第五十六話 「地底湖」
二百五十四



 パイプの中を、激しい勢いで滑走する疑似プラグ。
 
 その中に、シンジは入っている。
 
 
 
 LCLに満たされたプラグでは、その荷重はダイレクトには伝わることなく軽減されるが、それでも重い重力がシンジの両肩を襲う。
 
 シンジは、首の後ろを両手で抱えて、その衝撃に耐えた。
 
 エヴァの動きに比べればたいした速度でもないが、戦闘時はエヴァ本体の緩衝機構が働いている。今の抜き身のプラグでは、遥かに大きな荷重が掛かっているのだ。
 
 
 
 そうして、高速でパイプの中を突っ走って……
 
 突然、ガボッと水中に排出された。
 
 地底湖だ。
 
 
 
 当然、水の壁に衝突したかのように、ドカッと速度が下がり、シンジはもんどりうって横転する。
 
 プラグは泡を吹きながら、着実に、光の漏れる水面へと突き進んでいった。



二百五十五



 エレベーターが最上階までくると、レイは転げるように飛び出した。
 
 廊下を走り、突きあたりの扉にぶつかるように飛びつき、開け放つ。
 
 日の光が、振り注ぐ。
 
 
 
 ジオフロント。
 
 それは地下に造り上げられた空間だが、張り巡らされた光ファイバーによって、外界の光が大量に降り注いでいる。
 
 レイは、一目散に地底湖のある方角を目指す。
 
 息が切れるほどに、一直線に走り……
 
 そして、その湖面が視界に現れたころ……
 
 
 
 「!」
 
 
 
 ズバッ!
 
 と、その穏やかな湖面をぶち破るように疑似プラグがまっすぐに飛び出し、一瞬、空中を飛来して……横ざまに着水した。
 
 バッシャアァァァァアアアンンン!
 
 激しい飛沫が上がる。
 
 
 
 飛び散る飛沫が、霧のかかったように視界を揺るがせ……一拍置いて、スコールのようにあたりの水面を叩く。
 
 その、一瞬の豪音は、一秒ほどの誤差を持ってレイの耳に届き、それがレイの心臓を掴み上げた。
 
 ……中にいるシンジは?
 
 無事か……
 
 そうではないか。
 
 わからない。
 
 
 
 レイは、走った。
 
 走っていた固い土はやがて、潤い、ぬかるみ、レイの足を汚す地面へと変わっていく。
 
 しかし、レイは、構わない。気付きもしない。
 
 そのぬかるみが水辺に変わり、くるぶしが飛沫を上げるころ、レイは地を蹴って水の中に飛び込んだ。
 
 
 
 ……かくいうシンジは、実際には、レイが心配するほどの危機に瀕していたわけではない。
 
 確かに物凄い衝撃で、着水した時には、思わず体が浮きあがったが……それでも、LCLに包まれているという状況は、シンジを守った。
 
 よくできている……と、思う。
 
 
 
 衝撃で泡立ちかけたLCLも、すぐに再び、元の澄みきった状態に戻っていく。
 
 上下が逆転していたプラグも、比重制御装置が正常に働き、ぐるり、と回転して正位置に戻った。
 
 その際、回転したインテリアに後頭部をぶつけ、シンジは思わず頭を抱えてうずくまる。
 
 結局、実害で一番大きかったのは、この後頭部のたんこぶであろう。
 
 
 
 ようやく状況が落ち着いたシンジは、ぶつけたこぶをさすりながら体を起こした。
 
 「いてててて……」
 
 思わず、溜め息が漏れる。
 
 
 
 実害、としてはたんこぶが最も大きな被害だが……神経が感じる痛みとしては、右腕の痛みがそれに勝った。
 
 模擬体とシンクロしていたがために、体験してしまった痛みだ。
 
 一瞬にして、腕が吹き飛ぶ。
 
 そのような体験は、まぁ、普通に生活している限り味わうことの無い出来事だろう。
 
 たとえ疑似感覚であったとしても、それはシンジの右腕に不快な鮮痛を残した。
 
 
 
 模擬体の右腕を吹き飛ばしたのはレイだが、それはシンジにはわからない。
 
 
 
 あの時の状況を推測するに……模擬体がイロウルに襲われたのであろうことは、シンジにも分かっていた。
 
 あの数瞬……右腕が、這いずるような……微細な神経を一本ずつ丁寧に、しかし乱暴にちぎっていくような激痛に襲われ……しかもその痛みは、猛烈なスピードで肩口に向かって突進してきていた。
 
 
 
