第六十四話 「再び」
二百九十四



 NERV本部・地下射撃訓練場。
 
 20ほど並んだ射撃ブースには、黒髪の女性以外の姿は、ない。
 
 引き金を、絞る。
 
 
 
 ぷしっ
  
 
 
 小さな炸裂音とともに、ぶらさがった的の中央に穴が開いた。
 
 
 
 ぷしっ
 
 ぷしっ
 
 ぷしっ
 
 
 
 ほとんど間を開けることなく、続けて左右に下がる的をも正確に射抜く。
 
 
 
 ミサトは、構えていた銃を静かに降ろした。
 
 
 
 「うまいわね」
 
 後ろで見ていたリツコが、コーヒーを飲みながら、感心したように言う。
 
 ミサトは、手に持っていた銃を、壁にしつらえてあるホルダーに収めながら応える。
 
 「ま……ね。ドイツで訓練受けたから。あのとき一緒に行った同期の仲間なら、だいたい同じくらい撃てるわよ」
 
 「たいしたものね」
 
 「こんなもの、出来てもどうにもならないわよ……使徒が銃で死ぬんならそれもいいけどね」
 
 肩を竦めて、ミサトが微笑む。
 
 
 
 「出来る、というのは、いいことよ……たとえ、その能力を発揮する機会が訪れなかったとしてもね」
 
 「は?」
 
 「出来なければ、どうにもならない。本来、自分の力では対処することの出来ない問題のうちの一つが、出来ることで、確実に一つ、減るのよ」
 
 リツコの言葉に、ミサトは一瞬沈黙した後……溜め息をつくように微笑んで、肩を竦めた。
 
 「……あんたらしいわ、リツコ」
 
 ミサトは、シューティンググラスを外す。
 
 黒髪が、踊る。
 
 射撃ブースからリツコのところへ歩いてくると、紙コップに入っている冷めたコーヒーを手に取る。
 
 「なんなら、リツコも撃ってみたら?」
 
 ミサトが笑う。
 
 リツコは、ミサトを一瞥して、目を閉じた。
 
 「勝てない勝負はしないわ」
 
 「別に勝負しようなんて言ってないわよ」
 
 ミサトが、微笑んでリツコを見る。
 
 「リツコが、自分で言ったんじゃない。出来るってことは、いいことだって。……今くらいしか、練習する機会なんてないわよ」
 
 
 
 「……別に、銃を撃つ訓練は受けているわ」
 
 
 
 「突貫の3日間コースとかでしょ、どぉせ。撃ち方習っただけで的に当たるんなら、ドイツで2年も訓練しないわ」
 
 「………」
 
 「やっといて、損はないわよ、この御時世」
 
 「………」
 
 「自分の身は、自分で守らないといけないしね」
 
 「………」
 
 「……誰かを……撃つ、ことになるかも知れないし」
 
 
 
 「……そうね」
 
 
 
 リツコは、静かに息を吐き出した。
 
 コップを机の上に置く。
 
 「……少しくらい、撃ってみようかしら」
 
 
 
 「そ。何事も、練習よ」
 
 ミサトは、笑って自分もコーヒーを置くと、リツコの肩を押してブースに招いた。
 
 

 「この銃?」
 
 「どれでもいいわよ」
 
 「私には、どれがいいのか、判断つかないのよ」
 
 リツコの言葉に、ミサトは、少しだけ楽しそうに眉を上げた。
 
 リツコは、怪訝そうな表情でミサトを見る。
 
 「なに?」
 
 「べつにぃ……ただ、ま、意外よね。闘いに関するデータなんて、すべてはリツコ・コンピュータに入ってるような気がしたから」
 
 
 
 リツコは、じっと、ミサトを見る。
 
 
 
 ミサトは、自分のホルスターから、小型の銃を取り出した。
 
 銃把をリツコのほうに差し出す。
 
 「はい」
 
 「なに?」
 
 「これが、たぶんイチバン使いやすいから」
 
 
 
 リツコは、その銃把に視線を移動し、ほんの数秒固定した後、すっと手を伸ばしてそれを受け取った。
 
 「ありがとう」
 
 「い〜え」
 
 リツコの言葉に、ミサトはにっこりと微笑んだ。
 
 
 
