第六十三話 「街灯」
二百八十九



 11時過ぎになってから、シンジは家を出た。
 
 結局、時間はずらさなかった。
 
 ゲンドウと出会っても、何も話さないかもしれない。それならばそれでいい……おかしくはない、と思った。
 
 
 
 とにかく、逃げたくはなかった。
 
 
 
 レイは、家に残った。
 
 ついていくとは言わなかったし、自分もわざわざ連れて行こうとは思わなかった。
 
 ゲンドウに対する呪縛が残っている以上、無理してゲンドウが居ると分かっている場にレイが赴く必要はなかった。
 
 
 
 ユイの墓は、第三新東京市の外れの、国営墓地の一画にある。
 
 国営墓地……それは、倒壊したビル群を撤去して地均しした広大な何もない丘陵に、大量生産で作った同一デザインの墓標を整然と並べただけのものだ。
 
 セカンドインパクトの時に死んだ人々の数が多すぎて、旧世紀のように、墓地に意匠を凝らす余裕は、人々にはなかった。
 
 
 
 見渡す限り、延々と連なる墓標の群れ……。
 
 セカンドインパクトによって失われた命は夥しいほどの数だったが、衝撃と混乱で遺体が散逸してしまったため、実際に死者の体が埋まっている墓はほとんどない。
 
 それに、墓地自体がこれだけ広大だと、自分たちの親族を記した墓標がどこにあるのかもすぐには分からないため、遺族の足は自然と遠退いていった。
 
 今は、訪れるもののほとんどない、寂れた土地だった。
 
 
 
 シンジは、国営墓地行の電車に乗り込む。
 
 
 
 国営墓地のある方角には、他に目ぼしいものは何もない。
 
 この電車も、途中に幾つかの駅に停るものの、墓地に行く人間以外が利用することはまずないと言っていいだろう。
 
 シンジの乗った車両にも、他の乗客の姿はなかった。
 
 
 
 窓の外を流れる風景は、今という時代を象徴していた。
 
 倒壊した建物や、バラックの様相を呈した家屋。
 
 その間に、建て替えられたばかりの近代的なビルが顔を覗かせる。
 
 
 
 復興と、崩壊。
 
 その両極が混在し、間がないのだ。
 
 
 
 バランスが採れている、とは言い難かった。
 
 まだまだ、復興の途上に過ぎない、と、シンジは思う。
 
 
 
 ゲンドウに会って、何を話そうか?
 
 電車の窓から外の風景を眺めながら、シンジはぼんやりと考える。
 
 もしもこれから赴く刻が最終局面……ここで人類の全てが決まるのだとすれば、言いたいこと、言わなければならないことはたくさんある。
 
 だが、今はまだ、時期尚早と言えよう。
 
 
 
 ここでゲンドウに自分の正体を明かしても、何の役にも立たない。
 
 
 
 ……シンジは最近、意図していなかったある効果に気付き始めていた。
 
 
 
 シンジの正体は、未来から遡行してきた、ゲンドウやゼーレの秘密の多くを知る少年。
 
 ただ、それだけだ。
 
 秘密を知っていたからといって何になる? 相変わらず使徒はやってくるし、シンジがやるべきことは変わらない。
 
 知識だけでは、大して闘えない。
 
 口を封じられてしまえば、もう、シンジに為す術はなくなってしまう。
 
 
 
 だが、「シンジが何者かわからない」という状況が、ゲンドウやリツコを抑えているという面が、少なからず、あるのだ。
 
 
 
 シンジの正体を、彼らはさぞ、不穏なものとして捉えているだろう。
 
 迂闊なことは出来ない、と考えてくれているかもしれない。
 
 
 
 実際のシンジは、一介の、年端も行かぬ少年だ。
 
 シンジの行動を封じたければ、狙撃してしまえば、終わり。
 
 だが、彼らはそこに踏み切ることは出来まい(自分を殺そうとするかどうか、はまた別問題だ)。
 
 そういう意味では、彼等は、必要以上にシンジを恐れている、とも言えた。
 
 
 
 これは、思いもよらなかったカードだった。
 
 何の力も持たない(と思える)シンジとしては、このカードを意味なく切るつもりなどない。
 
 
 
 程なくして、電車が、国営墓地駅に到着した。
 
 
 
 終点のため、すぐに電車は走り出さない。
 
 シンジは、ゆっくりとホームに降り立つ。
 
 周りを見渡したが、自分以外には降りた人間は居ないようだ。
 
 諜報部の人間が居るはずだが、よくわからない。
 
 
 
 改札に切符を通し、外に出る。
 
 
 
 駅の前から、だだ広い丘陵の風景が広がっていた。
 
 それ以外に、何もない、駅。
 
 白い、畝。遠くに、無数の柱が立ち並んでいるのが、わかる。
 
 シンジは、ゆっくりと歩き出した。
 
 
 
 近付くと、その柱の群れの一本一本が、墓標であることが分かる。
 
 表面に、同じ書体で死者の名前が刻印されているのみ。
 
 
 
 無機質な柱の間を、ただ、歩いていく。
 
 どこまでも、同じ形態のくり返し。
 
 ドラッグ映像でも見ているかのような、現実感を失わせる情景だ。
 
 
 
 ……当たり前の話だが……これだけ大量に立ち並ぶ墓標の、どれが母のものか、シンジにはわからない。
 
 もともと、前回のシンジも、だいたい漠然と覚えているあたりまで行ったら、あとは一本ずつ確認して探し出すつもりでいた。
 
 だが、今のシンジには、そんな必要はないことを知っている。
 
 ……先客がいるからだ。
 
 
 
 遠くの墓標のたもとに、一つの人影が見える。
 
 その人物は、その墓のそばに、小さな花束を手向けていた。
 
 静かに花束から手を離し、腰を伸ばす。
 
 そして、ゆっくりと振り返った。
 
 
 
 シンジを、見る。
 
 
 
 「……シンジか」
 
 
 
 その言葉を聞いても、シンジは驚かなかった。
 
 いつの間にか……心は、静かに、落ち着いていた。
 
 
 
 「……父さん」
 
 
 
