第七十六話 「誕生会」
三百五十四



 商店街を出たシンジとレイは、バスに乗り、そのまま自宅に戻った。
 
 
 
 コンフォート17マンション。
 
 エレベーターを降りた二人は、三人の家の扉が並ぶ廊下に足を踏み入れる。
 
 すでに夕暮れも終わりに近付く、ほの赤い光の中で、コンクリートの上を歩く二人の足音だけが響いた。
 
 
 
 いつもの学校帰りだったら、玄関先で二人は別れ、レイは自宅に着替えに戻るところだが……今日のレイは初めから私服だ。
 
 二人は、そのまま葛城邸の扉を開けた。
 
 玄関先で靴を脱ぎ、並んで居間に向かう。
 
 
 
 「……あら、早かったわね」
 
 シンジが居間に入ると、アスカは菜箸を手に、台所から顔を出した。
 
 「こんばんは、碇君、レイさん」
 
 アスカの向こう側から、ヒカリが、ひょいと顔を出す。
 
 
 
 「こんばんは」
 
 シンジは、ヒカリにそう微笑むと、荷物を椅子の上に置く。
 
 「アスカ、料理、作ってるんだって?」
 
 「そ。悪い?」
 
 カチャカチャ、とボウルの中身を掻き回しながら、無愛想に応える。
 
 「いや、悪くないけど……」
 
 「アンタやレイほど、上手に作れないかも知んないけどね。ま、期待しないで待ってなさいよ」
 
 言いながら、アスカは台所の奥に引っ込んでしまった。
 
 
 
 シンジがヒカリを見ると、ヒカリは、軽くアスカの消えた方に視線を向けて、微笑んだ。
 
 シンジも肩を竦めて、それから、声を潜める。
 
 「アスカ、料理、どう?」
 
 「頑張ってるわよ」
 
 ヒカリが、微笑んで応える。
 
 「まぁ、もちろん……碇君とかと比べたら、やっぱり難しいところもあるけど……
 
 料理、今までしたことがないコトを思えば、上出来だと思うわ……上手よ。
 
 いろいろ不慣れなところもあるけど、そこは、私もいるから」
 
 「うん」
 
 「……料理、いつも碇君が作ってるんでしょう?
 
 お弁当は、レイさんが作ってるし。
 
 こういう機会を、待ってたんじゃないかしら……普段は、あまり食事関係で出る幕がなさそうだしね」
 
 
 
 アスカはあまり、そういう感情をシンジやレイに告げたことはないが……
 
 彼女が、日頃……配膳や片付けを率先してやっているあたりからも、食事の役割分担に多少の申し訳なさを感じていることは分かっている。
 
 アスカは、今夜の料理に……喜んで、腕を振るっていることだろう。
 
 
 
 シンジに邪魔する気はないし……今日に限っては、口出しもしてはいけない。
 
 味がまずいとかうまいとか、そういう問題ではない。
 
 シンジとレイの二人だけは、今日は、アスカの料理を手伝うことなく……ただ、彼女の料理ができ上がるのを、待っていることが大事なのだ。
 
 彼女に、任せておけばいい。
 
 
 
 まぁ……それに、アスカの横にはヒカリがついている。
 
 失敗することはあるまい。
 
 
 
 思い返してみれば……前回の人生では、結局……食事の多くをシンジが作っていたのにも関わらず、アスカに「申し訳なさ」とか、そういう感覚はなかったように思われる。
 
 アスカは、変わっているのだ。
 
 
 
 「……ヒカリ! 凧糸で縛るって、どうすりゃいいの?」
 
 「え、ああ……それはね……」
 
 台所の奥から聞こえてきたアスカの呼び声に、ヒカリは慌てて奥に入っていってしまった。
 
 
 
 「……じゃあ、着替えてくるから。待ってて」
 
 「うん」
 
 リビングの椅子に座ったレイに声を掛けると、シンジは、自分の部屋に入ってふすまを閉めた。
 
 
 
三百五十五



 ベッドの上に荷物を放り出して、シンジはシャツのボタンを外す。
 
 それから、ふと……気付いて、脱ぎかけたシャツを見回した。
 
 
 
 出撃から直行で禁固刑を喰らっていたシンジは、図らずも、ずっと……この学生服を着込んでいた。
 
 「う〜ん……くさいかな」
 
 袖を鼻に近づける。
 
 
 
 出撃中は当然プラグスーツだったから、この学生服を着ていたわけではないし……禁固刑が終わった後も、シャワーはちゃんと浴びた。
 
 だから体は比較的きれい……だとは思うが、この制服は違うだろう。
 
 なにより、禁固刑で束縛されていた3日間は、ずっとこの格好でいたのだし、もちろん、その間はシャワーだって浴びていない。
 
 
 
 NERVを出る前に体を洗った、と言っても……そのあと、またこの制服の袖に腕を通して、日中を過ごしていたのだ。
 
 汚れは服から再び体に移っているような気がしてしまう。
 
 
 
