第六十二話 「空」
二百八十六



 「大体さぁ、なんで会ったこともないような奴と、デートしなきゃなんないわけ?」
 
 アスカは、持っていた箸の先を、ぴしっとシンジの方に向ける。
 
 「……僕に言われても……だって、アスカが引き受けたんだろ」
 
 シンジは苦笑する。
 
 「アスカ。箸で人を指さない。行儀悪いわよ」
 
 ミサトが、ぱくぱくと料理を食べながら言う。
 
 「………」
 
 レイは、もくもくと食事を続けている。
 
 
 
 葛城邸。
 
 夕食のひとときである。
 
 
 
 「そんなにイヤなら、断ればよかっただろ」
 
 シンジの言葉に、アスカは、嫌そうな表情で溜め息をついた。
 
 「いろいろ、しがらみみたいなモンもあんのよ……あ〜、メンドくさい」
 
 「ふぉんなこと言って……もしかしたら、物凄いカッコいいコかも知れないわよほぉ」
 
 ミサトが、口をもぐもぐさせながらアスカに言う(どっちが行儀が悪いのか)。
 
 「見た目なんざ、ど〜だっていいの」
 
 「でも、悪いよりいいでしょ?」
 
 「そりゃぁそうだけど……でも、美男子って逆に信用できない感じしない?」
 
 「だってさ、シンちゃん」
 
 「は? なんですか?」
 
 「……シンジのことなんて言ってないわよ」
 
 「あら、シンちゃんの肩持つのぉ?」
 
 「持ってないわよっ」
 
 「………」
 
 「そんなカオすんじゃないわよ、ファースト……アタシは、シンジは美男子のウチには入らない、って言ってんの」
 
 「……碇君は」
 
 「ハイハイハイハイ。アンタから見りゃぁ超絶美少年でしょうけどねぇ」
 
 「……普通だよ、僕は」
 
 「わかってんじゃない」
 
 「そぉ? 結構カッコいいと思うけどね、シンちゃん」
 
 「……碇君は」
 
 「ハイハイハイハイハイハイハイ」
 
 
 
 食事が終わり、全員がお茶を飲んでくつろいでいるところで、ミサトも口を開いた。
 
 「アタシ、明日は友達の結婚式で遅くなるから、あとヨロシクね」
 
 
 
 ソファーに座ってテレビを見ていたアスカが、首だけねじ曲げて、ダイニングのミサトを見る。
 
 「あ、ミサトもお出かけ?」
 
 「そうよ」
 
 「そうだ、アレ、貸してよ。ラベンダーの香水」
 
 「幾らしたと思ってんのよ、アスカ……ダメダメ」
 
 「ケチ。いいじゃん、ちょっとくらい」
 
 「とっておき専用なんだから、あれは。大体、気が進まないデートに、おめかしなんかいらないでしょ」
 
 ミサトの言葉に、アスカは眉間にしわを寄せる。
 
 「バカ言わないで。気が進まなかろうが何だろうが、そういうところで手を抜くのは許せないわ」
 
 「アスカが普段、使ってるやつでいいでしょ」
 
 「ケチ」
 
 「どうでもいいでしょ、そんなコト……アタシには、もっと差し迫った問題があるのよ」
 
 「問題?」
 
 怪訝な表情を見せるアスカ。
 
 ミサトは、腕を組んで溜め息をついた。
 
 「……服が、入んないのよねぇ〜……」
 
 
 
 「……太ったの?」
 
 「あ・の・ね。年齢が上がれば、おのずと着られるものは限られてくるのよ」
 
 
 
 シンジは、完全に沈黙を守っている。
 
 ここで、どんな口を挟んでも、火に油を注ぐような気がする。
 
 ミサトは、天を仰いで大袈裟に首を振る。
 
 「あ〜……どうしよ。明日の昼に、買うしかないかしら……」
 
 「買う金があるんなら、香水くらいケチケチしなくたっていいでしょ」
 
 「緊急事態だからよ! お金が余ってるわけじゃないの」
 
 「服、リツコに借りれば?」
 
 「………」
 
 「あら? どうかした?」
 
 「……リツコの服は入んないのよっ」
 
 「おやまぁ」
 
 「あ〜、もう! くやしーッ!!」
 
 
 
