第七十二話 「感覚」
三百三十八



 暫しの間、シンジとレイは……LCLと涙に濡れながら、お互いの体を抱き締め合っていた。
 
 
 
 特にレイにとって、その温もりは……他に代えがたい、例えようのない喜びだった。
 
 ……当然だろう。
 
 二度と戻って来ないかも知れなかった、最愛の少年。
 
 その少年が、今……再び、自分の腕の中にいる。
 
 ……自分の体を、しっかりと力強く抱き締めているのである。
 
 
 
 危うく暗がりに取り込まれてしまいそうだった自らの心を満たすには、充分すぎるほどの温もりだったのだ。
 
 
 
 もう、二度と、この温もりを手放したくはない。
 
 愛しくて、愛しくて、堪らない。
 
 この世界の誰よりも……愛している。
 
 
 
 そしてそれは、勿論……シンジにとっても同じだった。
 
 ……レイの温もりを、体中の細胞で感じ続けていた。
 
 
 
 そうして抱き締め合っている二人の上に、待機しているNERVのヘリコプター。
 
 レイを降ろしたロープをぶら下げたまま、側面の扉を大きく開いてホバリングしている。
 
 ヘリコプターの内部には、向かい合わせに6人分の座席。
 
 その座席に座って、開いた扉から二人を見下ろしているのは、葛城ミサトと惣流・アスカ・ラングレーである。
 
 
 
 自分の膝に肘を突いて、半目で下を見下ろしている、アスカ。
 
 その表情は曖昧で、感情までははっきりとは分からない。
 
 高度があるために風が強く、亜麻色の長い髪が激しく煽られているが、アスカはそれには全く気を払わない。
 
 
 
 「……すごい風」
 
 ミサトが、顔にかかる長い黒髪を掻き上げながら、独り言のように呟く。
 
 
 
 アスカは、応えない。
 
 
 
 そんなアスカに、ミサトが面白そうに声をかけた。
 
 「アスカ」
 
 「……なによ?」
 
 アスカは、頬杖を突いたまま、目だけをミサトの方に向ける。
 
 ミサトは片手を挙げると、壁についている直径5センチ程の丸い蓋を、カンカン、と叩いてみせた。
 
 「伝声管、あるわよん」
 
 「……なにが?」
 
 「ロープの先に繋がってるわよ……アスカも、結構、心配してたでしょ。何か言ってあげたら?」
 
 
 
 「……ミサトこそ」
 
 アスカは、ミサトの言葉に、ふん……と息をついて言う。
 
 ミサトは、黙って肩を竦めて、笑ってみせた。
 
 アスカも、視線だけでそれに応える。
 
 そして、再び、眼下の二人に目をやる。
 
 
 
 未だ、抱き締めあっている二人。
 
 エヴァの頚椎付近にいる二人にも、相当強い風が当たっている筈だが……二人は、それに気付いてすらいないのかも知れない。
 
 
 
 「……ま……いま、あの二人をジャマするような、無粋なマネはしたかぁないわよ」
 
 アスカは、呟くように言う。
 
 そして、一拍置いてから……
 
 ……そっと、微笑んだ。
 
 
 
 アスカは、穏やかな心持ちで、思う。
 
 ……レイが、どれほどの恐怖の中にいたのか、知っている。
 
 そして……今、どれほどの、歓びの中にいることか。
 
 
 
 言葉の上だけでなく、二人を邪魔する気はなかった。
 
 
 
 「まあ……それについては、私も、同感ね」
 
 ミサトも、微笑んで、言う。
 
 そして、溜め息。
 
 
 
 「……とは言っても、作戦部長としては、ヒトコト言っておかなくちゃ……」
 
 
 
 アスカは、突いていた肘を外すと、椅子に座ったまま伸びをする。
 
 「……って、ナニ? 作戦を無視した独断行動を諌める、てヤツ?」
 
 「ま、そういうことになるわね」
 
 肩を竦めて、ミサトが応える。
 
 
 
 ……実際には、シンジは正しい行動を取ったのかも知れない……という考え方も、ミサトには、あった。
 
 そう……
 
 間違いなく、あの時点で……自分たちには、最早いかなる手段も残されてはいなかった。
 
 たった一つの可能性だったN2爆弾での使徒殲滅に失敗し、あとは為す術が無かった。
 
 
 
