第八十一話 「扉」
三百八十二



 「……大事な、話?」
 
 レイは、シンジの首筋から顔を上げると……少しだけ首を傾げて、問い返した。
 
 シンジは、レイの両肩を優しく掴んで、ゆっくりと肯く。
 
 「……そうだよ。
 
 ……大事な、話……」
 
 「……ここでは、話せないことなの?」
 
 「……やらなければ、いけないことが……あるんだ」
 
 
 
 ……空を覆う雲に隠れていた月が、風と共に、ゆっくりと、姿を現す。
 
 カーテンが柔らかく風を巻いてたなびき、暗闇に埋もれていた二人の輪郭を碧く浮かび上がらせていく。
 
 
 
 レイの紅い瞳と、シンジの黒い瞳に……碧い月の姿と……お互いの姿が、浮かび上がる。
 
 
 
 暫くの間……シンジの瞳を見つめていたレイは、やがて……静かに、小さく、肯いた。
 
 
 
 「うん……」
 
 呟くように、応えるレイ。
 
 シンジも、優しく肯き返す。
 
 「じゃぁ……出掛けるから、支度をして……」
 
 シンジの言葉に、レイはふるふると首を左右に振り、右手できゅっ……とシンジのシャツの裾をつまんだ。
 
 「……いい。別に、何も支度するものなんて、ないわ」
 
 「ん……そう? ……じゃぁ、行こうか」
 
 シンジは肯くと、自分のシャツをつまんだレイの手を包むように握り、ゆっくりとほどいて……
 
 その手の平に、自分の手の平を重ねた。
 
 レイが、シンジの顔を見る。
 
 シンジは、穏やかに微笑んだ。
 
 
 
 ……それは、あの……
 
 
 
 ……レイの胸の奥にしまわれた、ポートレイトと、同じ……
 
 
 
 ……レイは、ゆっくりと、目を見開いた。
 
 シンジは、レイの手を、導くように引く。
 
 「行こう」
 
 もう一度、そう……呟くと……
 
 
 
 やがて二人は、玄関をこえて、歩き出していた。



三百八十三



 廊下に出たところで、シンジは携帯電話を取り出した。
 
 計画性も無い、と叱責されそうだが、今、こうして、二人で家を出ているという展開は、つい先程までは考えていなかったことだ。
 
 このまま、ただ何となく目的の場所に辿り着いても、そこでいろいろ困ってしまうであろうことは分かる。
 
 準備は、必要だ。
 
 
 
 登録された番号を繰り、並ぶ名前の中から一つを選び出す。
 
 
 
 耳に当てた携帯電話の向こう側から、1回分にも満たないコールの後、即座に反応が戻ってきた。
 
 『いつもと同じ部屋にいるよ』
 
 という言葉と共に、通話が途絶える。
 
 
 
 エレベーターを降りたシンジとレイは、目の前の部屋に入り込んだ。
 
 
 
 玄関の目の前の、リビングに繋がる廊下に、加持が立っていた。
 
 シンジは、扉を閉める。
 
 シンジの横に立ったレイは、加持の顔を見て、少しだけ驚いたように目を見開く。
 
 
 
 「深夜のデートかい? おふたりさん」
 
 加持は、壁に寄り掛かって、楽しそうに笑った。
 
 シンジは、僅かに肩を竦めて見せる。
 
 「そういうことでもいいですよ」
 
 「二晩連続の家出か? 葛城にどやされるぞ」
 
 「……仕方がないですから」
 
 
 
 シンジの言葉に、加持は、微笑みで応えた。
 
 腕を組む。
 
 「で、俺に何の用だい? ……何を、して欲しいんだ?」
 
 ……『どこに行くのか』とは、聞かなかった。
 
 必要であればシンジが言うだろうし、言わなければそれは「言えないこと」なのだ、と、加持は心の中で思う。
 
 
 
 「今朝の、箱と……」
 
 「箱?」
 
 「目眩しのやつです」
 
 「ああ……」
 
 「あと……」
 
 シンジは、加持の顔を見た。
 
 「……レベル6のカードを、貸して下さい」
 
 
 
 レイは、シンジの顔を見つめた。
 
 ……レベル、6?
 
