第七十一話 「お互い」
三百二十七



 世界は静寂に包まれていた。
 
 
 
 全天のモニタから見える周囲の情景は、漆黒の暗闇のようであり、眩しく輝く光芒のようであり。
 
 激しく蠢く世界でありながら、かつ、微動だにしない世界でもある。
 
 
 
 二度目の宇宙を、前回よりは比較的醒めた視線で、シンジは見つめていた。
 
 
 
 「……生命維持モードに移行」
 
 シンジは呟く。
 
 その瞬間、世界を映し出していた周囲の情景は、武骨なエントリープラグの内壁に変わった。
 
 電灯も落ち、プラグの中は暗闇に包まれる。
 
 10センチおきくらいに連なる小さなランプが、かろうじてシンジの四肢の輪郭を浮かび上がらせていた。
 
 
 
 ……さて、どうするか。
 
 シンジは、そっと目を瞑る。
 
 初号機は、その場で手足をジタバタすることは出来ても、どこかに移動することは不可能だ。
 
 そのことは、既に前回、実験済みだった。
 
 今……脱出・もしくはコアの破壊のために、シンジに出来ることは何もない。
 
 シンジ自身の生命が危ぶまれる段階になるまで待って、初号機が覚醒してくれるのを「祈る」しかない。
 
 
 
 目を瞑るシンジの脳裏に、レイの姿が浮かぶ。
 
 
 
 彼女が、平静を保つことが出来ているかどうか……。
 
 不安だ。
 
 
 
 レイはシンジに、非常に依存している。それは、言われるまでもなく、以前から気付いていたことだ。
 
 ……それでも最近は、以前に比べれば、自分の足で立って歩くようになってきているが……それでも……シンジを支えにして生きていることには疑いの余地が無い。
 
 今……シンジを失ってしまうかも知れないこの事態を、レイは、冷静に受け止めることが出来ているだろうか。
 
 
 
 こうするしかなかった。
 
 だが……レイを絶望の淵に追いやってしまったかも知れないことを思うと、胸が痛んだ。
 
 
 
 NERV、発令所。
 
 ……職員の詰めるそこは、重い空気に包まれていた。
 
 
 
 「初号機、反応ありません……」
 
 既に何度目になるか分からない、同じ結果を、マヤが報告する。
 
 言いながら、彼女の声は、掠れていた。
 
 ……初号機が虚数空間に取り込まれてから、2時間が経過している。
 
 状況に変化はない。
 
 シンジが何を意図して飛び込んだのかも分からないし、シンジからの連絡も当然なかった。
 
 
 
 ミサトは、腕組みをしたまま、じっと考え込んでいた。
 
 眉間に寄ったしわが、直接、自分の脳に刻み込まれていくような気がする……。
 
 
 
 リツコも、何も言わずに目を瞑っていた。
 
 
 
 発令所に、レイの姿はない。
 
 
 
 ……重い、空気……。
 
 
 
 「……なに、黙ってんのよ」
 
 アスカが、小さな声で呟いた。
 
 それは、本当に……小さな声だったが、誰も言葉を発することのないこの発令所では、全員の耳に容易に届いていた。
 
 アスカの問いに、咄嗟に応える者はいない。
 
 アスカは、もう一度、繰り返した。
 
 「……なに、黙ってんのって言ってんのよ」
 
 
 
 バンッ!
 
 
 
 アスカの足が、床を激しく叩いた。
 
 そして、声を荒げる。
 
 「何をボサッとしてんのよ! 何とかしなさいよ! 出来ないの!? シンジを……」
 
 目を瞑る。
 
 「……助けなさいよッ……!」
 
 
 
 「今、考えてるのよ」
 
 リツコが、冷ややかな声で呟いた。
 
 アスカが、顔を上げてリツコを睨む。
 
 
 
 リツコは、アスカの熱い気合いをそのまま受け流し……そのうえで……まるで、周囲よりも数度低い気温の中にその身を置いているかのように、変わらず立ち尽くす。
 
 醒めた視線をアスカに送り、口を開いた。
 
 「N2爆弾は……最後の手段だった。あの時点では、あれ以上の策は思い付かなかったのよ。
 
 初号機を救い出すと言っても……すぐに妙案は出てこないわ」
 
 「何が、最後の手段よ……結局、何にもならなかったんじゃない!」
 
 アスカが叫ぶ。
 
 
 
 分かっている。
 
 怒鳴ったからといって、何になる?
 
 リツコの言い分はもっともだ。
 
 彼女は、確かに、最善の手段を選んだ。
 
 責めるべき要因は、ない。
 
 
 
 だが、それでは収まりきらなかった。
 
 ぶつける先を失ったような、怒りと焦りが渦巻く。
 
 
 
 シンジと、レイ。
 
 二人の身を、等しく、案じる。
 
 シンジが帰ってこなければ……レイも助からないような、そんな気がする。
 
 
 
 「分析は急ピッチで進めているわ。何か新しい方法を思い付くか、それとも八方塞がりか……どちらにせよ、考えるための材料がなくては、どうにもならない」
 
 「それは……わかってるけどッ……」
 
 「アスカ」
 
 今まで口を開かなかったミサトが、初めて呟く。
 
 アスカは、ミサトを振り返った。
 
 ミサトは、腕を組んで、険しい表情で……床を見つめたまま、言葉を続ける。
 
 
 
 「……今回のことは……完全に、作戦外のことよ。正直に言えば……シンジくんが、考えなしにあんなことをしたなんて、思わない。
 
 でも……
 
 逸脱した行動を取ったことは、事実なの。責任は、彼自身にあるのよ」
 
 
 
 冷えた空気が広がる。
 
 アスカは、下唇を噛んだ。
 
 
 
 「……わ……かってる……
 
 ……わかってるわよ!
 
 ……そんなこと……
 
 ………
 
 ……バカシンジ!
 
 ……でも……でも……だからって……
 
 ほっとけないでしょ!」
 
 
 
 アスカは、バッと床を蹴ると、走って発令所を出て行ってしまった。
 
 
 
 残された部屋……。
 
 ミサトは、小さく息をつく。
 
 「……放っておく気なんて、サラサラないわ……。
 
 ……絶対に……助けなきゃ……」



三百二十八



 走って、走って、走って。
 
 アスカは、嫌なものを全て断ち切りたいかのように、目をきつく瞑って廊下を走った。
 
 しかし、心の中に蠢く黒い不安は拭われることなく。
 
 足が、止まる。



 アスカは、気が付くと医療控室の前に、来ていた。
 
 ……レイが、休んでいる、部屋。
 
 
 
 何も考えずにここまで走って来てしまったような感覚があったが、勿論、そんなわけはない。
 
 ……中にいるレイを、無意識にも、やはり気にしているのだ。
 
 自分の中に、もはやあの少女の存在が、大事な要素の一つとして根付いていることを改めて認識し、アスカは小さな溜め息をついた。
 
 
 
 レイの様子はどうだろうか、と思うと、やはり……すぱっとドアを開けるのは躊躇われた。
 
 零号機のプラグから出てきた時、レイは、震えながらも「シンジを信じているから大丈夫だ」と言ったが……そうは言っても、あれから短くとも時間が経過している。
 
 彼女が平静のままでいられるとは思い難かった。
 
 
 
