第六十八話 「驚愕」
三百十五



 第三新東京市の上に、巨大な球形の物体が浮かんでいる。
 
 
 
 その直径は約680メートルに及び、表面は白と黒のゼブラ模様で埋め尽くされている。
 
 そして、その表面を彩る不気味な模様は、ゆるやかに、表面を滑るように、ゆっくりと動き続けている。
 
 
 
 形は単純ながら、その威容は、どうにも見ている人間の不安感を掻き立てる。
 
 
 
 避難勧告が出された市内には、既に一般市民の姿はない。
 
 動くものの無い街の上に、ただ浮かぶ巨大な球……
 
 それは、現実感の欠けた絵空事のように見えた。
 
 
 
 ……もちろん、これが現実であることは、この発令所に詰める全ての人間が知っていた。
 
 
 
 「目標物、微速でこちらに進行しています」
 
 シゲルがサブモニタに走る文字列を目で追いながら、報告する。
 
 リツコは、腕を組んで、じっと……メインモニタに映る、おぞましき敵を、見る。
 
 
 
 バァン!
 
 
 
 発令所の扉を叩き開けるようにして、ミサトが息を咳ききって入ってきた。
 
 
 
 「遅いわよ」
 
 リツコが、横目でミサトを見る。
 
 「ゴメン、非番だったから……」
 
 ミサトが、片手を顔の前に上げてリツコに謝り、そのままコンソールの前に座るシゲルに声をかけた。
 
 「状況は?」
 
 シゲルは、キーボードをせわしなく叩きながら、後頭部でミサトに応える。
 
 「現在、目標物は時速10キロ前後で本部に向かって進行しています」
 
 「富士のレーダーサイトはどうしたの?」
 
 「探知していません。イキナリ、第三新東京市の上に出現しました」
 
 「……相変わらず、神出鬼没か。……使徒、よね」
 
 「……だと思いますが……パターンはオレンジです」
 
 「オレンジ……不明ってこと?」
 
 ミサトは、振り返ってリツコを見る。
 
 「どぉゆうこと?」
 
 「さぁ……不明ってことよ」
 
 リツコが、表情を変えずに応える。
 
 
 
 「そんなことはわかってるわよ」
 
 ミサトは、憮然とした表情で、腕を組んだ。
 
 
 
 とは言え……「何故パターンがオレンジなのか」……リツコに尋ねたところで明確な答えが返ってくる訳でもないことを、ミサトは理解している。
 
 この、正体不明の怪物群のことを、理解している人間など、この世にはいないのだ。
 
 
 
 「……とりあえず……幾らパターンオレンジって言われても……これが使徒じゃないなんて、とても思うわけにはいかないわね」
 
 ミサトは、敵を見つめながら言う。
 
 リツコは、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、右足を引いてミサトの方に体を向ける。
 
 「どうするの? 作戦部長」
 
 「ま……コイツがどんな攻撃を仕掛けてくるか、まだわからない以上……逆に、このまま放っておいて、本部の直上まで来られちゃったら、まずいわよね。
 
 ……その前に、叩かなくっちゃ」
 
 リツコの問いに、ミサトは横目でリツコを見ながら応えた。



三百十六



 男子更衣室。
 
 シンジは、ロッカーからプラグスーツを取りだすと、包んである無菌ビニールのジッパーを開けた。



 いつものことであるが……シンジは、今回のレリエルの襲来を、前持って予測していた。
 
 
 
 予測……と言うより、現実に起こることが確定しているスケジュールを、あらかじめ知っているだけだ。
 
 だが、これは、シンジの持つ数少ない特権の一つ。
 
 とにかく……せっかく出現する事実がわかっている以上、漫然とその脅威の訪れを、ただ待っている必要はない。
 
 
 
 レリエル……虚数空間を内部に持つ、使徒。
 
 しかし、その殲滅方法は、シンジには思い付かない。
 
 
 
 前回、レリエルを殲滅したのは、覚醒した初号機の力だった。
 
 同じ現象を、再び起こせばいいのだろうか?
 