 ……NERV……の……?
 
 加持は、少しだけ眉を上げる。
 
 「使ってもいいが……あれは、もう、所有者不明のカードじゃぁ無い。記録上は、俺が使ったという扱いになると思うが……それで、構わないのかい?」
 
 「ああ……そうか……」
 
 シンジは、困ったような表情になって、自分の鼻の頭をつまみ……考え込むように、視線を落とした。
 
 加持に、迷惑をかけるわけにはいかない。
 
 だが、自分のカードやレイのカードは使えないだろう。
 
 今後のことを考えても、二人がカードを使った記録を残しておきたくない。
 
 「まぁ……レベル5までなら、使ったことが無いカードがある」
 
 「えっ?」
 
 加持の言葉に、シンジは顔を上げる。
 
 加持は、天井を見上げながら……まるで、今晩の夕食の献立を思い巡らすように、軽い口調で呟いた。
 
 「一応、1から6まで、全レベルのカードがあるんだ。それぞれ1枚ずつしか、とても用意できなかったが……
 
 実は、最初に使ったのが、レベル6のカードでな。あとはもう……何回使っても、俺が使ったことがバレるだけだから、逆に気にしなくなってしまって……
 
 だから、他のカードは使ったことが無いんだ。
 
 そこまで、極端に正体を隠しておきたい用事なんて、実際には、そんなにないんだ。だから大体、どんな用事もレベル6のカードで済ましてしまってるわけさ」
 
 顎を撫でる。
 
 「使うかい?」
 
 
 
 「……いいんですか?」
 
 シンジの言葉に、加持は、両手を広げて、大袈裟に仰いで見せた。
 
 「借りに来たんだろ? 駄目と言っても、引き下がれないんじゃないかい?」
 
 加持の言葉に、シンジは、少し赤面して頭を掻いた。
 
 その通りだ。
 
 「……すいません。ぜひ、お借りしたいです」
 
 「分かった」
 
 加持は、笑うと、奥の部屋に消えた。
 
 
 
 玄関の土間に残されたシンジとレイ。
 
 その、シンジのシャツの裾を、レイが引っ張った。
 
 シンジが横を向くと、レイの瞳が、自分を見ている。
 
 
 
 「……ジオフロントに……行くの?」
 
 「……うん、そうだよ」
 
 
 
 わからない……なぜ?
 
 こんな時間に……しかも、出来れば誰にも知られることなく、中に入りたいと思っているようだ。
 
 何を……しに、行くのだろう?
 
 
 
 やがて戻ってきた加持からシンジは、小さな金属の箱と、1枚のカードを受け取る。
 
 「使い方……というほどのものでもないな。ボタンを押す。それだけだ」
 
 「わかりました」
 
 「前後差はあるが、大体、2分くらいMAGIの記録をノイズに変換する。有効範囲は、2〜300メートル範囲内の記録装置をだまくらかすくらいかな……もちろん、連動している装置は距離が離れてても全部死ぬ。
 
 それから、カードを使うときには、基本的に、必ずこの目眩しを使うといい。
 
 カードを使った、という……その記録自体を消すことは出来ないが、リアルタイムに、報告が監査部に届くのは、避けられる。翌朝くらいまで、『誰かがカードを使った』ということ、そのものの発覚を妨げられるはずだ。
 
 いくら、所有者の名前が分からないカードと言っても、逆に……そんなものをバンバン使っているのにその場で気付かれたら、調査に黒服が走ってくることになるからな」
 
 なるほど……そこまで深く考えなかった、と、シンジは思う。
 
 いろいろ計画を練っていなかったのだから仕方がないことだが、しかし、加持のところを訪ねてよかった、と思う。
 
 
 
 「すいません……いろいろと」
 
 シンジは、箱とカードをポケットにしまって、加持に頭を下げた。
 
 レイも、つられたように、小さく頭を下げる。
 
 加持は、言葉で応えずに、ただ、笑って見せた。
 
 
 
