三百六十四
かじっ。
がじりりりりりりり。
無骨な、鈍い金属音が、部屋の中にこだまする。
「くぁ……」
おそらくは主人の寝相が著しく悪いためであろう、激しく乱れたベッドの中から、もぞもぞと腕が伸びる。
枕許の棚の上を、がさがさと、その音の在りかを探して腕が右往左往する。
30秒近く掛けてようやく目覚まし時計を掴むと、それを止め……るのかと思いきや、いきなり部屋の反対側の壁に投げ付けた。
ドガン!
……がじりりりりりりりり。
床の隅に転がった、時代を感じさせる古びた目覚まし時計は、微かに震えながら、変わらず自己主張を繰り返す。
しかし、まぁ、とりあえず、耳許からは遠ざかった。
布団を深く被れば、その耳障りな音も、やがて聞こえなくなるだろう。
時計を投げつけた人物は、いつもと同じように、もぞもぞと布団の中に潜り込んだ。
……がちゃっ……
……どたどたどたどた……
………
バンッ!
「……ぉおきろっ! この馬鹿兄貴〜っ!」
部屋の扉が叩き開けられるのと同時に、少女は地を蹴って空中に踊り出た。
その体は、まっすぐにベッドの上に突き刺さる。
どがっ!
「ぐはぁッッ!」
少女の両足を腹部にめり込ませた少年は、情けない声と共に飛び起きた。
少女は、もんどりうって床に転がる。
「……なッ……ァにすんじゃぁ、ミドリィ! ワシを殺す気かい!」
腹を押さえて、床に大の字に転がる妹を睨み付けるトウジ。
ミドリはむくっと上半身を起こすと、頬を膨らませて睨み返した。
「ナニ言ってんのよ、お兄ちゃん! 壁薄いんだから、目覚まし投げるのやめてよね!」
言いながら、立ち上がって反対側の壁際まで歩き、床に落ちている時計を拾い上げる。
ゼンマイの理屈で、いまや弱々しくベル音を鳴らしている時計の裏側のつまみをひねると、ようやくそれは騒音を撒き散らす行為を停止した。
ミドリは、その時計を、軽く壁にゴンゴン、とぶつける。
「壁の向こう側はアタシの部屋なんだから。毎朝毎朝、時計のぶつかる音で目が覚めちゃうじゃない」
「寝坊せんと起きれて、ええやないか」
「あのね〜、アタシは自分の目覚まし持ってるし、お兄ちゃんと違ってちゃんと一回で起きられるの!」
腰に手を当てて、怒ったように主張する。
これが、鈴原家で、毎朝、お決まりのように繰り返される情景である。
もう、耳にタコが数珠繋ぎになるくらい、口を酸っぱくして抗議し続けているミドリであるが、トウジは、「改善しよう」という気配すら垣間見えないほど、変化というものが無い。
しかし、ではなぜ、毎朝必ず襲ってくるのが分かっている妹の攻撃から身を護ろうとしないのか?
と思うと、トウジにしてみれば、この恒例の喧嘩も決して居心地の悪いものではないのだろうか。
……叩き起こされるミドリにとっては、たまったものではないが。
ミドリは、溜め息をついて、やれやれと大袈裟に肩を竦めてみせた。
「ホント……お兄ちゃんがこんなじゃ、ヒカリさんも苦労するよね」
「……ナニを言っとんのや」
「毎朝毎朝、ヒカリさんがお兄ちゃんを起こす苦労を思って同情してるのよ」
「毎朝ってなんじゃい」
「毎朝って、毎日の朝よ。知らないの?」
「だから、ナンでいいんちょが、毎朝ワシを起こさなアカンのや!」
「どうせそうなるんでしょ? それとも、結婚もしないつもりなの?」
「けっこ……ア、アホかい! だ、第一なぁ、ワシといいんちょは、その……別に、恋人っちゅうワケやないぞ」
「弄んでるわけ? ひっどぉ〜い」
「な、なんやとぉぉ」
ともあれ、ひとしきり騒いだ後……ミドリは朝食の支度をするために、居間に行ってしまった。
トウジも、すっかり覚醒してしまった頭を左右に振りつつ、今日のジャージを引っ張り出す。
ミドリに指摘されるまでもなく……ヒカリとのことは、いつまでも放っておくことはできない、と、思ってはいる。
しかし、もはや……お互いの気持ちは、それぞれ理解してしまっているわけだし……とにかく、ある意味、安定してしまっている現状を意味なく崩す気は、なかなか起きない。
どちらにせよ、将来、結論は出さなければいけないだろう。
だが、それはもう少し先でいい。
少なくとも、ミドリの言うような「結婚」の想像など、まだ中学生に過ぎないトウジには、あまりにも絵空事のように感じられた。
居間に出ると、ミドリがフライパンに卵を開けたところだった。
じゅわぁああああぁっ!