 しかし、シンジが昏睡している間に起こった「覚醒」だったため、何をきっかけにして初号機が覚醒したのか、分からない。
 
 
 
 ……もちろん、推論することは、出来る。
 
 初号機に眠る魂、碇ユイ。
 
 あのとき……死の一歩手前にいたシンジを感じて、彼の身を護るために、ユイは目覚めたのだろう。
 
 
 
 では、初号機を再び覚醒させるために……シンジに、また死の一歩手前まで行けと?
 
 
 
 ……そんなことが出来る筈がない。
 
 
 
 シンジの命に危険が迫れば、必ずユイは覚醒するのだろうか?
 
 あいにく、そこまで明快なトリガーとは言い切れないだろう。
 
 もちろん覚醒するかもしれないが、しないかも知れない。
 
 
 
 ……例えば、前回のバルディエル戦で……精神が崩壊しかけたシンジに、ユイは干渉しなかった。
 
 ダミーシステムは、シンジとは似ても似つかない。にも関わらず、いきなりダミーに切り替わっても、初号機はそれを拒絶しなかった。
 
 ゼルエル戦でシンジが瀕死の状態に陥ったとき、初号機は彼を護ろうとはしていない。初号機が覚醒したのは、ゼルエルが初号機のコアを破壊しようとしたため……つまり、自己防衛本能に過ぎない。
 
 
 
 初号機のコアに、明快な意志を期待することは出来ない。
 
 気まぐれ、と言うか……きっかけは初号機次第、と言う色合いが強い。
 
 
 
 初号機の覚醒に、頼るわけにはいかない。
 
 
 
 ……では、レリエルの殲滅は、どういう手段を取ったら良いだろうか?
 
 
 
 まず、前回とはっきり違うこと……それは、最初から、「影が本体であり、空中の球が影である」ことを知っているという事実だ。
 
 少なくとも、無駄弾を影にむかってバラまくような真似はしないですむ。
 
 ……だが、それだけだ。
 
 
 
 前回、NERVがどういう作戦をとろうとしたか、それは知っている。
 
 「この世に存在する、全てのN2爆弾を投下する」
 
 ……だが、それも、「取り込まれた初号機を弾き出す」ことが目的だった。
 
 レリエルの殲滅、と言う最終的な目標には、全然足りないのだ。
 
 
 
 「虚数空間」というものは、現実には、存在は確認されていない。
 
 理論上存在することが提唱されている……というレベルに過ぎないのだ。
 
 ましてや、シンジは物理学者でも何でもない、一介の中学生に過ぎない。
 
 リツコならいざ知らず……「レリエルが虚数空間を内包している」という事実を知っていても、シンジにはその対処方法は思い付くことなどできないのだ。
 
 
 
 どうすればいいのか……シンジには、決め手がない。
 
 
 
 シンジがまず考えなければいけないのは……当然の話だが、「レリエルに取り込まれないこと」だ。
 
 外に抜け出す方法が確立できない以上、進んで足を踏み入れる訳にはいかない。
 
 それに……前回は、初号機がレリエルに取り込まれてしまったことで、リツコは「初号機のサルベージ」を最優先とした作戦を立てなければいけなかったが……
 
 そうでなければ、リツコも殲滅を目的とした全く新しい方法を提唱できるかも知れない。
 
 
 
 また、アスカやレイを、レリエルに近寄らせないことも大事だ。
 
 いつものことであるが、事前に虚数空間のことを進言できない以上……ぼうっとしていると、二人は気づかずにレリエルの影に足を踏み入れてしまうかも知れない。
 
 詳しい状況が判明するまでは……しっかりと目を配って、二人が虚数空間に取り込まれるような真似だけは、何としても避けなければならない。
 
 
 
 ……前回の、戦闘の流れを再確認しよう。
 
 前回、シンジがレリエルの球体部に向かって発砲したところ、突然レリエルはその能力を発現した。
 
 瞬間移動してシンジの上空に現れ、その影が虚数空間への底なし沼に豹変した。
 
 ……だが、あの能力がありながら、何故、直接本部に現れなかった?
 