 「……先に、シャワーを浴びちゃおうかな」
 
 
 
 シンジは、脱ぎかけたシャツのボタンをもう一度止めると、替えの服を抱えて部屋を出た。
 
 
 
 フライパンを持ったアスカが、部屋から出てきたシンジを見て、眉を寄せる。
 
 「着替えに入ったんじゃないの?」
 
 「ああ……いや。そうだけど、ずっとこのカッコだったから、先にシャワーを浴びようかと思って」
 
 「ずっと?」
 
 
 
 ………
 
 
 
 暫くの沈黙を置いて、アスカは、ずざっと身を引いた。
 
 眉間にしわを寄せて、フライパンを竹刀のように両手で構える。
 
 「きっ……ったないなァ〜〜ッ! とっとと風呂入りなさいッ!」
 
 「いや……うん、まぁ……汚いけど……シャワーは浴びてるから、体は奇麗だよ」
 
 「その服、着直してるだけで汚いわよッ!」
 
 「うん、だから、シャワーを浴びて着替えるんだよ」
 
 「い・い・か・らッ! とっとと風呂場いけッ!」
 
 「ん? 僕、そんなに汚いかなぁ〜」
 
 「こっち来んなッ!」
 
 「ん? そう? おかしいなぁ」
 
 「来んなって言ってんでしょッ!」
 
 
 
 言い合いをしながらも、アスカは笑っていた。
 
 もちろん、シンジも楽しそうだ。
 
 じゃれあっているようだ、と、横で見ていたヒカリは、微笑んだ。
 
 
 
 ぎゅっ。
 
 
 
 急に、背中の方から、シンジの腰に細い腕が回された。
 
 「えっ?」
 
 シンジが首をねじって自分の背中を見る。
 
 
 
 ……シンジの背中から、抱き着いていたのは、レイだ。
 
 「あっ……綾波」
 
 赤い顔で、シンジはレイを見る(と言っても、背中から抱き着かれているのでよく見えないが)。
 
 レイは、シンジの背中から、覗き込むようにアスカを睨んだ。
 
 「……碇君は、汚く、ない」
 
 「ハイハイ」
 
 アスカは、やれやれ、という表情で、大袈裟に両手の平を空に仰いでみせた。
 
 「アンタにとっちゃ、シンジの匂いなんて素晴らしいものなのかもしれないけどね……世間一般的には、やっぱ、汚いの」
 
 「うん……まぁ、そう……だね」
 
 苦笑いをしてみせるシンジ。
 
 まぁ、アスカの言う通りだろう。
 
 
 
 レイは、アスカの言葉に首を傾げると……そのまま、シンジの背中に顔面を押し付けた。
 
 「綾波……」
 
 背中の方に首を回したシンジが、困ったように赤くなる。
 
 数秒の間をおいて、ぷはっと顔を離したレイが、再びアスカの顔を覗き見た。
 
 「くさくない」
 
 「だ〜か〜らぁ〜……そう思うのは、アンタだけなの! 普通は、くさいのよ、汗の匂いってのは!」
 
 「……そう?」
 
 首を傾げるレイ。
 
 
 
 赤い顔のまま、シンジは、自分の腰の前で組まれたレイの両手をそっと解いた。
 
 「と、とにかく、その……やっぱり、自分でも、ちょっと汗くさい気がするからね。シャワー、浴びてくるよ」
 
 レイにそう言うと、取り落としていた服を拾い上げて、再び風呂場に足を向ける。
 
 片手にフライパンを持ったまま腕組みをしていたアスカは、面白そうに鼻を鳴らした。
 
 「レイ」
 
 「……なに?」
 
 アスカに声を掛けられたレイは、アスカの方に視線を向けた。
 
 「アンタも、シンジに抱き着いて、くさくなったんじゃないの? 仲良く二人でシャワー浴びて来れば?」
 
 「碇君……いいの?」
 
 「ダ、ダ、ダメッ!!」



三百五十六



 それから30分ほどの間に、誕生会に参加する面々が、ぞろぞろと顔を出した。
 
 トウジ、ケンスケ、ミサト、加持。
 
 
 
 ミサトは、チルドレン三人の誕生会なのだから……と、リツコやオペレータたちも誘ったそうだが、他のメンバーと面識が無いから、と断られたそうだ。
 
 それはまぁ、自然な対応だろう。
 
 当然のごとくゲンドウもいないが、これに関しては、それで当たり前だ。
 
 この場にゲンドウが現れた日には、その方が遥かに驚愕する。
 
 
 
 「おおっ、これ、みんな惣流が作ったのか?」
 
 ケンスケが、驚きの声を上げてシャッターを切る。
 
 机の上には、たくさんの料理が、食欲をそそる色と香りを放って所狭しと並んでいた。
 
 「別に、大半はヒカリに手伝ってもらったけどね」
 
 アスカは、特に意に介した風もなく、そう応えるが……口許がにやけている。
 
 「いや、それでもすごいよ」
 
 「そう?」
 
 ケンスケの称賛の言葉に、思わず胸を反らせてしまう。
 
 
 
