第八十五話 「怒り」
三百九十七



 腕組みをしたまま自分を見つめるブロンドの美女を、トウジは、呆気にとられたような表情で見つめていた。
 
 
 
 記憶が鮮明ではないが……この女性とは、一度会ったことがある。
 
 朧げな記憶を辿れば……それは確か、ミサトの昇進パーティーの席ではなかったか?
 
 はっきり言って、あの時の会話の内容までは何も思い出せない。だが、この女性がNERVの職員……しかも、ミサトと肩を並べるような地位に就いていることには、かろうじて覚えがある。
 
 
 
 リツコは、暫く、何も言わずに……ただ、じっと、トウジを見つめていた。
 
 
 
 トウジは、居心地が悪そうに、視線を漂わせた。
 
 妙に、かさついた空気が充満した、部屋。
 
 まるで煙草の煙に巻かれたような空気の悪さを感じる。
 
 
 
 ……なんだろう?
 
 
 
 ……この女性は、何の用で、自分を呼びだしたのか?
 
 
 
 すぐに考え付くのは、シンジに関する話ではないかということだ。
 
 シンジについて、何か……本人ではなく友人の口から、聞きたいことがあるのかも知れない、と思う。
 
 が……
 
 ……どちらにせよ、向こうから何か、話しかけてもらわないことには……どうにもならない。
 
 
 
 窓からの陽の光を背にして立つリツコは、口を結んだまま、感情の読み取れぬ視線をトウジに注いでいた。
 
 まるで、マネキン人形ではないかと錯覚するほどに、微動だにしない。
 
 ……だが、その身体から静かに漂い広がる威圧のオーラは、そんな筋違いな印象を許さなかった。
 
 
 
 ……そうして……裕に5分は経過しただろうか。
 
 トウジに視線を注いだまま、全く動かなかったリツコは、ゆっくりと……口を開いた。
 
 
 
 「鈴原……トウジくん」
 
 
 
 「は……はぁ」
 
 呼びかけられて、トウジは、おずおずと返事を返した。
 
 校長室に入ったときに、一度だけ呼びかけられた言葉と、ろくに変わっていない。
 
 
 
 リツコは、白衣の内ポケットから、一枚の紙片を取り出した。
 
 それを、そのままトウジの方に差し出す。
 
 トウジは、心許ない目つきで、上目遣いに一度リツコを窺ってから……おずおずと、両手を伸ばしてその紙を受け取った。
 
 
 
 見ると、それは、何の変哲もない一枚の名刺だった。
 
 縦向きにした状態で、右上肩に赤いNERVのシンボルマーク。
 
 左下に、住所や電話番号が記載されているが、これは本当のものなのかどうかトウジには分からない。
 
 中央に、「特務機関NERV本部 技術一課 赤木リツコ」と、明朝体で印刷されている。
 
 
 
 トウジは、一通りその文章を目で追ってから、顔を上げた。
 
 リツコと、目が合う。
 
 リツコは、冷ややかな視線を注いだまま、事も無げに口を開いた。
 
 「以後、よろしく」



三百九十八



 上手く返事をすることが出来ずに、ただ……ぼけっと立ち尽くすトウジを気にする様子もなく、リツコは、髪の毛を右手でかき上げてから部屋の中をゆっくりと歩き始めた。
 
 カツ、カツ、カツ……
 
 静かな空間の中で、リツコのヒールだけが、耳障りな音を立てる。
 
 トウジは、どうしていいのか分からずに、その姿を目で追い続けた。
 
 
 
 「……シンジくん」
 
 急に、リツコが、呟いた。
 
 丁度、トウジの前を通り過ぎ……トウジに背中を向けた状態だ。
 
 
 
 「は?」
 
 リツコの口から急に出てきた友人の名前に、トウジは、思わず問い返す。
 
 そのままリツコは、黙って立ち止まり……少しだけ、身体を捻じって振り返った。
 
 「……今日のこと……シンジくんから、あなたは、何か聞いているかしら」
 
 「は……今日のこと……っちゅうと……」
 
 「今、こうして、呼びだされていることよ」
 
 「ああ……いえ」
 
 リツコの言葉に、トウジは、一瞬視線を空中に漂わせ……それから、かぶりを振った。
 
 「第一、シン……碇君は、今日は欠席ですワ」
 
 「欠席? ……何故?」
 
 「惣流さんは、風邪や言うてました。綾波さんも休みです」
 
 「風邪? ……そう……」
 
 そう告げるトウジの言葉に、リツコは、少しだけ考え込むように、視線を伏せた。
 
 
 
