第七十九話 「歯車」
三百六十九



 ミドリが事故にあった、という報せをシンジが聞いたのは、実際にその事故が起こった翌日……朝、授業が始まる前の教室でのことだった。
 
 
 
 「だから、トウジはミドリちゃんの見舞いに、病院に行ってるみたいだな。
 
 学校が終わったら俺も行こうかと思うんだけど、碇も行くか?」
 
 デジタルカメラのレンズを磨きながら、ケンスケが呟く。
 
 
 
 シンジは、呆然とした表情で、その言葉を聞いていた。
 
 
 
 ……ミドリちゃんが……事故?
 
 
 
 もちろん、知り合いが事故にあった、という……その意味でも、驚くには十分すぎる問題では、ある。
 
 だが、シンジの驚愕の理由は、もう一つあった。
 
 
 
 この、タイミング。
 
 この時期に……。
 
 
 
 「ミ……ミドリちゃんの、様子はどう……なのかな」
 
 シンジは、思わず語尾が震えそうになるのを必死に抑えながら、口を開いた。
 
 「ん〜……詳しいことは分かんないけどな……でも、今朝、電話でその話を聞いたときには、トウジも割と普通そうだったぜ。
 
 トウジって、なんだかんだ言って、ミドリちゃんと仲いいから……ホラ、覚えてるか? 碇が初号機で闘って、ミドリちゃんが巻き添え食ったことがあったろ」
 
 ケンスケの言葉に、シンジの胸の奥が、チクリと痛む。
 
 もちろん、忘れるはずが無い。
 
 「あんときはさ……ミドリちゃん、脚の骨折ったりとか……確かに、軽傷だったわけじゃないけど……でも、命に別状はなかっただろ?
 
 でも、トウジの狼狽ぶりったら、なかったからな。
 
 今回、トウジがあれだけフツーの素振りを見せてるんだから、前よりは間違いなく軽い怪我だと思うぜ」
 
 軽い口調で、ケンスケが言葉を続けた。
 
 
 
 確かに、ケンスケの言うことは、的を得ている。
 
 
 
 シンジが直接トウジと会話したわけではないので、本当のところは推測するしかないが……
 
 トウジの様子がケンスケの言うように「ごく、普通」であったのならば、あの……初号機の闘いで、瓦礫の下敷きになったときよりは……ミドリは、ずっと軽傷に違いなかった。
 
 ……少なくとも、命に関わるような怪我では、無いはずだ。
 
 そう思い、シンジは、重く打ち付ける心臓の鼓動を、押さえつけようとした。
 
 こめかみを、冷たい汗が伝う。
 
 
 
 そうだ……。
 
 少なくとも。
 
 これが原因で、参号機のコアにミドリの魂がインストールされるような……
 
 ……そんな事態には、ならない、筈だ。
 
 
 
 「……碇君?」
 
 シンジの背後から、突然、声がかかった。
 
 シンジが振り向くと、そこには、怪訝そうな表情でシンジを見つめる、レイ。
 
 
 
 「……どうしたの? ……大丈夫……碇君」
 
 レイは、心配そうな表情で、シンジの瞳を見つめている。
 
 ふとシンジが気付くと、その後ろで自分の席に腰を下ろしているアスカも、半分顔をこちらに向けて、シンジを見ている。
 
 シンジは、慌てて繕うように笑った。
 
 「あ、……いや、何でもないよ」
 
 「………」
 
 シンジがそう言っても、レイは、心配そうな表情を失わない。
 
 シンジは困ったように、後頭部を掻く。
 
 
 
 「いや、ホラ……あのさ。ミドリちゃんが、事故にあったらしいんだよ……大したことはないみたいだけど」
 
 
 
 シンジは、今の情報を、できるだけ重く感じないように……世間話のように、打ち明けた。
 
 まだ、状況はわからない。深く突っ込んだ話は出来ないだろう。それに、少なくともあまり深刻ぶって喧伝するようなことではない。
 
 「……ミドリちゃん?」
 
 レイが首を傾げる。
 
 ケンスケが、デジタルカメラのレンズを光にかざしながら、呟く。
 
 「トウジの、妹だよ」
 
 
 
