第七十三話 「変化」
三百四十一



 シンジは、禁固二日目の朝を、独房の中で迎えた。
 
 
 
 NERVの定める禁固刑には、幾つかの種類があり、それを大別すると二つに纏められる。
 
 シンジが今回受けたような期間の短い禁固刑は、一日の生活リズムも、最初から本部によって定められていることが多い。
 
 
 
 もちろん、何から何まで、全てのタイムスケジュールが定められているわけではない。
 
 はっきりと決まっているのは、「起床時間」「就寝時間」、あとは三食の食事時間であろうか。
 
 こうして時間を律している理由は、服務者の生活を規律正しく管理することで反省を促すという、効果があるのかないのかよく分からない理由による。
 
 また、独房では時間の感覚が薄れるために、刑を終えて職務に復帰したときに、体調を崩して職務の遂行の妨げになることを恐れるためでもある。
 
 
 
 対して、禁固刑が長期に渡るものは、何も決められないことが多い。
 
 いつ、何をしてもよし。
 
 ただし、独房の中で出来ることなど、ほとんど何もない。
 
 全く誰にも相手にされないことで、外の世界との完全な意識の隔絶を与えるという、一種の拷問に近い処置だ。
 
 
 
 話が逸れた。
 
 とにかく、シンジは三日間という非常に短い禁固刑のため、当然前者の種類に属するわけで、朝の目覚めは目覚ましのブザーによってもたらされた。
 
 
 
 実を言えば、シンジにとっては、この禁固刑はいい休養になってしまっていた。
 
 家にいれば、毎日毎日誰よりも早く起きて、食事の支度をしなければいけない。
 
 それを義務や苦行だと思ったことなど一度もないし、その作業自体、とても楽しいものではあったが……それはそれとして、ブザーの鳴る7時まで眠っていられるというのは、シンジにとってはいつもより数段、楽なことだった。
 
 
 
 朝起きると、トイレに行ってから、洗面所で顔を洗う。
 
 そして、出てきた簡素な朝食を30分で食べる。
 
 ここまでが、朝の決められたタイムスケジュールである。
 
 あとは、昼食の時間まで、自由だ。
 
 
 
 尤も、自由、と言っても……読む本も、見るテレビも、聞く音楽もない。
 
 普通の人間ならば、初日にして退屈の極みを感じることであろう。
 
 
 
 ……だが、シンジには、考えなければいけないことがたくさんあった。
 
 
 
 シンジは、次の使徒のことを思って、微かな焦りを感じていた。
 
 ……バルディエル。
 
 エヴァンゲリオン参号機に宿った使徒。
 
 ……親友の片脚を奪った闘い……そして、奪ったのは、自分だ。
 
 
 
 繰り返すわけには、いかない。
 
 
 
 シンジは、ベッドに横になる。
 
 天井を見上げる。
 
 殆ど光量のない部屋では、暗がりに溶け込みかけた天井は、妙に高く見える。だが、本来はむしろ、ミサトの部屋よりも低いはずだ。
 
 ベッドの上に立てば、手が届くかも知れない……と、シンジは思う。
 
 
 
 前回と、今回と……はっきり違う点が、既に、幾つかある。
 
 
 
 まず、トウジのことだ。
 
 
 
 前回、フォースチルドレンにトウジが選ばれたのは、もちろん適格者としての素養があったからであるが……
 
 ……そういう意味であれば、シンジのクラスメイトなら誰でもよかった。
 
 ケンスケやヒカリ、あるいは他の誰が選ばれてもおかしくは、ない。
 
 
 
 トウジが選ばれた理由は、トウジの妹、ミドリ……彼女が、参号機の魂として適当だったからであろう。
 
 
 
 自分やアスカの境遇を考えればすぐに思い至ることであるが、チルドレンになるためには、確かに、近親者の魂が専属のエヴァンゲリオンのコアにインストールされていることが必要だ。
 
 あの時、トウジが参号機のパイロットとして選抜されるのに前後して、ミドリは死んだのだ。
 
 正確には、死に瀕していた彼女の魂を、死ぬ前に参号機のコアに移し替えたと言うべきか。
 
 
 
 ……まさか、NERVがミドリを殺した、とは思いたくなかった。
 
 あの時期、ミドリがNERVの医局に入院していたのは事実だったが、ミドリが本当に、死に瀕していたかどうかの確証はない。
 
 だが、トウジは「妹をもっといい病院に移す」という条件と引き換えに、チルドレンになる道を選んだ。
 
 ……いい病院に移す、ということが、良い条件と見なされるということは……ミドリの病状が芳しくなかったという、証拠だ。
 
 
 
 だが、本当に死にそうだったのか?
 