 「……しっかりしなさいよ」
 
 
 
 アスカは、小さな声で呟く。
 
 レイに言うとも、自分に言うとも知れず。
 
 そして、ドアの横にあるパネルに指を置き、ドアを開いた。
 
 
 
 医療控室は、10畳ほどの、窓のない部屋だった。
 
 金属のパネルに囲まれた四角い匣……本来ならば所狭しと並んでいる医療機器は、隅の方に追いやられて纏められている。
 
 真ん中のあたりに、武骨なパイプベッド。
 
 
 
 そこに、レイが座っていた。
 
 
 
 レイは、ベッドの端に腰掛けた状態で、上半身を屈めて両ひじをひざにつき、見開いた目は自分の手だけを見つめている。
 
 顔色が青く、生来の白さと相まって、病的な辛さを感じさせる。
 
 視線に生気がない。
 
 ドアの音が聞こえているはずなのに、入ってきたアスカの方に振り向きもしない。
 
 
 
 アスカは、黙ったまま、レイの方に歩み寄る。
 
 そしてレイの側まで来ると、何も言わずにレイの隣に腰を下ろした。
 
 ギシ……と、ベッドのスプリングがかすかに軋む。
 
 
 
 レイは、自分の手を、見つめていた。
 
 
 
 アスカは、じっとレイの横顔を見つめた後……レイの手に自分の手を伸ばし、外側から包み込む。
 
 冷たい……。
 
 「ファースト」
 
 声をかける。
 
 
 
 「ファースト……しっかりしなさいよ」
 
 ドアの外で呟いた言葉を、今度は、はっきりとレイに向かって掛けた。
 
 応えはない。
 
 不安を胸中に湧き上がらせながらも、アスカは、言葉を紡いだ。
 
 「ファースト……しっかり……諦めんじゃ、ないわよ」
 
 
 
 しばしの、沈黙。
 
 
 
 やはり、返事はない。
 
 アスカは、レイの意識をこちらに向けさせようと、半ば悲壮な心持ちで……もう一度口を開く。
 
 ……その、とき。
 
 
 
 ……レイは、視線を動かさないまま……
 
 ……唇を震わせながら、掠れた声を漏らした。
 
 
 
 「……だ……いじょうぶ……
 
 ………
 
 ……だい……じょうぶ……
 
 ……だいじょうぶ……」
 
 
 
 「……ファースト」
 
 「……だいじょうぶ……
 
 ………
 
 ……碇君が……信じて、と……
 
 ……言った……もの……」
 
 「………」
 
 「……私は……碇君を……信じてる……
 
 私は……碇君を……信じてる……から……」
 
 
 
 「ずっと……待てる……から」
 
 
 
 喋るレイの瞳に、感情を読み取ることは出来なかった。
 
 声も、抑揚のない一本調子だ。
 
 
 
 アスカは、黙ってレイの手を握り締めた。
 
 胸の奥が、痛い。



三百二十九



 じっと、目を瞑っていた。
 
 そして、開く。
 
 目の前に広がるのは、エントリープラグの金属の筒。
 
 
 
 「……眠ってたのか」
 
 シンジは、静かに呟いた。
 
 
 
 虚数空間に飛び込んでから、10時間が経過していた。
 
 内部電源が完全に切れるまで、あと、5〜6時間というところだろう。
 
 
 
 何も、することがなかった。
 
 退屈極まり無かった。
 
 そして、不安だった。
 
 
 
 時間が経てばもう少し慌てるかと思っていたのに、大して自分は取り乱さない。
 
 ……これで、母に、覚醒を働き掛けることが出来るだろうか?
 
 
 
 「何も出来ない……んだ」
 
 シンジは、もう一度、目を閉じた。
 
 「……間違っていたのか……無謀だったのか? これじゃ、ダメなのか……」
 
 呟き。
 
 「……母さん……答えて……」
 
 そして、再び、眠りに落ちる。



三百三十



 「……なにか、思い付いた?」
 
 ミサトが、リツコの背中に声をかけた。
 
 発令所の隅で、机の上に大量の書類を広げていたリツコは、振り返らずに黙ってゆっくりと首を振った。
 
 「……そう」
 
 ミサトは、小さく溜め息をつく。
 
 
 
 リツコは、手許にあった書類をめくると、一度、息をついて……小さな声で呟く。
 
 「……N2爆弾が、虚数空間に干渉する、唯一の手段だった。
 
 それを失ってしまった後では、代替の物を考えたくても、お手上げだわ」
 
 「………」
 
 「それに、きっと……N2爆弾があっても、ダメね。さっきの、爆弾の投入の結果を見るかぎり、大した効果は見込めないわ」
 
 「……ポジトロン・ライフルは? 日本中の電気を使ったら、駄目なの?」
 
 「威力はそこまでのものじゃないわ、あれは。それに、爆発力というよりは、指向性のある兵器だから……中にいる初号機を撃ち抜くことは出来ちゃうかもしれないけど、サルベージするのは無理ね」
 
 「……そうかぁ……」
 
 
 
 リツコは、手に持っていた書類を、黙って棚の上に置いた。
 
 前を見つめたまま、椅子に座り直し、腰を沈める。
 
 
 
 ミサトは、メインモニタに視線を向けた。
 
 そこには、虚数空間の海が、ただ、黙って広がっている。
 
 
 
 「……シンちゃん、なんで……飛び込んだのかしら」
 
 ミサトが、ポツリ、と、呟いた。
 
 リツコが、ミサトの方に視線を向ける。
 
 ミサトは、沈痛な面持ちで、言葉を繋げる。
 
 「だって……考え無しに飛び込むなんて思えないわ。余りにも、行動が突拍子もないし……それに……シンちゃんが、レイを置いて自殺なんてするわけないもの」
 
 「自殺、とは、私も信じられないわね」
 
 「でしょ……? しかも、最後に『信じて』なんて言ったのよ。戻ってくる気がある、勝算もある、そういうことじゃないの?」
 
 「……そうかも知れないわ。でも……どうやって?」
 
 「………」
 
 「……想像してみても……シンジくんに、何かできるとは思えないわ。
 
 虚数空間の内部から、外部に干渉するためには、膨大なエネルギーが必要なのよ。エヴァに、そこまでのパワーは見込めない」
 
 「……そう……そうよね……でも……」
 
 「………」
 
 「……信じたくなってしまう……だって……他に、方法が無いんだから」
 
 「……そうね……」
 
 
 
 ミサトの言いたいことは分かる。
 
 今までの、幾度も自分たちの予想を覆してきた、シンジの行動。
 
 今回も、逆転ホームランがありうるだろうか?
 
