第五十一話 「信じる」
二百二十三



 トウジとシンジは適当なところで風呂を切り上げ、脱衣所で浴衣に着替えた。
 
 「なんやシンジ、その恰好は」
 
 シンジの浴衣姿を見て、トウジが、不満そうな声をあげる。
 
 
 
 シンジは、言われて自分の身体を見回した。
 
 
 
 「……何か、おかしい?」
 
 よくわからない、という表情で顔をあげるシンジ。
 
 
 
 「アホか!」
 
 トウジは、ズカズカッと歩み寄ると、シンジの浴衣の胸元を掴み、ぐいっと横に広げる。
 
 「浴衣っちゅうもんはなぁ、こう、スパッと着てみせんかい!」
 
 そのまま、帯を持ってぐっと下げる。
 
 「ウエストやないんや! 男の浴衣は、腰骨で絞めんか!」
 
 「そ、そうなの?」
 
 「江戸っ子の常識やないか!」
 
 「だ、だから、トウジは江戸っ子でもなんでもないだろ〜」
 
 「じゃあ、浪速の魂ちゅうてもええで」
 
 
 
 実際のところ、鈴原家は、トウジが幼い頃に関西を離れているため、トウジ自身は江戸っ子でも浪速っ子でも全然ないのだが。
 
 ……だいたい、トウジも、実際に着こなしが分かったうえで喋っている訳ではない。
 
 けっこう、当てずっぽうの出任せだ。
 
 
 
 「まったく……もうちょい、キメてみせんとアカンで。ただでさえ、シンジは素材で得しとんのやから……プラマイゼロじゃ勿体無いやろ」
 
 トウジは、ふんぞりかえって鼻を鳴らす。
 
 「プラマイゼロ……って言われてもなぁ」
 
 思わず、苦笑するシンジ。
 
 様々な物事を、比較的客観的に捉えることのできるシンジだが……こと、自分の容姿についてだけは、何度こうして説明されてもピンと来ない。
 
 
 
 そのまま、脱衣所の扉を開けて廊下に出ると、ちょうど、女湯の脱衣所の扉が同時に開く。
 
 シンジが視線を向けると、そこにいたのは、浴衣姿のレイであった。
 
 
 
 毎度毎度毎度毎度のことで恐縮だが、シンジはまたしても目を奪われていた。
 
 浴衣姿のレイ、というもの自体は、サンダルフォン殲滅の際に浅間山の温泉で見たことがあり、決して、今日が初めてという訳ではない。
 
 だが、こうして……今、まさに風呂から上がってきたレイ、というものを見るのは久し振りのことだった。
 
 
 
 蒼いクセのある髪が、潤いを帯びて緩やかに畝を描く。
 
 白地に青の浴衣から、しなやかな腕と足が伸びている。
 
 リラックスしたのか、いつもよりも幾分柔らかな光をたたえた赤い瞳。
 
 白い肌は、朱が差してほんのりと色づく。
 
 袂からわずかに見える鎖骨の穏やかなライン。
 
 髪の毛の間から見えるうなじは、そっと抱き寄せたいほどに、華奢で繊細な印象を抱かせた。
 
 
 
 ……などと、シンジが考えている……と……
 
 
 
 「……碇君?」
 
 
 
 「……え?」
 
 
 
 レイの声に、我に帰るシンジ。
 
 
 
 見ると、目の前に、赤い瞳がふたつ、つぶらな眼差しでシンジを見つめている。
 
 その距離……ほんの1〜2センチ。
 
 「……え?」
 
 もう一度……シンジは呟いて、それから、自分の状況に初めて気が付いた。
 
 
 
 間抜けなことに、本当にシンジはレイを抱き寄せていた。
 
 無意識のうちに、身体が動いてしまったのだろうが……タイミングと相手を間違えばただの変態である。
 
 
 
 とは言っても、シンジが相手を間違えることなど、まず考えられないのだが。
 
 
 
 「……う……わぁっ!!」
 
 シンジは、自分が何をしているのかを理解して、ゆでダコのように全身の血液を沸騰させた。
 
 慌てて、レイの身体から離れ……ようとするのだが、レイがしっっっっっっかりと抱きついていて、離れない。
 
 
 
 「碇君……何故、離れるの?」
 
 レイが、シンジに抱きついたまま、視線を上げてシンジを見る。
 
 「な、な、な、なぜって、その、あのね」
 
 「せっかく……碇君から、抱き締めてくれたのに……」
 
 言いながら、レイはそっとシンジの胸板に頬を寄せる。
 
 「あ、いや、そのね! あ、あやなみ、はなはなはなれ」
 
 「……なぜ」
 
 「な、な、な、なぜって、その、あのね」
 
 シンジは、真っ赤になったまま、動転してしまってまるで要領を得ない。
 
 
 