 第三新東京市の上空に出現したことは、確かにいきなりすぐ側に現れたような印象を受けるが……どこにでも自由に現れることのできるレリエルの能力を思えば、むしろ目的から遠すぎるような気がする。
 
 
 
 理由は簡単だ。
 
 
 
 この使徒は、アダムと融合することを直接の目的としていない。
 
 レリエル以降の使徒がアダムと融合するために、邪魔な障害を排除する。そのための、言わば「露払い」の役割を担っているのだ。
 
 
 
 だから、攻撃を仕掛けるまではその本性を現さなかったし、レリエルの近くをうろついても何もしてこなかったのに……レリエルを攻撃するやいなやシンジを襲ったのだ。
 
 「敵対行動をとる敵を排除する」。
 
 しかも、虚数空間に取り込むということは、まさに「排除」だ。はまったら、一瞬にして、この世界から消滅したも同然なのだ。
 
 敵対者をすべて消滅させた後、その後の使徒が、アダムへの融合を果たす……という筋書きだったのではないだろうか。
 
 度重なる使徒の襲来を、ことごとく何者かが排除したために、こういう種類の使徒が生みだされたのだ。
 
 
 
 では、こちらから攻撃しなければ、何事もなく素通りできる?
 
 ……いや、さすがにそれは、楽観視すぎるというものだ。
 
 いくら「露払い」であっても、ドグマの直上まで来れば、侵攻を開始するだろう。それを黙って見ているわけにはいかない。
 
 「露払い」は「露払い」でも、可能ならばレリエルが融合しようとして不思議はない。
 
 
 
 とにかく、あのまま放っておいても、意味がない。
 
 であれば、早い段階で、攻撃を仕掛けるべきだ。
 
 
 
 兵装ビルを使うのが、うまい手かもしれない。
 
 ……おそらく、攻撃を仕掛けた兵装ビルのあるあたりの地面に、虚数空間が口を開くだろう。その結果、ビル群は飲み込まれてしまうが、これは仕方がない。
 
 そのうえで、改めてMAGIに分析してもらい……
 
 あれが虚数空間だとリツコが判断したら、あとは彼女に作戦を練ってもらうしかあるまい。
 
 前回の経験上、レリエルは攻撃してきた敵を飲み込むと、それ以上の行動を起こさない。兵装ビルの犠牲で済むなら、安いものだ。
 
 
 
 あとは、リツコに任せるしかない。
 
 
 
 最悪……全く殲滅の方法が見出せないうちに、レリエルが本部に近付いてしまった場合には……初号機が虚数空間内部で覚醒してくれることを願って、初号機ごと飛び込むしかあるまい。
 
 だが、その場合は、楽観視できない要因がある。
 
 
 
 前述したとおり、初号機が覚醒するトリガーの一つは、(曖昧だが)シンジの精神的危機、生命の危機。
 
 だが……今回のシンジが、果たして……前回、虚数空間に取り込まれた時のように、パニックに陥るだろうか?
 
 
 
 実際に死に瀕してみなければ、自分がどういう心理状態になるか分からない。
 
 最終的に、酸素が欠乏した朦朧状態になれば、理性が剥げ落ちてパニックになる可能性も、ある。
 
 ……だが、全ての事情を理解しているうえに、精神的にもある程度強くなってしまったシンジは……精神崩壊の危機を迎えることなく、安らかに息を引き取ってしまう可能性もあるのだ。
 
 
 
 シンジの精神状態に恐慌が見られなければ、ただでさえ曖昧な初号機の覚醒は、さらに起こりにくくなることが予想される。
 
 そうなってしまっては、終わりだ。虚数空間に飛び込むことは、ただの自殺にしかならない。
 
 であるならば、それは、他に打つ手がない状態での、最終手段にしなければいけないのだ。
 
 
 
 打つ手なし、という状況が毎回続くことに、シンジは苛立ちを覚えていた。
 
 せっかく情報があるのに、ここ数回の使徒戦は、圧倒的優位に立っているとは言い難い。
 
 自分は、何のために時間を戻ってきたのか?
 
 どのような意志が働いて、自分だけが時間を遡ったのかは分からないが、神は、自分に世界の崩壊を阻止することを望んでいるわけではないのか。
 
 
 
 確かに、前回のシンジは、今の冷静な目で見るならばかなり後手後手に回って行動していた。
 
 ……と言うより、本部より指示された作戦をただ消化していくだけの、いわゆる「人形」同然だった、とも言えよう。
 
 
 
 そういう意味で言えば、例え決定的な対抗策を得ることが出来ないとしても、前回のシンジよりは遥かに優れた道を選んでは、いる。
 
 だが……それは、本当に、人類の滅亡を回避するという終着点に直結しているのか?
 
