第七十四話 「時間」
三百四十六



 シンジは、無事、三日間の禁固刑服務期間を終え、晴れて放免となった。
 
 
 
 NERV本部・総務局に赴き、書類に必要事項を書いて提出する。
 
 それと引き換えに、預けてあったNERVのIDカードをはじめとした、自分の手荷物を受け取る。
 
 以上で、必要な処置は終了である。
 
 ……余談ではあるが、提出書類には「反省したか否か」を答えさせる欄がある。しかし、この欄一つで、本当に反省したかどうかなど分かるわけが無い、と思うと滑稽である。
 
 
 
 とにかくシンジが荷物を受け取った途端、見計らったように、鞄の中の携帯電話が鳴った。
 
 
 
 慌てて鞄を開けて、携帯電話を取り出す。
 
 液晶表示を見ると、「綾波レイ(自宅)」と表示されていた。
 
 受話器の上ったアイコンのボタンを押し、携帯電話を急いで耳に押し当てた。
 
 
 
 『……碇君?』
 
 こちらが声を発するよりも早く、レイの声が、小さめに耳に飛び込んできた。
 
 「おはよう、綾波」
 
 シンジが応える。とは言え、今は昼過ぎ。おはよう、という時刻ではないかも知れない。
 
 
 
 『……お疲れさま、碇君』
 
 「うん……どうしたの?」
 
 『……迎えに、行こうと思って』
 
 「うん」
 
 『……もう、終わった?』
 
 「うん、今、ちょうど……」
 
 言いかけて、ふと、思いとどまる。
 
 
 
 ………
 
 
 
 『……碇君?』
 
 「……ああ……うん、手続きは終わったんだけどね。ちょっと、ミサトさんやリツコさんと話をしてから行こうと思ってさ」
 
 『……話? ……どれくらいかかるの?』
 
 「30分くらいになる……かなぁ。……これから会いに行くから……そうすると、1時間くらいかかるかも」
 
 『わかった……でも、それくらいなら、もう、出る』
 
 「うん、ごめん……帰りに買い物でもしていこうよ」
 
 『……うん』
 
 声音に嬉しそうな表情を孕んで、レイが応える。
 
 
 
 その後、待ち合わせ場所などを確認しあって、シンジは電話を切った。
 
 
 
 途端に、世界は静けさを取り戻す。
 
 
 
 咄嗟に、シンジが「リツコやミサトに話がある」、と言ったのは……独房の中で考えていた、例の「米国第二支部」の事件の警告をしておこう、と思ったためだ。
 
 ……と言っても、どう警告するべきなのか、何も考えていない。
 
 事件を事前に知っている、という不自然な状態に気付かれることなく……なおかつ有効な警告をするにはどうしたらいいのだろうか?
 
 
 
 「……30分は短かったかなぁ」
 
 頭を掻きながら、シンジは発令所に向かって歩き出した。
 
 
 
 ……結局、シンジがリツコの居場所を掴んだのは、総務局を離れてから20分後のことだった。
 
 リツコは、第三実験棟で、マヤたちと供にレリエルの残骸を調査中だった。
 
 
 
 第三実験棟は、実験棟の中では比較的小さな……しかし、それでも天井までは数十メートル、敷地の広さも同じく数十メートルに及ぼうかという施設だ。

 部屋の中央付近に、レリエルの球体部分の破片(約2〜3メートル四方の、比較的小さなものだ)がぶらさがっており、そこにいくつもの電極やコードが張り巡らされている。
 
 延びたコード類は所狭しと並べられたコンピューター類の背面に消え、そのモニタには数々のグラフや表が現れては消える。
 
 リツコやマヤ以外にも、知った顔や初めて見る顔など、十人近いオペレーターが機器の間を走り回っていた。
 
 
 
 マヤは、幾つも並ぶコンピュータの、恐らくメイン端末と思われるマシンの前に座り、めまぐるしい速度でキーボードを叩いていた。
 
 リツコは、腕組みをした状態で、その後ろからモニタを見つめている。
 
 シンジは実験棟の中に足を踏み入れると、二人の居るほうに向かって足を進めた。
 
 
 
