第五十三話 「準備」
二百三十五



 NERV・発令所。


 
 オペレーター・伊吹マヤは、眼前を流れる文字群を凝視しながら、凄まじい速度でキーボードを叩いている。
 
 集中の表情。
 
 その瞳に、緑色に光る文字が映り下から上に消えていくが、その眼球自体は殆ど動くことはない。
 
 
 
 伊吹マヤ。その、指先の妙技。
 
 百戦練磨とも言うべきプロフェッショナルが集うNERVにおいてなお、その右に出る者のない、優れた資質である。
 
 本部付きという、オペレーターとしては最要職とも言える職場に勤める同僚……青葉シゲルや日向マコトも、こと、タイピングの速度に限れば彼女に遠く及ばない。
 
 それでいて、ミスも殆ど無いというのだから、驚愕するよりないだろう。
 
 
 
 途切れること無く続く、タイプ音。
 
 栄養ドリンクや食べかけのハンバーガー、床や机に散らばった書類の山の中で、ただ、その音だけが、連綿と続いていく。
 
 
 
 マヤの背後で、人影が動いた。
 
 暗がりに立って、じっとその後ろ姿を眺めながら、コーヒーをすするブロンドの女性……赤木リツコ。
 
 
 
 「……どう、調子は」
 
 リツコが、マヤの背中に問いかける。どうやら、つい数分前に、この部屋にやってきたばかりのようだ。
 
 「ハイ、今、250まで終了しました」
 
 マヤが、振り向かずに応える。指先のスピードは変わらない。
 
 リツコは、少しだけ微笑んで、足を踏み出すと……そのまま、マヤの背後まで近付いて、その背凭れに手をかける。
 
 その姿勢で、コーヒーをもう一口、飲む。
 
 モニターの上を、凄まじい速度で流れていく、無数の文字群。
 
 
 
 「……さすが、早いわね」
 
 リツコが、呟く。
 
 マヤが、少しだけ嬉しそうな表情を言葉に含ませて応える。
 
 「そりゃ、もう……先輩の直伝ですから」
 
 
 
 現実には、リツコがわざわざ、マヤにタイピングを伝授したことがあるわけではない。
 
 だが、マヤにとって、感覚的には同じことなのだろう。
 
 
 
 「あ、そこ……」
 
 「はい?」
 
 「A-8の方が、早いわよ」
 
 言いながら、リツコの白い指がマヤの背後からキーボードに伸びる。
 
 
 
 モニターを流れる文字群が、一気に滝のようになった。
 
 
 
 マヤの目には、リツコの指は10本に見える。
 
 それほどの速度で、指先がキーボードの上を踊る……そう、まさに「踊る」という表現が正しい。
 
 
 
 先程、マヤのタイピングを「凄まじい速度」と評したが……では、この速度を、いったいどのような言葉で表現すれば良いだろうか。
 
 
 
 「……さっすが、先輩」
 
 マヤが、楽しそうに微笑んだ。
 
 目の前で繰り広げられる非人間的な光景にも、まったく動じていないのは、それが「赤木リツコ」のワザだからであろう。
 
 
 
 コンソールの影から、ミサトが数枚の書類に目をやりながら現れた。
 
 そのまま顔を上げ、視線をリツコとマヤの背中にくれる。
 
 
 
 足音に気付いたマヤが、わずかに首をねじって背後を見る。ミサトは、書類を持った手を軽く上げて、ウインクしてみせた。
 
 そのまま、キーを叩くリツコの背中に声をかける。
 
 「どう、調子? 作業進んでる?」
 
 突然声をかけられても、リツコのタイプは衰えない。そのまま、何事も無かったかのように入力を続けながら、口を開いた。
 
 「問題無いわ。もうすぐ終わるわよ」
 
 「さすが」

 言いながら、ミサトは横に置いてあった小さなコーヒーメーカーの容器を取り、中身を紙コップに注いだ。
 
 
 
 茶色の液体が、滑らかな渦を描く。
 
 
 
 「でも、アレね……なんて言うの? 科学の粋を集めた世界最高のコンピューターでも、定期検診はやんなきゃならなくて……それには、担当の人間が数日を徹夜で費やして作業しなきゃならないのね」
 
