第五十八話 「誕生日」
二百六十八



 ざばぁぁぁああッッ!
 
 
 
 激しい水音と共に、洋上に水柱が噴きあがった。
 
 
 
 天を突くような、海水のシャワー。
 
 その水しぶきの間から、赤い機体が覗く。
 
 
 
 バランスを失った形で空中を飛来した弐号機は、そのまま放物線を描くと、真っすぐにオーバー・ザ・レインボウの甲板に落下した。
 
 
 
 どっ……
 
 ……がぁぁぁぁぁぁんんッ!
 
 ………
 
 ……ばしゃぁぁぁぁぁあああっっ……!
 
 
 
 落下した状態のまま、甲板に横倒しになった弐号機の上に、しぶきが雨のように振り注いだ。
 
 
 
 「……無様だな」
 
 机に向かう老人の一人が、低い声で呟く。
 
 
 
 ゲンドウは、わずかに指を動かして、サングラスを直した。
 
 「……使徒は、殲滅しました。結果に問題はないでしょう」
 
 「もっとうまくやれたのではないかね……第一、使徒の接近に気付いていながら、初動が遅すぎる」
 
 老人は、言葉の中に、いまいましそうな調子をかすかに含んで、言う。
 
 別の老人が、机を指先で、コツ……コツ、と叩く。
 
 「国連からの抗議の声も小さくはない。無礼講と思ってもらっては困るな」
 
 「あれは、連中の、弐号機引き渡しが遅れたからです。足を引っ張ったのは連中の方ですよ」
 
 
 
 「……まぁ、その件についてはいい」
 
 机の、一番奥に座った、バイザーをつけた老人……キール・ローレンツが、重く低い声で言う。
 
 
 
 場が、静まった。
 
 
 
 ……そこは、どこまで続いているのか分からない……いや、あるいはすぐそこに壁があるのか、天地の区別も曖昧なほどの、漆黒の空間。
 
 その、墨を流したような空間の中央に、長細い机と、それを囲む数人の人影が見える。
 
 机の短辺……一番奥に、キール・ローレンツ。
 
 一番手前に、碇ゲンドウ。
 
 ゲンドウの後ろには、一歩引いて、冬月が後ろ手を組んで立っていた。
 
 
 
 机の中央に、ホログラムのように浮かびあがるモニタに、さきほどから、甲板に横になった弐号機が、静止映像で映っている。
 
 
 
 キールは、そのまま、口を開いた。
 
 「……この使徒が艦隊を襲撃することは、死海文書には記されていなかった」
 
 ゲンドウは、特に反応しない。
 
 別の老人が、キールの後を継いで言葉を続ける。
 
 「使徒は、アダムとの融合を求めていたのではないのか。……アダムは、ドグマにいたはずだ。なぜ、艦隊を襲った?」
 
 「何か、思い当たる要素があるのではないか、碇ゲンドウ?」
 
 
 
 「弐号機の存在に、誘導されたものと思います。
 
 いずれにせよ、使徒はエヴァが殲滅することとなったでしょう。襲撃場所がズレただけ……わずかな差異です」
 
 
 
 場が、静寂に包まれた。
 
 
 
 ……ゼーレは
 
 
 
 ……ドグマのアダムが、リリスである事実を、知らない。
 
 
 
 ……ベークライトで固められた、あのアダムを、知らないのだ。
 
 
 
 「……まぁ、よかろう」
 
 沈黙に固められた空気を、またも最初に破ったのはキールだった。
 
 わずかに体を揺すると、机の下から、かすかに金属のこすりあう音が聞こえた。
 
 
 
 キールの言葉に、おのおのは呪縛を解かれたように、わずかずつ視線を動かした。
 
 それを合図にしたかのように、静止していたモニタの映像が、再び動き出す。
 
 
 
 イスラフェル……サンダルフォン……
 
 この数ヶ月で、シンジたちが殲滅した使徒と、その闘いの記録が、順番にモニタに映し出されていく。
 
 
 
