第七十五話 「写真」
三百五十



 シンジとレイは、並んで商店街の中を歩いていた。
 
 
 
 レイはもともと、ウィンドウショッピングなどを楽しむタイプでは、無い。
 
 商店街を歩いていて、彼女が足を止めるのは、日用品の類い……「あれがあると便利だろう」と思えたものや、「丁度、あれを使い切ったところ」というものがあったときくらいだ。
 
 普通の、中学生の少女が興味をそそられるような、洋服やアクセサリの類いには、あまり目をくれない。
 
 
 
 それは、シンジも了解していた。
 
 だが、シンジには、あまり力になってやることができない。女の子の洋服も、身につけるアクセサリも……もともと、シンジには良く分からない世界なのだから、仕方がない。
 
 レイが、ヒカリやアスカと一緒に買い物に出掛けることも珍しくはないだろうから……その時に、一緒に見て回って楽しく思えるようになるのを待つしかないな、と、思う。
 
 
 
 シンジ自身も、もともとあまり、買い物を楽しむタイプではない。
 
 デパートなどに来る場合は、大抵、最初から買いたいものが決まっている。
 
 多くは本の類いだ(前回の人生ではゲームを買いに来ることも多かったが、最近はゲームセンターには来ることがあっても家庭用のゲームは買いに来ない)。
 
 
 
 そんな二人だから、特にどこの店に入るわけでもなく、ただお喋りをしながら商店街の中を歩き回っていた。
 
 
 
 レイが足を止めたのは、30分ほど歩き回った頃だった。
 
 
 
 最初、横を歩いていたシンジは、レイが立ち止まったことに気付かなかった。
 
 数歩、てくてくと前に行ってしまってから、初めて気付いた。
 
 
 
 横にレイの姿がないことに気付いたシンジは、慌てて振り返る。
 
 見ると、レイは、数メートル後ろで、ショーウィンドウの中をじっと見つめている。
 
 (なんだろう?)
 
 レイが何を見ているのか……それに興味を惹かれながら、シンジはレイのところまで駆け戻った。
 
 
 
 「何見てるの? 綾波」
 
 シンジはレイの横まで来ると、そう声を掛けて、同時にレイの視線を追った。
 
 レイも、返事の代わりに、腕を上げて指さす。
 
 ……そこにあったのは、額縁に入った、小さな写真。
 
 
 
 「……写真屋?」
 
 シンジは、顔を上げて、店の全景を眺めた。
 
 店構えは小さめで、幅4メートルほど。
 
 その右半分に曇りガラスのドアがしつらえてあり、中央に「辻写真館」と印刷されている。
 
 左半分は全面ガラス張りのショーウィンドウで、中にはお決まりのように、夫婦の写真や子供の七五三の写真、家族の写真や見合い写真などが額に収めて飾られていた。
 
 
 
 レイが見ていたのは、小さな、新婚夫婦と思われるカップルの写真だった。
 
 どうということもない写真だが……目を引くのは、他の写真が色鮮やかなのに対して、くすんだセピア色であることだ。
 
 ショーウィンドウの端の方に飾られているため、ともすれば気付かずに通り過ぎてしまいそうになるが……一度、見てみれば、一見して時代がかかったものであることが分かる。
 
 効果としてセピア調にしてあるわけではない。
 
 きっと、もともとはカラー写真だったのだ。
 
 それが、こうなってしまったのは……きっと、セカンドインパクトをくぐり抜けたからだろう、と、シンジは思った。
 
 
 
 シンジは、レイの顔を見る。
 
 レイは、じっと、その写真を見つめていた。
 
 「……綾波? どうしたの?」
 
 シンジの言葉に、レイは、視線をシンジの方に向けた。
 
 
 
 「……何の、写真なの?」
 
 レイが、小首を傾げて、シンジに尋ねた。
 
 
 
