第八十四話 「部屋」
三百九十一



 朝。
 
 
 
 シンジはいつものように、台所に立って朝食の支度を始める。
 
 ピーマンを細かく刻みながら別のざるに選り別け、油をサッとひいたフライパンを火にかける。
 
 香ばしい朝餉の香りの中で菜箸を動かしながら、シンジは、ぼーっとした表情で、踊る野菜を見つめていた。
 
 
 
 昨晩の出来事は、夢だったのだろうか?
 
 
 
 シンジは、霞がかかったような、冴えない思考の中で頭を振る。
 
 
 
 昨晩、あのあと……シンジとレイが帰宅したのは、朝方、もう東の空が白む頃になってからのことだった。
 
 帰りも、ジオフロントから相当遠いところまで徒歩で移動してからタクシーを拾ったため、かなり疲れてしまっていた。
 
 レイは、タクシーの中では、もう……隣に座るシンジの肩に全身を預けて、ぐっすりと眠りに落ちてしまっていたほどだ。
 
 まぁ……彼女はもともと、夜に強いほうではないし……まして、この数時間は、ろくに心の準備も出来なかったような予想外の展開が立て続けに彼女を襲ったのだ。
 
 精神的にも、憔悴・疲弊したのだろう、と、シンジは思う。
 
 
 
 とにかくそうして、二人は何とかマンションまで重い足を引きずりながら帰宅すると、早々に別れておのおのの寝床に潜り込んでしまった。
 
 そして、朝の目覚めの時刻まで、泥のように眠っていたのである。
 
 
 
 何とか、シンジがいつもの時間に目を覚ますことが出来たのは、目覚まし時計の威力と、既に体に染みついてしまった体内時計のリズムのおかげだろう。
 
 
 
 とにかく、寝ぼけた頭を振るい起こして、シンジは朝食の支度に取りかかっていた。
 
 こうして、毎朝と変わらぬ日課を繰り返していると、昨晩の出来事は本当に起こったことなのか、意識が曖昧になってくる。
 
 目覚める直前に、夢でも見て……それを、現実とごっちゃにしているのではないだろうか?
 
 
 
 ……だが、やはり、昨日の出来事は、紛う方なき現実である。
 
 細部まで鮮明に覚えている記憶が、それを物語っていた。
 
 
 
 炒めた野菜とベーコンを小さな皿に移し、そのフライパンに溶いた卵をあける。
 
 黄身の弾ける小気味いい音が台所に広がっていく。
 
 
 
 シンジは、片手でフライパンを手早く回しながら、視線を玄関のほうに向けた。
 
 
 
 いつもなら、この時刻には、もうレイがやってくる。
 
 そして、シンジの横で、弁当を作り始めるのである。
 
 
 
 ……だが、今日は、まだレイの現れる気配はなかった。
 
 
 
 (……起きられなかったんだろうな……たぶん)
 
 シンジは、苦笑した。
 
 ……とにかく、量を余分に作っておいて、良かった。
 
 朝食と弁当が同じメニューになってしまうのは残念だが、とにかく、余った分を弁当箱に詰めれば、それでみんなの昼食を賄える。
 
 レイは、おそらく、目覚まし時計の音に目覚めなかったのか……でなければ、一度、目を覚ました後に、再び眠ってしまったに違いあるまい。
 
 そうなると、もう……誰かが起こしにでも行かないと、昼過ぎまで眠り続けているのではないだろうか?
 
 ……シンジは、とりあえず朝食と弁当の支度を済ませたら、レイを起こしに行こう、と思った。
 
 
 
 シンジが朝食の用意をほぼ終えた頃に、玄関のキーロックが開く音が耳に届いた。
 
 振り返ると、制服姿のアスカが扉を閉めるところだった。
 
 ガチャン、と、扉が閉まるのに合わせて自動ロックがかかる乾いた金属音が響く。
 
 
 
 「おはよう、アスカ」
 
 シンジが、料理を皿に移しながら、アスカに声をかける。
 
 「おはよ、シンジ」
 
 アスカも片手を上げて応え、リビングに上がってからきょろきょろと辺りを見回した。
 
 「あら? アンタの愛しのハニーは?」
 
 「……は……ハニーってね……」
 
 「うっさいわね、いちいち反応すんじゃないわよ。……で?」
 
 「で? って?」
 
 「だぁかぁらっ、レイは? 何でいないの?」
 
 「あ……あぁ、うん……いや、よく分かんないんだけど、多分……まだ寝てるんじゃないかな」
 
 
  