 
 
 ミサトのちょっとした皮肉に、リツコは振り返る。指は止まらない。
 
 
 
 「違うわね。それは、いわゆる理論の袋小路って言うものよ」
 
 「は?」
 
 「Aというコンピューターを検診するのに、Bというコンピューターを使う……そのコンピューターBに間違いがあっては、検診結果は信用できない。コンピューターBは、定期的に検診しなくちゃ……それには、コンピューターCを使う。じゃあ、そのコンピューターCを検診するコンピューターDは? E、F、G……」
 
 「………」
 
 「言ってる意味、わかるわよね」
 
 「……わかるけど」
 
 ミサトは、腕を組み……少しだけ不満そうに呟く。
 
 「でも……私のマシン、人間が検診してるわけじゃなくて、検診ソフトに診せてるわよ。リツコだって、自分のマシンはそうでしょ? それじゃ、いけないの?」
 
 「いけなくないわよ」
 
 
 
 リツコは、かすかに微笑んで、再び視線をモニタに戻した。
 
 「……でも、あなたのマシンと、MAGIを一緒にしないでね」
 
 言い終わるのと同時に、人差し指で、エンターキーを叩いた。
 
 そのまま、腰を伸ばす。
 
 見上げるマヤの肩を、軽く叩く。
 
 「終了」
 
 言って、きびすを返し、ミサトのところへ歩いていく。
 
 
 
 「さっすが……速い」
 
 入力した内容を高速でスクロールさせながら、感服したようにマヤが溜め息を漏らす。
 
 
 
 「間に合わせたわよ」
 
 リツコはミサトの横までやってくると、視線だけミサトに向けて呟く。
 
 ミサトは、リツコの顔を見て……目を瞑り、肩を軽く竦めてみせた。
 
 「ありがと。さすがね」
 
 ミサトは微笑んで紙コップに口をつけ、一気にあおる。
 
 「冷めてるわよ、それ」
 
 一瞬にして、ミサトの表情が苦悶に彩られた。



二百三十六



 葛城邸……シンジの部屋。
 
 シンジは自分のベッドによりかかり、一枚のプリントを眺めている。
 
 
 
 そのプリントは、チルドレンの訓練予定表だ。
 
 もっとも、機密漏洩阻止の目的もあり、ここ一週間の予定しか記入されていないほか、内容も符号を照らさねば理解できない。しかも、漏洩したとしてもさほど影響のない、表面的なことしか記載されていないものだ。
 
 
 
 明日の予定。それは、「オートパイロット試験」……。
 
 ……つまり、インターフェイスヘッドセットやプラグスーツなしでの、シンクロ環境試験。
 
 正確な目的はダミーシステム及びダミープラグの開発に使用するデータの採取を純粋な形で行うためのものだが、シンジはそれ自体は知らなかった。
 
 
 
 前回の人生でも、結局一度しか行われることの無かったテスト。
 
 それだけに、その日のことは、鮮明に覚えている。
 
 
 
 第十一使徒、イロウル。
 
 
 
 あの、ナノ状使徒が、NERVへの直接侵入を果たした日だ。
 
 
 
 シンジは、プリントをシーツの上に置いて、軽く伸びをした。
 
 天井を見上げる。
 
 いつしか、その天井は「見知らぬ天井」ではなくなっていた。確実に、自分の住処として、この部屋……そしてここをとりまくすべては、シンジにとって心地の良いものになっている。
 
 
 
 ……綾波も、そう感じてくれていたらいい。
 
 シンジは、思った。
 
 
 
 みなを、危険にはさらせない。
 
 回避する手段があるのなら、回避しなければいけない。
 
 それが例え実らなかったとしても、努力を怠ってはいけない。
 
 
 
 シンジは、イロウルのことに思いを馳せる。
 
 イロウルに限らず、前回のシンジは、殲滅した後の使徒について、わざわざ事後調査をしたりはしなかった。
 
 終わってしまった使徒のことなど、どうでもよかった。風化した情報のように、一瞬にしてかすんでしまっていた。
 
 
 