 「何をしに行くのかまでは聞かないが……まぁ、気をつけて行ってくるといい。レイちゃんもいるしね」
 
 「すいません……気をつけます」
 
 加持の言葉に、シンジは、応えて……数秒の沈黙。
 
 そして、口を開く。
 
 「……なぜ、何も聞かないで……協力してくれるんですか?」
 
 
 
 加持は、面白そうに、少しだけ眉を上げた。
 
 「協力を求めてきたのは、シンジ君だろ。協力しないほうが、良かったかな?」
 
 「い、いえ……す、すいません」
 
 赤くなって、シンジは俯く。
 
 全く、加持の言う通りである。
 
 加持は、そんなシンジの様子に、ただ目を細める。
 
 「別に、シンジ君のすることに興味が無いわけじゃない。……むしろ、いろいろ聞きたいのは確かなんだが……」
 
 加持は、玄関を照らす、オレンジがかった電球を眺めながら、呟く。
 
 「……俺は、シンジ君の行動に……っていうより、シンジ君の面白さに協力してるんだよ」
 
 「? 面白さ、ですか?」
 
 「分からないかい?」
 
 「……はぁ……あの、あまり、ピンとは……」
 
 「……レイちゃんは、分かるだろ?」
 
 
 
 突然、加持に水を向けられたレイは、少しだけびっくりしたように、目を開いた。
 
 シンジは、振り返ってレイを見る。
 
 レイは、そんなシンジの瞳に視線を合わせて、慌てたように目を逸らす。
 
 「……面白さ……と、言っても……」
 
 戸惑うような表情に変わり、レイは呟く。
 
 いつも一緒にいたい、何よりも気持ちのいいひと……だとは思っているが、「面白い」と言うと、またニュアンスが少し、違うような気がする。
 
 
 
 加持は、レイの……そんな、微妙に変化する表情を見つめて、微笑んだ。
 
 「言葉が悪かったかな。別に、滑稽さとか、そういう『面白さ』って意味じゃぁ、ない」
 
 「………」
 
 「何と言ったらいいか……つまり……そうだな……その……『予測のつかない面白さ』というか……う〜ん、惹き込まれると言ったらいいかな」
 
 「ひきこまれる?」
 
 「……何か、してくれるんじゃないか……という、気持ちさ」
 
 
 
 そう言って笑う加持の顔を、暫く見つめて……
 
 ……レイは、小さく、頷いた。
 
 
 
 「……少しだけ……分かる、気が、します……」
 
 
 
 そう……
 
 加持は、思う。
 
 シンジ君に、協力するのは……打算とは違う。
 
 計算して、自分に利するから協力してるわけじゃない。
 
 ……シンジ君が起こした行動で、自分が死ぬことになったって、構わない。
 
 ただ、彼が……次に、何をするのか……それを、見たいんだ。
 
 ……ま……ヤジ馬根性、かも、知れないな……。
 
 
 
 そう……
 
 レイは、思う。
 
 碇君は、いつも、私の考える、遥か上を行く。
 
 私には、碇君が、次に何をするか……そんなこと、とても分からない。
 
 碇君は、すごい。
 
 碇君は、すごいから……。
 
 
 
 ……でも、話して欲しい。
 
 頼って欲しい。
 
 
 
 ……碇君が、私を頼らないのは……
 
 ……きっと、まだ、私が頑張っていないからかも知れない。
 
 ……碇君を、助けるために……
 
 ……碇君を、助けたいと思う、自分のために。
 
 私は、頑張る。
 
 
 
 
 シンジは、思う。
 
 それが、どうして、惹かれるなんて言葉になるのかなぁ……。



三百八十四



 礼を言って加持の家を出た二人は、マンションの外に足を踏みだした。
 
 もちろん、あの目眩しを使い……家を出たことには気付かれないように、注意したつもりだ。



 夜の冷たい大気が、二人の体を包んでいた。
 
 年中、初夏の陽気とは言え、やはり、夜は少し涼しい。
 
 シンジは、レイの体温を確かめるように、その手をしっかりと握り締めていた。
 
 
 
