第五十二話 「思い出」
二百二十九



 予定外の悪天候がもたらした一夜は、何事もなく終焉を迎えた。
 
 
 
 卓球室で熟睡体勢に入ってしまったトウジは、シンジがムリヤリ叩き起こして、自室に引きずって戻っていった。
 
 膝枕という、今までにない接触をしてしまったヒカリの方はと言えば、逆に完全に固まってしまい、これまたアスカが部屋まで引きずって行かなくてはならなかった。
 
 幸か不幸か、トウジはこの時のことを、ほとんど全く覚えていない。おかげで、知らぬは本人ばかりなり、という状況になっている。
 
 
 
 その晩、夜中にシンジの部屋に移動しようとしたレイをヒカリとアスカが何とかくいとめ、何事もなく朝を迎えるに至ったのであった。
 
 
 
 「くあ……」
 
 トウジが、欠伸をしながら起き上がった。
 
 いつもいつも、ミドリに叩き起こされているトウジとしては、自力で目覚めたのは僥倖と言える。
 
 おそらく、昨晩、珍しく12時をまわる前に眠りに落ちてしまっていたためであろう。
 
 
 
 シンジは、まだ寝ていた。
 
 これも、珍しいことだ。
 
 昨夜、異常に神経を消耗する出来事があった上に、延々と運動した結果、疲労が溜ってしまったのかも知れない。
 
 
 
 瞼をこすりながら部屋の中を見回したトウジは、ふと、扉の辺りに誰か座っているのに気付く。
 
 「ん……?」
 
 綾波か? と、思わず考えてしまうあたり、もはやレイの行動はお見通しだ。
 
 しかし、よく考えてみれば、レイであれば、部屋まで入ってきておきながら入り口で座っていることなどあるまい。
 
 
 
 「……トウジィ〜」
 
 その人影は、地に響くような声音で、くらぁ〜く、呟いた。
 
 
 
 「……うっ」
 
 人影の正体が分かり、トウジは、思わず呻いた。
 
 ……それは、ケンスケだ。
 
 「……トウジィ……昨夜は楽しかったかぁ〜……?」
 
 何故か扉の付近だけ、暗く淀んだ空気の中で……ケンスケの眼鏡だけが、妖しい光をたたえている。
 
 
 
 「よ……よぉ、ケンスケ。目ェ覚めたンか?」
 
 トウジは、努めて明るく声をかけた。眠気はすっとんでいる。
 
 ケンスケは、微動だにせずに、言葉を続けた。
 
 「おかげさまでな……とっても早く眠ったから、4時には目が覚めたよ」
 
 現在、7時だ。じゃぁ、この演出のためだけに、わざわざ3時間も待っていたのか……と思うと、結構余裕があるような気がする。
 
 
 
 「ワ……ワシを恨むンなら、お門違いっちゅうもんやで。どうせまた、ケンスケが惣流に下らんこと言いよったんやろ?」
 
 「……下らんこと……?」
 
 気圧されつつも、おずおずと反論するトウジに、ケンスケが、低い声で応えた。
 
 
 
 「……確かに……下らんことかも知れないな……」
 
 「せ……せやったら」
 
 「でもなぁ……トウジには下らんことでも……俺にとっては譲れない大事な事なんだよォ〜」
 
 
 
 涙を湛えて訴えるケンスケの言葉に、トウジの反論の矛は、ポキッと折れて萎えてしまった。
 
 (確かに……ワシには、ケンスケの趣味はようわからん。せやけど……だからっちゅうて、ワシにケンスケの趣味を否定する権利なんぞ、ないんかも知れんな……)
 
 などと、思わず考えてしまう。
 
 
 
 だが……実際には、否定する権利、おおアリである。
 
 何故なら、本当なら昨晩ケンスケの毒牙に掛かるのはトウジだったハズなのだ。
 
 そのあたりを言葉に含ませずに、心底悔しそうな声を出してみせるあたり、ケンスケも策士と言うよりない。
 
 
 
 「トウジ……」
 
 「な……なんや?」
 
 反論の意気が消沈したトウジに、ケンスケが声をかけ…トウジは、思わず気弱な声で応える。
 
 
 
 「協力……してもらうぜ」
 
 
 
 ……かくして、シンジは目覚めることなく……色々と寝顔やらお茶目なポーズやらを撮られてしまったのであった。
 
 (許せ……シンジ。ワシも、自分がかわいいんじゃぁ〜)
 
 ……と、涙を堪えるトウジである。
 
 
 
 ……と、言うか……それほどのことか?
 