 しかし、シンジは……確かに、あの八方塞がりの状況を打破し、破る術が無いと思われた使徒を、殲滅した。
 
 そして、無傷で帰還したのだ。
 
 
 
 ……だが、それでも……何かしらの、事前の通告は欲しかった、と、ミサトは思う。
 
 何をするつもりなのか……事前に、知っていたら……。
 
 
 
 「信じて」の一言だけで、信じろというのも虫がいい話だ。
 
 
 
 こちらには状況が全くわからず……また、実際、シンジも死の寸前まで戻って来なかったのだ。
 
 「内部電源の限界まで戻って来ない」ということも、シンジにとって当初から計画のうちであったと言うのなら……
 
 ……それを前もって知らせておいて欲しかった。
 
 
 
 ましてや、レイのことを思うと……シンジの行動は、やはり身勝手さを感じる。
 
 あそこまで、レイを不安に陥れなければ、状況を打破出来なかったのか?
 
 シンジが戻ってくるまでにレイが潰れてしまわなかったのは、僥倖と言えるのではないか。
 
 ……どちらに転んでも、おかしくはなかったのだ。
 
 
 
 「シンジは、さ……」
 
 アスカが、ボソリ、と呟いた。
 
 ミサトが、アスカを見る。
 
 アスカの髪の毛が、風になびいて揺れる。
 
 
 
 アスカは、ただ、じっと……二人を見つめている。
 
 
 
 「……抱え込み過ぎんのよね」
 
 
 
 「……そうね」
 
 ミサトも、小さく、呟いた。
 
 
 
 シンジが、自分たちの知らない何かを、背負っているのは間違いが無かった。
 
 何が、と言われるとそれは分からないのだが、とにかく、「何か」……である。
 
 しかも、とびきり重い。
 
 
 
 自分たちでは、頼りにならないのだろうか?
 
 それは、シンジを心配する心と同時に……微かな哀しみと、微かな悔しさとを、孕む。
 
 ……もう少し、自分たちにも、頼ってくれればいい。
 
 それで、シンジの体が軽くなるのなら……。
 
 
 
 ……だが、それを自分たちが強制することは出来なかった。
 
 シンジの背負うものの「重さ」……それを、結局自分たちは、知らないからだ。
 
 その重さを知っている唯一の人間がシンジであるからこそ、その判断は、シンジ以外の人間には出来ないことだった。



三百三十九



 暫くして、シンジとレイの二人は、ようやく感動の喜びを落ち着かせることが出来た。
 
 一度、体を離した後……目を見合って、どちらからともなく、幸せそうに微笑みあう。
 
 
 
 シンジはレイの腰を抱くと、頭のすぐ上の辺りにぶら下がっている輪を手繰り寄せる。
 
 レイは、黙ってシンジの首に腕を回した。
 
 シンジは二人の腰に輪を固定すると、プラグスーツの手首のボタンを押した。
 
 
 
 その合図に合わせて、ロープは、するすると二人を吊り上げていく。
 
 
 
 ウインチが完全に昇り切ると、レイの腰を抱いた状態で、シンジはヘリの中に足を踏み入れた。
 
 
 
 「おかえり、シンジ」
 
 アスカが、ニコリともせずに、じろっとシンジを睨んで呟く。
 
 「あ、あぁ……た、ただいま」
 
 その物言わぬ重圧に、思わず腰を引きながら、シンジは曖昧に微笑んで応える。
 
 ミサトは扉を掴んでスライドさせて閉じ、壁に掛かったマイクに声を掛けた。
 
 「ファースト、サード、回収終了。本部への帰還をお願いします」
 
 『了解』
 
 スピーカーから雑音混じりのくぐもった声が応え、併せてヘリがゆっくりと進路を転回していく。
 
 
 
 アスカは、シンジの顔を睨んだまま、ぼそっと呟いた。
 
 「座ったら?」
 
 「あ……うん」
 
 シンジは、慌てて、アスカとミサトが座る座席の向かい側に腰を降ろす。
 
 シンジの首にしっかりと抱きついたレイも、一緒にその隣に座った。
 
 アスカは、そんなシンジをじーっと睨んでいる。
 
 そして、一言。
 
 「……何か、言うことがあるんじゃないの?」
 
 
 