 先を立って歩くシンジの後ろを、レイは、ただ、黙ってついていく。
 
 風の音以外に、二人の耳に届くのは……アスファルトの上を刻む、シンジとレイの靴音のみ。
 
 レイは、シンジの背中を、じっと見つめていた。
 
 
 
 レイの意識から、すっかり眠気は拭い去られていた。
 
 昼間の、シンジの身を案じていた緊張とは、明らかに種類を異にした、緊張感。
 
 それが、レイの頭脳を冴え渡らせていた。
 
 
 
 ……シンジは、自分を、どこに連れて行こうとしているのだろうか……?
 
 
 
 考えても、納得のいくような答えは見出せなかった。
 
 こんな夜中に、シンジに突然、連れ出されるような状態は、全く想定していなかった。
 
 
 
 シンジの手の平から伝わる微かな鼓動は、穏やかで、優しかった。
 
 だから、安心している。
 
 でも、これから何が起こるのか……まるで予想がつかない状況に、不安がゼロというわけでも、ない。
 
 
 
 表通りに面した歩道を、シンジは、ゆっくりと歩いていく。
 
 丸く切り抜かれた街灯の明かりの間を、縫うように辿っていく。
 
 
 
 遠くから、車のヘッドライトが近付いてきた。
 
 シンジは立ち止まって目を細める。
 
 「……タクシーだ」
 
 言いながら、左手をあげた。
 
 
 
 とにかく、無計画に家を出てきてしまった感は、否めなかった。
 
 徒歩で、ジオフロントに行くなどということは、無謀極まりない。
 
 その半分の行程で、充分すぎるほど疲れ切ってしまうことは、以前、夜中にレイと二人で歩いて実感済みである。
 
 歩きながら、どうしようかと思っていたのだが、タクシーが来るとなれば拾わない話はなかった。
 
 
 
 二人の前にゆるやかに停止したタクシーの、後部のドアが開く。
 
 シンジはレイに先を促し……座席に乗り込んだ彼女に続いて、中に入った。
 
 シンジは、ジオフロントとそう離れていない住所を運転手に告げる。
 
 運転手はルームミラーの中で頷くと、アクセルを踏みしめた。
 
 
 
 走り出した車の中で、シンジは、ただ、外を見つめ続けていた。
 
 
 
 心は、穏やかだった。
 
 この日を、こんなに穏やかに迎えるとは、思っていなかった。
 
 だが、何を切り出し、どう伝えるか……それは、考えておかなければ、いけない。
 
 
 
 レイは、シンジの横に座り……ただ、握った手の平の感触と、密着した肩から伝わる体温を感じていた。
 
 
 
 レイはゆっくりと、頭をシンジの肩の上に預ける。
 
 
 
 シンジは、そんなレイに少しだけ驚いて、視線だけ動かして彼女を見たが……しかし、ただ、握った手の平に力を込めると……あとは何事もなかったかのように、ガラスの向こうに視線を戻した。
 
 レイは、静かに目を瞑る。
 
 運転手が、ミラーごしに少しだけ視線を向けたが、シンジは気にしなかった。
 
 
 
 アスファルトの砂を噛むような音が、座席の下から間断なく、低く響き続ける。
 
 ハンドルを切る、そのカーブに合わせて、二人の身体が、左右に揺れた。
 
 
 
 レイは、目を瞑ったまま、首筋から伝わるシンジの鼓動に耳を傾けていた。
 
 
 
 何だろう……
 
 
 
 ……自然な、気持ち。
 
 
 
 ……暖かい……穏やかな、気持ち。
 
 
 
 シンジは、「大事な話がある」と言った。
 
 それを、レイは思い出している。
 
 大事な話……
 
 ……何の、話だろう?
 