 
 
 (初号機の中の彼女が……黙っていないかも知れない)
 
 リツコは、静かにそう思った。
 
 だが、例え彼女が目覚めても……虚数空間から飛び出せるような力は初号機にはない、と、思う。



三百三十一



 「……濁ってきた」
 
 シンジは、呟いた。
 
 それは、一瞬の覚醒で……また、再び眠りに落ちていく。



三百三十二



 「……シンジは、事前になんか言ってた?」
 
 沈黙を破って……アスカは、静かに……レイに話し掛けた。
 
 
 
 シンジの話を、自分からするべきかどうか……アスカは、悩んでいた。
 
 だが、この数時間の間……レイは最初のわずかな会話以来、ほとんど何も反応を示さない。
 
 全然違う話をして気を紛らわせようかと思ったが、むしろ、ずっとシンジの話をしているほうがレイの感情に働き掛けられるかも知れない、と思ったのだ。
 
 
 
 レイは、しばらく、何も応えなかった後……
 
 ……表情を殺したまま、微かに首を振った。
 
 「そうかぁ……何も言ってなかったのか……」
 
 アスカは、落胆の表情を浮かべる。
 
 
 
 ……そのまま、再び……沈黙が訪れようとしたとき。
 
 
 
 「……出撃の……前……」
 
 レイが、急に呟いた。
 
 「え?」
 
 アスカが、驚いてレイを見る。
 
 先ほどの会話から、実に、二度目の言葉だ。
 
 レイは、アスカの驚きの表情にも全くの無反応なまま、言葉だけを紡いだ。
 
 
 
 「……何か……するつもり……と、言ってた……」
 
 
 
 「え……そうなの? 何を?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……ファースト?」
 
 「……何も……」
 
 「……そう」
 
 「……言えない……って……」
 
 「………」
 
 
 
 アスカは、そっと……心の中で、レイの言葉を反芻した。
 
 飛び込むこと……それがシンジの作戦だったのだとしたら、それは、確かに……事前にレイには言えないかも知れない。
 
 レイにそれを告げて、止められずに済むとは思えない。
 
 
 
 (でも……だからって……
 
 ……もう少し、うまくやりなさいよ、シンジ!!
 
 ファーストが……不安になるとか、思わなかったわけ!?)
 
 心の中で悪態をついた。
 
 いや、思わなかったわけはないだろう。
 
 それでもどうにもならなかったのだ。
 
 だが、言い様のない苛立たしさが篭る。
 
 
 
 レイの言葉は、そのまま途絶えてしまった。
 
 ずっと黙っていたレイの言葉を再び聞いたことで、とりあえず、まだ……レイの心が保たれていることは確認できたが……
 
 ……今、シンジの話題を持ち出したことが、成功だったのかどうか、よく分からない。
 
 恐怖を、余計に掻き立ててしまったのではないか……と、アスカは不安になる。
 
 
 
 レイの顔色は相変わらず真っ白で、体も冷えたままだった。
 
 
 
 「コーヒーでも飲む?」
 
 アスカは、明るい口調で言う。
 
 暗い声を出すのが、怖かった。
 
 「アタシが淹れてやるなんて、そうないんだから、感謝しなさいよ」
 
 ニコ、と笑ってみせる。
 
 
 
 「………」
 
 レイは、何も返事をしない。
 
 
 
 アスカは、心の中で溜め息をついたが、動じることなくきびすを返した。
 
 「隣の医療室に、どうせ、リツコのコーヒーメーカーがあるから……ちょっと待ってなさいよ」
 
 言いながら、隣室に繋がる扉に向かって足を運ぶ。
 
 
 
 「……碇……君は」
 
 
 
 レイが、ふいに言葉を紡いだ。
 
 アスカは驚き、足を止めて振り返る。
 
 
 
 ……どこも見ていない。
 
 ……何も見ていない。
 
 ……虚空の一点を、空ろに見つめる視線の奥に、微かな感情の幎。
 
 
 
 「……信じて……欲しい……って言ったわ……。
 
 ………
 
 ………
 
 ……私は、
 
 ………
 
 ……信じる……信じる……
 
 ………
 
 ……信じる……
 
 ……信じる……
 
 ……信じる……
 
 ……信じる……」
 
 
 
 言いながら、瞳の奥に現れた感情が、彼女の全身を覆い始めた。
 
 塗り潰されていた感情が噴き出す。
 
 無表情のまま、微かに全身が震え始めたかと思うと、そのまま、強ばった体が激しい震えに転じていく。
 
 
 
 おこりのように、レイの体が震えだす。
 
 ガタガタ、とベッドが揺れた。
 
 歯の根が合わないかのように、カチカチと音を立てる。
 
 
 
 「ちょ……」
 
 アスカは、驚いて駆け戻った。
 
 レイの横に座ると、肩を掴んで揺する。
 
 「ちょっと……ファースト! しっかりしなさいよ!」
 
 
 
 「信じる……信じる……」
 
 レイは、壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返していた。
 
 瞳に渦巻く、激しい恐怖。
 
 数時間ぶりの、溢れるような感情。
 
 にも関わらず、能面のように無表情な、顔。
 
 
 
 押さえ込むように力強くレイの肩を掴んだはずの手の平にさえ、レイの激しい震えが伝わる。ベッドが、軋みを立てる。
 
 顔だけが変わらずに無表情で、それが逆に恐ろしかった。
 
 「ファーストッ!」
 
 アスカは、恐怖が伝染しそうになる心を抑えて、レイの向こう側の肩を掴んだ。
 
 ぐいっ、とレイの体を引き寄せる。
 
 不自然に強ばったレイの体は、ドスン、とアスカの体にぶつかった。
 
 
 
 震えが、津波のようにアスカを襲った。
 
 
 
 アスカは、そのまま両腕でレイを抱き締めた。
 
 力一杯。
 
 それしか出来なかった。
 
 
 
 止まらない。
 
 震えが。
 
 恐怖が。
 
 伝わってくる。
 
 
 
 「そうよ……し……信じなくちゃ……!
 
 アイツが、アンタを置いていくわけがないんだから……ッ」
 
 レイと自分と、その両方に言い聞かせるように、アスカは呟く。
 
 シンジが戻って来ないかもしれない、その事実は、アスカにとっても……鋭い楔のように自分を突き刺していた。
 
 だが、レイを見ていると、とてもそれを表に出すことは出来ない。
 
 レイを恐怖から救うために、そして……自分自身を救うために、アスカは、レイの体をきつく抱き締めていた。



三百三十三



 シンジは、顔を上げた。
 
 
 
 見覚えのある風景だ、と、心の隅の方で思った。
 
 だが、どこで見たのか、いつ見たのか、それを思い出すことは出来ない。
 
 曇りガラスの向こう側に揺らめく風景のように、それは見えないし、触れることも出来ない。
 
 
 
 夕暮れの電車に座っている。
 
 他に乗客の姿は見えなかった。
 
 窓の外は輝くオレンジ色に染まり、その光は暖かくも冷たくもない。
 
 定期的に揺れる椅子と、ぶらさがる吊り革の群れと、レールの継ぎ目を越える車輪の音と。
 
 
 
 「どこに行くんだっけ?」
 
 シンジは、周りを見回した。
 
 自分は、何でこの電車に乗っているんだろう?
 
 どこかに行くつもりだったんだろうか……でも、どこへ? 何をしに?
 