 「あ……えぇと……その……勝手なことをしてごめんなさい」
 
 シンジは、アスカに言われて、大人しく頭を下げた。
 
 
 
 「……よろしい」
 
 アスカは、そう言うと、やっとシンジに微笑んでみせた。
 
 「……ホントはひっぱたいてやりたいトコだけど、アンタの彼女がもうしちゃったみたいだから、今回は特別に許してやるわ」
 
 「……あ、ありがと」
 
 見てたのか……
 
 ……と思うと、ずっと二人で抱き締め合っていたのも当然見られていたわけで……妙に恥ずかしい。
 
 お礼を言うのが適当なのかよくわからない状況で、シンジはしかし……それでもホッとしたように、若干赤くなりながら、微笑んで応えた。
 
 
 
 「シンちゃん」
 
 
 
 「は、はい」
 
 ミサトの声に、顔を向けるシンジ。
 
 ミサトは、少しだけ微笑んだような表情で、シンジを見る。
 
 「お疲れサマ……おかえり、シンちゃん」
 
 
 
 「……すいませんでした……ミサトさん」
 
 「まぁ……謝られるくらいのことは、したかもね。
 
 ……とりあえず、使徒の殲滅は、おそらくシンちゃんのおかげだと思うわ。でも、命令違反だし、それに……事前に行動を予告しておくのならともかく、余りにも独断専行です。
 
 先に決めてきたけど、罰として禁固3日。あと、詳しい事情をリツコが聞きたがってたわよ」
 
 「……わかりました、すいません……」
 
 
 
 罰は、何かしら、受けることになるだろうと思っていた。
 
 ……前回、同じようにシンジは虚数空間に取り込まれてしまったが、罰は受けなかった。
 
 ……だがそれは、取り込まれるまでの経緯が違うからだ。
 
 前回もシンジの独断専行がきっかけではあったが、その後のことは、半ば事故のようなものだ。
 
 それに比べれば、今回のことは、ずっと重い。
 
 自分で走って、自分の意志で飛び込んだのである。
 
 
 
 禁固程度の刑であれば、慎んで受けなければいけない。
 
 
 
 リツコが話を聞きたがっている、というのも、当然と言えば当然だ。
 
 どうやって使徒を殲滅したのか。
 
 シンジはその方法を知っていたに違いない、とリツコが思うに足る状況でもあるし、説明を求められずにはいられないだろう。
 
 
 
 何と言おうか?
 
 
 
 「……ど〜でもいいけど……ファースト、アンタ……暑っ苦しいから、離れたら?」
  
 シンジの思索を分断するように、アスカは、半ば呆れたような口調で呟いた。
 

 
 ……レイは、しっかりとシンジの首に両腕を回して抱きついていた。
 
 椅子に座ってなお、隣に座るシンジに抱きついている体勢は、まぁ、普通ではあまりお目にかかる状態ではなく……傍目に見ても、アスカの言うとおり「暑苦しい」。
 
 もちろん、レイはそんなことは考えてもいないだろうが。
 
 
 
 「イヤ」
 
 レイは、アスカの方に顔だけ向けると、きっぱりと言い放った。
 
 シンジは、どう言っていいか分からず、ただぎこちない表情で笑うのみだ。
 
 
 
 アスカは、肩を竦めると、溜め息をついて……微笑んだ。
 
 あまりにも分かりやすい、ストレートな答え。
 
 こう言うだろうな、と予想した、そのまんまの、答えだ。
 
 
 
 嬉しいんだろうな……と思う。
 
 それに、もしかしたら……シンジから離れるのが、怖いのかも、知れない。
 
 
 
 「……でもアンタ、シンジは本部に戻ったら、そのまま禁固よ」
 
 ニヤニヤしながら、アスカが言う。
 
 「せっかく愛しの碇君に再会したのに、また3日間、お預けねぇ」
 
 
 
 「……大丈夫。平気、だもの」
 
 
 
 「……へぇ」
 
 アスカが、少しだけ眉を上げて、レイの言葉に反応する。
 
 ミサトも、目を細めてレイを見た。
 
 ……シンジと離れていたこの十数時間が、彼女を強くしたのだろうか?
 