 だから、今のシンジは、一度経験したことなのに……使徒のことを、大して覚えていないのだ。
 
 絶対的に、情報が足りなかった。
 
 毎回毎回、後悔の念が起こる。なぜ、物事に対して、ああも消極的であったのか、と自分を呪う。
 
 
 
 サードインパクトのさなか……LCLに溶けた海の中で、シンジはレイやカヲルと情報の疎通を行っている。
 
 以前も述べたことがあるが、本来シンジは知らないはずの、JA事件の裏側を知っているのは、そのためだ。
 
 だが、あのときも、結局、漠然とした物語の流れを知っていたに過ぎない。カヲルたちがわざわざ詳細まで教えてくれたわけでもなく、細部は想像で補っていたのだ。
 
 
 
 今回のイロウルについて、対策を立てるのに重要な条件でありながら、詳細を知らないことが、ある。
 
 
 
 それは、「イロウル発現のトリガー」である。
 
 
 
 何が引き金になって、イロウルが発現したのか?
 
 発現の元となったタンパク壁自体は、あの場所に数日前からはめ込まれていた。だが最初はただのタンパク壁に過ぎず、あのタイミングで初めて、使徒になったのだ。
 
 何か、きっかけがなければ、おかしい。
 
 
 
 微に入った予測を立てるならば、推論は無数に成り立つ。
 
 だがそれらは、結局、大別すれば二つの予測に集約されるだろう、とシンジは思う。
 
 
 
 ひとつは、「時限式発現」である。
 
 あのタイミング、あの瞬間に深い意味があったのではなく、純粋に、あの時間に発現する設定であったという予測だ。
 
 それは例えば、タンパク壁の安定に時間がかかったということかも知れないし、タンパク壁が設置されてすぐでは警戒されるという懸念があったのかも知れない。
 
 
 
 発現の直前に、あのタンパク壁が腐食しはじめていたことは、あのあと、ブリーフィングで説明を受けたときに、リツコに聞いた記憶がある。
 
 もしかすると、使徒がタンパク壁に寄生してから発現するまでには、どうしてもタイムラグが出てしまうものなのかもしれない。
 
 
 
 二つ目の予測……それは、できれば、そうであって欲しくない予測。
 
 その引き金は……「レイ」であるという、可能性。
 
 
 
 考えたくないことだが、目を背けていてもどうにもなりはしない。
 
 シンジは、じっと白い壁を見つめて、考える。
 
 レイ……その存在は……もちろん、人間なのだが。
 
 そういった希望論とは別に、「彼女が使徒である」こともまた、動かしがたい事実だ。
 
 襲来する使徒のそもそもの行動原理は、「アダムと接触・融合を果たすこと」にある。
 
 だが、例えばあの、ナノ単位しかない使徒に、アダムと他の使徒の区別がつくだろうか?
 
 
 
 イロウルは、もともとはもっと、あとのタイミングで発現するはずだったのかも知れない。
 
 NERV内部に侵入したことでとりあえずはその責務は果たしており、あとは「もしもアダムに近付く機会が訪れれば、その時に行動を起こす」という予定だった可能性だってあるのだ。
 
 
 
 それが、レイが近付くことで、そのトリガーを引いてしまった。
 
 単なる偶然だったかもしれないが、あの時レイの模擬体を襲ったことも、それで説明をつけることができる。
 

 
 「……うぅ〜ん……」
 
 
 
 シンジは、眉間にしわを寄せて、腕を組んだ。
 
 どうするのが、最も効果的か。
 
 
 
 時限式だった場合は、非常に単純な策ですむ。
 
 訓練に遅れればいいのである。
 
 遅刻ぐらい、説明はどうにでもなる。とにかく、あの瞬間に訓練に参加していなければ、レイやアスカを危険に晒すことはとりあえず避けられる。
 
 
 
 勉強不熱心だったシンジは、実は、結局どうやってイロウルが殲滅されたのか、あまりよく覚えていない。
 
 ブリーフィングで説明を受けた記憶はあるのだが、聞き流しているような状態だったので、肝心の内容を覚えていないのだ。
 
 
 