 しかしそうなると、アスカやレイはもちろん、マヤも、他の誰もミサトに服を貸してあげることはできないのだ。
 
 こればかりは、まぁ、ミサトに何とかしてもらうより他に無い。



二百八十七



 シンジは、ベッドの上に寝転がって、ただじっと、天井を見つめていた。
 
 明日の、墓参り……。
 
 ユイの墓前に、ゲンドウがいることを、シンジは知っている。
 
 それに、前回初めて知ったことだが、ゲンドウは毎年、そこに来ていた。
 
 
 
 ……毎年、欠かさず……ユイの墓の前まで足を運ぶ、父。
 
 ユイの、面影を……
 
 ……忘れることなく、いつも、その胸に抱き続けている。
 
 
 
 ……だが、と、シンジは思う。
 
 ……それがわかっているからこそ、許されない。
 
 
 
 ……これが、ユイの望んだことなのか?
 
 シンジには知る由もないことだが、そうであるとは思いたくなかった。
 
 レイを通してユイの面影を見ていることも、納得出来ない。
 
 
 
 ゲンドウと対峙することの善し悪しを、シンジは決めかねていた。
 
 実際のところ、前回、ゲンドウと墓前で鉢合わせたのは、偶然に偶然を積み重ねたようなものだった。
 
 命日なのだから、出会って当然……というのは、間違いだ。シンジがあと5分、遅く行っていれば、飛び去るヘリの後ろ姿を見るだけのことだっただろう。
 
 今回、ゲンドウと出会うのが気が進まないのなら、時間をずらせばいいだけだ。
 
 それで、ゲンドウと出会うことはなくなる。
 
 
 
 襖が開いた。
 
 
 
 視線を動かしたシンジは、そこに、レイの姿を見て驚いた。
 
 リビングの明かりを受け、逆光のような状態……その、表情は見えない。
 
 さっき、夕食が終わったあと、自宅に帰ったのではなかったのか?
 
 だが、レイは確かに、戸口のところに立っている。
 
 
 
 レイは、無言で襖を閉めると、スタスタとベッドのところまでやって来て、寝転がっているシンジの隣に腰を降ろした。
 
 シンジも、慌てて上体を起こし、コードを引っ張るようにしてイヤホンを外す。
 
 かすかなクラシックの音色が、外れたイヤホンから漏れ聞こえる。
 
 
 
 「……綾波?」
 
 シンジは、隣に座るレイに声をかけた。
 
 薄暗い部屋の中で……しかし、レイはただ、じっと床の方を見ていた。
 
 シンジは、その横顔を見つめる。
 
 
 
 「……ごめんなさい」
 
 レイは、小さな声で呟いた。
 
 「え……いや、いいけど……どうしたの? 帰ったと思ったのに……」
 
 「……なんと……なく」
 
 「……あ、ああ、そう……」
 
 
 
 レイは、明日……シンジがゲンドウと会うかも知れないことを、知っていた。
 
 ユイの、命日だからだ。
 
 ゲンドウは毎年見舞に訪れていたし、シンジに出会う前のレイは、それに付きあうことも多かったため、覚えているのだ。
 
 
 
 以前のシンジは、それこそ逃げるように、ユイの墓から遠ざかり、立ち寄ることはなかった。
 
 今までは命日にシンジと出会うことがなかったことも、レイは知っている。
 
 だがそれは、レイにはどうでもいいことだ。
 
 今のシンジの性格なら、母親の命日をないがしろにするようには思えなかった。
 
 
 
 シンジとゲンドウが出会えば……果たして穏便に物事が進むかどうか、レイには全く予想がつかなかった。
 
 ゲンドウが、シンジのことを心の奥底でどう思っているのか……また、シンジが、ゲンドウのことを心の奥底でどう思っているのか……
 
 ……まったく、わからない。
 
 
 
