第七十七話 「羽」
三百六十一



 宴の、後。
 
 その、惨状。
 
 
 
 それは、えてして、その場に居る者のやる気のすべてを減退させる、凄まじい様相を呈している場合が少なくは、ない。
 
 そういう意味では、決してその朝も、例外とは言えないであろう。
 
 
 
 結局……気が付けば、夜はとうに明けていた。
 
 誕生会に参加した全員が、居間の椅子なり床なりソファなりに、くてくてになって崩れ落ちていた。
 
 
 
 一番最初に目を覚ましたのは、シンジだった。
 
 日頃から早起きが習慣になっている彼は、その朝も、いつもとほぼ変わらぬ時間に目覚めたのである。
 
 
 
 目を覚まし、2・3度、瞬きをする。
 
 数瞬の間を置き、自分が居間にいること、昨晩が誕生会であったことを、芋蔓式に思い出していく。
 
 ……昨晩、最後のあたりは、結局どうなったのか?
 
 よく、覚えていない。
 
 
 
 シンジが弾いたチェロは、当人の予想を超えて好評を博した。
 
 自分の腕前は、自分で良く分かっている。
 
 確かに子供の頃から弾いていたチェロだが、始めてからずっと練習し続けていたわけでもない。
 
 平均的な、中学生のブラスバンドよりは上手かもしれない。だが、それ以上でもない、と、自己分析していた。
 
 
 
 だが、弾き終わった瞬間……何秒かの沈黙を置いて、拍手喝采を浴び、シンジは逆に驚いた。
 
 レイとヒカリに至っては、涙さえ流していた。
 
 レイは、すぐさま……ぶつかるようにシンジの胸に飛び込み、その首筋に鼻先を埋める。
 
 衆目の的になり、シンジは照れ、狼狽したが……そのときばかりは、誰も茶化したりしなかった。
 
 
 
 皆、シンジがチェロを弾く、という事実に、かなり驚いたという。
 
 それは……まぁ、そうだろう。
 
 第三新東京市に来て……と言うか、時代を遡行してきて、一度も……チェロを押入れから取り出したことすら、なかったのだ。
 
 
 
 もっとも、この事実は瞬く間に、学校全体に広まることとなるだろう。
 
 ケンスケが、チェロを抱いて微笑むシンジを撮影している。
 
 この写真は、おそらく明日にでも市場に出まわり、数多くの女性のハートを鷲掴むとともに、ケンスケの懐を十分すぎるほど、潤わせるに違いなかった。
 
 
 
 ……チェロの演奏の後、みんなでトランプに興じた。
 
 アルコールこそ入らなかったが、みんな心行くまで騒ぎ、心地好い疲れに包まれていく。
 
 一人、また一人……と、眠りの海に落ちていき……最後に、加持が諦めたように瞼を閉じたのは、まだ1時前のことだった。
 
 
 
 さて……
 
 
 
 なぜ、こんなに長々と、昨晩の出来事について思い返しているのか……と、訝しがる向きもあるかも知れない。
 
 もちろん、思い返しているシンジにとっても、それは別に、とりたてて重要な事柄ではない。
 
 では、なぜ……とっくに目覚めているのに、いつまでも床に寝転がったまま、ぼーっと物思いに耽っているのであろうか?
 
 
 
 ……それは、シンジの右腕を、熟睡したレイががっちりとホールドしているため、起き上がることができないからである。
 
 
 
 (……どうしようかな)
 
 
 
 シンジは、ぼーっと考える。
 
 とりあえず、もはや……目覚めたときに、自分の体にレイが抱きついていても慌てなくなったのは、大いなる慣れ、というものであろう。
 
 おかげで……驚きの声を上げて、眠っている周りの面々を起こしてしまい、レイに抱きつかれている姿を思い切り晒してしまうような真似だけは、なんとか避けることができた。
 
 
 
 首を捻って、横を向く。
 
 見ると、シンジの肩と首の間に頭を突っ込んでいるような体勢で、レイは安らかな寝息を立てていた。
 
 
 
 いつもと同じく……シンジが腕に力を篭めても、さっぱり、動く気配無し。
 
 こと、シンジに抱きつく力に関しては、物凄いパワーを発揮するレイである。
 
 ぐっ、と右腕に力を入れて抜こうとすると……熟睡しているはずなのに、反応してギュッとレイの両腕がきつく締まり、シンジが逃げるのを阻止する。
 
 そのたびに、腕全体を包み込む柔らかさに、思わず挫けてふにゃふにゃと力が抜けてしまうシンジであった。
 
 
 