 
 
 それに……考えてみれば、シンジの寝顔が撮りたければ、3時間も待っている間に幾らでも撮れたはずである。
 
 単に、ケンスケはこの演出をやりたかっただけなんじゃないかとも思ってしまう。



二百三十



 結局のところ、ケンスケがほとんど怒りを露にしなかったのは……それなりに大人な配慮と、シンジの寝顔だけで充分に潤おう懐のおかげだろう。
 
 実際には、ケンスケが眠っている間に面白いシャッターチャンスが数多くあったのだが、それは、ケンスケは知らないのだからしょうがない。
 
 本当は、一番欲しかったのはアスカとレイの寝顔だったのだが、さすがに女子の部屋は鍵がかかっていて入れなかったので、諦めざるを得なかった。



 シンジが目を覚ましたところでケンスケがお約束の恨みごとを述べた後、再び私服に着替えて荷物の片付けをする。
 
 朝食を食べたら、そのままチェックアウトになる。
 
 「そろそろメシの時間やな……ワシ、腹へってたまらんわ」
 
 トウジが情けない声で呟き、そうだな……と、時間を確認して三人は部屋を出た。
 
 
 
 廊下に出て鍵をかけていると、ちょうど、女性陣も並んで部屋を出てきた。
 
 「おはよう、碇君」
 
 にっこりと微笑んで、レイはシンジに言葉をかけた。
 
 「おはよう、綾波、みんな」
 
 シンジも応える。
 
 
 
 ケンスケは、そんなレイの微笑みを、ここぞとばかりに撮りまくる。
 
 「おまえも懲りんのぉ……」
 
 「なに言ってんだよ……昨日まるまるムダにしてんだからな……ここからは、1秒だって気が抜けないよ」
 
 トウジのあきれた声に、ケンスケはシャッターを切りながら、よくわからない理論で応える。
 
 
 
 「あら、起きたのね」
 
 アスカが、ケンスケのことを見て、じろっと睨む。
 
 「おお、その表情もいいねぇ」
 
 ケンスケは、ファインダーをビタッとアスカに合わせて、続けざまにシャッターを切った。
 
 「ホンッ……トに、懲りないわねぇ」
 
 アスカは、こめかみをぴくぴくさせて、袖をまくる。
 
 ケンスケは、デジカメから目を外して、慌てたように抗議した。
 
 「い、いいだろ別に! 正々堂々、真正面から撮ってんだから!」
 
 「あんたねぇ……正面から撮りゃいいってもんじゃないでしょうが! せめて、最初に断りなさいよねッ」
 
 「断ったらダメって言うに決まってるじゃないか」
 
 「分かってんなら撮るなぁッ!!」
 
 
 
 シンジ、トウジ、ヒカリの三人は、そんなやり取りを、ただ茫然と見つめていた。
 
 何度凝らしめられようとも、ものともせずに……自らの求める道のためには妥協を許さぬ芸術家魂(と、言えばまぁ、聞こえはいい)。
 
 「……いやぁ……尊敬するで、ケンスケ……」
 
 トウジが、ボソッと呟く。
 
 シンジとヒカリは、ただ、黙って頷いていた。
 
 
 
 そして、相変わらずレイは何のことやらよく分かっていなかった……。



二百三十一



 朝食を終えた三人は、荷物を持ってホテルをチェックアウトした。

 
 
 外に出ると、昨日の悪天候が嘘のように空は広く晴れ渡り、まるで吸い込まれそうな錯覚を覚える。
 
 「わぁっ……やっぱり、こうでなくっちゃ!」
 
 アスカが、嬉しそうに叫んで、とんとんとん、と道を前に走って、くるり、と一回転してみせた。
 
 茶色く長い髪が、柔らかくアスカの周りに広がり、光を振りまく。
 
 
 
 「へぇ……」
 
 シンジは、微笑んで、わずかに声を漏らした。
 
 アスカにしては、珍しい感情の発散だと思ったのだ。
 
 今の一瞬、アスカは、素直でかわいい14歳の少女だった。
 
 もちろん、ケンスケのシャッターはそんなチャンスを逃さない。
 
 
 
 とにかく、雲一つない素晴らしい天気だった。
 
 午後になってから家を出た昨日と違い、時間が早いので気温も暑苦しいというほどではなく、過ごしやすい。
 
 
 
 「なに、グズグズ歩いてんのよ! 今日は二日分泳ぐんだから、さっさと着替えてじゃんじゃん泳ぐわよ!」
 
 アスカは、一行を怒鳴りながらも、嬉しそうに笑っている。
 
 本当に、うずうずしているに違いなかった。
 
 レイは、相変わらず、シンジの腕にしっかりとしがみついている。
 
 ヒカリとトウジは、お喋りしながら歩いている。本人たちは気付いていないが、これも端から見れば、ラブラブフィールドの展開中である。
 
 
 
 一歩後ろを歩くケンスケは、そんな一行の情景を、フィルムに収めていた。
 
 こんなシーン、売上には結び付かない。だが、今日に限らず……ケンスケは、数多くのベストショットの合間にこうした日常のひとこまを撮影しつづけてきた。

 私利私欲とはまた別の次元の、ケンスケの大事な仕事だった。
 
 
 
 海水浴場に到着して、一行はそれぞれ更衣室に入った。
 
 もともと、男は着替えに時間がかからない。瞬く間に、三人は水着に着替えて浜に繰り出した。
 
 
 
 「やっぱ、時間が早いんやな。まだ人がおらへんわ」
 
 トウジが腰に手を当てて周りを見回す。
 
 まだほとんど人影のない浜は、しかし、すでにカリカリに熱した日差しが世界を白と青の二色にわけ、その手前にゆらめく分厚いカーテンを形成しつつある。
 
 
 
