第八十二話 「心の扉」
三百八十六



 開いたエレベーターの扉を前にして、シンジはまず、手に持った目眩しの赤いボタンを押し、すぐにその中に乗り込んだ。
 
 レイもそれに続き、二人を中に迎えて扉はゆっくりと閉じる。
 
 
 
 シンジは、ボタン群の下の壁にある、細い隙間にカードを差し込む。
 
 壁の一部がスライドし、シンジがその裏側から現れたボタンを押すと……ゆっくりと、浮き上がるような荷重を体に感じた。
 
 
 
 白い匣の中で、レイとシンジは、ただ、手を繋ぎあったまま、無言だった。
 
 カチン、カチン、カチン……
 
 現在の通過階を示すダイヤルが、メトロノームの様に、乾いた音を鳴らし続けていく。
 
 
 
 レイも、シンジも、お互いの方を向かなかった。
 
 二人とも、前の壁だけを見つめている。
 
 
 
 ……カチン、カチン、カチン……
 
 ……カチン、カチン、カチン……
 
 ……カチン、カチン、カチン……
 
 
 
 音の余韻に新たな音が重なりあうように、ただ、繰り返し、繰り返し、無機質な音色が響く。
 
 その音は、レイの耳朶から、直接……脳の襞の隙間に染み込んでいくような錯覚を覚えた。
 
 
 
 どこまでも、続いていく。
 
 まるで……永遠に、途切れの無いように。
 
 
 
 彼女の思考は、既に深みに沈んで、停止していた。
 
 何も考えていないわけではないのだが、微に入って細に巡らせるのをやめて久しい。
 
 それは、思考する意志を放棄したわけではなく……もはや、来るべきところまで来てしまったことを表していた。
 
 
 
 この匣がどこまで降りていき、シンジが自分を連れてどこに行くのか。
 
 どこで何を語り、自分がそれにどう応えるのか。
 
 自分の秘密を、シンジにどのようにして語るのか。
 
 
 
 ……それは、もはや……考えても仕方がないことだ、と、レイは思った。
 
 
 
 全てを受け入れること。
 
 それを決めてから、心は落ち着いて穏やかだった。
 
 もっと早く決めたら良かった、とすら思う。
 
 
 
 もちろん、今晩の、この状況に至ったからこそ、レイはようやく最後の一歩を踏み出す決心が出来たのであり……今まで通り何も環境に変化がなければ、やはり自分の秘密をシンジに伝えるには抵抗があっただろう。
 
 しかし、とにかく……
 
 恐れていたよりもずっと穏やかに今という時を迎えていることに、レイは、静かな安堵を覚えていた。



三百八十七



 エレベーターが目的の階に到着するまでに、およそ3分ないし5分程度の時間が経過していた。
 
 高速エレベーターにしてそれほどの時間がかかるということは、相当に深い階まで降りてきたことを示している。
 
 
 
 シンジはもちろんとして……レイも、自分たちがどこの階に向かっているのか、初めから理解していた。
 
 それは、エレベーターの隠されたボタンをシンジが押した時から、分かっている。
 
 あの、数字も何も刻印されていない、ボタン。
 
 あの……無味乾燥な乳白色の四角いボタンが、どこに辿り着くためのボタンなのか、レイは知っている。
 
 
 
 ……ターミナルドグマ。
 
 
 
 二人を乗せた匣は、やがて……音もなく、静かに停止した。
 
 扉が開くと、そこには、ただ通路が奥に向かって延び……それは溶けるように闇の中に消えている。
 
 シンジが前に立ち、レイがその後に続く。
 
 二人が匣から出ると、エレベーターの扉は閉じ……空間は再び光を失った。
 
 
 
 暗闇の中で。
 
 存在を確かめるように、レイは、シンジの手の平を握り締める。
 
 天井に連なる、小さなランプの灯がシンジの輪郭を浮かび上がらせているが……その、表情までは伺い知れない。
 
 シンジは何も言わず、レイの手を引くように歩き出す。
 
 レイも黙って、やや横に立つように、足を進める。
 
 
 
 自分の足許も殆ど視認できない暗闇の中で、ゆっくりと、二人の靴音が響く。
 
 二人の足取りは、とてもゆっくりとしたものだ。
 
 シンジは、闇の中で……自分の足許が危ないのと同時に、レイのことも案じて、殊更に慎重に歩いているのだろう。
 
 だが、レイは……例え目を瞑って歩いたとしても、通路の隅々まで、全ての形状を頭に思い描くことが出来ていた。
 
 
 