 マトリエル……サハクィエル……
 
 
 
 一番最近の使徒との闘いが、モニタに現れた。
 
 先日の、イロウルだ。
 
 「……いかんな、これは。……早すぎる」
 
 眼鏡をかけた老人が、呟くように言い、視線をゲンドウに向けた。
 
 「使徒の本部侵入を許すとはな……今、接触があれば、今までの努力が灰燼に帰す」
 
 「委員会への報告は誤報。使徒侵入の事実はありませんが」
 
 「本気で言っているのかね。そのような事実はないと?」
 
 「MAGIのレコーダーを調べて下さってもかまいませんよ」
 
 「あんなもの、信用できるものかね……MAGIは、君の手の内だろう」
 
 「ご冗談を」
 
 「この場での偽証は、死に値するぞ」
 
 「すべて真実です。使徒の出現は、死海文書のタイムスケジュール通りに進んでいますよ」
 
 
 
 「……まぁ、いい。ここで、碇の罪を追求しても始まらん」
 
 一瞬白熱しかけた空気を、キールの一言が、また、下げた。
 
 
 
 キールは、机の上に肘を付くと、上体だけをわずかに前に出した。
 
 指を口許に当て、じっ……と、ゲンドウの方を見る。
 
 だが、その視線は、バイザーに隠されて、確認することは出来ない。
 
 
 
 キールが、口を開いた。
 
 
 
 「……だが、碇。貴様が、自分でシナリオを作ることは、許しておらんぞ」
 
 「わかっております……すべては、ゼーレのシナリオのままに」
 
 
 
 応えながら、ゲンドウは、指先をサングラスに当てて、わずかに押し上げた。
 
 その表情は、感情の走らぬ、能面のような姿。
 
 だが、そのサングラスの裏側で、ゲンドウの瞳は、嘲笑を含んでかすかに笑っていた。



二百六十九



 シンジ、レイ、アスカの三人は、並んで座って、バスに揺られていた。
 
 
 
 今日は、NERVで訓練が行われる。
 
 そのために、放課後、三人は本部に向かって移動しているのだ。
 
 
 
 既に商店街の停留所を過ぎた車内は、人もまばらだ。
 
 この先、終点のNERV本部前停留所までは、数えるほどの停留所しか、ない。
 
 だが、その閑散とした車内でも、三人の姿は他の乗客の視線を引いていた。
 
 
 
 一番奥の、多人数用の座席に、並んで腰掛ける三人。
 
 そのうちの二人は、ブラウン管を通したとしても、そうは見掛けることのないような美少女だ。
 
 その二人が、一人の少年を挟むようにして座っている。
 
 
 
 少年も、決して悪いつくりの顔立ちではない。
 
 ワイドショー的な視線を向けるなら、「一人のプレイボーイが、美少女二人をグルーピー的に従えている」という、羨ましい情景に映るだろうか。
 
 それとも、逆に、「美少女二人組の超絶タッグに、荷物持ちの下男がつき従う」というようにでも見えているのだろうか?
 
 
 
 レイは、自分たち三人の姿が人目を引いている事実に、まったく気付いていない。
 
 アスカは当然気付いていたが、それこそどこ吹く風、と気にしていない。
 
 
 
 シンジは、考え事に夢中で、自分たちの姿が他人にどう見えているかなど、どうでもよかった。
 
 
 
 これから行う実験を、シンジは覚えている。
 
 渡されていたタイムスケジュールによれば、「第1回機体相互互換試験」および「第87回機体連動試験」。
 
 
 
 機体相互互換試験。
 
 
 
 レイが初号機に、そして、シンジが零号機に乗った、シンクロテストだ。
 
 
 
 表向きには、「シンジとレイが機体を交換してもシンクロを保つ事ができるかどうか」……つまり、作戦運用上……別の機体に乗らざるを得ない事態になっても作戦遂行に問題がないか、それを調べるための試験とされている。
 