 この時代、人は、さほど海という場所にレジャー性を見出しにくくなっていた。
 
 倒壊するビル群や荒れた地形などの物理的要因もさることながら、海を敬遠する理由のその多くは、心理的なものである。
 
 シンジたちのような若い世代はともかく、セカンドインパクトを経験したものたちの多くは、海に忌まわしいものを抱いてしまう感覚がある。
 
 あの瞬間、地震や落雷、嵐、熱射光などの数多くの災厄が人々を襲ったが、もっとも人間界に打撃をもたらしたのは海だったのだ。
 
 
 
 荒れ狂う海。
 
 その巨大なあぎとは、人々に逃げる暇さえ与えなかった。
 
 
 
 一瞬にして、肉親や愛する人、あるいは友人たちを飲み込んでしまった海。
 
 それに気軽に近付くのは、躊躇われた。
 
 しかも、ここ数ヶ月にわたり、突然この世界にやってくるようになった「謎の怪物」……そのほとんどが海からやってきているという事実は、一般の国民にも広く知れ渡っていた。
 
 
 
 海に近付くことの恐ろしさ。
 
 
 
 それが、「海水浴」というレジャーを急速に廃れさせていた。
 
 
 
 シンジやレイ、アスカには、もちろんこういう類いの心理は存在しない。
 
 当の「謎の怪物」と肉弾戦を繰り広げる立場にあるものが、それを連想するというだけで恐れを抱く必要などあるだろうか?
 
 
 
 そして、トウジ、ケンスケ、ヒカリにとっても、それは近い感覚として理解できた。
 
 シンジたちと「親友」という関係である彼らも、同じく、そのような曖昧な理由で海に恐れを抱いたりはしない。
 
 
 
 「ぼーっとしてないで、パラソル立てるの手伝ってよ」
 
 シンジが、荷物を固めながら不満を漏らす。
 
 トウジが、気付いて頭を掻いてみせた。
 
 そして、海に向かってシャッターを切るケンスケに声をかける。
 
 「ケンスケ、おまえも手伝わんかい。風景なんぞ撮ってもしゃあないやろ」
 
 
 
 「何を言う!」
 
 
 
 突然、バッとケンスケが向き直って叫んだ。
 
 あっけにとられるふたり。
 
 ケンスケは、両腕を左右に広げて、声を高めた。
 
 「俺は、無駄なものは撮らないんだよ!」
 
 ケンスケの言葉に、トウジが怪訝な表情を見せる。
 
 「あ……ああ、せやから、こんなモン撮っても……」
 
 言いかけたトウジの言葉を、ケンスケが大きな声でぶっちぎった。
 
 
 
 「わからないのか、この風景の素晴らしさを!」
 
 
 
 熱弁を振るうケンスケに、最初、ぽかんとした表情で見ていたトウジとシンジは、少し赤くなって頭を掻く。
 
 「ス……スマン、ケンスケ。つまらんこと言ってしもうて……」
 
 「だろォ!? この風景をバックにだなぁ、前に撮った様々なポートレイトを合成して、一気に海に遊びに来たショット、てのを演出……」
 
 「お、パラソル、傾いとるんやないか?」
 
 「そうだね、そっち押さえといてよ」
 
 「話を聞けよッ!!」
 
 
 
 ……などという下らない話をしているうちに、女性陣が着替えを終えて、三人のところにやってきた。
 
 
 
 先頭を歩くアスカを見て、シンジは驚いたように目を見張る。
 
 「ア……アスカ? き、昨日と違う水着……なんだね」
 
 トウジとケンスケも、少し驚いているようだ。
 
 レイは平静だが、ヒカリは半ば苦笑ぎみだ。
 
 
 
 アスカは、真っ赤な地に白いペンキをぶちまけたようなデザインのワンピースを着込んでいた。
 
 背中が大胆に開いて、扇情的なラインを浮き彫りにする。
 
 
 
 アスカは、得意気に茶色の髪を日光の下に振りまいた。
 
 「あったりまえじゃない、二日連続で同じ水着なんて、ダサいわよ!」

 最初は、泊りという計画ではなかったはずだ……と、改めてシンジは思って苦笑する。
 
 やはり、アスカは初めから泊りで来るつもりだったのだ。
 
 用意周到……と言うか、何と言うか。


 
 「……なんて、素晴らしい心掛けなんだ!」
 
 ケンスケは感動の涙を流しながら、アスカの周りを走りまわってシャッターを切る。
 
 普段ならそのまま張り倒すアスカだが、さすがにカメラマンばりの誉めまくりに、決して悪い気はしていないらしく、無意識にカメラ映りのいいポーズなどを取ってしまっている。
 
 
 
 溜め息をついて視線を外すと、シンジはレイの方に目を向けた。
 
 
 
 もちろん、レイの水着は昨日と変わらぬ黒いワンピースだ。着替えも持ってきていないような状態で、替えの水着を用意しているはずがない。
 
 レイは、いつの間にかシンジのすぐ後ろに移動していた。
 
 見つめる視線が恥ずかしくて、シンジは、わざわざ曖昧に笑いながら口を開いた。
 
 「あ……あの、さ。綾波って、海水浴、来たことある?」
 
 「………」
 
 ふるふる、と首を振るレイ。
 
 もちろん、海が初めてな訳ではない。遊びとして、海を訪れたことがないのだ。
 
 
 