 治らない、のと、死にそう、という状態はまったく違う。
 
 
 
 NERVなら、トウジというフォースチルドレンを手に入れるために……別に命に別状の無かったミドリを、参号機にインストールしてしまうくらいのことは、やりそうだ。
 
 考えたくはない。
 
 だが……可能性を否定することは、出来ないだろう。
 
 
 
 シンジは、ごろりと寝返りを打つ。
 
 
 
 とりあえず……今回、ミドリは、健康的に日々を過ごしている。
 
 自分がきっかけをもたらした彼女の入院は、とっくの昔に終わっていた。
 
 今、彼女が死にそう、などということはあり得ない。
 
 
 
 この事実は、二つの状況を導き出す。
 
 ひとつは、ミドリが参号機にインストールされる理由がない、ということ。
 
 それから、例えトウジがフォースとして召喚されたとしても、「妹をもっといい病院に移す」という交換条件が無い、ということだ。
 
 
 
 この二つの事実は、トウジを、前回よりは確かに、フォースチルドレンという立場から遠ざけていた。
 
 
 
 ……では、トウジが、フォースチルドレンから除外されたとして……
 
 ……代わりに、クラスの誰かが、フォースになるのだろうか?
 
 
 
 避けなければいけない……それは、分かっている。
 
 だが、避けてどうなる?
 
 
 
 おそらく、必ず誰かが、フォースになるのだ。
 
 トウジでなければクラスの誰かが。
 
 クラスの誰かでなければ、世界の誰かが。
 
 ……とにかく、同い年の誰かが、参号機の座席に座るのである。
 
 
 
 参号機が存在して、その起動実験を行う以上、それを避けることは出来ない。
 
 シンジは、目頭に軽く力を込める。
 
 眉間に、浅い縦皺が寄る。
 
 ……自分の知り合いが、フォースにならなければ、それで良いのだろうか?
 
 誰かが、代わりにその不幸を背負うのだ。
 
 助ける、助けないの境界線を、自分の知り合いかどうかで決めるなんて……随分と傲慢な話である。
 
 
 
 参号機の起動実験自体を、やめさせることが出来るだろうか?
 
 
 
 ……それは正直、難しい、とシンジは思う。
 
 
 
 米国第二支部で、四号機の起動実験が失敗したのは知っている。
 
 それによって、おそらく、参号機の起動実験の時期が早まったのであろう事は、想像できる。
 
 だが、それだけだ。
 
 
 
 四号機の起動実験の失敗により、また、多くの人命が失われることになるだろう。
 
 それを阻止したいという気持ちはもちろんあるが、おそらく、シンジに出来ることなど限られている。
 
 四号機の起動実験を阻止する……しかしそれは、一時的なものだ。
 
 いつかは、実験を再開する時がやって来る。その時までに、当地の技術陣が、米国第二支部消失の原因を解明し、それをリペアすることが出来るだろうか?
 
 ……実験を阻止してしまえば、それはつまり、実験の失敗は訪れないということであり……現象が起こらなければ証拠もないわけで……その状態での原因の究明は逆に難しいだろう。
 
 
 
 ……実際には、シンジの記憶には些細な覚え違いがある。
 
 四号機が消失した実験は「S2機関搭載実験」であり、「起動実験」ではない。
 
 だが、そのような微妙な事実は、完全に覚えていられないのが普通であり、シンジの記憶違いは仕方のないことだろう。
 
 ……しかし、とにかく、このような記憶の違いがある状態で、四号機の実験を止めることなど、一介のパイロットに過ぎないシンジには不可能なのだ。
 
 
 
 それは恐らく、ミサトでも不可能ではないだろうか。
 
 彼女が「四号機のS2機関搭載実験をやめさせたい」と思ったとしても、為す術はない。
 
 この第三新東京市本部にいる人間で、米国第二支部の実験を止める権限のある者など、リツコと冬月とゲンドウくらいではないか?
 
