第五十七話 「一日」
二百六十一



 小さな、部屋。
 
 レースのカーテンごしに、柔らかな朝の光がさしこむその部屋には、机と椅子と、部屋の主が寝息をたてるベッド以外、何もない。
 
 
 
 蒼銀の髪の毛がのぞくベッドは、その寝息に合わせて、かすかに上下している。
 
 時刻は、7時、5分前。
 
 その少女は、7時丁度に目を覚ます。
 
 そのリズムはほとんど狂うことがなく、彼女は目覚まし時計を使ったことがない。
 
 それに、彼女にはそんな頼り方をする気などないが……もしも万が一、彼女が寝坊するようなことがあれば、隣に住む少年が心配して様子を見にくることだろう。
 
 遅刻することなど、ありえないのだ。
 
 
 
 時計の長針が、ゼロを指した。
 
 
 
 少女は、ゆっくりとまぶたを開く。
 
 まだ、意識は完全に覚醒していない。
 
 
 
 彼女自身には、目覚めの物憂げな時間を楽しむような感覚は、ない。
 
 意識が覚醒すれば、すぐにでも……すでに目覚めて朝食の支度をしているであろう、愛しい少年の許に駆けて行きたい。
 
 だが、低血圧気味な彼女の体質が、それを妨げていた。
 
 
 
 まだはっきりしない頭を、枕から引き剥がすようにして上体を起こす。
 
 そのままフラフラとベッドを抜け出すと、おぼつかない足取りで、バスルームへと向かう。
 
 
 
 脱衣所で、のろのろとパジャマを脱いで、洗濯機の蓋の上に置く。
 
 下着も同じようにそれに重ねて、バスルームに足を踏みいれた。
 
 
 
 冷水を、頭からかぶって、思わず彼女は身震いした。
 
 決して体にいい行為ではない。だが、半覚醒の意識をなかば強制的に、手っ取り早く覚醒に持って行くことができるこの朝のシャワーを、彼女は好んでいた。
 
 それに、少女の、癖のある髪の毛。
 
 それは、一晩眠ると、爆発的に主人の意志を超えた形容に変貌する。
 
 彼女自身はそれを意識しているわけではないが……この朝のシャワーは、結果的にその爆発を元の形に戻す役割も担っていた。
 
 
 
 急な冷水の攻撃に跳ね上がった鼓動が,徐々に治まっていく。
 
 少女はゆっくりと……深く、長く息を吐くと、首を上に向けた。
 
 水のつぶてが、彼女の顔を叩く。
 
 その水滴はいくつかの塊がやがて流れをつくり、彼女の体に何本もの細い川を描き出す。
 
 
 
 首筋を伝った川は鎖骨の窪みにちいさな湖を作り、そこからあふれた水は二つの丘の間をゆるやかにうねりながら下る。
 
 白い平原の中央にある小さな穴を迂回して、つややかな丘陵をこえる。
 
 長くしなやかに伸びた幹をまっすぐに下り、やがてたどりついた冷たいタイルに沿って、排水口へと消えていく。
 
 
 
 少女は蛇口をひねり、シャワーを止めた。
 
 
 
 体中から水を滴らせたまま脱衣所へ戻ると、ぶらさがるように壁に設置された棚の上の段から、白いバスタオルを取り、頭からかぶってがしゃがしゃと拭く。
 
 ある程度水気が取れたところで撫で付けるようにぬぐって髪の流れを整え、そのまま体中を拭いていく。
 
 拭き終わったら、バスタオルは足許の篭の中へ。
 
 棚の下の段から下着と靴下を取り出すと、それを順に身に着けていく。
 
 
 
 下着と靴下を身にまとったところで、入る時に洗濯機の上に置いたパジャマを取って脱衣所を出る。
 
 そのまま、再び自分の部屋へ。
 
 パジャマを、かろうじて「畳んである」と言えなくもない状態にまとめて、ベッドの上に放る。
 
 机の上に、これまた「畳んである……のか?」という状態のワイシャツが置いてあるので、それを取り、袖に腕を通す。
 
 ハンガーにかけて鴨居にぶらさげてある制服を取ると、それを身に着ける。
 
 机の上に転がしてある携帯電話を手に取り、ポケットに突っ込む。
 
 
 
 少女は、そこまで身仕度を進めてから、躊躇するかのように動きを止めた。
 
 数秒考えてから、机の引出しを開ける。
 
 
 
 引出しの中には、手帳や筆記用具などの、ごくわずかな日用品が入っているに過ぎない。
 
 その、中央。
 
 小さな、白い、紙の箱。
 
 
 
 少女は、その箱を……壊れ物でも扱うかのように、そっと……自らの手のひらに載せる。
 
 右手でゆっくりと、蓋を開ける。
 
 
 
 箱の中に入っていたのは、青い粒を細い鎖に繋いだ、ネックレスだった。
 
 
 
 少女はそのネックレスを拾い上げると、瞳の前に、そのガラス玉を持ち上げる。
 
 無骨な、ガラスのかけら。
 
 だが、彼女はそのガラスごしに朝の光を見つめて、目を細めた。
 
 
 
 その光景は、彼女に不思議な感覚を呼び起こさせる。
 
 美しく、哀しく、暖かく……懐かしい。
 
 
 
 鈍い色にきらめき、光を放つ宝石箱を、青い波間の向こう側に見つめている。
 
 その光は、やがて彼女の心を包み込むように。
 
 だが、決して、ぎらぎらと輝かない。
 
 控え目に……ともすれば、曇りガラスを介したような、鈍い光。
 
 だが、少女は、その鈍さが気に入っていた。
 
 その、角の取れた丸い光が、心地好い。
 
 
 
 少女は、そのネックレスを自分の首にかける。
 
 首の後ろに手を回し、細い鎖を繋ぎあわせる。
 
 首からぶら下がったネックレスは、ワイシャツの中にしまい、外からは見えなくなる。
 
 そうしてから、中の空になった白い箱を戻して、引出しを閉める。
 
 椅子の上に置いてあった鞄を掴むと、少女はスカートを柔らかく翻して、愛しい少年の許へ走っていった。



二百六十二



 シンジは、目覚し時計によって朝を迎える。
 
 それは、彼の性格によるものだ。
 
 シンジ自身は、実際にはあまり寝坊をすることがない。……時折、前日の夜更かしがたたったり、あるいは疲れが溜っていたりで、自力で起きることが出来ないこともあったが、それは、月に数度、あるくらいだ。
 