 ……人生の、多くの時間を過ごした……小さな、試験管。
 
 彼女の人格の、形成の全ての礎。
 
 ……永い間……彼女にとっての、世界の全てだったものが、このフロアに凝縮されている。
 
 
 
 レイは……シンジと初めて出会ったあの病室の時以来、ほんの数回しか、ここを訪れていない。
 
 急に、ここの情景の全てが色褪せてしまったことと……シンジと共にいる世界に比べて、あまりにもこの世界が沈んで冷たかったからだ。
 
 ゲンドウの要請を受けて……やむなく、実験に参加したことが3回。
 
 ロンギヌスの槍を、白い巨人の胸に突き立てたのが1回。
 
 
 
 それも、思えば随分と、昔の話だ。
 
 まるでセピア色に褪せてくすんでしまった写真のように、レイにとって、それは遥か遠い出来事に感じられた。
 
 ……それはつまり、このわずか数ヶ月の人生が、レイにとって……それまでの十数年よりも遥かに濃密で、全てが充実した……そして、次から次へと彼女を変えていく、大いなる、鮮烈な事件の連続であったことを示していた。
 
 
 
 レイは、無言で、足を進める。
 
 彼女の視界に入っているのは……記憶の隅々まで浸透してしまった、この、見知った風景ではなく……ただ、目の前をゆっくりと歩いていく、愛しい少年の背中。
 
 輪郭しか見えない、その姿を、ただ、じっと見つめている。
 
 
 
 ターミナル・ドグマ。
 
 ……どこに、行くのだろうか?
 
 レイは、ぼんやりと、考える。
 
 ……シンジが、このドグマの存在を知っているとは思わなかった。
 
 それは軽い驚きでもあったが……よく考えてみれば……シンジなら知っていて当然だ、とも、思う。
 
 シンジは、想像もつかないさまざまなことを知っている。
 
 どういう情報網だかは分からない。だが、シンジがこのドグマのことを知っていること……それは、一拍置いてみれば、すんなりと受け入れることの出来ることだった。
 
 
 
 ……リリスのいる、あのLCL生成プラントへ行くのだろうか?
 
 ……だが、いま……そこに行かなければいけない理由が分からない。
 
 シンジは、「やらなければいけないことがある」と、言った。
 
 それは、何だろう?
 
 自分には分からない。
 
 
 
 闇に包まれて判然としないが、やがて……リリスの磔けられている、あの、LCLの海に繋がる通路が目に入ってきた。
 
 レイは、ただ、シンジの背中を見ている。
 
 これから、あそこを、曲がる……
 
 ……そして、リリスを前にして、自分に、何を語るのだろうか……
 
 
 
 ……だが
 
 
 
 ……シンジは、曲がらなかった。
 
 
 
 レイは、僅かに……目を見開いて、前を行くシンジの背中を見つめた。
 
 シンジは、LCL生成プラントへの通路を、通り過ぎた。
 
 逡巡の素振りすら、見せなかった。
 
 それは……まるで、初めから、目的の場所が、そこではないかのように……
 
 
 
 シンジは、レイの手を引いたまま……無言で歩き続けていく。
 
 
 
 レイの中に、得体の知れない、嫌な感覚が、染み込むように広がっていく。
 
 
 
 ここで、曲がるんじゃないの?
 
 碇君。
 
 そっちは……違う。
 
 ……道を……間違えているわ……。
 
 碇君。
 
 碇君。
 
 いかり……くん。
 
 
 
 ……そっちには……
 
 ……行きたく、ない。
 
 
 
 レイの表情が、強張っていく。
 
 視線が、落ちていく。
 
 
 
 分からない。
 
 この先に、何があったんだろう?
 
 何故、思い出せないのだろう?
 
 分からない。
 
 ここは……隅から隅まで、知っているのに。
 
 思考が、まとまらない。
 
 なにがあった?
 
 なにがあった?
 
 なにがあった?
 