 空気が、悪い。
 
 ……トウジは、そう、感じる。
 
 窓から差し込む光が、舞い上がる埃にまみれて、幾筋もの帯になって見える。
 
 初夏の暑さを思わず忘れるような、冷たい、光だ。
 
 
 
 数秒の間沈黙した後、リツコは、カツッ……とかかとを音立てて、トウジの方に向き直った。
 
 「あまり時間がないから、手短に、用件を伝えるわね」
 
 「……は、ハイ」
 
 思わず姿勢を正す、トウジ。
 
 
 
 リツコは、一度、言葉を切って……じっとトウジを見つめた後、ゆっくりと、口を開いた。
 
 
 
 「……鈴原トウジ君。
 
 あなたにエヴァンゲリオン被験者兼パイロットとして、その任務に就くことを要請します」
 
 
 
 ……トウジは、ただ……ぼーっとした表情で、リツコを見つめていた。
 
 
 
 ……裕に、30秒は経過しただろうか?
 
 「……は?」
 
 トウジは、気の抜けたような声を、出す。
 
 
 
 リツコは、トウジの前に立ったまま、表情を変えることなく、言葉を紡ぐ。
 
 「フォースチルドレン、と……言うことになるわね」
 
 「は……あ、あの……」
 
 「意味が、わからない?」
 
 「あ……あ、あぁ、イエ、あの……」
 
 「シンジくんや、アスカや、レイと同じよ。
 
 ファーストチルドレン、綾波レイ。
 
 セカンドチルドレン、惣流アスカラングレー。
 
 サードチルドレン、碇シンジ。
 
 フォースチルドレン、鈴原トウジ」
 
 
 
 ……ややあって……トウジの脳髄は、ようやく、リツコの言葉の意味を、正確に把握した。
 
 
 
 慌てたように、トウジは口を開いた。
 
 「え……そ、それって、ワシがエヴァのパイロットっちゅうことですか?」
 
 「そう、言ったでしょう?」
 
 リツコが、応える。
 
 困惑した表情を浮かべながら、トウジは、呆然と立ちすくむ。
 
 
 
 「……な……なんで……」
 
 「不思議?」
 
 呟くように漏れたトウジの言葉に、リツコは、静かに問い返す。
 
 トウジは、ぎこちなく、頷いてみせた。
 
 「や……やっぱ、エヴァのパイロット言うたら、運動神経も抜群で、頭もいいヤツがなるんと違うんですか……」
 
 「あら、どうして?」
 
 「ど、どうしてって言うても……シンジも、綾波も惣流も、スポーツ滅茶滅茶できるやないですか。成績もワシなんかより遥かにいいです。……ワシと、共通点なんか、無い気がしますけど……」
 
 「別に、運動神経が、取り立てていいコを選んでるわけじゃ、無いわよ」
 
 さらりと、リツコは応え、また……ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。
 
 トウジは、黙ってリツコを視線で追う。
 
 
 
 「まぁ……アスカは、特別に運動神経がいいタイプかも知れないわね。
 
 でも、レイやシンジくんは、そうでもないわ」
 
 「そない言うても……あの3人が、卓球やってるトコなんか、こう……言うたらナンですけど、その……バケモンですよ」
 
 「卓球? そんなことしたの?」
 
 「あぁ……ええ、あの……前に、海の方にみんなで泊まったときに」
 
 「あら、そう。どうだった?」
 
 「どうだった……っちゅうか……見てるだけで精一杯ですわ。球を目で追えんのですよ」
 
 「……まぁ……そうでしょうね」
 
 「ほんなら」
 
 「……でもね、レイやシンジくんの、その『バケモノ』的な運動神経は、訓練の賜物よ。初めから、そんなに超人的な力を持っていたって訳じゃないわ」
 
 「………」
 
 「信じられない?」
 
 「あの……イヤ、そうなんかも知らんですけど……でも、それはやっぱ、才能と違いますか?
 