 「海に来て……泳ぐこと。それが、海水浴……」
 
 「う、うん、そうなんだけど……別に、泳ぐばかりが目的じゃないよ」
 
 「?」
 
 レイは、首を傾げる。
 
 「ほら、なんて言うの……泳ぎたければNERVのプールでいいじゃない。今日は遊びなんだから、日光浴とか……砂遊びもいいよね」
 
 怪訝な表情をして見せるレイ。
 
 シンジは、そのまま話を続ける。
 
 「砂浜に寝転がって、体に砂かけて埋めるんだ。意味ないけど、楽しいよ。ああ、スイカ割りっていうのもあるね。綾波は方向感覚がいいから、けっこういい成績が取れると思うよ」
 
 「………」
 
 「くまでみたいな、なんて言うのかな、あれ? そういうので砂を掘り返すとね、貝が取れるよ。宝探しみたいな感覚かな。ビーチバレーも楽しいよ! 砂に足を取られて、思ったよりてこずるんだよね、これが」
 
 「………」
 
 「水際から穴を掘ってさ、こう、水路みたいに水を通すんだ。砂を固めて建物とかつくってさ。結構、砂って言っても侮れなくてさ、うまい人が作ると見惚れちゃうんだよね。潮が満ちたら壊れちゃうけど、ちょっと哀しいけどそれもいいよね」
 
 「………」
 
 「海の家で食べる焼きソバとか、カレーとかもいいよ! はっきり言うと、味のほうはどうかと思う気もするけど、海水浴に来て食べるカレーが、なんだか楽しいんだよね。こういうのは、綾波にはまだわからないかな……。ああ、でも、このあたりって、海の家とかないんだねぇ」
 
 「……碇君」
 
 「な……なに?」
 
 
 
 微妙にひきつった笑いを浮かべるシンジの腕を、レイは、両手でそっと握り締める。
 
 じっと、シンジの黒い瞳を見つめる、レイの紅い瞳。
 
 
 
 レイは、ゆっくりと、言葉を紡ぎ出す。
 
 
 
 「碇君……」
 
 「……な……なに……?」
 
 「……教えて……あげる、から……」
 
 
 
 かくして……
 
 
 
 碇シンジ・カナヅチ脱出計画が敢行されたのであった。
 
 
 
二百三十二



 一瞬、抵抗のそぶりを試みたシンジだったが、割合あっさりとあきらめて、教師・綾波レイに頭を下げた。
 
 
 
 横で顛末を眺めていたトウジは、自分の顎を撫でて溜め息をついた。
 
 「なんや……シンジ……泳げんのか。なんちゅうか……そら、意外やなぁ」
 
 「うん……そういうこと、いかにも平気そうなのに」
 
 横に立つヒカリも、少しだけ驚いたような風情で、トウジの意見に賛同を示した。
 
 ケンスケは、防水仕様のデジカメを構えて、目をらんらんと輝かせている。
 
 一見、何事をもそつなくこなす印象のある、シンジ。そのシンジの少し抜けた姿などは、逆に女子生徒たちに素晴らしいアピールを見せるだろう。
 
 
 
 シンジ自身、はたから見て「泳げない自分」に違和感があることは承知していた。
 
 だが、泳げないものは泳げないのだから、仕方がない。
 
 
 
 「碇君……じゃぁ、こっちに来て」
 
 レイは、シンジの腕を柔らかく引くと、先に立って波打ち際に足を踏みいれた。シンジも、その後に続く。
 
 
 
 シンジとしても、泳げるようになれるのならば、それに越したことはない、と思っている。
 
 もちろん、必要性は感じない。
 
 人間は泳げなくても死なないし……泳げる必要などない、とも思う。
 
 
 
 だが、さすがに中学生にもなって泳げないのも、どうも……という、気の引けるような思いはある。
 
 それに、レイがせっかく教えてくれるというのだ。
 
 それを無下に断る理由など、ない。
 
 
 
 それに。
 
 シンジ自身は自覚していないが……泳ぎを覚えよう、ということにさほど抵抗がないのは、実は、シンジ自身の変化にも関係していた。
 
 
 
 前回の人生では……シンジは、泳げないということ以前に、水に入ることそのものに、恐怖を抱いていた。
 
 だが、今回は、それがない。
 
 先日のプールでも、泳がなかっただけで水には入っていたし……水面に浮かんでみせるなど、水を恐れる人間の取れる行動ではない。
 
 
 
 その違いの理由は、判然としない。
 
 
 
 だが、浮いていることができるような人間が、泳げないはずがない。
 
 やりさえすれば、できるのだ。
 
 
 
 腰のあたりに水面が来るような深さまで、レイはシンジを連れていった。
 
 そこで立ちどまり、くるりとシンジの方に向き直る。
 
 「さぁ……練習、しましょう」
 
 「そ、そうだね……」
 
 レイの言葉に、ぎこちなく笑い返すシンジ。
 
 
 
