第八十三話 「言葉」
三百九十



 静まり返った部屋の中で、シンジの口から零れ落ちた言葉は……ゆっくりと、吸い込まれるように、空気の中に溶け込んで消えていった。
 
 反響が返ってこないため、まるで、空耳だったのではないかと……思わず、レイに錯覚を抱かせたほどだった。
 
 
 
 レイは、シンジの胸板に頬を寄せたまま……その言葉を聞いた。
 
 ミライ……カラ……キタンダ……。
 
 その言葉は、さながら……自分の解さぬ異国の言葉で語られたかのように、まるで意味を伴わない「音」として、レイの耳を通り抜けていく。
 
 寄せた頬に伝わるシンジの鼓動が、言葉の持つ重さとあまりにもアンバランスなほど、穏やかだったからかも……知れない。
 
 
 
 こぽ……こぽこぽ……こぽ……
 
 
 
 部屋の一角を占める巨大な水槽から、不規則な泡立ちの、丸い音が聞こえる。
 
 それ以外に、何の音も無い、ただ、二人きりの空間。
 
 
 
 かなりのタイムラグを持って……
 
 ……シンジの言葉の「意味」は、「音」に、追いついた。
 
 
 
 「……え……」
 
 レイは、シンジの腕の中で……首を持ち上げてシンジを見る。
 
 シンジの視線と、レイの視線が、絡み合う。
 
 
 
 シンジは、レイの瞳の中で、ゆっくりと……微笑んだ。
 
 
 
 「碇君……」
 
 レイは、シンジの瞳を見つめたまま……半ば、きょとんとしたような表情で、呟く。
 
 「……え……?」
 
 
 
 レイの、ぼんやりしたような……状況を理解出来ていないような声音に、シンジは、くすっと笑って、レイを抱く両腕に力を篭めた。
 
 シンジの力に、レイは、呆然とした表情のまま、再びシンジの胸板に頬を預ける。
 
 その視線は、虚空を見つめている。
 
 「……え……」
 
 ……もう一度、呟く。
 
 
 
 抱き締めたレイの柔らかな髪の毛の中で、シンジは、優しく口を開いた。
 
 「……綾波」
 
 「………」
 
 「綾波はさ……いつも、僕のこと……その……すごい、って、言うよね」
 
 レイは、戸惑いの表情を浮かべながら、肯く。
 
 そう……碇君は……すごい。
 
 その、レイの動きを感じながら、シンジは、宙を見つめて、言葉を続けた。
 
 「……僕は、すごくもなんとも、ないんだよ」
 
 
 
 再び顔を上げて、レイは、シンジを見る。
 
 シンジは、ただ、天井を見上げていた。
 
 その、瞳から……いかなる感情を、読み取れというのだろう?
 
 レイには、何も掴み取ることが出来なかった。
 
 哀しみのような……微かな想いを、シンジの瞳の奥に、感じたような……気は、したが。
 
 シンジは、もう一度……口を、開く。
 
 「僕は……別に、すごくもなんとも、ない」
 
 
 
 「……そんなこと、ないわ」
 
 レイが、その声音に僅かな抗議の感情を孕ませて、シンジに向かって呟く。
 
 そんなレイの言葉を聞いて、シンジは、思わず苦笑してしまった。
 
 ……自分が自分のことをすごくないと評して、第三者にそれを抗議されるとは、何だかおかしな状況だ。
 
 レイは、ただ、少しだけ不満そうに眉根を寄せて、シンジの瞳を一心に見つめている。
 
 そんなレイを見ていると、思わず……今の大事な状況を置いておいて、思い切り抱き締めたくなってしまうから、不思議だ。
 
 
 
 
 「……碇君は……だって」
 
 「聞いて、綾波」
 
 なおも言いかけたレイの言葉を、シンジは優しくつまんだ。
 
 レイは、口を閉じて……少しだけ上目使いにシンジを見る。
 
 
 
 「まず、さっきも言ったけど……僕は、未来から、来た」
 
 「………」
 
 シンジの言葉に、しかし……レイは、少しだけ困惑した表情を浮かべた。
 
 それは、そうだろう。
 
 未来から来た、と伝えられて、すんなり受け入れられても、それはそれでシンジが驚いてしまう。
 
 少なくとも、そう易々と信じられるような……現実的な話では、ないはずだ。
 
 
 
 「……未来から……」
 
 レイは、もう一度……シンジの告げた内容を、咀嚼し直すように、呟いた。
 
 どんな表情をすればいいのか、分からないような……そんな、表情。
 
 「……どうやって……?」
 
 曖昧な表情のまま、言葉を紡ぐ。
 
 
 
 レイを抱き締めたまま、シンジは、優しく微笑んだ。
 
 「……分からない」
 
 「………」
 
 「一体……何が原因で、何が作用して……僕の、意志だけが時代を遡ってきたのか……僕にも、分からない」
 
 「………」
 
 「とにかく……気が付いたら、第三使徒に叩き落とされる戦自の戦闘機を、見上げていたんだ」
 
 
 
 シンジの、脳裏に……あの時の情景が蘇る。
 
 全てが終わってしまった世界……自分以外に、もう、生きている者のない世界から、一瞬にして、全てが始まったばかりの世界に振るい落とされた。
 
 理由は、分からない。
 
 だが……この、本来ならあり得ないはずの機会を得て……シンジは、確かに誓ったのだ。
 
 
 
 ……今度は……救ってみせる……。
 
 
 
 あの時の誓いを……僕は、守れているだろうか?
 