 だが、とにかく……イロウル戦に関しては、チルドレンがまるで出る幕が無かったのは確かだ。
 
 イロウルの発現と同時に地上湖にテストプラグごと射出され、戻ったときにはすでに倒された後だった。
 
 
 
 何がどうなったのかさっぱりわからないのだから、戦略の立てようがない。
 
 せいぜい出来ることは、リツコあたりに、使徒の襲来を警告しておくぐらいだろう。
 
 シンジとしては、「レイとアスカを守ること」に集中するしかない。
 
 前回もうまく行ったのだから、今回もリツコたちがうまくやることを、期待するしかなかった。
 
 
 
 さて、では、二つ目の予測……レイがトリガーであった場合は、どうすればよいのか?
 
 これも、最終的には結論は一つしかない。
 
 ……レイを、訓練に参加させないこと。
 
 これに尽きる。
 
 
 
 だが、この作戦には無理がある。
 
 ひとつは、いつまでもレイを訓練から遠ざけておくことは、現実には不可能だということだ。
 
 レイがトリガーである場合……アダム(正確にはリリスだが)がイロウルに近付く可能性がまずない今の状態では、その引き金が引かれるまで……イロウルは永久に現状を維持しつづけるだろう。
 
 いつかやがて、あの付近で訓練をしなければならない時が来る。
 
 単純にタイミングを遅らせただけでは、あまり意味が無い……もちろん、準備する時間は手に入るが。
 
 
 
 別の方向から考える。
 
 発現前に、タンパク壁を破壊する。
 
 「……どうやって?」
 
 独りごとのように、シンジは呟く。
 
 
 
 発現前のタンパク壁を、「怪しい」と断じることは出来ないだろう。おそらく、発現する直前までは、ただの壁だ。
 
 説得力に欠けること、おびただしい。
 
 それに、何より……シンジは、どのタンパク壁か、知らない。
 
 
 
 シンジを責めることはできまい。
 
 87。
 
 自分の人生に、殆どなんの影響も及ぼさぬ数字……
 
 それを……しかも平凡な人生を歩んでいたのならまだしも、ちょっと真似の出来ない数奇な人生を歩んでいる最中に、いつまでも記憶に留めておくことが出来るだろうか?
 
 
 
 それは、無理というものだ。
 
 
 
 とにかく、大量にあるタンパク壁の、しかも怪しい兆候も殆ど無い、そのただ一枚を探し出して破壊することなど、不可能だ。
 
 それに、本当にタンパク壁を破壊すれば、それで使徒も殲滅できるのか?
 
 相手は何しろ、「ナノ」というサイズである。
 
 殴り倒せる相手とは、違うのだ。
 
 
 
 現在の状況を、もっとも的確に表す言葉があるとすれば、それは何か?
 
 
 
 「……八方塞がり、かなぁ……」
 
 シンジは、溜め息をつきながら呟いた。



二百三十七



 シンジの思考の海への潜航を、遮ったのはふすまを叩く音だった。
 
 「はい?」
 
 シンジは、顔を上げて応える。
 
 声に、ふすまが開いた。
 
 
 
 ノックしたのは、レイだった。
 
 白いTシャツに膝までの茶色いスカート、という簡単な格好だ。
 
 片手をふすまにかけて、シンジの事を見ている。
 
 
 
 「ああ、綾波……どうしたの?」
 
 シンジが、プリントを置いて微笑む。
 
 レイも微笑んで、わずかに首を振った。
 
 「……会いたかっただけ」
 
 「あ、そ、そう?」
 
 思わず、照れ臭さでどもるシンジ。
 
 レイはかまわず部屋の中に足を踏みいれると、ふすまを締めてシンジのところまで歩いていく。
 
 ベッドの上に上がると、シンジの横に、シンジと同じように壁によりかかって腰を降ろした。
 
 
 
 そのまま、部屋には柔らかな静寂が訪れる。
 
 
 
 レイと一緒にいる時間は、無言に包まれることが少なくない。
 
 二人とも口数の多いほうではないから、それはしかたの無いことだ。
 
 
 
 だが、この静寂は、決して居心地悪くはない。
 
 
 
 横に、シンジがいる。
 
 横に、レイがいる。
 
 
 