 リツコは、机に置いてあったシューティンググラスを装着し、射撃ブースの中に歩み入ると、15メートル先の的を見据えて、ゆっくりと、安全装置を外す。
 
 腕を上げ、銃を構える。
 
 的の中心と、筒先の突起を、視線の直上にそろえる。
 
 
 
 リツコは、静かに息を吐いた。
 
 
 
 ……人間は、そんなに、万能じゃないのよ……
 
 
 
 引き鉄を引くと同時に、サイレンサーの乾いた破裂音と、銃が上に持ちあがる感触。
 
 
 
 後ろで見ていたミサトが、微笑んで……溜め息をついた。
 
 「こりゃ……的にかするようになるまで、相当、時間がかかりそうねぇ……」



二百九十五



 学校が終わりシンジは帰路についていた。
 
 横には、もちろんレイが並んで歩いている。
 
 アスカは、今日はヒカリと一緒に行ってしまった。ここ数日、訓練が続いたので、久しぶりの放課後に、ショッピングにでも繰り出してしまったのだろう。
 
 
 
 シンジは、レイに合わせて、ゆっくり歩く。
 
 最初のころは意図して合わせていたが、最近は、これがシンジのリズムとなっていた。
 
 ゆっくり歩こうと、ことさらに思っているわけではなく……自然に、この歩幅で歩いている。
 
 
 
 「今日は、夕食、どうしようか?」
 
 シンジが尋ねる。
 
 レイは、シンジの顔を見た。
 
 「……何でも……碇君のつくるものなら」
 
 これも、もういつもの返答で、シンジは驚かない。
 
 「とは言ってもなぁ……」
 
 「………」
 
 「あ、じゃあさ、豆腐のステーキなんか、どう?」
 
 「……ステーキ……」
 
 「豆腐だよ、豆腐」
 
 「………」
 
 「肉使ってないよ」
 
 「……うん、じゃぁ、それがいい……」
 
 
 
 レイは肉を食べられるように努力をしており、事実、肉を含んだ料理もそれなりに美味しく食べることが出来るようになっていた。
 
 しかしそれも、料理のメインが肉というわけではない……いわゆる、例えば炒め物の中にちょっと肉が入っている、という類いの料理に限られる。
 
 さすがに、ステーキのような、思い切り、肉! という感じの料理は苦手だ。
 
 
 
 シンジだって、いくら肉を食べられるようになりたいとレイが思っていると言っても、あまりに気が進まないものを無理に食べて欲しいとは思わない。
 
 料理は料理。
 
 楽しく食べなければ、つまらないし、美味しくない。
 
 
 
 「じゃぁ、スーパーに寄って行こう」
 
 シンジは、レイに声をかけた。
 
 
 
 加持は、ノートパソコンのキーボードを叩いていた。
 
 
 
 ここは、加持の専用士官室。
 
 四畳ほどのスペースで、床や天井、四方の壁などは、全て艶のない金属で覆われている。
 
 入口がある壁を除く三方の壁には、全てエレクターと呼ばれる金属製の簡易な棚が用意されているが、その棚には殆ど何も収められていない。
 
 中央に、加持が向かっている小さな机と、彼の座るパイプ椅子。
 
 机に引き出しはなく、およそ、加持の私物や仕事上の書類などは、この部屋にはほぼ何も無いことがうかがわれた。
 
 
 
 加持に与えられているNERVの士官室は、彼の階級からすると、随分と狭い印象を受ける。
 
 だが、もともと、彼の任務の多くはデスクワークとはかけ離れた分野だ。
 
 加持に限らず、特殊監査部の人間に与えられている部屋は、みんな狭い。
 
 
 
 くわえた煙草には、火がついていない。
 
 口許が寂しいので煙草をくわえているが、この部屋は禁煙、と決めていた。
 
 
 