 と……言っても、当然のことながら、このまま放っておくわけにはいかないのである。
 
 いつもだって、レイに抱きつかれて目覚めた朝は、何とか早く起きなければと必死になるが、今日は更に輪を掛けて余裕がない。
 
 何しろ、ここはシンジのベッドではない。
 
 全員が同じフロアに雑魚寝……誰が目覚めても即座に見つかる、正にテンパイ状態なのだ。
 
 
 
 (と……とにかく、なんとかして起きなくちゃ……)
 
 シンジは、頭を回転させる。
 
 いつもと、かろうじて違うのは……レイがシンジの体全体に抱きついているのではなく、ホールドされているのは右腕一本だということだ。
 
 これは大きい。
 
 たとえ、ホールドされている腕を抜くことができなくても……自由が効かないのが片腕だけなら、起き上がるのは難しくはない。
 
 
 
 シンジは、慎重に上体を起こす。
 
 (……起こさないように、注意しなくちゃ……)
 
 ちなみに、これは、寝ている他の皆のことではなく、レイのことである。
 
 レイを起こさなくては事態は解決しないのに、幸せそうな寝顔を見ていると、つい起こさずに済まそうとしてしまう……このあたり、シンジが甘いのか、抜けているのか。
 
 ……両方か。
 
 
 
 2分ほど費やして、シンジはなんとか体を半分起こし、不自然ながらも、床に座っているような姿勢になった。
 
 ……というような姿勢になると、さすがにその腕にしがみついているレイも、どうにも不自然に寝にくい体勢になってしまっているのであるが……
 
 全然、起きない。
 
 
 
 シンジは、ポリポリと頭を掻くと、やがて、溜め息を一つ。
 
 ……仕方がない。
 
 別にそこまでシンジが気にすることはないのだが、シンジは……レイの眠りを妨げることに、若干の申し訳無さを感じながら、空いている手でレイの肩を叩いた。
 
 
 
 「綾波……起きて。……朝だよ」
 
 
 
 耳許で囁くと、レイは、もぞ……と体を動かし、眠ったまま、声のした方に擦り寄っていく。
 
 レイの耳許に顔を近付けていたシンジの頬に、ぴた……と自分の頬をつけて、また安心したように寝息を立て始める。
 
 シンジは、レイの子供のような反応に思わず苦笑するが……とにかく、そうして頬をつけあったまま、耳許で囁き続けた。
 
 「綾波……お〜い。綾波〜……起きてよ〜……綾波〜……」
 
 言いながら、背中をぽん、ぽん、と叩く。
 
 
 
 そうした状態のまま、実に、30分。
 
 レイは、ようやく……薄目を開けて、シンジを見た。
 
 
 
 シンジは、ほっと安堵すると、レイに微笑んだ。
 
 「おはよう、綾波。目が覚めた?」
 
 
 
 「……う……おはよう……碇君……」
 
 レイは、もぞもぞ……と片腕だけほどくと、手の甲で瞼をこする。
 
 「眠い?」
 
 「……うん」
 
 いかにも眠そうな、霞がかった声で、こく、と肯くレイ。
 
 
 
 レイは、顔を上げると……きょろきょろ、と周りを見回した。
 
 「………」
 
 「どうかした?」
 
 「……ミサトさんの……家……?」
 
 「そうだよ」
 
 「………」
 
 「覚えて無いの?」
 
 「……ううん……驚いた、だけ……」
 
 言いながら、もう一度もそもそと瞼をこする。
 
 
 
 「眠い?」
 
 「……うん」
 
 心底、眠そうに応える。
 
 
 
 レイは、シンジの腕を離し、もぞもぞと体勢を整える。
 
 シンジは、開放された腕をぶるぶるっと振り、ほっ……と溜め息をつく。
 
 
 
 ……と、いうところで。
 
 
 
 レイは、改めてきちっと(と言っても体育座り)座り直すと……そうして振られていたシンジの腕を、いきなりはしっと両腕で取り押さえる。
 
 「えっ?」
 
 思わず動きが止まるシンジ。
 
 
 
 レイは、そのままぐいっ、とシンジの腕を引っ張った。
 
 
 
 ぼふっ。
 
 
 
 ……シンジは、そのまま、レイの胸の中に飛び込んでしまった。
 
 
 