 不安な中で、シンジと離れていても、耐えられるように……
 
 
 
 ……と思っているところに、レイが、そのまま言葉を被せた。
 
 
 
 「……私も、一緒に独房に入るから」
 
 
 
 「……は?」
 
 アスカが、咄嗟にレイの言葉の意味を咀嚼出来ずに、あっけに取られたような表情でレイを見た。
 
 ……もちろん、シンジもびっくりしてレイを見る。
 
 ミサトが、呆れたような表情で口を開いた。
 
 「レ、レイ、あのね……禁固刑は、一人で独房に入る決まりなのよ」
 
 「碇君と離れたくありません」
 
 きっぱりと、全然理由になっていない理由を言うレイ。
 
 「そうは言ってもねぇ……それは、ムリよ」
 
 「……では、私も禁固刑にしてください」
 
 「……レイは罰を受けるようなことはしてないでしょ」
 
 「碇君を助けられなかった」
 
 「……そんなの、全員そうだけど……」
 
 「禁固刑にしてください」
 
 「……それはいくらなんでも無理よ、レイ。それに、もしレイが禁固刑になっても、それは、別の独房になるわよ」
 
 「……それはイヤです」
 
 「イヤです、って言ってもね〜」
 
 
 
 アスカが、半目の視線をレイに向けて、口を挟んだ。
 
 「大体……ファーストと二人きりの禁固刑なんて、シンジにとって、ご褒美になっても、罰にはならないじゃない」
 
 アスカにそう言われて、思わず顔を赤くするシンジ。
 
 レイは、きょとんとした顔をしている。
 
 
 
 シンジは、少し赤い顔のまま……慌てたように、レイに向かって口を開いた。
 
 「あ、綾波……その……やっぱり、まずいよ」
 
 「………」
 
 「決まりもあるし……罰を受けるようなことをしたのは僕だけだし」
 
 「………」
 
 「何も悪くない綾波を、付き合わせるわけにはいかないよ」
 
 「………」
 
 「僕が出てくるまで、待っててよ……ね」
 
 「………」
 
 
 
 「……うん」
 
 しぶしぶ、という感情を、表情や言葉だけでなく体中からオーラのように発しながら、かなりの時間を置いてレイは肯いた。
 
 ミサトとアスカは、そんなレイを、微笑みと苦笑を半分ずつにしたような表情で見つめていた。



三百四十



 本部に戻って、シンジはすぐに、医療室で精密検査を受けた。
 
 体力が若干低下し、長時間食事を取らなかったことで空腹を覚えてはいたが、それ以外に目立った障害は見られなかった。
 
 生命維持装置の限界まで達した割に、酸素不足や、不清浄なLCL摂取による体調悪化などの兆候もなかったようだ。
 
 
 
 シンジはプラグスーツから制服に着替えた後、独房に移動した。
 
 
 
 重い扉が閉まると、独房の中は、かなり暗くなる。
 
 小さなスタンドがあるのだが、この光量は大したことはなかった。
 
 
 
 独房は、6畳ほどの小さな空間だった。
 
 壁に収納できる、小さな椅子兼用のベッド。金属板に薄い布を敷いたようなもので、お世辞にも寝心地が良さそうには見えない。
 
 食事などを取るための、小さな机。これも壁に収納できるタイプだ。先程のスタンドは、この机に固定されている。
 
 隅に扉があり、開けるとそこはトイレだった。監視カメラが付いているのには驚いたが、考えてみれば仕方のない処置だろう。
 
 トイレの扉の、向かい側の壁に、小さな流し場。
 
 四方の壁や天井や床は、鋲の見えない一枚の金属で覆われていた。
 
 
 
 シンジは知らないが、もともと独房には幾つかのランクがある。
 
 シャムシェル戦でシンジが入れられた独房や、熊谷ユウが入った独房、それに今回のものなどは、「逃亡の意志ナシ」というランクに位置するものだ。
 
 捕虜や、その他のもっと問題の多い戦犯を禁固する際には、これ以上に厳しい独房に入れられることになるだろう。
 
 
 
 シンジは、とりあえずベッドに横になった。
 
 
 
 何もすることがない、ということもあるが……横になってすぐ、シンジは睡魔に襲われた。
 
 虚数空間で眠りまくったような気はするが、疲れが溜まっているような不快感があるのも事実だ。
 
 目を閉じると、すぐに、シンジは眠りの海に沈みこんで行った。
 
 
 
 夢の中で、シンジは、母の腕に抱かれていた。
 
 暖かな想い。
 
 ほとんど物心もなく、幼すぎるシンジには微かにも覚えのない母の腕であったが、今は、顔が見えなくても、はっきりと母であることを感じることが出来た。
 
 
 
 ゆるやかに揺れるゆりかごのように、母の腕は、心地よかった。
 
 幼いシンジは、腕の中で眠っていた。
 
 
 
 何が違うのだろう?
 