 加持がキーボードを叩いている内容は、彼の裏稼業に関することでは、ない。
 
 表向きはNERVに隠している、スパイの仕事についての報告書の作成などは、自宅に帰って、自分のパソコンで行う。
 
 もちろん加持なりにこの部屋に監視装置がないことは入念に確認済みではあったが、それでも、この部屋では本来の特殊監査部としての作業以外はしないように心掛けていた。
 
 
 
 今、入力しているのは、加持の直属の部下に当たる特殊監査部員の管理表である。
 
 加持は基本的に誰とも組まずに仕事をしているが、組織運営上、加持くらいの地位にあると部下が居ないというわけにもいかない。
 
 実際には加持が運営管理しているわけではないのだが、便宜上、彼らは加持の指示で動いていることになっているのだ。
 
 
 
 加持は、眉間にしわを寄せながら、指を走らせる。
 
 加持にとって、もっともつまらない仕事。
 
 この、月に一度だけやらねばならない管理表の作成は、加持の一番苦手な作業だった。
 
 
 
 だいたい、この、集まった文字だけの報告書を読んで、どう、正当な評価を下せというのか?
 
 これでは、報告書の作成のうまい人間が成績のよい人間になってしまう。
 
 もちろん、それも大事なことだ。だが、それが単純にイコールで結ばれていてはならない。
 
 さほどの彼等と加持の間に関りがあるわけでもないのに、自分が彼らの評価を下しているという現状は、加持を嫌な気分にさせた。
 
 
 
 キッ、と音を立てて背凭れを引いた。
 
 加持は、椅子によりかかるようにして、天井を見上げる。
 
 そうして、しばし、何も見ていないかのように、ぼーっとしている。
 
 
 
 「……だめだ……休憩」
 
 
 
 ふぅ、と息をついて、加持は長いパスワードを一気に入力した。
 
 ノートパソコンをスリープさせる。
 
 蓋を閉じ、小さな南京錠に鍵を掛ける。
 
 南京錠は、棚に固定されていた。
 
 
 
 加持は、部屋を出る。
 
 加持の背後で、シュッ、と扉が閉まった。



二百九十六



 加持の足音が、廊下に無機質な音を響かせる。
 
 歩きながら、あくびを一つ。
 
 
 
 俗に「メインストリート」と職員たちに表現される、大きな通路に出る。
 
 そこをさらに50メートルほど進んだところに、無味乾燥な革椅子と自動販売機が並ぶ休憩所がある。
 
 
 
 角を曲がって休憩所に足を踏みいれたところで、加持は、わずかに眉を上げた。
 
 
 
 革椅子に、足を組んで座っていたのは、リツコだ。
 
 紙コップに入ったコーヒーに口をつけていたリツコは、加持の顔を見て、軽く微笑んだ。
 
 加持が、おどけたように両手を上げて肩を竦める。
 
 「こりゃ……技術本部長が、こんなところで休憩ですか?」
 
 リツコは、加持の軽口を取りあわない。
 
 加持は、自動販売機の投入口にコインを入れると、コーヒーのボタンを押した。
 
 コトン、と音がして、紙コップに液体が注がれる音が続く。
 
 
 
 「休憩?」
 
 「そうね」
 
 「お忙しいようで」
 
 「今日は、違うのよ」
 
 リツコが笑う。
 
 「ミサトに、つきあわされてね……そうそう、加持君。あなた、射撃は得意よね」
 
 
 
 自動販売機が、乾いた電子音を鳴らして合図する。
 
 紙コップを取り出して、加持はコーヒーを少しだけすすった。
 
 
 
 「そりゃあ……まぁ、ね。仕事柄」
 
 
 
 「……加持君……銃をうまく撃つのは、どうしたらいいかしらね」
 
 リツコの言葉に、加持は、面白そうに眉を上げた。
 
 「そりゃまた……誰か、撃ちたくなったかい?」
 
 「まずはあなたを撃とうかしら」
 
 「ご遠慮願いたいね」
 
 加持は笑う。
 
 
 
 「まぁ……別に、深い意味はないのよ……ただ、銃くらい撃てるようになっておいた方がいいかも、と思っただけ」
 
 「葛城に聞けばいいじゃないか。あいつもうまいぞ」
 
 「聞いたわよ」
 
 「……?」
 
 「確かに、ミサトもすごいですけど……教えるのが、ヘタ」
 
 「………」
 
 加持は苦笑する。
 
 
 