 だが、目覚し時計は欠かせない。
 
 寝坊してしまうかも……という不安なく、落ち着いて眠るためには、どうしても目覚し時計を枕元に置いておく必要があった。
 
 だからむしろ……目覚めるため、というよりは、安眠のための薬のようなものだろうか。
 
 
 
 シンジは布団から這い出ると、同居人を起こさないように物音に注意を払いながら、洗面所に移動する。
 
 ……ちなみに、勿論ミサトは、シンジがちょっと物音を立てたくらいで目覚めるはずが無いのだが。
 
 洗面所に入ったシンジは、まず、蛇口を捻って水を出し、両手を合わせてそれをすくう。
 
 そして、おもむろに顔面に、叩くように水をかける。
 
 パンッ!
 
 小気味よい感触と水の冷たさが、シンジの脳細胞を澄み渡らせる。
 
 
 
 ひとしきり顔を洗ってから、タオルで水気を拭くと、鏡で自分の顔を見る。
 
 う〜ん……?
 
 シンジは、鏡に映る自分の顔を眺めながら、首を捻る。
 
 
 
 ……この顔の、一体どこがかっこいいんだ……?
 
 
 
 主にケンスケ・トウジ経由から、日毎に聞かされる「シンジ美男子論」。
 
 それに、クラスではシンジ・レイカップルが公認とは言え、それでも……時折、下駄箱に他のクラスの女子や下級生からのラブレターを発見することがある。
 
 もちろん、レイ・アスカ・ヒカリ・トウジ・ケンスケ、誰に見つかっても大変な事態になるので、即座に揉み消してしまう。
 
 相手の女生徒には、本当に申し訳ないとは思うが……そこは一介の中学生、そこまで気を回す余裕はない。
 
 ……話が逸れた。
 
 とにかく……そうして、どうやら客観的にも自分が美男子として見られているかもしれないことを、最近になってようやく、シンジは認識し始めていた。
 
 
 
 ……だからっても……なぁ……。
 
 
 
 鏡の中の、眉間にしわを寄せた、シンジ。
 
 その顔を、眉間にしわを寄せたシンジが見つめる。
 
 
 
 ……駄目だ……何度見ても、さっぱりわからないよ……。
 
 
 
 シンジは、溜め息をついた。
 
 どうしても、美男子に見えない。
 
 自分の美的感覚がおかしいのか? いや、一般的に美人と称される、レイ、アスカ、それにミサトやマヤは、自分の目から見ても美人だと思う。
 
 じゃぁ……なんで、この顔が美男子と言われるんだろう?
 
 
 
 この自問自答は、もはや、毎朝繰り返される儀式のようなものだった。
 
 永久に交わることのない、レールの上を歩いている気分だ。
 
 
 
 シンジの顔を美男子に見せているのは、生来の整った顔立ちのせいもあるが、要は、放つオーラによるものだ。
 
 顔立ちだけなら、もちろん平均を若干上回っているのは間違いないが、ここまで騒がれる存在ではないだろう。
 
 立ち、振る舞い、喋る姿が、好感を誘うのであって、見ず知らずの人間がシンジの写真をただ目にしたとしても、さほど気に止めることもないのではないだろうか。
 
 自分の顔を幾ら鏡で見ても、普段の物腰までは分からない。しかも、生まれつき周りから美男子として扱われてきたのならまだしも、騒がれ始めたのはこの2度目の人生からだ。
 
 シンジに分かるはずがない。
 
 
 
 そうして自分の顔を眺めている時間は、実際には、一分ほどの短い時間だった。
 
 いや……自分の顔を一分も凝視していれば、それはそれで変な気もするが……
 
 とにかく、そうした儀式的行為のあと、シンジは自分の部屋に戻る。
 
 
 
 部屋に戻ってパジャマを脱ぎ、シンジはタンスを開けた。
 
 中からTシャツと靴下を取りだし、身につけていく。
 
 ハンガーに掛けてあった制服を取ると、まずズボンを履き、それからワイシャツの袖に腕を通す。
 
 ボタンをとめて、ワイシャツの裾をズボンに突っ込む。
 
 ボストンバッグの中身と今日の授業を確認すると、シンジは朝食の支度のために、部屋を出た。



二百六十三



 アスカは、大変に目覚めがいい。
 
 それは、素晴らしいリズムと言ってよかった。
 
 そのリズム形成の一端は、幼いころからの訓練生活にも起因しているのだが……とにかく、アスカは寝坊することがない。
 
 目覚し時計も、持っていない。
 
 それに、低血圧気味のレイとも違い、アスカは目覚めたときから気分は冴え渡っている。
 
 
 
 アスカは、いつもと同じ時刻に、パチッと目覚めた。
 
 ガバッ、とベッドの上に体を起こす。
 
 アスカは、のろのろと朝を迎えるのが嫌いだ。一日の始まりを、スッキリ迎えたい、と普通に思っている。
 
 上半身を起こした状態で、アスカは大きく伸びをすると……毛布をはね上げてベットから飛び降りた。
 
 
 
 アスカはそのまま、その場でパジャマを脱いでいく。
 
 レイが、下着や靴下を脱衣所に置いているのは、目覚めてすぐには意識が覚醒しないために、起きてすぐには行動を起こせない(つまり、脱衣所への移動時間に少しでも目覚めておく)という理由がある。
 
 かたや、アスカは全ての衣類を自分の部屋に集結させている。独り暮らし、誰にはばかることがあろうか。
 
 全裸になったアスカは、洗濯に回すものだけを小脇に抱えて、風呂場へと歩いていった。
 
 
 
 アスカは、蛇口を捻って、シャワーから吹き出す温水に全身を晒した。
 
 寝ている間にかいた汗を、全て洗い流さなくてはいけない。
 
 アスカが朝のシャワーを浴びる理由は、二つある。
 
 一つは、先程も述べたように、朝を爽やかに迎えるための儀式。
 
 もう一つは、身繕いのためだ。
 
 
 
 シャンプーを手に取り、長い栗色の髪を泡立てていく。
 
 アスカの髪も、寝癖のつきやすい髪の毛だ。
 
 それは若干堅めの髪質のせいもあるだろうし、その長さのせいでもあるだろう。
 
 朝のシャンプーは欠かせない。
 
 それに、やはり眠っている間にまとわりついてしまう脂分にも、我慢がならない。
 
 
 
 結局、頭のてっぺんから足の先まで、くまなく洗ってから、アスカは最後に冷水で泡を流して身を引き締めた。
 
 
 
 風呂場から出て、バスタオルで体を拭く。
 
 十分に水気を取ったあと、アスカは再び、全裸で自分の部屋に戻った。
 
 
 
 部屋に入ったアスカは、まっすぐ小さな棚に向かうと、一番上の引き出しをスラッと引き出した。
 
 さて……。
 
 アスカは、そこに並ぶものを見つめて、静かに腕を組む。
 
 
 
 ……今日は、どの下着にしようか?
 