 それは、それだけで……充分すぎるほどに、甘美な空間。
 
 
 
 レイの視線が動いた。
 
 シーツの上に置いてある、紙に目が止まる。
 
 手を伸ばして、それを拾い上げた。
 
 
 
 「訓練要綱……」
 
 「ああ……うん」
 
 レイの呟きに気付いて、シンジが応える。
 
 
 
 先程までの、考えが頭をよぎる。
 
 ……レイを、危険に晒さない方法。それには、どうしたらいいか……。
 
 
 
 順番に考えよう。
 
 まずは、何はともあれ……訓練に遅れて行くことだ、と、シンジは思う。
 
 
 
 イロウルの発現トリガーが「時限式」であれば、それで済む。NERVに到着したときには、リツコたちが使徒殲滅に躍起になっていることだろう。
 
 あとは、リツコたちにお任せだ。無責任なようだが、シンジに出来ることはない。
 
 もしもトリガーがレイであれば、遅れて行っても、単に何も起きていないだけだ。
 
 改めて、その場で対策を講じればよい。
 
 
 
 ……で……
 
 
 
 ……肝心の、その、「対策」は……どうすりゃいいんだ……。
 
 
 
 「……碇君」
 
 レイの声に、シンジは、はっと我に帰った。
 
 見ると、レイが心配そうな視線でシンジを見ている。
 
 
 
 「あ……な、なに?」
 
 「……どう……したの?」
 
 「ど、どうって、どうもしないよ」
 
 ぎこちなく笑うシンジに、しかし、レイの怪訝な表情は晴れない。
 
 
 
 レイは、シンジを見た。
 
 すると、シンジが……いわゆる「眉間にしわを寄せたような表情」で、考え事をしていた。
 
 それは、レイにとって……充分すぎるほどに、不安を抱かせる光景だった。
 
 シンジが一人で無理をしがちな傾向にあることは、日頃、レイが常々心配に感じていたことであったし……それが原因で、シンジは実際に倒れた前科がある。
 
 
 
 レイが心配に思うのは、当然だった。
 
 
 
 レイは、じっとシンジを見る。
 
 シンジは、妙に気まずい気分になり……慌てて話題の転換を試みた。
 
 
 
 「あ、あのさ、綾波。明日のことなんだけど……」
 
 「……明日?」
 
 首を傾げるレイ。
 
 「う、うん、あの……学校が終わったら、ちょっとどこかに寄ってかない?」
 
 
 
 シンジの言葉に、レイの瞳は大きく見開かれ……
 
 ついで、ぱぁっ……と表情がほころび……
 
 ……と、思ったら、消沈した。
 
 
 
 くるくると変化する表情に、シンジは不思議そうな視線でレイを見る。
 
 レイは、目を伏せて……それから、かすかに口を開いた。
 
 「……明日は、ヒトヨンマルマルより、オートパイロット試験だわ……
 
 ……ホームルームが終了したら、まっすぐ行かないと、間に合わない」
 
 小さな声でそう呟くレイの表情は、うつむきがちで、心底残念そうだ。
 
 
 
 ……実際には、訓練の無い日や……いや、訓練があってもその帰りなどは、いつでもレイは、シンジと一緒である。
 
 毎日どこかに寄って帰っているようなもので……明日、学校帰りにどこかに寄ることが出来なかったとしても、それは……そこまで残念がるほどのことでもないだろう。
 
 
 
 だが、レイは残念だった。
 
 前の日から、シンジがわざわざ誘ってくれたのだ。
 
 それなのに……。
 
 
 
 シンジは、微笑んで自分の顔の前に手のひらを上げると、親指と人差し指で、輪を作る。
 
 その触れあう指先を、少しだけ離す。
 
 片目で輪の中からレイを覗くと、ウインクをしてみせた。
 
 「ちょっとだけ、だよ」
 
 
 
 実際には、ちょっとで済ますつもりはない。
 
 訓練に遅刻しなければ、寄り道する意味が無いのだ。
 
 
 