 ……しかし、その先が進まない。
 
 
 
 二人とも、ぼけっと立ったまま、向かいあってお互いの顔を見ている。
 
 そのまま……時間だけが過ぎる。
 
 
 
 浜に立って、遠目で二人の様子を眺めていたトウジは、眉をひそめて、腕を組む。
 
 「……なにしとんのや、アイツら?」
 
 
 
 二人とも、言葉を発しないまま、じぃっと相手を見つめ続ける。
 
 やがて……
 
 数分が経過したところで、レイが、わずかに首を傾げた。
 
 
 
 「……碇君」
 
 「……なに?」
 
 「……どうしたの?」
 
 「ど……どうしたのって……何が?」
 
 
 
 レイは、不思議そうな瞳で、シンジを見る。
 
 「……泳いで……碇君」
 
 
 
 シンジは、思わず海の中に倒れ込みそうになるのを、必死にふんばって抑えていた。
 
 レイは、首を傾げたまま、シンジを見ている。
 
 「お……泳いでって……」
 
 苦笑ぎみに、軽い驚きを含んだような口調で、シンジが言う。
 
 「……泳がないと……泳げるように、ならないわ」
 
 「……泳げないから……綾波に、教えて欲しいんだけど……」
 
 「………」
 
 シンジの言葉に、レイは、じっとシンジを見る。
 
 
 
 そのまま、数瞬……。
 
 
 
 ……変わらぬレイの表情の向こうに、変化が現れた。
 
 見つめる瞳に、感情が走る。
 
 そのまま……シンジが見ていると、みるみるうちに、レイの顔が真っ赤に染まっていく。
 
 
 
 慌てたように、レイの視線が泳ぎ……そして、バッと顔を伏せて俯いてしまった。
 
 
 
 「……ご……ご、ごめん、な……さい……」
 
 消え入るような声で、レイが呟く。
 
 シンジは、驚いてばしゃばしゃと近寄ると、そんなレイの頭を抱き締めた。
 
 「い、いいよいいよ。綾波……気にしないで」
 
 耳許で、シンジが慌ててフォローする。
 
 レイは、抱き締めたシンジだけが分かるほどかすかに、こく、と頷く。
 
 
 
 浜で見ていた残り四人は、会話が聞こえないので、何が何だかさっぱりわけがわからない。
 
 なんで、泳ぎを教えに行った人間が、生徒に抱き締めてもらわなければならないのだ。
 
 トウジは、無言で呆れかえっていた。
 
 ヒカリは、なんとなくもじもじと頬が赤い。
 
 アスカは、半目で見ながら溜め息をつく。
 
 ケンスケは、撮影に余念がない。
 
 
 
 「ったく……暇さえあればイチャイチャしてんだから、あの二人はもォ……」
 
 アスカが、ボソッと不愛想に呟いた。
 
 
 
 レイを抱き締めるシンジは、じっとレイのことを考えていた。
 
 そう……レイは、人にものを教えるという経験が、ない。
 
 
 
 それは、考えるまでもなく、当然だ。
 
 シンジに出会う以前のレイは、大体にして、他人との接触の機会が著しく欠如していた。
 
 ミサトを初めとするNERVの職員とは、事務上・職務上のつきあいがあるに過ぎず、会話自体がほとんど成り立たなかっただろう。
 
 最も接触が多かったのはゲンドウとリツコだろうが、この二人にはレイが何かを教わることはあっても、レイから何かを教えることなどありえない。
 
 
 
 レイは、人にものを教える手順というものを、体で理解するほどには至っていないのだ。
 
 
 
 ここ数ヶ月にきて、シンジとの出会いがその環境を変えた。
 
 レイと一番激しく接触するシンジは、レイのパートナーであるのと同時に、レイの教師でもある。
 
 レイに欠如していた様々な常識感覚を、シンジが順番に諭している。
 
 また、シンジとの出会いが、レイの他の人々に対するつきあい方・向き合い方を変えた。
 
 それにより、ミサトやアスカ、ヒカリといった周囲の人間たちも、レイが成長して行くことに、手を差し伸べるようになったのである。
 
 
 
 だが、レイがこうして、様々なことを他人から教わるようになったのも、まだ彼女の人生の長さからすれば、ほんのわずかだ。
 
 彼女自身が人にものを教えること……それが無意識にできるほど、「ものの教え方」は身についていない。
 
 
 
 じっとレイの体を抱き締めていたシンジは、やがてゆっくりとレイを離した。
 
 レイは、少し赤い顔のまま、シンジを見ている。
 
 
 
 「……どうすればいいかな?」
 
 シンジは、少しだけ砕けた調子で、微笑んで肩を竦めてみせた。
 
 
 
 シンジが泳げない事実に変わりはない。
 
 いつもなら、レイが戸惑えば、「じゃぁ、こうすればいいんだよ」……と、シンジが教えてあげるところだろう。
 
 だが、何しろ、どうやって泳げるのか、知りたいのはシンジ自身。
 
 とにかく、誰かに教えてもらわなければ、どうにもならないのだ。
 
 
 