 シンジも、ゆっくりと、応えた。



二百九十



 シンジとゲンドウは、しばし、無言で向きあっていた。
 
 どちらも、口を開かない。
 
 ……以前のゲンドウなら、話がないのなら、早々にこの場から立ち去っていたはずだ。
 
 だが、そうならない。
 
 ゲンドウが何を思ってシンジを見つめているのか、シンジには分からなかった。
 
 
 
 先に口を開いたのは、シンジだった。
 
 
 
 「……毎年、来てるの?」
 
 
 
 答えを知っている質問だ。
 
 だが、ゲンドウの口から聞きたかった。
 
 「……ああ」
 
 ゲンドウが、短く答える。
 
 
 
 「僕は、三年前から来てない」
 
 シンジが、呟くように言う。
 
 ゲンドウは応えない。
 
 サングラスの向こう側の、表情は見えない。
 
 
 
 「父さん……母さんを、愛してる?」
 
 
 
 「ああ」
 
 また、たった一言の答え。
 
 だが、逡巡の気配のない、即答だった。
 
 いつでも……自分自身に問いかけ、その質問に幾度も答えてきた、それを感じさせた。
 
 
 
 シンジは、かすかな安堵を覚える。
 
 わかっていたことだ。
 
 だが、それでも……直接、ゲンドウの口から、ユイへの愛を聞いたのは初めてだった。
 
 シンジにとってゲンドウは、絶対に賛同できない道を歩いていたが……それが、母への揺るがぬ愛ゆえであることを、せめて、知りたかった。
 
 
 
 だが。
 
 
 
 だからこそ。
 
 
 
 「……父さん」
 
 静かに……しかし、確固たる意志と共に、口を開く。
 
 
 
 「……綾波を、利用するのは、やめてほしい」
 
 
 
 言うつもりはなかった。
 
 いつかは、絶対に言わなければいけないことだが……まだ早い、と思っていた。
 
 ……だが……ゲンドウの、ユイへの愛を再確認した今、言わずにはおれなかった。
 
 
 
 ゲンドウは、何も言わない。
 
 黙ってシンジを見つめていた。
 
 動じた気配はない。もしかすると、シンジとここで出会ったときから、その言葉を予想していたのかもしれない。
 
 
 
 シンジは、目を逸らすことなく、ゲンドウの顔を見つめていた。
 
 
 
 「……何のことだ」
 
 ゲンドウが、低く、言葉を発する。
 
 「……綾波のことを、言ってるんだよ」
 
 「レイは、ファーストチルドレンだ。活用すべき時には、最大限に活用する。それ以上でも、それ以下でも、ない」
 
 「嘘だね」
 
 「意味がわからんな」
 
 「僕が何も知らないと、思っているのか?」
 
 「何を知っていると言う?」
 
 「……いや……やめておくよ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……くだらん」
 
 
 
 ゲンドウは、黙って、後ろを向いた。
 
 ユイの墓標に目をくれる。
 
 
 
 風が吹く。
 
 
 
 「……ユイと、会ったか?」
 
 
 
 「……父さん?」
 
 「……いや……わからんのなら、いい」
 
 
 
 沈黙が訪れる。
 
 
 
 ゲンドウの言う意味は、理解できた。
 
 初号機の中にいるユイに、気付いているかどうか、と、彼は尋ねたのだ。
 
 だが、シンジは咄嗟に返答できなかった。
 
 シンジは初号機の中にいるユイを知っているが、それに気付いたのは、前回の人生で……
 
 レリエル内部で極限状態に陥ったとき、
 
 ゼルエル戦で初号機に取り込まれてしまったとき、
 
 人類補完計画が発動したとき。
 
 
 
 しかしそのどれもが、「気配を感じた」に止まるようなもので、ユイの存在を間近に感じたとは言えない。
 
 サードインパクトの依り代としてLCLに取り込まれた際に蘇った幼い頃の記憶によって、10年前、「ユイが初号機に取り込まれた」のを自分が目の当たりにしたことを思い出し……
 
 ……それによって、推測しているに過ぎない。
 
 
 
 「……母さんの……顔も、覚えてないよ」
 
 だから、シンジは、とりあえずの返事をするにとどめた。
 
 本当は、幼い頃の記憶と共に、母の顔も思い出している。
 
 だが、前回のシンジが、この時期にはまったく覚えていなかったのも事実だ。
 
 
 
 「写真とか……残ってないの?」
 
 「すべて燃やした」
 
 「本当に、何もないんだね……」
 
 「すべては心の中にある。今は、それでいい」
 
 
 
 今は、か……。
 
 
 
 「シンジ……おまえは変わったな」
 
 「よく言うよ……ろくに知らないくせに」
 
 父と別れて、数年経つ。息子の変化など、追えなくて当然だ、と、シンジは思う。
 
 ……もちろん、普通に数年経ったくらいでは起こりようもない変化が、自分に起こっていることは自覚しているが。
 
 「変わるさ……いつまでも子供じゃない」
 
 「……そうか」
 
 「綾波だってそうだ」
 
 「………」
 
 「綾波は、変わってる。どんどん成長してる……もう、父さんの思うようにはいかない」
 
 
 
 「……忘れるな、シンジ」
 
 低い声で、ゲンドウが呟く。
 
 まるで、シンジの言うことなど、意に介さぬように。
 
 シンジは、黙ってゲンドウを見る。
 
 
 
 「私は、使えるものは最大限に使う」
 
 「………」
 
 「レイのことも変わらん」

 「……父さん」
 
 「おまえもだ、シンジ」
 
 「僕も……綾波も……父さんの思い通りにはならない」
 
 「私の邪魔をするならば、排除するまでだ。息子であることで、免れるとは思うな」
 
 「……思わないさ」
 
 
 
 「私の道を阻むなら……シンジ……おまえでも、排除する。
 
 忘れるな。
 
 その覚悟があるのなら……
 
 ……来るがいい」
 
 
 
 シンジは、怪訝な表情でゲンドウを見た。
 
 何も、その裡を伺い知ることの出来ぬ、ゲンドウの無表情な顔。
 
 だが、シンジは、違和感を感じた。
 
 おかしい。
 
 
 
 来るがいい、だって……?
 