 
 
 アスカは、ここからが長いのである。
 
 当たり前の話だが、誰かに見せる予定があるわけでも何ではない。……だが、そこは年頃の女子中学生……しかも、自分の容姿と、それについての客観的評価を、実に適格に把握している少女である。
 
 下着と言って、手を抜く気などない。
 
 その、棚に居並ぶ下着の数……ぎっしりと畳んで並べられたその数は、パッと見て数えられるようなものではない。
 
 しかも実はこの棚は、他の段の引き出しも、全部下着が入っているのである。
 
 
 
 これから、アスカは制服に着替えるので、他の服とのコーディネイトを考えているわけでもない。
 
 この選択は、純粋に「その日の気分」のようなものだ。
 
 
 
 だが、アスカはじっくりと悩んでしまう。
 
 ここでおろそかにすると、一日、気分が良くないような気がしてしまう。
 
 今日の気分と、パッチリ合う下着を、選びたい。
 
 こんなことでも、妥協はしたくなかった。
 
 
 
 裸のまま……
 
 そうして、実に30分近く、悩む。
 
 これが、アスカの朝の風景。
 
 いつもの、変わらぬ順序だ。
 
 
 
 結局アスカは、ごく薄い色調の、グリーンの下着を選びだした。



二百六十四



 シンジは身仕度を整えると、台所に移動して朝食の準備を始めた。
 
 まだ、同居人である葛城ミサトは夢の中。隣人、惣流・アスカ・ラングレーは人一倍かかる朝の身仕度の真最中だろう。
 
 
 
 シンジがまな板を軽く濡らしていると、玄関のほうで扉の開く音が聞こえた。
 
 振り返らなくとも、誰が来たのかはわかっている。
 
 
 
 シンジは蛇口をひねって水を止めると、手のひらでさっと水を払う。
 
 振り返って、微笑んだ。
 
 「おはよう、綾波」
 
 シンジの前に立ったレイは、同じように柔らかな微笑みを浮かべた。
 
 「……おはよう……碇君」
 
 
 
 レイは鞄をリビングのソファーに置くと、シンジの横に駆け寄った。
 
 冷蔵庫を開けて、中を見回す。
 
 
 
 これが、毎朝の光景だった。
 
 シンジは、レイ、アスカ、ミサト、自分の分の朝食と、必要ならばミサトの昼食と、そして夕食のための下ごしらえをする。
 
 レイは、シンジ、アスカ、自分の分の弁当をつくる。
 
 
 
 朝餉の音と香りが、次第に葛城邸に広がっていく。
 
 
 
 その次に現れたのは、アスカだ。
 
 一番早起きなのは彼女なのだが、下着選びに時間を割くので、いつもこのくらいのタイミングでの登場となる。
 
 「おはよう、アスカ」
 
 「おはよ、シンジ、ファースト」
 
 「おはよう……」
 
 挨拶を交わすと、アスカはシンジの手許(つまり、献立の内容)を見てから、自主的に食器棚に向かい、中から人数分の皿を取りだす。
 
 これもいつのまにか役割分担の確定した習慣となっていた。
 
 
 
 もともと家事に関して、シンジに完全におんぶだっこだった当初のころから、アスカ自身は何もせずに見ていることにわずかな罪悪感があった。
 
 そこへ、レイが昼食を担当することになったことと、マトリエルを契機としたアスカ自身の変化があり、アスカが食器の上げ下げをするようになったのである。
 
 ちなみに、ではもう一人の同居人は何をしているのかと言うと、何もしていない。
 
 朝は起きられないし、片付けはまったくしなくても全然困らない性格なので、任せていられないのである。
 
 
 
 ダイニングのテーブルの上に、白い食器が並んでいく。
 
 とは言え、朝食だ。それほど多くの皿が必要なわけではない。
 
 アスカは手際よく皿を並べ終えると、リビングのソファーに移動して、テレビのリモコンを手に取った。
 
 ブラウン管に、朝のニュースを伝えるキャスターの姿が映る。
 
 
 
 『それでは、地方の話題から。レポーターの松井さんが長野県・山本さんのお宅におじゃましています……』
 
 女性アナウンサーが、さわやかな表情で、朝一番のニュースでおなじみの、たわいもない話題を喋る。
 
 
 
 アスカは、手の中に握られたリモコンをぷらぷらと左右に振りながら、興味なさそうに、半目でその姿を見つめている。
 
 
 
 当然のことだが……昨日のイロウルの話題は、全国ネットの報道に流れることなど、ありえない。
 
 ただでさえ報道管制が敷かれているところへ来て、昨日の事件はNERVの内部だけで処理されたのだ。
 
 
 
 子供たちは、時折、現実との距離を感じることがある。
 
 本当は、作りごとの世界に生きているのではないか。
 
 自分たちは、芝居の舞台を歩き回っていて……
 
 その他の人々は、そことは違う現実の日常を歩いているのではないか。
 
 だが、それが下らない想像であることは、彼ら自身が、最もよく分かっている。
 
 
 
 シンジが、朝食を皿に盛り付けていく。
 
 
 
 「……お……ふぁぁ〜よぉおお〜」
 
 襖が開いて、ミサトが欠伸まじりに現れた。
 
 実際には違うのだろうが……しかし、まるで本当に、朝食のにおいに釣られて起き出して来ているかのようだ。
 
 
 
