第六十一話 「溜め息」
二百八十一



 レイを載せた零号機が、LCLをくるぶしで掻き分けながら、暗闇を移動している。
 
 右手に握られた、双叉の矛。
 
 その刀身が、禍々しい赤紫色に煌めく。
 
 
 
 エントリープラグの中で、レイは無心だった。
 
 何も考えられなかった。
 
 何も、考えたくなかった。
 
 
 
 シンジが知ったらどう思うだろう、という想像は、恐怖にも繋がる禁忌の予想だった。
 
 
 
 シンジを待っていたエレベーターホールで、直接ゲンドウに声をかけられるとは思わなかった。
 
 今まで、定められたダミー製造実験をことごとく避け続けてきたときも、NERVからの連絡はほとんどなかったし、あったとしてもリツコから一言ある程度。
 
 だから、「現実から目を背ける」とも言える消極的な逃げを、いつまでも打つことができた。
 
 
 
 過去にも一度……ゲンドウに直接、実験に参加するように言われたことがあった。
 
 あのときも、結局、自分の意志で抗うことはできなかった。
 
 ゲンドウと対峙しているそのさなかに、シンジがやってきたことで、辛うじてゲンドウの命令を無視することができたのだ。
 
 ……自分の力ではない。
 
 
 
 今回は、すぐにシンジが現れることはなかった。
 
 「仕事がある」とゲンドウに言われたとき、心では嫌だと思っていても、それを口に出すことができなかった。
 
 
 
 シンジなら、きっと、絶対に従わないのではないかと思う。
 
 そう思えば思うほど、心は沈んだ。
 
 シンジの信じる道を、自分はきちんと歩くことができていない、という思い。
 
 
 
 ……レイは、ほぼ一方的に自分自身の行動を悔やみ、悲しんでいたが……
 
 もっと冷静に、詳しく状況を分析するならば、また違った見方もできる。
 
 今回、ゲンドウがレイに命じた作業……それは、リリスの体をロンギヌスの槍で縫いつけることだ。
 
 この作業は、一概に「人類の滅亡に繋がる作業」とは言えない。
 
 リリスの自由を奪うこと。
 
 それは、「リリス(ゼーレはアダムだと思っているが)を依り代として、人類補完計画の遂行を果たす」という、ゼーレの思惑を阻止するものだ。
 
 ゲンドウの真意としては、ゼーレの余計な動きを抑え、自分の目指す手段を成すための通過点に過ぎないのだろうが……それはそれとして、単独で見れば、今回の作業は善し悪しを決めかねる、微妙な行動なのだ。
 
 
 
 レイ自身ははっきりとは認識できていないだろうが……
 
 これが、「リリスと融合してサードインパクトを起こせ」という命令であったとしよう。
 
 もしもそうであったら、たとえゲンドウの命令であっても、もう少し強い抵抗を見せたに違いない。
 
 やはり、昔のレイとは、違うのだ。
 
 
 
 セントラルドグマに足を踏み入れる。
 
 塩の柱が立つ赤い湖の向こう側に、十字架を背負った白い巨人の姿が見える。
 
 両手の平を、太い釘で十字架の横棒に打ちつけ、かしいだ首には非人間的な面。切り落とされたような下半身の断面には、小さな人間の足がばらばらと生えている。
 
 
 
 ざばっ……ざばっ……
 
 
 
 LCLのしぶきを立てながら、零号機は、リリスの前に立つ。
 
 
 
 見上げる、その、生命の息吹を感じない、白い顔。
 
 首から赤い血が這う。
 
 
 
 零号機は、ロンギヌスの槍を水平に構えた。
 
 
 
 ぐるるる……
 
 
 
 ゆるやかに、槍の先端がねじれていく。
 
 ただの槍が、このような動物的な動きを見せることに、しかし、レイは何の感慨も抱かない。
 
 
 
 ……早く終わらせたい。
 
 ……帰りたい……
 
 ……碇君の……そばに、帰りたい……
 
 
 
 しゅっ
 
 
 
 ぶん!
 