 分からないが、決して……まだ、間違ってはいない、と、信じたかった。
 
 
 
 「……こんな話……信じられないでしょ?」
 
 シンジは、レイに囁きかけた。
 
 信じられないのが、まぁ……普通だ。
 
 だから、シンジは、どう説明すればレイに納得してもらえるか……色々、考えを巡らせていた。
 
 
 
 だが……
 
 ……レイは、シンジの腕の中で、ゆっくりと、かぶりを振った。
 
 
 
 「……信じる」
 
 囁くようにレイは、小さな声で呟いた。
 
 シンジは、驚いて、レイ見る。
 
 レイは、顔を上げて……シンジを見た。
 
 その瞳の奥の……はっきりとした意志の光……。
 
 
 
 レイは、シンジをはっきりと見つめたまま、もう一度、口を開いた。
 
 「だって……碇君を……信じてるもの」
 
 
 
 ……シンジは、レイをきつく抱き締めていた。
 
 レイはシンジの腕の中で、ただ……小さく、息をつく。
 
 
 
 「……ありがとう」
 
 シンジは、小さく、それだけ呟いていた。
 
 
 
 ……静寂が舞い降りた。
 
 
 
 レイの耳に届くのは……水槽の泡立つ、丸い音と……つけた耳から聞こえる、シンジの鼓動。
 
 
 
 水槽の音は、好きではない。
 
 昔を、思い出させるから……。
 
 だが、シンジの鼓動の音は、好きだった。
 
 自分が、生きている証を、感じられるような気がした。
 
 
 
 「……碇君」
 
 ……やがて、レイは、小さく、呟いた。
 
 シンジは、首を動かしてレイを見る。
 
 レイは、シンジの胸に頬を寄せたまま、シンジの視線を瞳で捉える。
 
 「……私は……未来で……碇君の、力になれてる?」
 
 
 
 そんなレイの問い掛けに……シンジは、苦笑ぎみに微笑んで、肩を竦めた。
 
 「もちろん……綾波は、僕の大事な支えになってくれると思うけど……
 
 ……どうなるかは、僕にも分からないよ。
 
 その時になってみないと……」
 
 そういうシンジの言葉に、レイは、不思議そうな表情で首を傾げた。
 
 「……未来……から……来たんでしょう?」
 
 
 
 「そうだよ……
 
 ……でも、今の、未来とは、もう違う」
 
 
 
 シンジは、過去を思い出すように……ゆっくりと、呟いた。
 
 そう……
 
 ……もはや、今の世界とは、全く違う。
 
 
 
 レイは、じっと、シンジを見つめていた。
 
 ……今の未来と、違う?
 
 ……どういう意味だろうか。
 
 
 
 「……何が、違うの?」
 
 
 
 レイの言葉に、シンジは、一度、目を瞑り……
 
 そして……ゆっくりと、開いた。
 
 
 
 その瞳の……深い、そして、沈んだような哀しみの色に、レイは、僅かに息を飲む。
 
 シンジは、微笑んで……
 
 ……そして……口を開く。
 
  
 
 「僕がいた世界は……滅んでしまったんだ」
 
 
 
 レイは、目を見開いて、シンジを見た。
 
 「………」
 
 言葉が出てこない。
 
 世界は……滅んでしまった。
 
 ……それは
 
 
 
 シンジは、静かに、言葉を紡ぐ。
 
 「……人類補完計画は、発動してしまった」
 
 
 
 レイは、固まったような表情で、シンジを凝視していた。
 
 
 
 シンジは、レイに微笑んで……そして、目を、伏せた。
 
 レイは、その微笑みの……張りついたような哀しみの感情を見て、胸の奥に痛みを覚える。
 
 「……わ……たし、が?」
 
 レイが……水分を失ったような声音で問い掛ける。
 
 「……僕と……綾波と……みんなが、かな……」
 
 シンジは、穏やかに、呟いた。
 
 
  
 
 「……全ては、終わってしまったんだ。
 
 トウジも、委員長も、ケンスケも、きっと……LCLに溶けてしまったと、思う。
 
 加持さんは、スパイ活動の果てに、撃たれて死んだ。
 
 ミサトさんは、僕の背中を、最後に押して……死んでしまった。
 
 リツコさんは、父さんに撃たれて、死んだ。
 
 父さんも、最後には初号機に取り込まれてしまったよ。
 
 カヲル君は……僕が……殺して、しまったし……」
 
 
 
 「……カヲル君?」
 
 
 
 レイの……小さな疑問符つきの言葉に、シンジは、優しく、微笑んだ。
 
 
 
 「フィフスチルドレンだよ」
 
 
 