 この先に……
 
 この先に……
 
 この先に……
 
 ……思い出せない。
 
 ……思い出せない。
 
 ……思い出せない。
 
 
 
 ……足の裏が、重い。
 
 意識が、集中できない。
 
 ……息が、苦しい。
 
 頭の中が、散らばっていく。
 
 ……こめかみに、冷たい汗が浮かぶ。
 
 
 
 ……行きたくない。
 
 ……行きたくない。
 
 ……行きたくない。
 
 
 
 でも、足は止まらなかった。
 
 重い。
 
 泥濘みの中を、一歩、一歩、進むように。
 
 重い。
 
 足に、幾重にも鎖が絡みついているように。
 
 
 
 でも、足は止まらなかった。
 
 嫌がってもいい。
 
 渾身の力で、抵抗してもいい。
 
 そうでなくても、口に出して、「行きたくない」と言えばいい。
 
 碇君は、私のその言葉に、頷いてくれるかも知れない。
 
 じゃぁ、やめようか? と、微笑んでくれるかも知れない。
 
 
 
 でも、足は止まらなかった。
 
 体中を這い上がる、例えようも無いほどに苦しく黒い思い。
 
 停ってしまえば、楽になる気がした。
 
 きびすを返してしまえば、楽になる気がした。
 
 だって、こんなに苦しいんだもの。
 
 だって、こんなに、行きたくないんだもの。
 
 
 
 でも、足は止まらなかった。
 
 
 
 シンジは、一度も振り返らなかった。
 
 レイの歩みが重く、遅くなっていくことは、彼も感じているはずだ。
 
 シンジは、それに併せるように、自分の歩みも遅くさせていく。
 
 だが、一度も振り返らなかった。
 
 どんなに……まるでいたわるように、レイの歩調に合わせてゆっくりとした歩みになっていっても、足を進めるのをやめなかった。
 
 
 
 そうして……二人は、通路を進んでいき……
 
 
 
 やがて……
 
 ゆっくりとした足取りが、停った。
 
 レイは、完全に下を向いていて……顔を上げることが出来なかった。
 
 わからない。
 
 わからない。
 
 いま、じぶんがどこにいるのか?
 
 なにが、こんなにいやなのか?
 
 わからない。
 
 なにも、かんがえが、まとまらない。
 
 「綾波」
 
 シンジが、ゆっくりと振り返って……レイに、声を掛ける。
 
 レイは、俯いたまま…ただ、ぎこちなく、シンジの手を握るその掌に力を篭める。
 
 汗が顔中に浮かんでいるのを感じる。
 
 ……こんなに、噴き出すように汗をかくのは、もしかしたら初めてかも知れない。
 
 鼻梁を伝って、滴が落ち、床に落ちる前に闇に溶けて消えていく。
 
 
 
 「……綾波」
 
 シンジは……もう一度……噛みしめるように、ゆっくりと……繰り返す。
 
 「綾波……顔を、上げて……」
 
 
 
 レイは、シンジの言葉に引かれたように、ぎこちなく……首を挙げた。
 
 それは、油の切れた、人形のような動きだった。
 
 
 
 見つめる先に、シンジの顔が見える。
 
 だがそれは、目鼻立ちがかすかに分かる程度で、それ以上の表情を掴むことが出来ない。
 
 そして……それゆえに。
 
 シンジの後ろの壁で、たった一箇所だけ、赤い色に暗く光るプレートに視線が動く。
 
 
 
 CLONING HUMAN PLANT : TERMINAL DOGMA.
 
 
 
 その文字は、レイの網膜に飛び込んでから、実際に脳に到達して意味を咀嚼し理解するまでに、数拍の間を要した。
 
 レイの紅い瞳が、震えるように収縮する。
 
 その、恐ろしい文字は、しかし……銀製の釘で縫い付けたように、レイの視線を縫い付けて放さなかった。
 
 
 
 膝から下の、力が抜けていくような感覚を覚えて、レイは必死に踏み止まった。
 
 ……思考が、四散する。
 
 正常な考えが纏まらない。
 
 
 
 ……なぜ?
 
 ……なぜ、いかりくんが、ここに、いるの……?
 
 
 
 ……なぜ……いかりくんが、ここを……しっているの……?
 