 シンジが近付くと、気配に気付いたリツコが、少しだけ振り返ってシンジに視線を向けた。
 
 やって来たのがシンジだと知ると、微かに眉を上げてみせる。
 
 
 
 「囚人生活は、終了? シンジくん」
 
 リツコは、特に表情を変えることなく、シンジに声を掛けた。
 
 シンジは、黙って曖昧に笑ってみせる。
 
 リツコの言葉に、マヤも振り返った。
 
 「あら、シンジくん。禁固刑は終わったの? お疲れさま」
 
 屈託の無い表情で微笑み、言葉をかけるマヤ。
 
 こうして見ると、優しい近所のお姉さん、という風だが、シンジの方を向いて話をしながらも、高速でキーボードを叩く指の速度に翳りが見えないのはやはりNERVのトップオペレーターたる所以であろう。
 
 
 
 「何か、用?」
 
 「用、と……言うほどでも、ないんですけど」
 
 「ちょっと待っててくれる? すぐに終わらせるわ」
 
 リツコは、軽く手を上げてシンジにそう告げると、そのまま視線をマヤの前のモニタに移した。
 
 「マヤ、28番から398番まで、オン」
 
 「了解」
 
 「結果は?」
 
 「理論値とプラスマイナス0.5以下。ほぼ予測通りです」
 
 「じゃあ、係数を50まで上げてみましょう。誤差のグラフを9番に入れて……」
 
 
 
 シンジは、一歩下がって、じっと二人の作業を見ていた。
 
 当たり前の話だが、何を言っているのかよくわからない。
 
 一見すると、難しい用語などを交わしているわけではないのだが……それが逆に、より理解不能な気分にさせる。
 
 ……だいたい、NERVのトップオペレーターと技術本部長の会話が、別に学問に長けているわけでもない中学生にそんなに簡単に理解できたら、そのほうが怖い。
 
 
 
 「……じゃあ、残りはオートで。あとは静内君たちに任せて」
 
 「了解しました」
 
 リツコの言葉に応えてから、マヤはタタタッ、と軽いタッチでキーボードの上に指を走らせると、そのままエンターキーを叩いた。
 
 途端に、モニタに膨大な量の文字が、物凄い速度で流れ始める。
 
 恐らく、MAGIの計算の一端が表示されているのだろう。
 
 マヤは、キッと椅子を引くと、座ったままくるりと座席を回転させ、数メートル先に座ってキーボードを叩く太ったオペレーターに声を掛ける。
 
 
 
 「静内君!」
 
 
 
 呼ばれたオペレーターは、声に気付いてマヤの方に振り向く。
 
 そして慌てて立ち上がると、マヤのそばまで駆け寄った。
 
 「ハイ、先輩」
 
 「ごめんね、静内君。今、MAGIに計算任せたから、定期チェックと計算結果の整理をお願い」
 
 言いながら、マヤは男性に数枚のペーパーを渡す。
 
 「書式はここにあるから」
 
 「わかりました」
 
 オペレーターはマヤから書類を受け取ると、背筋を伸ばして頭を下げ、元の席に駆け戻っていった。
 
 
 
 「……へぇ〜……」
 
 シンジは、感嘆したように声を漏らした。
 
 
 
 マヤとリツコが、怪訝な表情で振り返る。
 
 「? どうかしたの、シンジくん?」
 
 小首をかしげるマヤ。
 
 
 
 「ああ……いや、その……マヤさんて、けっこう偉いんだなぁ……と思って」
 
 シンジが、頭を掻いて応える。
 
 
 
 シンジの言葉に、数拍、ぼーっとしたあと……マヤは、思わず頬を赤くした。
 
 「えっ……だって、え? そ、そんなことないわよ」
 
 照れたように笑ってみせる。
 
 
 
 まぁ、現実的に考えても……今、マヤが他のオペレーターに出した指示を聞いたくらいでは、それで「偉い」と評するほどのものではない。
 
 しかし、そういう印象が今まで全く無かっただけに、シンジが驚きを覚えたのは事実だ。
 
 
 