 シンジの言葉に、アスカは少しだけ眉を上げながら、鞄を椅子の上に置いた。
 
 「へぇ……珍しい。いっつも、一刻も早くシンジに会いたくて、一目散に駆けてくるクセに」
 
 「……あ、あのね」
 
 「うっさいわね、いちいち反応すんじゃないわよ」
 
 言いながら、アスカは台所に入ってきて、食器棚の扉を開く。
 
 カチャカチャと人数分のお椀を取り出しながら、アスカは、視線だけシンジに向けた。
 
 「いっつもと、おんなじ時間に寝たわよね?」
 
 「え? 僕?」
 
 シンジが、きょとんとした顔でアスカを見る。
 
 アスカは、胸の前に椀を抱えて腰を伸ばし、シンジをじろっと睨む。
 
 「ナニ寝ぼけてんのよ。レイよ、レイ」
 
 「え? 綾波が、何だって?」
 
 「だぁかぁらぁ……アイツ、昨日、夜更かししたりしてないわよねって言ってんのッ」
 
 「あ、あぁ……えぇと、別に、普通じゃないかな? 知らないけど……」
 
 「ふぅん……でも、アイツが起きられないなんて、珍しいわね」
 
 「いや、綾波は結構、朝に弱いよ」
 
 「……詳しいわね」
 
 「えっ? ……あ、あぁ、いや、だから、その……綾波って、低血圧じゃないか。本人も、前に、朝が苦手って言ってたよ」
 
 「フゥ〜ン……ま、ほどほどにしなさいよ」
 
 「な、なにがだよっ」
 
 「夜は早く寝かしてやんなさいよね」
 
 「だ、だから……僕は関係ないだろ!」
 
 「あ、そう?」
 
 アスカはそう、しれっと応えると、お椀を抱えてリビングに移動してしまった。
 
 シンジは、思わずガックリと肩を落として息をついた。
 
 
 
 ほどなくして、朝食の準備がテーブルの上に整った。
 
 
 
 アスカが、ミサトの部屋の前に立って振り返った。
 
 「ミサトはアタシが起こしとくから、ねぼすけ女を起こしてきなさいよ」
 
 「あ、うん、ごめん」
 
 「ちちくりあってないで、とっとと戻って来るのよ」
 
 「ち、ちちく……って、あ、あのね……」
 
 「うっさいわね、いちいち反応すんじゃないわよ。……ミサトッ! 起きなさいッ!」
 
 じろり、とシンジを一瞥してから……アスカは、襖の向こう側に向かって声を張り上げた。
 
 
 
 シンジは赤くなりながら溜め息をつくと、アスカの叩き開ける襖の音を耳に、玄関の扉を開けた。



三百九十二



 キン……コーン。
 
 シンジがドアチャイムのボタンを押すと、ぶ厚い扉の向こう側から、くぐもったベルの音が聞こえてきた。
 
 シンジはボタンから指を離し、一歩後ろに下がって待つ。
 
 
 
 ………
 
 
 
 (……起きない……なぁ)
 
 1分ほど待って……シンジは、小首を傾げながら、溜め息をつく。
 
 もう一度、手を伸ばしてボタンを押す。
 
 キン……コーン。
 
 キン……コーン。
 
 指を離して、暫く待つ。
 
 
 
 ………
 
 
 
 (……起きない……なぁ)
 
 シンジは、溜め息をついた。
 
 
 
 シンジはポケットからIDカードを取り出すと、ドアの横のスリットにそれを通した。
 
 カチャン! と音を立てて、ロックが開く。
 
 「おじゃま……しまぁ〜す……」
 
 小さな声でそう呟きながら、シンジは、そっと扉を開けた。
 
 
 
 玄関の中に入って扉を閉めると、自動ロックのかかる音が、思いのほか大きく家の中に響いた。
 
 シンジは、覗き込むように中を見渡す。
 
 ミサトの家とは、左右対称の造り。
 
 電気はついていないが、そこかしこから入る朝の光で、暗さは感じない。
 
 シンジは靴を脱ぐと、そのまま家の中に足を踏み入れた。
 
 
 
 思えば、シンジは、今までレイの家に入ったことがなかった。
 
 ……正確には、レイを最初に連れてきたときにここに入ってはいるが、あれは……むしろ、「レイの家」になる前の状態、と言っていいだろう。
 
 少なくとも、レイの生活に溶け込んだ家、に入るのは、今日が初めてである。
 
 シンジは、それに初めて気が付いて、少しだけ自分で驚いてしまった。
 
 (そっか……いっつも、綾波がウチに来るからなぁ)
 
 レイを送っていくときも、まず、ミサトの家の玄関までか……その先まで行ってもせいぜいレイの家の扉の前までしかついて行かないのがいつもの情景なのである。
 
 (朝も、僕が起こしに行かなくちゃいけないほど、眠ってることって、ないしなぁ)
 