 日頃の、シンジやレイの料理を思えば、はっきり言って、ごく普通の料理に過ぎない……と、アスカは自分でも思っているが……そこは、それ。
 
 今まで一度もやったことの無い料理をここまで作れば、上出来だろう。
 
 少なくともまずくはないはずだし、見た目には美味しそうだ。
 
 自分の作品に、文句はなかった。
 
 
 
 「確かに……たいしたもんや。惣流も、料理が作れるんやなぁ」
 
 トウジも、素直に呟く。
 
 「シンジもそうやし、綾波も料理が出来るしな……これ、アレか? 料理が作れる、ちゅうのは、チルドレンの必須条件かなんかなんか?」
 
 「そんなコトないわよ」
 
 ミサトが、苦笑して応える。
 
 アスカは、赤い顔をして、トウジを睨む。
 
 「あいにくとね……アタシは、今日まで料理なんかしたこと無かったわよ」
 
 「あ……さよか」
 
 「レイだって、昔は料理なんかできゃしなかったって。……シンジは、特別」
 
 
 
 「……でも、すごいよ」
 
 シンジが、アスカの方を向いて、微笑んだ。
 
 「僕も、最初に料理したときに、こんなに作れなかったよ、とても」
 
 シンジの言葉に、アスカは赤くなってそっぽを向く。
 
 「……ま……そうかも知んないけど。料理は味だからね。まず、食べてから判断してよ」
 
 「……うん、そうだね」
 
 アスカの、照れが混じったつっけんどんな言葉に、シンジは、穏やかに応えて、再び料理に目を移した。
 
 
 
 どう……考えても。
 
 いきなり、これだけの料理を……まったくのぶっつけ本番で作れるわけが無いのだ。
 
 イキナリのぶっつけ本番では、結局ヒカリが大半を作るようなハメになるだろうし、それではアスカも納得できないだろう。
 
 
 
 間違いなく……
 
 練習を積んだ結果だ。
 
 今日のため……か、どうかは判らないが……とにかく、いつか披露するときのために、アスカは、ヒカリに習っていたのに違いない。
 
 
 
 それだけで、驚嘆に値する。
 
 前回のアスカでは、絶対に取らない行動だ。
 
 それだけ、アスカはもう、変わっている。
 
 
 
 「じゃ、ま……料理を食べる前に、乾杯と行こうか?」
 
 加持が、軽くグラスを掲げて笑った。
 
 「では、三人の保護者にして上司の、葛城ミサトさんに、乾杯の音頭をお願いいたしましょうか」
 
 「バカ」
 
 加持の、おどけたような言葉に、ミサトは肘で小突いてから、ビールの缶を掲げてみせた。
 
 「え〜と、では……」
 
 「なに、ミサト……またビール?」
 
 「ん? いいでしょ、別に。好きなんだから……」
 
 「アル中になって死ぬわよ」
 
 「葛城はもうアル中じゃないかな」
 
 「うっさいわね〜」
 
 「ミサトさん……ワシも、健康には注意したほうがええと思いますわ」
 
 「そ、そう? ありがと」
 
 「そうですよ、ミサトさん! せっかくの美貌は、健康によって保たれるんですから!」
 
 「そ、そ、そう? あ、ありがと。あの……その、いま撮ってるヤツは、どうするの?」
 
 「売ります」
 
 「没収」
 
 「ミサトさん……でも、本当に、飲み過ぎだと思いますよ」
 
 「そ、そうかなぁ……」
 
 「葛城さんってそんなに飲むんですか?」
 
 「いやぁ、これが、底なしなんだよ」
 
 「うっさいわね、加持!」
 
 「ミサトさん……アルコールを多量に摂取することにより、身体的・精神的に重大な障害を得る事が多く、飲酒量には注意が必要です。ビタミンB1の欠乏による、ウェルニッケ-コルサコフ脳症を初めとするアルコール性健忘症候群やアルコール性痴呆、肝性脳症、ペラグラ脳症、アルコール性小脳変性症などの中枢神経障害、アルコール性多発神経症やアルコール筋炎などの末梢神経障害、アルコール性脂肪肝、アルコール性肝線維症、アルコール性肝炎、アルコール性肝硬変症などの肝臓障害、アルコール性急性・慢性膵炎、アルコール性食道炎や胃炎、食道静脈瘤、マロリーワイス症候群などの消火器系障害、心不全などの心臓障害などの身体障害のほか、振戦、幻視、その他さまざまな精神障害が見られ……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……など、また、食思不振などから始まり、肝腫大、クモ状血管腫、手掌紅斑、女性化乳房、食道静脈瘤、また、非代謝的には黄疸、腹水、浮腫、食道静脈瘤の破裂などを伴い、その他、特発性大腿骨骨頭壊死症や血液障害、皮膚障害、高血圧、横紋筋融解、筋痛、筋脱力、歩行障害、四肢の麻痺症状、感覚鈍麻、疼痛、深部反射消失、構音障害、記憶力障害、失見当識、作話などの障害を発生し、また……」
 