 
 
 「……父さん?」
 
 
 
 「忘れるな」
 
 
 
 ゲンドウの言葉は、塵のように虚空に飛び散っていく。
 
 
 
 会話は、彼らにしか聞こえない。
 
 
 
 果てのない空に、吸い込まれるように……
 
 
 
 遠くから、VTOLの爆音が聞こえる。
 
 
 
 「私は、私の信念を曲げない」
 
 
 
 ゲンドウの口から、再び、言葉が紡ぎ出される。
 
 シンジは、ゲンドウの顔を見る。
 
 VTOLの機影が、徐々に近づいてくる。
 
 爆音が、だんだんと大きくなる。
 
 空気を噴出する高音が、耳朶を微かに叩き始める……。
 
 
 
 「……だから、おまえも、信念を曲げるな」
 
 
 
 ヴイィィィィイイィィイィィイイィイィイ……
 
 爆風が、ともすれば軽い体を浮き上がらせるかのように吹き上がる。
 
 ゲンドウの背後に、NERVの刻印を背負ったVTOLが地面のすぐ上で停止する。
 
 激しく舞い上がる砂埃が、まるで煙幕のようにあたりを覆う。
 
 
 
 シンジは、茫然とゲンドウを見ていた。
 
 
 
 ……なんだって……?
 
 
 
 「時間だ。私は戻る」
 
 ゲンドウは、短く言い放つと……そのままきびすを返し、VTOLから下りた短い金属製の梯子に足を掛ける。
 
 ゲンドウが機体の中に姿を隠すのに合わせて、VTOLはゆっくりと、回頭しながら高度を上げていく。
 
 吹き上がる強い風に、思わず顔をしかめるシンジ。
 
 かざした指の先から、徐々に高度を上げていくVTOLが見える。
 
 やがて50メートルほどの高度に達してから、VTOLは急速に速度を上げて、ジオフロントの方角に向かって飛び去っていった。
 
 
 
 シンジは、その機影の後ろに長く延びる、霞んだ飛行機雲を見つめていた。
 
 
 
 何も、言えなかった。



二百九十一



 「よっ、お待たせ」
 
 加持の屈託のない表情と声音に、ミサトは目尻をつり上げた。
 
 リツコは、やれやれ、とグラスを傾ける。
 
 
 
 「なにやってんのよ! おっそい!」
 
 「悪い悪い、仕事が押してさ」
 
 睨んで声を荒げるミサトに、加持は両手の平を向けて応え、椅子に腰かける。
 
 「仕事って、なによ」
 
 「いろいろさ」
 
 「いろいろってナニよ!」
 
 「いろいろ」
 
 加持は肩を竦める。
 
 フォークを握ると、目の前の皿に手を伸ばした。
 
 「おかげで何にも食ってない」
 
 サラダに乗っている、スライスした肉にフォークを立てると、それを口の中に放り込んだ。
 
 「……すっぱ」
 
 
 
 ミサトは、やれやれ、と溜め息をついた。
 
 
 
 シンジは電車の中でずっと、ゲンドウの言葉を反芻していた。
 
 意味が分からない。
 
 いや……もちろん言っている意味は分かるのだが、何故あんなことを言い出したのか分からない。
 
 
 
 だから、おまえも、信念を曲げるな。
 
 
 
 ……曲げる、ものか。
 
 シンジは、静かに……それと分からぬほど微かに、しかし力強く拳を握り締めた。
 
 僕は、人類の滅亡を回避する。
 
 そして……綾波の……アスカの……みんなの、幸せのために。
 
 そのために戻ってきた。
 
 
 
 自分の信ずるものは、譲ることのできない、たったひとつの信念。
 
 そのための苦労は、厭うまい。
 
 
 
 ゲンドウと、たとえ、ぶつかりあうことになっても。
 
 後悔などない。
 
 もとよりその覚悟であるわけだし……何より、ゲンドウを止めるために、戻ってきた。
 
 ぶつかりあわずに、済ますことなどできないのである。
 
 
 
 家の近くの駅に電車が止まり、シンジはホームに降りた。
 
 駅を出て、家までの道を歩く。
 
 途中のスーパーで買い物をしておこうかと思ったが、やめた。レイが、きっと心配している。
 
 まっすぐ、少しでも早く、家に帰り着きたかった。
 
 
 
 時刻は2時前というところだろう。
 
 もしかしたら、レイはまだ、昼食を取っていないかもしれない。
 
 シンジももちろんまだだし、帰宅したら何か作らなければいけないな、と、エレベーターの中で思う。
 
 
 
 自宅の扉を開ける。
 
 
 
 静まりかえった家の様子に、シンジはおや、と思う。
 
 レイは、自宅に戻っているのだろうか?
 
 だとすれば、手早く料理を済ませて、食事を誘いに綾波の家へ行こう。……いや、もう食べちゃってるかも知れないから、先に様子を見にいったほうがいいかな?
 
 ぶつぶつと口の中で呟きながら、靴を脱いでリビングにあがった。
 
 
 
 眠っているレイの顔を、シンジは、ぽけっと見つめていた。
 
 
 
 レイは、眠っていた。
 
 リビングのソファに横になって……
 
 ……いや、これはどう見ても、「座っているうちに眠ってしまって、自分の体重でソファに倒れてしまった」という体勢だ。
 
 両足は床に揃えて着いたまま、腰から上だけ斜めに背もたれにずり落ち、首をカクンと落として眠っている。
 
 
 
 (な……え? な、なんでこんなところで……)
 
 シンジは、慌てて荷物を置くと、レイの側に駆け寄った。
 
 いつからこうして眠っているのかわからないが、こんな姿勢では、腰なり背中なりを痛めてしまう。
 
 膝を突いてレイの前に座り、そっとレイの下側の肩から腕を回す。
 
 もう片方の手で、両足を柔らかく寝かせ、起こさないように体を横たえる。
 
 そうしてから、改めて背中と膝の下に両腕を入れると、腰を落ち着けてから、そっと持ち上げた。
 
 
 
 (……軽い)
 
 羽毛のような、とはもちろん言い過ぎだが、予想して身構えていたよりもずっと軽いその体は、まるでそのような印象を抱かせた。
 
 軽すぎて逆にバランスを崩してしまい、咄嗟によろけるのを必死にこらえねばならなかったほどだ。
 
 冷や汗をかきながら、シンジは、レイの顔を見る。
 
 抱きかかえた自分の肩の付根に頬を寄せて、柔らかく、寝息を立てる、少女……。
 
 
 