フライパンの上で、泡立つ白身が、香ばしくはじける。
腹をぼりぼりと掻きながら、トウジがミドリの背中に声を掛ける。
「こないだみたいな、目玉焼きにまるまる殻が混ざっとる……なんちゅうのは、カンベンやで」
そう言うトウジの言葉に、ミドリが、頬を染めて抗議の視線を向ける。
「しょ……ッがないでしょ! 手許が狂っちゃったんだからっ」
「どう狂ったら、あんなボリボリいう目玉焼きが作れるんや」
「そんなに言うんなら、お兄ちゃんが作れば?」
ずい、と、半分ほど火の通った目玉焼きが乗ったフライパンを、トウジの鼻先に突き出す。
トウジはそのフライパンを一瞥すると、
「今日の当番はミドリやろ」
と言い残して、洗面所に歩いて行ってしまった。
ぶすっ……とした表情でミドリは頬を膨らませると、ぷいっと元の方を向く。
「ヒカリさんに料理習うもん」
などと、ぶつぶつ呟いている。
トウジも容赦がないようだが、当番が逆転してトウジが料理する番になれば、今度はトウジが言われるのである。
このあたりのやり取りは、そのことが分かっている二人だから、と見ることも出来よう。
ほどなくして、料理が終わり、トウジの身仕度も整い、家族は揃って食卓につく。
家族……トウジ、ミドリ、そしてトウジたちの祖父だ。
「お父さんは? 仕事?」
ミドリが、目玉焼きに箸を突き立てながら尋ねる。
破けた卵黄から、黄身が流れ出す。
ミドリは、その破れ目に、醤油をかける。
「せやな……なんや、ここんとこ、忙しいみたいやで」
御飯を口に運びながら、トウジが応える。
トウジの父はNERVに勤務する研究員である。
具体的に何の研究をしているのか、トウジは知らない。それに、知ろうと思っても、トウジあたりに漏れる情報など、たかが知れているだろう。
無言で食事を続けている祖父も、おととし、定年で職を辞すまではNERVで働いていた。
しかし、祖父が何の仕事をしていたのかは、トウジもミドリも教えてもらったことがなかった。
つまり、そういうものなのだ。
トウジの母は、トウジが幼いころに亡くなっている。
直接の死因は、ミドリの出産だ。そのころはまだ、トウジの父はNERVに勤めておらず、職員特権でNERVの病院に入って治療を受ける、という選択肢はなかった。
祖父は既にNERVに勤めていたが、彼の地位はあまり高いものではなく、限りあるベッドの数に母を割り込ませることは出来なかったようだ。
当然……ミドリにとって、母の面影とは写真の中のものでしか、無い。
しかし、もともと……トウジやミドリの世代では、そういった「親のいない境遇」の子供は珍しくなかった。
ケンスケ、ヒカリ、シンジ……三人とも片親だ。レイやアスカなどは、両親ともいない。
だからこそ、逆に、トウジもミドリも「母親がいない」という環境を、ことさらにマイナスに考えることはなかった。
トウジの父は、月の内、1日帰ってくるかこないか、という生活を送っている。
NERVとはトウジの想像を超えた忙しさなのだろう、とは思うが……トウジにとって、いくらかのぎこちない感情を覚えてしまうのも、また、事実だ。
以前、民間の研究施設で働いていた父は、トウジが5歳になった頃にNERVの研究所に移り、以後、ほぼずっとこのような生活。
トウジにとって父は、実の父というよりも……むしろよその親戚、くらいの距離に感じられる。
ミドリは逆に、父を結構慕っているようだ。
トウジのように、最初は父が家にいて、後からいなくなった……という状況とは、違い……ミドリにとっては、家に父がいないのが、最初から当たり前の生活。
だから、むしろ、それをすんなり抵抗なく受け入れられているようだ。