 
 
 一拍の間を置いて、槍はリリスの胸に突き刺さった。



二百八十二



 京都。
 
 
 
 旧世紀では……時代と伝統が息づく美しい街、また同時に世界の先端事業の集まる日本の西の中心の一つとして、世界の人々がその名を耳にする機会の多い都市だった。
 
 ビジネスマンの差し出す名刺が数億を動かすオフィスビルの裏道では、優雅な舞妓が美しい姿を見せる。
 
 その、一見無秩序な要素が調和した、人の息づかいを感じる街だった。
 
 
 
 その街は、今、ゴーストタウンとなって久しい。
 
 
 
 セカンドインパクトは、この街にも大きな傷跡を残した。
 
 大混乱に陥った日本は、新東京と呼ばれる幾つかの都市を中心に、奇跡の再建を賭けた。
 
 過去を振り返る余裕は、人々にはなかったのだ。
 
 
 
 慌涼とした都市。
 
 人が住んでいないわけではないが、かつての栄華は見る影もない。
 
 
 
 そのひび割れた大地を、静かに歩く男がいる。
 
 
 
 取り壊され、あるいは倒壊したりして、まわりには瓦礫の山ばかりが広がる空き地のような場所。
 
 その中央に、1階建ての小さな建物が見える。
 
 人の気配を感じない、廃屋のような印象。
 
 窓も、扉も、材木が打ちつけられ、塞がれているようだ。
 
 男は、裏手から回り込むように壁伝いに移動すると、一つだけ開いているドアに近づいた。
 
 よれた上着の内側に右腕を入れる。
 
 その腕の先は見えないが、何を握り締めているのか、想像には難くない。
 
 こめかみに、わずかに浮かぶ汗が、ほこりを吸って貼りつく。
 
 鋭い視線が、揺らぐことなくその隙間を見つめる。
 
 
 
 風が吹く……。
 
 
 
 わずかな砂埃が舞いあがった瞬間、男は滑るように扉の中に飛び込んだ。
 
 暗闇のなかで、男の目だけが光った。
 
 
 
 ……だが……次の瞬間、男は、肩の力を抜いて腰を伸ばした。
 
 軽く、息をつく。
 
 
 
 室内は、人の生活した痕跡を感じさせなかった。
 
 十畳ほどの空間に、アルミの無骨な机。引き出しなどもすべて抜かれ、骨組みしか残っていない。
 
 その上に、コードで幾重にもグルグルに縛られた電話機が一つ、転がっている。
 
 電話線は繋がっておらず、積もったほこりから、かなり長い間使われていないことを想像させた。
 
 
 
 「……やはりな」
 
 男は、小さな声で呟いた。
 
 最低限の警戒はしていたものの、実際には、こういう状態であるだろうことは、予想がついていた。
 
 
 
 ポケットに手をつっこんで、ざっと部屋の中を見て回る。
 
 だが何しろ、たとえ誰かが何かを隠しておこうにも、隠すところがない。
 
 5分もたたずに、男は再び扉の前に戻ってきた。
 
 
 
 入ったときとは裏腹に、何の警戒もないかのように扉を開ける。
 
 そのまま、ゆっくりと、市街方面に向かって歩き出した。
 
 瓦礫の山の裾を歩きながら、空き地を横切る。
 
 
 
 「……加持」
 
 
 
 急に聞こえてきた声に、加持は動じなかった。
 
 声をかけられる以前から、人物の存在に気付いていたのだろう。
 
 
 
 加持に声をかけたのは、50代前半といった風貌の女性だった。
 
 覇気の感じられない手付きで、瓦礫の山を、ごろり……ごろりとひっくり返している。
 
 乱れた髪が疲れた生活を感じさせる、この時代では珍しくもない主婦然とした姿だ。
 
 日本の中心地から離れたこの街では、生計を立てる手段の一つとして、廃品の売買や交換が珍しくない。
 
 こういった主婦が、街のあちらこちらで瓦礫をあさる姿は、割とよく見られる光景である。
 
 
 