 とにかく、ソファーで横になるくらいなら、ちゃんとベッドで寝たほうがいいだろう。
 
 抱えたまま外に出てレイの家まで行くのは難しいし、レイの寝室に勝手に踏み込むのもどうかと思う。
 
 数瞬、思案したが、いつもアスカが泊まる時に使う、シンジの隣の部屋……ここしかないだろう、と、シンジは考える。
 
 レイを抱きかかえたまま部屋に向かい、脚で襖を開けると、奥にあるベッドの上にレイをそっと横たえた。
 
 
 
 レイは、全然起きない。
 
 熟睡している。
 
 
 
 レイを起こさないように、そっとシンジは部屋を出た。
 
 荷物を自分の部屋に置いてから、昼食を作るために台所へ向かう。
 
 
 
 シンジは冷蔵庫を開けると、中からラップをしたボウルを取り出す。
 
 ラップを剥ぐと、その中身は、朝食のときに余分に炊いておいた御飯が出てくる。
 
 シンジはその米粒をつまんで口に含み、数回咀嚼して、菜箸で御飯を切り混ぜる。
 
 
 
 レイは、きっと……昨晩、眠ることが出来なかったのだ。
 
 レイがシンジの部屋を去ったのは、一応、12時前だったはずだ。だが、その後、今日のことを思って眠れなかったのだろう。
 
 レイはあまり、徹夜には向いていないな、とシンジは思う。前回のレイは徹夜で実験などもしていたから出来ないわけではないのだろうが……それは、繰り返しによる慣れ、のようなものだ。
 
 今のレイは、比較的、規則正しい生活を送っている。
 
 突然、一睡もしないで朝を迎えてしまうと、昼に耐えられないのだろう。
 
 (それに……今日のことを考えてたんなら、精神的にも、少し張り詰めてたんだろうし……)
 
 シンジの帰りを待っていたのだろうが、いつの間にか眠ってしまっても無理はない、と思う。
 
 
 
 まな板を軽く濡らし、水を切る。
 
 キャベツを数枚取り、少し太目の千切りにする。
 
 ピーマンを二個、二つに切ってから指で種を取り除き、横にしてから薄くスライス。
 
 レイが、肉が食べられるようになりたいと努力しているので、薄いハム肉を細かく微塵に切る。
 
 フライパンに油を引き、コンロに火を入れる。
 
 
 
 レイに、今日のことをどう話そうか、困っていた。
 
 ゲンドウとは、会話は幾度か交わされたし、気にかかる台詞もあった。
 
 だが、結局……大きく見れば、ただ、双方の立場を確認しあったに過ぎない。
 
 
 
 フライパンに、キャベツ、ピーマン、ハムを適宜投入。
 
 油が、香ばしい匂いと食欲をそそる音を発する。
 
 油のはじける音に、レイを起こしてしまうかも、と、一瞬気になったが、これはまぁ仕方がない。
 
 ここは、ごく軽く火を通すつもりで、数回ほど菜箸でかき回して終了。
 
 野菜とハムを、一時的に別の皿に避難。
 
 一度、軽めに油を切ってから、フライパンの掃除はせず、指二本分ほどの厚さに切ったバターを落とす。
 
 バターが溶けきるまで待って、フライパンをサッと傾けて油を伸ばし、そこにボウルの冷や御飯を乗せる。
 
 固まりあっている御飯を、かき回すように菜箸で分離。
 
 油が弾けて、ほどよい香りがただよう。
 
 御飯がほぐれたら、粉末のコンソメを数つまみほど投入。
 
 即座に全体をかき混ぜて、コンソメの淡いオレンジ色がムラなく広がるようにする。
 
 そのまま、しばしかき混ぜ続ける。
 
 丁度、先程の半炒め状態の野菜と同じくらいの調理時間を残したところで、その野菜類を乗せる。
 
 ばっ、と全体をかき混ぜる。
 
 具と御飯が完全に混じりあったところで、土手のように御飯を周りに寄せ、ドーナツ状に中央を空ける。
 
 フライパンの肌を露出させ、そこに、醤油を垂らす。
 
 
 
 じゅわぁぁぁぁっ!
 
 
 
 激しい音と、醤油の焦げる独特の匂い。
 
 真ん中で醤油の煮立つさまを観察し、すべての醤油が弾け始めたところで、土手にしていた御飯をその上にかぶせるようにして覆う。
 
 素早く、大きく、全体を大急ぎで混ぜあわせる。
 
 独特の、食欲をそそる茶色に、御飯全体が均一に染まり始める。
 
 瓶に小分けにしてあった、細かくほぐした鮭の身をパラパラッと振りかける。
 
 もう一度混ぜあわせたところで、丁度、すべての食材が最高の状態。
 
 コンロの火を止め、余熱で数回ひっくり返してから、皿に分ける。
 
 
 
 「綾波、呼んでこなくちゃ」
 
 
 
 シンジは皿をダイニングの机に並べると、レイの寝ている部屋の襖を開けた。
 
 
 
 レイは、まだ眠っていた。
 
 比較的大きな音を立てていたので目を覚ましているかと思ったが、思いのほか、眠りが深かったようだ。
 
 もっとも、日頃、シンジが料理をしているときに眠っている同居人は、料理の音くらいで目覚めたためしがないので、案外大した音では無いのかも知れない。
 
 ……参考にならないか。
 
 
 
 シンジは、眠るレイの顔の横に立つと、中腰にかがんで、レイの肩を揺すった。
 
 「綾波、起きて……」
 
 ……よく考えれば、目覚めてすぐの食事は、あまり消化によろしくない。
 
 先に起こしておいたほうがよかったかな……?
 