 ワシ、ちょっとやそっと訓練したからって、あんな……とても、なれるとは思えません」
 
 
 
 リツコは、静かに口を噤んだ。
 
 
 
 ……確かにトウジの言う通り、訓練だけで、あのような……誰もが目を見張る変貌を遂げるのは困難と言えるだろう。
 
 それはもちろん、トウジが言うような「ちょっとやそっと」の訓練ではない、と言うこともあるだろうが、しかし……血を吐くほどの訓練を積んでいるというわけでもない。
 
 軍人やスポーツ選手など、並大抵ではない運動訓練を積んでいる人種は、数多く存在する。
 
 その、特殊能力者(と言っても差し支えないと思う)たちと比肩する身体能力を、シンジたちが身につけていることを、「訓練を積んだから」という言葉だけで説明することは出来ない。
 
 
 
 ……実際には……アスカ、そしてシンジやレイが、プロスポーツ選手に見劣りしない身体能力を身につけている理由は、度重なる「エヴァとのシンクロ」、そして「戦闘経験」がものを言っているのである。
 
 
 
 詳細なフィードバックのメカニズムは、リツコも完全に把握できているわけではない。
 
 だが、自らの身体のごとくエヴァを操る、シンクロ状態下での戦闘……それが、パイロットからエヴァへの、感覚の一方通行ではなく、エヴァからパイロットへの何らかの影響も働いている、と考えれば、説明が付けやすい。
 
 まるで自分自身がきりもみ回転をしているような感覚で、エヴァをきりもみ回転させる……それは、実際に操縦把を放した後も、感覚としてパイロットの身体に残る。
 
 回数が少ないうちは、それもあまり際立った形では、表には現れないのだろうが……繰り返し、激しい動きを要求される戦闘と、その合間にまるで感覚を忘れぬうちに浸透させるために行われるかのような訓練の連続、それは、気付けば普通の訓練では考えられない身体能力の伸びを、パイロットに残していくのである。
 
 
 
 しかしそれも、パイロットの基本能力を超えた形で、無理矢理に顕在化させているわけでは、あるまい。
 
 大抵の人間には、使われずに眠っている能力が沢山あり……
 
 ……エヴァのパイロットは、それを引き出しているに過ぎない。
 
 
 
 特殊な人間が、パイロットに選ばれているわけでは、無い。
 
 今のシンジたちが身体能力で肩を並べるプロスポーツ選手たちが、もしもエヴァのパイロットとして活動すれば……おそらく、スポーツそのものの練習を全くせずとも、世界記録は数知れず塗り替えられていくに違いなかった。
 
 
 
 しかし、ここまで詳細な事情を、トウジに説明する謂れはなかった。
 
 このあたりの学術的な事情は、当のパイロット本人であるシンジたちにも、まだ説明したことがあるわけではない(察しはついているかも知れないが)。
 
 しかも、まず……トウジは、現時点ではチルドレンになることを了承したわけでもない。
 
 ただの一般市民に過ぎない彼に、チルドレンの訓練メカニズムを教えるわけにはいかない。
 
 
 
 だから、リツコは、あっさりとした説明にとどめた。
 
 「別に……鈴原君。あなただって、訓練すれば、ああいう風になるわよ。
 
 NERVの訓練は、普通のスポーツトレーニングとは、違うの」
 
 軽い口調で、それだけ言ってのける。
 
 
 
 「はぁ……そうですか」
 
 トウジは、まだ完全には理解しきっていないような表情で……曖昧に、頷いた。
 
 
 
 リツコは、改めて身体をトウジの方に向けると、ゆるやかに腕を組んだ。
 
 「で……いかがかしら?」
 
 
 
 「いかが……て?」
 
 トウジが、おうむ返しに尋ねる。
 
 
 
 「フォースチルドレンに、なって貰えるかしら?」
 
 静かに、リツコは言葉を紡いだ。
 
 トウジはリツコを見る。
 
 逆光になったその表情は……無表情のようでいて、かすかに口許が微笑みを浮かべているように、見えた。
 
 
 
 トウジは、思わず唾を飲み込んだ。
 
 
 
 正直なところ……即答できるほど、トウジの中で整理は出来ていない。
 
 それは当然だろう。おそらく、今まで一度もシミュレーションしたことの無い事態だ。
 
 まさか……自分に、「エヴァのパイロットになる」ことを、求められるなどと……誰が、思うだろうか?
 