 もっと上手い手段があるのに、それを発見することが出来ずに、既に何度も道を踏み外しているのではないか?
 
 
 
 打つ手なし、という状況に直面するたびに、シンジは何度もそう思う。
 
 打つ手なし。
 
 本当に、そうか?
 
 自分の浅はかな思考では思い付かない、素晴らしい手段を、見逃してしまっているのではないか。
 
 
 
 例えば、戻ってきたのが自分ではなく、リツコだったら?
 
 今回のレリエル戦にしても……彼女の、物理学に精通した頭脳をもってすれば、事前にレリエルの「虚数空間を内包する」という事実を知って取ることのできる対策が、幾らでもあるのではないか。
 
 
 
 なぜ、自分が選ばれたのだろう。
 
 大いなる意志が「碇シンジ」を選んだ意味を、シンジは計りかねていた。
 
 
 
 ……だが、シンジがひとつだけ、わかっていること……
 
 
 
 ……それは、「レイ」のこと。
 
 
 
 彼女を、人形のような心から、人間として昇華させること。
 
 それは、自分にしかできない。
 
 他の誰が戻ってきても、それはなしえなかった、と、思う。
 
 
 
 ……その理由は、簡単だ。
 
 
 
 ……自分だけが、レイを、愛しているからだ。
 
 
 
 ……誰よりも……深く、強く、レイを愛している。
 
 
 
 ……その、無償の愛が……
 
 ……彼女を、変えたのだから。



三百十七



 本来であれば、チルドレンは準備が出来次第、エヴァンゲリオンに搭乗……ただちに出撃となる筈だった。
 
 その場合、作戦については、マイクを通して決定済みのものを伝えられ、パイロットはその作戦に従う。
 
 それが、NERVという組織の機構でも、ある。
 
 それに、使徒は刻一刻と本部に近づいている。相手の攻撃方法はまだ判明していないのだから、後手に回ることが致命傷となる可能性も否めない。
 
 である以上、チルドレンは何を置いてもまず出撃、となっておかしくない。
 
 事実、前回でのレリエル戦では、そうだった。
 
 
 
 だが、今回は、違った。
 
 
 
 子供たちは、最初に発令所に集められたのだ。
 
 
 
 これは、ミサトの発案だった。
 
 リツコも、止める気配はなかった。
 
 表向きには、「前線に立つ子供たちの意見も取り入れてみるため」、ということになっている。……勿論、それも事実ではある。
 
 だが……
 
 
 
 二人は、シンジの意見を聞きたかったのだ。
 
 もはや二人の間で意志の確認をする必要がないほど、それは明白な事実だった。
 
 シンジの意見を無視することで、最終的に殲滅に失敗する……
 
 その可能性を気にしない訳にはいかないほど、シンジの意見は重みを持って、二人に捉えられていた。
 
 
 
 「……これが、今回の敵よ」
 
 メインモニタを見上げながら、ミサトが低い声で呟く。
 
 ……もちろん、モニタに映っているのは、レリエルだ。
 
 
 
 「なんか……毎度毎度、バカにしてるわよね」
 
 アスカが、レリエルを見上げながら、呆れたような口調で言う。
 
 横に立っていたシンジが、アスカを見る。
 
 「何が?」
 
 「……デザインが、よ」
 
 肩を竦めて、アスカは応える。
 
 レイは、じっとレリエルの威容を見つめたまま、特に感想を述べない。
 
 
 
 ミサトは、三人の方に振り返った。
 
 「この敵は、ゆっくりここに向かって移動しているわ」
 
 「その前に倒せってこと?」
 
 ミサトの言葉に、アスカが口を挟む。
 
 「有り体に言っちゃえば、そゆコト」
 
 ミサトは、軽い口調とは裏腹に、ニコリともせずに返事を返す。
 
 
 