祖父は、同じNERV勤務でも、父とは業務の内容が違ったようだ。
あるいは年齢的に、無理をするようなスケジュールからは外してもらっていたのだろうか。
祖父は、NERVに勤めていた頃も、ほぼ毎日……必ず家に帰り、幼いトウジとミドリの面倒を引き受けていた。
トウジにしてみれば、むしろこの祖父こそ父親のようなものである。
しかし祖父は、NERVを定年で辞めて以来、めっきりと年老いてしまった。
65歳といえばもちろん老人のうちに入るだろうが、それにしても、以前の彼の様子を思えば、まだかくしゃくとしていてよいはずだ。
だが、今の……背中を丸めて新聞を読む姿は、更に10も20も、老け込んで見える。
「ごっそぉさん」
トウジは、口許にごはんつぶをつけたまま、茶碗を机の上に置く。
「ほんならワシ、ガッコ行くわ」
自分の食器を手早く重ねると、トウジはそれを持って立ち上がり、シンクの中の、水を張ったボウルに浸けた。
手を洗ってから、鞄を肩に掛ける。
「あっ、待ってよお兄ちゃん」
ミドリは、慌てて最後の一口を呑み込んだ。
ミドリとトウジは、並んで家を出た。
ミドリの通う新東京市立第弐小学校と、トウジの中学とは、距離的にさほど離れていない。
途中までは、同じ通学路になる。
トウジが歩くその一歩先を、小さなリュックをかちゃかちゃ言わせながら、ミドリが歩く。
いつもは、二人で同じ時間に家を出ている、というわけではない。
意図的に時間をずらしているわけではないが、トウジの方が家を出るのが遅くなることが多くなる。
それは、まぁ……要するに、トウジがずるずると、なかなか準備を済まさないため、である。
しかし今日のように、珍しく二人の時間が揃ったときには、一緒に家を出ることもあった。
トウジくらいの年齢になると、「兄弟姉妹と一緒に登校する」ということに、抵抗感を示す者は少なくない。
その理由の多くは、やはり……人目が気になって恥ずかしい、ということなどがあるのであろう。
……しかし、トウジには、そういう類いの抵抗感は薄い。
「喧嘩するほど仲がいい」とはよく言われる、いわゆる常套句ではあるが、確かに……トウジとミドリは、お互いを非常に大事に思う、仲のよい兄妹と言えた。
「もうすぐ、お父さんの誕生日だね、お兄ちゃん」
ミドリが、トウジの数歩前でくるりと振り返り、両手を広げて言う。
「どうする? 今年」
「どうする、ちゅうても、なぁ……」
トウジは、空を見上げてポリポリとあごを掻いた。
遠くに、入道雲が見える。
「どうせ、今年も帰ってこんのやないか。第一、おとんは自分の誕生日、気にしてへんしな」
「そうかも知れないけど……でも、プレゼントとかさぁ」
「う〜ん……そうやなぁ……」
トウジにとって、父のために何かする、という行動は、動機として弱いのだ。
自分の誕生日を父に祝ってもらった記憶も無いし(気にしていないが)、それに……父は、自分たちに祝ってもらえなくても、何も気になどしないだろう。
そういう、淡白な男なのだ。
……と、思い、トウジは我知らず苦笑した。
血の繋がった父親のことを、そんなふうに冷めた目で分析する自分も、淡白なのかも知れない。
結局、親子なのだ。
「まぁ……帰ってくる言うんなら、そんとき飯でも食いに行ったらええんやないか。いっつもワシかミドリの料理じゃ、お世辞にも美味いとは言われへんやろ」
「う〜ん……ま、そうか……」
トウジの言葉に、ミドリも間を置いて肯いた。
やがて、道が別れるところにさしかかった。
トウジは右に、ミドリは左に曲がる。
ミドリは、両手を腰の後ろに組むと、くるっと回って……とんとん、と、数歩進む。