 
 
 「あの……すぐに、決めんと、あかんのでしょうか……」
 
 トウジは、おずおずと、言葉をひねり出した。
 
 自分のことを分析してみても、今、冷静な判断が出来るとは思えない。
 
 「やる」あるいは「やらない」と、口に出して言うのは簡単で、およそ5秒ほどの時間があれば可能なことだ。
 
 だが、大事なのは、その決定が本当に正しいのかどうか、であり……そう言う意味では、今の状態の自分が、完全に自分自身を納得させられる答えを導き出せるとは、思えなかった。
 
 
 
 何より、シンジに尋ねてみたかった。
 
 「フォースチルドレンに、なるべきかどうか?」
 
 他人に決定権を委ねるような真似は、したくはない。だがこの場合、経験者であるシンジの意見を聞くのは大事だ。
 
 
 
 だから、考える時間が欲しかったのだが……リツコに、それを、軽く否定されてしまった。
 
 「ごめんなさい。あまり、時間がないのよ」
 
 「………」
 
 「できれば、この場で決めて欲しいところだけど……どう?」
 
 さも、大したことではないだろうとでも言うように、カリカリに焼いたトーストのような軽さでリツコは続ける。
 
 
 
 トウジは、背中の真ん中を……背骨に沿って、汗が伝っていくのを感じていた。
 
 今。
 
 決めろ、と、この……NERVから来た女性は、自分に言うのだ。
 
 
 
 「あ……の」
 
 喉の奥の方が渇いてへばりつくのを、必死に声を押し通すことで引き剥がしながら、トウジは呟いた。
 
 リツコは、少しだけ首を傾げるようにして、トウジを見る。
 
 トウジは、リツコを見つめながら……語尾をふらつかせて声を発する。
 
 「その……ここで、その……ワシが、できん、言うたら……どうなるんですか……?」
 
 
 
 リツコは、瞳の奥を、少しだけ緩めて微笑んだ。
 
 「おかしなことを、聞くわね」
 
 「……おかしい……ですか?」
 
 「別に、どうもならないわよ」
 
 リツコは、静かに続けた。
 
 
 
 「あなたがやりたくない、と、言うのなら……それだけのこと。
 
 縁が、無かったということね……。
 
 もちろん時間はないし、そういう意味ではこちらも大変ですけど、そうなったら別の候補者にアプローチを掛けるだけのことよ」
 
 
 
 トウジは、思わず、両肩の力が、糸の切れたように……ぷちん、と、下がってしまっていた。
 
 口を半開きにして、リツコを見つめる。
 
 リツコは、微笑んだまま、トウジを見返した。
 
 「どうか、したかしら?」
 
 「あ……はぁ、あ、いえ……」
 
 トウジは、気の抜けたような、間抜けな返事を返してしまう。
 
 
 