 「おはようございます、ミサトさん。……顔、洗ってきて下さいよ」
 
 「ん……りょぉおかい……」
 
 頭を掻きながら、ミサトは洗面所に消える。
 
 
 
 やがて戻ってきたミサトを交えて、4人で食卓を囲んだ。
 
 
 
 これが、毎朝の風景。
 
 
 
 ミサトに関しては、NERVに泊まり込んで帰ってこないことや、深夜の帰宅で朝起きられないこともあるが……残りの三人は、よほどの事情もない限り、常に同じ朝を迎えていた。
 
 レイはもちろんのこととして、アスカも、最近は葛城邸にいる時間が長い。
 
 朝起きて支度をしたらこの家にやってきて、家を出るまでここにいる。
 
 学校から帰宅したら、自宅で着替えだけ済ませて、またやってくる。
 
 そして、睡魔の攻撃に晒されてまぶたがくっつきかけるその時まで、自分の家に戻らない。
 
 
 
 アスカとレイは、就寝時に葛城邸を出る時は、いつも同じタイミングで出る。
 
 それは単に、二人ともギリギリまで動かないことが原因だが、逆に、一人だけでは帰らないということを意味していた。
 
 レイはもともと、起きていようと思っていれば割と遅くまで起きていられるタイプだ(もちろん、翌日の朝はツラい)が、アスカは違う。
 
 朝、素晴らしいリズムで目覚めるのと同じく、夜も一定の時間がくると急速に眠くなってしまう。
 
 そうなったら自宅に戻るわけだが、時折、床やソファーに寝転がって微睡んでいるうちに、そのまま眠ってしまうこともある。
 
 そうすると……まだ起きているレイまで、葛城邸に居座ってしまう。アスカが残るのに、自分一人だけ帰る道理はない、というわけだ。
 
 そういう時は、アスカは空き部屋(もう、こういう事態に備えて、ベッドだけは用意してある)に、レイはミサトの部屋におじゃますることになるのである。
 
 
 
 徐々に、三人の生活圏は、重なりつつあった。
 
 ミサトとシンジ以外は、意識してそういう感覚を持ってはいないだろうが、もはや、「家族」という表現に、ほとんど違和感は感じない。



二百六十五



 「じゃあ、行って来ます、ミサトさん」
 
 「行って来まぁ〜す」
 
 「……行って来ます……」
 
 
 
 シンジたち三人は、朝食を終えて、学校に向かって出発した。
 
 ミサトは、あと30分ほどしてから、NERVに出勤だ。昨日のイロウル戦の事後処理が残っており、今晩、帰れるかどうかは微妙なラインだ。
 
 ミサトはシンジたちを見送ると、身支度を整えるために、自分の部屋に戻っていった。
 
 
 
 シンジたちは、三人並んで、学校への道を歩く。
 
 初めて三人で学校に向かったころは……今とは全然違った、と、シンジは思う。
 
 
 
 大きく変わったのは、言うまでもなく、アスカだ。
 
 常に先頭を歩きたがっていた彼女は、いつの間にか、並んで歩くことが自然になっていった。
 
 それは、大きな変化だ。
 
 
 
 シンジは、前回の人生での、登校風景を思いだす。
 
 あの頃は、まず第一に……レイがいなかったので、現状とは全然違う。
 
 あの時は、レイと一緒に学校に行くことなど、シンジにはまず考えられなかった。一緒に登校したい、と思ったわけでもなかった。気になってはいたが、わざわざ、全然違うところに住んでいるレイを迎えに行く余裕はなかったし……二人きりにでもなったら、間をもたせる自信が無かった。
 
 それに……当時はそこまでは知らなかったが……今にして思えば、レイは必ずしも毎朝、あのマンションから登校していたわけではない。
 
 NERVにて徹夜で実験、と言うことも珍しくなかっただろうし……とにかく、不規則極まりない生活を、彼女は送っていたのだろう。
 
 例え、朝……シンジが勇気を出して迎えに行ったとしても、レイがいるとは限らなかったのだ。
 
 
 
 今、レイは、自分の横を歩いている。
 
 あの頃の自分……憶病な自分にはできなかったこと……彼女を愛することを、胸を張ってできているからだ。
 
 
 
 今のレイは、朝から晩までシンジと一緒にいると言っても過言ではない。
 
 それは、レイを愛しているという……ただ単純にその意味でも嬉しいし、レイの非人間的な生活を変えられたという意味でも嬉しい。
 
 それに、これなら、ダミーシステムの開発実験にレイが参加することがない、それも嬉しかった。
 
 
 
 シンジも、ダミーシステムの開発そのものに、レイが必ずしも必要でないことは知っている。
 
 あの、プラントに浮かぶレイの体……魂のないレイたちがいれば、開発は可能なのだ。
 
 だが、それでも……レイが能動的に参加しないことで、開発の進捗は滞っているだろうとは思うし、何より、レイを実験の呪縛から引き剥がすという意味で、重要だった。
 
 
 
 ……綾波は、人間だ。
 
 シンジは、思う。
 
 綾波は、人間だ。
 
 ダミーシステム……それは、大量生産される、魂のない人格……。
 
 
 
 そんなものに、綾波を加担させたくない。
 
 
 
 シンジは、視線を反対側に向ける。
 
 
 
 鞄を振りながら歩いている、アスカ。
 
 彼女は……前回の人生で、最後まで、シンジに対する敵愾心を失わなかった。
 
 
 
 それは、当然だろう。
 
 シンジは、仲間として認めるにはあまりにも情けなかったし……何より、彼女は一人で生きる道を選び続けていたのだから。
 
 
 
 何が、彼女を変えたのか?
 
 シンジには、正直、よくわかっていない。
 
 皆を救うために、この世界に戻ってきた……
 
 そう信じるシンジにとって、この変化は、不思議だった。
 
 僕は、何かしただろうか?
 