 「射撃の腕と、教官としての技術は別物だからな」
 
 加持が、思いを巡らすように天井を見上げながら、軽い口調で呟く。
 
 「ドイツにいた教官も、射撃の腕は、俺のほうがなんぼかマシだった。だが……彼の教え子から、素晴らしい人材が何人も育った」
 
 「あなたのように?」
 
 「みんなさ」
 
 
 
 加持は、目をつぶり、コーヒーをすする。
 
 
 
 そう……
 
 ……例えば、ミサト。
 
 元々、運動神経は良かったが……それにしても。
 
 まさか、あれほど硝煙が違和感のない女性になるとは、思わなかった。
 
 
 
 「……俺だって、そんなに教えるのがうまいってことはないさ」
 
 加持は、軽く首をしゃくって笑ってみせる。
 
 「もともと、人にいろいろ教えるのは、苦手だしな」
 
 「そう?」
 
 リツコも、何食わぬ顔で、加持を見る。
 
 「スタンドプレーが過ぎるって、教官にはよく言われたもんさ。生まれ付き、我が侭なんでね」
 
 「まぁ……否定はしないわ。でも、それを言うなら、ミサトだって我が侭よね」
 
 「だから、俺も、葛城も、人に教えるのはヘタクソってワケ」
 
 加持が、肩を竦める。
 
 
 
 リツコが、軽く微笑んだ。
 
 
 
 廊下の奥のほうから、足音が聞こえる。
 
 
 
 加持は、そっと目を瞑った。
 
 その足音が、誰のものか……それは、加持には間違いようがない。
 
 
 
 「おまたせ、リツ……」
 
 角を曲がって休憩所に入ってきた黒髪の女性は、快活に声を出しかけて……急に、尻すぼみになった。
 
 
 
 加持は、振り返ると、コップを持った手を軽く上げて、緊迫感のない笑顔を向けた。
 
 「よぉ、葛城。おはよう」
 
 
 
 「お、おは……よぅ……」
 
 気の抜けたような、あるいは妙にこわばったような声で、ミサトは加持に応える。
 
 その表情は、思わず赤みが差している。
 
 そうして、固まったように、加持の顔を見て、数瞬……
 
 ……置いてから、ミサトは、急に我に帰った。
 
 
 
 慌てたように、ミサトは眉間にしわを寄せて、目尻を吊り上げた。
 
 「な……なに、こんなところで油売ってんのよ。仕事はどうしたのよ、仕事は」
 
 言いながら、ヅカヅカと加持の横を通り抜け、自動販売機にコインを投入する。
 
 加持は、微笑んで肩を竦める。
 
 リツコを見ると、リツコも溜め息をついて、少しだけ笑ってみせた。
 
 
 
 加持は、落ち着いた表情で、コップを取るミサトの背中に話しかけた。
 
 「葛城」
 
 「………」
 
 ミサトは、黙って腰を伸ばすと、コーヒーを口にする。
 
 
 
 「あとで、メシでもどうだ?」
 
 
 
 「ぶぼっ!」
 
 と、そのままミサトが咳き込んだ。
 
 「おいおい…平気か?」
 
 苦笑しつつ、加持が声をかける。
 
 ミサトは、加持に背中を向けたまま、なおもげほっ、げほっ……と、咳を幾つか繰り返す。
 
 「おい、葛城……」
 
 「げほっ……へ、平気。うん、……だいじょぶ……げほっ」
 
 「で、どうかな?」
 
 「……な……何が?」
 
 「何がって、メシでもどうか、って言ってるのさ」
 
 「……あ……ああ、ええ、うん……ま……いいわよ、……うん、別に」
 
 「了解」
 
 苦笑しつつ、加持が応える。
 
 
 
