第六十六話 「闇」
三百五



 ミサトは、完全に元に戻っていた。
 
 
 
 もう少し具体的に説明するならば、「一時的に元気がなかったようだが、気が付けば何事もなかったかのように平常になった」とも見える。
 
 事実、アスカやレイは、そう受け止めたようだ。
 
 
 
 「なによ、ミサト……今朝は腹具合でも悪かったわけ?」
 
 ソファに寝転がりながら、アスカがミサトに声をかける。
 
 「なにが?」
 
 「朝、起きてんのに、食事に出て来なかったじゃない」
 
 「あ、ああ、あれね〜。なんか、変なモノ食べたのかも知れないわね」
 
 「落ちてるものでも拾って食べたんでしょ」
 
 「……そんなことするわけないでしょ!」
 
 「ミサトさん……地面に落ちているものには、およそ人体に有害な雑菌が付着し、食材内で繁殖している恐れがあり……」
 
 「……あのね……真に受けないで、レイ……」
 
 
 
 夕食後の、他愛もない会話。
 
 そんなやり取りを、シンジは、ただ黙って聞いていた。
 
 
 
 シンジは、ミサトの元気がなかった理由の一端を知っている……昼間、休憩所で、加持の口から、直接聞いた。
 
 ミサトの元気がない理由は、加持にある、と、彼は言ったのだ。
 
 ……であるから、ミサトの調子が戻っていることから、二人が仲直りしたんだな……と、推測できた。
 
 もちろん、そんなことをここで口に出したりはしないが。
 
 大したことではない、些細な喧嘩だったのだろう、と、シンジは思った。
 
 
 
 とにかく、二人が仲直りしたこと……ひいては、ミサトの元気が回復したことは、シンジには嬉しかった。
 
 
 
 加持から連絡を受けたのは、その晩のことだった。
 
 
 
 夜……もう、レイやアスカは自宅に戻り、ミサトは爆睡状態に突入している時刻。
 
 シンジ自身も、ベッドに寝転がって、眠りの淵を行きつ戻りつし始めていたころに、突然、携帯電話がコールされたのである。
 
 
 
 シンジは、驚いて飛び起きると、机の上で鳴っている携帯電話を手に取る。
 
 一瞬「招集か?」と思ったが、考えてみれば、使徒の襲来スケジュールを把握しているシンジが驚くようなタイミングで招集があるはずがない。
 
 液晶を見ても、番号非通知設定で、誰からの連絡なのかはわからない。
 
 
 
 不思議に思いつつ、受話器の上がったアイコンを親指で押す。
 
 
 
 「はい、碇です」
 
 『ああ、シンジくんかい?』
 
 「あ、はい……ええと?」
 
 『加持だよ』
 
 「あ……え、加持さん? 珍しいですね」
 
 
 
 そう……
 
 加持からの電話を受けるのは、非常に珍しい。
 
 シンジの方から、加持に連絡を取ったことはある(テストプラグを使用不可能状態にして欲しい、と頼んだときだ)。
 
 だが、加持の方から、シンジに電話を掛けてきたのは、これが初めてだった。
 
 
 
 何事だろう、と思ったが、まず……シンジは、ミサトの様子を思い出して、先に口を開いた。
 
 
 
 「あ、加持さん、あの……ミサトさんと、仲直りされたんですね」
 
 『ん? まぁね……葛城が、何か言ったのかい?』
 
 「いえ、ただ……その……元気に、なったので」
 
 『……ああ……分かり易いやつだなぁ』
 
 「そう……ですね」
 
 思わず、二人の言葉に苦笑が混じる。
 
 
 
 そのまま……数秒の、沈黙。
 
 
 
 『……ところで、だ』
 
 加持が、区切りをつけるように……ひと息ついて、呟いた。
 
 『明日、時間はあるかな?』
 
 
  
 「明日……ですか?」
 
 
 
 『そう』
 
 「訓練があるわけじゃないですから……放課後なら、一応、空いてますけど……」
 
 『そうか、じゃぁ、悪いけどNERVまで来てくれるかな?』
 
 「構わないですけど、どうしたんですか?」
 
 『いや、食事でもどうかと思ってね』
 
 「はぁ……」
 
 
 
 わざわざ、加持から電話をかけてきて……食事?
 
 
 
 意味は分からない。
 
 だが、特に断る理由もなく、シンジは了承した。



三百六



 翌日。
 
 シンジは、授業が終わってから、NERVに直行した。
 
 
 
 レイとアスカを連れていくかどうか……について、かなり迷ったのだが……結局、シンジは、一人で行くことに決めた。
 
 単に、加持が食事に誘ってくれているのであれば、レイやアスカを連れて行っても構わない……と言うか、連れて行ってあげたいくらいだったのだが……ひとつ、懸念が浮かんだのだ。
 
 
 
 加持は、本当に、ただ食事に誘うためだけに自分を呼んだのだろうか?
 