 ましてや、ただ止めるだけでは駄目で、「実験の失敗要因を探す」というおまけまで付けるとなると、もう、手の打ちようが無い。
 
 
 
 ……とにかく、シンジに出来ることは限られる。
 
 米国第二支部は……正直、諦めるしかない。
 
 せめて実験の際に、関係ない人間を避難させておけたらと思うが、それも不可能だろう。
 
 職員は遊んでいるわけではない。確たる理由もなく、職場から離れさせることなど出来ないし、それをやるためには相当大きな権力が必要だ。
 
 シンジの両手には余る。
 
 
 
 せめて、リツコに警告しておこう。
 
 ……だが、ストレートにそれを言うわけにはいかない。
 
 うまい言い方を考えなければいけない。
 
 
 
 思考を、切り替える。
 
 参号機の起動実験。
 
 ……これを阻止することは、出来るだろうか?
 
 
 
 堂々巡りだ。
 
 これも、阻止しても仕方がない。
 
 いつかは、実験をする日がやって来る。
 
 それに同い年の子供が乗ることは避けられないだろうし、バルディエルの寄生の阻止も難しい。
 
 
 
 シンジは、バルディエルの寄生がいつ行われたのか、知らない。
 
 正確には米国第一支部から松代への輸送中に、雲海内で取り憑いたのだろうと言われていたが、そんな情報はシンジまで降りてはこなかった。
 
 
 
 バルディエルの寄生を阻止する方法は、シンジには思い付かなかった。
 
 
 
三百四十二



 加持リョウジ。
 
 彼の手にあるのは、緑色のゾウさんの形をしたじょうろ。
 
 鼻歌混じりに水をやるその植物は、まだ熟すまでは若干の時間がありそうな、しかし程よく育った西瓜の群れである。
 
 
 
 「……NERVに隠れて、こぉんなことをしてたってワケね」
 
 ミサトが、腕組みをしながら呆れた表情で呟いた。
 
 
 
 ここは、ジオフロント内部、NERV本部から数百メートルほど離れた森の一角。
 
 加持が勝手に囲った十数メートル四方の畑である。
 
 
 
 加持は、空になったじょうろを逆さにして数回振った後、飄々とした表情で振り返った。
 
 「余っている土地は、有効に活用しないとな」
 
 ミサトは、溜め息をつく。
 
 「……余ってるって、アンタね……この土地は、一応NERVの私有地なの。勝手に畑なんか作っちゃいけないのよ」
 
 
 
 加持はてくてくとミサトの脇を通り抜けると、奥に置いてある簡素な(それこそ、どこかの粗大ゴミ置き場から拾ってきたような)剥き出しの棚にじょうろを置き、これまた今にも壊れそうなベンチにどっかりと腰を下ろした。
 
 微笑みながら、ミサトに向かって首をかしげて見せる。
 
 「まぁ、座れよ」
 
 ミサトは、半目で加持を振り返る。
 
 「……やめておくわ。二人座ったら、潰れそうだもの、そのベンチ」
 
 「そうか? 大丈夫だと思うがな……」
 
 ポリポリと、加持は頭を掻く。
 
 
 
 陽射しが、緩やかに二人の上に降り注ぐ。
 
 
 
 人工の光だ……それは、分かっている。
 
 だが、暖かいと感じているこの心に偽りはない。
 
 
 
 春は、暖かな命を。
 
 夏は、熱い陽射しを。
 
 秋は、物憂げな木漏れ陽を。
 
 冬は、凍てつく風を。
 
 
 
 繁る植物には恵みの雨を。
 
 時には、雪や、でなければ風や、光や、曇り空。
 
 その、それぞれを、くるくると変えながら、ジオフロントの中にもたらす。
 
 現代の科学の粋を集めた空間。
 
 
 
 だからこそ、密閉された空間なのに、これだけの森が育つ。
 
 でなければ、この広大な空間には、人間以外の生命など、ろくに許されないはずだった。
 
 
 
 「……これだけの技術があれば」
 
 加持が、ボソリ……と呟く。
 
 ミサトが、ん? という表情で加持を見る。
 
 「なんか言った?」
 
 「……いや、何でもない」
 
 目を瞑って、軽く首を振って見せる、加持。
 
 
 
 ……これだけの技術があれば。
 
 もっと、もっと、世界は復興への道を足早に進むことが出来るだろう。
 
 セカンドインパクトの爪痕は、世界中に深い傷を残したが……NERVがその技術を大きく公開すれば、今よりももっと、以前の姿に近づいているはずだ。
 
 この、比較的復興の進んだ第三新東京市にいると、忘れてしまいそうになるが……大多数の土地では、当時からろくに復興は進んでいない。
 
 ましてや、日本以外となれば、更に事態は深刻だ。もともと国力の低かった国などは、復興しようにもそのための足がかりさえ掴めずにいるのだ。
 
 
 