 「………」
 
 レイは、かすかに頬を赤くしたまま、困ったようにシンジを見る。
 
 「泳げるようになるには……どうしたらいいの」
 
 「う……うぅんと……どっちかと言うと、僕が教えて欲しいんだけど……」
 
 シンジも、曖昧に笑って頭を掻いてみせた。
 
 
 
 「あのさ……綾波も、最初から泳げたわけじゃないでしょ? 自分が泳げたときのやりかたを、教えてくれたらいいと思うんだけど」
 
 「……覚えてないわ……」
 
 「あ……そ、そう?」
 
 「……最初から、泳げたような気がする……」
 
 
 
 そう……
 
 
 
 シンジは気付いていないが……レイに、泳げなかった時代はない。
 
 
 
 一人目のレイは、確かに泳げなかった。と言っても、泳いだことがあるわけではない。しかし、恐らく一人目のレイがプールに連れて行かれたとしても、浮き輪は手放せないだろう。
 
 ……だが、二人目のレイは、違う。
 
 
 
 二人目のレイは、幼少の時代を、液体の中で過ごした。もちろん魂は一人目のレイにあったのだし、その頃の、二人目の体としての記憶はレイにはない。
 
 だが、脳の器官はすべて揃っているのだ。
 
 意識がなくとも、体が覚えている。
 
 
 
 レイが初めて泳いだのは、二人目のレイになってから、NERVのプールでのことだ。
 
 だがその時、レイは最初から泳げたのだ。
 
 だから、誰かに水泳を教わった記憶もないし、泳げずに苦労した記憶も、もちろんない。
 
 
 
 泳げないシンジの感覚が、レイにはよく理解することができないのだ。
 
 だから、水泳を教える、と言っても、どうしていいのかわからない。
 
 レイにとって、泳げる、ということは「当然」とも言えることなのである。
 
 
 
 ……とにかく、だからと言って……レイはシンジに泳ぎを教えることを、放棄したくはなかった。
 
 いつも、自分のために力を尽くしてくれるシンジが、初めて……全面的に自分を頼っている。
 
 何とかして、力になりたかった。
 
 
 
 どうするのか決めかねたまま……レイは、シンジの腕を取った。
 
 「あ……どうするの?」
 
 シンジが、レイに尋ねる。
 
 
 
 レイにだって、どうしてよいのか、よくわかっていなかった。
 
 こんなことなら、水泳の本でも読んでおくべきだった……と、激しく後悔する。
 
 とにかく……自分の知識を総動員して引きずり出したとき、ひとつ、レイの思考に引っ掛かる記憶があった。
 
 
 
 何の本を読んだのかは、あまり覚えていないのだが……その物語の中で、登場人物の一人が自転車の練習をするシーンがある。
 
 最初、補助の人間が自転車の後ろを押さえている。
 
 教わる人物は、「押さえてくれているから、倒れない」と、安心してペダルを漕ぐ。
 
 実は途中で補助の人間は手を離してしまうのだが、てっきり支えてもらっているものと信じている運転者は、いつのまにか平気で自転車を走らせている……。
 
 
 
 ……これと同じことを、できないだろうか?
 
 
 
 「碇君……水に、浮いてみて」
 
 レイが言う。
 
 シンジは、思わずレイの顔を見た。
 
 「浮いてみろって言っても……」
 
 「私が……支えてるから」
 
 言いながら、レイが微笑んだ。
 
 
 
 浮くこと自体は、出来ないわけではない。事実、NERVのプールでも、浮いてみせてはいた。
 
 だが……仰向けに浮くのとうつぶせに浮くのとでは、恐怖心が違う。
 
 
 
 しかし、レイが支えてくれるというのだから……と、シンジは、レイの顔を横目で見ながら、おずおずと腕を前に伸ばした。
 
 「じゃ、じゃあ……頼むよ」
 
 「うん」
 
 レイが頷き、シンジは意を決して地面を蹴った。
 
 
 
 ジャバッ
 
 
 
 シンジの体が、うつぶせに海に倒れ込み……そのまま勢いで沈み込む。
 
 レイは、すばやく腕を伸ばすと……シンジの体を、ぎゅっと抱き締めた。
 
 
 
 そして……
 
 そのまま、一緒に沈み込んでしまった。
 
 
 
 どばしゃぁぁぁんん!
 
 
 
 「あばっ、ごぼごぼ」
 
 「あっ……」
 
 
 
 「……いったい、何がしたいんや、あの二人は……」
 
 浜で眺めていたトウジが溜め息をついた。
 
 いつの間にか、残りの四人は泳ぐわけでもなく、碇シンジ水泳教室の顛末を見つづけるギャラリーと化している。
 
 
 
 水を飲みかけて、慌ててシンジは立ちあがった。
 
 レイも、シンジに抱きついたまま、涙目で立ちあがる。
 
 「うぅ……げほっ」
 
 「ご……ご、ごめんなさい……碇君……けほ」
 
 何が起こったのか、訳が分からなかった。
 
 
 
 レイの考え方自体は、間違っているわけではなかった。
 
 レイの考えたように補助してやるのであれば、うつぶせに浮いたところで、腹の下に腕を入れてやれば良かったのである。
 
 
 