 「……フィフス」
 
 ……驚きの表情で、レイは呟く。
 
 「……フォースも、まだ……なのに」
 
 
 
 「フォースチルドレンは、ここ数日で、決まることになると思う」
 
 シンジは、淡々とした口調で言葉を紡いだ。
 
 レイは、じっとシンジを見る。
 
 
 
 「……参号機?」
 
 「そう、だね」
 
 「……誰が、来るの?」
 
 「……わからない」
 
 シンジは、ゆっくりと、かぶりを振る。
 
 
 
 レイは、ただシンジを見つめていた。
 
 
 
 赤錆の浮いたような、汚れた壁面を背景に、シンジは立っている。
 
 その二つの要素は、まるで両極に位置するようでありながらも、同時に、何かしら……不思議な共通性を感じさせた。
 
 この、生と死が、腐臭のように漂う空間に……シンジの存在は、確かに噛み合わない違和感があり、しかし……同時に、パズルのピースの如く、調和を覚える。
 
 
 
 これは、何だろう?
 
 
 
 シンジの存在を、とかく輝かしいものとして捉えるレイにとって……シンジが、この場所にいることに違和感が無い事実に、不可解な感覚を覚えた。
 
 
 
 「僕が、いた世界では……フォースチルドレンには、トウジが選ばれた」
 
 ……一拍、置いて……シンジが続けた言葉に、レイは、現実感を取り戻した。
 
 僅かに目を見開いて、シンジの顔を見つめ返す。
 
 「……鈴原君?
 
 ……そんな」
 
 「綾波、知ってるでしょ? 僕らのクラスには、適格者が集められてる。クラスメイトがフォースになるのは、自然なことだよ」
 
 「………」
 
 「……本人がそれを望んでいるかどうかは、無関係なんだけど……ね」
 
 
 
 トウジは、NERVの要請を受けて……確かに、フォースチルドレンになることを了承した。
 
 だがそれは、「妹の転院のため」という背景があってのことだ。
 
 トウジの自由意志ではないだろう、と、思う。
 
 しかも、当のミドリは、あの時……既に参号機のコアにインストールされてしまっていたはずだ。
 
 転院しようにも、トウジの知らないところで……もう、ミドリは死んでいた。
 
 騙された、と言っても、間違いではないと思う。
 
 
 
 今回、ミドリが参号機のコアにインストールされるという事態は、何とか回避できたはずだ。
 
 まだ、油断をしてはいけないとは思うが、ミドリの護衛に加持の手が回っていることは、かなりの安心材料として捉えてよいだろう。
 
 NERVが強行的に拉致などの行動に出る可能性もあるが、それをやるにはリスクが大きすぎる。
 
 フォースとして「鈴原トウジ」に固執する理由が、そこまであるとは思い難い。
 
 
 
 「……今回は、トウジがフォースになるのは、回避できたと思う」
 
 シンジは静かに呟いた。
 
 レイは、微かに首を傾ける。
 
 シンジは、そんなレイを見つめたまま、言葉を紡いだ。
 
 「……トウジがフォースチルドレンに選ばれること……それは、不幸しか生まなかった」
 
 「………」
 
 「松代に、来週……エヴァ参号機が移送されて来るのは、知ってるでしょ?」
 
 シンジの言葉に、レイは肯く。
 
 「直前まで、特に話があったわけでもないのに、フォースが急にバタバタと選出されたのは、あの参号機の、起動実験のためだった」
 
 「……うん」
 
 レイが、応える。
 
 シンジの言う推論は、珍しい内容ではない。エヴァとパイロットはペアなのだから、エヴァが一体増えれば、どうしたってパイロットも一人増える道理だ。
 
 
 
 「……その……起動実験の最中に、参号機は、使徒に乗っ取られたんだよ」
 
 
 
 レイは、驚いてシンジを見た。
 
 ……パイロットが乗った状態で、エヴァが、使徒に乗っ取られる。
 
 それは……一体、どういう状況か。
 
 
 
 「……使徒が……現れたの?」
 
 レイが、おずおずと、シンジに尋ねる。
 
 レイの言う意味は、「使徒が参号機の側に出現し、戦闘の結果乗っ取りが行われたのか」、ということだろう。
 
 シンジは、首を振る。
 
 「いや……ちょっと違う。
 
 ほら、あの……タンパク壁に融合していた使徒がいたでしょ?
 