 「……えぇと……」
 
 シンジは、頭を掻きながら、そこにかかっているセピア色の写真を、もう一度、眺めた。
 
 少しだけ、微笑んだような、二十歳くらいの女性。
 
 バストアップなので良く分からないが、おそらく、その女性は椅子に腰掛けているのだろう。
 
 その女性の後ろに、こちらは立っていると思われる男性が、口をへの字に結んで、やや緊張した面持ちでカメラを睨んでいた。
 
 洋服の様子など、今と全く変わらない。色合いの印象から受けるほど、そんなに、何十年も古い写真ではないのだろう。
 
 セカンドインパクトの直前、といった感じかも知れない。
 
 
 
 ……だが、まぁ……レイが尋ねたのは、そういう意味ではないだろう。
 
 この二人は、なぜ、正装でこんなカメラに収まっているのか?
 
 
 
 「……きっと、結婚の記念写真だよ」
 
 シンジは、写真を見つめながら、言った。
 
 レイは、シンジの顔を見る。
 
 「結婚の……記念写真?」
 
 「うん、たぶん。……結婚するとさ、まぁ、その記念に……こういうプロの写真屋さんに頼んで、正装で写真を撮ってもらうわけ。
 
 結婚式場とかで撮ってくれることが多いけど、こんな街の写真館に撮りに行くのも珍しくないよ」
 
 「………」
 
 レイは、シンジの説明を聞いた後、黙って視線を写真に戻した。
 
 
 
 シンジは、レイの横顔を見る。
 
 「どうしたの? 気になる?」
 
 
 
 レイは、じっと写真を見つめたまま、静かに口を開いた。
 
 「……写真……撮ったこと、ない」
 
 
 
 「……えっ?」
 
 シンジは、意図を呑み込みかねて、思わずよくわからない返事を返す。
 
 レイは、視線を、すっとシンジのほうに向けて、再び口を開く。
 
 「……私たちの」
 
 
 
 「えっ……あ……あ、ああ」
 
 一拍の間を置いて、シンジは、ようやく了解したように肯いた。
 
 そして、少し慌てたように、言葉を繋ぐ。
 
 「……でも……写真なら、ほら……ケンスケが撮ったやつがあるよ」
 
 
 
 ……もちろん、シンジが言うのは、ケンスケの懐を潤す類いの写真とは違う。
 
 以前も触れたことがあったが、ケンスケは、いつもいつも売り物の写真や、コレクション目的の写真だけを撮影しているわけではない。
 
 日常のひとこま、ポートレイトのような写真、皆で集まったイベントの記録などを几帳面に撮影し、それらは必ずコピーを被写体となった友人たちに配っていた。
 
 カメラマンを自負する彼にとって、それは、彼自身の大事な役割だった。
 
 
 
 当然、二人で一緒に居ることの多いシンジとレイは、ツーショットの写真も数多く受け取っていた。
 
 シンジは恥ずかしがってパソコンのハードディスクの奥深くに仕舞い込んでいたが、レイは、時折画像データを開いては、それを眺めたりしている。
 
 
 
 だが、レイは、じっとシンジの顔を見つめて、言葉を続けた。
 
 セピア調の写真を指差す。
 
 「……ああいう写真を、撮っていないわ」
 
 
 
 「……え」
 
 思わず、シンジは言葉を接ぐことができなかった。
 
 なるほど……確かに、ああいうきちんとした写真は、撮ったことがない。
 
 
 
 しかし……中学生の身で、こんな、新婚写真のようなものを撮影しているカップルが、いったいどこの世界にいるというのか。
 
 そんな写真を目にした日には、まず間違いなく、「財閥の御子息と令嬢の婚約写真」などという、幾分、現実離れしたシチュエイションを想像することだろう。
 
 
 
 「い……いや、その……僕らくらいの年で、こんな写真、撮らないのが普通だよ」
 
 シンジは、思わず頬を染めながら、慌てたようにレイに言う。
 
 レイは、小首を傾げた。シンジが慌てる理由を、よく理解していないのだろう。
 
 「なぜ?」
 
 「なぜって……」
 
 「二人で……写真を、撮りたい」
 
 「二人で写ってる写真なら、何枚もあるよ」
 
 「相田君に、撮ってもらったような……ああいう、いつもの写真じゃなくて。
 
 ああいうのも、もっと……たくさん……欲しいけど……
 
 きちんと、二人で、撮った写真がないわ」
 
 
 