 何より……シンジが、自分でレイを抱き寄せてしまったのである。
 
 シンジの方から抱き締めておいて、レイが抱き締め返したら離れてくれ、ではレイも納得がいかないだろう。
 
 
 
 指先まで真っ赤になって、彫刻のごとく固まるシンジと、骨の随まで安心し切って、シンジの胸板に頬を寄せるレイ。
 
 
 
 「……なにやっとんのや」
 
 二人から一歩離れたところに立ち……もはや呆れ顔で、ボリボリと頭を掻くトウジ。
 
 その横に、気付くと浴衣姿のヒカリが立っているのだが、トウジは全然、物腰が普段と変わらない。
 
 正直……ちょっと残念なヒカリであるが、こういうひとだから、トウジなのだ……とも思うヒカリ。
 
 こういうひとだから、好きなのだ。
 
 
 
 「レイさんてね……」
 
 ヒカリが、横に立つトウジに話し掛ける。
 
 トウジも、ヒカリを見る。
 
 「自分だけだと、うまく浴衣が着れないのよ。私が一緒にいたからよかったけど、一人でお風呂になんか入りに来たら、どんな恰好で出てくるかわからないわよ」
 
 楽しそうに、ヒカリは笑う。
 
 
 
 理由については、何も言わなかった。
 
 以前デパートで、シンジが「レイは制服以外着たことがない」と言っていたことを思い出す。
 
 深く考えると疑問の残る理由だが、何か人には軽々しく言えない事由が、裏にあることが想像される。
 
 だから、ヒカリは、そのこと自体には触れることはなかった。
 
 
 
 「シンジもやで、アイツ、浴衣着るのヘッタクソでのォ」
 
 トウジが、無愛想に言ってみせる。
 
 「へぇ、そうなんだ……なんとなく、浴衣、似合いそうな気がしたけど」
 
 「ああ、それ言うたら、シンジは大体、ナニ着ても似合うやろ……せやけど、着方が、こう……どぉ〜もカッコ悪いんや」
 
 「ふぅん……」
 
 ヒカリは、トウジから視線を外し……前で抱き合う(と言うか、レイが抱き締めている)二人を見る。
 
 
 
 レイの、安心した表情……。
 
 
 
 柔らかな瞳で……ヒカリは、くすっ……と微笑んだ。
 
 「……まぁ……似たもの夫婦、ってことなのかもね」
 
 「あん?」
 
 トウジが、横目でヒカリを見る。
 
 それから、シンジとレイを見る。
 
 
 
 「ああ……せやなぁ」
 
 トウジも、もう一度頭を掻きながら……やれやれ、という表情で苦笑してみせた。
 
 「どっちにしろ……コイツら、他の組み合わせなんて想像もできんワ。
 
 生まれた時から、決まっとった相手……ちゅうのがいるんなら、こ〜ゆ〜のを言うんかなぁ……」
 
 
 
 それは……と、ヒカリは、穏やかに思う。
 
 
 
 それは……私と……鈴原も、同じ。
 
 鈴原は、どう思ってるのかわからない……だけど……
 
 
 
 私は、そうだと信じてる。



二百二十四



 いつまでたってもやってこない面々に業を煮やしたアスカが浴場前までやってきて、抱きついて満面の微笑みを浮かべるレイを思いきりスリッパでひっぱたいて、ようやくシンジは再起動に成功した。
 
 何しろ、二人を隔てるものは……それぞれの浴衣、ただ一枚だけである。
 
 ヒカリやアスカは、間違いなく浴衣の下には下着を身に付けているだろうし……いや、袂から見える可能性を考慮してTシャツを着込んでいるかも知れないし、それが普通なのだが……。
 
 レイに思いきり抱き締められていたシンジには、ハッキリとわかった。
 
 レイは……上半身には何も身に着けていない。
 
 何故、そんな状態で風呂から出ることをヒカリが見逃したのかはよくわからないが……もしかすると、海辺で水着から私服に着替え直した時から、既にブラジャーをしていなかった可能性がある。
 
 だから、いざ脱衣所でヒカリが着させようにも、手許になくてどうにもならなかったのではないか。
 
 
 
 レイが、下着もつけずに、シンジに抱きついていることは……当然、ヒカリは気付いていたはずだった。
 
 だが、ヒカリはそのことについて何も言わなかった。
 
 シンジに対してであれば、まぁいいだろう、と思っているのかも知れない。
 
 
 
 抱き締められたシンジからすると、それどころの問題ではなかった。
 
 浴衣……しかも、ホテルで用意されている浴衣などというものは、総じて大した生地を使っていない。
 
 シンジの浴衣とレイの浴衣……わずかそれだけに隔てられた感触など、ないのとほとんど変わらないのだ。
 
 
 