 車内放送も流れないし、外の風景も見えない。自分がどこにいるのか、分からない。
 
 
 
 立ち上がろうとしたが、吸い付いたように、腰が重くて椅子から離れなかった。
 
 ただ、ぼうっと椅子に座り続けている。
 
 
 
 「僕は、どこに行くんだろう?」
 
 もう一度、呟いた。
 
 誰もいない車内で。
 
 誰に聞かせるでも、誰に尋ねるでもなく、ただ……記号のように音声情報に変換し、それを口から漏らす。
 
 それだけ。
 
 それだけの行為だ。
 
 「僕は……どこに、行こうとしていたんだろう……?」
 
 もう一度、呟く。
 
 
 
 「……忘れてしまったの?」
 
 声がする。
 
 シンジが顔を上げると、向かい側の座席に、小学生くらいの少年が座っていた。
 
 
 
 シンジは、少し驚いた顔をしてから、微笑む。
 
 「……君、いつのまに、そこに来たの?」
 
 「ずっと、ここに、いたよ」
 
 「……あれ? ……そう? ……そうかぁ……おかしいな……」
 
 「……忘れてしまったの?」
 
 「え?」
 
 「どこに行くか」
 
 「……ああ……そうだね。ちょっと、ど忘れかも、はは」
 
 「忘れてしまったの?」
 
 「……うん……」
 
 「大事なことだよ」
 
 「そう? ……そうかな?」
 
 「大事なことだよ……」
 
 「どこに行くのか? 何しに行くのか? 僕は、どうしたいんだろう」
 
 「本当は、知っているはずなんだ」
 
 「知ってるのかな?」
 
 「知っているんだよ」
 
 「どこへ……」
 
 「思い浮かべて」
 
 「何を?」
 
 「大事なことを」
 
 「大事なこと……」
 
 「大事なことを……」
 
 「大事なことを……思いだす」
 
 「さぁ……」
 
 「……大事な人?」
 
 「うん……」
 
 「大事なこと……」
 
 「……うん」
 
 「……僕は……」
 
 「何しに来たの?」
 
 「来た?」
 
 「そうだよ。何しに来たの?」
 
 「わからないよ」
 
 「忘れているだけだよ」
 
 「そうなのかな……」
 
 「思いだして」
 
 「何を?」
 
 「大事なことを……」
 
 「………」
 
 「大事なことを……」
 
 「………」
 
 「さぁ……」
 
 「……大事な人?」
 
 「……うん」
 
 「……大事な人……大事な人……」
 
 「……そうだよ」
 
 「護るために?」
 
 「そうだよ」
 
 「そのために、来たのかな」
 
 「それが全てじゃないけど……そうだね」
 
 「そうか……」
 
 「だから、行くんでしょう?」
 
 「どこに?」
 
 「行きたいところへ」
 
 「………」
 
 「行きたいところは、どこ?」
 
 「……大事な人の側に」
 
 「そうだよ」
 
 「そうかな」
 
 「だけど……それで、いいの?」
 
 「……何が?」
 
 「君は、それでいいかも知れない」
 
 「……何が?」
 
 「でも……大事な人は……それだけで、いいのかな」
 
 「……何が?」
 
 「心が……繋がらなくて……いいの?」
 
 「………」
 
 「まだ……繋がってないよ」
 
 「………」
 
 「……いいの?」
 
 「……わからないよ」
 
 「わかってるんだよ」
 
 「わからないよ」
 
 「わかってるんだよ」
 
 「そうかな……」
 
 「わかってるんだよ」
 
 「そう……かな……」
 
 「本当は……どう、しなければいけないのか」
 
 「わかってる?」
 
 「わかってるんだよ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「君は……僕?」
 
 「僕は……君だよ」



三百三十四



 「勿論……生命維持モードに切替えていなければ、とっくに死んでいる計算になります」
 
 マヤは、感情を殺して呟く。
 
 「ですから、生命維持モードに移行したという前提になりますが……あと、30分程度が限界です」
 
 
 
 発令所……。
 
 マヤからの報告を、ミサトは、じっと目を瞑って聞いていた。
 
 
 
 悔しい。
 
 
 
 ……何も、することが出来ないのか?
 
 
 
 時計のデジタル表記が経過していくのを、ただ見つめて……内部電源が完全に切れる時間に、シンジの死を想像する。
 
 そんなことしか、できないのだろうか。
 
 
 
 ……実際には、この待ち続けた十数時間の間に、二回、兵装ビルによる攻撃を仕掛けていた。
 
 だが、結果は、最初に仕掛けた攻撃の時と同じ。
 
 使徒が直前に瞬間移動して弾を躱し、攻撃してきた敵を飲み込む。
 
 また、新たに、幾つかの兵装ビルを失ったに過ぎない。
 
 
 
 使徒は、攻撃を事前に察知して、直前に回避する。
 
 では、ミサイルのような速度の遅いものではなく、もっとずっと速い兵器ならば? ……光速よりも使徒が速いとは思えない。
 
 そう考えて、簡易レーザー砲を用意して攻撃したが、駄目だった。
 
 ……確かに、使徒はレーザー砲より速くはなかった。
 
 だが、関係なかった。レーザー砲は球形に真っすぐ命中し、そのまま「突き抜けて」しまったのだ。
 
 何のダメージも与えられず、その直後に瞬間移動してきた使徒によって、簡易レーザー砲もあっけなく失われてしまった。
 
 
 
 遥か遠くから攻撃を仕掛けると、使徒に無視されてしまい……瞬間移動を誘発して第三新東京市から引き剥がす、という作戦も成功しない。
 
 攻撃も、命中しても全く効かない。
 
 初号機をサルベージする、新たな方法もない。
 
 
 
 八方塞がりだった。
 
 
 
 医療控室。
 
 レイは、じっとアスカに抱き締められていた。
 
 
 
 あれから、既に6時間が経過していた。
 
 ……驚くべきことに、その間、ずっとアスカはレイを抱き締めていたのだ。
 
 レイを救いたい、見ていられない、という感情があったのは事実であったし……それに、アスカも、初号機の生命維持モードが何時間で限界を迎えるのか、わかっていた。
 
 刻一刻と切り刻まれていく時間に、アスカ自身、ただ漫然と待ち続けていくことに耐えきれず……誰かに触れていることで恐怖を押さえ込んでいたのだ。
 
 
 
 レイの震えは、数時間前に止まっていた。
 
 体は冷えたまま戻らず、顔色も相変わらず悪かったが、それでも、まださっきよりは、よい。
 
 だが、再び、震えと共に表情から消えた感情は……その奥底に、まだ、種火があるのか……それとも、もう失われてしまったのか、その判断はつかなかった。
 
 
 
 ……もうすぐ、シンジの生死が決まる。
 
 
 
 その瞬間を迎え……現実に、「シンジは死んだ」という宣告を下されたとき……
 
 ……レイが、それを受け止めることが出来るかどうか。
 
 それは、全く想像がつかなかった。
 
 
 
 この6時間ほどのあいだ、二人は、一言の言葉も交わさなかった。
 
 体温だけがお互いの存在の全てだった。
 
 
 
 アスカは、壁に掛かった時計を見る。
 
 抱き締めたレイからは見えない位置だが、きっと、レイには分かっているはずだ。
 
 いや、それとも、逆に考えないようにしているのだろうか……?
 