 
 
 シンジは想う。
 
 
 
 そして、思う。
 
 
 
 違う?
 
 
 
 何が?
 
 
 
 ……何か、違うのか?
 
 
 
 ……一時間ほどして、シンジは、低いブザー音に起こされた。
 
 半覚醒状態の頭を振って、上体を起こす。
 
 今、見ていた夢のことは、すでに覚えていない。
 
 
 
 一拍置いて……そのブザーが、呼び出しのインターホンだと気付く。
 
 「……はい、あの……どなたですか?」
 
 シンジが、鉄の扉に向かって問いかけた。
 
 
 
 「赤木です。……入るわよ」
 
 扉の向こう側から聞こえてきた答えに、シンジの脳細胞は、一瞬にして冷却された。
 
 
 
 慌てて体に掛けていた薄い布を剥ぐと、置きあがってベッドの隅に座り直す。
 
 「あ、えぇと……どうぞ」
 
 シンジの言葉に呼応するように、扉が鈍重な金属音を立ててスライドした。
 
 ゴ……ォ……ォン……。
 
 やがて開いた扉の向こう側で、通路の電灯の明かりを背に立っているのは、赤木リツコだ。
 
 右腕に、書類のようなものを抱えている。
 
 彼女が独房に足を踏み入れると、併せて天井の明かりが小さく点った。
 
 背後で、扉が再び、閉じる。
 
 
 
 シンジは何も言わず、部屋の中を歩いて行くリツコを目で追っていた。
 
 リツコはシンジの前を横切ると、奥の、壁に据えつけられた机の向こう側に回り込んで、バサッと書類を広げた。
 
 
 
 「分かっているとは思うけど、幾つか話を聞かせて頂戴」
 
 リツコが、書類を繰りながら言う。
 
 シンジは頷くと、リツコの前に移動した。
 
 
 
 リツコは、右手にペンを持つと、事務的な視線でシンジを見る。
 
 「まずは、経緯の説明をして貰えるかしら」
 
 「経緯、ですか?」
 
 「そうよ。最初に、初号機ごと、虚数空間に飛び込んだのは何故?」
 
 
 
 「……N2爆弾での攻撃が失敗したので……」
 
 「当初通達されていた作戦では、失敗が確認された場合は、本部に戻ることになっていたわね」
 
 「………」
 
 「使徒を殲滅するための方策が、全て尽きたとは言い切れなかった。初号機が飛び込んでしまうと、以後の作戦は「使徒の殲滅」ではなく、「初号機の救出」に力を注がなくてはならなくなるわ。
 
 そこまで考えなかったとでも言うの?」
 
 「……あの時は、その……咄嗟のことで。他に、方法が無いと思ったんです」
 
 
 
 「……信じられると思う?」
 
 
 
 「………」
 
 「シンジ君……あなたは、自分のことが、よく分かっていないようね」
 
 「……自分のこと……ですか?」
 
 「そう。
 
 ……あなた、まさか……自分が、一介の中学生に過ぎないと、その程度に考えているわけじゃないでしょう?」
 
 「……一介の中学生だと思いますけど」
 
 「違うわ」
 
 「……エヴァのパイロットだって、ことですか?」
 
 「違う。それもそうですけど……それよりも、あなたは……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……何て説明したらいいのかしらね? ……非、人間的……と言ったら、言い過ぎかしら」
 
 「そんな……」
 
 「もう少し、理解しておくべきね。
 
 生半可な説明では、到底、納得できないわ」
 
 
 
 「……そう、言われても……うぅ〜ん……」
 
 「まぁ、そこのところは置いておくわ」
 
 「………」
 
 「勘違いしないで欲しいのよ。
 
 追及してるわけではないわ。責めているわけではないの。
 
 事実を知りたいだけ」
 
 「……そう……ですか」
 
 
 