 アスカに引き連れられて卓球室への廊下を歩きながら……シンジは、ちょっと気を緩めると思わず脳裏に現れる柔らかな感触に、必死に抵抗を試みていた。
 
 
 
 「さ、始めるわよ!」
 
 卓球室に着くと、早速アスカがラケットを構えて高らかに宣言した。
 
 待たされていただけに、十二分すぎるほどに気合いが篭っている。
 
 「さ! 誰が相手すんの!? シンジ? ファースト? 鈴原? ヒカリ?」
 
 瞳から燃え上がる炎が視覚的に確認できるんではないかというほどのオーラをまとって、臨戦体勢で腰を落とすアスカ。
 
 何気なくシンジが視線をアスカに送ると、Tシャツが浴衣の袂から見える。
 
 
 
 あ。
 
 
 
 シンジは、その事実に気付いて唖然とした。
 
 
 
 このまま、レイが卓球を始めたら……間違いなく、その、見えてしまう。
 
 ましてや、勝負が白熱してくれば、浴衣は乱れてしまうかも知れない。
 
 しかも……レイは、それを隠そうとか、そういうことに全く思い至らないに違いないのだ。
 
 
 
 「タ、タ、タンマ!」
 
 シンジが、慌てて右手を上げた。
 
 燃え上がるオーラの気勢を削がれた形になるアスカは、思わず脱力して抗議の声をあげる。
 
 「なによ、シンジ……グズグズしてないで、とっとと始めるわよ!」
 
 「ま、待った、その……ちょっと、待っててよ」
 
 「何でよッ!」
 
 「い、いや、その、何でって言うか……その」
 
 返答に困り、視線を泳がせるシンジ。
 
 
 
 さすがに、「レイがブラジャーをしていないから着に戻る」とは、この場ではシンジの口から言いにくい。
 
 しかし、当のレイ本人は、現在の自分の姿に、特に大きな違和感は抱いていないだろうから、それをレイの口から言わせるのは不可能だろう。
 
 
 
 ……と思っているところで、突然、ヒカリが口を開いた。
 
 「あ、そうか」
 
 そして、シンジを見る。
 
 シンジも、ヒカリを見た。
 
 ヒカリは、少し赤い顔をして、シンジに頷いてみせた。
 
 
 
 「何よ? ヒカリ」
 
 アスカが、不機嫌そうな表情でヒカリを見る。
 
 「うん、その……ここじゃちょっと」
 
 ヒカリは、歯切れ悪く言い、視線を一瞬、横に立つトウジに向ける。
 
 それを見て……アスカは、一瞬きょとんと目を開いて……そして、レイの方に視線を向けて……しばらく視線を固定してから、「ああ」と、小さく呟いた。
 
 トウジは、なんだかさっぱりわからない、という表情だ。
 
 
 
 「い……いいかな? ちょっと、行ってきても……」
 
 シンジが、おずおずと口を開く。
 
 「ハイハイ、とっとと行きなさいよ」
 
 溜め息をついて、アスカが片手をヒラヒラとさせた。
 
 そして、シンジの方を見て、睨む。
 
 「……そいで、とっとと戻ってきなさいよ! 乳繰り合ってる場合じゃないからねッ」
 
 「しないよッ!」



二百二十五



 実際には、シンジがレイに付き添ってやる必要は全くない。
 
 卓球室で指摘してやることはさすがに出来ないが……廊下に出たところで「下着とTシャツを着て来るように」と言って、レイを送り出してやれば済む。
 
 ……と、最初は思っていたのだが。
 
 
 
 ふと、先程の、ヒカリの言葉が蘇る。
 
 「レイさんてね……自分だけだと、うまく浴衣が着れないのよ」
 
 
 
 それは、非常にまずい。
 
 
 
 部屋に戻るまでの間、レイはしっかりとシンジの手を握って歩く。
 
 湯上がりの暖かさが、いつもと違う温度をシンジの手の平に感じさせた。
 
 
 
 部屋の前まで来たところで、レイは、怪訝な表情で振り返った。
 
 そのまま、シンジの顔を見つめる。
 
 シンジは、戸惑ったようにレイを見た。
 
 「え? なに、綾波?」
 
 「……どうすればいいの?」
 
 
 
 ……よく考えたら、戻ってきた理由を、レイに話していなかった。
 
 
 
 「あのね」
 
 シンジが、少し赤くなりながら応える。
 
 「その……浴衣の下にね、下着と、Tシャツかなにかを着てきて欲しいんだ」
 
 「?」
 
 レイが、小首を傾げる。
 
 「そういうもの?」
 
 「そういうものなんだよ」
 
 「わかった……着てくる」
 
 レイはシンジに絡めた指を解くと、扉を開けて部屋の中に入っていった。
 
 
 