 
 
 シンジがこれから切り出すであろう話の内容に全く予想がつかない一方で、かすかな……本当にかすかな、予感、期待がある。
 
 シンジが、背負っている……何か、大きな、重み。
 
 誰の力も借りようとしないで、一人で、抱えている、重み。
 
 
 
 ……シンジは、その一部を、自分に与えてくれるような、気がした。
 
 シンジが……今まで、どんなに心を通じ合わせていても、同時に……決して明かすことのなかった胸の裡の、その一端なりを、見せてくれるのではないか。
 
 そんな、予感。
 
 
 
 シンジにとって、その重さが……どれだけ、それこそ想像を超えたものであるかは、理解できる。
 
 今までどんな状況に追い込まれても、決して話すことがなかった、ということ。
 
 そして、苦悩の末にシンジが垣間見せる表情……それらが、それを教えていた。
 
 
 
 その、苦しみを、初めて、明かすのかも知れない。
 
 
 
 そして、それを、自分に語ることを……シンジは、選んだのかも、知れなかった。
 
 
 
 不謹慎ながら……レイは、喜びを感じずにはいられなかった。
 
 シンジが、自分を信頼してくれる証……と、思いたかった。
 
 
 
 だが……
 
 
 
 ……同時に、一つの……思いに、行き着く。
 
 それは、この予感を、決して喜び一色で迎えることの出来ない、暗い感情。
 
 
 
 シンジが、これから何を話すか、分からない。
 
 だが、もしも……自分に、シンジの抱えているものを、語ってくれるとして……
 
 ……自分は、自分の抱えているものを、シンジに語らずに、過ごしてしまうつもりだろうか?
 
 
 
 ……自分には、大きな、秘密がある。
 
 ……シンジの持つ重さは全く分からないが、それとはまた別種の、大きな、重み。
 
 
 
 自分は、人間では、ない、ということ。
 
 
 
 自分は、本来……シンジと敵する、NERVの中核の一角をなしていたこと。
 
 
 
 自分は、使徒であり……自分が、サードインパクト、そして人類補完計画の重要な要素であること。
 
 
 
 ギュッ……と、拳を握りしめた。
 
 シンジにも、分からぬ程度に。
 
 そうだ……その、秘密を、シンジに語らぬまま……
 
 シンジの秘密を、背負うことが出来るだろうか?
 
 
 
 シンジは、自分を信じてくれた。
 
 もしもこれから、シンジの秘密が語られるのだとしたら……それは、シンジが、自分を信じてくれたからだ。
 
 大事な秘密を、語る相手として……その秘密を知っても、それを理解ってくれる人間として、自分を認識してくれたからだ。
 
 
 
 それなのに、自分は、黙っているのだろうか?
 
 
 
 それは、シンジを信頼していない、ということではないか?
 
 
 
 実際には、そう簡単に白黒分けられることではない。
 
 だが、レイには、そう冷静に分析することは出来なかった。
 
 自分の、シンジに対する想いを……図らずも試されているような気がした。
 
 
 
 では、話せばよいのではないか、とは、関係のない第三者だから言える言葉だ。
 
 話せないのは信頼していないからだ、とは、物事の本質を見失った言葉である。
 
 物事は、イエスとノーだけではない。
 
 真っ白と真っ黒の間には、無数の階調に分けられたグレーが存在するのだ。
 
 
 
 レイは、そっと……瞼を、開いた。
 
 運転席と助手席の間から、フロントガラスが見える。
 
 夜の、闇に包まれた車内。
 
 外は、街灯が連綿と連なる帯となって、二人の行く先を照らしていた。
 
 
 
 真っ暗な闇の中で。
 
 
 
 道の両側に並ぶ街灯は、2本のレールを思わせた。
 
 
 
 このレールは、どこに続いていくのだろう?
 