 昨日の夜半から早朝にかけた、あの、ドグマでの作業を思いだす。
 
 あれだけではなく……自分は、何だかんだ言って、ゲンドウの進める計画の片棒を背負っている、とレイは思う。
 
 
 
 ゲンドウとシンジが、何か激しい応酬を繰り広げるようなことになってしまったとして……その話題の中で、ゲンドウがそのことに触れるかも知れない。
 
 幾らなんでも、ドグマに眠るダミーの話まではしないとは思うが、ゲンドウの手伝いを自分がしている、とシンジに思われるのは嫌だった。
 
 そう思い……居ても立ってもいられなくなって、ここに来てしまった。
 
 
 
 ……だが。
 
 
 
 ……だからと言って、自分の口からシンジに語ることなど出来るわけがない。
 
 ここまで来たはいいが、それからどうしていいか、わからない。
 
 自分の不可解な行動は、シンジの目からは、さぞ奇異に映っているのではないか? と、そんなズレた不安までも浮かんでくる。
 
 
 
 シンジは、レイが何を考えているのか、よくわからなかった。
 
 さすがに、ほとんど何も手掛かりが提示されていないこの状況で、レイの懸念を即座に分かれと言うのは難しい注文だろう。
 
 ……とりあえず……何か話さなければ、と、シンジは口を開いた。
 
 
 
 「……明日」
 
 ぴく、と、レイの肩が震える。
 
 「……父さんに、会うよ」
 
 
 
 本当に会うかどうかは、まだ決めかねていたが、とにかく、口にしてそう言った。
 
 
 
 「……そう」
 
 レイは、それだけ答えた。
 
 
 
 以前、したように……ゲンドウとどうやって話せばいいか、それをレイに尋ねるような真似は、しなかった。
 
 レイは、ゲンドウという呪縛から逃れようとしている。
 
 無理に話題に出すことはない。
 
 それに、今のレイに「どうやってゲンドウと話すか」を聞いても、答えは出てこないだろう。
 
 シンジ自身も、ゲンドウとお喋りを楽しみたいわけではない。それを思えば、そんな質問は不毛だった。
 
 「綾波、ミサトさんは?」
 
 だから、シンジは全然違うことを聞いた。
 
 なぜ、一度帰宅したあと、再び戻ってきたレイが、まっすぐここに来れたのか?
 
 ミサトがいれば、トンボ帰りに戻ってきたレイを怪訝に思わないわけがない、という不思議さがあったのは確かだ。
 
 「お風呂……入ってるみたい」
 
 「ああ……なるほど」
 
 レイの答えに、シンジは納得した。
 
 
 
 「碇君……」
 
 「ん?」
 
 「……明日……すぐ、お母さんのところに行くの……?」
 
 「どうしようかな……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 「……今晩……ここに、いていい……?」
 
 「え!? ……ダ、ダメだよ」
 
 「……うん」
 
 「………」
 
 「……じゃぁ……もう少しだけ……いても、いい……?」
 
 「あ……あぁ、う、うん……」
 
 「……うん……」
 
 
 
 レイは、少しだけ体を移動して、シンジにぴったりとくっつくように座り直すと、そっとその頭をシンジの肩に乗せた。
 
 シンジの鼻先が、レイの髪の毛に、僅かにうずまる。
 
 
 
 どちらからということもなく……シンジとレイは、その手を握りあっていた。



二百八十八



 アスカは今、遊園地にいる。
 
 正確には、その入口だ。
 
 
 
 待ち合わせまで、まだ30分近い時間があった。
 
 
 
 家を出るときに、ミサトに「そんなに早く行くなんて、結構期待しちゃってる?」などと、軽く囃された。
 
 
 
 もちろん、それは違う。
 
 まだ、会ったこともない男に、そんなものを期待する少女ではない。
 
 待ち合わせに、自分が遅れていくような真似は、避けたかった。相手より先に待ち合わせ場所に来ていなければ、気が済まなかったのだ。
 
 
 
 腕時計を見る。
 
 「……にしても、ちょっと早かったかしらね」
 
 
 