 だが実際には、ダミープラグの製造にあたっての基礎データの採集と……ダミープラグの人格とほぼ同一の人格であるレイが、初号機とシンクロすることができるかどうかを確認することで、ダミープラグの初号機搭載の予備シミュレーションに代える予定だった。
 
 シンジは、裏側の理由は知らない。
 
 彼は、単なる相互互換下でのシンクロテストだと思っていた。
 
 
 
 だから、現在の彼の懸念は、レイが初号機に乗る事、に対してではなかった。
 
 自分が、零号機に乗る事に関してだ。
 
 
 
 一瞬の出来事で詳しくは覚えていないのだが……零号機が暴走した、という事実に記憶がある。
 
 なにがどうしてどうなったのか……その細かい要因は覚えていない。
 
 記憶と推測をたどれば……零号機越しに感じたレイの思念を、拒絶したからではないか、とシンジは思う。
 
 あの時、突然感じられた……零号機越しに感じたレイを拒絶したことで、零号機はパイロットとのシンクロに拒絶反応を起こしたのだ。
 
 同じような状況下でありながら初号機が暴走しなかったのは、レイがシンジの思念を拒絶しなかったからに違いない。
 
 
 
 少なくとも、今回……自分がレイを拒絶する事など、あるまい。
 
 その点については、自信がある。
 
 
 
 ……今の、シンジが考えた暴走プロセスは、実際には結果から導き出した推測に過ぎない。
 
 零号機そのものに、何か暴走の要因となる欠陥があるかもしれないし、単に、零号機はレイ以外のパイロットを認めないのかもしれない。
 
 拒絶しないからと言って、暴走しないとは限らない。
 
 油断はできない、とシンジは自分を戒めた。
 
 
 
 もうひとつ、これはあまり関係がないのかもしれないが、状況から予測できる事がある。
 
 
 
 あのときシンジは、零号機のプラグの中で、レイのにおいを感じた。
 
 そして、レイが自分の中に入ってこようとするのを感じていた。
 
 
 
 ……だが、レイがその場にいたわけでもないのに、レイの思考を感じる事などあるだろうか?
 
 レイの残留思念?
 
 そんなものが、この世にあるだろうか。
 
 
 
 考えるに……あれは、レイではなく……
 
 
 
 零号機だったのだ。
 
 
 
 零号機のコアは、アダムのコピー。
 
 レイも、ユイとアダムを半分ずつ持っている。
 
 
 
 おそらく、常に近いところにいるレイのパターンに、零号機のパターンが引きずられていたのではないか。
 
 あのとき、レイだと思った存在は、レイではなく……レイに比較的、近い存在となっていた、零号機の思念だったのではないだろうか。
 
 
 
 そして……
 
 そう考えると、もうひとつ、別の結論に行きつく。
 
 
 
 ……綾波は……初号機の中で、僕のにおいを感じたと、言った。
 
 
 
 だが……それは、僕ではなくて……
 
 
 
 ……母さん……?
 
 
 
 「シンジ!」
 
 「えっ?」
 
 
 
 耳許で急に呼びかけられ、シンジは驚いて顔を上げた。
 
 見ると、アスカがこっちを睨んでいる。
 
 「えっ……え、と……なに? アスカ」
 
 「なに、じゃぁないわよ」
 
 シンジの気の抜けたような声に、アスカは大袈裟に溜め息をついてみせた。
 
 そして、もう一度、シンジを睨む。
 
 「……ぼぉ〜っとしてんじゃないわよ。本部に着いたってのに、降りないワケ?」
 
 「えっ?」
 
 
 
 シンジが窓の外を見ると、すでに、バスは見慣れた停留所に停車していた。



二百七十



 シンジたちを降ろしたあと、バスは、バスプールを一回転して、もと来た方向に走り去っていった。
 
 シンジたちは、その後ろ姿を一瞥して、本部への道を歩きだす。
 
 
 