 もちろん、加持に声をかけたこの女性が、ただの主婦であるわけがないのだが。
 
 
 
 加持は、何食わぬ顔でポケットからたばこを取り出すと、口にくわえて、近くに転がっている、ブラウン管のはじけたテレビに腰かけた。
 
 くわえたたばこの先が、ぼう……と、ほのかに光る。紫煙が、乾いた空にたなびいて消えた。
 
 
 
 「ここも、ダミーだったろ」
 
 女性が、呟くように、言う。
 
 加持は、口許をかすかに歪めて笑った。
 
 女性は続ける。
 
 「シャノン・バイオ……外資系のケミカル会社。9年前の創立当時から、変わらずこんなもんだ」
 
 「……なるほどね」
 
 「マルドゥック機関と繋がる108の会社のうち、106がダミーだった」
 
 「ここが、107個目ってわけか……」
 
 
 
 女性は、加持に、何気ない動作で……しかし、素早く数枚の紙を手渡した。
 
 加持はその紙を受け取ると、まるで出前のメニューに目を走らせるような呑気さで、その紙面を見た。
 
 
 
 かすれたコピーには、シャノン・バイオ社の登記簿が写し出されていた。
 
 
 
 社長の名前に見覚えはない。
 
 だが、取締役に冬月コウゾウ、キール・ローレンツの名前が並んでいる。
 
 
 
 「結局、そういうことさ」
 
 女性は、拾い出した腕時計を吟味しながら言う。
 
 そのまま、手許の篭に放り込んだ。
 
 「……すべては、ゼーレと、NERVか……」
 
 加持は、受け取った紙を畳みながら呟いた。
 
 
 
 予想はついていたことだ。
 
 E計画の諮問機関、その名簿に名を連ねる数々の外郭団体や企業は、実体のないペーパーカンパニーに過ぎない。
 
 マルドゥック機関……それは、形成団体の多様さを隠れ箕にしているが……結局、人類補完委員会とほとんど違いはないのだ。
 
 委員会の老人たちと、ゲンドウ、冬月、リツコ。
 
 構成人員は、これだけだ。
 
 
 
 「……だがな、加持……手伝っておいてなんだが、あまり派手に動きまわらんほうがいいんじゃないか」
 
 女性が、がらくたを選り分けながら言う。
 
 「おまえは、ゼーレのスパイだろ。マルドゥックのことを嗅ぎまわっていることを知られたら、面倒だぞ」
 
 
 
 「あいにく、貧乏症でな。自分で鼻を突っ込まんと、気がすまないのさ」
 
 加持は、軽い調子で笑う。
 
 「……わかってるよ」
 
 女性は、やれやれという風情で、軽く肩を竦めた。
 
 
 
 「本業をおろそかにするなよ、加持。おまえは、セカンドチルドレンの護衛でもあるわけだろ」
 
 「向こうではな。こっちに来てからは、NERVの諜報部がついてる」
 
 「そんなもの、何の足しになる。分かっているだろ? 連中は、一流だがアマチュアだ。えげつなさが足りんよ」
 
 「そう言うな……訓練したってそうそう身につくもんじゃない」
 
 「そうかな?」
 
 女性は、軽く鼻を鳴らしてみせた。
 
 「あんたの性格を知らんわけじゃないから、あえて忠告しよう。敵はどこにいるか、身構えてるほうからしか弾が飛んでこないなどと思うな」
 
 
 
 「……ああ、真摯に聞いておくよ」
 
 いたって緊張感なく、加持は、あっけらかんと応えた。
 
 
 
 「ま……俺が言うまでも、ないか」
 
 女性の言葉に、加持は笑って肩を竦める。
 
 
 