 レイは、じっとシンジの顔を見つめていた。
 
 やがて、おずおずと、口を開く。
 
 「行って……いいの?」
 
 「大丈夫だよ、遅れたら僕のせいにすればいいから」
 
 「それは、だめ……」
 
 「あ、そ、そう? でも、その、まぁ……たまにはさ、商店街のほうとか、行ってみようよ」
 
 「………………………………碇君……が……そう、言うなら……」
 
 レイは、しばしの逡巡の後、ゆっくりと微笑んだ。
 
 
 
 訓練のスケジュールは、とても大事だ。
 
 そう考えるレイにとって、遅刻しかねない予定は、諸手を上げて歓迎するのは躊躇われた。
 
 だが……本当は、ものすごく嬉しいのである。
 
 体の中から、喜びが沸き起こってくるようだった。
 
 
 
 レイは、遅ればせながら……その顔に、あふれんばかりに咲きほころぶ喜びを見せて……
 
 横に座るシンジの肩に頭を乗せると、そのまま首をねじって、シンジの首筋にその鼻先をこすりつけた。
 
 シンジは、一瞬驚いて頬を染めたが、レイの、喜びにまぶたを瞑る表情を見ると、思わず口許に微笑みを浮かべる。
 
 
 
 最近、シンジは、レイがこの行動を好んでいることが分かってきた。
 
 以前から、レイはシンジに親愛の想いを伝えるのに、シンジの首筋に鼻先を埋めたり、こすりつけたりすることがよくある。
 
 
 
 (猫……みたいだな)
 
 シンジは、微笑んで、そう思った。
 
 
 
 レイと一緒にいると、レイを守りたい……という想いが、ゆっくりと体中に染み込むように、わきあがってくる。
 
 誰よりも愛しい少女。
 
 そして、彼女がまた……以前は決して見せることのなかった「感情」に溢れているのを見ると、嬉しさでたまらなくなる。
 
 
 
 守りたい。
 
 こんな……宝石のような、少女を。
 
 手折らせるような真似は、絶対に認められない。
 
 
 
 シンジは、そっとレイの手のひらに、自分の手を置いた。
 
 レイは、驚くこともなく……自然に、その指に自分の指を絡ませる。
 
 
 
 そうしているだけで、幸せだった。
 
 暖かい想いに、体中が包まれていた。
 
 シンジが、そばにいてくれること……
 
 それが、レイの求める全てだった。
 
 
 
 碇君と、いつまでも、一緒にいたい。
 
 綾波と、いつまでも、一緒にいたい。
 
 
 
 それは、二人の間に結ばれた、確かな「絆」だった。



二百三十八



 夜。
 
 
 
 シンジは、コンフォート17マンションの一室にいた。
 
 ちなみに、ミサトの家でも、レイの家でも、アスカの家でも、ない。
 
 
 
 「……このマンションにも、隠れ家があったんですか」
 
 シンジは、ソファーに座って、あたりを見回した。
 
 
 
 「も、って言うと語弊があるな。普段使ってるのは、せいぜい3〜4箇所ってところさ」
 
 シンジの言葉に、肩を竦めて応えたのは、加持リョウジである。
 
 
 
 そこは、シンジたちの住む同じ棟の、三階ほど下に降りたフロアの一室だった。
 
 間取りは、葛城邸の鏡造り……レイやアスカの家と同じ造りだ(部屋番号の偶数奇数で互い違いの鏡造りになっているようだ)。
 
 ソファや机、ベッドなどの最低限の調度品はあるが、それ以上には生活の匂いはない。
 
 
 
 「時々、ここにいることもあるんですか?」
 
 「まぁ、な」
 
 「……知らなかったなぁ……同じマンションに、加持さんがいたなんて……」
 
 しみじみと呟くシンジに、加持は笑ってみせる。
 
 「まぁ、なんて言うか……楽なんだよな、いろいろと」
 
 「らく?」
 
 シンジが、不思議そうな表情を見せる。
 
 
 
 「ああ……葛城や、君たちがいるだろう? このマンション」
 
 「ええ……まぁ……」
 
 「警戒体勢はばっちりてことさ。知ってるか? こんなオンボロだがね、そこかしこにカメラやらマイクやら仕込んであって、不届きな輩はちょっと、近寄れない」
 
 「……へぇ……知らなかった」
 
 シンジは、感嘆したように間抜けな声を上げた。
 
 
 
 そして、ふと、気付く。
 
 
 
 葛城邸で……特にレイと二人きりのときなど、ちょっと人に見せるには赤面ものの行動を取ることが、多々ある。
 
 あれも……まさか……全部記録されているのか……?
 