 確かに、細かいところを見れば、色々違って当たり前だけど……
 
 アスカを変えるようなことを、何か、した覚えはない。
 
 
 
 そう、今回、アスカが変わった、その直接の契機は、弐号機の心だ。
 
 だが……その心に気付く、そのきっかけを与えたのは、間違いなく、シンジだった。
 
 弐号機の心と触れあう機会があっても、シンジがいなければ……シンジと出会い、アスカがわずかながらでも変化していなければ、その心にアスカは気付くことが出来なかったはずだった。
 
 
 
 シンジには、わからない。
 
 だが、とにかく……アスカの変化はシンジにとって、歓迎すべきことだった。
 
 
 
 学校に、到着した。
 
 
 
 教室に到着すると、シンジたち三人は、それぞれの席に荷物を置いた後、めいめいにバラけていく。
 
 シンジは、トウジとケンスケのところへ。
 
 レイとアスカは、ヒカリのところへ。
 
 
 
 シンジにとって嬉しいのは、レイが、「シンジといつも一緒にいること」を、必ずしも選ばないということだ。
 
 いや、勿論、優先順位としては相当に高いところにいるのだが……それでも、24時間シンジのそばにいようとするわけではないことに、むしろ喜びを覚える。
 
 ……それは、例えば、いつも一緒にいることが息苦しいとか、自分の側にいて欲しくないからとか、そういう理由では断じてない。
 
 シンジは、もしも一日中レイと一緒にいるならば、それはそれで……幸せな気分でいられるだろう、と思う。
 
 
 
 シンジが感じる喜びは……「レイが、開かれた世界と関わりを持とうとする」ことに対する喜びだ。
 
 いつも自分の側にいる……それは、確かに彼女を愛しているのだからとても嬉しいだろうし、彼女にとっても幸せな環境だろう。
 
 だが、それは、ふたりだけの……完結した世界であればこそ、かろうじて許されることなのだ。
 
 
 
 周りの人たち……自分たちと関わる、あるいは関わってくれる人たちと、接触することなく生きていくことなど、できない。
 
 そういう意味で、レイには自分の側ばかりではなく、もっと他の友人達とも話し、遊び、笑って欲しいと思う。
 
 
 
 ……全ては、ヒカリのおかげだ、と……シンジは、穏やかに、思う。
 
 レイが、シンジ以外の誰とも心を通わせようとしなかったとき、シンジが助けを求めたのが、ヒカリだった。
 
 ……それは最良の選択だった、と、繰り返し認識する。
 
 レイの……微妙な人間の感情の機微をよく理解できないがゆえの、おおざっぱな反応は……普通のクラスメートであれば、反感を買っても不思議ではない。
 
 ヒカリは、そのハードルをただ越えるばかりでなく、レイのために……進んで手を差し伸べてくれたのだ。
 
 
 
 アスカとレイが一緒にいる状況……それも、ヒカリが幾らかの緩衝材になっていることは、想像に難くない。
 
 もちろん、前回のアスカに比べれば、アスカ自身も格段に穏やかであるし……レイも、随分と感情豊かになってきており、そういう意味では、互いに話しやすい状態ではあろう。
 
 だが、やはり、二人だけだったら、今ほど一緒にいることはあるまい。
 
 ヒカリが、アスカ・レイ……その双方にとって「親友」と呼ぶにふさわしい存在であるからこそ、アスカとレイも、互いを認めあっている面は、いくらかあるはずだった。
 
 
 
 更に忘れてはならないこと。
 
 それは、ヒカリの社交性だ。
 
 この、朝の、ホームルームが始まるまでの間……このわずかな休み時間に、ヒカリに声をかけていくクラスメートたちの、何と多いことか。
 
 ヒカリに声をかければ、当然、一緒にいるアスカやレイにも声をかける。
 
 時には、世間話を振ることもある。
 
 それに、ヒカリが……自分に振られた話題をアスカやレイに振り直す場面も、時折、見ることが出来た。
 
 
 
 特にレイにとって、その環境は、大きな成長の場であるはずだ。
 
 普段あまり話さないような友人達にも、声をかけられれば、きちんと返事をして、時には話題に反応する、その姿。
 
 ほんの数カ月前の彼女の姿から、誰が想像することが出来ようか?
 
 
 
 シンジひとりではどうにもならない。
 
 仲間達、友人達の……そのありがたみを、シンジは感じていた。
 
 
 
 「ナニ、ボォ〜ッとしとるんや、シンジ」
 
 トウジに声をかけられて、シンジは振り返った。
 
 「あ、いや……別に、何でもないよ」
 
 「ヘンなやっちゃなぁ」
 
 トウジも、特に気にした様子もなく、言葉を返す。
 
 
 
 「そういえば、碇……最近、ゲーセン行ったか?」
 
 ケンスケが、シンジに声をかける。
 
 「最近? ……えぇ〜と……そう言えば、ちょっと行ってないかなぁ」
 
 訓練が続いていたことと、使徒の襲来などが重なったため、2週間ほど、シンジはゲームセンターから遠ざかっていた。
 
 よく学校帰りにトウジたちとゲームセンターに行っていたことを思うと、かなり長いこと立ち寄っていない感覚である。
 
 「ゲームセンターがどうかしたの?」
 
 「ゲームFAN、読んでないのか? 今週号が配信されたろ」
 
 「あぁ……そうか、いや、読んでないや」
 
 「バーチャファイターの7が出たぜ」
 
 「……また? ……何か、違うの?」
 
 「八人対戦が可能なんだよ」
 
 「それ、前にもあったじゃないか」
 
 「いやいや、違うんだ。筐体八つ並べて、同じフィールドに敵同士が八人。タッグじゃないんだ」
 
 「……ゲームになるの?」
 
 「いやぁ、フィールド広いしな……仲間で組んで戦ったり、けっこう深いぜ」
 
 「ははぁ……でもそうすると、八人いないと遊べないね。まぁ、乱入アリなんだろうけど……」
 
 「いやいや、最近流行ってるのがさぁ、一人で同時に数体使うっていうやりかたでさぁ〜」
 
 「………」
 
 「視点も違うし画面も別だし、混乱するけど……慣れると面白いぜ!」
 
 「……ははぁ」
 
 「ケッ。アホかい」
 
 「……なんだよ、トウジ」
 
 「トウジ、バーチャ7嫌いなの?」
 
 「いや、バーチャはええがな、ケンスケの遊び方が気に食わんな。格闘モン言うたらなぁ、正面からドガーッ! とぶつかって、バガーッ! とけ散らして、ドギャーッ! とやられるモンやろ!」
 