 言葉が足りないが、レイの言わんとしていることは、シンジにも理解できた。
 
 ポートレイトのような写真ではなく、きちっと、「写真を撮影すること」を目的とした写真がない、ということだろう。
 
 
 
 「う……うん、でも……」
 
 シンジは、赤くなって後頭部を掻いた。
 
 そう言われても、やはり、二人でこういう写真を撮るのは気恥ずかしい。
 
 撮影した写真を見れば、それは、どこをどう見たって「婚約写真」であろう。
 
 あとでアスカやミサトに見つかった時のことを思うと、冷や汗が出る。
 
 
 
 ……ところが、レイは、ついっ……とつまさきを扉の方に向けると、いきなり腕を伸ばしてその扉を押し開けた。
 
 カララン、と、カウベルの乾いた音が響く。
 
 「……えっ……あ、綾波!?」
 
 ……と、シンジが声を掛けるよりも早く、レイは店の中に足を踏みいれてしまった。
 
 
 
 こういうときの、レイの予測のつかない行動力には、いつまでたってもかなわない。
 
 シンジは、諦めたように溜め息をつくと、レイを追って扉をくぐった。
 
 

三百五十一



 扉をくぐると、そこはカウンターをしつらえた小さな待ち合い室だった。
 
 四方の壁には、営業を兼ねているのだろう、数多くの写真が様々なサイズで並び、間を縫うように料金表や売り物のフィルムなどを並べてある。
 
 カウンターの奥はアコーディオンカーテンになっており、レジスターの前に人影はなかった。
 
 部屋の天井は吹き抜けのように高く、必然的に、部屋自体が縦に細長い印象を受ける。
 
 壁の一番上に小さなステンドグラスがはめ込まれており、そこから差し込まれた欧州風の光のシルエットが、レトロな写真を着飾ったしっくいの白い壁に映え、不思議な空気を醸し出していた。
 
 
 
 有り体に言ってしまえば、非常にアンバランスな空間だ。
 
 主人を何代も重ねた古い民家のような、雑然とした調度。
 
 だが、不思議なことに……それは、妙な居心地のよさを感じさせていた。
 
 田舎に帰ったときの、四肢の先から緊張が溶け出していくような、あの、空気だ。
 
 
 
 シンジは、一瞬……我を忘れていた。
 
 外観の、こじんまりとした……悪く言えば印象の薄い様子からは想像できなかった空気に驚く。
 
 ……決して、嫌いな風景では、なかった。
 
 
 
 チン!
 
 
 
 ……急に、乾いた金属の音がして、シンジは思わずびくりとした。
 
 見ると、レイが、カウンターに置かれたベルに手を添えている。
 
 ベルの前のプレートには、「御用の方はお気軽にお呼び下さい」と、几帳面な書体で書かれていた。
 
 ……無造作にそのベルを鳴らしたレイは、おそらく、この部屋の空気に、特別の感慨を抱かなかったのに違いない。
 
 それは、仕方のないことだ、と、シンジは思う。
 
 
 
 数拍の間を置いて、カーテンの向こうから、がさがさと物音が聞こえてくる。
 
 再び、一瞬、沈黙して……やがて、カーテンが、ジャッと音を立てて横に引かれた。
 
 
 
 カーテンの向こう側から現れたのは、人の良さそうな、50歳くらいの男性だった。
 
 おそらく、この写真館の主人なのだろう。
 
 
 
 口の上に少々のひげを生やし、細い目の端には幾本かの浅いしわが見える。
 
 頭にすっぽりとしたネット状の丸い帽子をかぶり、襟のないシャツを一番上まで止めている。
 
 小柄で細い印象を受けるが、まくった腕からは思ったよりも引き締まった腕が見えていた。
 
 髪の毛が、見た目の印象には不釣り合いなほどに、白い。
 
 
 