 「それはそうと……」
 
 
 
 「聞いたぞ、加持」
 
 「何を?」
 
 「サードチルドレン……なかなか、たいした活躍だそうじゃないか」
 
 「………」
 
 「当初、連中が見積もった予想より、はるかに稼ぐな。しかも、他のチルドレンも、予想よりはマシだ。これも、サードの力か?」
 
 「さぁ……そうとも言えるが……ま、予想が間違ってたってことじゃないか」
 
 「ふん……噂によると、どっかのスパイだって可能性もあるようだな。同業か」
 
 「……いや……それは、ないな」
 
 「ほう? そうか……根拠は?」
 
 「………」
 
 「おい」
 
 「根拠か……そんなものはないさ」
 
 「……なんだ……らしくないな」
 
 「………」
 
 「プロらしくいけよ。なんなんだ?」
 
 「……説明できりゃ、楽なんだがなぁ」
 
 「……おいおい」
 
 「……おまえも、彼に会えば分かるさ。そうとしか、言いようがない」
 
 「………」
 
 「ま、聞き流してくれるとありがたいな」
 
 
 
 女性は、黙って溜め息をつくと、また一つ、時計を篭に入れた。
 
 
 
 加持は、ポケットから携帯用の灰皿を取り出すと、それにたばこを押しつけて立ちあがった。
 
 ぱんぱん、と尻をはたく。
 
 振り返って、口を開いた。
 
 「おばさん。それ、売れるのかい?」
 
 
 
 女性は、がらくたを選り分けながら応える。
 
 「当たり前だろ。知らないのかい、兄さん」
 
 「時計ばっかりだな」
 
 「クォーツが高いんだよ。あんたの腕時計、買ってやってもいいよ」
 
 「いやぁ、こいつはないと困る」
 
 「時間なんて、たいした意味ぁないよ。大事なのは、金だろ、兄さん」
 
 「時は金なり、とも言うさ」
 
 「ふん。いい生活してる人には分かんないんだよ」
 
 「そうでもないけどね」
 
 「あたしに比べりゃ、お大尽だよ、どうせ」
 
 「そうかな?」
 
 「そうさ」
 
 女性は、笑った。



二百八十三



 学校。
 
 放課後の、掃除の時間。
 
 机を教室の後ろ側に集め、箒や雑巾を片手に、めいめい持ち場の掃除に励んでいる。
 
 
 
 ……と言って、何人の人が、その言葉を鵜呑みにするのだろうか?
 
 
 
 はっきり言って、公立中学校の掃除の時間ほど、騒がしい時間はない。
 
 箒や雑巾は、その本来の役割よりも、バットやボールに使われる頻度のほうが高くなろうと言うものだ。
 
 
 
 そう考えると、シンジのクラスはむしろ、掃除に熱心なクラスと言うことができるだろう。
 
 なにしろ、おそらく学校中でも最も掃除に熱心ではないかと思える生徒が、委員長を務めているのである。
 
 
 
 いつものメンバーの中で、次に熱心と言えるのは、レイだ。
 
 だが彼女の場合はむしろ、義務とわきまえてやっている感がある。
 
 掃除の時間は、生徒が掃除をするための時間。
 
 それは、やって当然の行為であり、彼女にとって記号的な意味しかない。
 
 
 
 アスカも、それなりに熱心だ。
 
 彼女の場合も、「やって当然」と捉えているフシがある。
 
 ドイツでは、掃除とは専門の業者がやるものだった。日本に来て、生徒が学校の掃除をするという習慣に面食らったようだが……抵抗があるからこそ、「これは、この国ではやらなくてはいけないことなのだ」と理解し、むしろ積極的に掃除に取り組んでいる。
 
 
 
 シンジはもともと、掃除が嫌いではない。
 
 それは、日頃の葛城邸での、まめまめしい様子からも伺い知ることができるだろう。
 
 「いや、シンジが家事全般を受け持っているのは、他に誰もやる人間がいないから、嫌だけど仕方なくやっているのでは?」とおっしゃる諸兄は、つまり、あなたも掃除が嫌いではないのだ。
 