 「……なにも、やられることはないと思うけど……」
 
 「言葉のアヤや。とにかくなぁ、頭でこちゃこちゃ考えて、小手先で戦うなんざ、男の戦い方やないな!」
 
 「それは違うぜ、トウジ。いいか? 考えてもみろよ。真っ正面から突っ込んで、ただ殴るだけなら、格闘ゲームやる意味あるか? シューティングゲームでいいじゃないか。バーッと弾幕広げて蹴散らせば、気持ちいいぜ。……格闘ゲームってのはなぁ、知的ゲームだ。戦略と、タイミングと、組立てが闘いを制するんだぜ」
 
 「ちゃうちゃう! ドガーッ! といって、バキャーッ! とやらんかい!」
 
 「……もう少し説得力のあることを言ってくれよ……」
 
 「こんなモン、フィーリングやないか! 言葉で説明できるかい! 男なら、ツーカーでわからんでどないするんや! ……なぁ、シンジ?」
 
 「え、いや、まぁ、その……アハハ」
 
 
 
 毎日のように繰り返される、たわいもないお喋り。
 
 刹那的に流れる時間。
 
 それは、一見すると、何も残らない……その場限りのことに過ぎないような気がする。
 
 
 
 ……だが、それは違うのだ。
 
 シンジにとって、今の時間の、何と楽しく……大事なことか。
 
 
 
 取り返しのつかない過ちを犯した自分は、今、失った時間を取り戻している。
 
 あの時……何故、こうして、日々を楽しく過ごすことを躊躇ったのか?
 
 今、この瞬間は、二度と戻らない。
 
 シンジは、一度生きた時間を再び歩く、という、極めて稀な経験をしているが……もう一度、あとでまたやりなおせるかと問えば、やはりその可能性はないのだろう。
 
 
 
 今度こそ、ただ一度きりしかない、かけがえの無い時間。
 
 それを、精一杯楽しみたかった。
 
 
 
 スピーカーからチャイムが流れ、生徒達は慌てて自分の席に戻っていく。
 
 シンジたちも手を振って、おのおのの席へと戻った。
 
 
 
 シンジが席に着くと、となりにはレイが腰掛ける。
 
 朝からずっと一緒だし、口数も少ない二人だ。席に戻ったからと言って、特に会話があるわけではない。
 
 だが、二人は、お互いが隣に座っていると感じるだけで、暖かい何かが胸の奥に生まれるのを感じる。
 
 
 
 シンジは、横目でレイを見る。
 
 シンジの横顔を見ていたレイは、シンジの視線に気づいて微笑んだ。
 
 シンジも、微笑み返す。
 
 
 
 そして、二人は再び視線を戻す。
 
 
 
 それだけだ。
 
 
 
 それだけで、充分だった。
 
 
 
 授業中のシンジは、割と熱心な生徒だった。
 
 毎日が訓練と出撃の日々。当然のことながら、シンジに予習や復習をやる余裕はない。
 
 それでも成績が、平均よりも若干ながら上の位置をキープしていられるのは、授業の時間をかなり効率良く、真剣に利用しているからだ。
 
 もちろん、立場上……授業そのものに出られないことも少なくない。
 
 だがもともと、学校の授業とは、必ずしも密度の濃いものではない。出席できる時にきちんと集中していれば、授業についていくのは決して難しくはないのだ。
 
 
 
 レイは、チルドレンの中ではもっとも高い成績を収めている。
 
 それは、もちろん授業に真面目に取組んでいるということもあるが、何より、暗記科目が完璧だった。
 
 生活や感情の機微といった、非常にファジーな要素についてはあまり得意ではないレイだが、学校のテストならば単なる機械作業のようなもの。
 
 「よい成績を取ろう」という努力をしなくても、彼女にとって高得点を取るのは容易い。
 
 
 
 対するアスカの成績は、あまり芳しくなかった。
 
 頭が悪いわけではない。むしろ天才に近い知能であることは、ドイツ時代にわずか14歳にして大学を卒業していることから見ても明らかである。
 
 では、なぜ成績が良くないのか?
 
 ……一言でいってしまえば、いまだに漢字が読めないのだ。
 
 日常会話には全く困らない。話す言葉は、生粋の日本人と、区別すらつかない。それは、ドイツにいたころから、割と環境的にも日本語での会話に親しんできたからだ。
 
 だが、文章となると、別だ。彼女は日本語とドイツ語のどちらも完璧に話せるが、読み書きに関してはドイツ語ばかりに接してきた。
 
 日本に来てわずか数ヶ月、漢字を自在に操るには期間が短すぎるのである。
 
 
 
 ヒカリは、成績優秀を地で行く存在だ。
 
 なにしろ、絵に描いたような真面目さ。
 
 授業はよく聞き、理解し、分からないことがあれば職員室まで質問に行く。
 
 家に帰れば復習を欠かさないし、翌日の授業の予習もしていくから理解も早い。
 
 あまり成績が生活に関係のない小学生のころから、彼女は常に学年の五指に入り込み、そこを動いたことが無かった。
 
 そして、それはいわゆる「ガリ勉」的な意味ではなく、それが自然なのだ。
 
 彼女にとって、努力することは苦ではない。それは、彼女の優れた資質だった。
 
 ……ただし、柔軟性には欠ける。全体の成績がすこぶるいいので埋没しているが、実は応用問題が、ちょっと苦手だ。
 
 
 
 トウジは、授業は寝て過ごすものと決めている。
 
 いや、決めているわけではないだろうが……教師が最初の一言を発するとき、彼の瞼は条件反射のごとく、くっついてしまうのである。
 
 眠いときには、寝る。無理して起きてて何になる、というのが彼の持論だ。
 
 ……当然、成績はあまりよろしくない。
 
 中学校のテスト、しかも進学校というわけではないので、熱を入れて勉強に励まなくても、赤点を取るようなことはない。
 
 だがそれ以上は壁にぶつかるように先に進めず、どうしても平均点を若干下回った辺りをうろついていた。
 
 これで危機感があるのならまた別だが、本人は気にしていない。
 
 勉強について口うるさく言うような親でもないし、割と最近までは進学すらやる気ではなかったのだから、当然と言える。
 
 ただ、最近は少し、事情が違うようだ。ヒカリと親しくなってから、彼女が勉強を見る機会が何度かあり、今度のテストはもしかすると、少しは成績が上がるかも知れない。
 
 
 