 飲み終わった紙コップを、片手で軽く、折り曲げるように潰す。
 
 隅に置いてあるゴミ箱まで数歩、歩み寄り、加持はその紙コップを押し込んだ。
 
 「じゃ、あとで行くよ、葛城」
 
 加持は、軽い口調で、ミサトの背中に声をかけた。
 
 ミサトは、返事をしない。
 
 加持は、片手を上げてリツコにも挨拶をすると、そのまま休憩所を出ていった。
 
 
 
 「………」
 
 ミサトは、じっと、赤い顔で俯いていた。
 
 リツコは、そんなミサトを、横目で見ながら、コーヒーをすする。
 
 
 
 数秒の後……ミサトが、その視線に気付く。
 
 
 
 「……なによ、リツコ?」
 
 ミサトが、眉間にしわを寄せて呟く。
 
 リツコは、黙って目を瞑ると、肩を竦めて微笑んでみせた。
 
 「別に、何も」
 
 
 
 加持は、廊下を歩いて自分の部屋に戻りながら……ミサトの態度に、思わず苦笑を漏らしていた。
 
 

 中学生でもあるまいに……
 
 何があったわけでもないのに、あれほどぎこちない対応を見せるとは。
 
 照れているのだろうか……いや、もちろん、照れているのだろうが……。
 
 
 
 大学時代の彼女のほうが、恋愛に対しては、さばけていた気がする。
 
 そう思うと、別れていた時間の長さが、あの感覚を生んでいるのだろうか。
 
 
 
 大人になると言うことは、案外、純情になることなのかもな。
 
 あるいは、格好での逃げを打たなくなることか……。
 
 
 
 ……俺が、歪んでるだけか。
 
 
 
 加持は、かすかに微笑みを浮かべて、自室の扉を開けた。



二百九十七



 シンジとレイは、ダイニングのテーブルについて、紅茶を飲んでいた。
 
 レイは、一度自宅に戻り、着替えてきた後だ(もちろん、シンジも普段着に着替えている)。
 
 夕食のための食材は買ってきてあるが、準備を始めるには、まだちょっと時間が早かった。
 
 
 
 二人は、向かい合わせで座っている。
 
 シンジは、じっとレイの前髪を見つめている。
 
 紅茶のカップを両手で添えるように持ち、口に当てて飲む。
 
 そんな仕草の合間に、かすかに、震えるようになびく。
 
 
 
 シンジは、レイと一緒にいるときに……時間というものの概念を忘れてしまうことがある。
 
 いつまでも……
 
 いつまでも……
 
 変わらない時間の中を、ただ、その身を委ねて漂っているような感覚。
 
 
 
 それは、しかし、レイだからこそ醸し出される雰囲気であろう。
 
 これが、相手がアスカやミサトであれば、同じ感覚を覚えられるかは、疑問だ。
 
 
 
 窓の外から、かすかに……葉の触れあう木々の囁きが聞こえる。
 
 目をむけると、レースのカーテンごしに差し込む午後の柔らかな陽射しが、絨毯の上に白いスクエアを映している。
 
 
 
 シンジは、立ち上がった。
 
 
 
 ベランダの方に歩いていくシンジを、レイは、顔を上げて目で追う。
 
 
 
 シンジは、ベランダに出た。
 
 
 
 手摺りに腕をかけると、シンジの髪の毛を風が揺らした。
 
 夏……と言っても猛暑とは程遠い、言うなれば爽やかな初夏の香り。
 
 陽は高く、木は新緑に萌え、絶え間ないそよ風が優しく頬を撫でる。
 
 
 
 美しい……日常の、世界。
 
 
 
 だが、使徒が来れば、この世界は一変する。
 
 この街は、街自体が一つの巨大な兵器として、その牙を剥く。
 
 自分は、恐らくこの世で最も強い力を携えて、その敵と対峙するのだ。
 
 
 
 自分がひとつ間違えば、この世界は、滅んでしまうだろう。
 
 人類は、全て死に絶えるか、解けて一つのスープになってしまう。
 
 長い、冬の時代を迎え……
 
 ……そして、あるいは、再び世界は元のように戻るかも知れない。
 
 陽は高く、木は新緑に萌え、絶え間ないそよ風が優しく吹く、日常。
 
 
 
 だが、そこに生きる人々は、もう、いないのだ。
 
 
 