 
 
 リビングに入ったシンジは、周りをきょろきょろと見回す。
 
 家具の類いは、最初から部屋に設置されていたもので、ミサトの家と大差ない。
 
 しかし、ミサトの家の場合……その家具の上やら横やらに、ごちゃごちゃといろんなものが積み上げられているのだが……
 
 (……何にも、無いな……)
 
 シンジは、腕組みをして、溜め息をついた。
 
 
 
 ……見渡すかぎり、きれいさっぱり……最初の状態のまま、なのである。
 
 正確には、机の上にはポットや湯飲みが置いてあるし、タンスの上にはダイレクトメールが数通、重なっている。
 
 だから、レイが生活しているのは疑いようが無いのだが……しかし、まるで昨日引っ越してきたばかりのような印象を受けてしまうのである。
 
 
 
 シンジは、黙って頭を掻いた。
 
 ……恐らく、レイにとっては、この状況に違和感はないだろう。
 
 しかし、いずれ……アスカやヒカリに頼んで、もう少しインテリアの類いを充実させる必要があるのではないだろうか?
 
 少し、何か置けば……それだけでは逆に寂しいので、自然と、他にもいろいろ置くようになる。
 
 そうしていけば、レイも……そういったインテリアの類いに興味を持つようになるかも知れない。
 
 
 
 (それは、まぁ……いいとして、綾波を起こさなきゃ)
 
 シンジは、爪先をレイの部屋に向けた。
 
 リビングを横切りながら、部屋の掃除は、かなりまめに行われていることに気が付く。
 
 ……それだけでも、前にいたあの部屋とは大違いだ、と、シンジは思った。
 
 
 
 レイの部屋の前に立ったシンジは、小さく息を吸い込んでから、閉じた襖を拳の甲で叩いた。
 
 とん、とんとん……
 
 「綾波……朝ご飯の準備が出来たよ」
 
 
 
 ………
 
 
 
 予想されたことではあるが……襖の向こう側の住人が、起き出してくる気配は、ない。
 
 大体、今の音で目を覚ますくらいならば、目覚まし時計の音で起きない筈が無いのだ。
 
 シンジは、困ったように腕組みをして、立ちすくんだ。
 
 (う〜ん、参ったな……勝手に入っちゃまずいよなぁ……やっぱし)
 
 何を今更……と、怒濤のような突っ込みが入るところかと思うが、そこがシンジのシンジたる所以である。
 
 シンジは、尚もその場で1分近く悩み続けてから……結局、悩んでいても何も解決しないことに我ながら気付き、溜め息をついて襖に手をかけた。
 
 
 
 「……綾波……入るよ」
 
 囁くように(起こしたいなら、何故、大きな声で言わないのか)、そう呟きながら……シンジは、静かに襖を左手に引いた。
 
 
 
 部屋の中は、カーテンの隙間から漏れる朝の光にぼんやりと照らし出されて、しかし……薄暗かった。
 
 床には絨毯が敷いてあったが、最初はなかったはずだ。レイが自分で選んだとは思い難いし、これは、ミサトの配慮だろうか?
 
 奥に、棚と合体したような木製の学習机。その上に、学生鞄が無造作に置いてある。
 
 左側の壁は押し入れになっており、閉じたその襖の上の鴨居から、学生服を掛けたハンガーがぶら下がっている。
 
 右側の壁際に、白いベッド。
 
 
 
 ベッドのタオルケットは人型に盛り上がり、寝息に合わせて静かに上下している。
 
 タオルケットの裾から水色のパジャマと、白い足首が見えていた。
 
 
 
 シンジは軽く肩を竦めると、後ろ手に襖を閉めて、愛しい少女の眠るベッドの脇に移動した。
 
 片膝を床につくような体勢でしゃがみ込むと、レイの顔を覗き込む。
 
 
 
 (……ぷっ)
 
 シンジは、思わず笑いが零れそうになって、慌てて右手で自分の口を塞いだ。
 
 
 
 レイは、シンジから背を向けるようにして、壁の方に横向きに眠っている。
 
 (ちなみに、この壁の向こう側はシンジの部屋であり、レイがそちら向きに眠っていることには意図的な意味があるのだが……シンジには、そこまで理解する察しの良さは、無い)
 
 横からシンジが覗き込んでいることなど、全く気付かないまま熟睡しているレイは、すやすやと……口から涎を垂らしていた。
 
 
 
 シンジは、表情に笑みを浮かべながら立ち上がると、机の上に置いてあったティッシュを抜いて、元の場所に戻る。
 
 手を伸ばしてレイの口許を拭くと、「……んぅ」と、レイは少し眉根を寄せてみせた。
 
 
 