 
 
 もちろん、昨晩の会話を思い出す限りは、そうだ。
 
 だが、それはやはり、シンジには少々不自然に感じられた。
 
 
 
 加持が、もしも食事以外の用件でシンジを誘ったのだとしたら……それはつまり、「MAGIのチェックを受けている携帯電話では、話せない用件」だということだ。
 
 でなければ、昨晩の電話で、加持は用件を話しているだろう。
 
 そうなると、その用件の内容が分からない以上……他の人間が同席しても良いものなのかどうかは、シンジには判断がつかない。
 
 どうしても、一人で行くしかなかった。
 
 
 
 レイは、アスカと二人で帰って行った。
 
 シンジが、そう頼んだのだ。
 
 レイは残念そうだったが、我が侭を言うことなく、帰路についた。
 
 申し訳ないと思うし……今度、何かの形で埋め合わせをしなければいけないな、と、シンジは思う。
 
 
 
 バスに揺られながら、シンジは、その「埋め合わせ」について考える。
 
 デート……にでも、行こうか。
 
 ……結局、毎日一緒にいるのだから、そういう意味で言えば毎日デートしているも同然なのだが……本人たちには、その意識はないようである。
 
 
 
 帰り道、アスカとレイは、並んで道を歩いていた。
 
 いつもなら、シンジを加えた三人で一緒に帰ることが多いが……そうでない場合にも、シンジとレイが二人だけで帰るということは、別段珍しくはない(アスカがヒカリと買い物に行ってしまうためだ)。
 
 だが、アスカとレイの二人だけ……という、この組み合わせは珍しい。
 
 二人は、学校を出て以来、ここまで十分ほどの間、特に言葉を交わすこともなかった。
 
 
 
 アスカは、横に並んで歩くレイを、盗み見る。
 
 
 
 レイは、ただ、黙って……夕暮れに微かに染まり始めた光を頬に受けて、じっと歩いていた。
 
 
 
 アスカは、自分の変化を、改めてゆっくりと認識する。
 
 レイと出会ったばかりの頃であれば、この沈黙は、アスカにとって苦痛でしかなかったであろう。
 
 それも、沈黙の苦痛さから、無理に会話の糸口を探してしまうような、そういう種類のものではなく……
 
 ただただ、忌々しさと苛立ちが募るような、そんな、沈黙。
 
 
 
 しかし、今は、平気だ。
 
 そして、それが、特に不思議に感じられない。
 
 
 
 アスカの中で、レイという存在が、異質ではなくなったことが、その理由だろう。
 
 
 
 レイは、俯きがちに歩いていた。
 
 自分の爪先を見ながら歩いているような、そんな様子だ。
 
 視線は、地面を見ているようで……その実、何も見ていないことが分かる。
 
 アスカは、溜め息をついて、口を開いた。
 
 「……なに、辛気臭い顔してんのよ、ファースト」
 
 
 
 レイは、少しだけ顔を上げて、アスカの方に視線を向けた。
 
 
 
 「……なにが?」
 
 「なにがって……思いっきり、ブルーな顔してるじゃない」
 
 「ブルー? ……血色が」
 
 「ちがうわよっ。え〜……落ち込んでるってこと」
 
 「………」
 
 「どうせ、シンジが一人でどっかに行っちゃったことが、気になってるんでしょ?」
 
 レイは、一瞬アスカの瞳を見た後……黙って、再び視線を落とした。
 
 
 
 アスカは、苦笑して、微かに息をついた。
 
 
 
 最近、いつもいつも思うことだが……レイは、非常に、反応が分かりやすい。
 
 もちろん彼女は基本的に無表情で、そういう意味で言えば、何を考えているのかよっぽど分かりづらいのだが……
 
 「レイ」という存在をある程度理解してくると、その感情表現はむしろ、とてもストレートであることが分かるようになる。
 
 
 
 普通の人間であれば……成長していく過程で、自然と身につける、「感情を隠す」術。
 
 心の裡で考えていることとは、別の表情をしてみせる技術を、そうしたいという願望とは関係なく習得し、使うようになる。
 
 ……だがレイは、そういう技術を、まるで持っていないかのようだ。
 
 
 
 言葉を言い替えるならば……非常に、純粋。
 
 それが、レイの一面であり……
 
 ……アスカにも、時として眩しく感じられることがあるのだ。
 
 
 