 
 
 と、茫然としているところに、加持が面白そうに声をかけた。
 
 「一言、断っておくが……葛城や、レイちゃんや、アスカの家の中そのものは無法地帯だよ」
 
 「え?」
 
 「葛城が、おとなしくほっとくワケなんだろ?」
 
 
 
 言われてみれば、その通りだ。
 
 
 
 「もちろん、ここもな」
 
 加持が、軽くあごをしゃくって言う。
 
 シンジは、その言葉に……ずっと、くすぶっていた疑問をぶつけた。
 
 「あの……でも……まずいんじゃないですか」
 
 「何がだい?」
 
 「いや……その……加持さん、いろいろ……やってるでしょう。ここに出入りするときとか……記録が残るのは」
 
 「ん……」
 
 加持が、前髪をかきあげる。
 
 
 
 同じことは、今日、この場でも言える。
 
 シンジがこの部屋に来た記録は、できれば残したくなかった。
 
 
 
 「そんな顔するなよ、シンジくん」
 
 楽しそうに、加持は笑った。
 
 シンジは、言われて思わず自分の顔をなでる。
 
 加持は、ソファーに座ったまま、わずかに上体を乗り出して、斜めにシンジを見る。
 
 「心配は分かるが、問題はないさ。いいかい? ここは、NERVの関係者の中でも、トップクラスの重要人物が4人も暮らすマンションだ。当然、厳しい監視がついてる。警戒体勢も、万全だ。
 
 だが…それが、そうでもないのさ」
 
 「……?」
 
 加持の言葉に、シンジは怪訝な表情を見せる。
 
 加持は、いたずらっぽく……わざと、声を潜めてみせた。
 
 「当然の話だが……NERVとしちゃぁ、鉄壁の布陣だと思ってるだろう。つまり、この警戒網をくぐれる人間なんて、いないってね……それはつまり、超えることが出来る人間のことなんか、考えてないんだ」
 
 「……あ」
 
 シンジは、一瞬のタイムラグのあと……加持の言う意味を理解して、目を見開いた。
 
 
 
 加持の言うことは具体的ではないが(もちろん、わざとだろう)、意味は漠然とわかる。
 
 NERVの警戒網に掛からずに侵入することさえできれば、あとは……むしろ、NERVに護られているかのごとく、その恩恵にあずかれるのだ。
 
 
 
 しかし、シンジは慌てたように、気付いた懸念を口にした。
 
 「で……でも、その……じゃぁ、どうやって最初の壁を超えるんですか?」
 
 それが限りなく難しいからこそ、そういう状態が起こりうるのだ。
 
 「それは、企業秘密」
 
 しかし加持は、その点についてははぐらかした。
 
 
 
 会話が、途切れる。
 
 
 
 「……それよりも」
 
 加持が、ふっと視線を動かして、呟く。
 
 「……俺に、話があるんだろ?」
 
 
 
 そう……
 
 今、加持とシンジが会っているのは、シンジがそれを求めたからだ。
 
 散々悩んだが、他にどうすることも出来ず……盗聴されていることを覚悟で、加持に電話をかけたのだった。
 
 もちろん、「会いたい」とは言えなかった。盗聴されている以上、それを口にしては意味がない。例え会っているその時に監視の目を欺けたとしても、結果的に加持と会っていた事実は確定してしまう。
 
 うまい手を思いつかないまま、結局……半ば、加持の機転に期待して、電話をかけたのだ。
 
 
 
 加持は、電話に出ると同時に、「電波の状態が悪い」と、マンションから出るように伝えて電話を切った。シンジがエレベーターに乗ると、押していない階で扉が開いた。降りたところで目の前の扉が開いたので、思わず中に入ったのだ。
 
 
 
 それが、ここだ。
 
 
 