 ふぅ……と息をつくと、シンジは、廊下の壁に寄り掛かる。
 
 目を瞑ると、瞼の裏側に、湯上がりのレイの姿が浮かぶ。
 
 分かり切っていることだが、レイは、いつどんなときでも、やっぱり可愛い。
 
 だが、先程のそれは、破壊的だった。
 
 
 
 湯上がりのレイ……というものを、見たことがない訳ではない。
 
 以前、トウジやケンスケが雨宿りに来た時に、アスカがシャワーを浴びていたことがあったが……同じように、レイも葛城家でシャワーを浴びることが、よくある。
 
 特にここ最近は、レイもアスカも……着替えと寝るため以外には、自分たちの家を使っていないようだ。
 
 
 
 当然のことながら、自宅で見る湯上がりのレイも、やはり破壊力はデカい。
 
 だが、それすらも凌駕するパワーが、先程のレイには、あった。
 
 
 
 浴衣、のせいなのかなぁ?
 
 シンジは、ぼ〜っとしながら考える。
 
 湯上がりの火照る身体に浴衣の美少女……とくれば、それで破壊力を伴わないはずがないだろう。
 
 
 
 ガチャッ……と、扉が開いた。
 
 
 
 「碇君」
 
 レイの声に、シンジは顔を上げる。
 
 「あ、準備できた? あやな……み……」
 
 言いかけて、シンジは固まった。
 
 
 
 かろうじて、ブラジャーはしているようであるが……それにしても、なんという恰好か。
 
 浴衣を肩から羽織っただけで、ばさっと前を開いてしまっている。なまじ下着姿なだけに、逆に見ている方が恥ずかしくなるようなスタイルだ。
 
 真っ赤になって固まるシンジの手を握り、レイは恥ずかしそうに呟いた。
 
 「……ごめんなさい……浴衣……うまく、着れない」
 
 
 
 シンジは、脳味噌の中で、頭を抱えて突っ伏す自分を想像した。
 
 当たり前だ。
 
 レイは、浴衣がうまく着られない……それが分かっているからこそ、レイだけを送り出さずに、わざわざ自分がついてきたのである。
 
 だが……
 
 自分しかついてきていないのでは、結局、自分が着させてやるしかないではないか!
 
 
 
 (あぐあ……)
 
 思わず、汗びっしょりのシンジの腕を、きゅっ……と握ると、レイは、少しだけ力を込めて、引いた。
 
 「……着せて」
 
 「え!? あ、あ……う……う、うん……」
 
 とにかく……このままの恰好でいい訳はないし、それに、こんな恰好のレイを廊下に出しておくのも躊躇われる。
 
 とりあえず、シンジはレイに引かれるまま部屋に入ると、扉を閉めた。
 
 
 
 そのころ……
 
 卓球室で、二人が来るのを待っているヒカリは、なんとなく不安がよぎっていた。
 
 (レイさん……うまく着れない……じゃあ、誰が着せるの?)
 
 ……さすがである。
 
 
 
 部屋で二人きりになったレイは、その場で、羽織っていた浴衣を脱いだ。
 
 「わ、あ、あやな……」
 
 赤い顔をして、シンジは思わず両目の焦点を、ガッ! とズラす。
 
 顔はレイの方を向いているようだが……実は焦点が空中に合っているので、レイの肢体はぼやけて見えない……という……シンジが自己の理性を保つための、苦肉の技だ。
 
 
 
 レイは、脱いだ浴衣をシンジの前に差し出した。
 
 「……着せて」
 
 「あ、ああ、うん……」
 
 曖昧に応えながら、シンジはレイの浴衣を受け取る。
 
 
 
 視線を向けると、そこには、パンツとブラジャーだけのレイが……
 
 
 
 「そ……そう言えば、綾波……Tシャツ、着てよ」
 
 シンジは、慌てて、思いついたように言った。
 
 そうだ、せめてTシャツを着ていれば……まぁ……少しは違う。
 
 だが、レイは小さく首を振った。
 
 「持ってきてない」
 
 「えっ? ……あ」
 
 言われて、気付いた。
 
 そう言えば……今日のレイは、ワンピース姿だった。泊まりの予定などなかったのだから、Tシャツなど持ってきているはずがない。
 
 (……てことは……なんで、アスカはTシャツ持ってるんだよ……はじめから、泊まる気だったなぁ……)
 
 シンジは、思わず溜め息をつく。
 
 
 
 とにかく……このまま、下着姿のレイと対峙していてもしょうがない。
 
 シンジは、咳払いをしてレイの浴衣をぱん、と広げると、レイに背中を向けさせて、肩にかけた。
 
 袖に腕を通させる。
 
 床に落ちていた帯を手に取ると、シンジは、今度はレイに前を向かせた。
 
 中腰になり、できるだけ頭の中を空っぽにして、シンジはレイの腰に手を回した。
 
 
 
 「……碇君」
 
 「え?」
 
 
 