 ……仕方がないことだ、と、加持は思う。
 
 結局、NERVが使徒と闘い、ゼーレの傘下にいる限り、技術の公開などあり得ない。
 
 
 
 ……偽善的なことなど、言いたくない。
 
 自分も、このNERVの独占している技術の恩恵を受ける人間の一人だ。
 
 世界を憂うよりも、明日の生活の方が大事だ。
 
 
 
 それが、人間だ。
 
 それが、自然なことなのだから。
 
 
 
 「……シンジくんは、さ……」
 
 「え?」
 
 加持が呟いた言葉に、ミサトは、聞き取れなかったかのように尋ね返した。
 
 加持は目を開くと、ベンチの背凭れにゆっくりと体重を預ける。
 
 ギチッ……と、木の板のこすれ合う高い音が聞こえる。
 
 「壊れるわよ」
 
 ミサトが、眉を寄せて呟く。
 
 加持は空を見上げると、ミサトの言葉には特に応えることなく、声を繋げた。
 
 「……昨日の、第12使徒のことを、何か言っていたかい?」
 
 「……え?」
 
 今度は、意味を掴みかねているような口調で、ミサトは問い返す。
 
 
 
 加持は、空を見上げたままだ。
 
 
 
 「……いいえ」
 
 ミサトは、静かに呟く。
 
 
 
 「……正確に言えば、まだシンちゃんに聞いていない、というのが正しいわね。……まぁ、リツコは昨日、もう何か聞いていたはずだから……調べようと思えば、結果はすぐにわかると思うけど」
 
 「……そうか」
 
 ミサトの言葉に、加持は、ただそれだけ応えた。
 
 
 
 空が、高い。
 
 
 
 夕暮れが近づいていた。
 
 
 
 「……俺も、あの時の使徒と初号機の姿は見ていたよ」
 
 加持が呟く。
 
 ミサトは、何も言わずに、じっと……加持の言葉に耳を傾けていた。
 
 「……正直……驚いた」
 
 「………」
 
 「エヴァンゲリオン……初号機……その、力にね」
 
 「……そうね」
 
 
 
 「あんな、戻り方……するなんて……予想できるわけ、ないわ」
 
 「……まぁ……シンジくんが戻ってこれない……とは、別に思っていなかったがね」
 
 「え?」
 
 「絶対に戻ってこれると思っていた」
 
 「………」
 
 「わかるだろう?」
 
 「……シンジくんが?」
 
 「そうだ……彼が、黙って死ぬわけが無い」
 
 「………」
 
 「もしも、時間内に戻ってこなかったとしたら……それは、虚数空間の内部とこちらとでは、時間の早さが違うとか、とにかくそういうことだろうとさえ思っていた。
 
 シンジ君が、みすみす死ぬなんて、想像できない」
 
 「……そう……かも、知れない」
 
 
 
 「シンジ君は……何者だろうな」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……何者って?」
 
 「……普通の中学生だと思うかい?」
 
 「いいえ……でも」
 
 「敵だとは、俺も思っていない」
 
 「もちろんよ」
 
 「彼が敵なら……」
 
 「……?」
 
 「……とっくにNERVなんて、滅んでいるかも知れないな」
 
 「そんな……」
 
 「……否定できるかい?」
 
 「………」
 
 「彼の力なんて……俺達には想像がつかない」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……だが、それでいいのかも知れないな」
 
 「……え?」
 
 「敵に回せば、最高の脅威だが……味方であれば、これほど頼もしい存在はない」
 
 「……ただの、中学生よ?」
 
 「もう、そうとは思えないよ」
 
 「………」
 
 「彼と二人だけで話す機会が、何度かあった。……とても、子供とは思えない。
 
 アスカやレイちゃんとは違う。彼らのクラスメイトの、鈴原君や相田君、洞木さんとも当然違う。
 
 実は30歳だなんて言われても、信じちゃうね、俺は」
 
 「そんな馬鹿な」
 
 「もちろん冗談だよ。
 
 ……だが、言いたいことは、分かるだろう?」
 
 「………」
 
 「彼は……何者だろうな」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……彼に……背負わせすぎるのは、嫌だわ」
 
 「……葛城?」
 
 「いくら、大人びていても……それでも、シンジくんは中学生なのよ。子供なの。ただの……14歳の、少年なのよ。
 
 頼っていい時と、いけない時がある。
 
 私達が助けてあげられることは……できるだけ、助けてあげなければ……」
 
 「……彼が、それを望んでいるのかな?」
 
 「……え?」
 
 「今まで、彼は……どんなに辛いときにも、誰の助けも求めなかった。
 
 それは……必要ないからじゃないか?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……そんなこと……わからないわ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……きっと」
 