 遊園地は、もう開園している。
 
 子供連れの家族や、カップルたちが、楽しそうにゲートをくぐっていく。
 
 陽射しが、暑い。
 
 
 
 ……なんで、ここにいるんだろ。
 
 アタシ……。
 
 
 
 遠くから、駆け寄る足音が聞こえてくる。
 
 アスカは、視線だけそちらに向ける。
 
 事前に写真も何も見せられていないため顔の判別は付かないが、向かってくる男性が自分のことを見ていることは理解できる。
 
 ……こいつかぁ。
 
 「ごめん、ごめん……アスカちゃん。早いね」
 
 息を切らせて、高校生の少年は言った。
 
 なるほど、それなりに整った顔立ち。ちょっと不良っぽい暗さも含んだ、アイドル系のつくりだ。
 
 学校では人気があるだろう。
 
 
 
 だが、アスカはいきなり気にくわなかった。
 
 
 
 ……アスカちゃんん?
 
 ……ナレナレしい!
 
 イキナリ、ひとのコト、名前で呼んでんじゃないわよ!
 
 
 
 ……そんな礼儀知らずに、ろくなヤツ、いやしないんだから!
 
 
 
 「よろしく」
 
 短く、一言だけ言葉を発すると、アスカはくるりときびすを返して、遊園地のゲートに向かって歩きだす。
 
 男は、慌ててその背中に声をかけた。
 
 「あっ、アスカちゃん! チケットが必要だよ。奢るって」
 
 「……おあいにく」
 
 アスカは、ぴっとポケットから一枚のカードを取り出し、僅かに振り返って、冷ややかに男の顔を見た。
 
 手許のカードには、NERVのマークが印字されている。
 
 「アタシは、フリーパスなの」
 
 
 
 さっさとゲートを通過するアスカ。
 
 男は、一瞬唖然としてそんなアスカを見たあと……慌てて券売機の列に並んだ。
 
 
 
 アスカは、苛立っていた。
 
 理由は良くわからない。
 
 いつもなら、こんな、職権乱用気味な真似はしない。ちゃんとチケットを買うだろうし、第一、NERVのカードをあまりおおっぴらに使うのも、避けて欲しいと言われている。
 
 だが、今は、駄目だ。
 
 あの男に、奢られるのは、嫌だ。
 
 自分でチケットを買って、あの男と並んで入るのも、嫌だ。
 
 「……なんだってのよ……アスカ」
 
 アスカは、誰にも分からないような……小さな声で、悪態をついた。
 
 
 
 こちらは、結婚披露宴。
 
 丸いテーブルの一つを挟んで座っているのは、ミサトと、リツコだ。
 
 
 
 マイクの前で、新郎側の友人代表が、三人で「てんとう虫のサンバ」を歌っている。
 
 
 
 「……ああいう神経、疑うわね」
 
 リツコが、ワイングラスをテーブルに置いて、溜め息をついた。
 
 「まぁね……でも、ま、新郎様も困ってるっぽいわよ」
 
 「同類じゃないってことね……あのコの男を見るセンスは、まだマシかしら」
 
 「さぁ……ま、顔はフツーね」
 
 「ひどいこと、言ってるわね」
 
 「けなしてないわよ」
 
 「けなしてるじゃない」
 
 「……そうかしら」
 
 ミサトは、皿の上に数本だけ残ったパスタを、フォークの先でくるくると回す。
 
 
 
 二人の間には、もうひとつ、椅子がある。
 
 目の前に置かれた名札には、「加持リョウジ様」と記されていた。
 
 
 
 ミサトは、パスタを玩びながら、横目でその名札を見た。
 
 「……遅いわね、アイツ」
 
 「そうね」
 
 「何やってんのかしら……」
 
 「気になる?」
 
 「バカ」
 
 
 
 ミサトは、溜め息を、ひとつ。
 
 
 
 「……そうね、気になる……わね……」
 
 ぼそっ、とミサトが呟く。
 
 リツコは、同じ姿勢のまま、片方の眉だけを上げてみせた。
 
 「あら? 素直じゃない」
 
 「悪い?」
 
 ミサトが、軽くリツコを睨む。
 
 「いいえ」
 
 リツコは、目を瞑って、かすかに微笑んだ。
 
 
 