 
 
 シンジの体に縋り付きたかった。
 
 そうでもしなければ、この、硬い床の上に、踏み止まれないような気がした。
 
 足首から、一気に深い沼の中に、沈み込んでしまう気が、した。
 
 
 
 だが、レイには、シンジに手を差し伸べて、縋ることができなかった。
 
 わからない。
 
 だが、手を伸ばしてはいけない気が、したのだ。
 
 シンジは、じっとレイを見つめている。
 
 シンジにも、レイの変化は分かっているはずだ。輪郭しか見えない空間でも、レイの様子は、空気中を伝播するように……毛穴の全てから浸透するように、シンジにも伝わっているはずである。
 
 だが、シンジも、レイに、手を伸ばさない。
 
 倒れそうになるレイを、支えてやろうとは、しない。
 
 
 
 分かっている。
 
 分かっている。
 
 
 
 本当は、支えてやりたくてたまらないのだ。
 
 倒れそうになるレイを、遮二無二抱きしめてやりたい。
 
 その気持ちを、必死の思いで堪えている。
 
 全身の筋肉を集中させて、抱きしめようと働く筋肉を、押しとどめている。
 
 
 
 それが、分かっているから……
 
 ……分かっているから、レイは、必死に顔を上げた。
 
 
 
 「……綾波」
 
 
 
 シンジは、優しい口調で、レイに話しかける。
 
 シンジに、レイの表情は見えない。
 
 レイにも、きっと、自分の表情は見えていない、と思う。
 
 だから……手を差し伸べてやれない代わりに、可能な限りの優しさを篭めて、シンジは、レイに話しかける。
 
 
 
 「……綾波……この、扉を……開けて欲しい」



三百八十八



 「……いか……り、くん……」
 
 レイは、擦れたような声で、シンジの名前を、呼んだ。
 
 シンジは、ただ……闇の中で……レイに向けて、言葉を繋いでいく。
 
 「綾波……綾波は……カードを、使わないで、この部屋に……入れるね?」
 
 ゆっくり……レイの耳を言葉が素通りしていくことが無いように……彼女の意識に、言葉が確かに引っ掛かるように、ゆっくりと、発音していく。
 
 「……ど……う……して?」
 
 「綾波のカードは……僕らと同じ、レベル1の、カードだ。……でも……綾波は、この部屋を、出入り出来るよね? カードを使っては、入れない。……他の方法が、あるだろう?」
 
 
 
 シンジは、それを知っている。
 
 知っていて、敢えて、レイに尋ねている。
 
 
 
 レイが生まれたのは、14年前。
 
 その時にはMAGIは完成していなかったし……赤木ナオコは、レイの存在を知らなかった。
 
 当然のことながら、あのレイの分身達が浮かぶクローン生成工場は、あの当時からあったはずで(でなければ、二人目のレイに魂が移動することが出来ない)……それはつまり、この部屋がMAGIの管轄下から離れていることを意味していた。
 
 もちろん、今ではリツコの存在もあることだし……MAGIの管理するセキュリティ・カードシステムは、それはそれで生きているだろう。
 
 だが、それとは全く別の……ゲルヒン時代から生きている管理システムがあるはずだ。
 
 そして、レイは、その方法を知っている、と、シンジは考えたのだ。
 
 
 
 ……そして、それは、正しい推理だった。
 
 レイの網膜判定による、レイ個人にのみ通用するセキュリティシステムが、この部屋には、ある。
 
 そしてそれは、完全に……MAGIから独立したセキュリティシステムなのである。
 
 
 
 レイは、呼吸することを忘れたように……ただ、じっと……固まったまま、シンジの顔を見つめていた。
 
 噴き出していた汗は、一瞬にして、乾いてしまっていた。
 
 ただ……瞬きもせず……シンジを、見つめ続けている。
 
 
 
 シンジは、言葉を切っていた。
 
 二人の間には、静寂が静かに横たわっている。
 
 
 
 ……この、扉を、開けろと……
 
 ……碇君は、言った。
 
 
 
 レイの頭脳に、ゆっくりと、情報が伝わっていく。
 
 
 
 脳の中に張り巡らされたシナプスが、ひとつ、ひとつ……咀嚼するように、意識を覚醒させていく。
 
 
 
 ……碇君は……
 
 
 
 ……知って……いる……。
 
 
 
 その事実は……静かに、染み渡るように……レイの脳細胞の隙間に、浸透していった。
 
 ……そうだ……。
 
 ……碇君は……
 
 ……この、部屋に、何があるのか。
 
 
 
 ……知っている……
 
 
 
 ……知って、いる。
 
 
 
 それは、にわかには信じがたい、事実。
 
 ゲンドウと、リツコと、冬月と、自分。
 
 それ以外の誰であろうとも、触れることの有り得ないはずの、事実。
 
 幾重にも、深く、隠蔽された、禁忌。
 
 
 