 ……そうして、再び……穏やかな寝息を立て始める。
 
 
 
 (もう……熟睡しちゃってるみたいだなぁ)
 
 シンジは、安らかに眠るレイの横顔を見つめながら、苦笑ともつかぬ溜め息を漏らした。
 
 視線を動かすと、枕元の目覚まし時計は、確かに止めた形跡がある。
 
 しかし、この、主人の熟睡ぶりを見るに……恐らく、止めたはいいがすぐに再び眠ってしまったか、でなければ、目覚まし時計を止めたこと自体が夢うつつの無意識だったのに違いなかった。
 
 相変わらず物凄い変貌ぶりを遂げている蒼い髪を、シンジは手で梳いてみたが、レイに目覚める気配はない。
 
 
 
 (……どうしようかなぁ)
 
 ……数分の間、レイの寝顔を見つめた後……シンジは、ぼーっとした思考で、そう呟いた。
 
 レイの寝顔を見つめているのは、飽きないのだが……それはそれとして。
 
 (学校、行かなくちゃいけないしなぁ……それに、朝ご飯だって、あるぞ……。
 
 
 
 ………。
 
 ……ん?)
 
 
 
 突然、シンジの脳裏に、こちらを睨み付けるアスカの顔が去来した。
 
 『……ちちくりあってないで、とっとと戻って来るのよ!』
 
 アスカの言葉が、蘇る。
 
 
 
 さーっ……と、シンジの顔から、血の気が引いた。
 
 
 
 (あっ……
 
 ……ヤバ……。何分経った?)
 
 
 
 別に、アスカの言葉通りに、ちちくりあっていたわけでも何でもないのだが、しかし……待ちぼうけを食らわせているのは、確かだ。
 
 その理由も、「眠っているレイの顔に見入っていた」では、余りにも情けない。
 
 (ど……どうしよ。綾波、起こすか? それとも……)
 
 シンジが、慌てたように立ち上がりかけた……その時。
 
 
 
 「……シンジ」
 
 「わぁッッ!!」
 
 
 
 急に、背後から声をかけられたシンジは、仰天して情けなく叫び声をあげ、その場から飛び上がった。
 
 固まるシンジの前には、半目でシンジを睨み付けて、仁王立ちする、アスカ。
 
 
 
 「ア、ア、アス……」
 
 驚きの余り目を見開いたまま、口をぱくぱくとさせるシンジ。
 
 突然のことに、二の句が継げないらしい。
 
 まさか、アスカがここまで来るとは、予想しろという方が、無茶だ。
 
 
 
 ……しかし、冷静に考えてみれば……待ちぼうけを食らわせていれば、待たされているほうは様子を見に来て不思議はないのだ。
 
 シンジも、こと……レイに関わると周りのことをすっかり忘れてしまって、良くない。
 
 
 
 「……んぅ」
 
 レイが、小さな寝惚け声をあげて、もぞ……と体を丸くした。
 
 シンジは、口許を押さえてレイの方に振り返る。
 
 レイは、二人に背中を向けたまま、暫くそうしてじっとしていたが……やがて再び、何事もなかったかのように、すやすやと寝息を立て始める。
 
 シンジは、我知らず安堵の溜め息をついた。
 
 
 
 そんなシンジの肩を、アスカがとんとん、と指先でつついた。
 
 シンジがアスカの方に視線を向けると、アスカは一瞬視線をレイの方に向けてから、顎をしゃくってリビングの方を示してみせた。
 
 シンジもアスカの言わんとするところを理解し、頷く。
 
 
 
 アスカとシンジは、そっとリビングに移動すると……静かに、襖を閉じた。



三百九十三



 リビングに移動したアスカは、部屋の中ほどでくるりと振り返ると、シンジを前にして大袈裟に溜め息をついてみせた。
 
 シンジは、バツが悪そうに頭を掻く。
 
 「その……ごめん、アスカ」
 
 「……だから、ちちくりあってんじゃない、って言ったでしょうが」
 
 「な、何もしてないってば」
 
 「愛しのレイちゃんの、可愛い寝顔を見つめてたんでしょ? おんなじよ」
 
 慌てて抗弁しかけたシンジの言葉尻を引っつかみ、アスカは、ぴしゃりと断言してみせた。
 
 シンジは、赤くなって口を閉じるしかない。
 
 
 