 ああいう感じで……初めから、参号機の中に使徒が隠れていて……多分、参号機の起動をきっかけにして、いきなり覚醒して乗っ取られたんだよ」
 
 「………」
 
 「いつ、参号機に、使徒が入り込んだのか……
 
 まさか建造当初からということはないと思うけど、そのタイミングは分からない。
 
 だから、防ぎようがないんだ……。
 
 覚醒しないと、多分、探し出そうとしても区別もつかないと思うしね」
 
 
 
 使徒に乗っ取られる、という事実は、もちろん……参号機にとって、非常に大きな障害と言えるだろう。
 
 だから、使徒に乗っ取られることが事前に分かっていれば、未然に防ぐ対策が取れる筈……
 
 ……とは、そう簡単にいかないのは、既に幾度と無く繰り返され、はっきりしすぎるほどはっきりしている。
 
 
 
 例によって、参号機がバルディエルに乗っ取られる事実は、シンジの記憶にしかない。
 
 シンジが説得しようにも……シンジの言葉が根拠に欠けているために、NERVそのもののプロジェクトの方向性を左右するほどの影響力を持たせることが出来ないからだ。
 
 
 
 例えば、ミサトの行動やリツコの行動を左右したり……シンジやレイ、アスカレベルで変更が可能な作戦の改変については、シンジも積極的に関わってきた。
 
 だが、起動実験の停止、そして大々的な解体作業にまで発展するような使徒探索……そこまでの規模となると、予算的にも、そのスケジュール的にも、かなりの損害が伴う。
 
 ……誰もが「やむなし」と判断できる、確固たる根拠なくして、行うことはできないのだ。
 
 
 
 「……参号機が、使徒に乗っ取られて……どうなったの」
 
 レイが、静かな声音で呟く。
 
 
 
 シンジは、目を閉じた。
 
 ……決して、気持ち良く思い出すことの出来ない、記憶。
 
 「……参号機は、使徒と認定されたよ」
 
 「………」
 
 「エヴァ三体で、包囲・殲滅作戦を取った」
 
 「……倒した……の?」
 
 「零号機・弐号機は、倒されちゃって……結局、初号機が、使徒を殲滅した」
 
 
 
 レイは、染み込むように、シンジの言葉を、聞いた。
 
 初号機が……
 
 
 
 「……碇君が?」
 
 
 
 レイの言葉に、シンジは、かすかな……哀しい微笑みを浮かべて、俯いた。
 
 「……そうだね」
 
 呟く。
 
 
 
 正確には、シンジの意志の及ばぬところで起こった惨劇だった。
 
 シンジは、自分が手を下すのを拒否したのだ。
 
 ……だが、シンジから見れば、同じだった。
 
 確かにあのとき、シンジはダミーシステムのことを知らなかったし……攻撃を拒否することが、ああいう結果に繋がることを予測することが出来なかったことは、自分でも分かっている。
 
 だが……例え、同じ「攻撃しない」という判断を下したにしても……検討を重ねた上で、最良の方法と考えてその判断を下すのと、ただ目を背けるのとでは、まるで違う、と、思った。
 
 
 
 あの時、シンジは、ただ……自分で重要な決定を下すのを恐れて、背中を向けて逃げ出しただけだった。
 
 それは、シンジにとって……間接的にでも、トウジを傷付けたのと変わらなかったのだ。
 
 
 
 「参号機は……完全に、破壊されたよ……初号機に」
 
 
 
 シンジの言葉に、レイは、押し殺したような声で、応えた。
 
 「……初号機が……暴走、したの……?」
 
 「違うよ」
 
 シンジは、ゆっくりと首を振る。
 
 
 
 「……本当は……僕が、参号機と、ちゃんと戦っていれば良かった」
 
 「………」
 
 「今に比べれば、確かに……あの頃の僕は、エヴァの操縦も、へたくそだった。
 
 でも……今、思い出しても……はっきり言って、あの使徒は、普通に戦って勝てない相手じゃなかったと思う。
 
 冷静になって、参号機の両腕や両脚を、破壊してしまえば良かったんだ」
 
 
 
 実際のところ……あの局面で、シンジにそこまで理知的な判断を求めるのは酷と言うものだろう。
 
 トウジと参号機の、神経接続は切断されていたかどうか、分からない。
 
 トウジが、実際に体で攻撃を受けたのと同じだけの激痛を被るのが分かっていながら、簡単に「両腕両脚の切断」などという行動には出られる訳がない。
 
 まして……
 
 シンジは、ダミーシステムの存在など、全く知らなかった。
 
 あの段階の情報量では、シンジが「攻撃を止める」という結論に至ったとしても、それを一概に「悪い」と断ずることは出来ない。
 
 
 
 だが、シンジには、どうにもならない「悔い」が残っている。
 
 それは、シンジが、血の通った人間である以上……仕方がないことだ。
 
 頭では「どうにもならなかった」と分かっていても、それで単純に割り切ることは出来ない。
 
 
 
 「鈴原君は……どうなったの?」
 
 
 
 レイの問い。
 
 シンジは、軽く……頭を振って、応える。
 
 「死にはしなかった。
 
 でも……右脚を切断したよ。
 
 それに……結局、その後、一度も学校には来なかったんだ。
 
 僕が逃げ回っていたから、あの後トウジがどうなったのかは知らないんだけど、何か重大な後遺症か……でなければ、精神的な障害が残ったのかも知れない」
 
 
 
 シンジは、穏やかな口調で、言葉を紡いでいた。
 
 だが、その裏側に見え隠れする、微かな……哀しみの想いに、レイは、眉を寄せて目を閉じる。
 
 ……その場に居合わせたわけでもないレイには、本当の、シンジの辛さは、分からない。
 
 だが……今、この場の、シンジの哀しみは、心臓に突き刺さる楔のように……鋭く、レイの心を締め付けた。
 
 
 