 それを、シンジは、知っている。
 
 
 
 なぜ? と思う気持ちとともに、レイの心は、本人にも分からぬ不可思議な感情に襲われていた。
 
 シンジは、ずっと、自分の秘密を知っていた。
 
 ……にも、関わらず。
 
 その事実について、一度も、触れなかった。
 
 
 
 なぜ……
 
 静かに、……沈み込むように、レイの脳裏に、「何故」の言葉が浮かぶ。
 
 なぜ……
 
 なぜ……
 
 なぜ……
 
 
 
 ……なぜ。
 
 
 
 「……な……ぜ」
 
 水分の足りぬ、纏わりつくように渇いた喉から、掠れた声が、こぼれ落ちる。
 
 なぜ。
 
 ……なぜ、言ってくれなかったのか?
 
 ……知っていると……言って、くれたら……
 
 
 
 ……くれたら。
 
 私は……
 
 
 
 わたしは……
 
 
 
 「……綾波……」
 
 シンジの声が、小さく、他の誰もいない廊下に響いて消えていく。
 
 「……僕は……綾波に、ひどいことを、している」
 
 
 
 「……碇……君」
 
 
 
 「……分かってる……
 
 ……綾波。
 
 ……僕が……していることが、許されないことだということも、分かってる。
 
 ……でも……
 
 言うことが、出来なかった。
 
 綾波が、耐えられないと、思ったから。
 
 僕の、勝手な判断だ。
 
 綾波の意志と無関係に、僕が、自分で決めたことだ。
 
 僕は、綾波が……きっと、耐えられないと……思っていたんだ」
 
 
 
 レイは、じっと……シンジの顔を見つめていた。
 
 
 
 耐えられない……
 
 
 
 ……私が?
 
 
 
 なにに?
 
 
 
 「僕の、思い込みだ」
 
 
 
 それは……
 
 
 
 「綾波が、憤りを覚えるのは、分かる……
 
 ……僕は、ひどいことを、している」
 
 
 
 それは……
 
 
 
 「……でも……僕は、綾波が、どれくらい成長しているのか……分かりかねてた。
 
 それは、本当だ。
 
 綾波の……ために……その……言えない、と、思っていた」
 
 
 
 それは……
 
 
 
 「綾波……僕は、綾波に……殴られても、嫌われても……仕方がないことを、してきたと、思ってる。
 
 でも、綾波……僕が、綾波を、想っている気持ちは、嘘じゃない。
 
 それは……本当だよ。
 
 綾波……
 
 間違っていたかも知れない。でも、これしかないと……思ったんだ……」
 
 
 
 ………
 
 
 
 ……それは……
 
 
 
 ………
 
 
 
 ……わかってる。
 
 
 
 ………
 
 
 
 ……わかってる。
 
 
 
 ……わかってる。
 
 
 
 ……わかってる。
 
 
 
 レイは、視線をシンジのシルエットに固定したまま、瞬きすらも忘れていた。
 
 瞳が、乾く。
 
 じわり……と、目尻に涙の一滴が浮かび……それはぽろりとこぼれ落ちて、頬を伝って消えた。
 
 
 
 震えが、止まっていた。
 
 
 
 そう……
 
 ……わかってる。
 
 ……そう……
 
 
 
 ……碇君は……
 
 
 
 ……私を護ってくれたんだと、言うことを……
 
 
 
 「……う……ん」
 
 レイは、ぎこちなく、頷いて声を出した。
 
 自分の喉を通って出た声なのに、まるで別人のように掠れた声音に、自分で少し、驚く。
 
 口を閉じて、唾液を飲み込む。
 
 瞼を閉じて、瞳を休める。
 
 
 
 目を、開く。
 
 
 
 「……わ……かっ……てる」
 
 レイは、呟いて……足を踏みだした。
 
 今度は、声が、ちゃんと出た。
 
 たどたどしく、震えながらしか声は出なかったけれど、はっきりと、話すことが出来た。
 
 踏みだした足は、硬い床を踏みしめ……沼に沈み込んだりはしなかった。
 
 膝から下に、まだ、力が入らないけれど……小刻みに、微かに、震えているけれど……
 
 ……それでも、前に、向かっている。
 
 
 