 アスカは、口を開いた。
 
 「……別に、そんなに落ち込むほどのことじゃ、ないでしょ」
 
 
 
 「………」
 
 レイは、視線を落としたままだ。
 
 アスカは、苦笑して言葉を続ける。
 
 「だいたい、シンジ……いっつもアンタと一緒ってわけでもないじゃない。鈴原とかと一緒に、ゲームセンターに行っちゃうこととか、あるでしょ?」
 
 「……今日は、一人だったわ」
 
 「ま……そうだけどさぁ。そんな、四六時中一緒で、飽きないの、アンタ」
 
 「飽きる……? 碇君に? なぜ?」
 
 「……はいはい、いいんだけど、別に」
 
 「………」
 
 「なに、第一……アンタ、アタシと二人でいるの、つまんないってわけ?」
 
 アスカはそう言うと、少しだけ意地悪そうに微笑んだ。
 
 
 
 レイは、アスカを見た。
 
 
 
 表情に、変化はない。
 
 
 
 驚きも、困惑もなく……呟いた。
 
 「なぜ? ……別に、そんなこと、考えたことない」
 
 
 
 「あ……そう……」
 
 失速するように、アスカは思わず返事をした。
 
 
 
 どういう意味だろうか……。
 
 
 
 そんな感情を覚える価値すら感じないほどに、路傍の石と、同じように扱われているのか?
 
 それとも……。
 
 
 
 それ以上、深く切り込むことは、アスカには出来なかった。
 
 レイに拒絶されることを恐れている自分に気付き、アスカは、軽い驚きを覚えた。
 
 
 
 二人は、その後……家に着くまで、会話を交わすことがなかった。



三百七



 NERVに到着したシンジは、まっすぐ待ち合わせの場所に向かった。
 
 考えてみれば、IDカードを使って普通にNERVに入ってしまった以上、シンジの入館記録はデータとして残ってしまっているわけで……秘密裏に行動しよう、とするのであれば、もはやその目論見の一部は崩れてしまったと言わざるを得ない。
 
 だがそれに気付いたのは既に入館した後であったし……第一、じゃあ記録を残さずに入るにはどうしたらいいのかと言うと皆目見当がつかないので、これは仕方がないことだろう。
 
 だいたい、昨晩の電話だけを解釈するならば、食事に誘われただけだ。
 
 行動を隠す必要など、ないはず。
 
 ……どうも、加持にアプローチをかけられると、その裏側を思い巡らせてしまっていけない。
 
 
 
 加持と待ち合わせたのは、昨日会った、あの休憩所だ。
 
 
 
 シンジが、休憩所の見えるあたりまで歩いてくると……加持が、その入り口付近に立っているのに気付く。
 
 シンジが歩速を早めると、加持はシンジに気付き、軽く手を挙げた。
 
 
 
 「よっ。悪いな、シンジくん」
 
 屈託のない表情で、加持は微笑む。
 
 「いえ、それは、いいんですけど」
 
 「じゃ、早速、行こうか」
 
 「? どこへですか?」
 
 「食堂だよ。……食事に誘ったんだぜ。忘れたのかい?」
 
 「あ……あ、ああ、いえ……」
 
 
 
 シンジは慌てて加持の言葉に頷くと、歩き出した加持の後についていくようにして、自分も足を踏み出した。
 
 結局……ただの、食事の誘いだったのだろうか?
 
 勘繰りすぎた、のかも、知れない。
 
 
 
 NERVの職員食堂は、休憩所から数百メートル離れた、主幹通路の突き当たりにある。
 
 食堂が見えるあたりまで来て、シンジは、少しだけ驚いたように目を見開いた。
 
 
 
 「……あら? シンちゃん?」
 
 食堂の入り口に立っていたミサトが、シンジを見て、同じく驚いたように声を上げた。
 
 「ミサトさん……」
 
 シンジも、思わず意味もなく呟く。
 
 
 
 「え……シンちゃん、どしたの? 今日は、訓練、ないでしょ?」
 
 ミサトが、呆気にとられたような表情のまま、呟く。
 
 シンジも、どう応えていいか分からずに、所在無さ気に頭を掻いた。
 
 「あ……ええ、まぁ……そうなんですけど、その……」
 
 「俺が、食事に誘ったのさ」
 
 横から、加持が軽い口調で言う。
 
 ミサトが、加持の顔を見た。
 
 「え? 加持君が?」
 
 「そ。別にいいだろ、葛城?」
 
 「あ……う、うん、わたしは、構わないけど」
 
 慌てて頷くミサト。
 
 
 
 ……あっ。
 
 
 