 ……あと、20分。
 
 前後のずれはあるだろうから、まだプラス15分くらいは平気かもしれないが……それは逆に、マイナス15分……つまりあと5分程度で、内部電源が切れてしまう可能性もあるということ。
 
 
 
 ……もう
 
 ……時間が
 
 ……ない。
 
 
 
 アスカは、唇を開いた。
 
 
 
 「………」
 
 掠れて、声が出なかった。
 
 口の中が、カラカラに乾いている。
 
 ずっと黙っていたために、上唇と下唇が吸い付く。
 
 アスカは舌で唇を舐めると、もう一度、……改めて、ゆっくり、言葉を発した。
 
 
 
 「……ファースト……行こう」
 
 
 
 ビク、と、レイの体が震えた。
 
 不謹慎ながら……アスカは、嬉しかった。
 
 まだ、反応する。
 
 レイは、いなくなっては、いない。
 
 
 
 「ファースト……シンジを、迎えに行こう」
 
 優しく……ともすれば、震えそうになる言葉を抑えて、静かに、呟く。
 
 「……信じろって言うんだから……戻ってくんのよ、アイツ」
 
 「………」
 
 「……信じてるんなら……待ってなくちゃ」
 
 
 
 ……言おうか言うまいか、迷っていた。
 
 この6時間の間……レイを抱き締めながら、ずっと考えていた。
 
 
 
 だが……
 
 
 
 この四角い匣の中で、シンジの死も生も、レイに聞かせたくなかった。
 
 そんなことをさせてはいけない……と、思った。
 
 
 
 シンジが戻ってくるのならば、その時、レイはそれが見えるところにいなくてはいけない。
 
 シンジが死ぬのならば、その時、レイはそれを見届けなくてはいけない。
 
 
 
 自分よりも……そう、レイが……シンジと誰よりも深く、強く、心の奥底で繋がりあっている少女だからこそ……そうでなければいけないと思った。
 
 
 
 「……行こう」
 
 もう一度……今度は微笑んで、そう言った。
 
 アスカが、レイを抱き締めたまま、ゆっくりと体を起こす。
 
 レイは腰が砕けたように重かったが、抵抗はしなかった。
 
 ふらつく足取りで、二人は、寄り添うように……医療控室の扉に向かって、つま先を向けた。



三百三十五



 僕は……
 
 
 
 ……何をしているんだろう?
 
 
 
 ……何も考えられない。
 
 
 
 水の中。
 
 深い、赤。
 
 浮かぶ気泡。
 
 
 
 ここはどこだろう?
 
 
 
 わからない。
 
 
 
 ………シンジは、回転しない頭脳を、ただ、たゆたう波の流れに任せていた。
 
 
 
 ………
 
 
 
 どうして?
 
 
 
 温もりを感じる……。
 
 
 
 僕は、どうしたいんだろう?
 
 みんなを、護りたい。
 
 それは、本当だろうか?
 
 
 
 ただの自己満足じゃないのか?
 
 
 
 何も感じない。
 
 どうして?
 
 ありえない。
 
 
 
 ここはどこだ?
 
 
 
 どうしてかな、母さん。
 
 僕は、間違ってる?
 
 違うのかな。
 
 
 
 正しい道なんて、無いのかもしれない。
 
 
 
 ここは、どこだろう?
 
 
 
 暖かい。
 
 暖かい。
 
 母さんの温もりがする。
 
 
 
 でも……。
 
 
 
 冷たい。
 
 冷たい。
 
 冷たい……。
 
 
 
 ……誰?
 
 あなたは誰?
 
 どうしてここにいるの?
 
 
 
 ………
 
 
 
 母さんなの?
 
 
 
 違う。
 
 母さんじゃない。
 
 母さんは違う。
 
 
 
 ……母さんは、死んだんだ……。
 
 
 
 ………
 
 
 
 ……母さん?
 
 
 
 違う?
 
 
 
 母さんじゃない?
 
 
 
 だって……母さんだよ。
 
 
 
 どう見たって母さんじゃないか!
 
 
 
 違う。
 
 
 
 違う。
 
 違う。
 
 違う。
 
 
 
 違う!
 
 
 
 ……母さん!
 
 ……母さん!!
 
 
 
 ……なんで……どうして……どこに行ったのさ!
 
 
 
 どこに……
 
 
 
 これは……母さんじゃないよ!
 
 
 
 母さんに……よく……似た……
 
 
 
 ……違うよ!
 
 
 
 「どうして?」
 
 
 
 違うよ……違う! 違う!
 
 
 
 「どうして?」
 
 
 
 だって……だって、だって、だって……!
 
 
 
 「どうして?」
 
 
 
 ……だって
 
 ……だって
 
 ……だって!
 
 
 
 だって、あなたは、母さんの匂いがしない!
 
 あなたは、母さんの声をしてるけど……母さんの姿をしてるけど……
 
 母さんの匂いがしないじゃないか!
 
 
 
 「どうして? いけないの?」
 
 
 
 いけないよ……だって……
 
 
 
 「シンジ」
 
 なに?
 
 「私が必要なの?」
 
 だって……母さんじゃないか!
 
 「ずっと、いなかったのよ」
 
 知ってるよ……知ってるから……だから……
 
 
 
 「あなたは、なぜ、ここにいるの?」
 
 大事な人を……護るために……
 
 
 
 「私は、必要なの?」
 
 だって……母さんじゃないか!
 
 「あなたは、私を必要としてないの」
 
 母さん……?
 
 「あなたは……子供じゃないのよ」
 
 
 
 僕は、母さんの子供だよ!
 
 
 
 「もう、違うのよ……」
 
 僕は……
 
 「護るべきもの……」
 
 僕は……
 
 「それがある人は……」
 
 僕は……
 
 「……もう、子供じゃないの」
 
 僕は……でも……
 
 
 
 「どうしたいの?」
 
 ………
 
 「どうしたいの?」
 
 ………
 
 「どうしたいの?」
 
 
 
 ……みんなを、護りたい。
 
 
 
 「……本当に?」
 
 
 
 本当に……護りたいんだ。
 
 みんなで。
 
 僕だけじゃなくて……みんなで。
 
 護りたいんだよ……。
 
 
 
 「……本当に?」
 
 
 
 本当に……護りたいんだ。
 
 だって……もう……悲しませたくないもの。
 
 
 
 「……本当に?」
 
 
 
 本当に……護りたいんだ。
 
 だって……大事な、ひとだから……。
 
 僕は……護るよ。
 
 そのために……戻ってきたんだから……。
 
 
 
 「……そう……」
 
 
 
 そうだよ……
 
 
 
 「シンジ……」
 
 
 
 母さん……僕は……
 
 
 
 「シンジ……」
 
 
 
 僕は……間違ってる?
 
 
 
 「シンジ……」
 
 
 
 僕は……
 
 
 
 「シンジ……手を、貸してあげる」
 
 
 
 母さん?
 