 主人は、シンジとレイを見て、細い目をさらに細めた。
 
 「いらっしゃい」
 
 落ち着いた声音で言う。
 
 「どうしましたか? 写真の現像ですか?」
 
 
 
 「……ええと」
 
 「……私たちの写真を、撮って下さい」
 
 シンジが応えるよりも早く、レイが、すぱっと用件を口にしていた。
 
 
 
 開きかけた口をぱくぱくさせて、シンジはレイを見た。
 
 主人は、レイの言葉に……少しだけ、眉を上げる。
 
 そして、二人の顔を見比べた後……楽しそうに微笑んだ。
 
 「お嬢さん……彼のことが、好きですか?」
 
 
 
 レイは、目を見開き……そして、一瞬にして、耳まで赤くなってしまった。
 
 主人は、それを見て、微笑みながら肯くと、くるりと振り返ってカーテンに手を掛ける。
 
 「お二人とも……準備をするので、少し、そこの椅子に座って待っていて下さい」
 
 そう言い残すと、主人は、カーテンの向こう側に消えて行った。
 
 
 
 ……待合室には、二人だけが、残された。
 
 
 
 シンジは、不思議な感覚に身を包まれたまま、言われるままに壁際の椅子に腰を降ろす。
 
 「綾波……ほら……座りなよ」
 
 シンジが声を掛けると、赤くなったまま固まっていたレイは、我に返ったように振り返ってシンジの顔を見て、たっと駆け寄って隣の椅子に腰を降ろした。
 
 きゅっ、とシンジの手を握る。
 
 シンジがレイの横顔を見ると、レイは、真面目な表情で前を見つめたまま、しかし……顔は、真っ赤だ。
 
 (照れてる)
 
 シンジは心の中で苦笑して、黙ってレイの手を握り返した。
 
 
 
 不思議な男性だ、と、シンジは思う。
 
 ほんの……二言、三言……言葉を交わしただけだが、到底、かなわないという気がした。
 
 加持やリツコとはまったく違う種類の、大きさを感じさせる。
 
 
 
 ……しばしの時間を置いて、再び主人が、カーテンの奥から姿を見せた。
 
 あの、人懐こそうな、笑顔を見せる。
 
 「お待たせしました、どうぞこちらへ……そちらの、通路からお入り下さい」
 
 カウンターの横を指差して、シンジたちを促した。
 

 
三百五十二


 
 言われるままにカーテンの奥に入ると、そこは六畳ほどの四角い部屋だった。
 
 先程の待ち合い室とは一転して、真っ白な壁と、並んだ器材以外には何もない。
 
 
 
 部屋の一番奥の、傘を広げたようなもの(光を反射するためのものだろうか)の下に、クラシックな木の椅子が置いてある。
 
 部屋に入ったところで、その後どうしていいか分からずに立ち尽くす二人に、カメラの前に立った主人が手を差し延べた。
 
 「お嬢さんは、その椅子に座って下さい……お兄さんは、その後ろに立つ感じで」
 
 シンジとレイは、言われた通りの配置につく。
 
 
 
 部屋の電気が暗くなり、シンジとレイの居る場所だけが、柔らかく照らし出された。
 
 主人は、中腰の姿勢でカメラのファインダを覗き込む。
 
 「お兄さん、もう少し右に……そう……あごを引いて……お嬢さん、彼ではなくこちらを見て下さい」
 
 主人が、片腕を上げて二人に指示を出す。
 
 
 
 考えてみれば、こんな写真を撮ることが、さっきまではとても恥ずかしかったはずだ、と、シンジは思う。
 
 今、これほど穏やかな気持ちなのは、なぜだろう……と思うと、不思議だった。
 
 
 
 「お嬢さん……もう少し、表情を柔らかく……」
 
 主人の言葉に、シンジは、レイの顔を見下ろした。
 
 ……レイは、じっと……睨みつけるように、カメラのレンズを凝視している。
 
 
 