 ミサトの後ろに立っていたリツコが、口を開く。
 
 「この敵は、まだ何も敵対行動を取ってきていないわ。ただ、浮いてこっちに向かっているだけ。
 
 逆を返せば、どんな攻撃方法で仕掛けてくるのか、わからないってことよ」
 
 黙って聞いていたレイが、微かに表情を険しくする。
 
 一筋縄ではいかないかも知れないことを、感じ取ったからであろう。
 
 アスカが、右手を上げる。
 
 「あのさ」
 
 リツコとミサトが、視線を上げてアスカを見る。
 
 アスカは、おずおずと口を開く。
 
 「さっきから、気になってんだけど……敵、敵、って……使徒でしょ?」

 
 
 ミサトとリツコは、じっとアスカを見つめたままだ。
 
 沈黙……。

 アスカは、予想外の沈黙に、思わず眉をひそめる。
 
 
 
 ……何か、おかしなことを、言っただろうか?
 
 
 
 リツコが、目を瞑り……微かに、微笑んだ。
 
 ミサトも、ふぅ、と息をついて微笑む。
 
 「……さすがね、アスカ」
 
 
 
 アスカは、意味が分からず、ぼぅっとした表情で、二人を見返した。
 
 
 
 リツコは、瞑っていた瞼を開くと、口を開いた。
 
 「まだ……使徒だと、確定したわけじゃないの」
 
 
 
 アスカは、目を見開いた。
 
 
 
 慌てたように、言葉を紡ぐ。
 
 「あ……え? だ、だって……あ、あんなの、使徒に決まってるじゃない!」
 
 
 
 ミサトは、腕を組んでアスカを見た。
 
 「もちろん、私達だってそう思ってるわ。あんな造形したやつが、使徒じゃないなんつったら、一体なんだってのよ」
 
 「それなら……」
 
 「でもね」
 
 リツコが、ミサトの言葉を継ぐ。
 
 「……パターンオレンジ、正体不明。MAGIは、そう言ってるわ。
 
 わかる?
 
 あの、第11使徒を思い出して。あの使徒は、以前からタンパク壁の中にいたわ……でも、MAGIが使徒だと判断する瞬間まで、わからなかった。
 
 そして、使徒として発現すると同時に、それまでとは全く違う動きをしてみせた」
 
 リツコの言葉に、アスカは首を傾げる。
 
 「何のハナシ?」
 
 「……今の、あの敵の状態は、当てにならないってこと。パターン青を示すと同時に、全く予想もつかない攻撃を、突然仕掛けてくるかも知れない」
 
 「油断は禁物ってことよ」
 
 ミサトが、静かに言った。
 
 
 
 シンジは、内心に微かな驚きを持って、アスカの横顔を見ていた。
 
 レリエルのパターンがオレンジだったという事実は、シンジも知らなかった。
 
 そして、今の会話の中から、それに気付くことは出来なかった。だがアスカは、僅かながら違和感を感じたのだ。
 
 
 
 アスカは、ミサトとリツコに視線を向けながら、神妙な面持ちで口を開いた。
 
 「だって……じゃぁ、どうするの? 油断するなって言っても……攻撃方法も何も分からないんじゃ、警戒のしようがないじゃない」
 
 
 
 アスカの疑問は、もっともだ。
 
 油断するな、と言っても……何に対しての油断か?
 
 それが分からなければ、どうにもならない。
 
 
 
 シンジは、まず、「影」に対しての警戒が必要だ、と考えていた。
 
 出撃前にそれをレイとアスカに伝えられれば、危険は大きく減る。
 
 
 
 それを進言しよう……と、シンジは、口を開きかけた、そのとき。
 
 
 
 ミサトは、瞑っていた瞼を開き、シンジを見る。
 
 ゆっくりと、口を開く。
 
 
 
 「シンちゃんは……どうしたら、いいと思う?」
 
 
 
 シンジは、口を半分開いたまま、思わず固まってしまった。
 
 
 
 まさか、向こうから意見を求められるとは……。
 
 
 
 しかし、良く見ると、リツコも異議を唱えない。
 
 何も言わず、ミサトの後ろに立って、じっとシンジを見つめている。
 
 更に見ると、コンソールに座るマヤやシゲル、マコトも、自分を見ている。
 
 
 
 慌てて振り返ると……アスカとレイも、自分を見ていた。
 
 (……えっ?)
 
 妙な空気に、戸惑う。
 
 
 
 レイが自分を信じてくれているのは、まぁ、予想通りだとして……
 
 アスカまでも、この場の「シンジの意見を初めに聞こう」という空気に、不満を見せないとは、どういうことか?
 