 「話を進めるわよ。
 
 虚数空間の中であったことを、逐一報告して下さい」
 
 「あったこと……」
 
 「中は、どうだった? 人間はね、まだ、虚数空間の中に入った者はいないの」
 
 「……どう……と言うか……えぇと〜、何もないと言うか」
 
 「何もない、ね」
 
 「説明できないんですけど。何もないんですよ……う〜ん」
 
 「ああ、気にしないで。それは仕方がないわね」
 
 「すいません……」
 
 「中に入って、使徒のコアはあった?」
 
 「いいえ」
 
 「そう」
 
 「ええ……」
 
 「どういう行動を取ったの?」
 
 「行動?」
 
 「使徒の殲滅に当たって」
 
 「ああ……いえ……その……
 
 ……何も」
 
 「何も? していないの?」
 
 「できることがなかったんです」
 
 「……無計画ね」
 
 「……すいません」
 
 「……ずっと、そうしていたの? 十数時間も? 何もしないで?」
 
 「……あの……寝てました」
 
 「………」
 
 「……いや……なんか、やたらと眠くて……
 
 最初の方はそうでもなかったんですけど」
 
 「……脳の働きが鈍ったせいね」
 
 「夢を見ていた気がしますけど……よくわかりません」
 
 「そう……」
 
 「……母さんが」
 
 「……なに?」
 
 「あ……いえ……夢に、出てきた……ような……」
 
 「………」
 
 「すいません、どうでもいい話ですね」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……あの?」
 
 「………」
 
 「……リツコさん」
 
 「……それで、どうやって戻ってきたのかは分かる?」
 
 「えっ……あ、ああ、ええと……いえ……気を失ってました」
 
 「……そう……」
 
 
 
 話は、途切れてしまった。
 
 
 
 シンジが母親の話を持ちだしたのは、必ずしも意図的なものではなかった。
 
 何となく、そう言えば……確かにユイの夢を見ていたような気がする、と思い付き、思わず口にしていたのだ。
 
 ……だが、同時に、即座に打算が走ったのも、事実だ。
 
 本来、シンジが知るはずの無い、初号機の中のユイ。
 
 シンジがあの状態で「母の夢を見たような気がする」と言えば、リツコは「初号機が覚醒して、瀕死のシンジを救ったのだ」と解釈してくれるだろう。
 
 頭の回るリツコだからこそ、である。
 
 
 
 果たして、その思惑は図に当たった。
 
 リツコは、完全にユイの覚醒を知り、シンジに対するそれ以上の追求をしなかった。
 
 
 
 リツコは考える。
 
 
 
 初号機の力。
 
 ある程度は想像していたつもりだったが、それでも、無意識に低く見積もっていたようだ。
 
 「ユイ」という魂を持つことにより、初号機は、虚数空間から自力で抜け出すほどの力を発揮する。
 
 その力は、天文学的とでも言うべき、莫大な力だ。
 
 
 
 相互互換試験の際に、レイの乗った初号機が暴走したことがあった。
 
 だがあれは、「暴走」あるいは「覚醒」と言うには、ほんの小さなものに過ぎなかったに違いない。
 
 あの時は、ケイジを破壊されることもなかった。
 
 だが、初号機が、真にその力を見せるとき……。
 
 
 
 (これで、よいのだろうか?)
 
 リツコは、静かに考える。
 
 初号機。
 
 自分たちの……いや、正確にはゲンドウの道を達するのに欠くことの出来ない、重要な要素。
 
 
 
 だが、その要素は、とても人間の手に負えるようなものではないのかも知れない。
 
 
 
 (………)
 
 わかっていたことだ……と、リツコは思う。
 
 自分にとって……
 
 ……世界が滅びようと、
 
 ……人類補完計画が発動しようと、
 
 ……それは、なんの影響も及ぼさない。
 
 
 
 心は
 
 とうの昔に
 
 深い心の底に
 
 捨ててきたのだから。
 
 
 
 リツコは、目を開けた。
 
 時間にして、僅か数秒のことだった。
 
 
 
 「……詳しい話は、禁固刑を終えてから、また聞かせてもらうわ」
 
 リツコはそう言うと、書類をまとめて立ち上がる。
 
 シンジは、少々唐突とも言える終わり方に半ば面食らいながらも、慌ててこくこくと返事をする。
 
 「まぁ、3日間……大人しくしていなさい」
 
 リツコはそう言うと、シンジの前を通り過ぎた。
 
 「勝手なこと、して……すいませんでした」
 
 リツコの言葉を受けて、シンジもおずおずと頭を下げた。
 
 本来なら、最初に言うべき言葉だったのかも知れないが、今まで思い付かなかった。
 
 
 