 「わ……わ、わかった、わかったから、レイ……」
 
 「……そうですか?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……シンジ……なんでレイって、あ〜ゆ〜、ど〜でもいいコトに異常に詳しいのよ……」
 
 「……さ……さぁ……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……葛城……乾杯」
 
 「あ、ああ……え〜〜と……」
 
 「……ミサト……ジュースにしといたら?」
 
 「……そ……そ、そうね。シンちゃん、オレンジジュースとって……」
 
 「は、はい」
 
 「……え〜……では、ゴホン。ええと、綾波レイさん、惣流・アスカ・ラングレーさん、碇シンジくんの誕生日を祝って……乾杯!」
 
 
 
 乾杯!



三百五十七



 誕生会、と言っても、特に大きなイベントが用意されているわけではない。
 
 
 
 とにかく、みんなでお喋りをしながら、ワイワイ楽しくやる……という、趣旨。
 
 特にレイにとって、誕生会は初めての体験だったが、それは、それで十分すぎるほどに楽しい時間だった。
 
 
 
 アスカの用意した料理は、十分称賛に値する味だった。
 
 
 
 あとでヒカリに聞くと、実はアスカの味付けがおかしくてヒカリがいくらか調整したそうだが、そこはご愛嬌のようなもの。
 
 あくまで家庭料理だということと……経験を思えば、アスカには……充分、自慢してもよい出来栄えと言えたし、シンジもレイも、他の面々も惜しみない言葉を贈った。
 
 「と〜ぜんでしょ……アタシが作った料理なんだからさ」
 
 と、アスカは言う。
 
 だが、内心は皆の反応が不安だったに違いなく……そういう意味で、安堵したような、優しい微笑みを浮かべていた。
 
 
 
 暫くワイワイやったあと、アスカが、奥からケーキを取り出してきた。
 
 人数を考慮してのことか……普通のサイズより、二回りほど大きなケーキ。
 
 周り一面に生クリームがコーティングしてあり、上面にはチョコチップや苺がトッピングされ、クリームでデコレーションされている……ように見えるが、シンジには良く判らない。
 
 あまり変な技を凝らさない、オーソドックスなケーキである。
 
 
 
 「これも惣流が作ったんか?」
 
 トウジが、アスカに尋ねる。
 
 「違うわよ。これを作ったのは、レイ」
 
 アスカは、そう言ってレイを指さした。
 
 「そうなんか?」
 
 「うん……そう」
 
 トウジの問い掛けに、レイは、コクンと頷いてみせた。
 
 
 
 ミサトが、トウジケとンスケにロウソクを手渡す。
 
 「じゃ、これ、立てて貰える?」
 
 「あ、ハイハイ」
 
 「何本立てるんかな……シンジ、おまえ、何歳や?」
 
 「僕は……14になった……のかな」
 
 「アンタね……アタシら、アンタの同級生でしょうが」
 
 「あ……そりゃそやな……ほな、14か」
 
 実際には……シンジは時代を逆行している分、他の皆より一つ上だ。精神年齢的には、更に、もっと上だろう。
 
 ちょっと時間の感覚が希薄で、良く判らなくなる。
 
 「ちゅうと……綾波も、惣流も14やな?」
 
 「……そう」
 
 「……アタシは……まぁ、なんだ、まだ13だけど」
 
 「あン? 何でや? 誕生日と違うんか?」
 
 トウジが首を傾げる。
 
 ケンスケが、ファインダーから顔を外して、アスカを見た。
 
 「惣流、おまえ、誕生日いつだよ?」
 
 「……12月4日」
 
 「12月って……ずっと先じゃないか」
 
 ケンスケの言葉に、アスカは、ギッとケンスケの顔を睨みつけて口を開く。
 
 「……い〜〜のッ! 一年に二回も三回もやろうって言ってんじゃないんだからッ!!」
 
 「あ、ああ、まぁ……いいけど」
 
 思わず、タジタジとするケンスケ。
 
 トウジも、アハハ、と引きつった笑い。
 
 「そ、そうやな……そしたら、どないする? ロウソク。14本でええんか?」
 
 「うん、それでいいんじゃないかなぁ」
 
 シンジが応える。
 
 
 
 本数は、実際にはそんなに重要じゃない。
 
 大事なのは、僕ら三人が、一緒に誕生日を祝うこと……なんだ。
 
 
 
 ヒカリが、14本のロウソクに火を灯した。
 
 「じゃ、電気、消すわよ」
 
 ミサトが手許のリモコンを押すと、フゥッ……と、柔らかく電灯が消える。
 
 
 