 本当に掃除が嫌いな人間は、たとえ自分しか掃除をやる者がいなかったとしても、やらない。
 
 それは、シンジが来る前の葛城邸を思えば、おのずと御理解いただけるものと思う。
 
 
 
 トウジとケンスケは、あまり掃除に熱心ではない。
 
 今日も、二人は掃除そっちのけでお喋りに興じている。
 
 一応、ベランダに出て黒板消しを叩いてはいるのだが、すでにもう煙も出ていないというのに、機械的に手だけ動かしている。
 
 
 
 「……ったく、あのバカども」
 
 モップを片手に、アスカは溜め息をつきながら、窓の向こう側に固まっている二人を睨みつけた。
 
 「……まぁ……掃除してるの、あたしたちくらいだしね」
 
 ヒカリが、その後ろで苦笑する。
 
 アスカはくるりとヒカリのほうを向くと、指先を軽く立ててみせた。
 
 「だから、よ。女の子に仕事させて、自分らは遊んでるなんて、どーよ」
 
 「どーよ、って言ってもねぇ」
 
 「いいの? ヒカリ。あんた、鈴原と結婚したあと、苦労するわよ」
 
 「な、な、なななにを言ってるのよッ!!」
 
 
 
 もっとも、ヒカリも不満を抱かないでもない。
 
 教室を使っているのは自分たちであり……となれば、汚した自分たちが掃除をするのが筋というものだろう。
 
 
 
 だが、平均的に言って、あまり「教室の掃除」とは真面目にやる気がしないものであることも、理解している。
 
 大体、大きいごみを拾い集めるようにしていれば、掃除をおろそかにしているからと言って状況が破綻することもあるまい。
 
 それに、自分が性格的に、普通に比べて必要以上に掃除に熱心であることも、理解している。
 
 強く言う気がないのは、そのためだ。
 
 
 
 ヒカリは、レイを見た。
 
 
 
 レイは、床にしゃがみ込んで、雑巾を絞っていた。
 
 ……それこそ、雑巾がけなど、学校の掃除としては最も嫌われる分担だろう。
 
 だが、彼女にはそういう感覚は希薄なようだ。分担である以上、それをやる。面倒だとか、そういったファクターは意味をなさない。
 
 
 
 そのレイを、シンジがぼーっと見つめていることに、気付いた。
 
 
 
 シンジは、特に明確な意志を持ってレイを眺めていたわけではなかった。
 
 それこそ、まさに、「ぼーっと」見ていた、という形容が正しい。
 
 
 
 シンジは、立てた箒に体重を預けたまま、杖をつくような姿勢で、レイの背中を見つめていた。
 
 ……そうだ。
 
 この光景には……見覚えがある。
 
 
 
 もちろん、放課後の掃除の時間はいつものことで、そういう意味で言えば見慣れた光景だ。
 
 だが、それとは別の……もっと、「デジャビュ」とでも言うべき、はっきりとした記憶を感じる。
 
 
 
 いつだったか……それは、覚えていない。
 
 だが、自分がそういうレイを見て、「お母さん」という感じを受けたことは覚えている。
 
 そして……あの当時の自分にしては珍しく……その感想をレイ本人に向かって口にして告げ、レイもあの頃にしては珍しく、「照れる」という信じられないような反応を見せた。
 
 
 
 他愛もない日常のひとこまを、なぜ、そこまで鮮明に覚えているのか……
 
 ……それはやはり、レイがそういう非常に稀な反応を見せたせいであろう。
 
 
 
 あの時の自分は、恐らく大して、レイの反応を期待していなかったように思う。
 
 「返事をしてくれればいいな」とは思っていただろうが、だからと言って、それはほとんどありえないことだと考えていたはずだ。
 
 それが、返事をしてくれるどころか、頬を染めるとは……
 
 ……脳裏にがっちりと焼き付いてしまっても、仕方のないことだ。
 
 
 