 リツコは立ち止まると、体は前を向いたまま、首だけを少し捻じって、シンジを横目で見る。
 
 シンジは、思わず背筋を伸ばした。
 
 冷たい、視線……。
 
 「……どうでもいい、ことよ」
 
 リツコが、静かに、呟く。
 
 
 
 「……は?」
 
 「……NERVとしては、あなたを罰するけれど……私にとっては、どうでもいいこと。
 
 シンジくん。
 
 あなたが作戦を無視しようと、独断で行動しようと、どうでもいいことよ」
 
 
 
 ……むしろ
 
 ……それを期待している、と言ってもいいのかも知れないわ……。
 
 
 
 だが、それを口に出しては言わなかった。
 
 シンジは、リツコの言葉に応えることが出来ない。
 
 リツコは一瞬、シンジの顔に視線を固定した後、ふいっ……と前を向いて、扉を開く。
 
 通路の、無機質な白い光の中に足を進めて、……そのすぐ後に、重い扉は、閉じてしまった。
 
 独房は、再び暗闇に包まれた。
 
 
 
 リツコは、廊下を足早に歩いていく。
 
 彼女のハイヒールの音が、乾いた音を通路に響かせる。
 
 
 
 リツコは、じっと前を見ていた。
 
 そして、何も見ていなかった。
 
 
 
 自分の心の奥に、小さな炎が灯っていることに、リツコは気が付いた。
 
 母親を失った日に。
 
 ユイが、自分を見て笑った日に。
 
 ゲンドウが、ユイの名を呼んだ日に。
 
 レイが、人形のような瞳で振り向いた日に。
 
 
 
 消した、炎。
 
 
 
 その後……ロジックによって改めて構築した、プログラムの炎。
 
 それを、心の前面に組み上げたのは、いつ頃のことだっただろう?
 
 冗談を言われれば、少しだけ笑う。
 
 哀しいことがあれば、少しだけ哀しい表情をする。
 
 誰かが自分を侮辱すれば、冷徹な怒りの炎を見せる。
 
 
 
 これが、自分、なのだろうか?
 
 
 
 そうだ。
 
 これが、赤木リツコだ。
 
 そう、プログラムしたのは、この私の心なのだから。
 
 
 
 クールで、何事にも動じず。
 
 ちょっとだけ隙があって、でも、その隙を見せないような。
 
 感情が無いというほど無表情でもなく。
 
 心を知らないほど冷酷でもなく。
 
 頭脳と、才能と、その二つで、歩いてきたような。
 
 絶対の自信と。
 
 己への誇りと。
 
 
 
 『そう、演じてきた』
 
 
 
 それが、「赤木リツコ」という、人間だ。
 
 
 
 そう、思っていた。
 
 ずっと。
 
 ずっと……。
 
 
 
 ……シンジが、虚数空間に飛び込んだとき。
 
 私は、何を考えた?
 
 ……初号機が、信じられない姿とともに、レリエルの体内から現れたとき。
 
 私は、何を感じていた?
 
 
 
 ……魂の震えるような、興奮!
 
 
 
 体中の血液が、高揚するのが分かった。
 
 泡立つような、神経を突き抜けるような、想い。
 
 
 
 イカリ、シンジ。
 
 
 
 サード、チルドレン。
 
 
 
 ゲンドウの、息子。
 
 
 
 脆弱な、青二才。
 
 
 
 変わらない、日常。
 
 
 
 そう、思っていた。
 
 
 
 何という少年だろう!
 
 自分の想像など、どんなに積み上げても、容易く蹴散らしていく少年。
 
 小気味いいほどに!
 
 ゲンドウの手の平で、踊るはずだった少年。
 
 躍らされているのは、どちらだろう?
 
 彼は、正体を現さない。
 
 どこまでも、底など、ないかのように。
 
 
 
 笑いが込み上げてきた。
 
 抑えるのに必死だった。
 
 表情はいつもと変わらぬポーカーフェイスだったが、それはむしろ、表情を崩すと笑いだしてしまいそうだったからである。
 
 
 
 こんな経験は、初めてだった。