 突然、レイの腕がシンジの頭を抱いた。
 
 ぎゅっ……と、シンジの頭が、レイの双丘に押し付けられる。
 
 「わぁッ!?」
 
 急なことで、咄嗟に離れることも出来ず……気付けば完全に捕らえられてしまった。
 
 頬に柔らかい感触を感じながら、シンジは、自分の顔が、カァァッ……と熱くなっていくのを自覚していた。
 
 
 
 「あ、あ、あやなみ! な、な、な、な、なになにを」
 
 動転して上擦るように声を出すシンジ。
 
 対するレイは、静かに……慈しむように、シンジの頭を優しく撫で続けている。
 
 「あああやな……」
 
 「……碇君」
 
 レイが、シンジの言葉を遮るように……静かに呟く。
 
 
 
 「……幸せ?」
 
 
 
 それは……ただ、言葉の上だけの言葉ではなく……何か、暖かさが滲んだ言葉だった。
 
 
 
 ……幸せ?
 
 いま……碇君は、幸せ?
 
 
 
 その言葉を聞いて……
 
 シンジは……動転していた心が、だんだんと落ち着いていくのが分かった。
 
 徐々に……
 
 波立つ心が、ゆっくりと、柔らかな水面に変化していく。
 
 
 
 早鐘のように鳴っていた鼓動が、少しずつ、落ち着いたカーブへと変化していく……。
 
 真っ赤に火照った頬から、余分な熱が徐々に治まっていくのを感じる……。
 
 
 
 それは、なぜだろう?
 
 状況は何も、変わらない。
 
 
 
 シンジの頬に押し付けられる柔らかな感触も、ほぼ何にも隔てられない距離も、二人きりでいる空間も。
 
 何も変わらない。
 
 
 
 シンジには、わかっていた。
 
 
 
 それは、自分を撫でるレイの手が、愛おしいからだ。
 
 頬に感じるレイの柔らかさが、愛おしいからだ。
 
 腕に、肩に、胸に密着するレイの体温が、愛おしいからだ。
 
 
 
 ……レイが、愛おしいからだ。
 
 
 
 「……幸せ……だよ」
 
 シンジは、静かに、呟いた。
 
 今は、心に波打つものが、そよ風に揺らぐさざ波に……
 
 そして、ゆるやかにたゆたうタンポポの綿毛のように、静かだ。
 
 
 
 「……私も……幸せ」
 
 レイも、穏やかな口調で、応えた。
 
 
 
 いつの間にか、レイとシンジは、畳に座りこんでいた。
 
 床に座った姿勢のまま、レイは、ただシンジを抱き締めて、頭を撫でている。
 
 シンジも、されるままになっていた。
 
 
 
 ……なぜだろう……
 
 シンジは、思う。
 
 先程まで、あれほどに自分を苦しめていた感情が、沸き起こらない。
 
 おだやかな……おだやかな……気持ちだ。
 
 
 
 「……もっと……」
 
 「……え?」
 
 レイのつぶやきに、シンジが目を瞑ったままで応える。
 
 レイは、頭を撫で続けるまま……口調も変わらず穏やかに……唇を開く。
 
 「……もっと……幸せになるには……どうしたらいいの?」
 
 
 
 シンジは、意味がよく分からない。
 
 「……もっと……幸せに?」
 
 シンジの問いに、レイが頷いたことが、頬から伝わる胸の動きで分かった。
 
 
 
 「もっと……って言ってもなぁ……」
 
 ぼんやりと、シンジは言う。
 
 漠然としていて、すぐに答えが出て来るような疑問ではなかった。
 
 幸せの形は、ひとつではない。ひとそれぞれ、顔かたちが違うように、何を幸せと思うかも、人によって違うのだ。
 
 ……などと、哲学的なことを考えていたのだが……。
 
 
 
 「……弐号機パイロットは……」
 
 「……ん?」
 
 「抱き合う……その先が、あるって言ってたわ」
 
 「……その先?」
 
 「……碇君に聞けば、教えてくれるって……」
 
 
 
 そのさき……
 
 シンジは、考える。
 
 そのさき……
 
 抱き合う、その先?
 
 抱き合う……その、先……
 
 ……って言えば……
 
 ……それは……
 
 ……それはぁ……
 
 ……そ、そ、それはぁぁぁっ!!
 