 リツコが、横目でマヤを見ながら、シンジに向かって声を紡ぐ。
 
 「……まぁ、マヤなら当然よ。少しは偉くなってもらわないと困るわ」
 
 リツコの言葉に、マヤはますます赤くなり、縮こまってしまった。
 
 
 
 ……こうして見ると、普通の可愛いお姉さんなんだけどなぁ……
 
 シンジは、不思議な思いで、首まで赤くなっている年上の女性を見つめていた。
 
 
 
 「……で?」
 
 一区切り、ついて……リツコが、ボソッ、と呟いた。
 
 「え?」
 
 シンジが、リツコの方に視線を戻す。
 
 リツコは、腕組みをしたまま、シンジの顔をニコリともせずに見つめた。
 
 「……何か、話があってここに来たんじゃないの?」
 
 
 
 リツコの言葉に、シンジの脳細胞は、急速に冴え渡った。
 
 
 
 視線を、リツコの顔から下ろして、目の前の空間を見つめる。
 
 「……ええ、……まぁ」
 
 曖昧に応える。
 
 
 
 「……何の話? ここじゃ、話しにくいことかしら?」
 
 リツコの言葉に、マヤが顔を上げた。
 
 「……私がいて、まずい話なら……席を、外すけど」
 
 「ああ、いえ」
 
 シンジは、慌てて首を振る。
 
 マヤがいて困る話ではないし、あまり身構えてもらってもやりにくい。
 
 「……その……」
 
 しかし……言い淀む。
 
 ……何と、説明しよう。
 
 
 
 「その……」
 
 ……とにかく、話し始める。
 
 黙っていても何も始まらない。
 
 「……聞いた、話なんですけど」
 
 
 
 「……アメリカの、NERVの支部で、エヴァ参号機と四号機を作ってるって……」
 
 シンジの言葉に、リツコは特に逡巡することもなく、頷く。
 
 「そうね。だいたい、建造は最終段階に入ってるわ……誰に聞いたの?」
 
 「え?」
 
 「職員に箝口令を敷くほどでもないけど、関係者以外が知らないのも事実よ」
 
 「えと……加持さんに」
 
 「そう……」
 
 
 
 前回の曖昧な記憶では……確か、ケンスケもこの事実を知っていたような記憶がある。
 
 ここは、NERVの管理体制の甘さを指摘するのと同時に、彼の諜報能力の高さを称賛するべきだろうか? と、どうでもいいことを思う。
 
 
 
 とにかく、シンジは、おずおずと言葉を繋ぐ。
 
 「その……危険とか、ないんでしょうか」
 
 「? 何が?」
 
 「その……何て言うか……エヴァって、よく分からないじゃないですか。そんなに新しい機体を作って、制御しきれる物なのかなぁ、とか……思って」
 
 「……不安?」
 
 リツコが、静かに問う。
 
 「不安というか……その」
 
 シンジが、バツが悪そうに、頭を掻いた。
 
 「……爆発とか……したり、とか……危ないんじゃないかなぁって」
 
 
 
 ……なんと、いう……
 
 
 
 説得力の欠けること、誠に夥しい。
 
 
 
 シンジは、思わず心の中で下唇を噛んだ。
 
 余りにも、無謀・かつ、無計画に過ぎる。
 
 もう少し、考えておいても良さそうなものだ。
 
 
 
 だが、何も考えなかったわけではない。
 
 禁固刑の三日間、考える時間は腐るほどあった。
 
 そして、なお、それでも時間が足りないくらい、考えたのだ。
 
 
 
 ……そして、「何も思い付かない」という、結果を、得た。
 
 
 
 なんだか、自分はひどく頭が悪いような気がしてしまう、シンジだ。
 
 とにかく、せっかく有利に働くチャンスを潰している気がしてしまう。
 
 気に病んでも仕方のないことだが、それにしても……もう少し、上手い方法がありそうなものだ。
 
 
 
 とにかく、今……この場の会話の流れは、ひどく説得力の欠けたものになっていた。
 
 「爆発とかが危ない」とは、何か。
 
 全く根拠の無い、余りにも浅い言葉だ。
 
 ……シンジは、「失敗した」という思いを強くしていた。
 
 
 
 だが……
 
 ……会話は、少しだけ、シンジが予測した方向とは違う方向に流れ始めていた。
 
 
 