 右腕を吹き飛ばされたのは、その痛みが胴体、そして全身を襲うのを避けるためだろう、という想像がつく。
 
 右腕が吹き飛ぶ痛み……それは想像を超えたものだったが、あのままにしておいて、全身を激痛が襲う恐怖はそれに勝る。
 
 一瞬の判断で模擬体の右腕を吹き飛ばした人物に、シンジは感謝の念こそ覚えど、恨みなど抱きようも無かった。
 
 
 
 ……一つ補足しておくと、本当は、あの場での最も正しい処置は「神経接続を切る」ことだった。
 
 そうすれば、シンジはすべての痛みから切りはなされる。右腕が吹き飛ぶ痛みというような、余計な苦しみを感じる必要は無かったのだ。
 
 だが、あの、急な判断を迫られるような状況で、10求めて10返ってくることを望むのは、酷と言うものだ。
 
 レイの反応は、責めるには値しない。
 
 
 
 もちろん、リツコなら、まず神経接続を切っただろう。
 
 リツコほどの立場にあるものならば、それくらいの判断は求められてしかるべきだ。
 
 
 
 シンジは、右腕をさすりながら、LCLの中にゆっくりとその身を横たえた。
 
 かすかな気泡が、浮かんで溶けていく。
 
 天井を、じっと見上げる。
 
 
 
 イロウル……
 
 
 
 シンジは、思う。
 
 
 
 なぜ、発現したのか?
 
 
 
 それは、今のシンジには、分かりようもないことだ。
 
 予備知識も無しに、イロウルが「MAGIをのっとって自爆決議を行う」などという戦略をとってくることを、予測することができるだろうか?
 
 それは、無理だ。
 
 今回のことを「シンジの思い違い」と記したことがあるが、だからといってそれは、シンジのミスとは言えないだろう。
 
 
 
 物事を良い方向に考えるのであれば、今回のことは……レイやアスカを守った、と言うこともできよう。
 
 誰も危険に晒されない、と思っていた予想は外れてしまったが、それでも、あの二人を守ることは、できた。
 
 必死に喰い下がったかいが、あったと言うものだ。
 
 
 
 「……しょうがないか……いてて」
 
 腕をさすりつつ、シンジは思う。
 
 あとは、気になるのはイロウルの動向だが……こればかりは、リツコたちに頑張ってもらうしか、ない。



二百五十六



 「メルキオールが使徒にハッキングを受けています!」
 
 「I/Oシステムダウン! 急いで!」
 
 「……ダメです……電源が切れません!」
 
 
 
 発令所は、さながら戦時病院の様相を呈していた。
 
 叫び声が飛びかい、目まぐるしく点滅するライトが非現実的でサイケデリックな情景を浮かびあがらせる。
 
 
 
 イロウルは、ポリソームによるオゾン攻撃などの物理的な攻撃を退け、最終的にMAGIへの侵入を開始していた。
 
 MAGIは、NERV全体のライフラインを握っていると言って良い。
 
 MAGIを使徒に乗っ取られるということは、この場にいる全員の命綱を使徒に握られることと同義であり、危険だった。
 
 
 
 「メルキオール、使徒にリプログラムされました!」
 
 マヤの叫びと共に、発令所全体にアナウンスが響き渡った。
 
 『メルキオールより自爆決議が動議されました……否決……否決』
 
 
 
 メルキオールを乗っ取ったイロウルが、NERVの自爆を動議したのだ。
 
 もちろん、残るMAGI……バルタザール、カスパーは、その動議を否決する。多数決の結果、2対1で、自爆決議は取り下げられることとなる。
 
 だが、イロウルはそのまま、残りのMAGIのどちらかにも、ハッキングを仕掛けるだろう。どちらか一方でも乗っ取られれば、再び自爆決議が動議されたとき、今度は逆転多数で決議は受理されてしまう。
 
 NERVが吹っ飛べば、アダムまでの障害の全ては取り払われる。例えそれが天地を揺るがすような大爆発に陥ったとしても、それでアダムが吹き飛ぶはずもないからだ。
 
 その後、使徒は改めて、アダムとの融合を果たすつもりなのかも知れない。
 
 
 
 「……自爆……冗談じゃない」
 
 リツコが口の中で、いまいましげに呟く。
 
 
 
 「メルキオールがバルタザールをハッキングしています!」
 
 シゲルが緊迫した声音で叫ぶ。
 
 メインモニタに映る対立モードのMAGI……そのバルタザール部分が、徐々に赤色に変化していく。
 
 「は……速い! クソッ」
 
 マコトが、猛烈な勢いでキーボードを叩きながら舌打ちする。
 
 間に合わない。
 
 「ロジックモード変更! シンクロコードを15秒単位にして!」
 
 「……ハ、ハイッ!!」
 
 リツコの飛ばした指示に、マコトは素早く反応してキーを叩いた。
 
 
 