 だが、レイは、まるで飛び込むように全身で支えに行ってしまった。
 
 シンジの体が思いきり沈もうとしているところに、全体重を預けてのダイビングキャッチ。
 
 二人して、水飛沫を上げてぶったおれてしまうのは、自明の理というものだ。
 
 
 
 「ご……ごめんなさい……」
 
 なおも軽くせき込みながら、レイは消え入るような声で呟く。
 
 シンジは、慌てて笑ってみせた。
 
 「げほっ……い、いや、いいよ。
 
 いいけど……何が、したかったの?」
 
 
 
 「……支えようと思って……」
 
 
 
 「ああ……な、なるほど」
 
 シンジが、腕を組む。
 
 「いや……だったらさ、こう、全身でがっしりと支えるんじゃなくて……浮いたところで、下から支えたらいいんじゃない?」
 
 「……下から?」
 
 「うん」
 
 「……わかったわ」
 
 応えて、レイはくるり、とシンジに背を向けた。
 
 怪訝な表情を見せるシンジ。
 
 レイは腰を落とすと、首だけねじってシンジを振り向く。
 
 「……乗って」
 
 「の……」
 
 
 
 説明するまでもなく……これはつまり、「おんぶ」だ。
 
 
 
 「……さぁ」
 
 レイが、続けて促す。
 
 
 
 「い……いや、それはちょっと……」
 
 シンジは、少しだけ頬を染めて言葉を濁した。
 
 レイは全然意に介していないようであるが……シンジは、決して浜で見守る友人たちの視線を忘れたわけではない。
 
 彼らの見ている前でレイにおんぶ……というのは、あまり格好のいいものではないだろう……。
 
 
 
 ……と、いうようなことを考えていたシンジであるが。
 
 
 
 「……なぜ?」
 
 レイが、静かに言葉を紡いだ。
 
 シンジが、レイを見る。
 
 レイは、うつむき加減に……だが、じっとシンジを見ている。
 
 
 
 「……碇君の……力に、なりたい」
 
 
 
 シンジは、茫然とレイを見ていた。
 
 何を考えていたのか……どうして?
 
 綾波は……泳げない僕のことを……手助けしようと、必死なんだ。
 
 なんにも、打算とか、見栄えとか、見返りとか……そんなもの、考えてない。
 
 
 
 僕は何を考えてる?
 
 
 
 僕のは、ただのわがままだ……。
 
 
 
 「……ごめん」
 
 シンジは、呟くように、口を開いた。
 
 そして、レイの肩に、そっと手を触れた。
 
 レイが、シンジを見る。
 
 シンジが、レイを見て、微笑んだ。
 
 
 
 「お願いします、綾波先生」
 
 
 
 レイは、キョトン……とした表情でシンジを見て……それから、瞳の奥を、わずかに和らげた。
 
 「……まかせて」
 
 レイの言葉にシンジは頷くと、レイの首に捉まり……全体重をレイに預けた。
 
 
 
 思いきり飛沫を上げて海に倒れる二人を見ながら、浜の一行は溜め息をついて肩を落とした。
 
 「まぁ……ああなるよな、やっぱり……」
 
 とりあえず望遠でシャッターを切りながら、ケンスケは、諦めたように呟くのだった。



二百三十三



 結局健闘むなしく、シンジは泳げるようにはならなかった。
 
 これは、シンジに水泳の才能がないとかではなく……教え方が悪かった、と、あえて表現しておくことにしよう。
 
 
 
 二回目のトライ……いわゆる「おんぶ戦法」の失敗は、早い話が「レイにはシンジの体重を支えきれなかった」という、そのことに尽きる。
 
 浮いているシンジを支える、というのなら何とかなっただろう。だが、上半身が完全に水の上に出ている状態で、シンジが体重を預けたら支えられるわけがない。
 
 
 
 帰りの段になって、さすがにレイは意気消沈していた。丸一日使って、結局シンジのためになれなかった……と思う。
 
 シンジに水泳の能力がない、などと、微塵にも思わない。……であれば、悪いのは教えていた自分なのだ。
 
 
 
 「綾波……」
 
 「………」
 
 「ご、ごめん……もっと頑張るから」
 
 「……ごめん、なさい……頑張るのは、私」
 
 「そ、そんなことは」
 
 「……頑張る……」
 
 「………」
 
 「………」
 
 
 
 そのまま、二人は黙ってしまった。
 
 
 
 無言のまま、夕焼けに染まる道を歩いていく二人を見て、後ろを歩いていたアスカは、「やれやれ」と溜め息をついた。
 
 そのまま、少し足を早めると、前を歩く二人に追いつく。
 
 
 
 無言で歩く二人の後頭部を、パンパンッ! と、景気良くひっぱたいた。
 
 「あたっ」
 
 「………」
 
 うっ、と思わず肩を竦めてから、二人は後ろに立つアスカの方を、恨みがましい視線で振り返った。
 
 
 