 ……あの頃と今は、まるで違う、とシンジは思う。
 
 
 
 レイが照れる。
 
 赤くなって俯く。
 
 それは、今や意外でもなんでもない。
 
 そしてそのことは、クラスの皆やNERVのオペレーターたちも否定しないだろう。
 
 だが、あの頃の自分にとっては、レイの「感情」そのものに触れる機会が、ほとんどなかったのだ。
 
 レイは、もはや全く違った人間として、そこにいる。
 
 
 
 そして、自分自身にも変化がある。
 
 いや、変化というほどのことでもないが……。
 
 あの時は、レイを見て「お母さんみたいだ」という印象を抱いたが、今は、そんなことはない。
 
 それは、レイの母性が希薄になったという意味ではなく、レイを「愛しい女性」として見ているからだろう。
 
 ……いや、どうでもいいことだが。
 
 
 
 「なに、ぼけっとファーストに見とれてんのよ、バカ」
 
 突然、背後から声をかけられた。
 
 驚いて振り向くと、アスカが腰に手を当てて、呆れた表情で立っていた。
 
 「アスカ……」
 
 「まったく……もう少し、こう……隠すとかなんとかしなさいよ」
 
 「? 何が?」
 
 「アンタらが相思相愛なのはみぃんな分かってんだからさぁ。公共の場で熱い視線を送るのは抑えなさいって言ってんの」
 
 「い……いや、別に熱い視線は……」
 
 「そういうことすんのは、二人きりの時だけにしときなさいよね」
 
 「……し、し……しししてないよ」
 
 「……バカ?」
 
 
 
 ……とは言え、掃除の時間だ。
 
 気を取り直すと、シンジは箒を握り直した。



二百八十四



 掃除が終わってから、シンジはレイと、トウジはケンスケと連れだって教室を去って行った。
 
 アスカもシンジたちと帰ろうとしたが、ヒカリに呼びとめられたため、二人で近くの公園に向かっていた。
 
 途中の小さな洋菓子屋の店頭で、アイスクリームを買い込む。
 
 アスカの手には、三段重ねの威容を誇るコーンのアイスクリームが、燦然と輝いていた。
 
 にこにこと先に立って歩くアスカを見ながら、ヒカリはやれやれと苦笑する。
 
 
 
 そうして、二人は公園に到着した。
 
 
 
 「……は?」
 
 アスカは、公園のベンチに座ったまま、ぽかんとした表情で、ヒカリを見た。
 
 アスカは気付いていないが……三段重ねの一番上が、地面に落ちて蟻の大軍に襲われている。
 
 ヒカリは、すまなそうに笑うと、ごめん、と顔の前で両手を合わせた。
 
 
 
 「……でーと? ……だれが……なんで?」
 
 「いや、だから……コダマおねえちゃんの友達で、アスカに憧れてる人がいるみたいなの。アスカ、もう、有名だし……おねえちゃん、アスカとあたしが友達なの、知ってるから……」
 
 「……で……ナニ? アタシが、デートすんの、その男と」
 
 「……ごめん!」
 
 「あんたねぇ……」
 
 アスカは、大袈裟に溜め息をつく。
 
 
 
 「……ごめぇん」
 
 ヒカリは、すまなそうに俯き、小さな声で言う。
 
 アスカは、やれやれと目を瞑ってみせる。
 
 「大体ね、その男だって、あたしのことなんか噂と写真くらいでしか、知りゃしないんでしょ? そんなんで、よくデートしてみようなんて気になるわよね」
 
 「う〜ん……まぁ、そうだけどね……でも、なんかそのヒト、かっこいいみたいよ」
 
 「見た目なんざ、どーだっていいわよ」
 
 アスカは、気だるそうに頬杖を突くと、アイスを持った手を挙げてみせた。
 
 
 