 ブヒュン……
 
 
 
 メインモニタの点滅が目に見えて遅くなり、発令所全体を、安堵ともつかぬ複雑な溜め息が漏れる。
 
 
 
 「どのくらい持つ」
 
 「二時間くらいかと」
 
 冬月の問いに、リツコが低い声で応える。
 
 
 
 「……MAGIが敵に回るとはな」
 
 ゲンドウが、重い声で呟いた。
 
 
 
 発令所のすみで、ミサトとアスカがじっと立って見ている。
 
 ミサトは、腕を組んで無言だ。
 
 アスカはそんなミサトを横目で見上げて、口を開いた。
 
 「……いいの? ミサト」
 
 「なにが?」
 
 前を向いたまま、ミサトが応える。
 
 
 
 「作戦部長さんは、何かしなくていいのかってこと」
 
 
 
 「してるわよ」
 
 「え?」
 
 ミサトの答えに、アスカが怪訝な表情を見せる。
 
 ミサトは、視線だけアスカに移して、言葉を続けた。
 
 「アスカ……私が今できる、最も有効なことって、何だと思う?」
 
 「………」
 
 アスカは、肩を竦めてみせる。
 
 
 
 「……プロフェッショナルの、邪魔をしないこと、よ」
 
 
 
 「……ナルホド」
 
 アスカが、溜め息と共に応えた。
 
 顔を上げて前を見る。
 
 矢継ぎ早に指示を飛ばしながら、キーボードを叩く、リツコとオペレーターたち。
 
 
 
 「……確かに……手を出す余地はなさそうね」
 
 アスカはもう一度、軽く肩を竦めると、くるりときびすを返した。
 
 ミサトが振り返る。
 
 「どこに行くの、アスカ?」
 
 「ここにいたって、しょ〜がないでしょ?」
 
 振り向かずに、片手を上げてアスカが応える。
 
 「上行って、万年カップルの様子でも見てくるわよ」
 
 そう言いながら、アスカは発令所の外に出て行った。



二百五十七



 シンジには、もはや、何もすることは残されていなかった。
 
 当たり前の話だが……地底湖まで排出されてしまったこの疑似プラグと、発令所との通信回線が、まだ生きているなどということはない。
 
 今、どういう状況なのか……さっぱりわからない。
 
 
 
 自力で本部まで戻ろうにも、自分は全裸だ。
 
 とても、その格好であそこまで歩く勇気はない。
 
 それに……本部に限らず、この地底湖が見渡せる付近にも、幾人かのNERV職員はいるはずで、どこから見られてしまうか分からないから……このプラグのハッチを開けて外に出る、そのことさえ躊躇われた。
 
 
 
 前回も、こうだった記憶がある。
 
 数時間の後に救助隊が回収に来るまでの間、どうにもならずにプラグの中で呆然自失していたのだ。
 
 
 
 しょうがない……よなぁ
 
 
 
 シンジは、思う。
 
 
 
 手助けできないもどかしさ、というようなものも少々あるが、こればかりはどうにもならない。
 
 すべてが決着がつくまで、待つしかない。
 
 
 
 ……と、思って、シンジが仰向けに転がったところで……
 
 
 
 バカッ
 
 
 
 と、ハッチが開いたような、音。
 
 
 
 「え?」
 
 
 
 ゴボッ
 
 
 
 何かが、LCLに飛び込んだような、音。
 
 
 
 そして。
 
 
 
 振り向いたシンジの眼前に迫る、紅い瞳。
 
 
 
 「わあぁぁっ!?」
 
 シンジは、思わず意味不明の叫びを上げてしまった。
 
 飛び込んできた何かが、ぐわっとシンジの頭に巻き付くと、即座に強い力で抱き締められた。
 
 何事が起こったのか、咄嗟に理解できずに茫然とする、シンジ。
 
 
 
 ……だが、一拍置いてから、それが何であるかを理解した。
 
 自分を抱き締める、柔らかな感触、柔らかな想い。
 
 その表情は見えないが……自分の視界の中で、LCLにたゆたう蒼くしなやかな髪の毛にも見覚えがあった。
 
 そして、自分の首筋に埋まる、喜びの表現。
 
 
 