 「そう……わかったわ」
 
 リツコは、静かに、呟いた。
 
 シンジが、顔を上げる。
 
 リツコは、ただ、じっと……シンジを見つめる。
 
 
 
 「……警戒は、厳重にしましょう」
 
 「……え?」
 
 「チェック機構が今よりも効率良く運動するように働き掛けましょう。まぁ、アメリカ支部とこちらでは事情が違うから、どの程度話が通るか分からないけれど」
 
 「……あ、はぁ……」
 
 「事故に備えての予備項目を洗い直させます。過剰な人員は手薄な別の部署に回して、全体的に身軽にしたほうがいいとは、私も思っていたところなの」
 
 「……はぁ」
 
 「こんな感じで、どうかしら? まだ、何かアイデアがある?」
 
 「……いえ」
 
 
 
 思わず、シンジは間の抜けた相槌で応えてしまった。
 
 あんな怪しい進言に対して、あの慎重なリツコが、どういう反応か?
 
 裏でもあるのか、とシンジが勘繰ってしまうのは責められない。
 
 それとも、言葉の上だけで、体よくあしらわれた、と受け取るべきだろうか。
 
 
 
 「マヤ」
 
 リツコは、姿勢を変えずに、後ろに座っているマヤに声を掛ける。
 
 「ハ……ハイ」
 
 急に声を掛けられて、マヤは居住まいを正す。
 
 ……今、シンジが受けた違和感は、マヤも同じく感じているはずだ。
 
 それほど、シンジの意見を容易く受け入れたリツコは、不自然だった。
 
 「今、私が言った修正項目を、具体性のある物にシェイプしてくれる? それが済んだら、一度私に見せてから、司令に通す方向で体裁を整えて頂戴」
 
 「ハ、ハイ。分かりました」
 
 マヤは慌てたように頷き、くるりと椅子を回転させてモニタに向かった。
 
 画面には、未だ大量の文字列が流れている。マヤがモニタ横のボタンを押すと、その文字列が一瞬にして消える。
 
 デスクトップの様子も若干、変化しているところを見ると、計算を終了したと言うよりは、別のユーザもしくはOSに切り替わったと見るべきだろう。
 
 
 
 即座に、マヤの指が再び高速でキーを叩き始めた。
 
 先程のリツコの言葉を、キチンとした形に変換しているのだろうが、それを即座に、しかも高速に行う彼女の能力は、やはり非凡だ。
 
 
 
 「話は、それだけ?」
 
 リツコが、静かに呟いた。
 
 「あ……はい」
 
 シンジが頷く。
 
 とにかく、事は済んでしまった。結果だけを見れば、理想的とすら、言える。
 
 適当に二言・三言、言葉を交わし、シンジは第三実験棟を後にした。
 
 
 
 ……リツコは、何故、シンジの意見を容易く汲んだのか?
 
 ……それは、
 
 ……それが、「シンジの意見」だから、である。
 
 
 
 それほどまでに、リツコの中で、シンジの意見は重きを置かれていた。
 
 余りにも不自然な今の意見も、むしろリツコは、「それでもなお、言わなければならないことだったのだ」と解釈した。
 
 シンジとしては願ってもない心の動きである。
 
 
 
 ……とは言え、実際に、シンジの意見が何を意味しているのか、までは分からない。
 
 もしかしたら何か事故が起こる予兆があったのかも知れない、と、リツコは思った。



三百四十七



 ジオフロントから外に出たシンジは、警備ラインを出て、バスロータリーに向かう。
 
 陽射しが、眩しい。
 
 たった三日とは言え、ほとんど終日、薄暗い環境から出なかったシンジには、少々刺激的な光の渦だ。
 
 
 
 ロータリーに面した道から広場に出ると、シンジは左右に視線を振った。
 
 そして、右側の木陰のベンチに、目的の人物を見つける。
 
 
 
 レイは、ロータリーの外縁が少しだけ奥に入った、芝生に囲まれた白木のベンチに腰掛けて本を読んでいた。
 
 白い薄手のワンピース。
 
 それと同じくらい透き通るように白い肌に、日傘のようにその両腕を伸ばした木の枝の影が落ちる。
 
 時折吹く風が、木の葉の影と、ワンピースと、彼女の蒼い髪の毛を優しく揺らしていた。
 
 
 