 シンジは、そっと……胸の中にいるレイの肩を、抱きしめた。
 
 レイは、そのシンジの動きに、僅かに身じろぎをして、シンジを見上げる。
 
 「碇君……?」
 
 シンジは、レイの言葉には応えずに……レイを、いたわるように抱きしめたまま……ゆっくりと、口を、開いた。
 
 
 
 「……参号機を殲滅したのは、ダミーシステムだ」
 
 
 
 ビクッ、と、シンジの腕の中でレイが動いた。
 
 驚愕の表情で、レイはシンジを見上げる。
 
 その、白い顔に張り付いた……哀しみと、恐怖の表情。
 
 
 
 「……か……かん、せい、しているの?」
 
 渇いた声で、レイは呟く。
 
 声音に孕む、苦しみ。
 
 
 
 レイは、ダミーシステムを嫌悪していた。
 
 人間、でありたい自分の……人間ではない、コピー。
 
 その存在は、レイにとって……姉妹のような生易しい存在ではなく、ただただ、目を背けていたいものだった。
 
 まして……その開発がゲンドウの計画に与するものと分かっているレイにとって、それをシンジの口から聞くのは、辛い。
 
 
 
 ゲンドウの再三の実験参加要請を、レイは……とにかく、無視し続けてきた。
 
 それでも、やむなく実験に参加してしまったこともあったが、ともかく……当初必要とされていた実験回数には、大幅に下回る程度しか、参加していない筈だ。
 
 満足なシステムが開発できているはずがない、と、今までレイは思っていた。
 
 
 
 だが……近日中に起こるバルディエルの発現に対して、ダミーシステムが使われた、と、シンジは言う。
 
 開発は、間に合ってしまったのだろうか……。
 
 自分の抵抗など、些細なものに過ぎなかったのだろうか?
 
 
 
 そう思い、身を硬くするレイの髪の毛を、シンジは優しく梳いた。
 
 「……完成しているか、どうかは……分からないよ」
 
 シンジの言葉に、レイは顔を上げる。
 
 「……え……でも」
 
 「綾波……実験に、行ってないよね?」
 
 「……う……ん」
 
 「だよね……だって、綾波、いつでも一緒にいるし……
 
 ……だったら、満足行く状態まで開発が進んでいるとは、ちょっと思えないけどね」
 
 シンジの言葉に、レイは、首を傾げる。
 
 「……ダミーシステムが……参号機を、殲滅……したんでしょう……?」
 
 「それは、以前、僕がいた世界での話、だよ……」
 
 
 
 シンジは、レイの瞳を見つめながら、優しく微笑んだ。
 
 「あそこと、ここは、全然違うよ」
 
 
 
 「……完成……してないの?」
 
 レイは、おずおずと……シンジに問い掛ける。
 
 シンジは、レイの首筋を、優しく抱きしめた。
 
 「正直に言えば……僕には、良く分からないよ。
 
 別に、どうやってダミーシステムを作ってるのか、知ってるわけじゃないからね。
 
 ただ……前回、綾波は、多分……全ての実験に参加していたと思う。実験に対する疑問なんて、きっと、感じてなかったからね。
 
 最高に近い状態で開発が進んでたと思う前回と、今回じゃ、進捗は違ってるはずだよ」
 
 
 
 「………」
 
 レイは、黙って、シンジに抱き締められるに任せて……力を抜いた。
 
 完成していなければいい、と、レイは思う。
 
 自分が苦しむような……シンジを苦しめるようなシステムなんて、この世に必要ない、と、思う。
 
 
 
 レイは、シンジの胸に頬を寄せたまま……そっと……ふと、今感じた疑問を、シンジに向かって呟いた。
 
 「私……その世界では……実験に参加していたの?」
 
 「……そうだね」
 
 シンジは、ただ、それだけ応える。
 
 
 
 レイには、理解できない。
 
 シンジに、知られてしまう恐怖を……感じなかったのだろうか?
 
 無理やり、実験に参加させられていたと言うのならば、まだ、分かる。
 
 ……だが、実験に参加することに疑問を感じていなかったとは、どういうことだろうか?
 
 ……そして、それが何故、シンジに分かるのだろう?
 
 
 
 「……なぜ……」
 
 レイは、微かな声で、呟いた。
 
 「……碇君に……嫌われるかも、知れないのに……」
 
 まるで独り言のように呟いたレイの言葉に、シンジは、クスッと微笑んだ。
 
 シンジは、そっと口を開く。
 
 「今と、全然、違うんだよ……綾波。
 
 ……その……
 
 ……前回、綾波と僕は……恋人同士じゃ、なかったんだ」
 
 
 
 レイは、ガバッ! と、身を起こした。
 
 シンジの体から、一瞬にして離れた。
 
 シンジが今までに語った「前回の話」の中で、最も強い反応だった。
 
 驚愕に目を見開いたまま、シンジの顔を凝視している。
 
 
 