 「……あ……綾波?」
 
 シンジは、気の抜けたような声で、呟いた。
 
 シンジの首筋から、聞き慣れた声が耳に届く。
 
 「……碇、君……よかった……」
 
 
 
 レイの心は、ようやくと、安らぎの切れ端を握り締めていた。
 
 ハッチを開けて中に飛び込んだ瞬間、シンジの姿が目に飛び込み……気付けば、思いきり抱きついてしまっていた。
 
 シンジの様子はいつもと同じで、特に異常を感じさせなかった。
 
 それが、何より、レイを安堵させていた。
 
 
 
 自分の首筋に顔を埋めるレイ。
 
 本来なら、地底湖の中央に浮かんでいるはずの……NERVの回収隊が来るまでは、誰とも連絡の取りよう筈のないプラグの中で、レイに抱き締められている。
 
 その不可思議な状況は、シンジの脳細胞の回転を、著しく妨げていた。
 
 
 
 今、シンジに感じられるのは……勿論、疑問や驚きや、そういった様々な感情が渦巻いているのも間違いがないのだが……一番大きいのは、レイと同じ感情。
 
 「愛する人と、触れ合っている喜び」という、想い。
 
 
 
 シンジは、レイの体を抱き締め返した。
 
 それは、ごく自然な行動で、「抱き締めよう」と思ったわけではない。
 
 息をするように……朝日に包まれればその瞼を開くように、ごく自然に、取った行動だった。
 
 
 
 レイも、抱き締め返す。
 
 シンジの腕にも、柔らかく力が篭る。
 
 二人の体は、満ち足りたように、隙間なく触れ合う。
 
 
 
 が……
 
 大方の諸氏の予想するように、このまま済もう筈がないのである。
 
 シンジは、レイの背中越しに……視界に自分の足が入るのを認識する。
 
 何も穿いてない、情けない姿。
 
 それを、正確にシナプスが脳の中枢まで伝達するのに、およそ5秒はかかったという。
 
 
 
 「………」
 
 
 
 シンジは、体中から汗が噴き出す……のと同時に、全身が凍り付くのを感じていた。
 
 僕は……ハ、ハ、ハダ、ハダ、ハダ……ハダハダ。
 
 
 
 「ちょ……ッ、ま……」
 
 シンジは、慌てて咄嗟に、張り付いたレイの体を引き剥がそうとした。
 
 だが、レイは反射的に抵抗した。前よりも輪を掛けて、きつく腕に力を篭める。
 
 「あッ、綾な……綾波、ま、まって」
 
 「(ぎゅぅぅぅぅぅ)」
 
 「あぅぅうあぁ〜〜」
 
 
 
 そのまま、二人の体はインテリアのシートに横倒しになってしまった。
 
 
 
 下になったシンジは、吃りながら必死で言葉を繋ぐ。
 
 「あ、あ、綾波! ちょ、ちょっと、離して……」
 
 「(ぎゅぅぅぅぅぅぅ)」
 
 「ぅあああ……あ、あや、綾波さん。ホラ、僕、は……裸だから」
 
 「……大丈夫……見えないもの」
 
 「そ、そ、そうじゃなくてっ」
 
 「裸は、見てはいけない……見せてはいけない。……見てない。……平気」
 
 「い、い、いや……ダ、ダ、ダメだって」
 
 
 
 確かに、そういう意味で言えば、このままでもいいのかも知れない。
 
 レイは服を着ているから、シンジの理性も弾け飛ぶようなことはないだろう。服を着たまま抱きしめあうこと自体は、もう、いつもの光景だ。
 
 だが……
 
 
 
 (そ……そうは言っても……こっちだって、服、着てるのと着てないのとじゃ、全然違うんだよぉぉ〜)
 
 
 
 体中で感じる、レイの柔らかな感触。
 
 まだ中学生のシンジに、気にするなというのは無理というものだ。
 
 ……そして、ズボンで隠れているならまだしも、この状態では……
 
 
 
 ………。  
 
 
 (……ちょっとでも見えちゃったら、それで全部バレちゃうよッ!!)
 