 「鈴原君の……妹」
 
 ケンスケの言葉を聞き、レイの表情に、不安な翳りが浮かぶ。
 
 ……レイは、ミドリに会ったことはない。
 
 だが、レイにとっても、今や……トウジは大事な友人の一人、と認識されている。その妹が事故にあったとなれば、レイも心配になるのだろう。
 
 「……へぇ……鈴原、妹なんて、いたんだ」
 
 アスカが、頬杖を突いたまま呟く。
 
 ケンスケが、レンズをデジタルカメラにくるくると装着しながら、アスカの方に顔を上げた。
 
 「あれ、惣流……知らなかったのか?」
 
 「そんな話、しないからね」
 
 アスカが、ケンスケの言葉に応える。
 
 
 
 「けど……じゃあ、珍しくヒカリがいないのは、鈴原のところに行ってるのかな?」
 
 
 
 アスカの言葉に、シンジは、初めて思い出したように、周りを見回した。
 
 確かに、教室の中にヒカリの姿が見えない。
 
 ヒカリは遅刻するようなことはまずないし、欠席も殆ど無いと言っていい。
 
 もうすぐ授業が始まるこの時間に、姿が見えないということは、やはり、ミドリの見舞いに行ったと考えるべきだろう。
 
 
 
 「今、碇にも言ったけど……俺、学校が終わったら病院に顔出すつもりだぜ。惣流や綾波も来るか?」
 
 ケンスケの言葉に、レイは、即座に頷いた。
 
 「行くわ」
 
 「うん……ま、そんなら、アタシも行こうか」
 
 レイの後を追うように、アスカも応える。
 
 
 
 シンジは、何も言わなかった。



三百七十



 「……ミドリちゃん、リンゴでも剥こうか?」
 
 ヒカリは、篭の中に積んであった小振りのリンゴを一つ手にとり、ベッドの方に振り返る。
 
 「さっき、一コ剥いてもらったばかりだよ」
 
 ミドリは、苦笑して応えた。
 
 
 
 ……ここは、NERV専属の総合病院である。
 
 ミドリは、その外科病棟の、一般患者用の個室に入院していた。
 
 
 
 この病院はジオフロントに殆ど隣接した距離にあり、地下を通じてNERVの医局部と連結している。
 
 しかし、表向きは「第三新東京市立総合病院」であり、主に市民に開放された、一般病院だ。
 
 
 
 ミドリがいる、その病棟は、比較的軽傷の外科患者が入院する病棟である。
 
 大部屋ではなく個室に入院することができたのは、トウジの父がNERVに勤務していることが無関係ではないだろう。
 
 
 
 ミドリは、ベッドの上で、上半身を起こしてヒカリとお喋りに興じていた。
 
 この状態では分からないが、実際には、布団の下の両脚には包帯が巻かれている。
 
 右足の捻挫と、左足の、ヒビ。
 
 あとは、体に数ヶ所ある軽い打撲が、彼女の怪我の全てだった。
 
 
 
 真っ白い部屋の中で、大きな窓から差し込む日差しが、眩しく光っていた。
 
 カーテンが風に揺れる。
 
 
 
 「大体な……おまえ、フラフラしとらんと、も少し周りをちゃんと見とったら良かったんや」
 
 ドアのそばの壁に寄り掛かっていたトウジが、腕を組んで、憮然とした表情で呟いた。
 
 ミドリが不満そうな視線をトウジに向ける。
 
 「だって……暗かったし」
 
 「だからっちゅうて……暗い言うんなら、危ないっちゅうのも、始めっから分かっとったことやろ? 気をつけとれば、よけられたんやないか?
 