 
 
 ……実際、アスカも、自分の心の動きに驚いていたのだ。
 
 今の場の流れは、どう見ても、シンジの意見に重きを置いている。
 
 もちろん、最初に、偶然シンジに意見を聞いただけ、かも知れないが……
 
 ……それにしては、全員の視線がシンジに集中している。
 
 
 
 みんな、シンジがどういう作戦を打ちだすか、それに注目している。
 
 とりあえず聞いてみた、などと言う……場当たり的な質問ではないのだ。
 
 
 
 にも、関わらず……
 
 
 
 ……なぜ、自分の心が、さほど大きくは、ざわつかないのか?
 
 
 
 自分の性格を、分かっていないわけではない。
 
 同じエヴァのパイロットであるシンジのことを、みなが自分より重く扱うことを、よしとすることのできる自分ではないはずだ。
 
 だが、今の自分は、さほど嫌な気分ではない。
 
 
 
 ……わかっている。
 
 
 
 ……それは……自分も、シンジの意見が、気になっているからだ。
 
 
 
 もはや、揺るぎようがない気持ち。
 
 わかっている。
 
 否定することが、もう、意味がない、気持ち。
 
 
 
 ……シンジは、自分たちと、大きく、違う。
 
 
 
 全く、まっさらな気持ちで、この状況を傍観できるわけではない。
 
 何となく、腹立たしいような気持ちも、ある。
 
 
 
 だが、それを押さえ込むほどに、強い気持ちがある。
 
 ……シンジの意見は、自分にとっても、重いのだ。
 
 
 
 レイは、シンジの意見を皆が聞くのは、当然だと思っていた。
 
 もともと、シンジの意見、シンジの行動が、何よりも作戦の成功に直結していることを知っているレイとしては……むしろ、皆がシンジの意見に注目するタイミングを、遅すぎるとすら思う。
 
 シンジが、一人で行動することは、彼の無理に繋がる。シンジの意見が作戦に反映されることは、レイにとって喜ぶべきことだった。
 
 
 
 シンジは、取りあえず、気を落ち着かせた。
 
 妙に注目が集まっているが、せっかくのチャンスだ。
 
 出撃してから、ミサトの作戦に逆らうような形で指示を出さねばならないと思っていたのだから、これは渡りに船というものだろう。
 
 
 
 シンジは、一つ、咳払いをして……それから、口を開いた。
 
 
 
 「まずは……エヴァで出撃するよりも前に、兵装ビルなどで、攻撃を仕掛けてみるべきだと思います」
 
 シンジの言葉に、リツコは、表情を変えずに、即座に反応した。
 
 「そう言う根拠は?」
 
 
 
 「……使徒の攻撃方法や、防御方法の類いが分かっていないわけですから……それを解明しなくてはいけません。攻撃すれば、反応するかも知れない」
 
 
 
 「……そうね」
 
 シンジの答えを聞いて、リツコは、小さく頷いた。
 
 「そうしようと、私も考えていたわ」
 
 
 
 前回は、そうならなかった。
 
 だがそれは、奢った自分が、先走って行動したからである。
 
 先に攻撃を仕掛けて様子を見る、というアイデアは、誰にでも思い付くものだ。
 
 リツコやミサトが、それを考えていなかったとは、思いがたい。台無しにしたのは、自分なのだ。
 
 
 
 「エヴァの出撃は、その後でいい、と言うこと? 事前に準備しておかなくても、いいかしら」
 
 腕組みをして、ミサトが言う。
 
 確かに、前回、三体のエヴァは早い時期からスタンバイを完了していた。
 
 だが、シンジは静かに目を瞑る。
 
 「もちろん、それでもいいんですけど……出来ることなら、その反応を見て、改めて作戦を練ったほうがよくないですか? 今の状態では、情報が少なすぎるでしょう」
 
 
 
 この状況では、必ずしもどちらがいい、とは言い切れないだろう。
 
 攻撃を仕掛けたことでレリエルが劇的に変貌し、物凄い攻撃を仕掛けてくるかも知れない。
 
 その際に、エヴァがスタンバイ状態に無いことは、致命的だ。
 
 ……だが、シンジは、レリエルがそんな種類の使徒でないことは知っている。結果を知っているから打てる理論ではあるが、シンジは、飛び込むと危険であるという事実を、しっかりと口頭で伝えてから出撃したかった。
 