 シンジは、レイの座るベンチに向かって、小走りに駆け出す。
 
 レイは暫し、手許の本を目で追っていたが、やがて近付く足音に気付き、顔を上げた。
 
 「碇君……」
 
 シンジの姿に気付き、レイは優しく微笑む。
 
 
 
 「おはよう、綾波。遅れたかな……ごめん」
 
 レイのそばまで来たシンジは、立ち止まって同じように微笑んだ。
 
 レイは、首を振りながら立ち上がる。
 
 「いいえ……早くに、着いてしまっただけ」
 
 「うん」
 
 「……お疲れさま」
 
 「……うん、ありがとう……」
 
 
 
 サワサワと、葉と葉が触れ合う音が聞こえる。
 
 午後2時の、爽やかな陽射しが、二人を包んでいた。
 
 
 
 「じゃぁ、まぁ……とりあえず、行こうか」
 
 「うん」
 
 シンジの言葉に、レイはこくりと頷く。
 
 ここに、ぼーっとしていても、仕方がない。
 
 二人は、ちょうどやって来たバスに乗り込む。
 
 暫くバスに揺られ、途中の繁華街でバスを降りた。
 
 
 
 今日は、いつも寄るデパートには直接入らず、周りの商店街に足を向けた。
 
 特に明確に買いたいものがあったわけでもないし、ただ店を見て回るのもいいかな、と思ったのだ。
 
 それに、シンジと一緒にしか買い物に来ないレイはもちろんのこと、シンジも、商店街の中に足を踏み入れたことは2、3度しかなかった。
 
 
 
 「そう言えば、アスカは?」
 
 シンジが、レイの横に並んで歩きながら、ふと思い出して尋ねる。
 
 レイは、シンジの顔を見上げた。
 
 「寝てるって」
 
 「あ……そう」
 
 ……気を使ってくれたのかも知れないな、とシンジは思う。
 
 
 
 商店街は、比較的にぎやかな空間だった。
 
 デパートの中は、雑多な中にも整然とした秩序があったが、ここは、むしろもう少し下町然とした境界線の曖昧さがある。
 
 もちろん当然のことながら、シンジもレイも、「下町のような」……という表現にピンと来るものなど無いが、それはそれとして、決して嫌いな雰囲気ではなかった。
 
 
 
 「何か、欲しいもの、ある?」
 
 シンジは、レイの方に振り返って尋ねる。
 
 「……別にない」
 
 レイは、ふるふると首を振る。
 
 そして、きゅっ……と、シンジの袖をつまんだ。
 
 「……碇君が、いてくれたら、いい」
 
 
 
 思わず、シンジは赤くなってしまった。
 
 免疫力、ゼロ。
 
 
 
 「と……とにかく、ちょっと、見て回ろうか」
 
 「うん」
 
 照れたようにシンジはレイを促し、二人は並んで商店街の中を歩き始めた。



三百四十八



 葛城邸。
 
 亜麻色の髪をした美少女は、言葉の上だけではなく、本当に寝ていた。
 
 しかも、居間のソファに寝転がって、「大の字」という表現に、これ以上無いほど似合ったポーズである。
 
 ここでいびきまでかいていると美少女台無しなところだが、幸い、寝息と寝顔は非常に可愛らしいものであった。
 
 
 
 ピンポ〜ン。
 
 
 
 玄関から、来訪者を告げるチャイム。
 
 爆睡中でも寝起きのよい体質のアスカは、その音に反応して目を覚ました。
 
 
 
 ピンポ〜ン。
 
 
 
 「……んん?」
 
 アスカはまぶたをこすりながら、むくっとソファーの上に身を起こした。
 
 伸びをしてから立ち上がると、ボサボサの頭を掻きながら、壁に掛かったインタホンの受話器を取った。
 
 「はい……」
 
 『あ、アスカ?』
 
 耳許から聞こえる、聞きなれた親友の声。
 
 アスカの脳細胞は急速に覚醒していく。
 
 
 