 チャーハンはラップをかけて冷蔵庫に入れておき、あとで電子レンジのお世話になればいいのかも知れない。
 
 チャーハンは、比較的、冷やしてから暖め直しても味が悪くなりにくい料理だ。
 
 もちろん出来立てが美味しいのだが、寝起きで食べても美味しさは半減するから、結果は大して変わらないだろう。
 
 
 
 一応、肩を軽く揺すったが、レイはもぞっと寝返りを打つだけで目覚めなかった。
 
 やはり、昨晩はそれなりに気が張り詰めていたのだろう。
 
 無理に起こすことはない、と、シンジは毛布をレイの体にかけ直して、そっと襖を閉めた。
 
 
 
 レイの分のチャーハンを冷蔵庫にしまってから、自分の分の昼食をとる。
 
 二人で食べるつもりで作っていた料理を一人で食べるのは寂しくもあったが、それでも腹は膨れるし、せっかくだから冷めないうちに食べておいたほうがいい。
 
 
 
 食事を終えて、食器を流しに浸けてから、取りあえず自分の部屋に戻った。



二百九十二



 シンジが自分の部屋でごろごろしていると、玄関からドアを開ける物音が聞こえてきた。
 
 当たり前の話だが、ここのキーロックパスワードを知っているのは、シンジのほかには家主の女性、及び同居人同然の二人の少女だけ。
 
 まだ夕方、という時刻なので、ミサトが帰ってくるには早すぎる。
 
 アスカだろう……と、シンジは思い、時計を見て苦笑する。
 
 前回も、「アトラクションに並んでる途中で帰ってきちゃった」と、しゃあしゃあと言ってのけた。
 
 結局、今回も変わらなかったか。まぁ、相手の男性にはご愁傷様と言うよりほかにない。
 
 
 
 そう思ってシンジがベッドから身を起こすと、いきなりアスカが襖をガラッと開けてシンジを見た。
 
 「おなかすいたっ」
 
 言うが早いが、また、ぴしゃっと襖を閉める。
 
 
 
 「……ハイハイ」
 
 シンジは、苦笑と溜め息を織り交ぜて、ベッドから立ち上がった。
 
 丁度よく、チャーハンを作っておいてよかった。
 
 レイには、また出来立てを用意してあげればいいだろう。
 
 部屋を出ると、アスカは何食わぬ顔でテーブルの前に座っている。
 
 シンジは、チャーハンを暖め直すために、台所に入った。
 
 
 
 ただ電子レンジのお世話になるだけの料理なので、ものの数分で準備を完了する。
 
 チャーハンの皿を持ってダイニングに戻り、アスカの前に置いて自分もテーブルの向かい側に座った。
 
 
 
 
 「……アスカ、デートじゃなかったの」
 
 シンジが、普通を装って、頬杖をつきながらアスカに尋ねる。
 
 アスカは、チャーハンをスプーンで掬いながら、ぶっきらぼうに応える。
 
 「どうでもいいでしょ」
 
 「帰ってきちゃったの?」
 
 「つまんないんだもん」
 
 「……はぁ」
 
 「あ〜あっ……どっかに加持さんみたいなヒト、転がってないかなぁ」
 
 ぶつぶつ言いながら、チャーハンを口に運ぶアスカ。
 
 
 
 幾らなんでも、加持のような人間が、そこらへんに何人も転がっているはずがない。
 
 それほどの男性であり、だからこそ、アスカも憧れたのだ。
 
 アスカ自身もそれは重々承知の上だ。それがわかっているから、シンジは苦笑するだけで返事は避けた。
 
 
 
 「ミサトは?」
 
 「まだ帰ってきてないよ。て言うか、遅くなるって言ってたじゃないか」
 
 「ああ、そうだっけ……ファーストは?」
 
 「そっちの部屋で寝てる」
 
 「ハァ? なんで?」
 
 「なんでって言われても……」
 
 「まだ5時前よ」
 
 「いやぁ……詳しくは知らないけど……昨晩、よく眠れなかったんじゃないかな? 僕が昼ごろに帰ってきたら、もう寝てたよ」
 
 「その部屋で? なんで自分の家で寝ないのよ」
 
 「ああ、違うよ。そっちのソファでね、居眠りしてたんだ」
 
 「……ああ……で、アンタが、ファーストを抱きかかえてそっちまで連れてったのね」
 
 「うん」
 
 「……相変わらずラブラブねぇ」
 
 「え? は? なんで?」
 
 「………」
 
 「……えぇ?」
 
 「ハァ……自分で気付いてないんだから、タチが悪いって言うか……」
 
 アスカは、溜め息をついて、食べ終わった皿の上に、フォークを置いた。
 
 「ご馳走サマ」
 
 言って、アスカは立ち上がる。
 
 「着替えてくる」
 
 「ああ、そう言えば……直接ウチに来たんだね」
 
 「おなか空いてたから」
 
 言い残して、アスカは自宅に戻っていった。
 
 
 
 シンジは、食器を流しに浸けてから、リビングに戻って、ソファに座る。
 
 リモコンを手に取り、何げなくテレビのスイッチを付ける。
 
 
 
 スラッ。
 
 突然、レイの寝ていた部屋の、襖が開いた。
 
 
 
 シンジが、戸口の方を見る。
 
 そこに立っている少女を見て、シンジは口を開いた。
 
 「綾波……おはよう。よく眠れた?」
 
 シンジが、微笑みかける。
 
 
 
 レイは、ぼーっとした表情で、シンジを見ていた。
 
 どうやら、まだ、はっきりと目覚めているわけではないようだ。
 
 幾度か、レイと図らずも寝起きを供にした記憶から、レイがスパッと起きられない体質であることをシンジは知っている。
 
 現に今も、レイはいまいち眼前の映像が脳の中枢まで届いていないようで……シンジの顔をじーっと見つめながら、半目の無表情を崩さない。
 
 シンジは、もう一度、優しく微笑んだ。
 
 
 
 レイは、ゆっくりとした歩調で、シンジの座るソファに向かって歩きだす。
 
 「あ、綾波……目が覚めた?」
 
 シンジが、レイに声をかける。
 
 レイは、目だけはしっかりと、シンジの瞳を捉えているものの……シンジの言葉に反応しない。
 
 「あれ? 綾波?」
 
 シンジが、少し不思議そうな表情で声をかける。
 
 レイは、ソファに座ったシンジの前まで来た。
 
 「……綾波?」
 
 
 
 レイは、シンジの顔を見て……
 
 
 
 柔らかく微笑み……
 
 
 
 ……そのまま、シンジに抱きついてきた。
 
 
 