 「……朝ご飯、ラップして冷蔵庫に入れといたから」
 
 「は?」
 
 続いて紡がれたアスカの言葉に、シンジは、きょとんと顔を上げた。
 
 アスカは、そっぽを向いたまま、目線だけシンジの方に向ける。
 
 「聞こえなかった? アンタとレイの朝ご飯は、ラップをかけて、冷蔵庫にしまった、って言ってんの」
 
 「あ……あぁ、いや、それは分かるけど……」
 
 「待ってると永久に帰って来なさそうだったからね。アタシとミサトは、先に済ませたわよ」
 
 「あ、ああ……そうなんだ。……ごめん」
 
 「いいけど、それは別に。……ミサトは、何か、書類が溜まってるとか言って、慌てて出てったわよ」
 
 「あ、もう行っちゃったんだ」
 
 「ミサトも忙しいんなら、ギリギリまで寝てなきゃいいのにねぇ」
 
 「いや、まぁ、疲れてるんだと思うけど……」
 
 「い〜や、アレは、例え食って寝るだけの生活でも、おんなじコトやるわね」
 
 「う……うん。まぁ……僕も、ちょっとそう……思うけど」
 
 「レイは、起きないの?」
 
 「えっ? あ、うん、何か……夜更かしでもしたのかも……はは」
 
 「じゃ、今日は学校は休みかしらね」
 
 「え……あぁ……う〜ん、そう……なのかな……」
 
 「別に、ファーストもアンタも、一日くらい学校休んだって、成績に関係ないでしょ」
 
 「まぁ、そりゃ……って、え? 僕?」
 
 「ま、アタシだって、休んだくらいで成績落としたりはしないけどさ」
 
 「え、あ、そうだね……って、え? だから、え? 僕が、なに? 何で?」
 
 「休むんでしょ?」
 
 「え? ……ぼ、僕? 僕は……いや、あぁ……う〜ん……」
 
 「休むんでしょ?」
 
 「いや……決めたわけでは……」
 
 「どぉおぉせ、休むんでしょ?」
 
 「い、いや……あの」
 
 「や・す・む・ん・で・しょ?」
 
 「………」
 
 
 
 ……結局、休んでしまうシンジであった。



三百九十四



 「レイが起きたら、二人でゴハン暖め直して食べたら? みんなには、カゼとか何とか、言っとくから」
 
 アスカはそう言い残すと、そのまま鞄を背負って、出て行ってしまった。
 
 
 
 綾波邸に一人残されたシンジは、ポリポリと頭を掻いて、それからリビングの椅子に腰を下ろした。
 
 「……いいのかなぁ?」
 
 ……と呟きもするが、まぁ……たまにはいいか、と、思う。
 
 
 
 椅子に座ったままシンジは、手持ち無沙汰な様子で辺りをゆっくりと見回す。
 
 
 
 ほとんど生活臭を感じさせない、部屋。
 
 清潔に保たれていることから住人の存在は感じられるが、その息遣いまでは伺い知れない。
 
 まだ、身の回りを楽しむような余裕がレイの中にさほど無いことに、シンジは若干の残念さも覚えるが……
 
 ……それを、一面的に「哀しい」と受け取るのは、短絡的だろう、ともシンジは思う。
 
 
 
 事実……レイは、起きて活動しているその殆どの時間を、この家以外の場所で過ごす。
 
 学校や、街や、NERVや、シンジの家。
 
 この、本来彼女の住居である家には、正に「寝に帰ってくる」という表現が、一番しっくりくる。
 
 
 
 例えそれがシンジであったとしても……自分が殆ど立ち寄らないような場所に、殊更に手をかけようとは思わないかも知れない。
 
 それでもシンジは、小物の一つも置くかも知れないが……レイは、やはり、まだ若干その方面に不得手だ。
 
 で、あれば……この家が無味乾燥な印象になっているからと言って、一概に彼女の心の未成熟さを嘆くのは、少しピントの外れた評価と言えるかも知れない。
 
 
 
 部屋の隅に置いてあるテレビは、最初からこの部屋にしつらえてあるものだ。
 
 だが、恐らく、スイッチを入れたことなどないのではないか? 少なくとも、ここで一人でテレビを見るくらいなら、レイは葛城邸にやって来るだろう。
 
 タンスの中だって、どれほど埋まっているかは分からない。
 
 
 
 シンジは、視線を部屋の反対側に向けた。
 
 そちらには、台所が見えている。
 
 
 
 レイの部屋や風呂場などを除けば……レイがこの家で一番使用しているのは、恐らく、この台所だろう。
 
 シンジの横でいきなり腕を振るう前に、きっと練習を重ねたに違いない料理が、弁当に入っていることが、決して珍しくは、ない。
 
 それは、つまり……自分の家で、密かに何度か作ってみているということだ。
 
 そして、満足の行く出来栄えになってから、初めてお披露目となるのである。
 
 
 
 シンジは、立ち上がって台所に爪先を向けた。
 
 
 