 車のライトもついてたんやろうし」
 
 
 
 「ついてなかったよ」
 
 ミドリが、頬を膨らませて応える。
 
 トウジが、眉をひそめる。
 
 「そないなこと……あらへんやろ。夜やぞ? ライトつけとらんと、車、運転しとったら、何も見えへんやないか」
 
 「そんなこと知らないよ」
 
 ミドリが、トウジを見ながら、うるさそうに応える。
 
 「ずっと停まってて、急に走り出したかなんかだったんじゃないの? とにかく、最初は車がいるなんて、全然分かんなくって……エンジンの音がすぐ近くで急にしたと思ったら、もう、ドッカ〜ン、だもん」
 
 
 
 ……車に撥ねられた勢いで、近くの塀に叩き付けられたミドリは、両脚を痛めて立ち上がることが出来なかった。
 
 ミドリを撥ねた車は、一旦その場に停車すると、数秒……まるでミドリを窺うようにじっとしたあと、そのまま急発進して走り去ってしまったと言う。
 
 
 
 「アホな。そんなん、まるで狙われとったみたいやないか」
 
 トウジが、鼻の頭をつまんで呟く。
 
 「遠くから走ってきた車に、ミドリが気付かんかっただけやろ」
 
 「うるさいなぁ、もう」
 
 ミドリは、ぷいっ、とそっぽを向く。
 
 
 
 「あ、あのね……喧嘩しないで」
 
 二人の間に座っていたヒカリが、困ったように微笑んだ。
 
 
 
 ミドリは、にこっ、と笑うと、覗き込むようにヒカリの顔を見る。
 
 「ヒカリさんも、そう思うでしょ」
 
 「え……なにが?」
 
 「お兄ちゃん。うるさいよね、いっつも」
 
 「え……え? そ、そう?」
 
 「す〜ぐ、文句言うしさ」
 
 「おいコラ。ナニ言うてんねん」
 
 「ね? ヒカリさん?」
 
 「べ……別に、そんなこと……ないと、思うけど」
 
 「そぅ? お兄ちゃん、人の料理にすぐケチつけるし」
 
 「それは、おまえの料理がまっずいからやろ!」
 
 「ひっどぉい、そんなにまずくないよっ」
 
 「砂糖と塩、間違えるようなヤツに、そないなセリフ言う資格ないわい」
 
 「あ、あのね……け、喧嘩しないで」
 
 「ヒカリさん、料理に文句言われたりしないの?」
 
 「え? あ……その、えぇと……うん……まだ」
 
 「ひぃきだぁ」
 
 「……い……いいんちょの料理は、ケチつけるようなとこ、あらへんから……」
 
 「ひいぃいぃき、だぁぁあぁぁあ」
 
 「……や、やかましわ! いいんちょとおまえの料理、おんなじに扱えるかい!」
 
 「ふん、だ。いいもん、ヒカリさんに料理習って、お兄ちゃんに文句なんか言わせないようになるもんね」
 
 「おまえな、そーゆーコトは、まず、いいんちょの都合ってもんが……」
 
 「あ、うん、私なら平気よ。料理とか、人に教えるの、好きだし」
 
 「ほ〜〜〜〜〜らねっ」
 
 「く……」
 
 「お兄ちゃんなんか、もう、ぐぅの音も出ないようなご飯つくるんだから!」
 
 「おぉお、やれるもんならやってみぃ!」
 
 「い〜〜〜〜〜〜〜っ、だ!」
 
 「かぁ〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 
 「………」
 
 
 
 まるで小学生同士のような喧嘩に、思わず、ヒカリは溜め息をついてしまうのであった。
 


三百七十一



 加持は、NERVの資料室で、コンピュータのモニタと向かい合っていた。
 
 
 
 片肘を立てて頬杖を突き、空いた右手で気怠そうにキーボードを叩く。
 
 偶然空いてしまった時間に、暇潰しにゲームでもしているような、覇気の抜けたポーズ。
 
 しかし。
 
 
 
 キーボードの上を踊る指先は、リツコやマヤのように華麗ではない。
 
 だが、キートップの間を最短で動く指先は、彼女達の軽やかさとは違う、言わば……ナイフのエッジのような鋭さを感じさせた。
 
 
 
 半開きの瞼の奥で、視線が小刻みに激しく動く。
 
 やる気のなさそうなそのポーズに騙されそうになるが、加持の瞳は、僅かな隙も見逃さぬ気配で、モニタを凝視していた。
 
 
 