 蒼い部屋の中央で、14の光が、緩やかに揺らめいていた。
 
 その、灯を受けて……集まった、皆の瞳に、14個の点が映っている。
 
 
 
 白いケーキの上に、オレンジ色の炎。
 
 その色は、空間の滑らかな碧と混ざりながら、それぞれの表情に煌めく。
 
 
 
 レイ。
 
 アスカ。
 
 ミサト。
 
 加持。
 
 トウジ。
 
 ケンスケ。
 
 ヒカリ。
 
 
 
 それぞれの表情を、シンジは見つめる。
 
 
 
 ここにいることが、幸せだった。
 
 前回とは、違う……ずっと、ずっと、穏やかな空気に包まれる。
 
 
 
 自分は、決して間違っているわけじゃない……そう……思うことが出来る。
 
 
 
 「……三人で、一緒に吹き消すといいわね」
 
 ミサトが、静かに呟いて、微笑んだ。
 
 皆も、頷く。
 
 
 
 シンジは、レイと、アスカと、目を見合わせ……
 
 
 
 ……そして、合図をするわけでもなく、一緒に、ふっ……と、息を吹いた。
 
 
 
 一度では、消えなかった。
 
 一瞬、消えかかって……そして、3本だけ、残った。
 
 シンジはもう一度二人と目を合わせると、頷いて……また、息を吹いた。
 
 今度は、ちゃんと、消えた。
 
 
 
 「おめでとう……三人とも」
 
 ミサトが、呟いた。
 
 「おめっとさん」
 
 トウジが、呟いた。
 
 「おめでとう、みんな」
 
 ヒカリが、微笑む。
 
 「おめでとう」
 
 ケンスケが、ファインダごしに笑う。
 
 「おめでとう」
 
 加持が、穏やかに、呟く。
 
 
 
 「……おめでとう、シンジ、レイ」
 
 アスカが、呟く。
 
 「……おめでとう……碇君……アスカ」
 
 レイが、呟く。
 
 
 
 「……おめでとう……
 
 ……綾波……
 
 ……アスカ……」
 
 シンジも、ゆっくりと……呟いた。



三百五十八



 レイのケーキも、大いに面々の好評を博した。
 
 当然のごとく、特にシンジは、称賛の言葉を惜しまなかった。
 
 
 
 「そうそう、これ……アタシから、三人にプレゼントよん」
 
 ミサトが(さっきレイにあれほど言われたにも関わらず)ビールをかっくらいながら、きれいにラッピングされた箱を、3つ取り出す。
 
 開けてみると、中から小さなジョッキが出てきた。
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「はやく、これでアタシと呑み交わせる歳になってねぇ〜」
 
 
 
 「ワシは、ナニ買ってええか、ようわからんかったから……いいんちょと共同や」
 
 「うん……これ、あたしと鈴原から、三人に」
 
 手渡されたのは、小さな紙袋が、3つ。
 
 開けてみると、アスカには、赤い石のイヤリング。レイには、蒼い石のイヤリング。
 
 「おそろいなの」
 
 ヒカリは、そう言って微笑む。
 
 
 
 「ありがと」
 
 アスカは、照れ臭そうに頬を掻く。
 
 「……ありがとう」
 
 レイも、嬉しそうに微笑んだ。
 
 
 
 「そうすると……シンジのも、イヤリングなワケ?」
 
 アスカが、早速そのイヤリングを耳に付けながら、シンジの方を向いてあっけらかんと尋ねる。
 
 「い、いや……イヤリングは、ちょっと……」
 
 アスカの言葉に苦笑しながら、シンジは紙袋を開ける。
 
 
 
 中から、紫の石がぶらさがったストラップが出てきた。
 
 シンジは、そのストラップをつまみ、顔の高さまで持ち上げてみる。
 
 「ストラップ?」
 
 「そう。だって、碇君にイヤリングってわけにもいかないでしょ」
 
 と、ヒカリは笑う。
 
 「アクセサリって感じでもないし……いつも身につけているものって、これかな、と思って」
 
 「そうか……なるほどね。ありがとう」
 
 シンジも、微笑んで応える。
 
 
 
 なるほど……ヒカリが、そう意図していたのかどうかは判らないが、確かに……チルドレンは携帯電話を手放すことが出来ない。
 
 シンジはあまりストラップの類いをぶら下げるタイプではないが……それを見越してか、偶然か……ほとんど自己主張しないデザインなので、このプレゼントは嬉しい。
 
 
 
 ふぅ、と溜め息をついて……それから、アスカはトウジを横目で見る。
 
 「……どうでもいいけど、アンタ、自分で選んでないでしょ」
 
 「あん?」
 
 トウジが、怪訝な表情でアスカを見る。
 
 「ヒカリが選んだプレゼントに、後から相乗りしただけでしょ、って言ってんのよ」
 
 「な、なにがや」
 
 アスカの言葉に、どもりながらトウジが応える。
 
 「鈴原の頭ンなかに、イヤリングなんて言葉があると思えないもの」
 
 「し、失敬やな! それぐらい、ちゃんと出てくるわい!
 