 ちなみに、状況を説明すると……レイは、昨日と同じ、ワンピース姿だ。
 
 シンジは、レイの両膝の間にハンモックのように張られたスカートの上に、仰向けに転がり込んだのである。
 
 
 
 当然、シンジの体重を受けきれないスカートは、そのまま一緒に、下に向かって引っ張られる。
 
 そのスカートに引かれるように、レイの両膝はきゅっと閉じ、シンジの頭を挟み込んだ。
 
 
 
 「………」
 
 突然の事態に、シンジは何が何だか咄嗟に状況が理解できない。
 
 とにかく、両側と真下から、自分の頭が抱え込まれている。
 
 「……え……っ」
 
 数秒を置いて……状況を理解したシンジが、慌てて体を起こそう……
 
 ……と、したところに。
 
 顔の上から、わふっと柔らかいものが覆い被さってきた。
 
 
 
 既に状況は予想済みのことと思うが、もちろん、上から被さってきたのはレイの上半身である。
 
 そして、これまた大方の予想通り……レイは、もう、眠っている。
 
 
 
 「……すー……」
 
 
 
 「………」
 
 シンジは、固まってしまった。
 
 度重なる事態の変化に、思考が停止している。
 
 わざわざ起こしたレイが、再び眠ってしまっていることも、しかり。
 
 身動き取れない現在の状況も、しかり。
 
 顔面に押しつけられた、柔らかなものの正体も、しかり。
 
 こんなことをしている間に誰かが目覚めたら一大事、という思いもある。
 
 
 
 しかし、そんな悠長なことを、言っている場合では無い。
 
 
 
 ……息ができない。
 
 
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……ッ……」
 
 「……ーッ……」
 
 「……ーッ……ーッ……」
 
 「……ーッ! ……ーッ! ……ーッ! ……」
 
 「……ーッ! ーッ! ーッ! ーッ! ーッ! ーッ!」
 
 
 
 じたばたじたばた……
 
 
 
 ぱんぱん、と、覆い被さっているレイの背中を叩く。
 
 「すー……」
 
 全然起きない。
 
 背中を叩くたびに、もぞ……と体が動き、顔に押しつけられたレイの胸も動くのだが、もはやシンジには嬉しいとか恥ずかしいとか言っている余裕は無い。
 
 生命の危機!
 
 レリエル戦を生きて切り抜けたシンジが、こんなところで死んではシャレにならない。
 
 
 
 「!」
 
 咄嗟の、ひらめき。
 
 シンジは、片腕をぱっと頭のほうに伸ばすと、後頭部を支えるスカートの裾を掴み、ぐいっと頭の上に押し上げた。
 
 
 
 ゴチン!
 
 
 
 「……だ……ッ……」
 
 ずとん、と支えを失って落ちたシンジの後頭部は、フローリングの床に打ち付けられた。
 
 レイの体も一緒になって倒れ込み、そのままシンジの上にのしかかってくるが……さっきまでの、完全にホールドされて身動きの取れなかった状態とは、状況はまるで違う。
 
 シンジはぶつけた頭をさすりながら、なんとか、レイの体の下から這い出した。
 
 
 
 「すー……」
 
 レイは、何事も無かったかのように、眠っている。
 
 レイの横に座り込んだシンジは、どっと肩を落として、溜め息をついた。
 
 
 
 (しかし……綾波、よく寝るなぁ)
 
 シンジは、苦笑して、愛する少女のあどけない寝顔を眺める。
 
 (いつも、朝は早くに起きてくるのに……こんなに寝起きが悪くて、よく……毎朝、みんなの弁当を作れるよ……)
 
 
 
 実際、レイは、寝坊してきたことは、まずない。
 
 シンジの知る限り、寝ぼけまなこで起きてきたことも、無い。
 
 つまり、確かに、レイは毎朝……今のように二度寝することも無く、寝起きが悪いなりにきちっと起きているのである。
 
 
 
 その、違いは、何か?
 
 いつもと、今朝と、何が違うのだろうか?
 