太陽の光を、背負って。
ミドリは、笑いながらトウジに手を振った。
「じゃぁね、お兄ちゃん!」
三百六十五
スピーカー越しに報告を聞いても、リツコは、無表情だった。
執務室にしつらえられた15インチのモニタには、報告を裏付ける衛星写真が写っている。
片手で軽くキーボードを叩くと、映像が変わる。しかしそのどれもが、報告の信憑性を裏付けるものばかりだった。
「……米国第二支部の具体的な被害状況は?」
リツコが、コーヒーをすすりながら、呟く。
『正確な数字は分かりません。関連施設から記録から、全てが消えてしまったので……』
「記録が、何かデータとして残っていれば、ネットワーク経由でMAGIが保存しているはずよ」
『現在、既に照会中です。ただ、詳細な情報を全てまとめるには、あと2時間ほどかかるかと……』
「完全な数字は、後で管制室で聞くわ。とりあえず、大まかな状況でいいから、教えてもらえる?」
『はい、ええ……原因については、現在調査中です。損害ですが、施設的には、限りなく100パーセントに近い形で失われています。建造中だったエヴァ四号機も絶望的でしょう。また、サンプルとして向こうに移してあったS2機関も、一緒に失われているものと推測されます』
「原因だもの、当然ね……」
『は?』
「いえ、何でもありません。それから?」
『あ、はい、ええと……次に人的被害ですが、やはり、就労中だった職員はほぼ全員、巻き込まれたと見ていいでしょう。救出作業は始まっていますが、生存者は殆どいないそうです』
「何人?」
『は』
「就労中の職員……とは、何人?」
『は、ええ……出張中の者や病欠者もいるでしょうから正確ではありませんが、大体1500人程度だと思われます』
リツコは、ただ、何も無い宙を見つめていた。
まるで、酸素の分子に刻まれた、神の書物を読むように……。
そして、そっと目を閉じ……数秒置いて、また、ゆっくりと、開く。
「そう……ご苦労様。20分後に管制室に行きます。出来るだけ、詳しい情報を集めておいて」
『わかりました。では、失礼いたします』
ブツ、と短い切断音が聞こえて、リツコの執務室には、再び静寂が訪れた。
リツコは椅子を回すと、座席の下のレバーを引いた。
背凭れが後ろに倒れるように下がる。
リツコは両脚を伸ばすと、腹の上に両手を組んで、背凭れに頭を預けた。
天井が、見える。
リツコは、まるで……湖の水面のように、穏やかな心で、事態を見つめていた。
1500人。
それが、被害者の、人数。
米国第二支部の、職員総数。
リツコは、静かに、目を閉じる。
……先週まで、米国第二支部には、2500人の職員が働いていた。
リツコの指示の許、MAGIに計算させた結果に基づき、余剰人員を整理した。
人員の手薄な支部へ異動した者もいるが、多くは、職を失うか、それまでの待遇よりも数段劣る職業への転職を余儀無くされただろう。
突然の、海の向こうからの大リストラ策に、恨みの念を抱いた者も少なくないに違いない。
だが、彼らは、職を失っても、命は失わなかった。
巻き込まれていたかも知れなかった、約、1000人の、人々。
……その、1000人分の命を、一人の中学生の言葉が、救った、とも、言えた。
リツコは、目頭を指で軽くつまむと、溜め息をついて上体を起こした。
机の上のコーヒーカップを手に取り、口を付ける。
その茶色い液体は、半ばぬるくなり、舌の上にざらついた苦さを残す。
勘繰り過ぎているのかも知れない。
彼に、どうして「S2機関の暴走」などという事態が予測できるだろうか。