 「ごめん! でも、なんか、おねえちゃん、断り切れなかったみたいで……あたしに泣きついてきたから……」
 
 「……で、ヒカリがアタシに泣きついてきたって訳ね」
 
 「……ごめん」
 
 「いいわよ……もう。今度おごってもらうわよ」
 
 「……う、うん! そんなの、いくらでもいいわよ!」
 
 ほっとしたような表情で、ヒカリはアスカに頭を下げる。
 
 アスカは、意地悪そうにヒカリを見て笑った。
 
 「まず……驚かされたせいで失われた、この、大事なアイスを補填してもらおうかしら」
 
 「え……どうするの?」
 
 「……こうするのよっ!」
 
 「あっ、あっ!?」
 
 パッ、とアスカの手が伸びて、プラスチックのスプーンがヒカリのアイスに刺さる。
 
 即座に、ごっそりとアイスを奪い取って、アスカはそれを頬張った。
 
 「う〜ん……バニラもいいけど、ストロベリーもいいわよねぇ」
 
 「……そういうことするんなら……私だって、行くわよっ」
 
 言いながら、ヒカリはスプーンを突き出すが、大体にしてアスカとヒカリでは運動神経の地力が違い過ぎる。
 
 ひょいっ、とヒカリのスプーンを軽く躱すと、アスカはそのままスプーンを伸ばして二口目をゲットした。
 
 「あっ、あ、あぁああ」
 
 「二段目はチョコ……これもいいわね」
 
 「ちょっとアスカ! ずるいわよっ」
 
 「ずるくないわよ。別に、ヒカリもいくらでもアタシのアイス取っていいのよ?」
 
 「できるわけないじゃないっ」
 
 「やっぱりストロベリーかしらね」
 
 「えっ、あ!?」
 
 「ヒカリ、もう少し鍛えたほうがいいんじゃない?」
 
 「い……いいの! 別に、必要ないもの!」
 
 「まぁ、そうかもね。変に筋肉がついて、鈴原に嫌われてもイヤだしね」
 
 「え……あ、いや、その……」
 
 「やっぱりチョコかしらねぇ」
 
 「ああっ!?」
 
 「混ぜてもいけるわね」
 
 「ちょっと、アスカッ! 待ちなさいっ!」
 
 「わ。ちょ、ヒカリ……」
 
 「あ、わ」
 
 
 
 「……ごめん」
 
 ヒカリは、小さく呟く。
 
 アスカは、茫然と、蟻の群衆に襲われるバニラの塊を眺めていた。
 
 
 
 「まぁ……帰りは、4段おごってもらおうかしらね……」
 
 「えっ、まだ食べるの!?」
 
 「まだって、ろくに食べちゃいないわよ。食べてんのは、アリ」
 
 「それにしたって……よ、4段?」
 
 「そ」
 
 「………」
 
 「なに?」
 
 (……うう……なんで太らないのかしら、アスカ……)
 
 
 
 ひとしきり、騒いだあと……
 
 アスカは、微笑んで、視線をずらす。
 
 小さな……ヒカリにも聞こえないほど小さな、溜め息をついた。


 
 ……彼氏、か……



二百八十五



 翌日、シンクロテスト。
 
 実験管制室には、コンソールの前にマヤ、その後ろにリツコ、一歩下がってミサト。
 
 マヤの前のサブモニタには、子供たち三人の顔が並んで映っている。
 
 
 
 「サード、ゲージをもう3上げて」
 
 「了解」
 
 リツコの声に、マヤの指がキーボードの上を踊る。
 
 シンジの顔が映っている部分がぐぐっ、と下がる。
 
 目を瞑るシンジの眉間に、わずかにしわが寄る。
 
 
 
 「相変わらず、シンジ君は好調ですね」
 
 マヤは、数値の微調整を行いながら、表示されたステータスに目を走らせる。
 
 「レイちゃんやアスカちゃんよりも、ずっと深いですよ」
 
 
 