 
 
 要因は、二つある。
 
 まず、ひとつ。
 
 いつも、とにかく……起きなければ、シンジの側に行くことはできない。
 
 シンジに会いたい一心で、冷たいシャワーを浴び、睡魔を追いやって葛城邸に走るのだ。
 
 そして、もうひとつ。
 
 今朝を含め、シンジの側で眠るとき……
 
 それは、いつにも増して……柔らかな、安心感に包まれる。
 
 穏やかな眠りに落ちていくこと、それは、必然とも言える結果である。
 
 
 
 と、言うことで、その理由はどちらも、シンジに起因したことだ。
 
 だが、もちろん……シンジには、そんなことはさっぱり気付くことができないのであった。



三百六十二



 とにかく……危機は、脱した。
 
 
 
 生命の危機はもちろん……
 
 レイに抱きつかれているところを、皆に見つかる……という危機についても、同様である。
 
 
 
 ……ちなみに、実際には……焦り、狼狽しているのはシンジだけであり……今更、シンジにレイが抱きついているところを見ても誰も何とも思わないのだが……そういうところをどうしても気にしてしまうあたり、いつまでもシンジはシンジである。
 
 
 
 シンジは、しゃがみこむと、足許に横になって寝ているレイを見た。
 
 「すー……すー……」
 
 目覚める前と変わらぬ様子で、レイは優しい寝息を立てている。
 
 しかし、前のめりに倒れ込んだ格好のままなので、俯せで幾分苦しそうだ。
 
 
 
 シンジは、俯せに眠るレイの肩に手を伸ばすと、もう片方の腕で頭の後ろを支えながら、ゆっくりとレイの体を起こす。
 
 そして、仰向けに寝かせた後、両腕を膝の裏と首の下に差し込むと、そっと持ち上げた。
 
 
 
 以前、こうして抱いて移動したときにも感じたことだが……
 
 ……やはり……レイの体は、非常に軽い。
 
 シンジの体が、訓練によってそれなりに引き締まった筋肉を得ているとは言え……反動をつけることもなく持ち上げられるところからも、それを伺い知ることができる。
 
 
 
 レイは、シンジの肩口に頭を柔らかく預けたまま、安らかに眠っている。
 
 シンジは、皆を起こさないように足音を忍ばせながら、そっと自分の部屋の扉を開けた。
 
 暗い部屋の中で、シンジは自分のベッドまで移動する。
 
 レイを、そのベッドの上に、優しく横たえた。
 
 
 
 硬いフローリングの上で寝かせておくのが、可哀想だったから……
 
 ……と思っているが、それを言うなら、他のメンバーも全員フローリングで雑魚寝だ。
 
 いわゆる、ありていに言ってしまえば「えこひいき」なのだが、そこは愛する少女のことだ。
 
 そういう気分になっちゃうのは、仕方が無いことだよな……と、シンジ自身も、思う。
 
 
 
 薄暗い部屋の中で、シンジは、安らかに寝息を立てるレイの顔を見ていた。
 
 規則正しく、ゆっくりとした呼吸を繰り返している。
 
 小さく、僅かに開いた唇が、可愛い。
 
 
 
 どんな夢を見ているんだろう?
 
 
 
 幸せな、夢だったら、いいよな……。
 
 
 
 シンジは微笑むと、軽く握られたレイの手をそっと両手で掴み、それから、立ち上がって部屋を後にした。



三百六十三



 レイは、暗闇の中にいた。
 
 
 
 初め、自分がどこにいるのか、理解することはできなかった。……いや、それは、今でもそうだが。
 
 目を凝らしても、何も見えない。
 
 この世界は、どこまでも続いているのか……それとも、目の前で閉じているのか。
 
 わからない。
 
 手を伸ばしても、何も触れなかった。
 
 自分が座り込んでいる、冷たい床だけが、かろうじて感じられる全てだった。
 
 
 
 何が何だか分からず、レイは混乱して視線を左右に振った。
 
 もちろん、彼女がその視線の先に求めるものは、一つしか、ない。
 
 
 
 「……碇君……?」
 
 
 
 声に出したその呼びかけは、そのまま虚空の中に消えていった。
 
 その、捉え所の無さは、黒い不安を抱かせる。
 
 返事は、無い。
 
 微かな期待を胸に、レイはそのまま数秒待ったが……結局、シンジからも、あるいは別の何かからも……何らかの反応が返ってくることは無かった。
 
 
 
 「……碇……君」
 
 
 
 レイは、掠れた言葉を漏らし、俯いた。
 
 シンジは、ここにはいない。
 
 もちろん、他の何も。
 
 
 
 ここは……私の心の中だ。
 
 
 
 唐突に感じたその印象は、根拠のない、思い付きに過ぎなかった。
 
 口許で、ぎゅっ……と拳を握り締める。
 
 
 
 負けては、いけない……。
 
 
 