 
 
 シンジは、ガバッと頭を上げた。
 
 真っ赤な顔をして、レイから離れる。
 
 「あっ」
 
 引きずられるように体勢を崩したレイは、思わず前のめりに床に倒れ込んだ。
 
 慌てて、シンジが抱き起こすと、レイは再び、今度はガッチリと抱きついてくる。
 
 「ちょ、ちょ、ちょっと待った綾波ぃ!」
 
 裏返りかけた声で、必死にシンジが叫ぶ。
 
 レイは、抱きついたまま、寂しそうにシンジを見つめる。
 
 「……何故、逃げるの?」
 
 「な、なぜって……その……と、とにかく、落ち着いて話し合おうよ!」
 
 「落ち着いてるわ」
 
 「ぼ、ぼ、僕が落ち着けないんだってば!」
 
 「……こんなに……落ち着けるのに」
 
 ぴと、とシンジの身体に頬を寄せるレイ。
 
 シンジにしなだれかかるような姿勢になっているので、ちょうど腹の辺りに、レイの双丘が押し付けられる。
 
 
 
 (ぐぅ……)
 
 シンジは、脂汗をかきながらも、同時に……ブラジャーだけでもしていてまだよかった、と思う。
 
 素肌の胸が押し付けられたりしたら、その形や柔らかさを如実に感じてしまい……耐えることは出来たとしても、そのための苦労は死の苦しみになっていたに違いない。
 
 
 
 「教えて……碇君」
 
 レイが、シンジの胸に頬をすり寄せたまま、呟く。
 
 「な……な、なにを、かな?」
 
 「今でも……こんなに……幸せ。
 
 なのに……もっと、先があるの?」
 
 「い、いや、その〜」
 
 「知りたい……」
 
 
 
 自分で、汗が噴き出しているのが分かる。
 
 どう答えたらいいものか……と言うか、まず、正直に全てを話すなんてことは、絶対にできっこない。
 
 いや、この場で詳しく説明すること自体は、簡単だ。恥ずかしいというファクターさえ無視すれば、色々と説明することはできる。
 
 だが……何と言うか、その説明が表わす意味は、単に幸せになる、では済まされないのだ。
 
 
 
 よく考えて、選ぶべきだ……と、シンジは思っている。
 
 その行動の結びつく先にあるもの……それは、たんなる行動の結果ではない。精神的な、理解と、覚悟と……それに見合う愛情とを、自己に問い掛けることが必要だ。
 
 
 
 特にレイには、軽々しく考えては欲しくなかった。
 
 
 
 だが、ここで説明してしまえば、間違いなくレイは要求するだろう。
 
 まだ、レイには、わからない。ただ、もっと幸せになれる……という希望の元に、シンジに要求するのだ。
 
 
 
 それは、絶対にできない。
 
 
 
 心を置き去りにして、考えてはいけない問題なのだ。
 
 レイのことが大事で……レイのことを心の底から愛していて……レイを幸せにしてあげたい、と、嘘偽りなく願っているからこそ。
 
 その想いには、軽々しく、応えてはいけない。
 
 
 
 「……教えて……碇君」
 
 レイが、呟くように言って、シンジの顔を見上げる。
 
 シンジは、答えられない。
 
 真実を話すことは出来ない……だが、かと言って、その場限りの嘘で切り抜けても仕方のないことだ。
 
 どうしたらいいか、わからなかった。
 
 
 
 ……シンジの瞳を見つめる、レイ。
 
 その、まっすぐに、見つめる眼差し……
 
 
 
 ……が、揺らいだ。
 
 
 
 レイの表情に、怪訝なものが浮かぶ。
 
 シンジも、その表情の変化に、ちょっと眉を潜める。
 
 ……どうしたのだろう?
 
 
 
 レイは、もぞっ……と動くと、片手をシンジの腰の辺りに伸ばした。
 
 「何か……入って」
 
 
 
 その手は、スカッと空を掴んだ。
 
 
 
 一瞬にして、シンジは扉のところまで飛び退っていた。
 
 「碇君?」
 
 レイが、不思議そうな表情で、シンジを見る。
 
 シンジは、真っ赤な顔で……身体中の毛穴という毛穴から汗を噴き出している。
 
 間一髪!
 
 掴まれたら、終わりという気がする。
 
 
 
 「どうしたの……碇君」
 
 レイが、立ち上がった。
 
 浴衣が肩から落ちる。
 
 「あっ綾波! 浴衣浴衣!」
 
 だが、レイはその言葉に気付かないかのように近付くと、再びぎゅぅぅっ……とシンジに抱きつく。
 
 (うあ〜)
 
 シンジが、苦悶の表情を浮かべる。
 
 こういうシーン、マンガの中などでは「嬉しい悲鳴」あるいは「天国と地獄」などと表現されるが、そんな二律背反な状態を楽しめるほど、シンジに余裕はない。
 
 とにかく、もう、助けてくれ〜、という感じである。
 
 「あ、あ、綾波! は、離して……」
 
 「……いや」
 
 「お、お願いだから……」
 
 「……この先って、何?」
 
 「い、いや、だかあら、それはその〜」
 
 「……知りたい」
 
 「い、いや、だから……」
 
 「どォォォォォォォォりゃァァァァァァァァァァッ!!」
 
 ドッカァァァァンンッ!!!
 