 「碇君」
 
 シンジの背中に、レイが声をかけた。
 
 振り返ると、レイがベランダの入口のところに立っている。
 
 レイは、そのまま、シンジの隣に足を踏み入れる。
 
 片手を、手摺りにかけた。
 
 
 
 「何を見ていたの?」
 
 「ん……いや、ぼーっとしてただけ」
 
 「……そう」
 
 「でも、なんかこう、爽やかだよね」
 
 「………」
 
 「綺麗って言うか……」
 
 「……よく、わからないわ」
 
 「……うん」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……でも」
 
 「ん?」
 
 「……なにか……気持ちいいのは、わかるの」
 
 「………」
 
 「……風とか……陽射し……とか……その」
 
 「………」
 
 「……ごめんなさい……何て言えばいいのか、よくわからない」
 
 「いや……」
 
 シンジは、そっとレイの頬に触れた。
 
 レイは、シンジのことを見る。
 
 シンジは、慈しむように……微笑む……。

 「……わかるよ……綾波の、言いたいこと」
 
 
 
 レイは、シンジの微笑みに応えるように、そっと……柔らかく……微笑んだ。
 
 
 
 シンジは、頬に触れた手を降ろして、手摺りに掛けられたレイの手に重ねた。
 
 レイは、すっと体を動かして、シンジの肩に自分の肩をぴったりとくっつけるようにして、立つ。
 
 軽く……お互いに、体重を預けあうように。
 
 
 
 シンジは、レイとの初めてのデートを思いだす。
 
 あの、自然公園での、デート。
 
 ……川の中で、きらめく陽の光に囲まれながら……レイは、確かに、自然の囁きを感じていた。
 
 命に溢れる世界と、NERVの実験室との違いを、はっきりと認識していた。
 
 
 
 この、世界を……失うことの愚かさを、レイは、もう、知っている。
 
 それが、素晴らしかった。
 
 あの時は、違うということは分かっても、具体的に「何が違うのか」までは、レイは分かっていなかった。
 
 だが、今は、自分が感じていることを、はっきりと認識している。
 
 明瞭に言葉にすることは出来なかったが、もとより、言葉になど変換できる感情ではない。
 
 言葉にしよう、という気持ちになるということは……彼女の内部では、感情自体ははっきりと自覚できる存在として、そこにあるということなのだ。
 
 
 
 「綾波……」
 
 「………」
 
 シンジの声に、シンジの肩に頭を載せていたレイが、少し顔を上げる。
 
 シンジは、前に広がる風景を見つめて……小さく、呟いた。
 
 「……僕は……綾波も、この風景も……何も、失いたくない」
 
 「……うん」
 
 レイも、小さく応えて、もう一度、頭を載せた。
 
 感じる体温……。
 
 シンジの頬に、レイの髪の毛の柔らかな感触が、かすかに触れる。
 
 「……私も……失いたく、ない」
 
 「……うん、そうだね」
 
 
 
 二人は、じっと、そよ風に身を委ねたまま……そうして、暫くの間……お互いの体温を感じあっていた。



二百九十八



 NERVの食堂で、ミサトと加持は、向かいあって夕食をとっていた。
 
 昼間に交わした約束に、加持が誘ったのだ。
 
 ミサトの前には、ビーフシチューセット。加持の前には、バタートーストが置いてある。
 
 二人とも残業による遅い夕食となったため、食堂には、他の人間の姿はなかった。
 
 
 
 「……まさか、NERVの食堂だとは思わなかったわ」
 
 ミサトが、ビーフシチューをスプーンで掬いながら、呟く。
 
 加持が、肩を竦めてみせた。
 
 「急な話だったからな」
 
 「加持君て、こういうコトはハッタリきかすタイプだと思ってたわ」
 
 「ん? 何がだ?」
 
 「……女性を食事に誘うときは、お洒落なところに連れて行くタイプだと思ってたのよ」
 
 「ん、ま、いつもはそれなりにな」
 
 ミサトが、視線をあげる。
 
 「何よ。私にはその必要がないってこと?」
 
 「言葉の上で言うなら、そうだ」
 
 
 