 急に、重い選択肢を突きつけられて、体に幾重もの重しが結びつけられたような気分だったが……リツコが言う言葉は、余りにも、軽い。
 
 拍子抜けと言うか……
 
 ……とにかくトウジは、急に体中の緊張が解けるような、どっさりとした疲労を感じていた。



 「どうするの?」

 ……心の中で、額を伝う汗を拭っていたトウジは、リツコの声に顔を上げた。

 一瞬、背後の窓から差し込むあかりに目が眩み、瞬きする。

 ニ、三度……瞼をしばたいて、もう一度トウジはリツコに視線を向けた。



 リツコは、逆光の中で……ただ、腕を組んで、トウジを見つめていた。

 トウジには、リツコの姿がシルエットのように浮かび上がって見え……逆に、それ以外の情報の全てが視界に入らない。

 リツコの、視線。

 影になったその姿の中で……まるで、獲物を狙う肉食動物のように、射抜くような視線をトウジに注いでいる。



 トウジは、石のように硬直してしまった。

 一度リツコに向けた視線を、再び引き剥がすことが出来ない。

 それはさながら、視線を逸らせた瞬間に、鋭い牙を持った獣に襲いかかられてしまうかのような……重圧。



 「どうするの?」

 リツコは、もう一度、トウジに訊ねた。

 口調は、限りなく穏やかで……まるで、今日の日付を聞いているような……そんな、印象。

 羽毛のような軽さを孕んで、吹けば、飛ぶような……そんな、言葉。



 しかし、トウジの両足は、まるで影を釘で縫いつけられたように、動く事が出来なかった。

 リツコの、瞳。

 トウジを見つめる、その瞳は……。



 「……あなたが、パイロットになるのを拒むのなら……それならそれで構わないわ」

 リツコは、ゆっくりと……言葉を続ける。

 しかしそれは、静かに……締め付けるような重圧感を持って、トウジの体に絡み付いていく。

 「……あなたが、ここで、断るのならば……それで、終わり。別の候補者に打診をして、その人間に、パイロットになってもらう事になるでしょう。
 
 ……あなたに、この話を持ちかけることは、以後……金輪際、あり得ない。

 私は、それでも全然構わないわ」

 

 そう、リツコに言われて……

 ……トウジは、ドキッと心臓を跳ね上がらせた。

 

 ……あなたに、この話を持ちかけることは、以後……金輪際、あり得ない。



 トウジの背中を、汗が伝う。



 トウジの脳裏に、シンジと、レイと、アスカの姿が浮かぶ。

 

 リツコは、もう一度……同じ言葉を、繰り返した。

 「どうするの?

 ……今、ここで……決めるのよ」



三百九十九



 「……馬鹿な」
 
 熊谷ユウは、マウスを握ったまま、咽の奥で悪態を吐いた。
 
 目頭に、幾重もの皺が寄る。
 
 こめかみが怒りで熱くなっていくのを、自分で感じていた。
 
 
 
 ここは、ジオフロント内の資料室である。
 
 何台も並んだパソコンのモニタ……その中には、一般職員でもレベル4以上の人間には知らされていない、諜報部専用のマシンが混ざっている。
 
 普段、他の資料検索用のマシンと同じように扱うことが出来るが、諜報部員のIDカードを使用し、特別なログインネームでログインすれば、それは幾重ものセキュリティガードに固められた、諜報部専用のマシンになるのである。
 
 
 
 先日、熊谷ユウに下った任務……それは、「鈴原ミドリを負傷させ、NERVの直営病院に入院させること」だった。
 
 任務の内容自体は、子供騙しと言えるほど、簡単なものだ。
 
 熊谷自身、任務を聞いたときには「これは、何者かの妨害が入るなどの、遂行に対する障害が予想されているのだろう」と、考えていた。
 
 
 
 だが、ことは、非常にすんなりと運んでしまった。
 
 命に別状の無い程度に、自動車でこづく。
 
 それだけだ。
 
 
 
 加持ならば、任務を聞いた時点で……その簡単すぎる任務の裏を探ろうとするだろう。
 
 あるいは、表面的な任務そのものだけではなく……その任務が成功することで、どのような計画が進行するのか、任務の目的は何なのか。
 
 そこまで、調べようとするはずだ。
 
 
 
 だが、熊谷は、そうしなかった。
 
 怠慢ではない。
 
 手抜き、でもない。
 
 熊谷にとって、任務とは、そういうもの。
 
 余分な情報の一切を許さぬ、独立した、それだけで完全な世界なのだ。
 
 「鈴原ミドリを負傷させる」こと。
 
 その任務を遂行するために、その目的も背景も、必要ない。
 
 忠実に、一言一句違うことなく、任務のままに目的を為せばよいのである。
 
 
 
 ……それは、熊谷を純粋な機械に仕立て上げていくと同時に、彼の目を曇らせていた。
 
 任務に忠実なこと。
 
 それは、できるだけ多くの情報を集めることも、その一助になる。
 
 ……と、考えるのが、プロだ。
 
 技術的に、限りなく一流でありながら……どうしても一流になることが出来ない、男。
 
 その、深く鋭い溝を、熊谷は自覚できていない。
 
 
 
 任務を遂行した翌日、彼のセキュリティボックスには、「任務完遂確認」の通知が届いていた。
 
 熊谷にとっては、それで充分だったし、それは最高の誉れと言えた。
 
 だから、今日までその後の様子を追調査することはなかったのだ。
 
 
 