 シンジは、そんなレイの反応に苦笑しつつ……優しく微笑んで、言葉を続けた。
 
 「僕は、今みたいに余裕がなかった。
 
 何も見えていなかったし、逃げてばかりいたから……綾波のことも、よく見ていなかったんだ。
 
 それに……僕は、とても、情けなかったから……
 
 綾波も、僕のことを好きにならなかった。
 
 僕のことなんて、道端の石ころと、そんなに変わらない扱いだったよ」
 
 
 
 レイは、無表情で……ただ、目を見開いたまま、固まったようにシンジの表情を見つめていた。
 
 シンジは、出来るだけ、穏やかに……言葉を紡ぐ。
 
 「全然、違ったんだ。今とはね……。
 
 今回と前回と、何が違うって……元を正せば、ただ、僕が前回の記憶を持っているかどうか、それだけだよ。
 
 それなのに……もう、全然違う。綾波のことはもちろんだし、アスカも、ミサトさんも、トウジや委員長やケンスケや……リツコさんや、加持さんや、もう、みんな違う。
 
 ……どれだけ、前回の僕は、情けなかったのか……ってことだよ。
 
 そして……それだけの違いで……前回は、人類が滅びるという結果に終わってしまった」
 
 
 
 レイは、変わらず…ただ、シンジの顔を、凝視している。
 
 
 
 「あの世界の僕は……今とは、全然、違うんだ」
 
 
 
 レイは、変わらず…ただ、シンジの顔を、凝視している。
 
 
 
 「……綾波?」
 
 シンジは、小首を傾げて、レイを見た。
 
 レイは、変わらず…ただ、シンジの顔を、凝視している。
 
 
 
 ……どうしたのだろう?
 
 全く無反応のような様子のレイに、シンジは不安を覚えた。
 
 「あの……綾波……? もしもし」
 
 おずおずと、問い掛ける。
 
 
 
 レイは、変わらず…ただ、シンジの顔を、凝視している。
 
 
 
 ……そうして、レイは、暫くの間固まった後……
 
 ……急に、バフッとシンジの胸に飛び込んできた。
 
 
 
 「……綾波?」
 
 シンジは、自分の体に腕を回して抱きついているレイを、驚いたような表情で見つめていた。
 
 ……どうしたのだろう?
 
 「綾波……どうしたの?」
 
 シンジは、困惑した表情で、ぎゅっとしがみついているレイに問い掛ける。
 
 額をシンジの胸板に押し付けるようにしていたレイは、シンジの問い掛けにも黙ったままだ。
 
 ……そして、数拍を置いて……レイは、くぐもった声を発した。
 
 
 
 「……私は……碇君が……好き」
 
 
 
 「う……うん」
 
 シンジは、少しだけ頬を染めながら、頷いた。
 
 急に何を言いだすのか、と、内心……首筋の熱さを感じずにはいられない。
 
 「僕も……好きだよ」
 
 照れ臭さを覚えながら、微笑んで、呟く。
 
 
 
 「……うん」
 
 レイは、小さな……消え入りそうな声で、応えた。
 
 そして、顔を半分だけ上げて……シンジの服の、しわの間から覗き込むようにして、視線を向ける。
 
 「ん?」
 
 シンジは、首を傾げて、レイを見た。
 
 レイは、そのまま……じっと上目遣いにシンジを見つめたあと……再び、額をシンジの胸に押し付けて……口を開いた。
 
 
 
 「碇君……」
 
 「ん? ……なに?」
 
 「碇君……。
 
 私たち……
 
 ……恋人、同士?」
 
 
 
 「……う……うん、そう……だよ」
 
 シンジは、頬を染めながら、応えた。
 
 「そう、だよね? ……綾波」
 
 「……うん」
 
 レイは、額を押し付けたまま、シンジの言葉に頷く。
 
 
 
 「……碇君……
 
 ……いなくならないで……」
 
 
 
 レイの、呟きは……微かに届く泡音にも掻き消されるほどの、小さな……小さな、呟きだった。
 
 しかし……額を押し付けられた胸から、微かな震えが伝播するように……確かに、はっきりと、シンジの耳朶に届く。
 
 
 
 ……いなく、ならないで。
 
 
 
 シンジは、黙ってレイの身体をきつく抱き締めた。
 
 ただ……レイの温もりを、体中で感じられるように。
 
 自分の想いが……レイの体中に、伝わるように。
 
 
 
 「いなく……ならないで……」
 
 強く、強く抱き締められながら……レイは、もう一度、囁くように繰り返した。
 
 シンジは、レイの髪の毛に鼻先をうずめたまま、目を閉じた。
 
 「……いなくならないよ」
 
 「……本当?」
 
 
 
 「覚えてる?
 