 更に、足を数歩踏み出して……レイは、シンジの方に歩く。
 
 途中で、もつれるように、膝下から力が抜けた。
 
 「あっ」
 
 かくん、と、前のめりに体を崩して、バランスを失う。
 
 その体を、シンジが咄嗟に手を伸ばして、抱きかかえた。
 
 「あっ……」
 
 「……綾波」
 
 支える腕に縋るレイの手は、冷たかった。
 
 シンジは、胸の奥に、微かな痛みを覚えて……唇を噛みしめる。
 
 
 
 ……レイの体は
 
 ……震えていた。
 
 
 
 だが、レイは、体を起こすと……顔を上げて、シンジの腕の中で……シンジの瞳を、見据えた。
 
 鼻先が触れ合うような距離で、シンジとレイは、ようやく……微かに、お互いの、瞳の光を認め合う。
 
 
 
 レイは、シンジの瞳の中に、確かな暖かさを感じていた。
 
 そう……
 
 ……レイは、静かに、思う。
 
 ……そう。
 
 ……シンジは、自分を、護ってくれたのだ。
 
 ……そう……自分が、そんなことを考えもしなかった頃に……シンジは、確かに、自分を護ってくれていたのだ……。
 
 
 
 それは、確かな温もりとなって、冷えた体を癒していくのを感じていた。
 
 怖い。
 
 確かに、怖い。
 
 でも……
 
 
 
 ……碇君は、分かってくれる。
 
 自分のことを。
 
 分かってくれる。
 
 
 
 
 碇君は、
 
 拒絶したり……しない。
 
 私を。
 
 ……絶対に。
 
 
 
 気付くと、レイは、シンジの唇に、自分の唇を重ねていた。
 
 
 
 一瞬の……自然な、想い。
 
 
 
 そして、すぐに、唇を離す。
 
 
 
 「綾波……」
 
 呆然と……驚いたようにシンジは、腕の中のレイに、呟いた。
 
 レイのキスの意図が、一瞬、分からなかったからだ。
 
 レイは、もう一度、今度はシンジの胸に頬を寄せると……ゆっくりと、体を起こして、シンジの腕をほどいた。
 
 
 
 「……綾波」
 
 
 
 「……大丈夫」
 
 今度こそ、震える声ながらも……しっかりと、呟く。
 
 そして、レイは、扉の方に体を向けた。
 
 赤い文字が陰鬱に揺らめくプレートの上部に、小さく汚れたレンズが見える。
 
 レイは、そのレンズを、見据えた。
 
 揺るがぬ、視線で。
 
 そして、口を開く。
 
 
 
 「……綾波、レイ」
 
 
 
 ガシュッ!
 
 錆を含んだ鉄の扉は、微かな粉塵を空気中に舞い上がらせながら、左右のポケットに勢い良く吸い込まれた。



三百八十九



 大きく開いた扉の向こう側には、巨大な水槽の曲いガラスが、かすかな光を照り返していた。
 
 まだ、この位置から、水槽の中身は見えない。
 
 
 
 ここは、前回の人生でシンジがこの部屋に入った時とは、別の入り口である。
 
 あの時、このクローン生成工場へ来る道の途中には、廃棄された夥しいエヴァンゲリオンの残骸がその通路の両側を連ねていた。
 
 あれは、裏側のシャフトに面した通路である。
 
 ……今回は、遠回りをする必要はない。
 
 シンジは、まっすぐここへやって来たのだ。
 
 
 
 レイは、目の前に開かれた、その見知った風景を前にして……やはり、さすがに足首からせり上がるような激しい震えに抗しきれなかった。
 
 目に見えて、ガクガクと膝が震える。
 
 レイは、飛び付くように自分の両膝を押さえつけた。
 
 再び、額やこめかみに汗が浮かぶのを感じる。
 
 顔が、青ざめていくのが、分かる。
 
 
 
 倒れてはいけない、と、思った。
 
 ここで、倒れてはいけない。
 
 両足の裏を、必死に地面に喰い付ける。
 
 ……耐えなければ……
 
 
 
 ……その肩を、シンジが、優しく両手で包んだ。
 
 ……暖かな、温もり。
 
 レイは、振り返った。
 
 通路よりは、ずっと明るいこの部屋で……初めて、シンジの顔を見る。
 
 
 
 シンジは、いたわるような瞳で、レイを見つめていた。
 
 「……ありがとう、綾波」
 
 「……いかり……くん」
 
 シンジの呟きに、擦れた声音でレイが応える。
 
 
 