 台所の中に足を踏み入れると、明らかに、他の部屋とは違う空間が広がっていた。
 
 壁の食器棚にはひと揃えの洋食器が並べられていたし、シンクの横に設置された水切り網には数枚の皿が立て掛けられているままだ。
 
 換気扇が、黒く煤けている。少なくとも、使用を重ねなければ、こうはならない。
 
 冷蔵庫の上に置かれた電子レンジの側面に、接着型のプラスチックフックが幾つか接着してあり、そこから厚手の鍋掴みがぶら下がっている。
 
 その鍋掴みは、賑やかな柄が印刷された赤系の布をいくつも組み合わせたパッチワークで作られており、華やかな印象を感じさせる。
 
 水色の冷蔵庫には磁石が幾つかついていて、何枚かのレシピがとめてあった。
 
 目をやると、レシピにはレイ自身の手で走り書きがしてある箇所も見受けられる。
 
 キャッシャーのついたプラスチックのカーゴの上には、何冊かのバインダーや料理の本。
 
 調味料棚にも、小ビンがずらりと並んでおり、そのどれもがいくらか使った形跡がある。驚いたことに、ぱっと見てシンジが何の調味料か分からないものも、幾つかあった。
 
 
 
 シンジは、ゆっくりと、その様子を見回した。
 
 
 
 レイにとって……この家での、彼女の居場所は、恐らく……ここなのだ。
 
 ここにいる方が、リビングなどにいるよりも、ずっと落ち着くのかも知れない。
 
 
 
 ふと、シンジの視界に、棚の上に置かれた一冊の文庫本が入ってきた。
 
 さっきまで読んでいました、という風情で、無造作に放置してある。
 
 
 
 シンジは手を伸ばして、その文庫本を取った。
 
 
 
 表紙を外してあるその本は、見知らぬ作家の詩集だった。
 
 そういえば、レイが詩集を読んでいるのを、昔からよく見かけた記憶がある。
 
 パラパラ、っと、シンジは少しだけページをめくってみた。
 
 あいにく……シンジは、詩については造詣が薄く、あまり感銘を受けることもない。
 
 手を止めたページに記してあった行を視線でなぞってみたが、シンジにはよく分からなかった。
 
 
 
 「綾波は、分かるって事だよな……好きなんだろうから」
 
 シンジは、パラパラとページをめくっていきながら、誰に言うともなく呟いた。
 
 そう……そう思うと、レイに感情がない、などと思っていた昔の自分が恥ずかしくなる。
 
 レイは、シンジが第三新東京市にやって来る以前から、好んで詩集を読んでいた。
 
 詩が表現する感情を、全く理解できないのであれば、読んでも面白くも何ともないはずだ。
 
 
 
 あの頃から、レイは……感情をうまく表現する方法が分からなかっただけで、心自体は、はっきりと持っていた。
 
 それを、他のクラスメイト達が感じるのと同じように、少なからず「人形のようだ」と思っていた自分は、いかに彼女のことをちゃんと見ていなかったことか。
 
 あの頃の、自分を取り巻く環境を思えば、いくらかは仕方がないことだとも思うが、それにしても……。
 
 
 
 (でも……今は、分かってる)
 
 シンジは、思う。
 
 今は、まるで、違う。
 
 
 
 詩集を閉じると、シンジは元あった場所にそれを置いた。
 
 カーゴの上に置いてある小さな時計を見ると、時刻は12時を指していた。
 
 
 
 シンジは、レイの眠る部屋の襖を見る。
 
 (……まぁ、昨晩、ホントに遅かったからなぁ……
 
 ……でも、そろそろ起きてもいいんじゃないかな。
 
 あんまり遅くまで寝てると、今晩、また眠れなくて困るだろうし……)
 
 
 
 シンジはそう呟くと、台所を出て、レイの部屋の前に移動した。
 
 
 
 襖を開けて中を覗き込むと、レイは、先程と変わらぬ姿勢で、眠っていた。
 
 シンジは襖を閉めると、そっとベッドの脇まで移動する。
 
 ベッドの横に膝をついて、レイの顔を見ると、相変わらず安らかに夢の中を旅しているようだった。
 
 
 
 「……綾波」
 
 シンジはレイの耳元に口を近づけると、囁くように名前を呼んだ。
 
 「……綾波……もう、昼だよ。そろそろ、起きなよ〜……」
 
 
 
 もぞ……と、レイは寝返りを打った。
 
 くるり、と、壁を向いていた体勢から、しゃがみ込むシンジの方に転がってくる。
 
 それは恐らく、夢うつつに耳に聞こえてきた愛しい少年の声に反応し、声のした方に無意識に近づこうとしたのだろうが……。
 
 
 
 ごろり……
 
 ……どさっ!
 