 「みんなを、護りたいんでしょう?」
 
 うん……。
 
 「じゃあ、こんなところで、ぐずぐずしてていいの?」
 
 いいわけないよ。
 
 「そうよね……」
 
 いいわけないよ……。
 
 「そうよね……」
 
 どう……すれば、いいの?
 
 
 
 「助けて、あげる」
 
 助けてくれるの?
 
 「助けてあげる」
 
 助けてくれるの?
 
 「助けてあげる」
 
 助けてくれるの……。
 
 「助けてあげる……」
 
 ありがとう、母さん……
 
 「いつでも……助けてあげる。シンジ……あなたのために」
 
 
 
 「なんで、助けてくれるの、母さん?」
 
 
 
 「それはね……」
 
 
 
 「それは?」
 
 
 
 「それはね……」
 
 
 
 「それは?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「……きっと
 
 ……本物の
 
 ……碇ユイだったら
 
 
 
 そうすると思うからよ……碇シンジくん……」
 
 
 
 
 
 
 
 
 ……閃光!
 
 
 
 



三百三十六



 「使徒に変化ありません……理論上、初号機内部電源、限界です。
 
 ……初号機パイロットのプラグスーツの生命維持装置もそろそろ限界です」
 
 
 
 マヤの報告は、耳を塞いでいたいような内容だった。
 
 結局、何も出来ずにこの瞬間を迎えていた。
 
 ミサトは、哀しみの中で、下唇を噛んだ。
 
 
 
 愛しい、弟のような少年。
 
 彼が、目の前で、為す術無く失われていく……。
 
 
 
 地上に出たレイとアスカは、そのまま、近くにあったビルの屋上に上がっていた。
 
 風の音だけが耳に微かに届く、静寂の世界。
 
 コンクリートの地面に腰を下ろし、じっと、浮かぶ使徒を見つめている。
 
 
 
 レイの表情は、全く無かった。
 
 アスカは、肩を触れあった状態で、並んで膝を抱えていた。
 
 レイに、掛けてやる言葉は見つからなかった。
 
 
 
 レイにもアスカにも、もう……時間が残っていないことはわかっていた。
 
 時計を見ていないので正確な時間は分からないが……それにしても、もう、いくらも残っていないだろう。
 
 誤差があっても、5分というところだ。
 
 
 
 恐らく、今、恐怖の縁にいるであろうレイを……救ってやりたかった。
 
 だが、もはや、彼女の胸中は計り知れない。
 
 ……言葉が出てこない。
 
 
 
 使徒が見える場所にレイを連れてきたことが、よかったのかどうか……アスカは迷い始めていた。
 
 こうして、時計の針だけが進み……
 
 そうして、レイの心も、ゆっくりと、失われていく。
 
 数分後には、物言わぬ人形のようになっているのではないか……
 
 ……そんな恐怖が、アスカの胸を締め詰めていた。
 
 
 
 たまらない。
 
 だが、何も出来ない。
 
 どうしていいのか、分からない。
 
 
 
 ……このまま
 
 ……シンジが
 
 ……戻って来なかったら……
 
 
 
 「……信じてる」
 
 
 
 レイが、急に口を開いた。
 
 
 
 アスカが、驚いて、バッとレイを見る。
 
 レイが言葉を発した、という……その事実が、すぐにはアスカの脳に染み込まなかった。
 
 
 
 レイは、膝を抱えて座りながら、腕をギュッと握り締めていた。
 
 真っ白な表情。
 
 目は、使徒を凝視して、動かない。
 
 
 
 だが……
 
 
 
 ……先ほどまでの表情とは、はっきりと、違った。
 
 
 
 目に、命があった。
 
 
 
 それは、人形ではない……確かな、感情の光。
 
 
 
 レイは、震える唇を動かし、風に千切れとびそうなほど、小さく……呟き続ける。
 
 
 
 「信じてる……
 
 ………
 
 ………
 
 ……碇君が……
 
 ……信じて……欲しい……と……言ったんだもの……。
 
 ………
 
 ……例え……
 
 ……今……
 
 ………
 
 ………
 
 ……も……ど……」
 
 
 
 もど……と言いかけて、言葉が淀んだ。
 
 次の言葉が出てこない。
 
 だが、震える唇を、ギュッと噛みしめて……また、開く。
 
 かすれる声。
 
 
 
 「も……もど……って……こなく……ても……
 
 ………
 
 ……い……つか……戻ってくる。
 
 きっと……戻って……くる……。
 
 何年……
 
 何十年……
 
 何百年……経っても……
 
 ………
 
 ………
 
 ………
 
 ………
 
 ………
 
 
 
 ……待ってる……」
 
 
 
 アスカは……茫然としていた。
 
 
 
 ……涙が出そうだった。
 
 
 
 ……なんて……
 
 
 
 なんて。
 
 なんて。
 
 なんて。
 
 
 
 ……強いのだろう!!
 
 
 
 「ファーストッ……」
 
 アスカは、手を伸ばして、レイの手を握った。
 
 
 
 人形のようだ、なんて!
 
 そんなこと言うヤツは……アタシが……はったおしてやる!
 
 なんて……
 
 なんて、なんて、なんて!
 
 この女……
 
 
 
 「……待つよ……そう、待つわよ。
 
 ……アイツが……そんなカンタンにくたばるわけがないわよ!」
 
 感情が迸りそうになるのを堪えて、アスカは、上擦りながら喋る。
 
 「……うん」
 
 レイは、震える声で答える。
 
 「そうよ……アイツ、いろいろ異常だからさ……電源切れたくらいじゃ、死なないわよ」
 
 「……うん……うん……」
 
 「今頃、平気な顔、してるわよ……こっちの気も知らないでさ! そういう奴よ、アイツはさ!」
 
 「……うん……うん……うん……!」
 
 「戻ってきたら……笑ってやろう! 心配なんか、しちゃいないよってさ!!」
 
 「……うん……うん……うん……うん……っ!!」
 
 レイは、恐怖を貼り付けた真っ白な表情に、強ばった微笑みを浮かべて、アスカを見た。
 
 アスカは、涙がこぼれそうだった。
 
 なんて……奇麗な……微笑みだろう……。
 
 
 
 ………
 
 
 
 バキン。
 
 
 
 「えっ?」
 
 
 
 静まり返った街に、不自然な鈍い音。
 
 手を握りあっていたアスカとレイは、急な物音に……
 
 ……意味もわからず、ただ無意識に、使徒に視線を向けた。
 
 
 
 宙に浮かぶ、球形の使徒。
 
 
 
 何人にも侵されぬ悪魔の化身。
 
 
 
 誰もいない、何もない、この街に浮かぶ、完全な球。
 
 異常な、ゼブラ。
 
 捉え所のない、その感触。
 
 
 
 その、球の斜め上から……一本の腕が、突き出ている。
 
 
 
 「……え」
 
 アスカが、微かに目を見開いた。
 
 映像を、シナプスが正常に伝達していない。
 
 そんな感じ。
 
 
 
 レイは、ただ、茫然と……その光景を眺めている。
 
 
 
 使徒から……腕が、生えたような……
 
 ……一直線に伸びるその腕は、噴き出す赤い液体と共に……紫と、黒と、緑と……。
 
 
 
 「……い……かり……く……」
 
 
 
 かすれた声で、レイが、呟いた。
 
 
 
 ……バギンッ!!
 