 
 
 土煙を上げて、思いきり扉が叩き開かれた。
 
 丁度、扉に寄り掛かる形で抱き合っていたシンジとレイは、衝撃で、一気に部屋の中央当たりまですっとんでいく。
 
 
 
 思いきり扉を蹴り飛ばしたのは、アスカだ。
 
 鼻息荒く、部屋の中をものすごい形相で睨み付けている。
 
 
 
 「いっ……つまで、待たせんのよッ!! この、スカタンども!!」
 
 
 
 「……スカタン?」
 
 倒れこんで、シンジの下敷きになったまま……レイはひとり、平常心で小首を傾げる。
 
 
 
 「ア、ア、アスカ!」
 
 シンジは、慌てて上半身を起こしながら叫ぶ。
 
 正直なところを言えば……まずいところを見つかった、と言うよりは、むしろ「助かった!」という思いが強い。
 
 あのまま放置されていたら、まぁ……手を出さない自信は一応あるにせよ……神経を異常に消耗する事態になっていたのは間違いない。
 
 
 
 「この、バカシンジ!!」
 
 ズカズカッ、と部屋に入ってきたアスカは、思いきり大きな声でシンジを怒鳴りつけた。
 
 「乳繰り合ってンじゃない、って言ったでしょォがッ! ナニ、人を待たせて楽しんでンのよ!!」
 
 「な……ち、ちちくり……そんなこと、してないって!」
 
 「してんじゃない! いま! めのまえで!」
 
 ……確かに、レイを下敷きにして、シンジは二人で折り重なっている。
 
 慌てて立ち上がるシンジ。
 
 レイは、キョトンとした表情で、上半身だけ起こして二人を見た。
 
 
 
 「こ……これは、その、今アスカに突き飛ばされたからだよ!」
 
 「ホッホォ〜……ヒトのせいにする気!? じゃあ、何でファーストは下着姿だってのよ!」
 
 「い、いや、それはホラ、いろいろあってさぁ……」
 
 「その! い、ろ、い、ろ、を、説明してみなさいって言ってんの!」
 
 「し、信じてよ! 何もしてないよ〜!」
 
 「アンタねぇ……アタシら待たせてる時点で、思いっきり何かしてんのよ!」
 
 「ご、ご、ごめん……でも……」
 
 「デモもストライキもないッ!」
 
 「アスカ……それって、若い女の子のセリフじゃないわよ……」
 
 扉の影から、おずおずとヒカリが顔を出す。
 
 アスカが、バッと振り返ってヒカリを見た。
 
 「聞いてよ、コイツ! アタシらほっぽっといて、ファーストと乳繰り合ってたのよ!」
 
 「だから、してないってば!」
 
 
 
 「ま、まぁまぁ、待ってよ。二人とも、廊下までまる聞こえよ」
 
 ヒカリは、慌てたように笑って、両手で二人を制する。
 
 そして、下着姿でぽけっと立っているレイを見て、かすかに頬を染めて言葉を続けた。
 
 「え、えっと……と、とにかく、レイさんも、その恰好じゃダメでしょ。着替えなきゃ」
 
 「……一人で着られない」
 
 「手伝うわ」
 
 ヒカリが、言いながら部屋の中に入ってくる。
 
 アスカが、シンジを、ギン! と睨むと……そのまま、脇腹を思いっきり蹴り上げた。
 
 「あだっ!」
 
 「男子禁制!!」
 
 そのまま、よろけるようにシンジが廊下に転げ出ると、扉がバタン! と閉まり、中から鍵をかける音が響いた。
 
 
 
 呆気にとられて閉じたドアを見ていると……廊下で待っていたらしいトウジが、呆れた顔でシンジを見た。
 
 「アホやな……どうせなら、誰もおらんとこに行けばええやないか」
 
 「だ……だから、何もしてないってば……」
 
 脱力したように、ガックリと肩を落として溜め息をつくシンジ。
 
 
 
 部屋の中では、ヒカリがレイの浴衣を着せているところだった。
 
 横で見ていたアスカが、溜め息混じりに口を開く。
 
 「だいたいさ……なんで、浴衣着れないワケ? お祭りで着るようなヤツならいざ知らず……こんなの、くるりと巻いてしばったら終わりじゃない」
 
 レイは、ヒカリに着せてもらいながら、小首を傾げてアスカを見る。
 
 「……さぁ」
 
 「ハイハイ」
 
 アスカが、目を瞑って両手を挙げて見せる。
 
 
 
 部屋には、静寂が訪れた。
 
 レイの浴衣を擦る音だけが、微かに響く。
 
 
 
 「……教えて……くれなかったわ」
 
 ボソッ、と、レイが呟いた。
 
 
 
 「は? なにが?」
 
 アスカが、眉を顰めてレイを見る。
 
 レイの前にしゃがんで帯を整えていたヒカリも、不思議そうな表情で、レイの顔を見上げた。
 
 
 