 ケンスケは、要領の良さは天才的だ。
 
 もともと、頭はよい。そのうえ、ヤマの張り方が、滅茶苦茶に上手い。
 
 最小限の勉強で、最大限の成績を取る。
 
 それが、彼のやり方だった。
 
 ……特に最近は、普通は嫌がる「テスト」というものを「知的ゲーム」と割りきって楽しむ傾向にある。
 
 もちろん、「勉強していい成績を取る」というような、そんな単純なゲームは選ばない。
 
 とにかく、教師の過去のテストを大量に集めてデータベース化して出題の傾向を計ったり、授業中のわずかなセリフから重要項目を弾きだす。
 
 勉強そっちのけで出題範囲を絞り込み、直前に「絞り込んだところだけ」をやるのだ。
 
 「いかに、出題される問題を予測するか」……それが、彼の言うところの「ゲーム」だった。
 
 それでいい成績をとれるのだから、初めから勉強していればどれだけ……と思わなくもないが、それでは多分、たとえ満点でも不完全燃焼になるのだろう。
 
 ケンスケは、そういう少年だった。
 
 
 
 昼休みになり、クラスメートたちは、それぞれグループで集まって、弁当片手に校庭へ出ていったり、購買に走っていったりする。
 
 
 
 ヒカリ、アスカ、レイは、机を寄せあって弁当を広げる。
 
 教室で昼食をとるのはほんの数える程の人数に過ぎないが、彼女達の存在は、期せずして教室の空気を華やいだものにかえる。
 
 それはそうだろう……レイとアスカという、この、学校中でも一二を争う美貌の少女が、顔を寄せあっているのだ。
 
 一緒にいるヒカリは、正直、わずかながら引け目を感じずにはいられないが……だからと言って、ヒカリが可愛くないかと言えば、それはもちろんそんなことはない。
 
 この三人の組み合わせは、教室の外から時折覗きにくる生徒が見られるほどの壮漢さがある。
 
 
 
 ヒカリの弁当は、もちろん彼女の手作りだ。
 
 レイとアスカの弁当は、レイが作っている。
 
 レイは、もちろんシンジに料理を教えてもらうことが多いが、時々ヒカリにも技を習う。
 
 シンジが知らない料理を作って、シンジを驚かせてみたい、と、レイは思う。
 
 
 
 シンジ・トウジ・ケンスケは、ほぼ毎日、屋上で昼食をとる。
 
 給水棟の裏側に回って、縁石に腰掛けつつ、おのおのの食事を広げる。
 
 この立地条件が彼等のお気に入りであることは、以前述べたこともあったかと思う。
 
 
 
 シンジの料理は、レイの作ったものだ。
 
 いつも何かしら新しい料理に挑戦した跡が見られて、フタを開ける時の期待感は大きい。
 
 思いのほか、料理に興味を示すレイの態度も嬉しい。
 
 トウジの弁当は、ヒカリの手によるものだ。
 
 これまた、ヒカリの料理もワザを駆使したものである。
 
 レイの料理も最近はなかなかうまいのだが、それでもヒカリの弁当とは「格」が違う。
 
 シンジも、思わずヒカリの弁当のラインナップに目を走らせて、「あの料理は、どうやって作ったのかな?」「あれは、味付けはあんな感じかな……」と思索を巡らせる。
 
 料理人(……なのか?)の性というものかも知れない。
 
 ……ケンスケの昼食は、購買のパン。
 
 なんとなく気が引ける思いのするトウジとシンジだが、ケンスケは同情を嫌った。
 
 「いつか、俺にも弁当を作ってくれる人ができるさ」と、自分から笑い話にかえてしまうのが、ケンスケの強さだ。
 
 
 
 食事の後はそれぞれ適当におしゃべりをして、時間になれば教室に戻る。
 
 午後の授業は、特にトウジにとっては、爆睡の時間だ。
 
 あまりにもそれが習慣化してしまい、もしも寝られないと、逆に生活リズムが狂ってしまう。
 
 
 
 そして……ある意味、意外なことだが……レイも、睡魔に襲われることが少なくない。
 
 空腹が癒されて、暖かい午後の日ざしに包まれると、つい……カクン、と頭が落ちて目を覚ます。
 
 長いこと、「昼食」というものを取らないことが普通だったレイには、昼食を挟んだ後の満腹感に負けてしまうのだ。
 
 彼女の醸し出す普段の雰囲気とあまりに違う、その、思い掛けない可愛い姿は、ひそかにクラスメートの楽しみとなっている。
 
 そうしてレイは、午後の授業の間中、コックリコックリ船を漕いでいるのである。



二百六十六



 授業が終わると、生徒達は、めいめい鞄をもって、自宅に、遊びに、部活にとフィールドを移動していく。
 
 
 
 シンジたちも、いつも同じ行動をとるわけではない。
 
 
 
 レイとアスカは、ヒカリと連れだって買い物に行くことがある。
 
 もっとも、その回数は、レイよりアスカの方がずっと多い。それは、アスカの買い物好きに由来する。
 
 レイは実用品以外を選び出せないので、自分から買い物に行くことは余りなかった。
 
 
 
 シンジ、トウジ、ケンスケは、ゲームセンターに行くことも多い。
 
 数日に一度は、ゲームセンターへ足を運んでいるだろう。特にトウジとケンスケは、ほとんど毎日通い詰めていると言っていい。
 
 ただし、トウジはいつもケンスケに挑んでは玉砕しているので、かける金額はトウジのほうがずっと多かったが。
 
 
 
 そのほか、シンジ、レイ、アスカの三人は、NERVに直行して訓練に参加することも少なくない。
 
 大体は三人一緒だが、時には、ひとり、もしくはふたりで訓練に参加することもあった。
 
 
 
 今日は、シンジ、レイ、アスカの三人は、そのまま家に向かった。
 
 特に、理由があるわけではない。こういうことも、珍しくはなかった。
 
 
 
 帰り道の途中でスーパーに寄って食材を買っていく。
 
 特にアスカにとっては興味を引くルートではないのだが、だからと言って、彼女だけ先に帰ったりはしない。
 
 それも、昔の彼女とは変化した点の一つだった。
 
 店内を歩き回るシンジについて回りながら、アスカはよく、「あれが食べたい」「これが食べたい」とアピールして楽しんでいた。
 
 ちなみに、レイはレイで、翌日の弁当の食材を買い込んでいく。
 
 シンジに料理を秘密にしておくこともあるので、スーパーの中では別行動になる。
 
 レイは、寂しさが無いわけではなかったが、シンジを驚かす料理に想いを巡らせるのは、それはそれで楽しかった。
 
 
 