 
 
 それは、避けたい。
 
 あまりにも、情けない。
 
 それに、説明を求められても、答えられない。
 
 
 
 シンジは、もはやどうしてよいのか分からず、逆に茫然としてしまっていた。
 
 
 
 そんな顛末を、開いたプラグのハッチから、LCLの水面ごしに覗き込んでいる少女がいる。
 
 
 
 「……バッカじゃないの、まったく」
 
 アスカは、溜め息をついて呟いた。
 
 ぷかぷか浮いている疑似プラグの横に、小さなゴムボートが接舷している。
 
 ジオフロントの地底湖には、常時ゴムボートが用意されていた。……地上の世界なら、子供や、馬鹿な若者が使ってしまうのを避けるためにも厳重に管理されているところだろうが……何しろ、ここはにNERVの関係者しかいない。
 
 誰でも、自由に運び出して使用することが出来るのである。
 
 
 
 アスカが地底湖の湖畔にたどり着いたとき、レイの姿はなかった。
 
 ゴムボートを使ってプラグに向かっているものだろうと予想していたのだが、湖面上にもその姿はない。
 
 どうしたのだろう……と、思わなくもなかったが、そうなると、シンジの安否の確認は自分がしなければいけない、とアスカは思う。
 
 ゴムボート置き場に走って、畳んであったボートを取り、ボタンを押す。
 
 バシュッ、と一気に膨らんだゴムボートを水面に浮かべると、それに乗って舵をプラグに合わせた。
 
 
 
 ところが、ゴムボートが走りだしてすぐ、レイの姿が確認された。
 
 いきなり、プラグの横の水面から這い上がってきたのだ。
 
 「……あの、バカ女……泳いでったの!?」
 
 アスカが、驚き呆れたような声を出す。
 
 ……レイが、ゴムボート置き場を知らないはずがない。
 
 それに気付かないほど、レイは頭が真っ白になっていたのだ。
 
 どう考えても、泳いでいくよりもゴムボートに乗っていったほうが早く着くに決まっている。
 
 にも関わらず、レイはまっすぐ、一直線にプラグに向かって突き進んでいったのであろう。
 
 
 
 レイは、プラグの上に登ってハンドルを回すと、開いたハッチからプラグの中に飛び込んだ。
 
 そしてそのまま、アスカからは何も見えなくなってしまう。
 
 
 
 アスカは急にバカバカしくなって、エンジンを切ると、ゴムボードの進行を惰性に任せた。
 
 そのまま、ゆるゆるとゴムボートはプラグに向かって進み……やがて、トウョン……という変な音を立てて柔らかく接触した。
 
 
 
 アスカは、ボートの上で立ち上がり、伸びをしてからプラグの上に登る。
 
 今は制服だ。レイと違って、LCLに飛び込むような真似はもちろんしたくない。
 
 プラグの上にうつぶせに寝転がると、首だけ出して水面越しに、プラグの中を覗き込んだ。
 
 
 
 ……そこに見えたのは、シンジに抱きつくレイと、抱きつかれて固まるシンジの姿だった。
 
 
 
 「……バッカじゃないの、まったく」
 
 アスカは、溜め息をついて呟いた。
 
 本当に、心の底から、「飽きない連中」……と呆れ返る。
 
 
 
 アスカは、そのままごろん、と、体を回転させた。
 
 仰向けに。
 
 プラグの上に寝そべる。
 
 太陽も青空も見えないが、光ファイバーを通した外の陽の光が、アスカの体に降り注ぐ。
 
 
 
 円柱形のプラグが水面に浮いている様子は不安定そうな印象を受けるが、実際には、ちょっとやそっとでは回転することはない。
 
 インテリアなどの、比重の重い部分は下側に固まっており、外苑部に格納された比重制御装置も働いているためだ。
 
 水の中を突き進んできたプラグの表面も、材質の効果だろうか、すでに乾いていて……アスカの制服を濡らすような真似はしなかった。
 
 
 
 アスカは、目を細める。
 
 遥か、高い、高い……天井を、見つめる。
 
 
 
 ……バッカじゃ、ないの……
 
 
 
 もう一度……繰り返す。
 
 
 
 心の中に、かすかに感じる、違和感。
 
 それは、レイとシンジを見ていると、胸の奥から僅かに染み出してくる。
 
 
 
 嫉妬?
 
 それは、違う。
 
 いや、嫉妬といえば確かに嫉妬だが……シンジに対する横恋慕などという意味とは、違う。
 
 
 
 正確には……シンジとレイ、このカップルを見たときだけに、感じる感情では、ないのだ。
 
 同じようなざらつく想いを、トウジとヒカリを見つめる時にも、感じている。
 
 ミサトと加持を見る時も、同じだ。
 
 
 
 アスカは、このかすかな感情に対して、無視を決め込んでいた。
 
 感情の正体がはっきりとはわからず、どうにも対処の仕様がなかったし、感情自体がまだ小さな……無視することが可能な大きさに過ぎなかったからでもある。
 
 
 