 使徒の内側から、激しい衝撃音。
 
 えぐられたように、美しい球が、ボコッとひしゃげる。
 
 バキンッ!
 
 バキンッ!
 
 バキンッ!
 
 バキンッ!
 
 バキンッ!
 
 バキンッ!
 
 バキンッ……ガバァンッッッ!!
 
 砕け散る音と共に、もう一本の腕が、使徒の体を突き破って現れた。
 
 伸びた腕が、開いた穴に外側から腕を差し込み、強引に開いていく。
 
 
 
 グガ……
 
 ガ……
 
 ガ……ガ……ガッ……
 
 
 
 ガッ!!
 
 
 
 ガバァンッッッッ!!
 
 ドバシャァァァァァ……ッ……!!
 
 辺り一面に、ホースから噴き出す水のように、赤黒い液体が激しく飛び散る。
 
 
 
 「……な……ッ……」
 
 ミサトは、強ばった表情で……目を見開いて、その光景を凝視していた。
 
 「……す、すべてのメーターが振り切れています!!」
 
 シゲルが、驚愕の叫びをあげる。
 
 「パターン、判別できません!」
 
 「視覚照合……グリーン! 初号機です……ッ!」
 
 
 
 次々と告げられる報告を、ミサトは、まるで別世界の言葉のように聞いていた。
 
 耳に入ってこない。
 
 理解、できない。
 
 何が起こっているのか、分からない。
 
 
 
 リツコが、唖然とした表情で、使徒を切り裂いていく初号機の両腕を凝視する。
 
 「そんな……だって……でも……
 
 ……例えまだ電源が切れてなくても、もう、動かすことは不可能なはずよ!
 
 それなのに……何故!?
 
 ……これが……
 
 ……これが……これが、エヴァの力なの!?」
 
 
 
 使徒の体が、激しい力で引き裂かれていく。
 
 内蔵が飛び散り、辺りを真っ赤な世界に染めていく。
 
 非、現実的な、世界。
 
 その赤い飛沫は、水滴となって、レイやアスカにも降り注ぐ。
 
 
 
 二人は、頬に飛び散ったそれを拭うこともなく、目の前で繰り広げられる凄惨な情景に目を奪われていた。
 
 アスカが、茫然と、呟く。
 
 「……あれが……エヴァ……なの?」
 
 
 
 初号機の体が、使徒の中から姿を現した。
 
 真っ赤な血の色に染まった姿。
 
 あぎとを開き、目を光らせて……
 
 
 
 そのまま、使徒の体を両腕で左右にちぎっていく。
 
 
 
 ブチッ……ブチ、ブッ……ブチブチブチブチブチッ!!
 
 
 
 初号機を乗せたまま……使徒の体は、ゆっくりと、下降を始めた。
 
 辺りに止めどない血の雨を降らせながら、地面に向かって真っすぐに落ちていく。
 
 真っ黒な、影の上に。
 
 
 
 球体が地面に当たった瞬間、踏み潰された影は……氷のように細かな破片となって、一斉に空中に舞い上がった。
 
 
 
 ぶわぁぁぁっ……と、黒い破片が、無数に宙を舞う。
 
 その中で……血の噴水を浴びながら、初号機は立ち上がった。
 
 
 
 ……ヴゥォオォヴォォォォオオォオオオォオォオォオォオォオッォォォオォオォオオォオォオォオォオオオォオォオォオォオオオォオォオォォオオォオオオォオォォォォォォォォオオォォォオ……ッッッ!!!
 
 
 
 それは、異様な光景だった。
 
 
 
 黒い羽根が舞い上がり……赤黒い血の雨を浴びて。
 
 
 
 異形の生物が、仁王立ちで、咆哮をあげている。
 
 
 
 「……そんな……あれが……エヴァなの……」
 
 アスカは、震えながら呟いた。
 
 なんというものに、乗っているのか、自分は……
 
 あんな……
 
 あんな、ものに。
 
 あんな、ものに。
 
 
 
 レイは、何も言わなかった。
 
 ただ、目の前の全てを、茫然と目に焼き付けていた。



三百三十七



 シンジは、目を開いた。
 
 最初、微かに。
 
 やがて……数瞬の時間を置いて、しっかりと。
 
 
 
 そこは、エントリープラグの中だった。
 
 
 
 右手を挙げて頭を押さえると、ぶるぶるっ……と、霞みを払うように左右に振る。
 
 なんだろう。
 
 眠り過ぎていた朝のような、そんな感覚だ。
 
 
 
 「……まだ、死んでない」
 
 
 
 呟くように、言葉を口にする。
 
 どれくらいの時間が、経ったのだろう?
 
 内部電源は、限界に近づいているだろうか。
 
 自分の死まで、あと、どの程度残されている?
 
 初号機は、覚醒の気配もないだろうか。
 
 
 
 そこまで考えてから、ふと……シンジは違和感に気付いた。
 
 LCLが澄んでいる。
 
 電源の切れかけているような、そんな状況ではない。
 
 
 
 「……あれ?」
 
 
 
 シンジは、ぼうっとした表情で、目の前に満たされたLCLの海を見つめて……
 
 ……数秒後、ガバッと起き上がった。
 
 
 
 「……えっ……つ……通常モード」
 
 シンジの声に合わせて、ブビュン……と、エントリープラグの内側が全天のモニタに移行した。
 
 そこに映し出された風景は、虚無の世界ではなく……
 
 ……見慣れた、第三新東京市の、姿。
 
 
 
 シンジは、茫然と……その風景を見つめていた。
 
 
 
 「……いつ……戻ってきたんだろう」
 
 わからない。
 
 前回もそうだったが……初号機が覚醒するときには、シンジには、いつも意識がないのだ。
 
 結局、どういうトリガーが働いたのか、分からずじまいだった。
 
 
 
 ……とにかく、じっとしてはいられなかった。
 
 
 
 「エントリープラグ、イジェクト」
 
 シンジは、慌てて呟いた。
 
 全天のモニタが消え、併せて、ゴウン……と、後方にスライドするGを体に感じる。
 
 初号機が覚醒して、その後、再び元に戻った後は……いつも、初号機の電源はほぼ、カラだ。
 
 初号機の足で本部には戻れず、回収班を待たなくてはならない。
 
 
 
 スライドが止まったのを確認して、シンジは座席から泳ぎ出た。
 
 インテリアの後部まで移動し、壁に埋め込まれたハンドルを引き出して、回す。
 
 
 
 ガシャンッ……ザバァァァァッ……!!
 