 「……フン」
 
 ミサトは、軽く息をついて、シチューを掻き込んだ。
 
 
 
 「……俺達の間に、今更、必要ないだろ」
 
 「もぐもぐ……何がよ」
 
 「格好。見てくれ、がさ」
 
 「………」
 
 「お互い……いいとこも悪いとこも、見せあった後だ」
 
 
 
 「私は……加持君の全てを知っているとは思わないわ」
 
 「……まぁ、それはそうだろう」
 
 加持は、二本目のタバコに火を付けた。
 
 紫煙が、かすかにたなびく。
 
 「俺も……おまえの全てを知っているなんて、言わないよ」
 
 
 
 二人の間に、沈黙が流れた。
 
 ミサトは、無言でシチューを口に運ぶ。
 
 加持は、ただそれをじっと見ているだけで、自分のトーストにはほとんど口を付けていなかった。
 
 
 
 そうだ……
 
 人間なんて……
 
 他人の全てを知ることなんて、できやしない。
 
 
 
 「……特に、男と女はな」
 
 「え? なに?」
 
 「……いや……なんでもない」
 
 顔を上げたミサトに、加持は微笑んで片手を上げてみせた。
 
 
 
 「例えば……そうだ、昼間の葛城」
 
 「……え?」
 
 「あれも、はじめてだったな」
 
 「? ……何が?」
 
 加持は、悪戯っぽい表情を、瞳の奥から覗かせて微笑んだ。
 
 「あんなに、照れるのがさ」
 
 
 
 「!!」
 
 ミサトは、思いだしたように……頬を真っ赤に染めて硬直した。
 
 「ホラ、また」
 
 加持が、楽しそうに笑う。
 
 
 
 「あ……あれはっ、その……」
 
 真っ赤になりながら口を動かすミサトの姿を、加持は頬杖を突いて見ている。
 
 「その……」
 
 「冷めるぜ」
 
 「え?」
 
 「ビーフシチュー」
 
 「えっ……あ、ああ……」
 
 言われて、慌てたようにビーフシチューを掬う。
 
 
 
 「………」
 
 ミサトがビーフシチューを食べる様子を、加持はただ、見ている。
 
 なおも赤い顔をしながら、ミサトは上目使いに……睨むように加持を見た。
 
 「……何よ」
 
 「葛城……だっておまえ、俺と付き合い始めたときも、そんなに照れなかっただろう?」
 
 「……あれは……酔ってたし」
 
 「まぁ……朝起きてあんな状態で、照れるも何もないかもしれないが」
 
 「………」
 
 「でも、それこそ、俺達は二年も一緒に住んでたんだ。何を照れてるんだ? 今更だろう」
 
 「……そんなの……私だって、わからないわ」
 
 ミサトが、目を伏せる。
 
 
 
 「加持君……あなたと別れて、何年も経ったわ」
 
 「そうだな」
 
 「……私も、あなたも……変わったでしょう?」
 
 「……そうだな」
 
 「あの頃、私達が一緒にいられたのは……子供だったからよ。今は、そういうわけには行かないわ。それに……ここまで、一緒に歩いてきたわけでもない。長い間、離れていたのに」
 
 「………」
 
 「……この間の、結婚式の晩……」
 
 「……ああ」
 
 「……なぜ、キスだけで済ませたの?」
 
 
 
 加持は、ミサトを見た。
 
 ミサトも、加持を見る。
 
 
 
 そして……
 
 
 
 ……そっと、微笑む。
 
 
 
 「あの時……キスだけじゃなかったら……自然に、昔のように、なれたのかも知れない」
 
 
 
 「葛城……」
 
 「……ごめんなさい……やっぱり、戻れないわ」
 
 「………」
 
 「……あの頃とは……違うのよ、やっぱり」
 
 言いながら、ミサトは立ち上がった。
 
 「おい、葛城……」
 
 「ごめんなさい。仕事があるのよ……」
 
 
 
 ミサトは、逃げるように席を外すと、そのまま食堂を出ていってしまった。
 
 加持は、立ち上がることもなく……ただ、その消えた向こうを、見つめていた。