 シンジのぬくもりが、自分の側に、ない。
 
 それは、足許からせり上がる、冷たい恐怖。
 
 気付くと、心臓を掴み上げられ、脳細胞の隙間に染み渡ってくる、恐怖。
 
 
 
 膝が振るえ始めたことに気付き、レイは、慌てたように、両手で自分の膝を抱えた。
 
 必死に、抑え込むように。
 
 自分の顔色が、失われていることが分かる。
 
 こめかみに、冷たく、ねっとりとした不快な汗が、つたう。
 
 
 
 いけない。
 
 
 
 レイは眉根を寄せて、ぎゅっと目を瞑る。
 
 不安に乱れそうな心を、必死に掻き集めた。
 
 
 
 「いけない」
 
 今度は、口に出して呟いた。
 
 言葉は、吸い取られるように、口にした端から消えていく。
 
 だが、耳と……心に、確かに、残る。
 
 
 
 そうだ。
 
 
 
 目を開く。
 
 

 暗闇……
 
 
 
 しかし、その奥に潜むものを見据えるように、レイは、その闇を睨んだ。
 
 

 そうだ。
 
 いつも……
 
 ……シンジは、そばにいるとは、限らない。
 
 
 
 それは、シンジが自分を見捨てる、とか……そういう意味では、もちろん、ない。

 シンジは、いつでも自分のために、心を砕いてくれるだろう。

 そのことに、疑いの気持ちなど、ない。
 
 
 
 だが、それでも……
 
 ……いや、それ故にこそ、シンジは自分の側から離れてしまうこともあるのだ。
 
 自分を護ろうとしてくれる……そのために、自分の側から、離れてしまうこともあるのだ。
 
 
 
 シンジは、いつでも、自分を見てくれる。
 
 どこからでも……自分を、見ている。
 
 たとえ……隣に、いなくても。
 
 心が、隣り合っている。
 
 
 
 だから。
 
 私は、強くならなければいけない。
 
 碇君が……いつ。
 
 どんなところにいても、私が、碇君を、信じられるように。
 
 碇君が私を見てくれるように、私も、碇君を、見つめたい。
 
 

 それは、愛情が薄くなることとは違う。
 
 それを、碇君は教えてくれた。
 
 使徒の中から戻ってきた、碇君。
 
 信じて……と、言って、消えてしまった碇君は……
 
 ……戻ってきてくれた。
 
 
 
 「信じてる」
 
 もう一度、声に出して、呟く。
 
 これは……儀式。
 
 私の想いを、私が、確かに自分の心に刻み込むために。
 
 「信じてる」
 
 そう。
 
 「信じてる」
 
 それは……よりかかるだけの、今までの愚かさとは、違う……。
 
 「信じてる」
 
 信じてる。
 
 「信じてる」
 
 信じてる……それは……確かな……
 
 「……信じてる」
 
 ……愛の……証。
 
 
 
 ……信じてる。
 
 碇君。
 
 それは、確かな絆。
 
 碇君。
 
 碇君。
 
 碇君のぬくもりを、心で感じる。
 
 
 
 ほら。

 今も。

 

 碇君は、ここにいない。
 
 でも、碇君を、確かに感じる……。
 
 それは……碇君を、信じているから。
 
 碇君を、信じてる。
 
 そして……
 
 私を確かに信じてくれる、そんな碇君を、信じている。
 
 
 
 レイは、顔を、上げる。
 
 

 暗闇の向こうに、目を向ける。
 
 

 視線を感じる。
 
 

 ……碇君?

 

 「誰?」
 
 

 ……碇君では、ない。
 
  
 
 レイは、じっと暗闇の向こうを凝視した。
 
 眉根を寄せ、目を細める。
 
 「誰?」
 
 誰か、いる。
 
 私の心の中に。
 
 私を、見てる。
 
 
 
 でも……決して、嫌な視線ではない。
 
 
 
 『そうよ』
 
 静かな口調で、その影は呟いた。
 
 私に、似ている。
 
 碇君に似ている気もする。
 
 でも……もちろん、私でも、碇君でもない。
 
 
 
 「あなたは誰?」
 
 私は、もう一度、問いかけた。
 
 そのひとは、私の目を見て、微笑む。
 
 
 