 「綾波……笑って」
 
 シンジが、小声で話しかけた。
 
 レイは、目だけでシンジを見上げると、再び前に視線を向けて……それから、困ったように、もう一度シンジを見上げた。
 
 
 
 「……うまく、いかないわ」
 
 
 
 ……緊張、しているのだ。
 
 
 
 「……ごめんなさい」
 
 小さな声で呟くと、レイは、俯いてしまった。
 
 シンジは、慌ててレイに声を掛ける。
 
 「あ……いや、誰だって、うまく笑えないときってあるんだよ……気にしないで」
 
 しかし、レイは、俯いたままだ。
 
 
 
 うまい言葉が、思い付かない。
 
 どう言って元気づけようか……と、シンジが困っているところに、落ち着いた声が掛けられた。
 
 
 
 「お嬢さん」

 主人が、優しい瞳でレイを見ている。
 
 呼ばれて、レイも顔を上げた。
 
 
 
 主人は、静かに、口を開いた。
 
 「お嬢さん……あなたの、お名前は?」
 
 「……綾波……レイです」
 
 レイが応える。
 
 主人は、今度は後ろに立つシンジに視線を移した。
 
 「お兄さん……あなたの、お名前は?」
 
 「……碇、シンジです」
 
 シンジも、応える。
 
 
 
 「綾波さん……目を、閉じて……」
 
 
 
 「………」
 
 
 
 「思い浮かべて下さい……碇さんのことを。
 
 碇さんと、いままで、どこへ出掛けましたか?
 
 碇さんに、いままで、どんな言葉を掛けてもらいましたか?
 
 碇さんは、いままで、どんな笑顔をあなたに向けてくれましたか?
 
 
 
 思い出して下さい……
 
 碇さんが、あなたを見る……優しい微笑みを。
 
 あなたの心が、暖かくなる、微笑みを……
 
 ……あなたも、返してあげて下さい。
 
 碇さんに、今の、気持ちを……
 
 碇さんの、心が……暖かくなるように……
 
 
 
 碇さんに、
 
 ……微笑んで下さい」
 
 
 
 ……レイの、閉じたまぶたに、浮かぶ、情景……
 
 
 
 ……それは、どこまでも続く、柔らかな緑の絨毯と。
 
 ……陽の光を照り返して煌めく、川の漣と。
 
 ……箱庭のように切り出された、抜けるような青空と。
 
 
 
 ……その青空を背負った、シンジの優しい微笑み……
 
 
 
 ……心の、一番大事なところに、そっとしまったポートレイト。
 
 
 
 「さぁ……目を開けて……」
 
 主人の、穏やかな声に……レイは、静かに目を開いた。
 
 主人は、にっこりと微笑んだ。
 
 「そう……その、表情ですよ」
 
 
 
 ぼしゅっ……と、丸い音を立てて、ストロボが二人を照らしていた。



三百五十三



 数枚の写真を撮影して、シンジとレイは、主人に促されるまま、入り口の待合室に戻った。
 
 機材を片付けた主人が、数分して、カウンターに姿を現す。
 
 
 
 「もう、1時間ほど待って貰えれば、現像まで済ませて写真をお渡しいたします。どうされますか?」
 
 引き換えシートにメモなどを書き込みながら、主人が尋ねる。
 
 
 
 「待ちます」
 
 
 
 どうしようか? と、シンジがレイに聞こうとするよりも早く、レイは即答していた。
 
 一瞬、あっけにとられる。
 
 よほど、写真が楽しみなのだろう……と思うと、微笑ましくも、苦笑が漏れる。
 
 主人も、目を細めて頷いた。
 
 
 
 一時間ほど時間を潰すことにして、二人は店を出た。
 
 
 
 街中を歩きながら、シンジは、初めて誕生会のことを知った。
 
 「えっ……誕生会? 今日? これから?」
 
 驚いたように、レイに聞き返す。
 
 レイは、シンジの顔を見ながら、こく、と頷いた。
 
 
 
 誕生会……。
 
 ……そ……そう、かぁ……。
 
 
 