 「あっ! え、えぇえっ!? あ、あの、綾波!?」
 
 急にレイに抱き締められたシンジは、赤くなって間抜けな声を上げた。
 
 レイに押し倒されるような格好で、気付くとソファに折り重なって横倒しになってしまっている。
 
 レイは、シンジを抱き締める腕に、力を込める。
 
 「あ、あの、綾波! ど……どうしたの?」
 
 「………」
 
 「あの……綾波さん?」
 
 「………」
 
 「あやな……」
 
 「……すぅー……」
 
 「………」
 
 「……すぅー……すぅー……」
 
 
 
 「………」
 
 ……シンジは、苦笑して溜め息をついた。
 
 ……なんだか、さっぱりわからないが……
 
 起きてないらしい。
 
 肌の、ぬくもりを求めてのことなのだろうか……。
 
 
 
 首をねじって、レイの寝顔を見る。
 
 レイは、シンジの頬に自分の頬を密着させるような体勢で、柔らかな寝息を立てていた。
 
 その、透き通るような、白い肌……。
 
 
 
 シンジは、そっと、レイの髪の毛を撫でていた。
 
 なんだか、落ち着いていた。
 
 そっと……慈しむように……
 
 優しく、撫で続ける。
 
 
 
 レイが、もぞ……と、頬を擦り寄せて、また、優しく寝息を立て始める。
 
 
 
 アスカは、聞こえないような大きさで、そっと、溜め息をついた。
 
 いつの間にか……戻ってきていたのだ(正確には、シンジがレイに抱き締められてパニックに陥っているときに戻ってきていた)。
 
 
 
 ったく……ちょっと、目を離すと……すぐ、いちゃつきやがるんだから、この二人は……。
 
 
 
 ……だが、嫌ではない。
 
 この二人の間の絆……
 
 ……それを感じることは、アスカにとっても、嬉しかった。



二百九十三



 薄暗い空間に、等間隔にオレンジやブルーの照明が淡く揺らめく。
 
 昔風のスピーカーから、漏れ聞こえるようなゆるやかなサウンド。
 
 カウンターの中でコップを拭くマスターは、その彫りの深い皴に人生を感じさせる。
 
 
 
 幾組かのカップルが、あちら、こちらで、ボックス席に座って愛を語りあっている。
 
 
 
 カウンターの三人組は、すでに、かなりの量のアルコールを摂取していた。
 
 こういった雰囲気のバーでは、少々そぐわない飲み方だ。
 
 ……いや、訂正しよう。
 
 三人のうちの二人は、ごく普通に飲んでいる。
 
 この三人のアルコール平均摂取量を一気に引き上げているのは、中央に座った黒髪の美女だ。
 
 
 
 「ミサト、飲み過ぎじゃないの?」
 
 リツコが、軽い口調でたしなめる。
 
 もともと、ミサトはリツコの数倍は飲む。
 
 だが、それにしても、いつもよりピッチが早いような気がする。
 
 
 
 「あによぉ〜……いいでしょ、加持!」
 
 ぱん! と威勢のいい音を立てて、ミサトの手の平が加持の背中を叩く。
 
 雰囲気台無しである。
 
 「俺じゃないんだけどなぁ」
 
 加持は、苦笑してグラスを傾ける。
 
 
 
 しばらくして、ミサトはカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
 
 
 
 よだれを垂らして眠っているミサトの寝顔に、リツコは溜め息をついて肩を竦めてみせた。
 
 「はしゃぎすぎね」
 
 「学生の頃は、飲みのたんびにこんなモンだったよ」
 
 加持も軽く笑う。
 
 「それを、毎回毎回、加持君が介抱してたわね」
 
 「ま……仕方ない。一緒に住んでたんだから、どうしてもな」
 
 「ミサトも、そう思ってたから、平気で潰れてたのよ」
 
 「そうか?」
 
 「そうね」
 
 「………」
 
 「私は……ミサトがこんなに外で飲むの、久しぶりに見たわ」
 
 「へぇ」
 
 「ふふ……とぼけて」
 
 加持は、ただ、肩を竦めて応える。
 
 
 
 「……そうだ、これ、松代のお土産」
 
 加持が、ネコのペンダントを取り出し、リツコに渡す。
 
 リツコは、加持を見てからそのペンダントに視線を落とし、それから、軽く自分の顔の前にぶら下げてみる。
 
 揺れる、小さなネコ。
 
 
 
 「ありがと」
 
 「どういたしまして」
 
 「……松代じゃなくて、京都、でしょ?」
 
 「なんでさ? 仕事で行ったんだぜ」
 
 「とぼけても、ダメよ。何をしてるのか知らないけど、あまり深追いしないほうがいいわよ。これは、友人としての忠告」
 
 「真摯に聞いておくさ。どうせ怪我するなら、君との火遊びがいいな」
 
 「ここで寝てるヒトに、殺されるわよ」
 
 リツコが、微笑んでミサトの後頭部を指差す。
 
 「フラれてるからな、一度」
 
 「好きなクセに」
 
 「俺は、博愛主義者でね……女性には、みんな優しい」
 
 「おどけて……本当は、一人のことしか見てないでしょ」
 
 「そんなことはないさ」
 
 「ま……いいわ」
 
 リツコは、言いながら席を立つ。
 
 
 
 「そろそろ、帰るわ」
 
 そう言うリツコに、加持が、屈託のない笑顔を向ける。
 
 「早いね。夜はまだ、これからだよ」
 
 「おあいにく」
 
 クス、とリツコは微笑む。
 
 「加持君の夜の相手は、そこのヒト」
 
 ミサトを指差す。
 
 「シンジくんが心配するから……きちんと、忘れずに送り届けるのよ」
 
 「……はぁ……結局、俺の役目か」
 
 加持が、肩を竦めて苦笑する。
 
 「イヤじゃないクセに」
 
 リツコも、少しだけ笑った。
 
 
 
 リツコは、加持に一度手を振ると、あとは振り返らずに出ていってしまった。
 
 
 
 カウンターには、加持とミサトが残された。
 
 時計を見る。既に、11時をかなり回っている。
 
 店内のボックス席に残る幾組かのカップルも、どう見ても、このまま帰らない組であろう。
 
 
 
 そのまま加持は、一時間近く飲み続けた。
 
 ミサトは全然目覚めない。
 
 
 
 結局、眠るミサトをおんぶして、加持は店を出た。
 
 
 
