんじゃ、ないの?」
 
 「……なりたい……けど……」
 
 「レイを見習ったら?
 
 あそこまで、あけっぴろげになるなんてヒカリには不可能でしょうけど、それくらい積極的でも、鈴原には丁度いいかも知れないわよ」
 
 「………」
 
 「鈴原が、何か言ってくれるの……待ってたって、埒があかないわよ」
 
 「……でも」
 
 「今のままでいいの?」
 
 「……でも……怖いもの」
 
 
 
 風が、アスカとヒカリの前髪を揺らして過ぎ去っていった。
 
 
 
 いつの間にか、二人とも道端で立ち止まっている。
 
 アスカは、じっと、ヒカリの顔を見ていて……ヒカリは、僅かに悲しげな表情で、俯きながら微笑んでいた。
 
 
 
 「怖いの……それは。
 
 ここから……一歩、踏み出すのは……怖いわ」
 
 「……何が、怖いのよ……アンタたち、もう、傍から見てたら恋人同士以外の何者でもないわよ。……呼び名が、変わるだけ。今更、何が違うって言うの?」
 
 「違うわ……それは、違うの。
 
 呼び名が変わるだけじゃない。
 
 私たちは、あくまで……まだ、恋人同士じゃないの。それは、私たちにしか、分からないのかも知れないけど……。
 
 ……鈴原の、本当の気持ちを知るのは、怖い。
 
 ……きっと鈴原は、今の状況は心地いいと思ってくれていると思う。一緒にいて、分かるわ。鈴原は、本当に、楽しんでくれてる。
 
 でも……恋人同士になったらどうか、分からない、とも思うの。鈴原は、今の、どっちとも言えない関係だから、まだ軽くつきあってくれているのかも知れない。
 
 本当の恋人同士になってしまったら、いろんな覚悟が必要になるわ。
 
 鈴原は、その覚悟と引き換えにするほど、私を好きでいてくれてるのか、分からないもの」
 
 
 
 アスカは、ただ黙ってヒカリの横顔を見つめていた。
 
 ……アスカから見れば、それは考えすぎだと思える。
 
 少なくとも、今のトウジの様子を見ているかぎり、改めてはっきりと「恋人」という関係になったからといって、今の態度を変えるとは思えない。
 
 第三者が客観的に見るだけでなく、きっとトウジ自身も、今の関係を「恋人同然」であると認識しているだろうし……それが分かっていながらよそよそしい接し方にならない彼が、表面的な変化で態度を変えるような気はしない。
 
 
 
 だがそれは、あくまでアスカから見た印象だ。
 
 例えば、恋人同士にとって恐らく一番素顔の状態でいられる、「二人きり」の姿。
 
 今、トウジとヒカリが、二人きりでどんな話をしているのか、当然アスカは知らない。
 
 それを知らない以上……今の二人が恋人同士同然である、というのはあくまで部分的な印象に過ぎず、結局それを決めるのはトウジとヒカリに限られてしまうのだ。
 
 
 
 「……まぁ……いいけど、さ」
 
 アスカは、溜め息混じりに呟いた。
 
 ヒカリは、少しだけ困ったような表情で、微笑む。
 
 「ごめんね、アスカ」
 
 「いいわよ。……アンタたちが、決めることだし」
 
 
 
 正直なところ、相談に乗ったり忠告や助言は出来ても、それは軽い言葉だ……と、アスカはどうしても思ってしまう。
 
 自分に、愛だの恋だのといった経験がないからだ。
 
 世間一般の夢見る女子中学生のような、恋に恋するような感覚は彼女にとって最も避けて通りたい道ではあるが、それはともかくとして、アスカは知識と常識以外に裏打された言葉を紡ぎ出せない。
 
 
 
 ヒカリのように……どう見ても恋人同士のようでありながら、やはり嫌われるのが怖くて最後の一歩を踏み出せない感覚が、わからない。
 
 トウジのように……どう見ても恋人同士のようでありながら、彼女を安心させる一言がどうしても口に出せない気持ちが、わからない。
 
 レイのように……誰もが死んだと思うような場面でも、恐怖に震える身体を押さえ込んでまで信じられる強さが、わからない。
 
 シンジのように……ただレイのために揺るぎない心を持ち、極限まで慈しむことの出来る想いが、わからない。
 
 
 
 理解は出来る。
 
 恋人とはそういうものだ。愛とはそういうものだということは、否定するでもなく、重々理解できているつもりだ。
 
 だが、感覚の共有は出来ない。
 
 自分に、いつか……もしも、もしもだが、恋人が出来たとしても……同じように、そのパートナーのことを想えるか。
 
 その自信はない。
 
 
 