 会計を済ませて、スーパーを出る。
 
 買い込んだ食材はさほど多くなることはなく、全てシンジが持つ。
 
 これは、アスカが日本に来る前……レイが、まだあの殺風景なマンションに住んでいたころから、変わらない習慣だ。
 
 シンジの学生鞄は、代わりにレイが持った。
 
 
 
 夕暮れの道を、三人は、並んで歩いていく。
 
 
 
 背後に延びる陰は、彼等の過去に落ちた陰だ。
 
 前は、明るい。
 
 立ち止まることなく、三人は歩く。
 
 時折、数歩前に行ったり、少し遅れたり。
 
 だが、離されることは、ない。
 
 
 
 帰宅すると、三人は一旦わかれて、それぞれの家に戻る。
 
 アスカとレイは、普段着に着替えて、再び葛城邸に足を運ぶ。
 
 シンジは、夕食の支度を始めて、レイがその手伝い、アスカは朝と同じように配膳を済ませて、床に転がってテレビをつけた。
 
 今日は結局、ミサトは帰宅できそうもない。その旨が、留守番電話に吹き込まれていた。
 
 
 
 用意が出来たところで、三人は食卓を囲んで料理を食べる。
 
 
 
 レイは、わずかずつではあるが、肉に挑戦するようになっていた。
 
 とは言え、肉本来の味が濃厚なものはまだ苦手で、そぼろのような軽いものに限られる。
 
 だが、いやいや食べているわけではなく、それなりに「美味しい」と感じていることは、シンジには嬉しかった。
 
 誰だって、好き嫌いはある。
 
 だが、美味しく食べることが出来るならそれに越したことはない、と、シンジは思う。
 
 
 
 食事を終えて、一服したあと、食器を流しに運ぶ。
 
 食器を洗うのは、アスカが行う。料理の腕前とは関係のない世界で、アスカはむしろ、この仕事を率先してやりたがった。
 
 家事一式を任せた後ろめたさがそうさせているのかも知れないが……あるいは、彼女の持ち前のプライドが、例え食器の後片付けということであっても、「食器関係は自分の担当」と見なしているのかも知れない。
 
 そのことをシンジはいちいち突っ込まないし、レイは気にしていないようだ。
 
 アスカも、特に名乗りをあげたわけでもなく、自然に巡ってきたこの役割分担を受け入れていた。
 
 
 
 食後、三人は、床に座ったり椅子に腰掛けたりして、テレビを見たり雑誌を見たり、あるいは碇君の顔を見つめたりなんかしながら過ごす。
 
 お喋りに興じることもあれば、特に言葉を交わさず、最後まで無言であることもある。
 
 だがそれは、最近の彼等にはあまり重要なことではなかった。
 
 
 
 夜が更け、アスカとレイは自分の家に戻る。
 
 
 
 シンジは、玄関先まで二人を見送る。
 
 レイは、本当ならば一日中一緒にいたいのだから当然寂しさがないわけではないが……シンジの「休養」の大事さを、とりわけ大きく感じているのも彼女であり、特に我が侭は言わない。
 
 シンジと「おやすみ」の挨拶を交わし、レイとアスカは玄関を出る。
 
 
 
 「おやすみ、ファースト」
 
 「……おやすみ」
 
 玄関を出た踊り場の前で、アスカとレイは、軽く挨拶を交わして左右に別れる。
 
 そこに、必要以上の湿度は、ない。
 
 だが、それは、以前に比べて、双方の位置づけが「自然」になってきていることも表していた。
 
 
 
 シンジは、風呂に入って体を洗い、パジャマに着替えて、部屋に戻る。
 
 お決まりのクラシックをセットしたS-DATのイヤホンを耳にはめると、ベッドの上に横になった。
 
 耳から流れる音楽が止まるころには、眠りの海に潜っていることだろう。
 
 
 
 アスカは、帰るやいなや、とっととパジャマに着替えてベッドに転がり込む。
 
 そのまま、数分の後には、寝息が聞こえる。
 
 早寝早起き。
 
 
 
 レイは、部屋に戻って服を脱ぐと、そっと、首の後ろに手を回した。
 
 細い鎖を、ほどく。
 
 
 
 もういちど、自分の目の前に、あの、青いガラス玉をかかげる。
 
 朝とは違い、今は、月明かりだけが差し込む、薄暗い部屋。
 
 だが……その気泡混じりの珍しくもないガラス玉は、レイの瞳から、ゆっくりと心の中に入り込んでくる。
 
 
 
 ……綺麗。
 
 
 
 ……レイは、想う。
 
 
 
 ……綺麗……。
 
 
 
 ……碇君に……貰った……プレゼント。
 
 
 
 ……小さな……海……。
 
 
 
 ……それは、レイにとって、大事な宝物だった。
 
 ガラス玉を通して、シンジの暖かさを、感じるような気がする。
 
 
 
 レイは、しばらくそうしてネックレスを眺めたあと、引き出しを開けて、小さな白い箱を取り出す。
 
 丁寧に……静かに、ネックレスを、箱の中央に入れる。
 
 蓋をしたあと、中身が寄らないように、妙に慎重に引き出しの中央に箱を置き、そっと引き出しを閉めた。
 
 
 
 レイは、ベッドに潜り込む。
 
 ゆっくりと、瞼を閉じる。
 
 瞼の裏側に、先ほど見た、あのさざ波の風景が広がる。
 
 
 
 ……碇君……。
 
 
 
 かすかに瞼を開いて、ベッドの横の壁に視線を向ける。
 
 ……この壁の向こう側は、シンジの部屋……。
 
 
 
 ……おやすみなさい……
 
 ……碇君……。
 
 
 
 ……そうして、レイは、ゆっくりと……眠りについていった。



二百六十七



 ……ちなみに、すでに爆睡している、シンジ。
 
 彼は、実を言うと……いまだに、壁の向こう側にレイが寝ていることに、気付いていない。
 
 まさに、極悪人と称すべき鈍感さであろう。