 ……当たり前の話だが……終着駅である、このNERV本部には、NERVの職員以外が降りることはない。
 
 よって、あのバスの運転手も、実はNERVの職員だ。
 
 NERV本部と関わりのない人間がこの停留所で乗り降りした場合、即座に、彼から警備局に連絡がなされるのである……もっとも、警備局の方でも、侵入者への警備はしている。いわば、二重の網というわけだ。
 
 
 
 シンジたちは、本部への道を歩きながら、お喋りに興じていた。
 
 「シンジ、アンタ、誕生日っていつよ?」
 
 とんとん、と数歩先に行ったアスカが、くるりと回転してシンジに言った。
 
 シンジは、きょとんとした顔をしてアスカを見る。
 
 「え? ……どうしたのさ、急に」
 
 「いいでしょ、別に。聞いたことないな、と思ってさ」
 
 「はぁ……まぁ、いいけど……」
 
 相変わらず、アスカの思考は跳ね馬のようにあちこちに飛ぶ。
 
 シンジは、一つだけ、小さな溜め息をついた。
 
 「……6月6日」
 
 シンジが答えると、アスカは、少しだけ目を開いた。
 
 そして、一転、不機嫌そうな表情を見せる。
 
 
 
 「なによ、アンタ……とっくに過ぎちゃってるじゃない」
 
 「いや、そりゃ、そうだけど……でも……だからって、別に」
 
 「しかもナニ、6月!? アタシがコッチ来るのと一緒くらいじゃない!
 
 アタシが来たときにもう過ぎちゃってるってんならわかるけどねぇ、そんなら、『オレは誕生日だぁ〜』とか何とか、アピールしなさいよ!」
 
 
 
 「そんなこと言ったって……」
 
 シンジは、苦笑する。
 
 あの頃、アスカに、自分が誕生日だと告げて……それが、何になったというのか?
 
 あの頃のアスカが、自分の誕生日を祝ってくれたとは、とても思えない。
 
 
 
 じゃあ、今のアスカは? と想像すれば、幾らかは、祝ってくれそうな気がする。
 
 これもやっぱり、アスカの変化だ、とシンジは思う。
 
 
 
 「大体ねぇ……誕生日なんて、一年に一度っきりのイベントじゃない。
 
 もう少し、こう、周りに対して宣伝してもいいんじゃないの?」
 
 アスカは、なおもぶつぶつと文句を垂れている。
 
 なぜ、そんなことを言いだすのか?
 
 気にならないでもないシンジだったが、それは、アスカのいつもの気まぐれかも知れない。
 
 シンジは、取り繕うように、アスカに話題を振り返した。
 
 「アスカは、誕生日って盛大に騒ぐほう?」
 
 「盛大、ってほどでもないわよ」
 
 アスカは、応える。
 
 「でも、ま、パーティーはやるわね。ドイツにいたときは、大学のみんなとか、むこうのNERVのスタッフとか、集まってくれたもんよ」
 
 「ふ〜ん……そう」
 
 
 
 メンバーの中に、両親がいないことを、シンジは知っている。
 
 ……もっとも、シンジが知っているということを、アスカは、もしかしたら知らないかもしれないが。
 
 みな、祝福してくれただろう。だが、その裏側に流れる、暗い河の存在を、彼女は常に感じていたはずだった。
 
 
 
 「アンタは、どうなのよ」
 
 アスカは、くるりと振り返って、シンジの鼻先に指を突き付けた。
 
 「僕? ……僕は……まぁ、フツウかな」
 
 
 
 シンジだって、毎年、誕生日を祝ってもらった記憶はある。
 
 だが、それは別に、楽しくもつまらなくもない、取るに足らない記憶だった。
 
 叔父夫婦は、毎年必ずケーキを用意して、プレゼントを贈ってくれた。
 
 だが、それは、滑稽なポーズに過ぎないことを、幼いシンジですら気付いていたのだ。
 
 これは、彼等が「義務」として捉えているような行動に過ぎず、別に本心から祝ってくれているわけではない。
 
 学校に友人がいなかったシンジには他に祝ってくれる人間も居らず、ただ事務的に、誕生日という区切りを迎え、通り過ぎているに過ぎなかった。
 
 
 