 
 
 「あっ」
 
 ……シンジは、突然のレイの動きに……あっけにとられたように、ただ、呆然と一部始終を見つめてしまっていた。
 
 レイは、絨毯の上に、俯せにのびている。
 
 
 
 ……もともとベッドの端の方で眠っていたレイは……そのまま外側に寝返りを打ったために、思い切り……ベッドから落下してしまったのである。
 
 
 
 「………」
 
 ……しばし、沈黙があって……レイは、眉をしかめた表情で、もぞ……と、起き上がった。
 
 「あっ……あ、綾波、大丈夫?」
 
 やっと再起動したシンジが、慌ててレイに手を伸ばす。
 
 
 
 「……ぁ……碇君……」
 
 レイは、シンジの顔に焦点があうと……ぱぁっ、と、表情に華やぎを増して微笑んだ。
 
 体を半分起こすと、そのまま、しなだれかかるようにシンジの体に抱きつく。
 
 
 
 「おはよ……綾波」
 
 「……おはよう……碇君」
 
 抱きついてきたレイに驚きつつ、苦笑してシンジが声をかけると、レイも、シンジの首筋に鼻先をうずめたまま応えた。
 
 
 
 ……そうして、しばし、固まった後……ふと、レイが、顔を上げた。
 
 きょろきょろ、と、辺りを見回す。
 
 「どうしたの?」
 
 シンジが、レイに声をかける。
 
 レイは、すぐにはその言葉に応えず、視線を動かすと……やがて枕元の目覚まし時計に気付く。
 
 「………」
 
 「綾波?」
 
 「……12時?」
 
 レイが、呟いて首を傾げる。
 
 
 
 「……目覚ましい時計……鳴らなかったの?」
 
 不思議そうな声で、レイが呟く。
 
 シンジは、苦笑して声を出した。
 
 「いや……さっき見たけど、ちゃんと止めてあったよ」
 
 「………」
 
 「綾波……無意識に止めて、また寝ちゃったんじゃないの?」
 
 「……なぜ?」
 
 「なぜって……いや、知らないけど……昨晩、遅かったでしょ。ちゃんと目が覚めなかったんじゃないかな?」
 
 「……碇君は、起きられたの……?」
 
 「ああ、うん、僕は……まぁ。もともと、朝は平気なほうだからね」
 
 「そう……」
 
 「……綾波、おなか、空かない?」
 
 「……うん……よく、分からない」
 
 「あぁ、まぁ、そうか……起きたばっかりだもんね」
 
 「………」
 
 「綾波…お昼、食べない?」
 
 「……うん……食べる」
 
 
 
 シンジの体に回していた腕を解くと、レイは、少しだけまだ眠そうな様子のまま、シンジに向かって、微笑んだ。
 
 シンジも、そんなレイに、微笑む。
 
 
 
 「……碇君……学校は?」
 
 「え? ……ああ、まぁ……お休み」
 
 「……? ……そう」
 
 
 
 ズル休みだけど、たまには……こんなのも、いいか。
 
 シンジはそう思いながら立ち上がると、しゃがんでいるレイに向かって右手を伸ばした。
 
 「ホラ、綾波。ごはん、食べに行こう」



三百九十五



 ガヤガヤと、教室には若々しい喧騒がこだましている。
 
 今は、4時間目が終わり、ちょうど昼休みになったところだった。
 
 
 
 「ケンスケ、メシ、食おうでぇ」
 
 トウジが、中腰に立ち上がりかけながら、振り返ってケンスケに声をかける。
 
 ケンスケは、キーボードを叩きながらトウジを一瞥して、視線を再びモニタに戻す。
 
 「いや……それでもいいけどさ。今日、シンジ、いないだろ? たまには、委員長と二人でメシでも食ってきたらいいんじゃないか?」
 
 「な……な……ナニを言うとんのや」
 
 あっけらかんと言うケンスケの提案に、トウジは頬を染めながらどもってしまう。
 
 ケンスケは、やれやれ、と、肩を竦めてみせた。
 
 「あのなぁ、トウジ……大体な、毎日毎日、弁当まで恋人に作ってもらっておいてだよ? 昼飯も一緒に食わないなんて、理不尽だと思わないか?」
 
 「り、理不尽、言うたかて……」
 
 「一緒に食いたいとは思わないのか?」
 
 「い……いや、そりゃ……その。
 
 ………
 
 ……ナ、ナ、ナニを言わせんのや」
 
 「なぁ、委員長も、そう思うだろ?」
 
 赤くなって狼狽するトウジを無視して、ケンスケは、くるりと視線を反対側に向けた。
 
 
 
 そこには、アスカの机の横に立って、真っ赤になっているヒカリ。
 
 
 