 自分を冷たい人間だと思うわけではないが、このことに関してはロジカルだと、自己分析してしまう。
 
 
 
 「鈴原のとこに行くんでしょ」
 
 アスカは、右手に持っていた鞄を左手に持ち替えながら、軽い口調で言う。
 
 「うん……戻ってこなかったから、ちょっと心配だし……鞄も届けなくちゃいけないから」
 
 ヒカリはそう言って、手に持ったトウジの鞄を少しだけ持ち上げて見せた。
 
 「そっか……じゃあ、アタシは家に帰るかな。ラブラブバカップルの邪魔でもしてくるわ」
 
 「……うん、わかった」
 
 アスカが「やれやれ」という口調で言う言葉にヒカリは苦笑して頷く。
 
 「……それじゃ、アスカ。また明日、学校で」
 
 「うん、また明日」
 
 二人は手を振ると、別れ道でそれぞれ違う方向に足を踏みだしていった。



四百三



 アスカと別れたヒカリは、一度立ち止まり……手に持っていたトウジの鞄のバンドを肩に掛け直すと、気を取り直したように歩き出した。
 
 
 
 トウジは、どうして戻ってこなかったのだろう?
 
 歩きながら……ヒカリは、心配そうに表情を曇らせる。
 
 大体にして、校長室に呼び出される……ということ自体、大仰な話である。
 
 比較的トウジと一緒にいる時間の長いヒカリにも、何故トウジが呼び出しを受けたのか、見当はつかなかった。
 
 
 
 普通に考えても、何か……悪戯やふざけが過ぎて呼び出しを喰らう、などと言う場合、せいぜい職員室で絞られるくらいが関の山だ。
 
 ……と、考えると……呼び出しを受けたのは、むしろ怒られたりするためではなく、何か通達事項があったのだろうか、と、思える。
 
 
 
 事情を全く知らないヒカリにとって、最初に思い付いた懸念は「トウジの家族に何かあったのでは」というものだ。
 
 老齢、というにはまだ少しある気がするが、トウジの祖父も現役を退いて幾年か経過しているし、ミドリは退院したばかりで予後に不安が残っていたのも事実だ。トウジの父も、会ったことはないがNERV勤務となれば危険と縁遠くはないだろう。
 
 誰かが亡くなった……とまではいかないにしても、負傷を負ったり、もしくは病気になったりして、入院……ともなれば、トウジも慌てて帰宅したのかも知れなかった。
 
 
 
 ヒカリの足取りは、自然と速くなっていく。
 
 
 
 トウジの家には、数回、訪れたことがある。
 
 ミドリのことは当然として、トウジの祖父についても、もう知らない人間ではない。
 
 トウジの父についても、例え本人に会ったことがなくとも、トウジの不安を思えば一刻も早く側に着きたい思いは募った。
 
 
 
 トウジの家に向かう、その途中。
 
 ヒカリは足早に辻を曲がると、急に、その歩みを止めた。
 
 
 
 夕日が、歩道に長く街路樹の影を落とす。
 
 車などろくに通らないような細い住宅街の、道の両側に白いガードレールが申し訳程度に続いている。
 
 以前事故でもあったのだろうか、鉄柱のうちの一本が、ひしゃげて白いペンキが剥げ落ちている。
 
 
 
 トウジは、その鉄柱に腰を下ろしていた。
 
 
 
 トウジから数メートル離れたところで、ヒカリは、立ち止まっていた。
 
 時折吹く風が揺らす、並木の葉のざわめき以外、耳に届く音はない。
 
 曲がり角に来る前の、駆けてくるヒカリの足音は、トウジには聞こえなかったのだろうか? じっと、両足を投げ出すようにして座る彼は、目の前のアスファルトを見つめたまま動く気配がなかった。
 
 あるいは、耳に入ってくる音など、何も気付いていないのかも知れない。
 
 
 
 ヒカリは、トウジの表情を見て、不謹慎ながら思わず頬を染めた。
 
 憂いをたたえたような、その奥を窺い知ることの出来ない深いトウジの表情は、ヒカリが初めて見るものだった。
 
 何だろう。
 
 急に、トウジが、何歳も年を重ねたような、そんな錯覚に捕らわれる。
 
 
 
 何も、変わっていない。
 
 今朝は、いつものトウジだった。
 
 それから、今までの間に……何も、変わってはいないはずだ。
 
 そう、思って、ヒカリはそっと拳を握り締めた。
 
 
 
 数度、呼吸して。

 
 
 「……鈴原」
 
 
 
 ヒカリの声に、トウジは初めて、顔を上げた。
 
 トウジの耳に音は届いている、と気付いて、ヒカリは思わず安堵してしまう。
 
 「……いいんちょか」
 
 トウジが、背中を伸ばしながら呟くのを聞きながら、ヒカリは彼の許に駆け寄っていった。
 
 
 