通常、考えれば……それは、世界中のどんな人間にも、分からないことのはずだ。
リツコはコーヒーを飲み干すと、カップを机の上に置いて立ち上がった。
考えても仕方が無い。
今、やらなければいけないことは、沢山ある。
恐らく、同じ徹を踏むことを恐れて、エヴァンゲリオン参号機は日本へと移送されてくるだろう。
起動実験を行うためにも、急いでパイロットを選出しなければいけない。
失われてしまったS2機関の搭載実験を継承するために、記録されていたデータを収集してブラッシュアップする必要がある。
委員会からも、実験失敗の経緯について詳細な説明を求められることだろう。
とりあえず、目の前に積み上げられた問題から、考えなければいけない。
リツコが扉の前に立つと、ブシュッ……と軽い音を立てて、金属の扉が左右にスライドする。
そのまま、ヒールの音を小気味良く響かせて、リツコは廊下の光の許に歩みを進めた。
ひとつ……
分かっていることが、ある。
リツコは、ただ、前を見続ける。
米国第二支部が消滅した、その第一報を聞いたとき……
……私は、ほとんど驚かなかった。
シンジ君に、あの話をされた時から……こうなる、気がしていた。
三百六十六
管制室に到着したリツコは、改めてオペレーターから、事故についての詳細な報告を受けた。
案の定、米国第二支部消失の原因は、99%の確率でS2機関の暴走によるもの、とのことだった。
オペレーターが持ち場に戻った後、思案に耽るように黙って立ち続けるリツコの背後から、ミサトが静かに声を掛ける。
「……面倒なことに、なったわね」
その声に、リツコは、少しだけ振り返ってミサトを見る。
「面倒?」
「米国第二支部が消失したのよ」
「……そうね」
「S2機関のせい?」
「でしょうね。おそらく、虚数空間に飲み込まれたんだと思うわ」
「よく分かりもしないモノを、いじるからよ」
「……まぁ、こういう事態は、考えられなかったわけではないわ」
「そう……?」
「実際……米国第二支部の技術陣だって、馬鹿じゃないでしょう。先日の使徒戦を見て……S2機関の扱いを間違えば、虚数空間に取り込まれるかもしれない、というところまでは、予測は出来ていたはずよ」
リツコの淡々とした言葉に、ミサトは少しだけ眉を上げた。
「予測が出来ていた……ですって? それで、避けることが出来なかったと言うわけ?」
リツコは、軽く、肩を竦めるようなジェスチャーで応える。
「……未知の要素が多すぎた……というところ、かしら。彼らも、考えうる予防線は張っていたでしょう。でも、避けられなかった」
「………」
「そういうもの……よ」
二人の間に、沈黙が流れた。
そうだ。
リツコは……静かに、思う。
どんなに、現在の技術を駆使しても……使徒の持つ不可思議なテクノロジーは、未知の世界のものであり……我々には御し切れない。
誰にも……どうなるのか、分からない。
……はず、なのだ。
……だが……彼は……。
「……参号機は、どうなるのかしらね」
ミサトの言葉に、リツコの思考は分断された。
空中に合っていた焦点を、ミサトに合わせる。
「……ああ……おそらく、うちに来ることになるでしょうね」
「やっぱり?」
「米国支局も、第壱支部まで失いたくは、ないでしょう」
「でも、それって……失敗するって決めつけてるようなものじゃない」
「起動実験に、危険はつきものよ」
「冗談じゃないわね」
「………」
「……でも……起動実験をやる、ってことは……フォースが選出される、ってこと?」
「……まぁ……そう、なるでしょうね」
「シンちゃんたちと、同い年の子供になるのかしら、やっぱり……」
「それは、まぁ……そうなるでしょうね」