 夜の道を、加持は、ミサトを背負って歩く。
 
 等間隔に並ぶ街灯と、どこまでも続くこの道の他には、遠くに丘陵のシルエットが見えるのみだ。
 
 
 
 ミサトの寝息を耳許に感じながら、加持は、黙って歩き続けていた。
 
 
 
 タクシーが通れば、それをつかまえよう……というつもりで、加持は歩いていた。
 
 だが、店を出てもう1時間になるが、車そのものが数えるほどしか通らない。
 
 これは……このまま、朝まで歩きつづけるハメになるのかも……と、加持は諦めと共に溜め息をついた。
 
 
 
 別に、無理して家に連れて帰る必要など、ない。
 
 目を覚ますまで休むつもりなら、いくらでも休む場所がある。
 
 車を使ったカップルを視野に入れているのであろうか……こうした田舎の一本道ぞいには、お約束のように、時折、ホテルが姿を見せる。
 
 そこに、入ってしまえばいいだけだ。
 
 
 
 だが、加持はそうしなかった。
 
 ミサトとそういう関係になること、それ自体は、今更……躊躇するようなことではない。
 
 だが、「ミサトが眠っているうちに」ホテルに入ってしまうのが躊躇われたのだ。
 
 
 
 貧乏性、と言えなくもない。
 
 加持は、苦笑する。
 
 
 
 抱えたミサトの足に履かれたハイヒールを見る。
 
 赤い、ハイヒール。
 
 
 
 時間は流れている。
 
 それをわかりやすく、加持に知らせるもの、それがミサトのハイヒールだった。
 
 少なくとも、加持と同棲していたころのミサトは、ヒールの靴なんて一足も持っていなかった。
 
 スカートだって、履いている姿は何回も記憶にない。
 
 だが、今の姿は、ドレスにハイヒール。
 
 そして、意外なほどに、その姿には違和感がなかった。
 
 
 
 ミサトと別れたのは、大学を卒業したときだった。
 
 理由は加持の浮気……ということになっていたが、実際には、そんな事実はない。
 
 小さな誤解が、幾つか積み重なってしまっただけに過ぎなかった。
 
 ……しかし、加持には、ミサトの言う追及を否定することができなかった。
 
 理由は分からない。
 
 だが、ミサトとは別れたほうが良い、と思った。
 
 それは……ミサトが悪いという意味ではなく……
 
 ……それが、ミサトのためだ、と思った。
 
 
 
 そして、二人は、別れた。
 
 半分は、自然消滅のような……そんな感じだった。
 
 
 
 別れたときには、二人ともNERVへの就職が決まっていた。
 
 大学の友人たちには、カップルで同じ職場を選んだように見えていただろうが……実際には、違う。
 
 ミサトは父を奪った使徒への復讐のために、NERVに入った。
 
 そして、加持は、ミサトに出会う前から、スパイというもう一つの顔を持っていたのである。
 
 
 
 ミサトがNERVに内定したことを知ったのは、別れた後だった。
 
 ミサトは、父の復讐という思いを知られたくなかったのかも知れない……加持に、そのことを伏せていた。
 
 また、ミサトが普通の企業に就職するものと思っていた加持も、自分がNERVに就職することを事前にミサトに告げることができなかった。
 
 
 
 もし、それぞれの歩く道を事前に知っていたら……自分たちは、別れることもなかったかも知れない、と、加持は思う。
 
 それは……甘ったれたロマンチシズムだ、と自分でも分かっている。
 
 だが……
 
 
 
 ミサトが、葛城博士の娘であることも……また、その血を受け継ぐ彼女が優秀であることも、分かっていたはずだ。
 
 だが、まさか、NERV本部の作戦本部長にまでなるとは、さすがに想像できなかった。
 
 要職、どころの話ではない。
 
 NERV中枢の、重要な意志決定機関の一部を、彼女が担っているのだ。
 
 
 
 ……別れたときの……この、愛しい女性を危険に晒してしまうのではないかという、(今にして思えば青臭い戯れ言とも言えるが)思い……
 
 それも、杞憂であったのでは、と、振り返る。
 
 別れることは、なかったのでは……。
 
 ……だが、彼女をここまで成長させた要因の一つは、自分と別れたことだ、とも思える。

 甘えられる環境を失ったことで、強くなったのではないかという、思い。
 
 そしてそれは、自分にも当てはまるかもしれない。
 
 
 
 (……どうでもいいことだな……)
 
 加持は、微かに、口の中で呟いた。
 
 どうでも、いいことだ。
 
 もう、昔のこと。
 
 やり直すことなど出来ないし、今の自分が間違っているとも思わない。
 
 あの時、別れずにいたとして、自分がどう、生きているか。
 
 それは、誰にも分からない。
 
 人間は、時代を遡ることなど、できはしないのだから……。
 
 
 
 「……うぅ……ん」
 
 もぞ……と、ミサトが加持の肩の上で頭を動かした。
 
 加持が、少しだけ首を回して、ミサトを見る。
 
 ミサトは、顔を突っ伏した状態で、しばし沈黙した後、酔いの醒めきらぬまま、少しだけ顔を上げた。
 
 「……う……?」
 
 ぼーっとした表情。
 
 加持は、少しだけ苦笑して、声をかけた。
 
 「よ、おはよう……お姫さま」
 
 
 
 「……加持……くん?」
 
 「ああ」
 
 「アレ……ここどこ?」
 
 「俺にもよくわからん」
 
 「……リツコは?」
 
 「電車があるうちに帰ったよ」
 
 「あれ……今、何時?」
 
 「え〜っ……と……2時過ぎってとこだな」
 
 「え……ここどこ?」
 
 「だから、わからんよ」
 
 「……リツコは?」
 
 「あのなぁ……」
 
 「……あれ?」
 
 「………」
 
 「……あれ? 二次会は?」
 
 「ホント、寝起き悪いなぁ、葛城……昔のまんまだ」
 
 加持は、苦笑して、溜め息。
 
 
 
 ……さらに30秒ほど経過して……急速に、ミサトは、覚醒した。
 
 
 