 ……前に、言ったでしょ……
 
 ……ずっと、そばにいる……って……」
 
 
 
 レイは、もう一度……強く、シンジの身体にしがみついた。
 
 そのまま、小さく、息をつく。
 
 
 
 ……シンジの知る世界で……自分がシンジを好きでいなかったという事実は、驚愕以外の何者でもなかった。
 
 レイは、ただ、じっと考える。
 
 ……こんなに、好きなのに。
 
 ……こんなに、愛してるのに。
 
 
 
 ……シンジを愛していない自分。
 
 そんな自分を、想像することが出来なかった。
 
 シンジが、自分の中にいない、世界……
 
 ……そんな世界には、一秒だっていたくはない、と、思う。
 
 
 
 シンジがいてよかった、と、心から、思う。
 
 シンジが、生きてきた、世界……それは、どこでその世界に向かっていたとしてもおかしくないような、僅かな違いかも知れない。
 
 それは……シンジが、いてくれたから。
 
 シンジが、自分のそばにいてくれたから、変わったのだと……知っている。
 
 
 
 離れたくない。
 
 いつまでも……
 
 ……一緒に、いられたらと……思う。
 
 
 
 それは、確かな、想い。
 
 
 
 シンジは、レイの身体をきつく抱き締めていた腕から、柔らかく、力を抜いた。
 
 レイが、顔を上げる。
 
 シンジは、そんなレイを見て……穏やかに微笑む。
 
 シンジはレイの肩を掴むと、ゆっくりとその身体を離した。
 
 レイは、不安そうな視線を向ける。
 
 
 
 「綾波……こっちに来て」
 
 言いながら、シンジは、歩き出した。
 
 
 
 急に歩き出したシンジに驚きながら、レイは、慌ててシンジの後を追う。
 
 
 
 シンジは、部屋の中央に向かって足を進めていく。
 
 その方向にあるものは、巨大な水槽……
 
 ……レイはそれに気付いて、一瞬、身を硬くしたが……
 
 ……立ち止まって、俯き、ギュッと拳を握り締めると……顔を上げて、前を見据え……すぐに、駆け出した。
 
 
 
 こぽこぽ……こぽこぽ……
 
 泡音が、左右からシンジの耳に届く。
 
 シンジは赤茶けた金属の床をゆっくりと進み、やがて……部屋の中央で、足を止めた。
 
 
 
 無数の紅い瞳が、シンジを見つめていた。
 
 水槽の中に満たされた黄色い液体の中に、幾人もの「綾波レイ」が浮かんでいる。
 
 張り付いたような笑顔を浮かべて……瞳が素早くシンジを追う。
 
 
 
 強烈な、威圧感。
 
 だが、シンジの心は、穏やかだった。
 
 ……この、数多くの脱殻たちには、心が無い。
 
 シンジを見つめているように見えても……それは、動くものを生理的に追っているだけだ。
 
 何の感情も、持っていない。
 
 
 
 初めて、ここで彼女達を見たときには……心臓を掴み上げられるような恐怖を覚えた。
 
 それは、事実だ。
 
 ……それは、まるで、冷たい視線に囲まれた恐怖を感じたからでもあったし……それに、「綾波レイ」という存在の、予想もしていなかった不可侵さへの畏怖もあったと思う。
 
 
 
 だが、今は、違う。
 
 もちろん……既に一度知っている光景であり、心の準備がとうに出来ているから、という理由もあるのだが。
 
 
 
 何より……
 
 ……ここに浮かぶ「綾波レイ」と、現実の「綾波レイ」が、もはや……まるで同一視できないほど、はっきりと、違う存在になったからだ。
 
 
 
 「……碇君」
 
 シンジの横に立ったレイは、おずおずと、シンジの袖をつまんだ。
 
 シンジは、横に立つレイに視線を向ける。
 
 レイは、じっと、口を結んでいたが……しっかりと、周りの光景を見据えていた。
 
 目を、背けていない。
 
 はっきりと、目の前の全てに向き合っている様を、ただ、シンジは穏やかに見つめていた。
 
 
 
 「……碇君」
 
 もう一度……レイは、呟いた。
 
 そして、シンジに視線を向ける。
 
 しっかりと、揺るぎなく……シンジの瞳を、見る。
 
 
 
 「……私が、怖い?」
 
 
 
 シンジは、ゆっくりとかぶりを振った。
 
 シンジの胸の裡は、柔らかなもので一杯に満たされていた。
 
 ……レイが、動揺することなく……その、質問をシンジに問い掛けたこと……
 
 ……それは、ほんの数時間前には考えられないほどの、はっきりとした成長だった。
 
 
 
 「……怖くないよ、綾波。
 
 ……全然、怖くない」
 
 「……碇君……」
 
 「綾波……
 
 ……ここにいるのは、綾波とは、違う。
 
 もちろん……もしここで、綾波が急に死んでしまうようなことがあったら……自動的に、ここの綾波のどれかが、新しい綾波になるんだろうとは、思う。
 
 ……でも、それは、違う。ここにいる綾波達が、綾波であることにはならない。
 
 綾波……綾波は、「魂」が、綾波なんだ。「心」が、綾波なんだ。……それは、綾波は一人しかいない、ってことだと思うよ」
 
 
 
 「碇君……」
 
 レイは、ただ、シンジの瞳を見つめていた。
 
 
 