 二人で食事の予定だったのだろうか、と、シンジは遅ればせながら気付く。
 
 と言うか……食堂の入り口で、ミサトが、加持が来るのを待っていたのだから、それ以外にありえない。
 
 
 
 急に、シンジは、申し訳ないような気分になった。
 
 
 
 「あの……」
 
 「ん? なんだい、シンジくん」
 
 食堂の中に入りかけた加持の背中に、シンジがおずおずと声をかけた。
 
 加持は、立ち止まって振り返る。
 
 シンジは、加持の顔を見て……バツが悪そうに、鼻の頭を掻いた。
 
 「あの……僕、お邪魔でしたら……その」
 
 
 
 加持とミサトは、一瞬、ポカンとした表情でシンジを見る。
 
 
 
 シンジは、居心地悪そうに立ち尽くすしかなかった。
 
 一拍置いて……シンジの言葉の意味を咀嚼したミサトが、ヅカヅカッとシンジの前まで歩み戻る。
 
 腰に手を当てて、ぐいっと鼻先をシンジの顔に近付けた。
 
 思わず、腰が引けたような姿勢になるシンジ。
 
 
 
 「なァ〜に……下らないこと言ってるのよ、シンちゃん?」
 
 大袈裟に、睨むように、シンジの顔を見る。
 
 シンジは、言葉を継げない。
 
 「えと……」
 
 「そォゆうのはね、いらぬおせっかいって言うのよ〜」
 
 「……ハ、ハイ……すいません……」
 
 ミサトの言葉に、思わず返事をしてしまうシンジ。
 
 「わかれば、よろしい」
 
 ニカッ、とミサトは笑うと、ぐいっと腰を伸ばして踏ん反り返り、くるりと反転して食堂の中に足を向けた。
 
 「ホラ、シンちゃん! おねぇさんが奢ったげるから、好きなもの選びなさい!」
 
 片手を上げて、背中を向けたままシンジに声をかける。
 
 
 
 シンジの横に立って、微笑んでその背中を見ていた加持は、ついっとシンジの耳許に口を寄せた。
 
 「……照れてるんだよ」
 
 「えっ?」
 
 「ま、軽く流してやってくれ」
 
 「……あ……は、はい」
 
 「どっちにしろ……こっちが誘ったんだから、シンジくんが気にすることなんて、ないんだよ」
 
 言いながら、再び姿勢を正すと、加持はミサトの後を追うように、足を踏み出す。
 
 シンジも、慌ててその後を追った。
 
 
 
 三人は、四人掛けの机を囲んで座っていた。
 
 安物の食堂にあるような、折畳みの脚に薄くて白い天板がついただけの机。
 
 尻の骨が当たるような、薄いスポンジを張ったパイプ椅子。
 
 NERVには資金が潤沢にある筈なのだが、こういうところにお金をかけない体質らしい。
 
 
 
 シンジの前には、オムライスのトレーが置いてある。
 
 
 
 加持は、シンジの横に座っている。
 
 加持の前にあるのは、ごはんと、味噌汁と、たくあんと、ししゃも。
 
 「……ししゃも……好きなんですか?」
 
 「ああ、いいねぇ。スルメもいいねぇ」
 
 「……はぁ……」
 
 
 
 ミサトは、加持の向かい側に座っている。
 
 ミサトの前に置いてあるのは、焼肉定食。ご飯大盛り。餃子つき。
 
 「………」
 
 「ん? ナニ、シンちゃん?」
 
 「……いえ」
 
 (食事の量を増やそうかな……)
 
 
 
 ちなみに、レイとアスカの夕食は、きちんと用意してラップしておき、別れ際に、二人に手順を伝えておいた。
 
 今頃、葛城家で食事を取っていることであろう。
 
 しかし、どうやら……今回のことは、本当にただの食事会のようだ。
 
 こんなことなら二人とも連れてきてあげればよかった、と、シンジは少し申し訳なく思った。
 
 
 
 「そふぉ言えば、加持君……なんで、シンちゃんを誘ったの?」
 
 もぐもぐ、と口を動かしながら、ミサトが言う。
 
 「葛城……食べてから喋れよ」
 
 加持が苦笑して言う。
 
 「そふぉんなことはいいから……もぐもぐ」
 
 「……いいけどな……ま、なんだ……深い意味はないんだよ」
 
 「そぉなの?」
 
 「そ……だが、そうだな……」
 
 加持が、少し考えるように、視線を漂わせる。
 
 「ま……俺達が元の鞘に戻ったのも、シンジくんのおかげ……とも言えるし……てのは、どうかな?」
 
 「は?」
 
 「え?」
 
 「俺はそうとも思ってるんだが……違うかな」
 
 加持が、ミサトに笑いかける。
 
 
 
 シンジは、何のことだか要領を得ない。
 
 「……い、いや……そう言われても……」
 
 何も、した覚えなど、ない。
 
 
 
 ミサトも、意味を理解したわけではないようだ。
 
 「う……う〜ん……どういうイミ?」
 
 「昨日、話しただろ? 葛城……俺達が、こうなった訳をさ」
 
 「こうなった……? 
 