 ……まぁ……それは、いいんちょが選んだんやが」
 
 「ホラね」
 
 アスカは、そう言って、笑った。
 
 
 
 ケンスケは、大きな額を取り出した。
 
 「俺の作品の中でも、特にいい表情してるやつだよ」
 
 そう言うケンスケの両腕に抱えられた額の中には、一枚ずつ、それぞれの写真が収まっている。
 
 シンジにはシンジの写真、レイにはレイの写真、アスカにはアスカの写真。
 
 
 
 「嬉しいけど……これ……どうしようかな」
 
 シンジは、困ったように笑う。
 
 まさか、自分の部屋の壁に、自分の写真を飾っておくようなセンスは持ち合わせていない。
 
 シンジの言葉に、ケンスケは平然とした表情で応える。
 
 「別に俺は、飾っておいたっていいと思うがな。ま、恥ずかしいってんなら……綾波の部屋にでも飾っておいたらどうだ?」
 
 「碇君……いいの?」
 
 「そ……それは……」
 
 ……いくらなんでも、恥ずかしすぎると思うシンジである。
 
 
 
 「ま、アタシは、自分の部屋に飾らせてもらうわよ」
 
 アスカは、こともなげに言う。
 
 実際、アスカの写真はいい写真だ。素材がいいだけに、モデルのポスターとも見紛う。
 
 それを眺めるアスカも悪い気がしないのだろう。
 
 「アスカはいいだろうけどさ……美人だから……」
 
 「あら、わかってるじゃない」
 
 「そんなの、誰でも判ってるよ……でも、僕の写真なんか、毎日見えるところにあっても飽きるだけだよ」
 
 「じゃ、しまっとけば?」
 
 「……うん……そう、するかなぁ……」
 
 
 
 ……という会話を聞きながら、ケンスケは、心の中で溜め息をついてみせる。
 
 同じ写真(サービスサイズだが)を、すでに、いったい何人の女生徒が買い、何人の女生徒が自分の部屋に飾っていると思っているのか……
 
 ……もちろん、そんなことを言う気はないが。
 
 
 
 「俺は、これをあげよう」
 
 どん!
 
 「……スイカ? ……ですか?」
 
 「そうだ。うまいぞ」
 
 
 
 アスカが、後ろでボソッと呟く。
 
 「加持さんのセンスって……良く判らない……」
 
 
 
 「おまえらは、どうするんや?」
 
 トウジが、シンジ、レイ、アスカに尋ねる。
 
 「おまえらって?」
 
 「いや、だから……それぞれ、残りの二人に、プレゼントがあるんやろ。ないんか?」
 
 シンジの言葉に、トウジが応える。
 
 
 
 「……アタシは、さっきの料理が、それ」
 
 アスカが、ポテトチップスをポリポリと齧りながら、呟いた。
 
 「は? なんやて?」
 
 「さっきの料理よ」
 
 「は……あ、あぁ、あれがプレゼントちゅうことか?」
 
 「そ。あれでも、すっごい大変だったんだから……いいでしょ」
 
 「あ、ああ……構へんが……せやったら、綾波は?」
 
 トウジがレイに振ると、レイは、少しだけ困ったように眉根を寄せた。
 
 「私は……何も……」
 
 「あ、いいのいいの」
 
 アスカが、レイの言葉を千切るように口を挟んだ。
 
 「レイは、さっきのケーキがそうよ。それでいいでしょ? あれも、一日がかりだったんだからさ」
 
 
 
 「……ケーキ? ……あれ……あれが、私の、プレゼント?」
 
 レイは、ぽけっとした表情で、アスカを見た。
 
 アスカは、ポテトをポリポリ食べながら、あっけらかんと言う。
 
 「そ。いいでしょ?」
 
 レイは、小首を傾げる。
 
 いまいち、ピんときていないようだ……それは、まぁ、そうだろう。
 
 「プレゼント……?」
 
 「そ〜よ。レイ、何も考えてなかったでしょ?
 
 アタシも料理がプレゼントなんだから……レイも、ケーキでいいじゃない。どう?」
 
 
 
 「………」
 
 
 
 暫くの間を置いて……レイは、シンジの顔の方に振り返った。
 
 後ろに立っていたシンジは、気付いてレイを見る。
 
 「ん? なに? 綾波」
 
 「碇君……ケーキ……美味しかった?」
 
 
 
 シンジは、レイに、優しく微笑んだ。
 
 「美味しかったよ」
 
 
 
 「……わかった……」
 
 レイは、穏やかに、頷いた。
 
 「……あれが、プレゼントで、いい」
 
 
 
 ……プレゼント。
 
 ……誕生日の。
 
 
 
 人に、貰うのは、嬉しい。
 
 
 
 でも、あげることも……嬉しい。
 
 
 