 「……え?」
 
 「……シンジくんを助けられるのは……子供たち、だけなのかも知れないな」
 
 「……レイのこと?」
 
 「もちろん、レイちゃんもしかり……アスカや、クラスのみんな。それに、将来仲間になるかも知れない、フォースやフィフスもそうさ」
 
 「フォースや……フィフス」
 
 「知っているか? 参号機と四号機の建造は、ほとんど完成に近い。そのうち、フォースやフィフスが選抜されることになるだろう」
 
 「………」
 
 「避けては通れない」
 
 「……2-Aから、出るのかしら」
 
 「適格者が集められているからな……可能性は、高い」
 
 「……シンジくんたちに……言い辛いわね」
 
 「彼のことだ……もう、知っているかも知れないな」
 
 「そんな」
 
 「否定は出来ない」
 
 「………」
 
 「だろ?」
 
 「……そうね……」
 
 
 
 二人は、空を見上げる。
 
 夕暮れはすでに、かなり落ちてきており、空の天辺は紺色のとばりに包まれつつある。
 
 中心に、星空のように煌めく、幾つかの光。
 
 だがそれは星ではなく、天井から生えるビル群の窓が照り返す光だ。
 
 
 
 二人の頬を、風が撫でる。
 
 
 
 バキッ。
 
 
 
 静かな沈黙を破る、鈍い、音。
 
 ミサトは見上げていた視線を下ろすと、目を瞑り……ゆっくりと首を振って、溜め息をついた。
 
 「……だから、壊れるわよって言ったのに」



三百四十三



 夜になって、ミサトは自宅に戻った。
 
 使徒殲滅の残務整理もあったが、それは大した量ではなく、明日きちんと処理すれば何とかなるだろう。
 
 むしろ、家に残してきたレイのことが心配だった。今回、シンジがいないのは禁固刑を受けているからであり、レリエルに取り込まれていたあのときの状況とは全く事情が違うが、それでも昨日の今日だ。
 
 そばにシンジの体温を感じることの出来ない状況で、レイが不安にかられているのではないか、と、心配になったのだ。
 
 
 
 青いルノー・アルピーヌA310が地下駐車場に停ると、ミサトは荷物を持って車を降り、エレベーターへと足を進めた。
 
 
 
 11階。
 
 ミサトはエレベーターホールを抜けると、そのまま自分の家に向かってつま先を向けた。
 
 最初、レイの部屋に直行しようとしたが……ふと、思いとどまって、自分の家のノブに手をかける。
 
 ロックは、開いていた。
 
 
 
 玄関に入ると、奥の居間から笑い声が聞こえてきた。
 
 ミサトは、怪訝そうに眉をひそめる。
 
 
 
 靴を脱いでミサトが中に入ると、そこにいたのは……
 
 
 
 「……わはははははははははははははははははは!!」
 
 
 
 鼻の頭に生クリームを乗せて立ちすくんでいるレイと……馬鹿笑いしているアスカであった。
 
 
 
 ミサトは、呆気にとられたように二人を見つめていた。
 
 レイは、ミサトの姿に気付いて、頭を下げる。
 
 「お帰りなさい、ミサトさん」
 
 「わははははははははははははははは! ……あ? あ、あぁあ、お、おかえり、ミ、ミサ、ミサ……わはははははははははははははははは!!」
 
 アスカもミサトの存在に気付き、声を掛ようとして失敗している。
 
 
 
 「な……なんの騒ぎ?」
 
 呆然と、ミサトが呟く。
 
 訳がわからない。
 
 暗く沈んだレイを想像していたのだが……来てみれば、ミサトを迎えたのは爆笑の渦。
 
 第一、レイは何故、あんなものを鼻の頭に乗せているのか?
 
 「料理をしていました」
 
 レイが、鼻の頭に生クリームを乗せたまま、まじめな表情で応える。
 
 アスカが、腹を抱えてヒクヒクと痙攣しながら、涙目でミサトの方を向く。
 
 「き、聞いてよ、レイったら……わははははははははははははは!!」
 
 「……わけがわからないわよ、アスカ」
 
 溜め息をつきながら、ミサトが呟く。
 
 そして、レイの方を向く。
 
 「何か、面白いことがあったの?」
 
 「わかりません」
 
 きょとん、とした表情で、レイが応える。
 
 「……その、鼻の頭に乗っかってるもののせいじゃないの?」
 
 「……鼻の頭?」
 
 
 