「……シンちゃんたちのクラスから、出るの?」
「……確率は、高いわね……適格者が集められているのだから」
「言い辛いわね、あのコたちに」
「そうかしら?」
「何が?」
「シンジ君は……気には、しないんじゃないかしら」
「でも……シンちゃんは、友達を危険な闘いの場に立たせたくはないんじゃない?」
「そう、思う?」
「だって、シンちゃん……レイやアスカのことだって、危険から遠ざけようと努力するわ。新しく、友達がここに来るなんて……出来るなら、避けたいと思っているはずよ」
「そうかしらね」
ミサトは、訝しげにリツコの表情を伺った。
「……リツコは……違うって言うの?」
「わからないわ。断言できない、と言うだけ」
リツコは、事も無さげに呟き、手に持った報告書に赤ペンを入れていく。
「ただ……シンジ君は、決して……温情に溺れるタイプじゃ無い、と思うわね。
彼は、目的のためなら、眉一つ動かさずに、人を殺せるでしょう。
例えば、レイと人類のどちらかしか救えない、となれば、シンジ君は躊躇無く、レイを救うんじゃない?」
「そんなこと……」
「無い、と思う?」
ミサトの顔に視線を向けて、冷ややかな言葉を口にする。
「私に言わせれば、その方がよっぽど、人間らしいと思うわ。優柔不断にならず、毅然と切り捨てられる分、人間としても尊敬に値するんじゃないかしら」
「……それでも……シンちゃんは……そういう選択を迫られたら、きっと、最後の最後まで、両方を救う道を考える……はず、だわ……」
ミサトは、掠れたような声で、呟いた。
リツコは、静かに、目を瞑る。
「……それが出来るのは……偽善者か、神様だけ……よ」
三百六十七
放課後。
教室の掃除当番を終えたトウジは、放り出してあった鞄のフックをを開け、机にしまってあった僅かな文房具を片付ける。
周りを見回す。
夕暮れの、オレンジの光に包まれた教室。
もう、誰も居ない。
ケンスケもシンジも、レイもアスカも姿が無い。
ケンスケとシンジは、ゲームセンターにでも、行ったのだろうか? あるいは、シンジはレイと帰宅したのかも知れない。アスカも一緒だろうか。アスカは、ヒカリと買い物にでも行ったかも知れない……。
「……掃除、終わった?」
教室の中で、オレンジ色の夕焼けに一人佇んでいたトウジは、背中から突然かけられた声に、飛び上がって驚いた。
「うわぁあぁっ!」
「きゃっ! な、なに!?」
トウジの上げた声の大きさに、思わず驚いて目を見開いていたのは、ヒカリだ。
教室の戸口のところで、両手に鞄を抱えて、トウジを見ている。
トウジは、ヒカリの姿にようやくと気付き、力が抜けたように呟いた。
「あ、あぁ……な、なんや、いいんちょだったんかいな」
「あ……ごめん、驚かせた?」
「そんなことあらへん」
「ごめんね」
「関係ないっちゅうに」
「ふふ……」
「やかましいわ。ったく……」
窓の外で枝葉を広げた幹は、清々と繁る夏の雄々しさと共に、しっとりとした夕焼けの風情を従えていた。
オレンジ色の穏やかな光は、二人の背後にも長い影を落とす。
いつもの騒がしい教室とは違い、今、二人を包む空気は、柔らかな安堵を伝えていた。
「一人で掃除してたの?」
ヒカリが、微笑んで尋ねる。
その穏やかな笑顔も、夕暮れのオレンジ色に覆われていた。
「ああ……せやな」
トウジが、目を逸らして、応える。
「週番、鈴原と……木村さんだっけ? 木村さん、どうしたの?」
「知らん。帰ったんやないか」
「え? なんで?」
「なんでっちゅうても……知らんわ。逃げたんやないか」
鞄の中身を整えながら、特に何も意気込むことなく、あっけらかんと応える。