 「え……あ……う……で、でも」
 
 ヒカリも、思い切り狼狽しながら、おたおたと呟く。
 
 そんなヒカリを見上げながら、アスカが呆れたように溜め息をついた。
 
 「ナニ、慌ててんのよ、ヒカリ。……アタシも、たまには鈴原と食べてきたらいいと思うわよ」
 
 「ア、アスカ……」
 
 「一緒に食べたいと思わないの?」
 
 「え……そ……そりゃ、その。
 
 ………
 
 ……な、な、何を言わせるのよ」
 
 真っ赤になるヒカリを見ながら、やれやれ、と、肩を竦めるアスカ。
 
 
 
 「あ……で、でも。
 
 ア、アスカ……今日、レイさん、いないでしょ?
 
 私が行っちゃうと、アスカ、一人になっちゃうじゃない」
 
 慌てたように、ヒカリが言葉を紡ぐ。 
 
 アスカは頬杖を突きながら、顔の前でヒラヒラと手の平を振ってみせた。
 
 「んなもん、気にしなくたっていいわよ、別に」
 
 「あぶれ者同士、二人でメシでも食うか、惣流?」
 
 「死ね」
 
 ケンスケの飄々とした提案を、アスカはバッサリと袈裟がけに斬り落とした。
 
 ケンスケは、楽しそうに苦笑して、肩を竦める。
 
 
 
 「……ホラ、トウジ。
 
 何、ぼ〜っとしてんだよ。
 
 ……誘えば?」
 
 ケンスケは、横に立つトウジの背中を、無造作に、ドンと突いた。
 
 ケンスケに押されて、トウジはよたよたと数歩、前に歩み出る。
 
 
 
 トウジが顔を上げると、目の前には、頬を染めて俯くヒカリがいた。
 
 トウジも、思わず、頬の紅みが増す。
 
 
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……い……い、いいんちょ」
 
 「……ハ……ハイ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……ほ……ほんなら、その……メシでも」
 
 
 
 言いかけたその瞬間、スピーカーから雑音混じりのアナウンスが飛び出してきた。
 
 『2-Aクラスの鈴原トウジ。鈴原トウジ。至急、校長室まで』
 
 
 
 きょとん、として、スピーカーを見上げる、面々。
 
 
 
 「……アンタ、何かしたの?」
 
 アスカが、ボソっと呟く。
 
 トウジは、困惑したように、かぶりを降った。
 
 「い、いや……ナンも」
 
 「あぁあ、タイミング悪いな……」
 
 ケンスケが、溜め息を交えながら、呟く。
 
 
 
 ヒカリは、少しだけ俯いて、残念そうな表情を見せた後……
 
 ……ぱっ、と、顔を上げて、トウジの方に笑顔を向けた。
 
 
 
 「……ホラ、鈴原! 何だか分からないけど、早く行かなきゃ!」
 
 
 
 「あ……お、おぉ、せやな。
 
 ……ほんなら、何やよぅ分からんけど、行ってくるワ」
 
 トウジは、慌ててそう言うと、手に持った弁当箱を机の上に置くと……一度、視線をヒカリに送って、それから駆け出していった。



三百九十六



 廊下を歩きながら、トウジは、先程の顛末を思いだして、ぼりぼりと後頭部を掻いた。
 
 
 
 ……大体、ヒカリと一緒に食事をするのは、もう、珍しい光景ではない。
 
 学校で、二人きりで昼飯を食べる様なことはしたことがないが、放課後、二人でどこかに寄っていくことは、よくある話だ。
 
 そう思うと……そんなに、あそこまでうろたえるような問題ではないのだが。
 
 
 
 (せやかて……やっぱり、ああ言われると……照れ臭いわ)
 
 我知らず、居心地悪そうに、頬を染めるトウジ。
 
 
 
 ……つまり、トウジが必要以上にうろたえたのは……ケンスケやアスカに、殊更に囃されたからである。
 
 「委員長と二人で、食事でもしてきたらどうだ?」
 
 と、言われて、
 
 「ああ、せやな」
 
 とは、答えられない。
 
 
 
 (ああ……何や、思いだしたら、よけいに恥ずかしいわ……)
 
 ボリボリ、と後頭部を掻きながら、トウジは、ちょうど着いた校長室の、重い木製の扉を押し開けた。
 
 
 
 「鈴原トウジ、入ります」
 
 
 
 校長室の奥には、木製の鈍重な机の前に座った校長と……窓からの光を背に、立っている、ブロンドの女性。
 
 
 
 髪の毛の間から、ゆるやかな光を漏れさせながら……リツコは、ゆっくりと、振り返った。
 
 
 
 「……鈴原……トウジくん、ね」