 虚数空間に取り込まれる……それは、二度と戻れない可能性が、非常に高い行動だ。
 
 そんな行動を、うっかりでも取らせるわけにはいかない。
 
 
 
 「……そうね」
 
 リツコは呟くと、くるりと踵を返した。
 
 マコトの方に、視線を向ける。
 
 「日向君。兵装ビル、6区から18区まで、攻撃準備」
 
 「はい」
 
 マコトは目でリツコに頷くと、そのままキーボードを叩いた。
 
 スクリーンに、複数のサブウィンドウが連続して開き、それぞれに映る各所の兵装ビルが、表層を格納していく。
 
 「攻撃、すんの?」
 
 アスカが、それを見ながら呟く。
 
 ミサトも、腕組みをしたまま……砲塔をレリエルに向けて照準を合わせていく兵装ビル群を見つめる。
 
 「確かに……シンちゃんの言うように、先に状況を見るのも悪くないわ。その反応を見てからでも遅くない」
 
 「……ふぅん……ま、いいけど……」
 
 アスカは、それだけ言うと、口を噤んだ。
 
 
 
 「準備完了。照準、目標に固定されています。目標、行動に変化無し」
 
 マコトの言葉に、リツコはゆっくりと反応した。
 
 「攻撃」
 
 
 
 バッ、と、ビルの壁面から白煙が上がり、中から煙の棒が突き出した。
 
 ズアッ、と、ミサイルが軌跡を残して、群れになってレリエルに向かって飛んでいく。
 
 
 
 そして、そのまま、音もなく、球体の中に、飲み込まれそうになったとき……
 
 
 
 「あッ!?」
 
 画面を見ていたミサトが、驚きの声を上げた。
 
 
 
 ……忽然と、レリエルの体が消えたのだ。
 
 
 
 飛来したミサイルは、そのまま正面衝突して空中で爆発したり、反対側まで飛んでいって遠くのビルを破壊したりしている。
 
 「どっ……どこに行ったの!?」
 
 慌てた声で、ミサトがマコトの肩に飛び付く。
 
 マコトも、蒼い顔でキーを叩く。
 
 「ちょッ……ちょっと、待って下さい……ッ」
 
 
 
 アスカも、唖然として、レリエルの消えたメインスクリーンを見つめていた。
 
 
 
 レイも、目を見開いて、メインスクリーンに広がる空を見つめている。
 
 
 
 リツコは、レリエルが消えた瞬間……反射的に、振り返ってシンジを見た。
 
 この、予想外の動きを見せたレリエル。
 
 「それを見たシンジが、どういう反応を見せるのか」
 
 それに対する好奇心が、一瞬、使徒への対策に勝った。
 
 
 
 ……シンジは、メインスクリーンを見ていなかった。
 
 視線は、横のサブモニタに向いていた。
 
 その表情にも、驚きはない。
 
 ただ、淡々と、起こった事実を受け止めていた。
 
 
 
 ……唖然と、した。
 
 
 
 リツコは、思わず足をシンジの方に踏みだす。
 
 ありえない!
 
 今の、「使徒が消滅する」という事実に、何故、驚かない?
 
 驚いて当然ではないか。
 
 予想することなど、できない……!
 
 
 
 「シンジく……」
 
 カツカツッ、と駆け寄って、リツコが思わずシンジに声を駆けようとしたとき……
 
 
 
 「……パターン青、確認! 使徒です!」
 
 
 
 マコトの声に、反転するように、リツコはバッ、とモニタの方を振り返った。
 
 
 
 状況に変化はないように見える。
 
 「どこ?」
 
 リツコは、感情を殺したような声で呟く。
 
 「リツコ! あれ……」
 
 ミサトが驚きを含んだ声で叫び、腕を伸ばした。
 
 その、指のさす、先……。
 
 
 
 サブモニタに映っている兵装ビルが、地面の影に沈んでいく。
 
 球形の使徒は上空に現れ、そこから地面に落ちる影が、底なし沼のように、上に建つビルを飲み込んでいく。
 
 「……パターン青を示しているのは、影です! あれが……本体です!」
 
 シゲルが叫ぶ。
 
 
 