 それは、レイには分からない。
 
 だが、頬に触れるシンジの鼓動と。
 
 手の平を包む、シンジの温もりと。
 
 
 
 レールの先は、深い闇に溶けて消える。
 
 それは、全ての終焉を孕んだ、深い滝壷かも知れない。
 
 だが、シンジは、自分の横にいてくれる。
 
 シンジは……
 
 
 
 ……自分を、決して、裏切らない。
 
 
 
 レイは、もう一度……ゆっくりと、瞼を閉じた。
 
 そう……
 
 
 
 ……ずっと、わかっていた、ことだった。



三百八十五



 シンジとレイを下ろしたタクシーは、夜の闇に走り去った。
 
 
 
 そこは、ジオフロントから程近い、寂れた住宅街だった。
 
 ……住宅街、と言っても、住人は殆どいない。ただ、家主のいない家々が建ち並ぶ町だ。
 
 シンジがここを選んだ理由は、以前、雑誌でここのことを読んだことがあるからである。
 
 この近くの丘の上から東側は、再開発計画から外れた荒野であり、遮蔽物が無い。そのため、夜明けに朝日が美しい、という類いの内容だったことを覚えている。
 
 セカンドインパクトのことを思えば、荒廃した大地を舞台装置に眺める朝日とは随分と無神経なイベントであるが……事実、そういう記事を見かけたことが一度ではないことを思うと、決して無名の話ではないらしい。
 
 ……で、あれば、カップルで夜半に降りても、さほど怪しまれないだろう、と思ったのだ。
 
 もちろん、あの運転手がこのスポットのことを知らなければ意味のないことだが、きっと……このあたりまでカップルを連れてきたことは、これが初めてではないだろう。
 
 
 
 「行こう」
 
 シンジは、握ったままのレイの手の温もりを感じながら、振り返って声をかけた。
 
 周りの風景に視線を向けていたレイは、シンジの言葉に気付いて、こくりと頷いた。
 
 
 
 二人は、夜の町を、ゆっくりと歩き続けた。
 
 どちらも、一言も、言葉を交わさなかった。
 
 
 
 十数分程歩いたところで、見慣れた正面ゲートが視界に入った。
 
 
 
 ゲートの上部に、監視カメラがある。
 
 シンジはそれに捕えられない程度まで近づくと、ポケットの中で、赤いボタンを押した。
 
 
 
 見たところ、何の変化もなかった。
 
 しかし、加持を信じるしかない。
 
 
 
 ゲートをくぐり、目の前にある金属の扉の右側に設置されたスリットに、レベル5のカードを通す。
 
 ガシュッ……。
 
 小さな空気音とともに、分厚い扉が、左右に開く。
 
 シンジはレイを引き寄せると、レイは、引かれるままにシンジに体を密着させた。
 
 その状態で、シンジは目の前の、電車の自動改札機のような進入ゲートにカードをくぐらせ、自分たちも通り抜ける。
 
 
 
 時刻はもう午前を回ったくらいだが、ジオフロントは眠らない。
 
 夜勤の職員が、普通に働いているはずである。
 
 レイの体を離してもう一度彼女の手を握り直したシンジは、足早に通路を進んでいく。
 
 
 
 程なくして、エレベーターホールに到着した。
 
 
 
 いつも、レイがシンジの帰りを待つホールとは、違う。
 
 あの、出入り口付近にあるエレベーターではなく、比較的……中央部分に近く、奥まったエレベーターである。
 
 各所にある副エレベーターの方が使い勝手がいいために、あまり使用する職員も少ないが、本来……このエレベーターの方が、メイン・エレベーターと呼ぶべきものであろう。
 
 
 
 シンジは、閉じた金属の扉の前で、立ち止まった。
 
 
 
 金属の扉に、自分の顔が映る。
 
 視線を動かすと、そのすぐ後ろに立つ、レイの顔が見える。
 
 鏡面越しに自分を見つめるシンジの視線に気付き、レイは、少しだけ小首を傾げて見つめ返した。
 
 
 
 (そうだ)
 
 
 
 シンジは、思う。
 
 
 
 レイの、瞳。
 
 その、翳りのない、紅に。
 
 ……自分を疑わない、レイの心に。
 
 
 
 (彼女の意志は、どこだ?)
 
 
 
 (そうだ)
 
 
 
 そうだ。
 
 
 
 自分自身の気持ちと同時に。
 
 彼女自身の、けじめでもある。
 
 
 
 僕が納得するのと、同じように。
 
 彼女が納得しなければ、進んではいけない。
 
 
 
 時期尚早ではない、と、誰が決めたのか?
 