 MAGIの内部に蓄積された、膨大なデータの海を、物凄い速度で潜り抜けていく。
 
 
 
 ……加持には、リツコやマヤのような、特殊なプログラミング能力はない。
 
 だが……こと、「秘匿情報の検索」という命題だけに関して言えば、彼女達に匹敵する能力を有していた。
 
 諜報活動。
 
 その分野に関して、加持は、かなりオールラウンドに渡るエキスパートだった。
 
 
 
 そうして……加持が、この資料室にこもって1時間……。
 
 ほんの数秒でもとどまることの無かった指先が、ようやく……エンターキーを一つ叩いて、停止した。
 
 
 
 「………」
 
 
 
 モニタをぎっしりと埋め尽くす、文字の羅列。
 
 
 
 加持は、無言で、モニタを凝視する。
 
 
 
 一見すると、それは……全く意味のない、アルファベットの集合体にしか、見えない。
 
 ……暗号である。
 
 その文字列を、瞬きもせずに、見つめる。
 
 
 
 ……もちろん、加持がこの場で、暗号を解読できるわけではない。
 
 暗号の解読に、何台ものスーパーコンピュータを駆使する時代。
 
 彼一人の頭脳で解読が可能なら、それは暗号の意味をなさない。
 
 
 
 加持が行っているのは、「暗記」である。
 
 この、本来ならば意味の全く無い文字の渦を、一文字と間違うことなく完全に暗記する。
 
 それは、彼の持つ特殊な暗記法をいくつか応用すれば、さして難度の高い問題ではない。
 
 
 
 モニタを凝視すること、数分……
 
 
 
 加持は、おもむろに指を伸ばすと、コンピュータをシャットダウンした。
 
 ぶちっ、と千切られるようにモニタから光が失われる。
 
 コンピュータのスリットから、ガシャン、とIDカードが吐き出される。
 
 加持はそれを抜き取ると、内ポケットに差し込んで立ち上がった。
 
 
 
 このIDカードは、あの……ターミナルドグマに降りたときに使用した、レベル6のカードである。
 
 
 
 もちろん、それほどのカードを使わなければ検索できない、難しい情報だった、ということでも、ある。
 
 だが……。
 
 
 
 このIDカードが加持のものだという情報は、おそらく、もう上層部には知られているだろう。
 
 このカードを使用して、情報の検索をしたという記録は、きっとMAGIの中に残ってしまっているだろうし、それはつまり……最終的に、加持が今の情報を探り当てたという事実を、リツコが知るのはすぐだ、ということだ。
 
 
 
 それでも構わない、と、加持は思う。
 
 
 
 ……本気でリツコがこのデータを隠すつもりだったのなら、こんな、資料室の端末で探し出せるようなところに、残してはおかない筈だ。
 
 情報の扱いが、非常に中途半端である。
 
 ……厳重なセキュリティに包んでいるように見えているのは、実はポーズに過ぎず……本当は、加持に知られても構わない、と思っているに違いなかった。
 
 
 
 リツコの……あるいは上層部の真意は、加持には測りかねた。
 
 「……泳がされているのかも、知れんなぁ」
 
 誰に言うともなく、加持は呟く。
 
 資料室の扉を開け、廊下に歩き出した。
 
 煙草が吸いたいな……。
 
 ……漠然とそう思い、爪先を休憩所の方角に向ける。
 
 
 
 今晩、隠れ家の一つに帰ってから……裏世界のネットワークを使い、今の暗号を解読する。
 
 それにより、初めて、昨晩の任務の内容が、分かる。
 
 現時点では、まだ……加持は何の情報も手に入れていないのと変わらない。
 
 
 
 ……だが、加持には、おおよその目星が付いていた。
 
 情報を確認することで、きちんとした確証を得たいと思っているだけで、昨晩、何が行われたのか……おおまかには、推測できている。
 
 
 
 熊谷ユウ。
 
 
 