 
 
 ハッチから溢れだすLCLの水音を聞きながら、シンジは、ぷあっ……と息をついて、水面から頭を出す。
 
 額に張り付いた髪の毛を掻き上げて、ハッチのへりまで移動すると、そこに手を掛けて辺りを見回した。
 
 
 
 周囲のビルや地面一帯に、赤黒い液体が付着していた。
 
 それはただ弾け飛んだというよりは、液体の入ったビニール袋を掴んで、振り回して投げ飛ばしたような、そんな惨状だ。
 
 見下ろすと、既に停止している初号機自身にもべっとりと液体がこびりついている。
 
 
 
 シンジは、顔を手で覆った。
 
 「うわぁ……これは、凄いなぁ……」
 
 意識の無いときのことではあるが……説明を受けるまでもない。
 
 これは、初号機がやったに違いなかった。
 
 飛び散っているものは、恐らく……いや、間違いなく、使徒の「血」であろう。
 
 
 
 「う〜ん……暴走すると、歯止めが効かないなぁ……」
 
 シンジは、溜め息をついた。
 
 脳裏に浮かぶのは、バルディエル戦。ダミーシステムに主導権を握られた初号機は、まさに、目を覆わんばかりの残虐さを見せ付けた。
 
 恐らく、同じことが起こったのであろうことは、想像に難くない。
 
 
 
 違和感がある。
 
 母……碇ユイと、その惨状は、あまりにも……リンクしない。
 
 
 
 意識のない間に、何か、あったような気がするが……思い出すことが出来ない……。
 
 
 
 誰もいない街。
 
 その時、遠くから、かすかな爆音が耳に届いた。
 
 
 
 シンジが音の方を見上げると、それは、NERVの刻印を腹に抱えた、一機のヘリコプターだった。
 
 シンジを回収に来たのであろう。
 
 シンジはハッチに掴まっていない左手を上げて、ヘリの向かって左右に大きく振ってみせた。
 
 
 
 ヘリは、徐々に近付いてきて……やがて、シンジの真上にホバリングした。
 
 
 
 ………
 
 
 
 「あれ?」
 
 シンジは、目を顰めた。
 
 いつもならば、真上にホバリングしたら、すぐ……シンジを吊り上げるために、ロープの先に浮き輪を繋いだような機器を降ろしてくるのが普通だ。
 
 だが今日は、すぐに降りてくるはずのロープが降りてこない。
 
 「……あれ? ……どうしたのかな」
 
 手間取っているのだろうか?
 
 そうして、しばし時間を置いた後……
 
 やがて、やっとロープが降りてきた。
 
 
 
 そのロープの先の浮き輪に、誰かぶら下がっている。
 
 
 
 「……あ」
 
 ……それは、見間違うはずが無かった。
 
 スルスルと降りてきたその人物は、そのまま、プラグまであと数メートル……というところで、待ち切れないように浮き輪を外して、一直線に落下してきた。
 
 
 
 「……うわぁぁっ!!」
 
 
 
 ドボォォォンンッッ!!
 
 
 
 激しいLCLの水柱を上げて、蒼い髪の少女は、プラグの中に突っ込んだ。
 
 そのまま、ブクブク……と中から気泡だけが上がってくる。
 
 そして、数秒……
 
 水面が盛り上がると、レイが、ザバッと水を割って飛び出した。
 
 
 
 突然のことに、驚いて、声も出せない。
 
 シンジは、目を凝らして、目の前の少女を見て。
 
 ……そして、もう一度、驚く。
 
 
 
 LCLのせいではない。
 
 ……レイの顔は、涙で、ぐしょぐしょだった。
 
 
 
 「……う……ぅ、う……う……わぁ……ぁうああああああぁあぁあぁあぁああッッ!!」
 
 
 
 ドカッ!
 
 と、全身の力を篭めて、レイはシンジの胸に飛び込んできた。
 
 声を上げて泣いていた。
 
 激しい感情の渦。
 
 今まで押さえ込んでいた全てを、吐きだしていた。
 
 
 
 「……あ……あぁ……あ……あ……ぁ……あ……っっ……!!」
 
 収まることのない泣き声に、シンジは、ただ胸を貸す以外に無かった。
 
 彼女の、この、激しい泣き声は、シンジがもたらしたもの。
 
 他に方法が思い付かなかったのだとは言え……シンジの行動が、レイを極限まで追い詰めた、証だった。
 
 
 
 「……綾波」
 
 シンジは、泣き続けるレイに、囁くように、呟いた。
 
 レイは、嗚咽を漏らしている。
 
 シンジは心の痛みをそっと握り締めて、言葉を紡いだ。
 
 「……綾波……ごめ……」
 
 
 
 パシンッ!!
 
 
 
 乾いた音が、動くもののない街に響き渡る。
 
 
 
 ……シンジの言葉が言い終わるよりも速く、
 
 レイの手の平が、シンジの右頬を捉えていた。
 
 
 
 シンジは、何が起こったか分からずに、ぼけっ……と、レイを見ていた。
 
 レイは、涙でぐしゃぐしゃな表情のまま、シンジの顔を見て……
 
 ……それから
 
 ……たった今、シンジを叩いた、自分の左手を、見て。
 
 
 
 レイは、払った左腕を握り締めると……再び、ぶわっ、と涙を溢れさせる。
 
 「ご……ごめ……ごめ、ごめんな……さい……い、いかり……くん……」
 
 物凄い勢いでシンジに飛び付くと、泣きながらシンジの右頬に手を重ねた。
 
 赤く火照る頬に、レイの冷たい手の平が、心地よかった。
 
 「……い……いた、かった? ……ご、ごめんなさい……許して……うぅ……」
 
 
 
 シンジは、自分の心の裡を、全く整理できずにいた。
 
 愛している少女に、思い切り頬をはたかれた。
 
 普通なら、痛みと、悔しさと、哀しみと……そういったものが、渦巻くはずだ。
 
 
 
 ……だが……シンジの心に湧き上がるのは……
 
 ……堪えきれないほどの、喜び……!!
 
 
 
 「……あ……綾波っ……」
 
 シンジは、ガバッ、とレイを抱き締めた。
 
 「あ……い……いかり……くん?」
 
 戸惑いを隠せない、嗚咽と驚きが混ざった、レイの声。
 
 
 
 シンジの頬を、たまらずに涙が伝った。
 
 次から次へと流れ落ちる涙が、シンジを、そして、抱き締めたレイの首筋を濡らした。
 
 
 
 こんな……
 
 
 
 こんな、喜びが……
 
 ……この世に、あるだろうか!!
 
 
 
 「い……いかり、くん……
 
 ……い、いたい? いたいの……?
 
 ……ご、……ご、ごめんなさい……ごめん……なさい……
 
 ……うっ……う、うぅっ……」
 
 レイが、怯え、慌て、困惑したように、言葉を紡ぐ。
 
 泣くレイの涙が、シンジの胸を濡らす。
 
 「ぼく……ぼくこそ……
 
 ……ご、ごめん……あ、ありがとう……
 
 ……ありがとう……
 
 ……ありがとう……!」
 
 シンジも、謝りながら……例えようもない感謝の言葉を述べながら、
 
 レイを抱いて泣き続けていた。
 
 
 
 抱きあって、泣きあって。
 
 
 
 こんな、おかしな二人だけど……
 
 
 
 ……一緒に、生きていける。
 
 いつまでも。
 
 いつまでも。
 
 ……いつまでも……どこまでも……一緒に。
 
 
 
 ……生きていける……!
 
 
 
 シンジとレイは……
 
 ……初めて、お互いに触れあったような気がしていた。