 深く追求するのは、意味が無かった。予想できることは、MAGIの管理下にあるはずのこのマンションのネットワークを、同時に、裏で加持が握っているのだろうということだけだ……もちろん、手段はさっぱりわからないが。
 
 
 
 話を戻そう。
 
 
 
 加持に問われたシンジは、静かに頷いて、口を開いた。
 
 「すいません……他に、方法が思いつかなくて……お力を借りるしか、なかったんです」
 
 シンジの言葉に、加持は軽く肩を竦めてみせた。
 
 「構わないさ……力になれるならね。
 
 前にも言っただろう? 何でも一人でやろうとするのは、間違いだ」
 
 「………」
 
 シンジは、軽く頭を下げるにとどまり、返事はしなかった。
 
 別に、すべてを語るとかそういうことではない。ムシのいい、一方的なお願いをするだけだ。
 
 
 
 だが、ムシがいいと知りつつも……あえてシンジは切り出した。
 
 
 
 「加持さん」
 
 「ん?」
 
 「……明日の実験で使う、疑似プラグのうち、2機を使用不可能にできませんか」
 
 
 
 つまり、これがシンジの、苦肉の策、だった。
 
 
 
 これが一時的な回避策にしかならないことはわかる。
 
 だが、とにかく、何もしないわけにはいかないのだ。
 
 トリガーが「時限式」であれば、訓練に遅れることで、よし。
 
 「レイ」がトリガーであっても、レイとアスカが実験に参加しなければ、当座の危機は避けられる。
 
 
 
 タンパク壁の腐食は、実験前から始まっていた。それは時間的にも実験に前後して発見されるはずで……そうなれば、タンパク壁は削除・処分されるだろう。
 
 使徒の殲滅にはなるまい。だが、とりあえずプリブノーボックスから除去されれば、レイやアスカの直接の危険はなくなる。
 
 
 
 とにかく、「明日」、レイとアスカの実験を回避できればよい。
 
 三人全員が参加できない事態になると、リツコが意地でも修理して、数時間の誤差で再開となる可能性もある。
 
 だが、とにかくシンジだけでも実験できるとなれば、まずはそれで済ませて残りは翌日以降となるのではないか……というのが、シンジの読みだった。
 
 「2機」という数字の根拠は、そこだ。
 
 
 
 シンジには、使徒の殲滅はできない。どうやって殲滅したのか、何が起こったのかも、殆ど何も覚えていない。
 
 そこは、NERVまかせ……もっと言えば、リツコまかせだ。
 
 自分に出来ることは、レイとアスカを危険から遠ざけること。
 
 そのためにできる、手段のすべてが、これだったのだ。
 
 
 
 加持は、少しだけ眉をあげた。
 
 「……理由は、聞けないのかな」
 
 「………」
 
 「……ま、しかたないか」
 
 黙るシンジに、加持は肩を竦めて応えると、立ちあがった。
 
 シンジは、顔を上げて加持を見た。
 
 加持は、全然違う方を眺めながら、緊張感の無い表情であごをなでる。
 
 「しかし、ま……簡単じゃないな。さて……どうやるか」
 
 「すいません……」
 
 「いや」
 
 加持は、視線だけシンジに向けると、眉を下げて笑う。
 
 「結構、楽しんでるよ」
 
 
 
 シンジは、何も言わず……静かに、ゆっくりと、加持に頭を下げた。
 
 
 
 とにかく……
 
 万全には遠いが、できることは、すべてやった、と、シンジは思う。
 
 何か不測の事態が起こらない限り、誰も危険に晒されないだろう。もちろん、使徒の発現自体は起こってしまうだろうし、リツコの活躍におんぶだっこではある。
 
 だが、自分に救える範囲の人間は……つまり、レイ、アスカ、そして自分自身は、直接の危険からは遠ざけたはずだ。
 
 使徒が何をするかが記憶になく、殲滅の方法も分からない現在のシンジに出来る手は、すべて尽くした、と、シンジはゆっくりまぶたを閉じて、思う。
 
 
 
 実は、シンジはひとつ、思い違いをしている。
 
 だが、今のシンジにそれは、わからない。