 「あ……ヒカリ?」
 
 『そうよ』
 
 「え? あれ……いま、何時?」
 
 『3時だけど……』
 
 「あれ……もう3時? あらら。ちょっと待って、今開けるから」
 
 アスカは慌てて受話器を置くと、玄関に駆け込む。
 
 ノブを回して、扉を開いた。
 
 
 
 扉の前には、中くらいのトートバッグを両手で持って、ヒカリが立っていた。
 
 そして、出てきたアスカを見て、驚いたように少しだけ目を見開く。
 
 「何、その格好」
 
 「何って……」
 
 アスカが、自分の体を見回す。
 
 
 
 別に、パジャマや下着姿で居眠りしていたわけではない。
 
 幾らなんでも、そんな格好で玄関に出てくるほど、年頃の少女としての恥じらいは無くしていないつもりだ。
 
 ……しかし、そうは言っても、寝癖で頭はボサボサ、来ている服も折れ曲がってシワシワしている。
 
 今まで寝ていました、という赤くなった目も、ある意味情けないと言えなくもない。
 
 
 
 「ああ……」
 
 アスカは、ヒカリの言わんとしていることを理解して、肩を竦めた。
 
 「いいでしょ、別に。ちょっと昼寝してたからさ」
 
 アスカは、言いながら玄関に戻る。
 
 「こんな昼間から?」
 
 「昼に寝るから昼寝って言うのよ。知らなかった?」
 
 ヒカリの言葉もどこ吹く風、と、平気な顔で家の中に入っていくアスカ。
 
 ヒカリも、苦笑して靴を脱ぎ、廊下に上がった。
 
 
 
 「だって、ヒカリだけでしょ?」
 
 「何が?」
 
 「ヒカリと一緒に鈴原が来るとか言うなら、例えアイツ相手でも、髪の毛くらい整えてから出るわよ」
 
 居間に入ったアスカは、床に散らばっていた雑誌を拾ってソファの上に置くと、ガチャッと洗面所の扉を開ける。
 
 「来ないわよ」
 
 頬を赤くしながらヒカリが呟く。
 
 
 
 洗面所で頭を洗っているらしい水音が聞こえてくる。おそらく、今の呟きは、アスカの耳には届いていないだろう。
 
 ヒカリは溜め息をつくと、荷物を床の隅において、周りを見回してから椅子に座った。
 
 
 
 おそらくアスカは、シンジの前では、めちゃめちゃな格好でも気にしないのだ。
 
 そう思うと、何だか微笑ましかった。
 
 
 
 暫しの時間を置いて、バスタオルで頭と顔を拭きながらアスカが出てきた。
 
 ヒカリは読んでいた雑誌を閉じて、アスカを見る。
 
 「それで……何作りたいんだっけ?」
 
 「カンタンなやつ」
 
 アスカが、笑いながら、応えた。



三百四十九



 暗闇。
 
 
 
 空間の広さも分からなくなるような漆黒の世界で、しかし、定間隔おきに光るオレンジ色の鈍い輝きが、そこに壁があることを知らせていた。
 
 部屋の中に設置された、数々の実験機器。
 
 小さな電源やアクセスを知らせるランプがとりどりに煌めくが、その鮮やかな色彩は、ここでは不気味な印象しか与えない。
 
 
 
 足許から照る赤色の光を受けながら、リツコは、誰にも聞こえないように舌打ちをした。
 
 
 
 だめだ。
 
 
 
 理論値とのズレが大きい。
 
 一応、設定された許容範囲から外れてはいないが……
 
 このまま実戦に使うには危険が高い。
 
 まだ、時間が必要だ。
 
 
 
 レイが、使えればよかったのだ。
 
 リツコは、思う。
 
 そう……もともと、そういう計画だった。
 
 現在の実験計画に適用されているタイムスケジュールは、レイが協力することが前提になって組み立てられている。
 
 本来なら、レイが実験に参加しなくなった時点で、もう一度線を引き直すべきだったのだ。
 
 
 
 だが、もう、遅い。
 
 ズレは、確実に広がっている。
 
 
 