 シンジの曖昧な返事に、アスカはつまらなそうに眉根を寄せた。
 
 しかし、それ以上は深く突っ込むことなく、視線をもう一人の少女に向ける。
 
 
 
 「ファースト……アンタの誕生日は?」
 
 
 
 あっ。
 
 
 
 シンジは、アスカの問いに、一瞬にして体を強ばらせた。
 
 
 
 しまった。
 
 
 
 ……この話題になったときに、なぜ、気付かなかったのか……。
 
 
 
 レイには、
 
 誕生日が、
 
 ない。
 
 
 
 それに、自分はそれを知っているからいいが……レイ自身は、知られたくないと思っているのではないか。
 
 
 
 シンジは、パッとレイの方を向いた。
 
 レイは、無表情だった……
 
 ……それは逆に、シンジの心を締めつけた。
 
 動揺を押さえ込んでいる……それが、分かる。
 
 
 
 「……わからないわ」
 
 レイが、抑揚のない声で応えた。
 
 アスカが、怪訝な表情を向ける。
 
 「……は? ……なんで?」
 
 「知らないもの」
 
 レイは、視線をアスカにも、シンジにも向けることなく、言葉を紡ぐ。
 
 
 
 レイの心は、乱れていた。
 
 それを抑えるために……必要以上に、表層の感情を消し去っていた。
 
 
 
 私には……生まれた日が、ない。
 
 それは、わかってたこと。
 
 
 
 私は、母親のおなかから、生まれたんじゃない。
 
 培養液の中で……生まれた。
 
 ……初めから……子供の、姿で。
 
 
 
 私が生まれた日は、いつだろう?
 
 
 
 培養液の中で、遺伝子が生まれた日?
 
 
 
 細胞分裂が、始まった日?
 
 
 
 私を包む殻が、人間の形になった日?
 
 
 
 脳が、電気信号を送り始めた日?
 
 
 
 一人目の私が、魂を貰った日?
 
 
 
 二人目の私が、魂を貰った日?
 
 
 
 ………
 
 
 
 私が……
 
 
 
 ……碇君に、こころを貰った日?
 
 
 
 ………
 
 
 
 人間が、生まれた日……
 
 それは、いつのこと?
 
 私が生まれたのは……いつ?
 
 
 
 ………
 
 
 
 私は……人間じゃないから……生まれた日が、ない。
 
 碇君にも……
 
 弐号機パイロットにも……
 
 
 
 ヒカリさんにも、ミサトさんにも、
 
 鈴原君にも、相田君にも、
 
 赤木博士にも、碇司令にも、冬月副司令にも、
 
 
 
 生まれた日が、ある。
 
 
 
 ………
 
 
 
 生まれた日がないのは……
 
 私が……人間じゃないから……
 
 
 
 ………
 
 
 
 碇君……
 
 知られたくない……
 
 知られたくなかった。
 
 
 
 何も言わないで。
 
 
 
 私を……拒絶しないで。
 
 
 
 私……
 
 
 
 私は……
 
 
 
 ………
 
 
 
 人間だったら……どんなに……
 
 
 
 レイの思考は、そこで中断された。
 
 シンジの顔を見ないように……無意識に、一歩前を歩いていたレイの体を、後ろからシンジが抱き締めたからだ。
 
 
 
 レイの目は、見開かれていた。
 
 拒絶を恐れる余り、自然と接触を避けようとしていた少年から、抱き締められたのだ。
 
 レイは、何も喋ることが出来ない。
 
 シンジも、黙って腕に力を込めただけだった。
 
 
 