 ………
 
 ……あ……ああ、大人に……って話?」
 
 「そうそう」
 
 加持が、頷く。
 
 シンジは、思わず首を捻る。
 
 「??? な……なんの話ですか?」
 
 「いや、まぁ、気にすることはないんだけどな」
 
 「気になりますよ……」
 
 「そうか……シンちゃんのおかげ……って、そう? そうなの? そう……かなぁ」
 
 「わけわかんないんですけど」
 
 「気にするなってことさ」
 
 「気になりますってば……」



三百八



 食事が終わって、しばらく三人は寛ぎつつ会話に花を咲かせた。
 
 会話に花を、と言っても……もともとシンジとミサトは、日頃から一緒にいる時間が多いこともあり、そんなにポンポンと話題が出てくるわけでもない。
 
 結果的に、会話の軸は、ミサトと加持に集約されるようになる。
 
 
 
 シンジは、加持とミサトの会話を聞きながら、二人の関係が確実に変化したことを知った。
 
 つい数日前であれば……特にミサトの方からは、加持に対して憎まれ口ばかりを叩くような間柄に見えた……例えそれが、愛情の裏返しであるとしても。
 
 だが、今の二人の間には、穏やかな空気が流れている。
 
 ずっと、連れ添ってきたかのように。
 
 ……確かに存在していた食い違いのようなもの……それを、ここ数日で……何らかの形で埋めたのだ。
 
 
 
 シンジは……加持とミサトには、是非とも一緒になって欲しいと思っていた。
 
 ミサトが加持のことを愛していたことは、前回の人生で知っている。
 
 加持の死を思い、暗い部屋の中で、涙を流す、ミサト。
 
 シンジには、何も出来なかった。
 
 ただ、蹲るミサトの背中を、どうすることも出来ずに見つめているだけだった。
 
 
 
 加持が、ミサトのことを愛していたことも、おそらく間違いはないだろう。
 
 加持の遺した最後の留守番電話が、その愛情を言葉に端々に滲ませていた。
 
 
 
 なぜ、加持が死ななければならなかったのか?
 
 それは、結局シンジには理解できないことだった。
 
 加持が何をして、何に触れ、そのために誰に殺されたのか。
 
 それを知ることは、力なきシンジには不可能だった。
 
 
 
 そして、結局、シンジには……加持の死を悼むことも、ミサトの悲しみを汲むことも、できなかった。
 
 加持の死は、大きなショックではあったが……結局、対岸の火事に過ぎなかった。
 
 何も、感じられなかったのだ。
 
 
 
 ミサトと加持は、終焉へと転がり落ちる時代に巻き込まれた、不幸な命だった。
 
 それはもちろん、二人に限ったことではなかったが……。
 
 周りに目を向ける余裕のなかった当時のシンジには、加持とミサトがどんな関係で終わったのかを知らない。
 
 だが……
 
 
 
 いま、目の前で笑いあう二人。
 
 その、二人の姿は、あの時の荒んだ情景には似合わなかった。
 
 錯覚かも知れない。
 
 だが、確かに……あの時の二人とは、違う関係を、築いているように見える。
 
 
 
 加持には、ミサトを幸せにして欲しい、と思う。
 
 ミサトに、悲しんで欲しくない。
 
 あんな、身を引き裂かれるような嗚咽を漏らす姿を、もう、見たくはない。
 
 
 
 「ん……?」
 
 ミサトが、ふと気付いて、シンジを見た。
 
 シンジは、二人をぼーっと見ていたのだが……ミサトに視線を向けられて、きょとんとしてミサトを見返す。
 
 「? なんですか、ミサトさん?」
 
 「あ……ううん、なにじっと見てるのかなぁ、と思って」
 
 ミサトが、シンジを見ながら応える。
 
 
 
 「ああ……いえ、仲いいな、と思って」
 
 
 
 ミサトが、思わず、顔を赤くした。
 
 (あ……照れてる)
 
 さすがに、シンジにも分かる。
 
 と言うか、分かり易すぎる。
 
 
 