 「……何、やってんのかしら……」
 
 ミサトは、独り言のように、もう一度、呟いた。
 
 
 
 「仕事でしょ」
 
 「なんの?」
 
 「なにが?」
 
 「なんの仕事してるのよ?」
 
 「なんのって……私は知らないわ。彼とは部署も違うし……」
 
 「なんか、ヘンよ、アイツ……」
 
 「なにが?」
 
 「よく考えたら、いろいろ、ヘンじゃない?」
 
 「そう? ……そうかしら?」
 
 「そうよ」
 
 
 
 ミサトは、視線を落とす。
 
 「ヘンよ……」
 
 
 
 そう……
 
 ヘンだ。
 
 ……それは、オーバー・ザ・レインボウで、出会ったときから感じていた。
 
 なぜ、加持は事前に、シンジと連絡を取り合っていたのか?
 
 それが、まず、わからない。
 
 加持は、「素晴らしい成績を収めるサードチルドレンに興味が湧いて、個人的に連絡をとった」と言った。
 
 ……何と言う、理屈だろうか。
 
 そんなことは、ありえない。個人的に連絡……とは、どういうことか?
 
 シンジのいる葛城邸で電話をすれば、その通話内容は全て、記録に残る。
 
 そうでなくても、ドイツと通話でもしようものなら、丸分かりだ。
 
 シンジに渡した携帯電話を使用しても、同じである。
 
 だが、その記録はない。
 
 電子メールを使ったかとも思ったが、シンジが持っているメール端末は、学校で支給されているノートパソコンのみ。
 
 変に私用に使い過ぎないように、あの端末を使った連絡は監視がついている。
 
 メールの内容はわからなくとも、誰から誰に送られたメールなのかは分かるようになっている。
 
 子供たちは気づいていないだろうが、あのクラスの情報のやり取りは、NERVの情報部が監視していた。
 
 適格者が集められている、という意味でもそうだろうし、そうでなくても現役のチルドレンが三人もいるのだ。
 
 
 
 シンジが、加持とメールでやり取りを行っていないのは、分かっていた。
 
 シンジはもともと、あまりメールを利用しない。クラスメートとたまに授業中にやりとりがある他は、「ゲームFAN」というアーケードゲーム情報のメールマガジンを購読しているだけだった。
 
 
 
 どのようにして、加持とシンジが連絡を取り合っていたのか、まったくわからない。
 
 第三新東京市と、外とを繋ぐネットワークは、そのほとんど全てをMAGIが掌握していた。
 
 にも関わらず、全く分からないのだ。
 
 
 
 実は、連絡など取りあっていなかった、とは、さすがのミサトも気付くことは出来なかった。
 
 当たり前である。
 
 
 
 ミサトの目には、「そこまで巧妙に隠さなければいけないほどの、連絡だったのだ」と映る。
 
 加持の言うような「個人的な興味」に過ぎなければ、ここまで隠さなければいけない理由などないからだ。
 
 
 
 ジェットコースターの嬌声が、耳元を駆け抜ける。
 
 アスカは、無表情で、そのアトラクションを見つめていた。
 
 ベンチに、座っている。
 
 
 
 売店から、男が戻ってきた。
 
 両手にアイスクリームを持っている。
 
 アスカはそれを視界に捉えて、口の中で舌打ちした。
 
 トイレに行くって言ってたクセに……
 
 
 
 男は、ベンチの側まで駆け寄ると、アスカの隣に座りながら、片手を差し出した。
 
 「ハイ、アイス」
 
 「……ありがと」
 
 アスカは、黙ってそれを受け取る。
 
 突っ返してやろうかという衝動が働いたが、それではあまりに大人げない、と思い直した。
 
 アスカがアイスを受け取ったのを見て、男はホッと微笑んだ。
 
 アイスを舐めながら、アスカがかすかに眉根を寄せる。
 
 「……なに?」
 
 「いや……だって、アスカちゃん、僕から何も受け取ってくれないじゃない? チケットも奢ってあげられなかったし……まぁ、何を買うのも、そのカードでフリーパスみたいだから、しょうがないけど」
 