 「……それが、本当に好調とは限らないわ」
 
 
 
 呟くように、口にしたリツコの言葉に、マヤは怪訝な表情で振り返った。
 
 リツコは、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、じっとモニタの数値を睨んでいる。
 
 
 
 「先輩……?」
 
 「一面的な見方をしてはだめよ、マヤ。確かに、レイやアスカより、シンジくんのシンクロ率の方がずっといい。……でも、それは、当たり前のことよ」
 
 「……当たり前?」
 
 「平均点が違いすぎるのよ。シンジくんと……アスカと、レイと」
 
 「………」
 
 「シンジくんが、アスカやレイよりも成績がいいのは、それが当然。むしろ、今日のシンジくんはいつものシンジくんより、若干調子が悪いわね」
 
 
 
 「……すいません」
 
 マヤは、恥ずかしそうに小さな声で呟いた。
 
 「いいけどね……もう少し、色んな角度から結果を見るようにしなさい。……それが、仕事なんだから」
 
 「はい……」
 
 
 
 「……でも、どうしたのかしらね」
 
 もう一度、呟くように……小さな声で、リツコは繰り返す。
 
 どうと言うほどの差でもないが……確かに、調子が良くないようだ。
 
 どうしてだろう?
 
 
 
 「ほら……明日、アレ……だからでしょ」
 
 今まで、ずっと黙ってテストを見ていたミサトが、静かな声で呟いた。
 
 リツコが、ゆっくりと振り返る。
 
 
 
 ミサトも、リツコの瞳を見返す。
 
 
 
 静かな、沈黙。
 
 マヤは、不思議そうな表情で、二人を見ている。
 
 
 
 リツコの口から、小さな溜め息が漏れた。
 
 「そう……明日……ね」
 
 
 
 明日。
 
 ……ユイの……命日。
 
 
 
 そう言えば、リツコは、シンジの口からユイについての話題を聞いたことがない。
 
 それは、もともとリツコとシンジの間柄がさほど近しくないということもあるだろうが……。
 
 ユイは、シンジが幼いころに、彼の前から姿を消している。
 
 シンジは、ユイに対して、実際には重い感情は抱いていないのかも知れない。
 
 ゲンドウとの溝が、その存在を倍加させているだけ……
 
 ………
 
 ……だが、それは、想像でしかない。
 
 シンジが本当はどう思っているのか……それは、よくわからない。
 
 
 
 ミサトも、シンジと、ユイの話題について話したことはなかった。
 
 
 
 シンジが、母親のことをどう思っているのか?
 
 それをまったく知らなかったことに気付いて、ミサトはかすかなショックを受けた。
 
 そうだ……。
 
 シンジとは、もちろん、ゲンドウについての会話もまずしない。
 
 だが、それでも、シンジとゲンドウの間の「溝」のようなものは感じられるし、話題に上らない理由もそこにあるからだと分かる。
 
 だが、ユイについては?
 
 
 
 シンジのシンクロ率が芳しくない理由の一つは、やはり明日の、母親の命日についてのなのだろう、とは思う。
 
 だが、それが悲しみによるものか、喜びによるものか……動揺なのか、集中できないのか、気にしないようにしているのか、気になってしかたがないのか……
 
 何も、わからない。
 
 
 
 ミサトは、黙ってサブモニタの中に映るシンジの顔を見つめる。
 
 ……シンジくん。
 
 
 
 他人なのだから、知らないことはたくさんあって、当然だ。
 
 だが……
 
 
 
 家族とは、なんだろう。
 
 本当に、なんでも知っていることが、家族なのか?
 
 逆に、不可侵な領域には踏み込まないこと……それが、大事なのかも知れない……
 
 ……しかし……。
 
 
 
 ……わからない……
 
 ……私には、まだ、わからない。
 
 ミサトは、黙って目をつぶった。