 物語の転機は、誰にも読めない。
 
 その時に可能な全てを行い、その時に可能な全ての解釈を肯定する。
 
 それによって、時間は回転していくんだ。
 
 
 
 物語の主人公は、僕ではない。
 
 誰もが、等しく。
 
 自分自身の物語の、主人公なんだ。
 
 
 
 シンジは、右足を半歩、後ろに引いて、身を空ける。
 
 振り返って、レイの瞳を、見つめる。
 
 
 
 レイは、首を小さく傾げたまま、シンジに瞳を見つめ返した。
 
 
 
 「……碇君?」
 
 
 
 「……綾波」
 
 
 
 シンジは、じっと……レイの瞳を見つめ続ける。
 
 紅い、その瞳は……血の色のような、と、誰かが表現するのを、耳にしたことがある。
 
 違う。
 
 彼女の紅は……もっと、純粋だ。
 
 血の色……それも、間違ってはいないのかも知れない。誰だって、他の何も犠牲にせずに生きていることなんてあり得ない。
 
 だが、この紅は。
 
 この瞳は、もっと、穢れない。
 
 
 
 「綾波……考えて」
 
 「……?」
 
 「……この先に進んだら……もう、戻れない」
 
 
 
 「……碇君」
 
 
 
 「綾波……考えて。
 
 僕は……決めたんだ。でも、綾波は、まだ、考えていないだろう?
 
 綾波……行くか、戻るか。
 
 ……決めるんだ」
 
 
 
 ……それは、
 
 無謀な注文だ、と、シンジも自分で思う。
 
 ……こんな言い方で、シンジがこれから話す内容を……これからレイに突きつけられる選択肢を、予想することが出来るだろうか。
 
 それが分からなければ、結局、決めようが無い。
 
 行けば、どうなるか。
 
 戻れば、どうなるか。
 
 それが分からないまま、選択肢だけ提示されても、困る。
 
 
 
 だが、シンジは……最後の選択肢を、彼女に委ねたかった。
 
 何も言わずに、ここまで、連れてきて。
 
 彼女には、選択の余地も思考の予知も、与えなかった。
 
 ……それでは、いけない気が、するのだ。
 
 
 
 レイに、まがりなりにも覚悟が出来ていない状態で、シンジの秘密は語れない。
 
 シンジの秘密を語ることは、シンジが彼女の秘密の殆どを知っているという事実を、レイに突きつけることにほかならない。
 
 だから、彼女が選ぶまで、語るわけにはいかない。
 
 ……こんなところまで連れてきておいて、初めて意志の確認をするのも、卑怯だと思う。
 
 だが、家で彼女の意志を確認したくても、多くを語れない状態では、意味がうまく伝わらなかっただろう。
 
 ここまで連れてきて最後の確認をする、その状況が、この選択肢の持つ重さを彼女に伝えてくれると信じるしかなかったのだ。
 
 
 
 レイは、何も言わず……じっと、シンジを、見つめていた。
 
 
 
 レイは、何も考えていなかった。
 
 決める……
 
 その、シンジの言葉は、彼女の心に、最後の一歩を、踏み出させた。
 
 
 
 レイが最後の選択肢について、すでにタクシーの中で思い巡らせていたことに、シンジは気付いていない。
 
 だが、レイは、もう、殆ど決めていたのだ。
 
 シンジの言葉で、霧散していた意識が、輪郭を持った形に知覚されたに過ぎない。
 
 
 
 レイは、すっと、足を踏みだした。
 
 「えっ?」
 
 シンジが声を発するのと同時に、レイはシンジの横に手を伸ばし、壁についていたボタンを押した。
 
 下向きの矢印が、点灯する。
 
 
 
 「決めることなんて、無い」
 
 レイが、呟くように、言う。
 
 シンジは、レイの横顔を、見つめる。
 
 レイは、まっすぐに……前を、見ている。
 
 
 
 「綾波……」
 
 
 
 「私は……もう、決めてたもの」
 
 
 
 ゆっくりと、エレベーターの扉が、音を立てて左右に開いた。