 今日……熊谷が、鈴原ミドリの様子を調べたのは、ほんの気紛れに過ぎなかった。
 
 熊谷には、瑣末なものまで含めれば、常に幾つも抱えている任務があり……それには、幾つかの事前調査が必要なものも少なくない。
 
 そのために、いつものように資料を検索しつつ、ふと……コンピューターが情報を処理しているエアポケットのような時間に、その後の様子を調べてみたのだ。
 
 それは、熊谷にしてみれば、らしからぬ感情ではあったが……加持を全く通さない仕事で完全成功を遂げたことと、その期待の割に不自然なほど簡単な任務だったことが、つい……もう一度、事後調査をしたい気分にさせたのであろう。
 
 
 
 本当に何気ない気持ちで、入院患者リストをたぐった熊谷は、思わず我が目を疑ってしまった。
 
 鈴原、ミドリ。
 
 その患者の情報リストには、レベル2以下閲覧禁止の印とともに、こう記してあった。
 
 
 
 患者氏名:
 
 鈴原ミドリ
 
 事象:
 
 第三新東京市立病院・一般外科病棟入院後、退院
 
 詳細:
 
 病院側による入院期間設定を不服とした親族側からの退院手続きを受け、入院から3日間で退院。以後、自宅療養に入る。
 
 NERV医局部への報告前に手続きが完了し、病院側の判断により退院が認められるも、NERV医局部及び上層部はこれを時期尚早と判断。
 
 再び入院の処理を行うために対象患者にアクセスを試みるが、複数の民間諜報組織に阻まれて成功に至っていない。
 
 現在、NERV上層部からの指令により、再入院措置命令は解除されている。
 
 関連組織:
 
 民間諜報組織 - 登録番号2385000002
 
 民間諜報組織 - 登録番号3653320001
 
 民間諜報組織 - 登録番号5002300006
 
 他、現在調査中の組織が2〜5確認。
 
 NERV職員 - 登録番号E005061235002
 
 NERV職員 - 登録番号CH-3-02135005
 
 
 
 熊谷は、自分の頭に血が上っていくのを、まるでメーターを見つめているかのようにはっきりと認識していた。
 
 職員登録番号……加持の番号など、名簿を確認しなくても、分かる。
 
 
 
 何故、この任務の詳細に、加持が関わっている?
 
 
 
 加持が後を引き継いだ、とは、到底考えられない。
 
 詳細について、全く明らかになっていないが……この書かれ方は、退院のプロセスに絡んでいた、と考えるほうが、自然だろう。
 
 
 
 信じられない。
 
 
 
 「くそッ」
 
 小さく舌打ちをして、熊谷はマシンの電源を切った。
 
 吐き出されたIDカードを乱暴に引き抜く。
 
 出来れば冷徹でありたいと思う熊谷にしては、珍しい感情の発露だ。
 
 椅子を引いて立ち上がると、自分を抑えるかのように、歩調を整えて歩き出した。
 
 
 
 靴音だけが響くNERVの通路を、熊谷は、まるで能面のように無表情を貼り付けて歩いていく。
 
 別に、取り立ててどこに向かっている、という訳でもない。
 
 だが、じっとしていることは出来なかった。
 
 言い知れない、むかむかとした感覚が、腹の底から湧き出してくる。
 
 
 
 気付けば、足は訓練所に向かっていた。
 
 
 
 熊谷は、通路を音立てて歩きながら、携帯電話を取りだした。
 
 短い番号をプッシュして耳に当てる。
 
 
 
 「……ああ、熊谷だ。
 
 そこに、誰かいるか? ……ああ。
 
 3人ほど来い。第八訓練所だ。
 
 相手をしろ」
 
 短く、必要事項だけを伝えると、相手の言葉も聞かずに通話を切った。
 
 
 
 ……ドカンッ!
 
 
 
 若い男は、激しく床の上を転がって、ウレタンの詰められた壁に思いきりめり込んだ。
 
 「ぅ……かっ」
 
 苦悶の表情に顔を歪める。
 
 
 
 「バカヤロウ。それくらいよけられんで、護衛が務まると思うか」
 
 構えを解くと、熊谷は、低い声音で言い放った。
 
 
 
 第八訓練所。
 
 20畳ほどの正方形の部屋は、緑色のマットの敷かれた床と、壁中を埋め尽くす黄色いウレタンボックス以外には、煌々と照りつける照明以外、何もない。
 
 
 
 壁際でうずくまり呻いている男が、3人。部屋の中央に、熊谷が仁王立ちで立っている。
 
 全員が胴体の前部分と脛、上腕、手甲、足甲、膝、股間に防具を装着している。
 
 
 
 「立てッ。終わっていないぞ」
 
 刃のように鋭く、熊谷が言葉を飛ばす。
 
 倒れた男達は、汗だくの情けない表情で熊谷を見上げるが、立ち上がることが出来ない。
 
 「チッ」
 
 熊谷は、腕を組むといまいましそうに舌を鳴らして睨み付けた。
 
 
 
 「覚えておけ!
 