 レイは、人さし指で、自分の鼻の頭を撫でる。
 
 指先に移る生クリーム。
 
 レイはそれをじっと見つめて、やがて、ぺろり、と口に含んだ。
 
 「……甘い」
 
 「わははははははははははははははははは!!」
 
 そんなレイを指さして、また馬鹿笑いするアスカ。
 
 
 
 ミサトは、肩を竦めて、溜め息をついた。
 
 「アスカがこれじゃ、事情を説明してもらおうにも、無駄みたいね……レイ」
 
 「はい」
 
 「指で撫でたりするから、鼻の上がベットリよ。顔、洗ってらっしゃい」
 
 「はい、わかりました」
 
 レイは頷くと、洗面所に向かって歩いていく。
 
 「ひぃ〜っ、ひぃ〜っ……わは、わははははは!」
 
 うつぶせにしゃがみ込んで、腹を抱えてヒクヒクと痙攣するアスカの背中。
 
 ミサトは、腕組みをしながら、呆れた表情で、そんなアスカを見下ろした。
 
 「こっちは、なんかツボに入っちゃったみたいねぇ……アスカ! 汗びっしょりよ、アンタもフロに入ってくれば?」
 
 「は、はひ、はひはひ、ひひひはははは、ひへひへひひへひへ……」
 
 「ハイとイイエと、どっちだっつ〜の……」
 
 
 
 結局、アスカはフラフラとよろめきながら、同じく洗面所に入っていった。
 
 
 
 ……そして、アスカは洗面所に入るやいなや、再び爆発する。
 
 「ぅうわはははははははははは!!」
 
 椅子に座りかけていたミサトは、諦めたように溜め息をついた。
 
 「……今度は、なんの騒ぎ?」
 
 「ミ、ミサ、ミサト……レ、レイ、わはははははは!」
 
 アスカが洗面所の扉につかまり、涙を流しながら、堪え切れずに笑い死にしそうな勢いで爆笑している。
 
 その後ろに、レイが、ぬっと姿を現す。
 
 
 
 ミサトは、そのレイの姿を見て、呆気にとられてしまった。
 
 「……レイ、なに、そのカッコ」
 
 「すいません……間違えました」
 
 
 
 ……レイの体は、思いきり水を浴びてびしょびしょになっていた。
 
 
 
 ミサトは、腕を組んで、呆れたように肩を竦めた。
 
 「どう間違えたらそうなるのよ……」
 
 「……わかりません」
 
 「……いいからレイ、あなたもアスカと一緒におフロ入っちゃいなさい」
 
 「……他人に裸を見せては」
 
 「女のコ同士はいいの!」
 
 「……はい、わかりました」
 
 
 
 ……数分後には、風呂場から、エコーのかかった話し声と水音が聞こえてきていた。
 
 
 
 ミサトは、着替えもせずに居間の椅子に腰を下ろすと、どっと脱力感に見舞われていた。
 
 テーブルの上に突っ伏し、額を天板にゴツン、とつける。
 
 「なんだってのよ、まったく……」
 
 誰に言うとも知れず、ブツブツと呟く。
 
 
 
 心配して帰ってみれば、そんな不安など吹き飛ばすような明るい空気。
 
 不謹慎ながら、まるで損をしたような気分だ。
 
 
 
 ミサトは、視線を風呂場に向ける。
 
 
 
 内容までは分からないが、終始、明るいアスカの話し声が聞こえる。
 
 時折、それに応えるような、レイの声。
 
 
 
 「……なんか、いつの間に、あんなに仲良くなったのかしらね」
 
 ミサトは、微かに……苦笑ともつかぬような微笑みを浮かべて、呟いた。
 
 先日までは、やはり……二人の間には、どこか、壁のようなものが感じられた。
 
 もちろん、アスカはレイを気遣っていたし、レイもアスカには随分と心を開いていたが、それでも……どこか、距離のようなものを感じさせていた。
 
 だが、いま……それを、殆ど感じない。
 
 
 
 今までのアスカは、レイと二人で風呂に入ることなど、進んではしたがらなかっただろう。
 
 もちろん、レイとお喋りを楽しんだり、ましてや馬鹿笑いをする姿など、想像もつかない。
 
 レイにしても、そうだ。もともと心を開きにくいレイが、アスカと二人でお喋りをしていたとは、正直驚きだ……もちろん、お喋り自体を今までしていなかったとは言わないが、それにしても、空気が違う。
 
 
 
 あの時、何かあったのだろうか?
 