 「葛城、顔が赤いぞ」
 
 加持が、あっけらかんとした表情で微笑む。
 
 「う、うるさいわねっ」
 
 どかっ、と加持の鳩尾のあたりを肘で小突く。
 
 ……しかし、はっきり言って、いちゃついてるようにしか見えない。
 
 
 
 (……ミサトさんも、ひとのことは散々からかうクセになぁ……)
 
 シンジは、頭の中で呟いて苦笑した。
 
 人のことと自分のことは別、ということであろう。
 
 「……なによ、シンちゃん、ニヤニヤして」
 
 なおも赤みの差した表情で、ミサトがじろっと睨む。
 
 「え? ……いえ、本当に、ごちそうさまです」
 
 にこっ、とシンジは笑った。
 
 「シンちゃん……あ、あなたねぇ……」
 
 「夕食ですよ、夕食」
 
 「え? ……あ、ああ……? う」
 
 「どうかしましたか?」
 
 再び、笑うシンジ。
 
 
 
 視線を向けると、加持も苦笑している。
 
 「……日頃の逆襲って感じだな、葛城」
 
 「ア、アンタはうるさいわねぇ〜」
 
 ミサトは、今度は加持を睨む。
 
 本来であれば、加持とミサトの二人がシンジからかわれている、という構図の筈なのだが……加持が全く意に介していないので、結果的にミサトが一人で矢面に立たされる形になってしまっている。
 
 しかも、どうやら加持も面白がって傍観しているようだ。
 
 
 
 「だ……だいたいねぇ」
 
 ミサトが、シンジの方に視線を向けた。
 
 「いっっっっっっ……っつも、シンちゃんとレイなんか、もっとベタベタにいちゃついてるんだからねっ」
 
 「え……」
 
 思わず、困惑したように反応するシンジ。
 
 本人に、そんな自覚は全く無いのである。……相変わらず。
 
 加持は、苦笑したまま……特に言葉を挟むことなく、二人のやり取りを見ていた。



三百九



 「……さて、それじゃ、そろそろ行こうか」
 
 
 
 加持が、椅子を引いて立ち上がった。
 
 「そうね」
 
 「あ……すいません、ご馳走様でした」
 
 立ち上がりながら、シンジが礼を述べる。
 
 ミサトが笑う。
 
 「いいのよん、別に。気にしない気にしない」
 
 「それは、奢った俺のセリフだろう」
 
 加持が苦笑する。
 
 
 
 食堂の出口で、ミサトが二人に片手を挙げる。
 
 「じゃ、わたし、もう少し書類の整理があるから」
 
 その言葉に、シンジも鞄を握り直した。
 
 「あ……じゃあ、僕もそろそろ帰ります。綾波とアスカが、待ってるし」
 
 「主にレイが、でしょ〜」
 
 「……い、いや……そう、です……けど」
 
 
 
 「おいおい、待ってくれよ、二人とも」
 
 
 
 加持が、そんな二人に屈託のない声をかける。
 
 ミサトとシンジが、加持の方を見た。
 
 「なに?」
 
 「あ……まだ、なにかあるんですか?」
 
 
 
 「あるさ。もうちょっと二人には付き合って貰うよ」
 
 加持が、軽い調子で笑ってみせた。
 
 ミサトが、きょとんとした表情で、加持を見る。
 
 「あ……そうなの?」
 
 「本題は、こっちさ」
 
 言いながら、加持が廊下を歩き出す。
 
 ミサトとシンジは、慌ててその後を追った。
 
 
 
 「……なに、こっちが本題って? お食事会じゃないの?」
 
 歩きながら、ミサトが加持の背中に声を掛ける。
 
 加持は、振り返らずに、片手を軽く挙げてみせた。
 
 「着いてからのお楽しみ」
 
 「……?」
 
 
 
 「……シンちゃん、何か聞いてる?」
 
 ミサトが、声を潜めて聞く。
 
 シンジは、黙って首を振った。
 
 見当がつかない。
 
 
 
 何だろうか?
 
 
 
 三人は、エレベーターに乗り込んだ。
 
 
 
 ブシュッ、と扉が閉じたが……加持は目的の階のボタンを押さない。
 
 ミサトが、見咎めて、声をかける。
 
 「加持君……ボタン」
 
 だが、加持はその言葉には応えずに、表示板の下にあるスリットにIDカードを通した。
 
 ウィン……と、機械的な駆動音がして、表示板の下のパネルが開く。
 
 
 
 「……レベル5!?」
 
 ミサトが、驚いたような声を上げた。
 
 加持は、一瞬、チラリとミサトの顔を見た後……開いたパネルの中にあるボタンを押す。
 
 
 