 シンジは、つい……と、つま先を横に向ける。
 
 レイは、シンジの袖をつまんでいた指先を、そっと放した。
 
 シンジは、その手を一度、優しく握って……再び放し、そのまま、水槽に向かって歩いていく。
 
 レイは、その後ろ姿を……ただ、じっと、見つめ続ける。
 
 
 
 緩やかなカーブを描く耐圧ガラスの前に、シンジは佇んだ。
 
 ガラスに映り込む、自分の姿。
 
 その向こう側に、裸で浮かぶ、幾人ものレイが、いる。
 
 こぽこぽと、小さな気泡を浮かび上がらせながら……ゆっくりと、緩やかに回転しながら……黄色い宇宙の中に、浮かんでいる。
 
 
 
 「ごめん……」
 
 シンジは、口の中で小さく呟いた。
 
 それは、たった一度だけの、呟き。
 
 
 
 君たちは……悪くない。
 
 君たちが、悪いわけじゃ、ない。
 
 
 
 でも……
 
 ……君たちは、いてはいけない。
 
 ……存在しては、いけないんだ……。
 
 
 
 シンジは、右腕を伸ばした。
 
 錆びたバルブが、手の平に収まる。
 
 「……碇君」
 
 レイが、小さく、呟く。
 
 
 
 赤錆た、金属の、ハンドル。
 
 シンジは、腕に力を篭めるが、しかし、かしいだ小さい音を立てて、バルブは回らない。
 
 一度、手を放す。……手の平に、赤い錆が移る。
 
 (血だ)
 
 シンジは、静かに思う。
 
 そう……例え、それが唯一の方策だとしても……決して、100%の素晴らしい手段ではないだろう。
 
 だが、犠牲を恐れてはいられない。
 
 もう……自分の手の平の、皺の一本一本に染み込んだ血の色は、取れるわけではないのだ。
 
 忘れないように……脳の襞に、はっきりと、刻み込んで。
 
 目を背けずに。
 
 前に、進んでいくしか、無い。
 
 
 
 もう一度、ハンドルを握り直す。
 
 力を篭めて……
 
 ……ゆっくりと、下に回す。
 
 
 
 ごぼ……
 
 ごぼ……ごぼ、ごぼ……
 
 ………
 
 ごぼっ、ごぼごぼごぼごぼっ、ごぼごぼっ……
 
 
 
 一度回りだすと、ハンドルは意外なほどに軽く、そのまま3回転した。
 
 バラバラと、表面の錆が床に落ちる。
 
 水槽の中に揺らめく気泡は、たちまち大きな泡に姿を変えていく。
 
 
 
 シンジは、黙って水槽から数歩、後ろに下がった。
 
 水槽の中で、その姿を追う、無数の瞳。
 
 だが、その身体は、まるで……豆腐のように、ぐずぐずと、崩れ落ちていく。
 
 
 
 レイは、自分の胸の前で、手の平をきつく握り締めた。
 
 自分の分身たちが……溶けて、消えていく。
 
 自分が、人間ではない、その証が……消えていく。
 
 
 
 言い知れない、恐ろしさがあるのは、事実だ。
 
 だが、目を逸らしてはいけないと思った。
 
 ボロボロと、音もなく崩れていく自分たちと……その前に立つシンジを、まるで網膜に焼き付けるかのように、じっと見つめる。
 
 
 
 シンジは、ゆっくりと、振り返った。
 
 沸き立つ泡と、崩れゆく人形たちの揺らめきが、シンジの背後を照らす黄色い光を激しく波立たせる。
 
 ……その、幻想的な光を背後に背負って、シンジは、レイを見る。
 
 
 
 「綾波……
 
 ……綾波は、一人だけだ。
 
 ……綾波は……綾波、ただ、一人だけだよ。
 
 
 
 ……綾波、僕は、綾波と、ずっと一緒に生きていく。
 
 人類を、滅びさせたりしない。
 
 アスカを、ミサトさんを、加持さんを……
 
 カヲルくんを……トウジを……
 
 ……綾波を、死なせない。
 
 
 
 ……繰り返したり、しない。
 
 絶対に、食い止めてみせる。
 
 綾波……僕は、そのために、戻ってきたんだ。
 
 みんなが……幸せになるように……
 
 ……そのために、戻ってきたんだよ……。
 
 
 
 ……綾波……
 
 
 
 ……僕に、力を、貸してくれ」
 
 
 
 シンジの言葉に合わせるように、気泡の音は一段と激しくなり……やがて、「綾波レイ」だったものの、最後の一片も、溶けて消えた。
 
 レイは、この世に……ただ、一人だけになった。
 
 ただ、一人……
 
 ただ、一人の、人間として……。
 
 
 
 レイは、何を言っていいのか、分からなかった。
 
 余りにも……色んなものが、自分の中に満たされていて、何も言えなかった。
 
 
 
 ……だから、レイは、たった一言……
 
 「……うん……」
 
 ……それだけ、答えた。
 
 
 
 右の目から、一粒の涙が頬を伝い、床に落ちた。
 
 でも、ちっとも悲しくはなかった。
 
 涙を浮かべたまま、レイは……
 
 ……ただ、最高の微笑みを浮かべるのが、精一杯だった。