 MAGIと、銃に頼るからそうなる。
 
 おまえたちはプロだろ? いつ、誰と闘うとも分からん。
 
 敵が、今から襲いますと宣言してから襲って来ると思うか?
 
 おまえたちが銃を構えて、照準を揃うのを待ってから、襲ってくるとでも思うのか?
 
 ……いいか。例え両手両足を縛られていたとしても、任務は遂行しなければならん。
 
 手許に武器が無ければ、素手で闘え!
 
 命を捨てることで任務が達成できるのなら、迷わず命を捨てろ!
 
 それが出来ないのなら、この仕事は辞めるんだな」
 
 
 
 熊谷はそう言い放つと、手甲を取り外しながら、部屋の出口に向かってきびすを返した。
 
 
 
 煮え繰り返る思いは、その怒りを拳に乗せて闇雲に突き放しても、晴れるものではなかった。
 
 当たり前だ。不幸な部下たちは訳も分からず八つ当たりを喰らってしまったが、彼らに対して怒りを抱いているわけではない。
 
 矛先を転嫁して晴れるような、些細な感情ではなかった。
 
 
 
 熊谷は、エレベーターに乗り込む。
 
 その白い匣の金属壁を殴りつけたい衝動に駆られたが、それは抑え付けて、表面は変わらず無表情を装う。
 
 
 
 程なくして着いたフロアを大股で闊歩すると、やがて、地下駐車場が熊谷の前に姿を現した。
 
 熊谷は、数台の乗用車が停めてあるそのだだ広い空間を斜めに横切ると、自分の車の扉を開けた。
 
 
 
 運転席にその体を滑り込ませて、扉を閉める。
 
 そのまま、キーを回すでもなく、ポケットに両手を突っ込んだまま、深々とシートに身を沈めた。
 
 
 
 深く……息を、つく。
 
 
 
 ……熊谷にとって……加持は、禍々しい存在として、意識の中心にどっかりと腰を下ろしていた。
 
 いつから、そのような認識を持つようになったのか、自分でもはっきりとは記憶していない。
 
 
 
 ドイツの訓練所を、同期の訓練生の中ではトップで卒業し、自分の技術と目線の全てに輝かしい誇りを抱きつつ配属された、NERV本部・諜報部。
 
 配属先としては明らかに花形の一等配属であり、また、配属先の諜報部でも自分に敵う人間などいないのではないか、という若々しい傲り。
 
 あの時代が、自分にとって、最も輝いていたように、思う。
 
 
 
 実際には、技術うんぬん以前に経験が培う差のようなものもあり、初めから諜報部トップとは言えなかった。
 
 だが、それも数多くの任務を潜り抜けていくことで、差が埋まっていく。
 
 もともと、地力は天才と称される逸材だ。あまり時間を掛けることなく、諜報部でも一、二を争うプロフェッショナルとして認められるようになったのだ。
 
 
 
 若さによる登用の制限は当然のごとく存在し、それは仕方がないことだ、と思う。
 
 自分よりも劣る上司の許で働くのは苦痛でしかなかったが、時間がそれを解決する。それを待つくらいのゆとりは、熊谷にもあった。
 
 実質、技術の上ではもはや自分に勝るものはNERVに存在しないと思っていたし、それであれば人事を統括する上司の目が曇っているのだと自分に言い聞かせることも出来たのだ。
 
 そして、じっと、時が過ぎていくのを待ちながら、ひたすら……任務の完遂と、完璧な精神の構築に勤しんできた。
 
 
 
 しかし……数カ月前にやって来た新しい上司は、そんな熊谷の世界に、大きな楔を打ち込んだのだ。
 
 
 