 「………」
 
 「先にアイス買いに行くって言ったら、アスカちゃん、絶対に受け取ってくれない気がしたからさぁ。で、ちょっと考えたんだよね。ああ、よかった。あははっ」
 
 楽しそうに、男が笑う。
 
 アスカは、視線を前に逸らした。
 
 「アイスがもったいないでしょ」
 
 「うん、そうだね」
 
 見透かされているようで、悔しかった。
 
 
 
 ベンチに並んで腰掛けて、アイスを舐めている。
 
 覆いかぶさるように伸びた木の枝葉が、影となってアスカの横顔をなでる。
 
 前の広場を行き交う人々が、時々自分たちの方を見ていることに、アスカは気付いていた。
 
 
 
 ……フン。
 
 アスカは、目を瞑る。
 
 
 
 指差す人たちが、いつものように、自分だけを見ているわけではないことに、気付いていた。
 
 隣の男。この男も、美形だ。
 
 女の子なら、自分よりもこの男に視線が行って当然だろう。
 
 それが、腹立たしい。
 
 
 
 ……視線を独占できていない、とか、そういう怒りとは違う。
 
 以前のアスカなら、そのことについても多いに気にしただろうが、今は、自分が注目を浴びることはさほど大事なことではない。
 
 今の怒りは……
 
 
 
 この男と、釣り合って見えているのではないか、という怒りだ。
 
 冗談ではない。
 
 
 
 「楽しくない?」
 
 男が、ぼそっと言う。
 
 アスカが、横目で男を見る。
 
 男は、微笑んだ。
 
 「なんだか、つまらなそうだからさ……」
 
 「そうね……ごめんなさい……あまり、楽しくはないわ」
 
 「そうか……いや、いいんだ」
 
 微笑んだまま、男は視線をずらす。
 
 
 
 「いや……わかってたんだ。なんかさ……誘っても、駄目かなぁ、って」
 
 「………」
 
 じゃあ誘うな、と思ったが、黙っていた。
 
 「ウチの高校にも、噂が来てるんだ。碇シンジくん……だっけ?」
 
 「……シンジ?」
 
 なぜ、そこにシンジの名前が出てくるのか、分からなかった。
 
 「……シンジが、どうかしたの?」
 
 「つきあってるんでしょ?」
 
 
 
 アスカは、目を見開いて、男の顔を見た。
 
 男は、ぷっと噴きだすように笑う。
 
 「あはは。アスカちゃんの、感情が出てる顔、やっと見た」
 
 
 
 「……それ、訂正しといて」
 
 「え? ナニが?」
 
 「……学校に戻ったら、訂正しといて、絶対! シンジは、ファーストとつきあってんの。アタシとつきあってるわけじゃないわ!」
 
 「えっ? ファーストって、誰?」
 
 「綾波レイよ!」
 
 「……誰、それ?」
 
 アスカは舌打ちする。
 
 レイはアスカと同じように、絶世の美少女ではあるが、存在そのものが地味だ。
 
 この男の高校のような、生活圏の重ならない……噂くらいしか伝わらないところには、彼女の情報だけ欠落してしまうのだ。
 
 シンジについても、単体ならば噂は伝わらないのではないだろうか。「アスカの彼氏」という付加情報つきで、噂が広まっているのである。
 
 おそらくシンジの容貌についても、実物の数割増しに、上乗せされて伝わっているに違いなかった。
 
 「え? なに、そのコが、シンジくんとつきあってるの?」
 
 「そうよ」
 
 「アスカちゃんを差し置いて? そりゃぁ、シンジくんも罪な男だね」
 
 「……なんだか、二重三重に勘違いがあるわね」
 
 溜め息をつくアスカ。
 
 「いい? 間違いを正すから、明日学校に行ったら、全部みんなに伝えるのよ。
 
 まず、アタシは、シンジに惚れてなんかない。だから、シンジが誰と付き合ってようが、アタシとはなんの関係もないの。罪な男、とか、そういう表現やめなさい。
 
 シンジは、綾波レイにぞっこんなの。もちろん、綾波レイもね。
 
 あのふたりは、アタシも含めて、周りの全てが認めてるんだから、ヘタな噂たてないで。
 
 それから、もうひとつ。
 
 綾波レイは、アタシと同じくらい美少女よ」
 
 
 