 彼は、諜報部の中でも加持に次ぐエキスパートだが、いかんせん……非常に直情的だ。
 
 技術は目を見張るものがあるが……加持に言わせれば、任務に没頭しすぎて周りに目を配る余裕に欠けている。
 
 熊谷から見れば「不真面目」と映る加持の軽さも、実際には、加持が手に入れた技術の一つなのである。
 
 
 
 昨晩、熊谷が何らかの任務を負ったことは、今朝出会ってすぐに分かった。
 
 正直、こんなにすぐに、傍から見てそれが理解できてしまうようでは、諜報部員としては問題があるだろう。
 
 とにかく、熊谷が加持を必要以上に意識しているということもあるだろうが……表情や態度に、如実にいつもと違う雰囲気を滲ませていた。
 
 
 
 もちろん、熊谷も訓練所では天才と言われた人間だ。それが分かるのは、加持クラスの人間に限られる。
 
 だが、だからこそ問題だ。
 
 技術ある人間にこそ、見破られては、いけないのだ。



三百七十二



 放課後、シンジたち四人は、ミドリの病室を訪れた。
 
 
 
 正直……シンジは、ミドリの病室に足を踏み入れるとき、数秒の躊躇があるのは否めなかった。
 
 ……ミドリが、それこそ瀕死の重傷を負っていたら?
 
 おそらく、ミドリが死ぬような事態になれば、彼女の魂が参号機にインストールされ、トウジがフォースチルドレンに選出されることになるだろう。
 
 それは避けなければいけない、いけないが……だからと言って、シンジにミドリの怪我を治す術はない。
 
 ミドリが死にそうな怪我を負っていたとしたら、ただそれを見ている以外には、もう、どうしようもないのである。
 
 
 
 そんな不安におののくシンジの一歩目を踏み出させたのは、病室の中から聞こえてきたトウジとミドリの声だった。
 
 
 
 「……だぁいたいねぇ! お兄ちゃんはいっつもいっつも、私のやるコトにうるさすぎるのよ!」
 
 
 
 いきなり、廊下にいる四人の耳朶を叩く、ミドリの声。
 
 
 
 「……なぁにが、いつ、どこで、ワシがうるさく言うたっちゅうんじゃ!」
 
 
 
 続いて聞こえる、トウジの声。
 
 
 
 「あ……あ、あ、あのね。喧嘩しないで……ね?」
 
 
 
 困ったような、困惑したような、ヒカリの声。
 
 
 
 シンジは、声に後押しされるように、ノブを回した。
 
 
 
 病室に入ると、シンジの瞳に飛び込んできたのは……鼻先がぶつかりそうな勢いで睨みあうトウジとミドリ、そして、横の椅子に座って困ったように苦笑するヒカリの姿だった。
 
 
 
 「あ……四人とも、いらっしゃい」
 
 シンジたちの姿に気付いたヒカリが、いいところに、といった表情で嬉しそうに振り返った。
 
 トウジとミドリも、その声に気が付いて振り返る。
 
 「お……おお、みんな来てくれたんか。悪いなぁ……」
 
 トウジが、頭を掻いて、すまなそうに呟く。
 
 屈んでいた背を伸ばして、ベッドの前を空けた。
 
 ミドリが(先程の喧嘩を聞かれたという恥ずかしさだろうか)、頬を染めてから、ぺこりと頭を下げた。
 
 
 
 「なに……ケンカ?」
 
 アスカが、ひそ……と、ヒカリに声をかける。
 
 ヒカリは、苦笑して肩を竦めた。
 
 荷物を部屋の隅に置きながら、ケンスケが背中で言う。
 
 「ああ……気にするなよ、惣流。この二人、昔から、いつもこうだから」
 
 「あ、そ」
 
 アスカは、ケンスケの方に振り返って、呟く。
 
 「……仲……悪いんだ?」
 
 
 
 「お……おお、もぉ〜、ワシらほど犬猿の仲っちゅうコトバが似合う兄妹もおらへんで!」
 
 「……ホ、ホントホント! もぅ、仲、すっご〜〜〜く悪いんです!」
 
 
 
 「気にするなよ、惣流。喧嘩するほど仲がいい、ってヤツだよ」
 
 「あ……そ? ……仲、いいの?」
 
 
 