 『あなたは、彼の一部じゃない』
 
 「……あなた……だれ?」
 
 『あなたたちは、違う……別の、一人一人の人間なのよ』
 
 「碇君は、私とは違う。それは知ってるわ」
 
 『そう?』
 
 「碇君は、すごいもの」
 
 『そうかしら』
 
 「………」
 
 『………』
 
 「それに……私は、碇君と……違うし」
 
 人間じゃ……ないし……。
 
 『それは、あなたにとって、大事なことなの?』
 
 「……何が?」
 
 『彼と違うこと……それは、悲しいこと?』
 
 「………」
 
 『悲しいこと?』
 
 「……悲しい……ことよ……」
 
 『そうかしら』
 
 「………」
 
 『それは、そんなに、悲しいこと?』
 
 「………」
 
 『思い出して……あなたはさっき、言ったはずよ。彼と、あなたは、違うって……あなたは、わかっているんじゃないの?』
 
 「……それは……でも、違うわ」
 
 『何が違うの?』
 
 「………」
 
 『考えて……ひとは、みんな、違うのよ。彼と、アスカちゃんは、全然違うでしょう?』
 
 「……アスカ……? で……も」
 
 二人とも……人間だもの……。
 
 『そんなこと、関係ないのよ』
 
 「………」
 
 『彼が……それを……知ったら』
 
 「………」
 
 『あなたを……嫌いに、なると思う?』
 
 
 
 思わない。
 
 
 
 レイは、そう、心の中で呟いて……
 
 ……自分の言葉に、ゆっくりと、目を見開いた。
 
 考えるより、先に……
 
 ……心に浮かんだ、その、言葉。
 
 

 思わない。
 
 
 
 そうだ……
 
 
 
 レイは、顔を上げる。
 
 
 
 ……思わない。
 
 
 
 だって……
 
 
 
 碇君は、私を、信じてくれる。
 
 碇君は、私を、信じてくれる。
 
 碇君は、私を……信じて、くれる……。

 
 
 そうだ……。

 
 
 レイの目は、見開かれたまま……何も見ていなかった。
 
 レイは、自分の心の中を見ている。
 
 そこに座って、優しく微笑む、シンジの笑顔を。
 
 ……見る……。

 
 
 碇君は
 
 私を
 
 信じてくれる……
 
 
 
 私が……碇君を、信じているように……!
 
 
 
 碇君は、何か、重い秘密を背負ってる。

 それを、一人で抱えて、苦しんでる。
 
 
 
 でも。
 
 その秘密が何だったとしても。

 私は、碇君を信じられる。
 
 碇君は、何も変わらない。
 
 私が碇君の何を知っても、碇君が変わるわけじゃない。

 
 
 だから……
 
 
 
 私が、碇君を、信じることができるように……
 
 
 
 碇君も、私を、信じてくれる……!
 
 
 
 『そうよ』
 
 ゆっくり、その影は呟く。
 
 『それが分かっていれば、いいわ』
 
 ……そして、微笑む。

 

 レイは、世界が光に包まれていくのを感じる。
 
 目覚めの光芒。
 
 その、渦の向こうで……ぼんやりと、考えていた。

 
 
 なんだろう……
 
 

 わたしは……
 
 
 
 ……このひとを、しっている……。
 
 
 
 目覚めの光は、レイの体中を包み、満たしていく。
 
 それは、例えようもない……暖かな、ぬくもり。
 
 

 春の日差しに、たんぽぽの黄色い花びらが柔らかくそよぐように。
 
 夏の真っ青な空に、真っ白な入道雲が大きな姿を見せるように。
 
 秋の水辺にざわめくススキの間から、丸い月が顔を覗かせるように。

 冬の静寂に包まれた世界で、ただ綿菓子の降り積もるかすかな吐息が聞こえるように。
 
 
 
 世界は立ち止まることなく、
 
 いつでも、その姿を変えていく。
 
 
 
 重く、自分の両脚を締めつけていた、錆びた、金属の鎖。
 
 その鎖は、いまでも、変わらず足首にぶらさがっている。
 
 

 だが、その鎖に……いま、小さな羽が、ついている。
 
 

 その小さな羽は、とても、空を飛ぶことはかなわない。
 
 だが、この鈍重な鎖を、幾許かでも、軽くしてくれる。
 
 
 
 この羽は、小さな、一歩。
 
 だが……
 
 ……やがて、大きな羽に育つに違いない。
 
 鎖の重さを感じさせないばかりでなく。
 
 彼女自身を空高く舞い上げるほどの、大きな羽になる。
 
 
 
 そのとき、彼女は気付くだろう。
 
 その羽は……鎖に生えた羽などでは、なく……。
 
 
 
 彼女の背中に生えた……大きな、純白の翼であることに……。