 「アレッ!? えッ!? 加持君!?」
 
 「そうだよ」
 
 「えっ、ちょ……お、降ろして!」
 
 「ずいぶん酔ってたぞ。大丈夫か?」
 
 「あ、えっと、その……ア、アタシはダイジョブだからっ」
 
 酔いとは違う意味で頬を染めたミサトが、慌てて、半ば強引に、加持の体からその身を引いた。
 
 地面に着地して、そのまま後ろに数歩よろめいたのを、慌てて加持が腰に手を回して支える。
 
 「あっ」
 
 「危ないな……やっぱり、おんぶしてやろうか?」
 
 「い、いいからっ!」
 
 ミサトは慌てて加持の手から離れる。
 
 
 
 2メートルほど離れたところで、赤い顔で体勢を整えるミサトを、加持は、やれやれといった表情で見つめる。
 
 ミサトは、頬を染めながら、加持を睨む。
 
 「……なによ」
 
 「いや。変わらないな、と思ってね」
 
 「ウソ! なんか、ヘンなこと、考えてたでしょ」
 
 「とんでもない」
 
 加持は、肩を竦めた。
 
 ミサトも、言葉を切って、ただバツが悪そうに、加持を見つめる。
 
 
 
 加持が、後ろ足を少し引いて、体勢を開けた。
 
 親指で、道の先を軽く指差す。
 
 「何はともあれ、行こうか。夜が明けるぜ」
 
 「……そうね」
 
 加持の軽い口調に、ミサトも、体のこわばりを抜いたように……軽く息をついて、応えた。
 
 
 
 二人は、黙って、並んで歩いていく。
 
 暗闇の中、照らすのは、街灯の明かりだけ。
 
 夜がふけるに従い、もともとほとんどなかった交通量も、ゼロ同然になってしまった。
 
 ミサトも、いつの間にかハイヒールを脱いで歩いている。
 
 危ないぞ、と、加持が声をかけたが、ミサトにはヒールによる疲れの方が嫌なようだ。
 
 加持の靴を代わりに履かせても、靴擦れが起きてしまう。見たところ道は綺麗なので、諦めてミサトのしたいようにさせるに任せた。
 
 
 
 無言で、歩く。
 
 
 
 二人の足音だけが、かすかに風に乗って流れていく。
 
 
 
 訓練された、革靴の響き。
 
 それについていく、素足の音。
 
 電灯の微かにかすれた響きが、それにかぶさる。
 
 
 
 「アタシ……変わってない?」
 
 ミサトが、小さく呟いた。
 
 加持が、軽く振り返って、ミサトを見る。
 
 「何が?」
 
 「さっき、加持君が言ったわ」
 
 ミサトが、俯いて立ち止まる。
 
 加持も、黙って立ち止まった。
 
 
 
 「……変わって……ない、かな」
 
 
 
 「いや……スマン。謝るよ」
 
 加持が、軽く頭を下げながら、言う。
 
 「そんな……」
 
 「いや……変わったさ。葛城も……俺もな」
 
 ミサトは、ただ……じっと加持の横顔を見つめる。
 
 「加持君……」
 
 
 
 そう……それは、先ほど、改めて認識したばかりのことだ……。
 
 あの……二人で、ママゴトのような生活をしていたころとは、違う。
 
 
 
 「……俺達も、やっと、大人になったってことさ」
 
 加持が、軽く……肩を竦めて、呟く。
 
 
 
 「アタシ……あの頃を、懐かしく思うことが、あるわ……」
 
 ミサトが、少し遠くの街灯を見つめながら、言う。
 
 「なんにも考えてなくって……でも、楽しかったわ」
 
 「そうだな……」
 
 「ねぇ、加持君……」
 
 「ん?」
 
 「……アタシと別れて、悔しかった?」
 
 「ん……そうだな……ま、俺の浮気が原因だしな」
 
 「……ウソ」
 
 「………」
 
 「知ってるわ……あのコと一緒に居たのは、偶然なんでしょ?」
 
 「ん……いや……」
 
 「知ってるの。知ってたのよ……わかってたの」
 
 「………」
 
 「あなたと別れる……きっかけに、しただけ……」
 
 「……そうか……ま……そうだな」
 
 「……私、加持君と、別れたかった。ずっと……」
 
 「………」
 
 「……嫌いになったからじゃ、ないわ。加持君に捨てられるのが怖かったのよ……」
 
 「俺は、そんなつもりはなかったぞ」
 
 「それは、そうかも知れない。でも……加持君は、私だけを見てくれていたわけじゃなかったわ」
 
 「そんなことはない」
 
 「いいえ。加持君は……私でも、他の女の子でもない、何か、別のものを見てた。わかってたの」
 
 「そんなことはない」
 
 「……それに……私も、加持君を見ていたんじゃないのかも……知れないわ……」
 
 「よせ……もう、いい」
 
 「知ってる……? 加持君、うちの父に似てるわ。顔が、とかじゃなくて。雰囲気とか……何か……そういうのが」
 
 「………」
 
 「私は……加持君を見てた。でも……そうじゃないかも知れない、と思うと、怖かったのよ。そして、そう思うと……急に、加持君が見ているのも、私じゃないような気がしてきた。……すごく、怖くなったの」
 
 「……俺は、葛城を見ていた」
 
 「………」
 
 「葛城を見ていたよ」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……昔の、ことね」
 
 「……そう……だな」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……今でも」
 
 「ん?」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……なんでもない」
 
 「………」
 
 「………」
 
 
 
 加持は、ミサトをじっと見つめていた。
 
 ミサトも、加持を見つめていた。
 
 
 
 加持の瞳の奥には、何も見えない。
 
 自分の姿も……何も。
 
 
 
 この、男は……何を……見て、いるのだろう……。
 
 
 
 加持が、ゆっくりと、足を踏みだす。
 
 二人の距離が、縮まる。
 
 
 
 ミサトは、動かない。
 
 
 
 加持の右手が、そっと、ミサトの頬を包む。
 
 
 
 二人の顔が、近付く。
 
 
 
 「……や……めて……」
 
 ミサトが、かすれる声で、呟いた。
 
 
 
 触れる……。
 
 
 
 二人は、じっと、お互いの唇を感じあっていた。
 
 街灯の周りに、微かに飛び交う虫の羽音が、その耳に届く。
 
 
 
 ミサトは、ぎゅっ……と、目を瞑った。
 
 その目尻から、涙が一粒だけ……落ちて、消えた。