 ずっと……彼女の母親が死んで、ずっと、アスカは一人だった。
 
 それが当然であり、そうでなければいけなかった。
 
 誰とも分かりあえなかったが、それは……彼女自身が……望んだ、姿。
 
 環境が作り上げた哀しい世界ではあったが……同時に、幼い彼女を護る、大事な心の殻でもあったのだ。
 
 
 
 ユニゾン訓練、最終日の、夜。
 
 
 
 穏やかな……満たされた愛を交わしあうシンジとレイの姿を見て、アスカは、自分にパートナーのある情景を想像した。
 
 「ああいう存在が、横にいるのも悪くないかも知れない」と、思った。
 
 
 
 だが、それは……今にして思えば、「必要がないから」可能だった想像だ。
 
 
 
 今のアスカには、できない。
 
 
 
 アスカ自身は、まだ、そのことに気付いていない。
 
 だが、アスカは、無意識に……「自分に恋人ができる」という情景を、想像することはなくなっていった。
 
 
 
 何が、アスカの感情に変化をもたらしたのか?
 
 アスカは、ずっと、一人だった。
 
 淋しいと思ったことなど、ただの一度も、ない。それは、彼女の理性を保つ、大事な防壁だから。
 
 人恋しくなったら、終わりだった。
 
 ……彼女の精神は、人に拒絶されることを、極限まで恐れていた。
 
 受け入れられなくてはいけない。
 
 誰にも、拒絶されてはいけない。
 
 ……それには、一人でいることが一番だった。求めて、断られる恐怖。だが、求めなければ、何も返ってこなくても、それが当たり前なのだ。
 
 何も、求めない。
 
 自分以外の、誰にも。
 
 求めなければ、拒絶されない。
 
 
 
 一人でいることは、それだけで、完全な世界だった。
 
 
 
 ……ほつれたのは、あの時だ。
 
 ……弐号機と、心の通った、あの時。
 
 
 
 あの時、アスカは、人のこころに触れてしまった。
 
 無防備な心を、弐号機に抱き締められて……
 
 壁が、内側から、壊れてしまったのだ。
 
 
 
 こころの、暖かさに、気付いて、しまった。
 
 
 
 アスカは、今、自分に恋人が出来ることなど、想像もしない。
 
 将来、そんなことが起こりうるとも、考えない。
 
 必要だとも、微塵にも思わない。
 
 
 
 だが、それは、裏返した感情だった。
 
 もしも気付いてしまったら、耐えられなくなる。
 
 親の愛すら受けられず……今まで、愛情という名の全てから離れて生きてきた彼女にとって……初めて触れた愛は、衝撃的な恋しさだった。
 
 涙が出そうなほどに。
 
 ……愛を求める自分に気づいたら、耐えられなくなる。
 
 狂いそうなほど、恋しくなってしまうだろう。
 
 
 
 レイとシンジ、トウジとヒカリ……彼等を応援する気持ちには、嘘偽りは、ない。
 
 だがそれは、分析するならば、「自分は平気だ」と……「自分には、恋人などいなくても平気だ」と、自分に言い聞かせるための、無意識の行動でもあったのだ。
 
 
 
 ……これらの細かな感情の動きを、アスカはまったく理解していなかった。
 
 ただ、じわりと……今まで感じたことのない、不可解な感情が自分の中にある……それだけを、かろうじて感じていた。
 
 
 
 「……まぶしいわ」
 
 降り注ぐ光を見つめて、アスカは、ただそれだけ、呟いていた。



二百五十八



 さて、レイに抱きつかれていたシンジはと言うと、逆転の発想……と、言うか……レイを突き放して逃げるのではなく、頭の中を真っ白にして、完全に石と化すことによって、なんとか精神の安寧を図っていた。
 
 レイは、シンジと触れ合っていれば、それだけでとても幸せだ。シンジが固まっていようが何だろうが、お構いなしである。
 
 
 
 アスカは、そうして幾許かの時間を、高い空を見上げて過ごした。
 
 色々考えているようで、何も考えていないような、不思議な気持ちだった。
 
 
 
 何分経っただろうか?
 