 シンジにとって、今のレイの苦しみは……それこそ共有することなど出来はしないが、例えようも無い程、深く、辛いことを痛感していた。
 
 分かっている。
 
 あの……自らの意志で、この部屋にシンジを招き入れる、そのこと自体が……彼女にとって、どれほど絶大なる意味を持っているのか。
 
 どれほど、計り知れない勇気を振り絞ったことなのか。
 
 
 
 分かっている。
 
 
 
 だから、もう、充分だった。
 
 
 
 「……ありがとう……ごめん」
 
 シンジは、もう一度、繰り返す。
 
 レイの顔中に、汗が噴き出ている様が見て取れる。
 
 彼女の身体が、まるでコンクリートの如く固まっていることを感じる。
 
 彼女の肌が生来の白さを更に上回るほどに青ざめているのが目に入る。
 
 
 
 それで、充分だった。
 
 
 
 彼女が……
 
 ……大きな壁を、確かに越えたことを、感じていた。
 
 
 
 「いかり……くん」
 
 レイは、シンジの顔を見上げたまま、震える声で、呟く。
 
 シンジは、レイの肩を掴んでいた手を離すと、今度は両腕でレイの身体を抱き竦めた。
 
 「あっ」
 
 シンジに引き寄せられたため、硬く強張っていたレイの身体は、ガクン、と杖を失ったようにシンジの胸に倒れ込んだ。
 
 シンジは、ギュッ……と、力を篭めて、レイを抱き締める。
 
 レイは、目を見開いたまま……ぎこちなく強張った身体を、シンジの胸板に預ける。
 
 
 
 レイの体中に、シンジの温もりを感じる。
 
 触れ合う肌と肌から、シンジの暖かさの全てが、溶け出すように伝わってくる。
 
 体中の細胞の一つ一つに、シンジの想いが染み込んでくる。
 
 
 
 「……碇……くん……」
 
 ……ややあって、レイは……ようやく、全身の力を抜いて、ゆっくりとシンジの身体に寄り添い、深い息をついた。
 
 
 
 碇君は……私を、分かってくれる。
 
 今の私を。
 
 それが……嬉しい……。
 
 
 
 彼女の背中に、確かに生えていた羽は……しかし、生まれてから今日まで、ずっと、硬い鎖に締め付けられていた。
 
 レイはそして、シンジに出会うまで、その事実にすら、気付いていなかったのだ。
 
 それは、とても、寂しいこと。
 
 それは、とても、哀しいこと。
 
 
 
 しかし、そんな彼女の世界を……シンジが、変えたのだ。
 
 シンジが、重い扉のノブを、最初に廻し……
 
 ……気付けば、シンジが、アスカが、ヒカリが、トウジが、ケンスケが、ミサトが……
 
 ……彼女を取り巻くみんなが、その扉を、押し広げていく。
 
 みんなが、自分の意志で……レイの心の前に立ちはだかる扉を、一歩、一歩、開いていく。
 
 
 
 そして……
 
 ……光が溢れる、その、扉の向こう側に向けて……
 
 最後の力を振り絞って、大きく扉を跳ね開けたのは……他ならぬ、レイ、自身だった。
 
 
 
 シンジは、それが、嬉しかった。
 
 
 
 「綾波……」
 
 シンジは、レイの前髪の中に、鼻先をうずめて、囁く。
 
 二人以外の誰もいない、この空間の中で。
 
 微かなオレンジ色の灯が、二人の姿を浮かび上がらせている。
 
 お互いの、温もりと。
 
 お互いの、優しさと。
 
 お互いの、愛しさと。
 
 
 
 レイは、シンジの言葉に応えない。
 
 ただ、そっと、頬をシンジの身体にすり寄せて、瞼を閉じた。
 
 このまま、全ての時間が止まっても構わないとすら、思う。
 
 
 
 「綾波……」
 
 シンジは、もう一度、呟いた。
 
 穏やかな、気持ちが、シンジと、レイを、包んでいた。
 
 
 
 何物にも代えがたい、
 
 
 
 穏やかな時間と、
 
 
 
 穏やかな空気の中で……
 
 
 
 シンジは、ゆっくりと、口を開いた。
 
 
 
 「綾波……
 
 ……僕は……
 
 ……未来から、来たんだ……」