 突然の展開に、アスカは呆れた表情で二人を見ていた。
 
 「……アンタらねぇ……もう少し、恥じらいってモンは、ないわけ? TPOを考えなさいよねぇ……」
 
 小さい声で、アスカはぶつぶつと文句を言う。
 
 だが、二人を止める気はないようだ。
 
 レイの口から「誕生日を知らない」と聞かされたアスカは、咄嗟にどうしていいか分からなくなっていた。
 
 聞いてはいけないことを、聞いてしまったような、気まずさ。
 
 だからむしろ、シンジがレイを抱き締めたことに、喜びと安堵を感じていた。
 
 
 
 シンジは、後ろからレイを抱き締めて、耳元で呟いた。
 
 「綾波……」
 
 「………」
 
 「……じゃあ……いつにしようか」
 
 「……え?」
 
 「誕生日だよ。
 
 いつか分からない……ってことは、いつでもいいってことでしょ? 」
 
 シンジは、微笑みを込めて、言う。
 
 
 
 シンジは、レイの心の……例えすべてはわからなくても、一端は分かると思う。
 
 前回の、レイとは違う……
 
 ……人間になりたいと、シンジと同じ人間でありたいと思う、レイの心。
 
 
 
 シンジは、それを汲んでやりたかった。
 
 誕生日がない。
 
 奇特な例ではあろうが、人間だって、そういう人がいないわけではない。
 
 孤児や、記憶を失うような病を患った人、戦時中に生まれた子供や、飢餓に苦しむ子供……
 
 それに、このセカンド・インパクトを越えた時代では、現実に、出生のよく分からない人間は少なくはない。
 
 決して、レイが悲観するほどに、「生年月日が明確なこと」が、人間の条件ではないのだ。
 
 
 
 シンジはレイの体を離すと、肩を掴んで、くるりと自分の方に向けた。
 
 シンジに見つめられ、戸惑うレイ。
 
 シンジは微笑んだ。
 
 「知ってる? 今の法律ではね、生年月日が不明な人は、自分で好きな生年月日が申請できるんだよ」
 
 「……えっ」
 
 
 
 この政策は、先ほども述べたように……セカンドインパクトによって、孤児や記憶障害などの境遇に見舞われる人が、飛躍的に増加したことによるものだ。
 
 あまりにも生年月日が不詳な人間が多く、簡便に生年月日を再発行できるようにする必要があったのだ。
 
 
 
 シンジの言葉は、二重の意味を含んでいた。
 
 ひとつは、レイにも、誕生日を持つことが出来る、ということ。
 
 そしてもうひとつは、国が法律によって生年月日のない人への処置を講じているということは……つまり、生年月日のない人間が、いないわけではないということだ。
 
 
 
 アスカも、微笑みながら、シンジの意見を肯定した。
 
 「そ〜よ、誕生日がないなんて、つまんないわよ。申請なんて、ミサトに頼みゃ、すぐでしょ? やんないテはないわ」
 
 嬉しそうに、言う。
 
 
 
 レイは、驚いたような表情で、シンジの瞳を見つめていた。
 
 シンジは、軽く微笑む。
 
 「どうする? 何か、好きな日とか、あるかな」
 
 
 
 レイの心の中に、さまざまなものが渦巻く。
 
 
 
 自分が……人間ではない、と知る、一つの要因。
 
 誕生日がない、という、事実。
 
 それを……
 
 ………
 
 ……手放すことが、できる……?
 
 
 
 遅ればせながら……レイは、体の表面に、かすかな震えが沸き起こっていくのを感じた。
 
 
 
 感情を押し殺すことで、抑えていたものが、こぼれ落ちそうになる。
 
 
 
 レイは、ガバッとシンジの胸に抱きついた。
 
 シンジは、驚いて、レイを見る。
 
 レイは、シンジの胸に顔をうずめ……そのため、シンジから、レイの表情は見えない。
 
 
 
 レイは、涙を堪えていた……嬉しかった。自分にも、生まれた日ができることを。
 
 そう教えてくれたシンジが、嬉しかった。
 
 
 
 でも、誕生日を貰うことを、こんなに嬉しがっていることを、シンジにあまり知られたくなかった。
 
 人間ではない自分を、見透かされるような気がした。
 
 
 