 リツコは、再び振り返っていた。
 
 茫然とした表情で……シンジを見ていた。
 
 
 
 誰も気づいていない。
 
 あの一瞬の、シンジの表情を見ていたのは、リツコだけだったのだから。
 
 
 
 ……シンジは、サブモニタを見ていた。
 
 
 
 あの……レリエルが本性を現した、あの、風景を。
 
 見ていたのだ……。
 
 
 
 使徒が現れる、前から。
 
 
 
 何故分かる?
 
 
 
 あそこに現れると、何故、分かるのだ?



三百十八



 ビルを飲み込んだ後、使徒は、その進行を停止した。
 
 前回、あれだけ長い時間、シンジが虚数空間にいて……その間、本部が襲われなかったのだから、もしかすると発現したところで停止するのではないか、とシンジは思っていたが、どうやら図に当たったようだ。
 
 ……これで、かなり有利に作戦を進められるだろう。
 
 何しろ、今回は、「シンジの命」というタイムリミットがない。このままにしておくわけは、勿論いかないが……ずっと、余裕を持って行動できる。
 
 
 
 「……分析、急ぎなさい」
 
 リツコは、マヤに声をかけた。
 
 マヤは頷いて、自分の前のサブモニタを注視する。
 
 MAGIが算出する膨大なデータが流れて行く様を目で追いながら、激しい勢いでキーボードを叩いていく。
 
 
 
 「……どうするの?」
 
 ミサトが、リツコを見て口を開く。
 
 リツコは、レリエル……その、球体と影とを見ながら、応える。
 
 「とりあえず……アレは、使徒と確認されたのだから、殲滅しなければいけないわ」
 
 「どうやって?」
 
 「それは、分析待ちね。状況はわかっても、あの影が何なのか……それが分からなくては、作戦の立てようが無いわ」
 
 リツコの言葉に、ミサトは溜め息をついて頷いた。
 
 「……まずは、闘い前の休息ってことね」
 
 「そうね……目の前に使徒が来てるのに悠長なことだけど、今、分析の方はフルスピード稼働中。遊んでるわけじゃないし、仕方ないわね」
 
 
 
 「……じゃあ、ナニ? アタシたちは、どうすりゃいいの?」
 
 アスカが、リツコとミサトの顔を交互に見ながら、呟く。
 
 ミサトは、肩を竦めてみせた。
 
 「本部からは、出ないでちょうだい。非常事態になったら、いつでも出撃できるように……プラグスーツも着たまま、ついでに言うと、D区より向こうに行かないでくれると、出撃のタイムロスが無くて助かるわね」
 
 「……要するに、呼びだし喰らうまで自由行動ってこと?」
 
 「そういうことね。軽く、食事でもしていて」
 
 
 
 アスカは、頭の後ろで両腕を組むと、ぐぅっと胸を逸らすように伸びをした。
 
 そして、手を伸ばす。
 
 「なんかなぁ……目の前に使徒がいんのに……まだるっこしいわね」
 
 溜め息と供にアスカが呟くと、ミサトが、その言葉の上に声を被せた。
 
 「わかってるでしょ、アスカ。何だか分からない敵に、闇雲に突っ込んだって勝てやしないわ」
 
 「わかってるわよ」
 
 ミサトの言葉に、アスカは軽く返す。
 
 
 
 「じゃ……それまで、ぼぉっとしてるわ。分析、あんまし遅くなんないでよね」
 
 アスカは、そう言いながら、くるりと出口の方にきびすを返した。
 
 そして、横に立つシンジとレイに声をかける。
 
 「シンジ、ファースト、行くわよ。食事でもしてよう」
 
 
 
 「……ちょっと、待ってちょうだい」
 
 
 
 リツコの声に、三人は振り返った。
 
 ミサトも、不思議な顔で、リツコを見る。
 
 
 
 リツコは、腕を組んだまま、じっと……
 
 ……シンジを、見ている。
 
 
 
 口を、ゆっくりと、開く。
 
 
 
 「……シンジ君は、残ってくれる?
 
 ……ちょっと、話があるのよ」