 「なぁによ。モンクある?」
 
 夕焼けを背負いながら、フン! という感じで腕を組み、仁王立ちで二人を見据えるアスカ。
 
 「なんかって……叩いといて、そりゃないよ」
 
 シンジが、ぶつぶつと抗議する。
 
 アスカは、目を瞑って息を吐きだした。
 
 「バッカね……アンタらが、辛気くさい顔して歩いてるからでしょ? 楽しい休日の思い出を、最後にくらぁくするこた、ないじゃない」
 
 「いや……そうかも知れないけど」
 
 「わかってないわねぇ」
 
 言いながら、今度は、両手でシンジとレイの背中を、バンッ! と叩いた。
 
 「げっ!」
 
 「………う」
 
 意表をつかれて、思わず咳き込む二人。
 
 
 
 抗議の視線を向ける、シンジとレイ。
 
 その二人の視線を真正面から受け止めて、アスカは踏ん反り返った。
 
 
 
 「いい? 教えてあげる。
 
 一日の思い出ってのはね、ラストで決まんのよ。
 
 楽しい気分で終われば、今日は一日楽しかったって思えんの。
 
 嫌な気分で終われば、今日一日が、台無し。
 
 どっちが得なの? そんなの、考えなくてもわかるでしょうが」
 
 
 
 アスカの言葉に、思わず声を失う二人。
 
 アスカは、チラ、と、シンジを見る。
 
 「……ま、シンジは、ここまで言ったらわかるでしょ」
 
 そして……ぐりん、と体を回転させると、レイの鼻先に顔面を突きだした。
 
 
 
 「ファースト、アンタ……今回の旅行、どうだったのよ? 楽しくなかった?」
 
 「………」
 
 急にアスカに問われて、思わず戸惑って視線を泳がせるレイ。
 
 アスカは、畳み掛ける。
 
 「昨晩はどうだったのよ? シンジに抱きついたでしょ?」
 
 「ちょ、ちょっとアスカ」
 
 話の持って行き方に、思わず口を挟むシンジ。
 
 
 
 だが、レイは一瞬にして頬を染めた。
 
 その変わりようは、説明の必要などないほどに、レイの気持ちを物語っている。
 
 
 
 「……楽しかった」
 
 小さな声で、レイが応える。
 
 
 
 「……じゃ、今日は?」
 
 アスカが、ゆっくりと尋ねる。
 
 「今日は……」
 
 レイが言い淀む。
 
 実際、脳裏に浮かぶのは、自分が失敗したイメージが色濃い。インパクトがあるだけに、それが強く存在を主張してしまうのだ。
 
 だが、アスカは、かすかに微笑むと……そっと、レイの耳元に口を近づけた。
 
 
 
 「バカねぇ。そういうのはね、考えようなのよ」
 
 「……?」
 
 「いい? 今日、教えきれなかったのは、残念だけどしょうがないわ。でもね、そしたら、またシンジと海に来れるでしょ? そうじゃなかったら、NERVのプールでいいじゃない。
 
 シンジが泳げるようになるまで、アンタが教えんのよ。それこそ、何度でも、ね」
 
 
 
 レイは、目を見開いて、アスカの顔を見ていた。
 
 シンジは、二人の間でどんな言葉が交わされたのか、わからない。
 
 アスカは、レイの顔を見て、かすかに目を細めた。
 
 
 
 「しっかりやりなさいよ」
 
 小さな声で囁くと、トン、とレイの背中を押した。
 
 
 
 アスカに押されて、レイは、ととっ……と、シンジの前まで歩み出る。
 
 「おっとと……」
 
 シンジが、レイの肩を支える。
 
 
 
 レイは、シンジの顔を見ると……
 
 しばし、逡巡して、やがて、口を開いた。
 
 
 
 「……碇君」
 
 「う、うん……なに?」
 
 
 
 「頑張るから……
 
 ……頑張りましょう」
 
 
 
 そう言って、ゆっくりと微笑んだレイの表情は、今日一番の笑顔だった。
 
 シンジは、魅入られたように、その柔らかな瞳を見つめていた。
 
 夕焼けの中で……レイは、くるりと回転すると、シンジの手を握り、そのままシンジ腕にしがみついた。
 
 慌てるシンジ……だが、レイは、そんなシンジの腕に頬を寄せると、ただ……黙って、幸せそうに瞼を閉じた。
 
 
 
 アスカは、そんな二人を、静かに……しかし、少しだけ複雑な表情で、見つめる。
 
 
 
 ヒカリは、そんなアスカを、じっと見つめていた。



二百三十四



 「……そうか、わかった。……いや、すまなかったな、ありがとう」
 
 
 
 NERV・総司令執務室。
 
 いつものポーズでデスクに肘をつくゲンドウの横で、冬月は、静かに受話器をアダプタに降ろした。
 
 かすかな電子音が、部屋の中に響き、闇に吸い込まれていく。
 
 
 
 「……碇。シンジくんは、泳げるようにならなかったそうだぞ」
 
 受話器を置いた姿勢のまま、冬月は、ゆっくりとゲンドウの背中を見る。
 
 ゲンドウは、動かない。
 
 
 
 「……そうか」
 
 
 
 ゲンドウは、ただ、それだけを応えるに留まった。
 
 そのまま、部屋の中に静寂が訪れる。
 
 
 
 冬月は、ゲンドウに聞こえないほど、かすかに……やれやれ、と溜め息をつくのであった。