 「「よくないっ!」」
 
 声をピッタリ揃えて、抗議の言葉を叫ぶ二人。
 
 ケンスケが、全く意に介することなく、腰を伸ばした。
 
 「ホラ、な」
 
 
 
 ヒカリは苦笑して、そんな二人を見ていた。
 
 同時に、この兄妹と、ケンスケの歴史の長さを、少し……羨ましく感じたりも、していた。
 
 
 
 「ま、それはいいとして……災難だったな、ミドリちゃん」
 
 ケンスケが歩み出て、ミドリに屈託なく話しかける。
 
 見舞いに来た四人の中で、ミドリと一番親しいのは、ケンスケだろう。
 
 言われてミドリは、頬を掻きながら、バツが悪そうに笑う。
 
 「うん、あの……こんなにお見舞いに来てもらうほどのことじゃないの」
 
 「怪我の具合は?」
 
 「捻挫とか打撲とか……あの……ヒビ、とか」
 
 「充分、大したケガだよ」
 
 ケンスケが、呆れたように呟いた。
 
 
 
 確かに、あまり軽い怪我とは言えない。
 
 だが……
 
 
 
 ……シンジは、我知らず安堵していた。
 
 張りつめていた緊張感が、一気に緩むような感覚。
 
 
 
 よかった……。
 
 いや……まぁ、怪我したんだし……よくはないけど……
 
 ……死ぬような怪我じゃなくて。
 
 よかった……。
 
 
 
 シンジは思わず微笑んでから、ミドリの方に足を踏み出した。
 
 
 
 「大丈夫? ミドリちゃん」
 
 シンジが声を掛ける。
 
 ミドリは、シンジの顔を見て……改めてシンジにぺこりと頭を下げ、いたずらっぽく肩を竦めた。
 
 「すいません、碇さん……来ていただいて。おっちょこちょいだから……」
 
 「まったく、そのとーりやな」
 
 「……う・る・さいなぁ〜」
 
 一瞬の間に割り込むトウジのツッコミに、ミドリは頬を膨らませる。
 
 「まぁ……あんまりひどい怪我じゃなくて、よかったね」
 
 苦笑してシンジが言う。
 
 
 
 レイが、シンジの背後から、一歩踏み出す。
 
 気配に気付いたシンジが、移動してミドリの前を空ける。
 
 ミドリは、レイの顔を見て、驚いたように目を見開いた。
 
 「……こんにちは」
 
 レイが、ミドリを見ながら、そう微笑んだ。
 
 ミドリは、ぽかんと口を開けて、レイを見上げたままだ。
 
 
 
 ヒカリの横に立っていたトウジが、口を開く。
 
 「ホラ。こないだ言っとった……シンジの彼女や」
 
 
 
 「わぁ……」
 
 ミドリが、ようやく……呆然として呟いた。
 
 レイは、首を傾げる。
 
 「……なに?」
 
 「……奇麗……」
 
 「……そう? ……ありがとう」
 
 
 
 シンジは、困ったような顔で、トウジを振り返る。
 
 「シンジの……って……何の話をしてるのさ」
 
 「おまえのハナシや」
 
 「……そりゃ、そうだろうけど」
 
 
 
 レイの後ろから、アスカが右手を差し出して微笑む。
 
 「で、アタシが惣流アスカ。よろしく」
 
 「わぁ」
 
 ミドリは、またも目を見張る。
 
 「奇麗」
 
 「当然」
 
 ミドリの右手を握って、笑う。
 
 
 