 アスカには、わずかな時間に感じられたが、実際には30分以上が経過していた。
 
 アスカは上半身を起こすと、軽く首を回して、起き上がる。
 
 おしりを両手でパンパン、とはたくと、もう一度空を見上げて、伸びをした。
 
 くるりと向きを変えると、ハッチの縁に立って、水面から中を覗き込む。
 
 
 
 最初に覗き込んだときと、体勢が全く変わっていなかった。
 
 硬直するシンジと、微笑みを浮かべて抱きついているレイ。
 
 
 
 アスカは溜め息をつくと、ガボッ、と首をLCLの中に突っ込んだ(外から話しかけても、中まで聞こえないためだ)。
 
 
 
 「あ・ん.た.らッ!! ちちくりあってんじゃないわよ!」
 
 
 
 「わあぁッ!!」
 
 「………」
 
 突然の闖入者に、驚愕の声を上げるシンジと、邪魔者に冷ややかな視線を向けるレイ。
 
 シンジは自分が全裸であることを思いだし、慌ててインテリアの物陰に隠れようとするが、レイがしっかりと抱きついていて、思うように動けない。
 
 「ちょッ、まッ、わッ……」
 
 慌てふためいたシンジは、思わずレバーに掴まって、体重を掛けてしまった。
 
 
 
 ぐるりん。
 
 
 
 ドッボォォォォォォォォン!!
 
 
 
 「あがわぁ!?」
 
 急に天地が逆転して、シンジは仰天した。
 
 ハッチが下側を向いたため、LCLと湖水が、急速に混じりあっていく。
 
 
 
 シンジも、レイも、即座に異常を察知した。
 
 呼吸できなくなる。
 
 というよりも、現在、肺の中までLCLで満たされているのだ。このままLCLが湖水と混じりあえば、溺死だ。
 
 
 
 シンジとレイは、すぐに口を閉じた。
 
 
 
 ぐるりん。
 
 
 
 シンジがレバーを離すと同時に、再び比重制御装置が稼働して、疑似プラグは正位置に戻る。
 
 シンジは、レイを押すようにしながら、自らも一目散にハッチに向かって泳いでいった。
 
 
 
 ザバッ! と、二人は並んでハッチから頭を出した。
 
 「ぐ……がはッ」
 
 「けほッ……けほ」
 
 シンジとレイは、肺の中のLCLを吐きだす。
 
 
 
 かろうじて、シンジたちは純粋なLCLしか取り込んでいなかった。
 
 まさか、こんなところで命の危険に晒されるとは思わず、心臓の鼓動も高鳴る。
 
 
 
 「……ごめんなさい……碇君……」
 
 耳元で聞こえた小さな声に、シンジは振り返った。
 
 見ると、レイが濡れた髪で、俯いている。
 
 「……ごめんなさい……碇君……私が、抱きついたから……」
 
 
 
 「……そ、そんなことないって! レ、レバーを引いちゃったのは僕だよ、僕こそ、ゴメン」
 
 慌ててシンジはフォローする。
 
 実際には、どちらかと言えば……責任はレイにあると思われるが、シンジにはどうでもいいことだった。レイが謝るようなことではないと思うし、シンジ自身には、責任は自分にあるように感じられた。
 
 「………」
 
 「い、いやホラ、あんなことになるの、僕だって予想つかなかったしさ……」
 
 「………」
 
 「な、なんて言うの? 不慮の事故というか……誰が悪いってワケでもないと思うんだよね」
 
 「………」
 
 「だから、その……そんなに気に病まないでさ……」
 
 「………」
 
 
 
 「……フォロ〜〜〜は結構だけどね、シンジ……」
 
 「え?」
 
 下の方から聞こえてきた声に、シンジは湖面に視線を移す。
 
 
 
 湖の、美しい水をたたえた湖面。
 
 ……そこには、水面から首だけ出して、濡れ鼠になったアスカが、こめかみをヒクヒクとひきつらせて笑っていた。
 
 「……アタシに対するフォロ〜はないわけ?」



二百五十九



 結局、NERVの回収班がシンジたちを救出したのは、更にそれから1時間以上が経過してからだった。
 
 実際のところ、全裸のシンジ以外は、回収班を待つ必要はないのだが……レイもアスカも、その場に残っていた。
 
 アスカは、シンジに、また制御装置を解除するような真似をしないように厳しく指定したうえで、再びプラグの上にのぼって仰向けに寝転がり、服を乾かしがてらの日光浴。
 
 レイは、最後までハッチに浸かって首から上だけ水面から出して、しっかりとシンジの首に抱きついていた。
 
 抱きつかれたシンジはと言えば、もう、完全に頭を真っ白にして、全ての煩悩を頭から追いだすことで何とか精神を保っていた。
 
 
 
 NERVの回収班がシンジたちを回収に来たということは、勿論、すでにイロウルの殲滅は終了している。
 
 ここはリツコたちの活躍に大きな拍手を送るべき場面だが、諸兄ご存知の顛末に過ぎないので、割愛させていただく。
 
 
 