 すぐそばまで来てトウジを見下ろすヒカリに視線を向けながら、トウジは、後頭部を掻いて不思議そうな表情を浮かべてみせた。
 
 「なんや……こっち、いいんちょの家と、ちゃうやろ。どないしたんや?」
 
 「鞄」
 
 「ん?」
 
 「鈴原、鞄……置いていったでしょ。持ってきたの」
 
 「……ん……おぉ、ワシの鞄か? あぁ……せや……持ってへん。気ぃつかんかった……おおきに、スマンな」
 
 トウジは、そう言いながら、まるで自分のことだと思っていないような……現実感のない表情で、ヒカリの手にある鞄を見る。
 
 ヒカリは、不安そうにトウジの顔を覗き込んだ。
 
 「……気が付いて、なかったの?」
 
 「……あぁ……スマン」
 
 「う、うぅん、それはいいんだけど、別に……でも……どうしたの?」
 
 「………」
 
 「……何か……あった?」
 
 「………」
 
 
 
 「……言いたくないなら……いいんだけど」
 
 
 
 ヒカリは、俯き……少しだけ寂しそうな表情で、微笑んだ。
 
 
 
 トウジは、顔を上げてヒカリを見る。
 
 「あ……いや……ちゃうんや」
 
 困ったような表情を浮かべて、トウジは頭を掻いた。
 
 「なんちゅうか……う〜ん……現実のことやない気がしてな……どう、説明したらええんか……」
 
 「……?」
 
 トウジの言葉に、ヒカリは怪訝な顔をして小首を傾げる。
 
 トウジは、苦笑して目を瞑ると、ジャージの尻を叩きながら立ち上がった。
 
 
 
 ヒカリは、立ち上がるトウジの顔を追って、視線を動かした。
 
 並んで立つと、トウジは、頭半分ほどヒカりより高い。
 
 トウジは振り向いて手を伸ばすと、ヒカリの手から自分の鞄を受け取った。
 
 「あ……」
 
 「おおきにな、いいんちょ」
 
 トウジは、そう言って、微笑む。
 
 ヒカリは、何も言えなかった。
 
 何も……聞けない。
 
 
 
 「いいんちょ……ワシ、明日、ちょっと学校休むワ」
 
 「え……あ、う、うん」
 
 「ケンスケ……言っといてくれるか」
 
 「あ……うん、わかった……けど……」
 
 どうして休むの?
 
 
 
 聞きたい。
 
 
 
 聞きたいのに、聞けない。
 
 それに……
 
 
 
 些細な……違和感。
 
 何故……相田君だけ?
 
 他のみんなは?
 
 他のみんなには、伝えなくていいの?
 
 
 
 どうでもいいことなのかも知れない。
 
 ただ、偶然……相田君の名前が、出ただけなのかも、知れない。
 
 
 
 でも……
 
 
 
 相田君が……何か、特別なのだろうか?
 
 それとも……
 
 
 
 ……それとも
 
 
 
 「帰ってきたら、話すワ……いいんちょ」
 
 トウジの言葉に、ヒカリの思考は分断された。
 
 ヒカリの網膜に映るトウジは、微笑んで……オレンジ色の夕日の中で、ただ、ヒカリに微笑んでいた。
 
 ヒカリは、半歩、足を出す。
 
 「……帰ってきたら……って、どこかに、行くの?」
 
 「明日だけや。ちょっとな……半日くらい」
 
 「……どこに?」
 
 「ん……松代や」
 
 「松代? ……長野の?」
 
 「そう、やな……まぁ、ヤボ用やな。実際、夜には帰ってきとんのや。何なら、晩に電話したってもええで」
 
 「あ……うん……う、嬉しい……けど」
 
 「ほんなら……明日な」
 
 「……あ」
 
 急に、トウジは話を切り上げるようにして、きびすを返した。
 
 ヒカリは、もう半歩……慌てたように、足を出す。
 
 トウジは肩に荷物を背負うと、ヒカリに背を向けて歩き出した。
 
 
 
 ヒカリの心臓が、急に、掴み上げられるように動悸を増した。
 
 トウジの背中に、駆け寄りたくなる自分を、必死に押しとどめた。
 
 
 
 声を、上げる。
 
 
 
 「……すずはらっ! ……明日ねっ……!」
 
 
 
 トウジの背中にかけた自分の声は、ちゃんと、届いただろうか?
 
 トウジは、振り返らなかった。
 
 ただ……
 
 ……少しだけ、右手を挙げて。
 
 
 
 その右手が、オレンジ色に染まっていた。