 エレベーターは、ゴウン……と音を立てて動きだした。
 
 三人の体に、下に移動する縦Gを感じる。
 
 
 
 ミサトは、低い声で、加持の背中に声をかけた。
 
 「……どういう、コト?」
 
 「着いてからのお楽しみ、って言ったろ?」
 
 「とぼけないで」
 
 感情を殺したような声音で、ミサトが畳みかける。
 
 
 
 「加持君……なぜ、あなたがレベル5のカードを持ってるの? レベル5は、NERVの中でも、10人と持っている人間はいないはずよ」
 
 
 
 「じゃ、これは何かな」
 
 加持が、今使ったカードを、右手の中でひらつかせる。
 
 ミサトは応えない。
 
 加持は、パチッと音を立ててカードを手の中にしまい込むと、そのままもう一度手を開いてみせた。
 
 先ほどまで、そこに踊っていたカードは、もう、ない。
 
 「フザけないで」
 
 「ふざけてなんてないさ。……NERVのカードが、絶対だなんて思っちゃいけない。人間の作るものは、結局、どうとでもいじれるってことだよ」
 
 
 
 シンジは、二人のやり取りを、無言で聞いていた。
 
 口を挟む余地が無い。
 
 第一、何を話せばよいのか分からなかった。
 
 
 
 加持は、自分たちを、どこに連れて行く気なのだろう?
 
 何をしようとしているのだろうか?
 
 
 
 エレベーターの中には、沈黙が舞い降りていた。
 
 ダイヤルの廻る、無機質な、メトロノームを思わせる音色だけが、狭い匣の中に響く。
 
 
 
 暫くして、体にゆっくりとした減速の荷重を覚え……
 
 数秒後、匣は完全に停止する。
 
 ダイヤルの下の小さなランプが、目的の階に到着したことを点滅で知らせ、同時にエレベーターの扉が開いた。
 
 
 
 扉の外は、暗闇に包まれていた。
 
 エレベーターの光から、ここが廊下であることは分かる。
 
 だが、三人が外に出ると、当然の如くエレベーターは閉まり……世界は再び闇に包まれる。
 
 もちろん、廊下の上部に小さな光が点々と連なり、かろうじて、廊下がどちらに伸びているのかは分かるようになっている。
 
 
 
 今は闇に包まれているが、シンジには、この場所の雰囲気に、直感で感じるものがあった。
 
 ここと同じ場所に、来たことがある。
 
 もちろん、ここと全く同じ場所ではないが……
 
 だが、空間の発するオーラというか、そういうものを肌で感じるのだ。
 
 
 
 ここは……
 
 
 
 加持が、小さなペンライトのスイッチを入れた。
 
 大した光量ではないが……かろうじて、足許の様子が見て取れる。
 
 
 
 「……どういう、つもりなの?」
 
 加持の後ろに立ったミサトが、低い声で呟いた。
 
 シンジが振り返ると、ミサトは、じっと加持を睨んでいる……尤も、その表情のほとんどは、暗くてよく分からないのだが。
 
 「見せたいものが、あるんだ」
 
 加持が、雰囲気にそぐわぬ、飄々とした調子で応える。
 
 
 
 「ここは、関係者以外立ち入り禁止よ……いえ、関係者だって、理由もなく入ることは許されない」
 
 ミサトが、少しだけ語調を強めて、言う。
 
 だが、加持は意に介さない。
 
 「……そうかな? なぜ、入ったらいけないんだ?」
 
 「それは……」
 
 逆に切り返されて、ミサトは口篭った。
 
 
 
 「……来るんだ。二人とも……見ておかなければいけない」
 
 言いながら、加持が歩き出す。
 
 慌てて、ミサトが加持の背中に声をかけた。
 
 「ま……待って、加持君!」
 
 加持が、立ち止まらずに呟く。
 
 「なんだ?」
 
 「……私は、まだ、レベル5だからいいわ……でも、シンちゃんは……ここに入ってはいけないのよ」
 
 
 
 加持は、一瞬……後ろを振り返った。
 
 前方をかざすライトの明かりを背後に背負い、逆光となって表情は見えない。
 
 
 
 「いや……誰よりも、君達二人が、見るんだ。そうでなければ、いけない」
 
 
 
 そのまま、再び視線を前の方に戻し、変わらぬ速度で歩き続ける。
 
 ミサトとシンジは、一瞬悩んだ末、足許に気をつけながら、足早に加持の後を追った。
 
 
 