 だから、咄嗟に、シンジの胸に飛び込んでいた。
 
 
 
 「……はいはい、今度はコッチ? 好きなだけいちゃついてなさいよ」
 
 やれやれ、といった口調で、アスカは溜め息をついた。
 
 シンジは、赤い顔でアスカの方を見る。
 
 「えっ……あ、いや、これは……」
 
 「……6月6日」
 
 「え?」
 
 急に、胸元から聞こえてきた声に、シンジは慌てて視線を落とした。
 
 レイの表情は、見えない。
 
 レイは、もう一度、呟いた。
 
 「……碇君と……同じ……誕生日が、いい」
 
 
 
 思わぬ言葉に、ぼけっとするシンジ。
 
 アスカは苦笑して腕組みをした。
 
 「シンジは、なんか、驚いてるみたいだけど……アタシに言わせりゃ、絶対ファーストはそう言うだろうと思ってたわよ」
 
 「えっ、そ、そうなの?」
 
 「アンタ、バカ? ……もう少し、頭を働かせなさいよ。愛しの碇君とおんなじ誕生日なんて、コイツにとって一番嬉しいに決まってんじゃない」
 
 
 
 シンジはアスカにそう言われて、思わず赤くなってレイを見た。
 
 レイは、感情の昂ぶりが若干おさまり……抱きついたまま、上目使いにシンジを見た。
 
 かすかに濡れた瞳が、シンジを捉える。
 
 「碇君……
 
 ……ダメ?」
 
 「えっ! あ、いや、その……ダメなんてことはないよ、うん」
 
 レイの、僅かに寂しさを含んだ声に、慌ててかぶりをふるシンジ。
 
 
 
 「じゃ、誕生会をやんなきゃね」
 
 腕を組んだまま、アスカがニコニコして言う。
 
 アスカの言葉に、シンジとレイは、思わず同時に振り返った。
 
 
 
 「……誕生……会?」
 
 レイは、きょとんとしたような表情で、アスカの言葉を繰り返す。
 
 「誕生会って……でも、もう8月だよ」
 
 シンジも、怪訝な表情でアスカを見た。
 
 
 
 「バッカねぇ、シンジ、今年はなんにもやってないんでしょ? だったら、今やったっていいじゃない。一年に二回やるのは反則だけどね、一回ならルール違反てわけでもないわよ」
 
 「そ、そう……かなぁ?」
 
 「それに、ファーストなんかその様子じゃ、今まで一度もやってないんじゃない?」
 
 アスカの言葉に、レイは、おずおずと頷く。
 
 第一、去年までの彼女には、「誕生日を祝う」という概念自体が存在しなかったのだから、当然だ。
 
 「そんなら、ファーストなんか、14回やったっていいくらいよ。ま、うっとうしいからやんないけどね」
 
 
 
 ……なんとも、アスカらしい……
 
 ……乱暴な、意見。
 
 だが、初めは驚いていたシンジだったが、徐々に……そのプランに、気持ちが浮かれてくるのが分かった。
 
 自分の誕生会だから、ではない。
 
 レイの誕生日を、祝う……
 
 ……今までそんな経験のないレイにとって、それは、どんなにか楽しい経験になるだろうか?
 
 
 
 「……うん、いいね……よし……やろうか!」
 
 シンジは、満面の笑みで言う。
 
 一度決めてしまえば、それは、非常に楽しそうなプランだった。
 
 アスカも、腕を組んだまま、微笑んで頷く。
 
 シンジは、レイの方に振り返った。
 
 「綾波、誕生会だよ。やろう、一緒にさ」
 
 
 
 言われたレイは、茫然とした表情のまま、シンジを見る。
 
 「……誕生会……?」
 
 「そうだよ」
 
 「………」
 
 「どう?」
 
 「……なにを、するの?」
 
 「なにって……う〜んと……まぁ、パーティーだよ。ケーキ食べたり、みんなでお喋りしたり、プレゼントを貰ったりするんだ」
 
 「………」
 
 シンジの言葉に、レイは、考え込むように指先を口許に当てる。
 
 
 