 ドイツからやってきた加持を初めて見たときには、また無能な上司が現れた、と、思った。
 
 今までの上司も無能だったが……それでも、彼らにはまだ、プロとしての誇りや自覚がその身体から染み出してきており、それは認めてもいいと思っていた。
 
 だが、この男は駄目だ。
 
 まるで緊張感のない、ふ抜けた態度。
 
 スキだらけの様子。
 
 参考に理念を問うても、「適当にやるだけ」という信じられない答えが返ってくるばかりだった。
 
 
 
 最低限、誇りだけは堅守しなければならない、と、半ば信念のように己に言い聞かせてきた熊谷にとって、その存在は信じられないばかりでなく、言い様のない怒りを覚えさせた。
 
 プロとして、許しがたい姿勢だと感じた。
 
 いつもなら、無能な人間の下に就くこともやむなしと考え時間が過ぎるのを待つ彼も、今回はバケの皮を剥いで引きずり下ろそう、と考えたのだ。
 
 
 
 ……そうして組手を申し入れた熊谷は、加持に……完膚無きまでに叩きのめされてしまった。
 
 
 
 信じられない思いがした。
 
 全く、歯が立たなかった。
 
 全てにおいて、NERVでトップであると思い込んでいた熊谷にとって……一分野であれ、完敗を喫したのは大きな挫折感を味合わせた。
 
 
 
 熊谷は諦めなかった。
 
 資料から加持のデータを引っ張り出し、半ば非合法的な手段も駆使して(とは言えMAGIの管轄下のデータである以上、閲覧できるのはトップシークレットではないものに限られたが)、加持の情報を軒並み洗い出した。
 
 ただの格闘馬鹿……であることを、期待しての行動だった。
 
 ……が……。
 
 
 
 もはや、熊谷には、為す術が無かった。
 
 
 
 引き出される加持のデータは、そのどれもが信じられない結果を熊谷に見せつけた。
 
 自分たちがこなしている任務に比べると、瑣末なものが殆ど無いために、任務数自体はかなり少ないが……そのどれもが、特A難度やそれに近い難度に匹敵するものばかり。
 
 そして、その全てを「完遂」という形で終了していた。
 
 
 
 驚くべきことは、加持はチームを組まず、およそ完遂が難しいと思われるものに至るまで全て一人でこなしていることだ。
 
 正確には、手足のように諜報部員や民間の諜報団体、彼自身のネットワークを使っていたが、およそパートナーと言える人間が存在しない。
 
 その状態を、配属当時から貫き、そしてその状態をNERVに許されているということは……
 
 ……訓練所卒業時点で、熊谷などとは及びもつかない人間として、評価されていたことを示しているにほかならなかった。
 
 
 
 自分の世界が、音を立てて瓦解していくのを、熊谷は感じていた。
 
 ……これが、尊敬に足る人間であるならば、いい。
 
 事実、熊谷自身……無能な上司の下で働くのには辟易していたが、それが上司足りうる人間であれば構わないと考えていた。
 
 ……しかし、加持の、あの……人を喰ったような態度!
 
 最も護るべき、プライドや誇りの欠片もない姿に、熊谷は激しい嫌悪感を抱いていった。
 
 
 
 車の中で、熊谷は、ただ……じっとフロントガラスの向こう側を見つめていた。
 
 ……今回の任務は、難度としてはEに匹敵する瑣末なものだ。
 
 だが、上司である加持を通さずに直接自分に降りてきた仕事として、プライドがあった。
 
 事実、任務自体は「完遂」で終了しているのであり、それで構わない筈なのだが。
 
 ……口の中で、そっと、歯を軋ませる。
 
 ……まるでハイエナのように、加持は自分の任務の成果を打ち崩した。
 
 一体、何の意味がある?
 
 嫌がらせとしか思えない。
 
 ……許せない、消せない怒りが、胸の内で渦巻いていた。
 
 
 
 怒りのぶつけ所が無く、心の中はどす黒く燻っていた。
 
 正面切って加持に怒りをぶつけたい気持ちもあるが、それでは何の意味もないし、第一敵わない。
 
 
 
 熊谷の脳裏に、先程のモニタに映った文字が浮かび上がる。
 
 
 
 NERV職員 - 登録番号CH-3-02135005
 
 
 
 ……サードチルドレン、碇シンジ。
 
 
 
 熊谷は、ゆっくりと、キーを回す。
 
 乗用車は重苦しい振動と唸りを響かせていた。