 「……ええ?」
 
 男は、あっけにとられたように、アスカの顔を見た。
 
 「美人……? アスカちゃんと同じくらい……?」
 
 「信用できないんなら、いい商人を紹介してやるから、彼女の写真でも買いなさい」
 
 言いながら、アスカは立ち上がった。
 
 男は、驚いてアスカを見る。
 
 「あ、アスカちゃん?」
 
 「帰るわ」
 
 「え、あ、ちょっと……」
 
 「チケットがもったいないわよ。あなたは、もう少し遊んでたら?」
 
 そう言い残して、アスカはスタスタとその場を離れていく。
 
 男は、ベンチに座ったまま、茫然とアスカの後ろ姿を見つめていた。
 
 
 
 何もかも……全てが、腹立たしかった。
 
 ゲートを出るとき、係員にカードを「ばん!」と突き付けて、そのまま出てきた。
 
 まっすぐ、どこにも立ち止まらず、遊園地前の駅に入って、丁度来た電車に乗り込む。
 
 
 
 世間では、シンジと自分がつきあっていると思われていることに、アスカは初めて気が付いた。
 
 ……なんてこと!
 
 閑散とした車内で、座席に座りながら、アスカはもう一度、舌打ちした。
 
 冗談じゃない。
 
 シンジとレイの邪魔をする気なんて、誇張でなく、1パーセントだってない。
 
 第一、シンジとつきあおうなんて気にならない。
 
 
 
 釣り合いなんて気にしない。
 
 だが、現実に……今日、わかったことがある。
 
 例え、シンジと自分が付き合っていたとして(ありえないことだが)……一緒に歩いていても、必ずしも釣り合いが取れて見えているわけではあるまい。
 
 シンジも、美男子の部類に入ることは、入る。だがそれは平均より上、ということであり、自分と並ぶと普通の顔に見えてしまうだろう。
 
 今日の男は、一応、美形だった。
 
 並んで座っていると、勝手にカップルに見えてしまう、それが、理解できた。
 
 
 
 冗談じゃない。
 
 
 
 そんな気はない。
 
 
 
 釣り合い? どうでもいいことだ。
 
 まるで、人間の「殻」が交際しているような、そんなふうに見られていることに、激しい違和感を覚えた。
 
 
 
 人間は見た目ではない。
 
 だが、およそ「絶世」と呼ぶにふさわしい自分の容姿が、それを許さないのだ。
 
 
 
 「もう……」
 
 アスカは、かすかな溜め息をついて、四肢を伸ばした。
 
 窓の外を見る。
 
 流れる空の高さが、午後に入ったばかり、であることを知らせていた。
 
 
 
 シンジは、今日、母親の命日だと言っていた。
 
 自分が家を出るときには、まだ家にいたが……墓参りにでも行っただろうか?
 
 ファーストは、ついていったのだろうか。
 
 母親に、ファーストのことを紹介したりして……
 
 ……未来の奥さんだよ、なんつって。
 
 はぁ。
 
 命日ということは、司令とも会うのだろうか?
 
 シンジの口から、司令の話を聞いたことがない。仲が悪いのだろうか?
 
 ミサトは、大学の友達の、結婚式だと言っていた……。
 
 大学の友達、ということは、リツコや加持さんと一緒と言うことだろうか……。
 
 ……帰ってこないつもりかな。
 
 別に、どっちでもいいけど……。
 
 
 
 「……アタシ、つきあうんなら……全然ブサイクなヤツか、すっごい美形か、どっちかにしよ……」
 
 アスカは、溜め息と共に、呟いた。