 シンジは、困ったように空を見上げた。
 
 「そうか……そう言えば、そんな話もあったなぁ……すっかり忘れてた」
 
 大体にして、ここ数日はいろいろと忙しかった。
 
 傍目にはさほど忙しそうに見えなくても、頭の中は非常に忙しかったのだ。
 
 そんな突然のイベントに、思いを馳せている余裕はなかった。
 
 
 
 「みんな来るの?」
 
 シンジの言葉に、レイは頷く。
 
 「アスカが、連絡したみたい……ミサトさんは、もちろんだし……ヒカリさんと、鈴原君と、相田君と、あと……加持さんが来るわ」
 
 「ふぅん、そうか……」
 
 シンジは、頷きながら、皆の表情を思い浮かべる。
 
 学校に行けば会えるのだが、何だか、妙に久しぶりな気がしてしまうから不思議だ。
 
 
 
 それから、シンジは、今の……レイの言葉の変化に気付いて、微笑んだ。
 
 「綾波……」
 
 前を見たまま、呟く。
 
 レイは、シンジの横顔を見る。
 
 シンジは、優しい視線で、前を見ている……。
 
 
 
 ……嬉しかった。
 
 そっと……呟く。
 
 「……『アスカ』……って、呼ぶようになったんだね」
 
 
 
 レイは、シンジの横顔を見ていた。
 
 
 
 「……綾波?」
 
 ぼーっとシンジの顔を見ているレイの方を、シンジは振り返った。
 
 レイは、ただ、じっと……シンジの顔を見ている。
 
 シンジは、小首を傾げた。
 
 なんだ?
 
 何か、変なことでも言っただろうか?
 
 
 
 レイは、目を逸らすことなく……瞬きもせず……ただ、シンジの顔を見つめる。
 
 ……そして……数秒の後、口を開く。
 
 
 
 「……気が付かなかった……」
 
 
 
 シンジは、あっけにとられて、レイの顔を見ていた。
 
 レイは、まじまじ、と、シンジの顔を見続ける。
 
 「……気付かなかった……」
 
 もう一度、自分に語っているかのように……繰り返した。
 
 
 
 そう……
 
 
 
 シンジは、思う。
 
 
 
 ……綾波に、とって。
 
 アスカのことを、「アスカ」と呼ぶこと。
 
 
 
 ……それが、真に、自然になったのだ。
 
 
 
 大体にして、「弐号機パイロット」と呼ぶことの方が、「アスカ」と呼ぶよりもずっと不自然で、言いにくい。
 
 意識して、そう呼ばなければ、呼べない呼び方だ。
 
 ……そう。そう、考えれば、しっくりくる。
 
 ……今まで
 
 ……レイは、アスカのことを、むしろ意識して、名前で呼ぶのを避けてきたのだ。
 
 それは、どういう意図があったのか、わからない。
 
 名前で呼ばないことで、彼女との溝を自分に確認し続けてきたのだろうか?
 
 
 
 そして……レイは、アスカを「名前以外で呼ぶ」ことに……いつのまにか、意識がいかなくなったのだ。
 
 必要が、なくなったのか……。
 
 
 
 「アスカ」は、レイにとって、「アスカ」でしか、在りえなくなったのだ……。
 
 
 
 「……ヘン?」
 
 レイは、シンジの顔を見たまま、言う。
 
 表情に、若干の不安がある。
 
 シンジは、思わず笑みが零れた。
 
 そんなことで、不安になる必要なんて、ない……
 
 ……それは、自分にとっても、歓迎する以外の何物でもない、ことなのだ。
 
 
 
 シンジは、優しく……レイの手を握った。
 
 「変じゃない……そのほうが、ずっと……いいと思うよ」
 
 
 
 微笑みながらシンジが掛けた言葉に、レイの顔は、ぱっ……と広がるように微笑みが浮かんだ。
 
 シンジの手を、握り返す。
 
 「……うん」
 
 ……嬉しそうに、そう応えた。
 
 
 
 「しかし……まぁ、それはいいとして……」
 
 シンジは、首の後ろを掻きながら、苦笑した。
 
 「まいったな……今日かぁ……プレゼントとか、何も考えてないよ」
 
 「プレゼント?」
 
 「うん……誕生日プレゼント」
 
 「誕生日……」
 
 「ん?」
 
 「……プレゼント」
 
 「え……なに?」
 
 
 
 「……プレゼント……あげる、ものなの?」
 
 
 
 シンジは、固まった。
 
 
 
 ……アスカと、二人で準備を進めてきたのだろうに……その話題は、一度も出なかったのか!
 