 知らなかった……。
 
 
 
 ……レイは、ゆっくりと、微笑んだ。
 
 優しい……
 
 穏やかな、微笑みで。



三百五十九



 「そうすっと……シンジのプレゼントは、無しかいな?」
 
 トウジが、顎を撫でながら言う。
 
 「なんで、アンタは人のプレゼントを気にしてんのよ」
 
 「あ? い、いや、別にそういうつもりはないんやが……」
 
 どもるトウジに、アスカが溜め息を一つ。
 
 そして、肩を竦めてみせる。
 
 「……まぁ、シンジは、無しでいいと思うわよ。今朝まで独房にいたんだしね」
 
 「独房?」
 
 「あ、ううん、なんでもない」
 
 ケンスケの怪訝な表情に、アスカは慌ててかぶりを振る。
 
 
 
 「シンちゃんは、ちょっと事情でNERVに詰めっきりだったのよ」
 
 ミサトが、アスカの後を継ぐように説明する。
 
 まさか、「命令違反で禁固刑を受けていた」とは、トウジたちには説明できない。
 
 「ああ……さよか」
 
 「大体、アタシもレイも、食事はいっつもシンジに作ってもらってるからね……
 
 ……まぁ、アタシのプレゼントが料理だって言うんなら、シンジなんか毎日プレゼントしてるようなモンよ。なにも、わざわざ用意してもらうこともないわよね」
 
 
 
 ことさら平静に、ぶっきらぼうに告げるアスカの言葉には、優しさを垣間見ることが出来る。
 
 口調とは裏腹に……日々の、シンジの努力に対する礼を、その言葉は語っていた。
 
 
 
 シンジは、後ろ頭をポリポリと掻いた。
 
 「いや……まぁ……やっぱり、誕生日のプレゼントと、普段の夕食は違うよ」
 
 そう言うシンジの方を、頬杖を突いたまま、アスカは横目で見る。
 
 「ナニ、言ってんのよ」
 
 「え?」
 
 「……アタシの今日の料理よりも、よっぽど美味いの作るクセに」
 
 
 
 「いや……そんなことは……ないよ」
 
 歯切れ悪く、シンジは頭を掻く。
 
 それを見ながら、加持は……こう言うとき、俺なら平気で「キミの料理の方が美味しい」と言うだろうな……などと思う。
 
 全く、要領が悪く……だからこそ、信頼に足る。
 
 
 
 アスカは、溜め息をついて、頬杖の姿勢のまま、軽く肩を竦めて目を瞑った。
 
 「とにかく、アンタはプレゼント、気にする必要、なし」
 
 
 
 シンジの横に立っていたレイも、そっとシンジの袖を指先でつまみ、囁くように呟いた。
 
 「碇君は……側に、いてくれたら……それでいい」
 
 
 
 ……などと言われて、そうですか、と言える性格ではない。
 
 シンジは、周りの面々を見回して、口を開いた。
 
 
 
 「……と、言っても、ね……
 
 ……用意してあるんだ、実は」
 
 
 
 アスカが、ゆっくりと目を見開いた。
 
 レイも、きょとんとして、シンジを見ている。
 
 もちろん、他の面々も同様だ。
 
 
 
 「……え? そんなヒマ、あったの?」
 
 「うん、まぁ」
 
 アスカの言葉に、シンジは頷く。
 
 「あ……今日、レイと一緒に出掛けたときに買った?」
 
 「違うよ」
 
 「……じゃぁ……前から準備してたの? 誕生会やろうって言い出したときに、もう、買ってあったとか?」
 
 「違う」
 
 シンジは、軽く首を振る。
 
 
 
 「まぁ……さっき思い付いたってのが、ホントなんだ。
 
 でも、前から、準備してあったって言うのも、嘘じゃないよ」
 
 
 
 「……何だか、良く判らないけど……」
 
 アスカが、鼻の頭を掻きながら、シンジを見る。
 
 「……要するに、プレゼントってつもりじゃなくて、用意してあったものがあるわけね」
 
 
 
 「まぁ、ちょっと違うけど、似たようなものかな」
 
 シンジは微笑んだ。
 
 そして、自分の部屋のふすまを開ける。
 
 「ちょっと、待ってて。どこに仕舞ったのか……たぶん、押し入れの中かなんかだと思うから」
 
 
 
 レイは、シンジの方をじっと見ていた。
 
 突然の、シンジからのプレゼントという事態に、逆に頭に霞がかかっているようだ。
 
 「レイ」
 
 ミサトの声に、レイが振り向くと……ミサトは、ちょいちょい、と空いている椅子を指さす。
 
 「座ったら?」
 
 「………」
 
 ミサトの言葉に、レイは椅子とミサトの顔とを見比べた後……言われた通りに、示された椅子に腰を下ろした。
 
 
 