 加持のところまで追い付いた後、歩速を落とし、加持と歩調を合わせるようにしながら、ミサトが呟く。
 
 「……これは、あなたの仕事? ……それとも、アルバイトかしら」
 
 「どちらでもないさ」
 
 加持が、特に驚く様子もなく、言葉を返す。
 
 「どうだか」
 
 「しかし……まぁ、バレバレか」
 
 「まぁね。……特務機関NERV特殊監察部所属、加持リョウジ……同時に、日本政府内務省、調査部所属、加持リョウジでも、あるわけね」
 
 淡々と、ミサトも語る。
 
 
 
 「……いつから、こんなことを?」
 
 「さぁ……忘れたな」
 
 加持は、表情を変えずに呟いた。
 
 「大した話じゃない。そのうち……気が向いたら、話すさ」
 
 
 
 シンジは、黙って横を歩いていた。
 
 二人の会話に、意見を差し挟む気はない。
 
 ただ、加持の危険な内調が、結果的に彼の命を奪った可能性は高いと思えるし、そういう意味では微かな懸念を覚える。
 
 
 
 やがて、大きな扉の前に、三人は立ち止まった。
 
 
 
 「ここは……」
 
 シンジは、扉を見上げて呟いた。
 
 目の前の、ブ厚い重さを感じさせる、金属の扉。
 
 その横に、肩ぐらいの高さでカードスロットがあり、デジタル表記の赤い文字が「LOCKED」と浮かび上がる。
 
 その、文字の上に、小さな表記。
 
 
 
 L.C.L. PLANT : TERMINAL DOGMA.
 
 
 
 「……ターミナルドグマ」
 
 シンジが、呟くように、読み上げた。
 
 
 
 過去の……いや、未来の、映像が、蘇る。
 
 
 
 親友を……
 
 この手で……
 
 ……握りつぶした、場所……。
 
 
 
 「……警告しておくわ」
 
 ミサトが、低い声で呟いた。
 
 「レベル1、セクター2……最高同位レベル立ち入り禁止地区。不法侵入者は見付け次第発砲。違反者は10年までの禁固、10万ドルの罰金、もしくはその両方を受ける」
 
 「不法侵入者は、だろ」
 
 加持が、再び、パチン……と右手の平を鳴らした。
 
 シンジが見ると、その手に、先ほどのカードが握られている。
 
 「だめよ……レベル5じゃ」
 
 ミサトが、そのカードを見ながら冷ややかに呟く。
 
 だが、加持はその言葉に意を介さず、カードスリットの端にカードをかけた。
 
 「誰がレベル5って言った? ……これは、レベル6だ」
 
 「……6!?」
 
 「見ろ」
 
 スカッ、と空気を切るような音を立てて、加持の右手がスリットをなぞるように下りた。
 
 
 
 ゴゴォン……
 
 
 
 電光表示が「OPEN」に切り替わるのと同時に、扉が上下に開く。
 
 その扉に密着するようにして、すぐ裏側に控えていた扉が、左右に開く。
 
 その更に裏側に並んでいた太い金属の柱が、順番に回転しながら左右に切り離されていく。
 
 
 
 ……ゆっくりと……
 
 ……三人の前に、吸い込まれるような、闇の深淵が、姿を見せる……。
 
 
 
 隅まで見通すことの出来ない、広大な空間。
 
 
 
 前方に、赤い水面と、林立する塩の柱。
 
 
 
 空中に、六角形の光るプレートが散在する。
 
 
 
 赤い水面の、中央から、黒い柱が伸びる。
 
 
 
 その、真上……。
 
 
 
 「……これは……!?」
 
 息を飲むように……ミサトが、震える声で、呟いた。
 
 
 
 天を突くような……巨大な、黒い十字架。
 
 その上に磔にされるのは、白い巨人。
 
 仮面に、七つの目。
 
 赤い血をその縁から流す。
 
 造り物のおもちゃのような手の平に、武骨な杭。
 
 下半身はなく、無数の小さな脚が生える。
 
 黒い十字架に赤い液体が流れ、それが一面の湖に消える。
 
 
 
 神の如き畏怖と。
 
 悪魔の如き恐怖と。
 
 
 
 「……エヴァ……!? ……いえ……まさか……」
 
 「……その、まさかさ」
 
 加持は、巨人を見上げたまま、感情の篭らない声で呟いた。
 
 
 
 「これが……アダムだ……葛城……
 
 ……そして、シンジくん」



三百十



 総司令執務室。
 
 
 
 ゲンドウは、デスクの前に浮かび上がるホログラムを、じっと見つめていた。
 
 
 
 映っている映像は……ターミナルドグマ。
 
 加持と……ミサトと……シンジが、リリスを見上げている様子が、映しだされている。
 
 
 
 ゲンドウは、ただ、口許で手を組んだまま……そのホログラムを、見つめていた。