 しかし……もしかしたら、アスカは、プレゼントを隠しておくつもりで、話題に出さなかったのかもしれない。
 
 それなら、ありうる。
 
 誕生日と言えば、あげるかどうかはともかく「プレゼント」は定番だし……まさかレイが知らないとは、アスカも思い至らなかったのだろう。
 
 
 
 レイは、急に不安げな表情で、俯いた。
 
 「プレゼント……何も、考えてない」
 
 それは、そうだろう。
 
 知らなかったのに用意していたら、超能力者だ。
 
 「い、いや……それは、ホラ……今、言ったけど、僕も何も考えてないよ」
 
 「別に、いい」
 
 ふるふる、と、レイは首を横に振る。
 
 「碇君は……側にいてくれれば……他には何もいらない」
 
 「い……やぁ、そ、それは……」
 
 赤くなりながら、シンジはどもる。
 
 第一……それでレイが納得しても、アスカがいいと言うわけがないだろう。
 
 何も用意しない、と、言うわけにはいかない。
 
 
 
 「あ……あのさ、アスカは……何か、用意したとか言ってた?」
 
 「……何も」
 
 レイは、首を振る。
 
 「……プレゼントの、話もしなかった」
 
 「あ……そうだっけ」
 
 では、事前に、一人で準備していたのだろうか?
 
 それとも……今、僕らがいない、この隙に買物にでも……。
 
 ……そこで、ふと、気付く。
 
 今?
 
 あれ?
 
 
 
 「……綾波……誕生会って、今晩だよね?」
 
 「そう」
 
 「みんな、来るんでしょ?」
 
 「そう」
 
 「……準備って、誰か、してるの?」
 
 
 
 ……暫しの、沈黙。
 
 
 
 「……準備?」
 
 ……かなりの間を置いて、レイが尋ね返した。
 
 「いや……料理とか……した?」
 
 「……してない」
 
 
 
 シンジは、思わず、その場にへたり込みそうになってしまった。
 
 
 
 そんな人数の料理、昼くらいからは準備して……いや、まず、買い出しに行って……いや、その前に……
 
 ぐるぐると、取り留めのない事柄が頭の中を飛来する。
 
 なんてこった、と、頭を抱えそうになった。
 
 いや……知らなかったんだから、しょうがないけど……でも……
 
 ……すぐ、戻って準備しなければ!
 
 
 
 「……ケーキは、作ったわ」
 
 頭の中で叫んだまま、茫然としているシンジに……レイが、呟くように付け足した。
 
 「……え? ……ケーキ?」
 
 パニクった思考を必死に纏めると、慌てたように問い返す。
 
 レイは、こくんと頷いた。
 
 「うん……昨日。私が作ったの」
 
 
 
 「え? 一人で?」
 
 「そう」
 
 もう一度、頷く。
 
 「準備は、アスカも一緒にしてたんだけど……作るときになって、アスカはやらないって言って……私が作った」
 
 
 
 え?
 
 
 
 「え……アスカ……やらないって? 準備、手伝ったのに?」
 
 「そう」
 
 「……その……ケンカか何か、した?」
 
 「わからない……そんなこと、ないと思うけど……普通に、でも……急に、やらないって」
 
 「………」
 
 「……怒ったの? アスカ……」
 
 「え? ……あ、いや、普通だったんでしょ? じゃあ、そんなことはないと思うよ」
 
 「そう……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……そう……そう言えば……あと、準備のことは、気が付いていたみたい」
 
 「え? 何が?」
 
 「アスカ」
 
 「え……え? 何が? アスカが、なに?」
 
 「思い出したわ……アスカ……今日、私が出掛けるときに……準備は、心配するなって言ってた」
 
 「え……」
 
 「何のことか良く分からなくて、忘れてたけど……誕生会の、準備?」
 
 
 
 目を見開いて……
 
 シンジは……
 
 レイを、みる。
 
 
 
 ……そうか!
 