 レイにとって、誕生会、というものは……既存の知識に存在しない催しだった。
 
 だが……シンジは、楽しい、という。
 
 シンジと一緒に、誕生会を祝う……ピンと来なくても、それは、なんだかレイの胸の奥を、暖かく灯らせた。
 
 
 
 「……うん」
 
 レイは、改めてシンジの顔を見ると、ゆっくりと微笑んだ。
 
 「……やる……お願いします、碇君」
 
 
 
 「シンジにお願いしたってしょ〜がないと思うけど……ま、これでキマリね」
 
 アスカは、楽しそうに笑った。
 
 そして、くるりとその場で回転する。
 
 「あ、アタシも便乗して一緒にやるから」
 
 そして、そのままスタスタと歩きだす。
 
 
 
 「え……ア、アスカ?」
 
 慌てて、シンジはアスカの背中に声をかけた。
 
 アスカは、チラ、とシンジのことを睨む。
 
 「……なによ、シンジ?」
 
 
 
 「いや、あの……アスカ、誕生日、いつ?」
 
 
 
 「……12月4日」
 
 
 
 「……まだ、全然先じゃないか……」
 
 「うっさいわねぇ〜、さっき言ったでしょ! 一年に一回やるんならね、いつだっていいのよ!」
 
 アスカは、不機嫌そうに言う。
 
 その言葉に、シンジは苦笑した。
 
 「疑問も残らないでもないけど……ま、いいか。みんなでやったほうが、楽しいしね」
 
 「あったりまえでしょ」
 
 アスカは、ぷいっ、とそっぽを向いてしまった。
 
 
 
 結局……これが言いたくて、誕生日の話を持ちだしたのかなぁ?
 
 シンジは、苦笑した。
 
 
 
 まぁ、いいか……。
 
 二人でやるより、三人でやったほうが、絶対に楽しい。
 
 昔の僕は、こういう催しみたいなのって、あんまり好きじゃなかったけど……
 
 ……なんだか、今は、すごく楽しみだ。
 
 ………
 
 ……僕が、変わったのかも知れないけど……
 
 きっと、綾波やアスカと、一緒に誕生会をやるのが、楽しみなんだ。
 
 
 
 そうして、気付かぬうちに、思わず口許に微笑みを浮かべているうちに……
 
 
 
 突然、シンジの携帯電話が鳴った。
 
 
 
 ピピピピピピピピピピピッ!
 
 ピピピピピピピピピピピッ!
 
 ピピピピピピピピピピピッ!
 
 
 
 慌ててそれを取り、耳元に当てるシンジ。
 
 「は、はい、碇ですけど」
 
 『……シンジくん?』
 
 「あ、リツコさん? どうかしましたか?」
 
 『……どうかって……あなたねぇ……今、何時?』
 
 「何時って……」
 
 
 
 ……あ!
 
 
 
 パッと顔を上げると、アスカが茫然とした表情で、携帯電話のパネルに表示された時刻を見ている。
 
 レイは、まだなんだかよくわかっていないようで、キョトンとした表情でシンジとアスカを見ている。
 
 
 
 ……やっば……
 
 
 
 シンジは、慌てて携帯電話を握り直した。
 
 「す、す、すいません! すぐに行きますッ!」
 
 『あなたたち、今、どこにいるの?』
 
 「ゲ、ゲートの前です!」
 
 『……5分で、司令室集合。遅れたらどうなるか……わかってるわね』
 
 プツン。
 
 電話は、切れた。
 
  
 
 茫然と、切れた携帯電話を見つめるシンジ。
 
 遅れたらどうなるか……
 
 ……わかってるわね、と言われても、さっぱりわからない。
 
 ……わかるのは……
 
 ……最高に、恐ろしい目に合うということだけだ。
 
 
 
 シンジとアスカは目を合わせると、二人でレイの脇を抱えるようにして、一気に走り出した。