 
 
 シンジを待っている間の、数時間に渡る長い間……レイとアスカが、二人きりでずっと一緒だったことは、NERVも把握していた。
 
 本部にいるチルドレンの動向は、詳細は例え分からなくとも、所在くらいは常に把握されている。
 
 シンジが帰還したとき……言い換えれば、今まさにシンジの命が失われんとしていたときも、レイとアスカは一緒だった。
 
 間違いなく……
 
 ……崩れかけていたレイの心を支え続けたのは、他ならぬ、アスカだった。
 
 
 
 あの二人の間に、確かな絆が築かれつつあった。
 
 それを、ミサトはハッキリと感じていた。
 
 
 
 やがてパジャマ姿で風呂から上がってきたレイとアスカは、冷たい麦茶の入ったコップを片手に、テーブルを囲んで座っていた。
 
 
 
 「もう、レイったらずっとアタシの胸ばっか見てんのよ」
 
 おかしそうに、アスカがミサトに語りかける。
 
 「アスカ……胸、大きい」
 
 レイが、両手でコップを持ったまま、ボソリ……と呟く。
 
 ミサトは、やれやれという表情で、レイを見る。
 
 「レイ、まだ気にしてたの?」
 
 「………」
 
 「シンちゃんに、ちゃんと聞いたの?」
 
 「……ハイ」
 
 ポッ、と、頬を染めるレイ。
 
 「……碇君は……私が……」
 
 そのまま、言葉が小さくなって消えてしまう。
 
 首まで真っ赤だ。
 
 「ハイハイ」
 
 アスカが、面白そうに片手をヒラヒラとさせてみせる。
 
 
 
 「そう言えば……さっき、何、笑ってたの?」
 
 ミサトが、アスカに尋ねる。
 
 「ああ……それがさぁ〜」
 
 アスカが、くるりとミサトの方に向き直る。
 
 「さっき、レイがボウルでガシャガシャとクリームを泡立ててたワケ」
 
 「クリーム?」
 
 「そ。んで、アタシが途中で声かけたら、レイがこっち振り向いて……そしたら……わははは」
 
 
 
 「……それ、そんなに面白い?」
 
 ミサトが、怪訝な表情でアスカを見る。
 
 
 
 「いや、なんちゅうの、ホラ……ツボに入るってヤツ? いや、絶妙のタイミングでさぁ〜」
 
 またぶり返しそうになる笑いを必死に堪えつつ、アスカが言う。
 
 横に座ったレイは、良く分からないといった表情でキョトンとしている。
 
 
 
 「……何で、クリームなんか泡立ててたの?」
 
 ミサトが、諦めたように話題を変えた。
 
 
 
 「……ケーキを作っていたんです」
 
 レイが、ミサトの方を向いて応えた。
 
 「ケーキ?」
 
 「そ」
 
 アスカが、レイの言葉の後を継ぐように、言う。
 
 「こないださ、誕生会をやろうとかってハナシになったワケ」
 
 「誕生会? 誰の?」
 
 「アタシたちのよ」
 
 「……アタシたち?」
 
 「アタシと、レイと、シンジ」
 
 
 
 「……え? だって……アスカ、誕生日、12月生まれじゃなかった? シンちゃんは6月だし……え〜と……あれ、レイはいつだっけ」
 
 「6月6日です」
 
 レイは、即答した。
 
 ミサトはレイの顔を見る。
 
 「……え?」
 
 「6月6日です」
 
 もう一度、繰り返す。
 
 
 
 アスカが、微笑んで……静かに、呟く。
 
 「……6月6日よ、ミサト」
 
 
 
 「……あ……ああ、うん……そう……そうか、うん、わかった」
 
 ミサトが、やや置いて……ようやく合点したように頷いた。
 
 「それで、予行演習にケーキでも作ってみようかって話になったわけ」
 
 アスカが、言葉を紡ぐ。
 
 
 
 「え? あれ? ……でも、どっちにしても、時期が全然違うじゃない、三人とも」
 
 ミサトが、首をかしげる。
 
 
 
 「……だってさ」
 
 アスカが腕組みをして、憮然な表情で呟く。
 
 「シンジ、誕生日だって言わないんだもん」
 
 「え?」
 
 「6月6日に、よ。アタシだってもういたのにさ。言わなきゃわかんないっての」
 
 
 