 
 
 急に、シンジのシナプスは、正解を導き出した。
 
 
 
 そうか!
 
 
 
 アスカは……レイが、プレゼントに気付いてないことも、分かってたんだ!
 
 
 
 それくらい……お見通し、か……!
 
 
 
 「碇君……? どうしたの?」
 
 レイが、シンジの顔を心配そうに覗き込む。
 
 シンジは……雷を受けたような衝撃で、しかし……レイの声に、引き戻されるように我に還った。
 
 レイの、顔を見る。
 
 
 
 ……そうか。
 
 
 
 「プレゼントも……準備も……心配、いらないみたいだよ」
 
 シンジは、レイに微笑みながら、呟いた。
 
 レイは、目を見開く。
 
 「何故?」
 
 「アスカが、考えてくれたから」
 
 「アスカが……私のプレゼントを、アスカが用意するの?」
 
 「違うよ。綾波は、ちゃんと、用意してる」
 
 「わからない」
 
 「大丈夫……心配しないで。家に帰ったら、分かるよ」
 
 「……そうなの?」
 
 「そう……」
 
 それに。
 
 ……アスカは、きっと……そういう、趣向だろう。
 
 「それに……」
 
 シンジは、呟く。
 
 
 
 「……自分のプレゼントまで……着いてみてのお楽しみって、普通はない、珍しい体験だよ」
 
 言いながら、微笑んだ。
 
 
 
 一時間が経ち、二人は写真館に戻った。
 
 微笑んで出迎えた主人の手には、紙袋に入った、二人の写真が、二枚。
 
 質素なデザインの、柔らかな色合いをした木の額に、収められていた。
 
 「額は、私からのプレゼントですよ」
 
 主人は、そう言って、微笑んだ。
 
 
 
 写真の出来栄えに、喜びの言葉を述べ……レイは、大事そうに、その紙袋を両手に抱えた。
 
 シンジは、照れ臭くもあったが……レイが素直に喜んでいるのをみて、嬉しくなる。
 
 
 
 カララン、と……音を立てて、入口のカウベルが揺れた。
 
 「それじゃあ……ありがとうございました」
 
 シンジとレイが、主人に頭を下げる。
 
 「とんでもない、こちらこそ……また、いつでもいらして下さい」
 
 主人は、柔らかく、微笑む。
 
 
 
 また、来たい……と、シンジも、素直に思った。
 
 そういう気分にさせる、店と、人だ。
 
 
 
 「ああ……そうだ」
 
 扉を閉めようとして、シンジは、ふと……思い出したように、呟いた。
 
 「すいません……あの、どうでもいいことなんですけど……
 
 表の、茶色い写真……あれって、どういういわれの写真なんですか?」
 
 
 
 主人は、優しく、微笑む。
 
 「ああ……あれは、この店を開いたときに……最初に撮影した、一枚です」
 
 「へぇ……あれ、ご夫婦ですか?」
 
 「そうですよ」
 
 「へぇ……」
 
 シンジは、納得して、頷いた。
 
 この店も……結構、長いんだなぁ……と、思う。
 
 
 
 「あ、すいません……それだけなんで……じゃぁ、ありがとうございました」
 
 シンジは、もう一度頭を下げて、扉を閉めた。
 
 カララン……
 
 乾いた音と共に、写真館には、主人が一人、残される。
 
 
 
 部屋の明かりは、上から差す、ステンドグラスの光のみ。
 
 幻想的な……
 
 ……柔らかな、光の毛布。
 
 
 
 「……妻の……最後の、写真です……」
 
 
 
 目を細めた主人は……そっと、呟いた。