 「調子はどうかね、赤木博士」
 
 数メートル背後から、聞きなれた低い声が聞こえる。
 
 一度は、愛した男の声……。
 
 だが、今はその声に、呼び起こされる艶やかな感情は、ない。
 
 
 
 「芳しくありません」
 
 リツコは、じっと前のモニタを見つめながら呟いた。
 
 「やはり、パーソナルパターンの採集だけでは、限界があるのです。魂の持つファジーな世界は、プログラムに予測させるだけでは無理です」
 
 「残りのレイたちでは、駄目か」
 
 「……アレは、殻です。『綾波レイ』は、精神であって肉体ではないのです」
 
 「……そうか」
 
 
 
 コポコポと、微かな気泡の音。
 
 母親の羊水を思わせるその音色は、しかし、ここでは悪魔の御技に結びつく血の音だ。
 
 
 
 今からでも、レイを実験に参加させれば、計画通りに物事を進めることは可能だろうか?
 
 
 
 いや、それはムリだ……と、リツコは思う。
 
 
 
 レイは、この実験に参加する気持ちは、全く無いようだ。
 
 ゲンドウが命令として降せば、あるいは従うかも知れないが……それにしても可能性は低い。
 
 ……レイを強制的に実験に参加させるようなことになれば、シンジが怒るだろう。
 
 彼を、今、敵に回したくはない。
 
 シンジは、「NERVに協力すること」そのものには執着が無い。
 
 それは、見ていれば分かる。
 
 シンジにとって、今、NERVに協力しているのは……それが、彼の目的と同じ方向にあるからに過ぎなかった。
 
 
 
 それに……と、リツコは思う。
 
 
 
 今の、レイでは……どちらにしろ、もう、当初から求めていたようなデータは得られないかも知れない……。
 
 
 
 溜め息をつく。
 
 
 
 レイの人格を、ダミーとして初号機に搭載する理由は……遺伝的に碇ユイや碇シンジに近く、初号機が拒絶する可能性が低いということもあるが、何より、「彼女の無機質な感情」が扱いやすいからだ。
 
 人間的な、複雑な感情をシミュレートするのは難しい。
 
 それを考えると、レイは、うってつけな素材だった。
 
 
 
 だが、今はもう、事情が違う。
 
 彼女の心は、豊かな感情を手に入れつつある。
 
 
 
 相互互換試験の際の初号機の暴走も、レイの感情が原因かも知れなかった。
 
 こちらの予想では、レイが初号機に搭乗しても、問題はないはずだった。
 
 結局あの時は、初号機の暴走した理由はわからなかったが……
 
 可能性が最も高いのは、レイ自身の変化だろう。
 
 
 
 そう……あの実験が失敗したことも、痛い。
 
 本物のレイを拒絶したということは、例えレイの人格のトレースに成功したとしても、そのダミーシステムを初号機が受け入れない……という可能性があった。
 
 
 
 どうも、上手くない。
 
 ……今作っている、このダミーシステム。
 
 9割がた完成している。
 
 これでも、初号機に搭載することは可能だが……未知の要素が多すぎる。
 
 
 
 「……しかし、このまま、放っておくわけにはいかん」
 
 暗闇の中で、ゲンドウは、誰に言うともなく、呟いた。
 
 
 
 リツコは、静かに振り返る。
 
 ゲンドウは、じっとモニタを見つめたまま、地の底を這うような声で、言葉を紡いだ。
 
 「出来なかった、では、済まされない」
 
 
 
 「……このまま、進めるしかないという、ことでしょうか」
 
 「計画に変更はない。来たるべき時までに、ダミーシステムは完成させておかなければならない」
 
 「………」
 
 「初号機に、ダミーシステムを搭載する準備を、進めておきたまえ」
 
 「搭載、しますか? まだ、不確定要素が多い気もしますが」
 
 「それもやむなし、だ……。悠長なことは言っていられん。実際の運用で、データを得るでも良い」
 
 「……了解しました」
 
 
 
 しかし……実際のところ、ダミーシステムを使用するような局面になれば、それは、初号機のコントロールをシンジから奪うことに他ならない。
 
 それを……シンジが、許すだろうか?
 
 ともかく、リツコは、データの整備のためにキーボードを叩いた。