 「でも……事故って、何があったんだよ?」
 
 やや置いて、ケンスケがトウジの方を向いて口を開いた。
 
 「朝、電話したときは詳しく聞かなかったけど……自動車か?」
 
 シンジ、レイ、アスカも、トウジに視線を向ける。
 
 トウジは、壁によりかかった姿勢で、腕を組んだまま、肩を竦めてみせた。
 
 「ま……そんなとこや。友達から電話がかかってきたなんちゅうて、夜中に外をうろうろするからやな」
 
 「夜中ってほどの時間じゃないよぉ。まだ8時だったもん」
 
 ミドリがぶつぶつと文句を言う。
 
 「車にぶつかったのか?」
 
 「道、歩っとったら、後ろから来た車に撥ねられたんやと」
 
 「その、運転手は?」
 
 「いや、引き逃げや」
 
 「うわ……そいつは運が悪かったな」
 
 「ま……何や知らんが、入院費はNERV持ちや言うしな。
 
 運転手がここにおったら張っ倒すところやが、まぁ、しゃぁないやろ。犯人も、NERVが探し出す、言うてくれたしな」
 
 「NERV? なんでNERVが、ここの金、出すんだ?」
 
 「おとんがNERVに勤めとるから……職員保険みたいなモンが、あるんやないか? よぉ知らんわ」
 
 
 
 シンジは、トウジの言葉を、普通に聞き流していた。
 
 NERVにそういう制度があるとは知らなかった。しかし、病院すら運営する組織だ、それくらい、あっておかしくない。
 
 シンジも怪我をしたことは少なくないが、自分で病院代を払ったことなどない。
 
 もっとも、これは……シンジが五体満足であることが、NERVの利益に直結するのだから、当然なのかも知れないが……。
 
 
 
 「入院は長くなるのか?」
 
 「いや……どれくらいっちゅうてたかな?」
 
 ケンスケの問いに、トウジはヒカリの方に振り返る。
 
 「一週間くらいで退院できる、ってお医者さんは言ってたわよ」
 
 ヒカリが応える。
 
 
 
 退院した後は家で安静にしていればよいと言われたことを、ヒカリは続けた。
 
 とりあえず、災難だったが、重い怪我でなくて、一同は安堵した。
 
 シンジも、思う。
 
 唯一の懸念は、杞憂であったのだ、と。
 


三百七十三



 夜。
 
 NERV・第三実験室。
 
 
 
 リツコは、じっと……手許のモニタに映った、めまぐるしく踊るグラフの渦を見つめていた。
 
 赤、青、緑……色とりどりのラインが、激しく絡み合う。
 
 リツコは、時折視線を動かしては、キーを叩いて調整を加えていく。
 
 
 
 第三実験室は、NERVにある実験室の中で、一番小さな実験室である。
 
 本部の建造当時は、ここでも様々な実験が行われていたが……もともと大振りな素材を扱うことが殆どのNERVにあって、今ではほぼ、この実験室を誰も使用していない。
 
 ここで実験が足りるような小規模な計算は、それこそ、MAGIに計算させたほうが速いのだ。
 
 必要性が無いのである。
 
 
 
 雑用のような実験を命ぜられることの多い末端のオペレータですら、ここを使うことは殆どない。
 
 だが、技術部のトップであるリツコは、密かにこの実験室を好んでいた。
 
 誰にも邪魔されずに、実験するのが好きだ。
 
 埃が積もったような、くすんだ空気も好きだ。
 
 何年も前から置きっ放しの、計算式が無数に書き殴られたメモ用紙の束も、今は失われてしまった若い時代の熱気を感じさせる。
 
 
 
 画面を走り続ける文字列を眺めながら、リツコは、頭の隅で、別のことを考える。
 
 
 
 加持リョウジ。
 
 
 
 彼が、昨晩の顛末について、検索に行き着いたことは、さっき知った。
 
 実験室に着いてモニタを立ち上げたところ、MAGIから報告が入ったのである。
 
 
 
 普通であれば、ハッキング、もしくは不審な検索行動の記録などは、リツコのほかにも、諜報部や監査部、そして総司令の許に報告が送られる。
 
 だが、今回だけは、違う。
 
 ……始めから、MAGIにそう命令しておいた。
 
 「このデータを検索した者がいた場合、その報告は私にだけ届けよ」と。
 
 
 
 瞳の上に、反射した緑色の文字群が滝のように流れていく。
 
 精神が、引きずり込まれるような、不可思議な感覚。
 
 薬のいらないトリップ体験のようなものだ、と、リツコは思う。
 
 
 
 加持が昨晩のことを知れば……きっと、シンジにも伝えるだろう、と、リツコは考える。
 
 加持は、どちらかといえば、NERVよりは彼を信じているように見受けられる。
 
 それにもともと、このやり方はフェアではないと加持は感じるだろうし、そういう意味でも、情報をシンジに与える可能性は高い。
 
 
 
 ……なぜ、セキュリティを強化しなかったのか?
 