 「でも……」
 
 アスカの呟きに、シンジが振り返る。
 
 「アタシたちも、別に……きちんとしたものを用意してたのとは、違うからね。
 
 シンジからだけ、物を貰うのも、何だか気が引ける気も……するんだ」
 
 
 
 シンジは、アスカと、レイの顔を見た。
 
 アスカも、レイも、ただ……じっと、シンジの顔を見つめている。
 
 
 
 シンジは、微笑んだ。
 
 「僕も、物を用意しているわけじゃ、ないよ」
 
 
 
 「……え?」
 
 アスカの怪訝な表情に、シンジはもう一度微笑むと、ふすまの向こう側に消えた。



三百六十



 シンジが自分の部屋に消えて、15分が経過した。
 
 
 
 普段であれば、アスカあたりが「遅い」と文句を垂れるところだ。
 
 だが、今日に限っては、誰も待たされていることについての不満は漏らさなかった。
 
 
 
 そうして、お喋りをしたり、残り物をつまんだり、約一名に関してはビールを煽ったりしているところで、もう一度ふすまが開いた。
 
 
 
 「………」
 
 レイは、口を噤んだまま……目を見開いて、シンジをじっと見ていた。
 
 ビーフジャーキーを口にくわえたアスカ、ビール缶を口許に持っていったミサト、アスカにカメラを向けていたケンスケ、お喋りをしていたトウジとヒカリ、するめを齧っていた加持。
 
 全員の視線が、シンジに固定された。
 
 
 
 誰も、何も、言わない。
 
 
 
 ……シンジは、照れ臭そうに頭をポリポリと掻いた。
 
 「……な、なに?」
 
 
 
 「……なにって……アンタ、それ、ナニ?」
 
 アスカが、ぼーっとした表情でシンジを指さす。
 
 シンジは、軽く肩を竦めてみせた。
 
 「……チェロ、だよ」
 
 
 
 それ以上、誰も、何も言わなかった。
 
 
 
 シンジは、そっと、部屋の電気を消した。
 
 暗闇ではない。
 
 窓の向こうから、大きな月が、この部屋を照らしていた。
 
 
 
 シンジは、ひとつだけ空いていた椅子を引き寄せると、そこにゆっくりと腰掛ける。
 
 指板を肩に合わせる。
 
 弓を構えて、弦に揃える。
 
 
 
 長いこと、放置してあったチェロだが、それほどひどくは、音は狂っていない。
 
 それに……先程の、部屋に篭っていた15分の間に、簡単な調律を行っておいた。
 
 
 
 ゆっくりと、シンジは、息を吸った。
 
 
 
 ……弓が、ゆるやかに……動き始める。
 
 
 
 開いた窓から、優しい夜の風がカーテンを揺らして舞い込んだ。
 
 夏の、夜。
 
 
 
 みんな、じっと……その、風と、音の中に佇んでいた。
 
 
 
 ゆるやかに、そよぐ。
 
 湖面に柔らかく広がる波紋のように……
 
 ……お互いの間を、優しい音が、行き来する。
 
 
 
 蒼い、光の中で。
 
 アスカは、そっと目を閉じた。
 
 悪くない……
 
 ……そう
 
 ……静かに、思う。
 
 
 
 レイも、目を閉じていた。
 
 
 
 シンジの持つ弓からこぼれる囁きは……静かに、優しく、レイの体を包んでいた。
 
 
 
 椅子に座っている感覚が、消えていく。
 
 身体が、ゆっくりと……宙に浮かんでいくような。
 
 ゆりかごに包まれるような。
 
 そんな、気持ち……。
 
 
 
 ……シンジの、腕に、包まれているように。
 
 耳許で……
 
 ……優しい言葉をかけられている、ように。
 
 
 
 この、温もりは……
 
 
 
 ……シンジの、心だ。
 
 
 
 暖かく
 
 涼やかで。
 
 優しく
 
 伸びやかで。
 
 
 
 レイの、閉じた瞼から、光の滴がこぼれ落ちる。
 
 一粒……
 
 ……それは、頬を伝って
 
 ……手の甲に落ちた。
 
 
 
 その、滴も、暖かかった。
 
 それは、微かな驚きだった。
 
 暖かいのは……シンジばかりではなく。
 
 自分も……
 
 
 
 ……そう
 
 
 
 ……そう、すべてが
 
 
 
 ……自分を取り巻く、その全てが、優しい……。
 
 
 
 シンジの弓は、軽やかに舞う。
 
 それは……もちろん、プロの演者に比べれば、遥かに及ばないかも知れない。
 
 だが、それは、どうでもいいことだ。
 
 
 
 これは、レイに、アスカに……そして、皆に贈る、プレゼントだ。
 
 自分の……心を、音に包んで。
 
 
 
 通じれば、
 
 それで、いい……。
 
 
 
 演奏は30分近くに及んだ。
 
 誰も、その場を離れようとはしなかった。
 
 シンジの想い。
 
 それだけで、充分だった。
 
 
 
 月が、この場の8人を、静かに見守っていた。