「……鈴原に押し付けて?」
「ワシが、いつもやってるコト、やからな」
ヒカリの、僅かに不満気な空気を孕んだ口調に、トウジは少しだけ、苦笑した。
「……鈴原は、なんで逃げなかったの?」
ヒカリが、少しの間を置いて、トウジに尋ねる。
トウジが、横目でヒカリを見た。
「何がや?」
「いつも逃げちゃうクセに……今日に限って、しかも一人で……どうして掃除してるのかな、と思って」
「ああ……ま、なんや、そりゃ……
……一人だから、やろ……どっちかっちゅうと」
「?」
「ワシしか、おらへんのや。ワシが帰ったら、誰も掃除せんやないか」
トウジはそう言うと、鞄を肩に背負った。
振り返って、ヒカリを見る。
「せっかくやし、どっか寄ってくか、いいんちょ?」
そして、眉をひそめる。
「……なに、ぼけっとしとんのや?」
……思わず……ぼーっとしていたヒカリは、トウジの言葉に我に返った。
「あ……え、あ、なに?」
「なにて……どっか寄ってくか、言うとんのや」
「あ、う、うん……じゃあ、商店街のほう、行こうよ! 美味しいケーキ屋さん、見つけたの」
「……またケーキかいな……」
……ヒカリは、嬉しかった。
トウジの、心が……。
いつも、掃除をしないで帰ってしまう。
だが、誰も掃除をするものがいなければ、自分だけでも残って、やっていく。
……だったら、ちゃんといつでも掃除すればいいじゃないか、とは、あえて言わなかった。
不器用な彼の優しさが、暖かかった。
他愛もない会話を交わしながら、二人は教室を後にした。
人の居なくなった教室は、しかし……夕暮れの温もりを未だ包んで、穏やかに佇んでいた。
三百六十八
地下駐車場に停まった古びたセダンは、人の気配を感じさせること無く……打ち捨てられたように、横たわっていた。
どこにでもある、特徴の欠けた乗用車。
だが、その車の中には、一人の男が座っている。
一見、どこにでもありそうな車だが……実は、登録からは完全に抹消されている。
例え事故を起こしたとしても、この車を特定することが出来ないように、情報ネットワークに幾重にも護られていた。
最新型の遮光フィルムは、昼夜を問わず、車内の様子を外から窺うことを許さない。
運転席の中で、熊谷ユウは、身じろぎすること無く、座っていた。
真っ暗な空間で、眼だけが鋭い光を放つ。
自らの上司……加持リョウジのことを、頭に思い浮かべる。
自分は、あの男とは違う、と、熊谷は思う。
……確かに、あの男の技術には、敵わないところが多い。
へらへらしているようで、その実、秘めた威圧感に圧倒されることすら、ある。
……だが……あの男には、情がある。
熊谷は、ゆっくりと瞼を閉じた。
そう。
自分が、確実にあの男に勝る点……
それは、自分が「機械」に徹することができるという、その一点に集約される。
機械と人間が闘って、人間が敵うことなど有り得ない。
マシンガンを相手に、ナイフで飛びかかって勝てる筈がないのだ。
自分の骨は、ホイールに。
自分の血は、オイルに。
心臓は、エンジンに。筋肉は、スプリングに。
より、純粋な「機械」として……。
熊谷は、ポケットに入れていた左手を伸ばすと、ゆっくりとギアを掴んだ。
ブレーキを踏み、右手でキーを回す。
命を吹き込まれたエンジンは、振動とともに、低い唸り声をあげた。
今回の任務は、恐らく、加持だったら受けるまい、と、熊谷は考える。
……だからこそ、加持を通さず……自分に直接、密命が下ったのだ。
この任務は、成功させる。
加持と自分が、はっきりと違う存在である、その、証しとして。
夜の街に、排気音が響き渡った。