 NERVの一室で、顛末(ここで言う顛末は、地底湖での顛末だ)の一部始終を見ていた加持は、誰はばかることなく、思いきり笑っていた。
 
 特に、アスカが湖に落水する瞬間は、爆笑と言っていいだろう。
 
 
 
 加持にとって、使徒という存在は、脅威とは違う次元の存在だった。
 
 殲滅の手綱を握るのが自分であれば、努力を惜しむつもりはない。だが、自分が門外漢である以上、スッパリと割り切って、頭を切り替えることが可能な、希有な人間だった。
 
 リツコの手腕を、信頼しているという意味もある。
 
 こんなところでの頓挫をゲンドウが黙って見ている筈がない、という意味もある。
 
 そして、シンジがこんなところで死ぬこともありえない、とも感じていた。
 
 
 
 リツコは、ミサトの淹れたコーヒーの入った紙コップを手に、椅子に腰掛けてじっと目を瞑っていた。
 
 十分ほど前までは、人類滅亡と使徒殲滅、どちらに傾いても不思議ではない綱の上を、手ぶらで歩いているような状態だった、と思う。
 
 とにかく、全ては何とかうまくいった。
 
 それは、ひとまずは、喜ぶべきことだ。
 
 
 
 横に立つミサトは、同じくコーヒーをすすりながら、ゆっくりと口を開く。
 
 「お疲れサマ、リツコ」
 
 ミサトの言葉に、リツコは、軽く微笑んで目を瞑ることで、応えた。
 
 
 
 「リツコ……何を、考えてるの?」
 
 ミサトが、再び問う。
 
 「……何が?」
 
 リツコは、目線だけをミサトに送った。
 
 ミサトも、リツコを見る。
 
 「いや……すんでのところで、やっと使徒を殲滅したってのにさ、あんまり晴れやかな表情じゃないなと思ってね」
 
 「………」
 
 リツコは、視線を再び、前に戻す。
 
 
 
 しばしの、沈黙。
 
 二人の間を、オペレーターたちが叩くキータッチの音だけが、通り過ぎる。
 
 
 
 「……疲れただけよ」
 
 リツコは、静かに、応えた。
 
 
 
 本当は、疲れていたのではない。
 
 いや、疲れてはいるのだが……表情が複雑なのは、それが原因では、なかった。
 
 
 
 碇シンジ。
 
 リツコは、取るにたらないはずの、一人の少年のことを思う。
 
 
 
 ……彼には、使徒の存在が、分かっていたのだろうか?
 
 使徒が、来ることを、予見していた?
 
 
 
 ……だが、そうだとしても、それはそれで……不自然なことが幾つか目に付く。
 
 使徒に襲われることが分かり、それゆえ、レイを遠ざけたのだとしても……では、自分自身の無防備さはどうか。
 
 襲われるのが分かっていたのなら、もう少し対処のしようがあったのではないだろうか?
 
 模擬体が使徒に襲われたときの、シンジの悲鳴は演技ではなかった。
 
 あれは、本当に、予想外の出来事だったのだ。
 
 ……では、なぜ、執拗にプラグに乗りたがったのだろう?
 
 
 
 ……わからない。
 
 ……碇シンジ……。
 
 ……彼は、何を考えているの……?



二百六十



 熊谷ユウは、独房にいた。
 
 疑似プラグの腐食は、工作によるものと断定された。それを避けるために配備されていた警備員であるにも関わらず、それを未然に防ぐことが出来なかった。
 
 それゆえ、独房での二日間の禁固を命ぜられたのである。
 
 
 
 独房にいる間中、熊谷は座禅を組み、背筋をピシッと伸ばして座っていた。
 
 微動だにしない。
 
 食事の時以外、その姿勢は崩されることがない。
 
 
 
 熊谷は、自分の失態を認めていた。
 
 異議を全く申し立てず、その罰則を受け入れている。
 
 
 
 熊谷には、工作したのは加持だろう、という予測がついている。
 
 あの時、熊谷は、常に、目を光らせていた。
 
 手を抜いていたわけではなかったし、任務に手を抜けるような性格ではない。
 
 工作されたとすれば、あの時に、加持が何かしたとしか、考えられなかったからだ。
 
 
 
 ……だが、その疑惑を、上層部に報告することはなかった。
 
 ひとつは、加持の力ならば、上層部への伝達経路で揉み消すことが幾らでも可能だと思えることと……もうひとつは、目の前で出し抜かれたという悔しさによるものだ。
 
 プライドが、それを妨げていた。
 
 
 
 熊谷は、閉じた瞳の奥で、考える。
 
 
 
 加持リョウジ。
 
 
 
 彼は……危険だ。