 リツコは、自分で自分に問いかける。
 
 非、理論的。
 
 NERVに就職して以来、ある意味、初めてとも言える……非理論的にして、利益のない行動だった。
 
 
 
 わからない。
 
 それに、セキュリティを甘くしたうえに、その報告を自分だけに届くように設定するなど……
 
 まるで、その情報をシンジが得ることを、望んでいるかのような行動だ。
 
 
 
 シンジは、この、ことを……絶対に、認めないだろう。
 
 それは、わかっている。
 
 彼が、許すはずもない、ことだ。
 
 
 
 ……それが分かっていながら、なぜ、彼に情報が届くことを望むのか?
 
 自分で、自分の行動を把握しかねていた。
 
 噛み合った歯車の回転が、少しずつ、軋みを上げていく。
 
 いつか、決壊する。
 
 そんな、予感。
 
 
 
 頭で危機感を募らせても、身体が動かない。
 
 自分の心身のコントロールを失いはじめているような錯覚。
 
 
 
 そして、もうひとつ……彼女は、非常に重大な違反を犯そうとしていた。
 
 
 
 ……自分は、碇ゲンドウから、命令を受けている。
 
 だが……
 
 ………
 
 ……今、自分がやろうとしていることは、彼からの命令とは、明らかに……違う。
 
 
 
 感傷?
 
 そんな意味など、ありは、しない。
 
 与えられた職務をこなしていけばいいのだ。
 
 
 
 だが、それを、許さない何かが、自分の中に生まれつつ、ある。
 
 
 
 私は、何がしたいのだろう?
 
 私は、……赤木、リツコではなかったのか?
 
 この感情は……プログラムした、いかなる自分の感情とも、異なる。
 
 
 
 わからない。
 
 
 
 私は……何をしたいのだろう?
 
 
 
 シンジの視線が、頭をよぎる。
 
 射貫くような……
 
 ……視線。
 
 
 
 そんなものを恐れる自分ではない、と、分かっている。
 
 気にすることはない。
 
 ゲンドウの命令に従っていればいい。
 
 それによって、シンジが自分をどう非難しようと……それは、どうでもいいことではないか。
 
 碇シンジは、エヴァンゲリオンのパイロット。
 
 それ以上でも、それ以下でも、ない。
 
 
 
 ……それなのに。
 
 
 
 ……私は
 
 
 
 ……何を、しているのだろう……?
 
 
 
 ………
 
 頭脳はやがて、最小限を除いて、考えることをやめた。
 
 いい……。
 
 今は。
 
 もう、どうでも。
 
 
 
 なぜ、こういう行動に出るのか、分からない。
 
 必ず守り続けてきたゲンドウの命令を破ってまで、自分が何をしようとしているのか。
 
 だが、自分の行動が見えないからこそ……
 
 ……行き着く先に何があるのか、それを……見届けたい。
 
 
 
 リツコの眼前に、十二畳程の、小さい実験スペース。
 
 最新型とは言えない、一昔から二昔前の機器がうずたかく積み上げられている。
 
 パネルの間から見える小さなモニタに映る、暗い病室。
 
 ノイズのかすかに走る、その……薄汚れたブラウン管の向こう側に、小さな白いベッドが見える。
 
 窓からの、微かな月明かり……。
 
 
 
 ……揺れるカーテンの向こう側に、蒼く光るベッドの上には、そこにいるべき主の姿は、ない。
 
 
 
 這い回るコード類は、暗闇の中で、ただ、中心のポッドから漏れる緑色の光を照り返す。
 
 
 
 コードが集中した、ポッドカプセル。
 
 液体の充満したその中に、ミドリは、ただゆっくりとたゆたっている。