 アスカの言葉を聞いて……数拍、置いた後……ミサトは、思わず苦笑してしまった。
 
 あの時期のアスカに、シンジが誕生日を教えたとして……アスカが祝ってくれるとは思えない。
 
 ……と、当然シンジも考えたに違いない。
 
 もともと、シンジはそういうことを自分から言いだすタイプではないし、あの時、教えなかったとしても、それは仕方のないところだろう。
 
 
 
 「だから、遅ればせながら、誕生会をやろうって事になったのよ」
 
 
 
 「……なるほど」
 
 ミサトは、ようやくと合点が行ったように頷いた。
 
 「それに……レイは、14回分、祝わなくちゃいけないしね」
 
 「え? ……あ……ああ、そうね、うん……わかるわ」
 
 
 
 ミサトは……静かに、心のうちに……暖かいさざ波が広がっていくのを感じていた。
 
 
 
 「ま、ケーキは、実際にはうまくいかなかったんだけどさ。でも、まだ練習の時間はあるしね」
 
 「そりゃ、料理の途中にあんなに笑ってたら、ムリよ」
 
 ミサトは苦笑する。
 
 「ミサトに言われたくないわね」
 
 「なんでよ」
 
 「ミサトは、真面目に作ったって絶対に毒しか作れないんだから」
 
 「……アンタねぇ〜〜」
 
 「料理くらいできないと、加持さんに捨てられるわよ」
 
 「……加持は、それくらいじゃ捨てません」
 
 「あららぁ」
 
 アスカが、少しだけ驚いたように顔を上げる。
 
 「認めちゃってるワケね」
 
 「……いいでしょ」
 
 「いいわよ、そりゃ」
 
 ニコニコと、アスカは微笑んだ。
 
 
 
 「おめでと」
 
 「……ありがと」
 
 
 
 ……昼間の、加持の言葉を……ゆっくりと、思い出す。
 
 
 
 『……シンジくんを助けられるのは……子供たち、だけなのかも知れないな』
 
 
 
 ……本当に
 
 ……そうかも知れない……
 
 
 
 ミサトは、ゆっくりと、そう思った。



三百四十四



 夜……
 
 レイとアスカが自宅に帰った後、ミサトは、ベッドの中で……今日のことを思い出していた。
 
 
 
 お喋りの途中で、ずっと気にかかっていたことを、意を決してレイに尋ねた。
 
 「……シンちゃんが、禁固刑になって、心配?」
 
 そう……
 
 帰ってくるときにも、ずっと不安だった。
 
 レイは……平気だろうか?
 
 
 
 アスカは、笑いながら口を開いた。
 
 「そうそう。レイが心配で堪んないって言うからさ、しょうがないからアタシが付き合ってやってるってわけよ」
 
 「そんなこと言ってない」
 
 レイが、ボソッと応える。
 
 
 
 レイは、両手に持ったコップを、そっと机の上に置いた。
 
 中身の麦茶は、半分ほどなくなっている。
 
 その、置いた衝撃で微かに広がった波紋を目で追いながら……レイは……ゆっくりと、呟いた。
 
 
 
 「……心配、です」
 
 
 
 「………」
 
 ミサトは、口を開くことが出来なかった。
 
 何と、声を掛けてやるのが適当か、咄嗟に分からなかったからだ。
 
 
 
 だが……レイは、一度、目を瞑り……もう一度、ゆっくりと開く。
 
 「……でも」
 
 
 
 「……待てます、から」
 
 
 
 ベッドの中で、ミサトは、ゆっくりと目を閉じた。
 
 何と、素晴らしい言葉だろう。
 
 シンジを、信じているからこそ……出てくる言葉だ。
 
 自分には……
 
 ……言えない。
 
 
 
 彼らなら、大丈夫だ。
 
 そっと、見守って……でも……
 
 
 
 ……倒れそうなときには、手を差し伸べることが出来るだろう。
 
 その手を、自然に握ることが出来るだろう。
 
 
 
 ……そういう空気の中に、あの三人は、いるのだ。
 
 
 
 ……もう一つ、気付いた事実に、ミサトは暖かい気持ちになっていた。
 
 ……あまりにも……自然で……
 
 その変化に、最初、気付かなかったほどだ。
 
 それほど、何の気負いもなく……訪れた、変化だった。
 
 
 
 レイ。
 
 
 
 アスカ。
 
 
 
 ……あの二人は……お互いを、名前で、呼びあっていた。
 
 
 
 ……名前で……
 
 
 
 ……呼びあっていたのだ……。



三百四十五



 シンジは、ベッドの中で……ひとつの、決意をしていた。
 
 いずれ、訪れることだった。
 
 それしかない……と、そっと思っていた。