 レイは、じっと……前方、ヒカリの背後にある、扉を見つめていた。
 
 ……その向こうに……
 
 …シンジが、いる。
 
 ゆっくりと、口を開く。
 
 「抱き締めた……その先に、あるもの。
 
 ……もっと、幸せになれること。
 
 聞いてみたけど……教えてくれなかった」
 
 
 
 アスカとヒカリは、唖然とした表情で、レイの言葉を聞いていた。
 
 慌てて、アスカが口を開く。
 
 「……え? き、聞いたの?」
 
 「ええ」
 
 レイが、短く返事をする。
 
 
 
 「何も、言ってくれなかったわ……。
 
 それに……私から、逃げるの。
 
 ………
 
 ……なぜ?
 
 ………
 
 ……何が、いけないの……」
 
 
 
 レイの心は、ゆっくりと、悲しみに彩られていく。
 
 レイは、もっと……もっと、幸せになりたかった。
 
 シンジと一緒に、幸せになりたかった。
 
 ただ……それだけだった。
 
 
 
 純粋な、想い。
 
 
 
 ……だが、シンジはそれを、拒絶した。
 
 何も教えてくれなかったし……何も応えてくれなかった。
 
 
 
 ……なぜ……?
 
 
 
 碇君は……
 
 わたしとは……幸せになりたくないの……?
 
 
 
 わたしは……なりたい。
 
 碇君と、幸せになりたい……。
 
 
 
 でも……。
 
 
 
 碇君には……違うのだろうか。
 
 碇君は……私と幸せになりたいとは、思わないのだろうか。
 
 私が……思っているだけ?
 
 
 
 それは、レイの心を、徐々に、沈み込ませていく。
 
 急激なショックとは違う……だが、それだけに、哀しい。
 
 
 
 アスカとヒカリは、黙ってレイを見ていた。
 
 「その先」を知っている二人にとって……シンジの行動は、理解できる。
 
 なんだかフォローが余りにも足りない気がするし……やり方は誉められたものではないが、愛する人に詰め寄られながらも手を出すことのなかったシンジは、ある意味では、賞賛に値した。
 
 そのため……咄嗟に、なんとレイに声をかけてやればよいのか、わからなかった。
 
 
 
 そのとき……
 
 
 
 うつむいた……レイの、顔。
 
 その瞳から……ひと粒だけ、涙がこぼれた。
 
 
 
 ……たった、一粒。
 
 
 
 次の瞬間……
 
 ヒカリは、レイを、思いきり抱き締めていた。
 
 一瞬の動きだった。
 
 突然の展開に、レイは……ただ、きょとんとした表情でいる。
 
 
 
 「……レイさん……っ」
 
 レイを、抱き締めたまま……ヒカリは、呟いた。
 
 
 
 レイの涙は、ヒカリの心を突き動かしていた。
 
 普段、あまり心を見せないレイだからこそ……その涙は、衝撃的なほどに重く、ヒカリの胸を締め付けたのだ。
 
 
 
 「ヒカリ……さん……」
 
 レイは、呟く。
 
 他に、何と言ってよいのか、分からない。
 
 「……レイさん……」
 
 ヒカリが、静かに口を開いた。
 
 「……昼間、アスカが言ったことを……覚えてる?」
 
 ヒカリが、囁くように……レイの首の辺りで、呟く。
 
 
 
 「……ひるま……?」
 
 レイも、小さく呟く。
 
 
 
 アスカは、ただ……じっと、二人を見つめていた。
 
 口を挟む気はなかった。
 
 この場は、ヒカリに任せるしかなかった。
 
 哀しいかな自分の言いぶりでは、キツい当たりになってしまうかも知れない、と自覚しているからだ。
 
 それは、本意ではない。
 
 レイを助けたい気持ちは、アスカも同じだった。
 
 
 
 ヒカリは、そのまま、言葉を紡いでいった。
 
 「昼間……アスカが、言ったでしょう?
 
 レイさんには……まだ、早いって」
 
 「………」
 
 「……それはね……逃げてるんじゃないの。隠してるんじゃないのよ……
 
 レイさん。
 
 ……その先のことは……そういう、重いことなの」
 
 
 
 「……重いこと」
 
 レイは、口の中で、静かに反芻する。
 
 ……重いこと……。
 
 
 
 「私も、アスカも……碇君も。
 
 知識では、知っているのよ……その先に、何があるのか。
 
 でもね……私達は、誰も、そんなことをしたことがないのよ。
 
 ……わかる? 言っている意味が。
 
 
 
 簡単なことなのよ。何も考えなければ、簡単なことなの。
 
 でも、誰も、そんなことはしない。それは、重いことだから……。
 
 
 
 碇君は……立派よ。
 
 それに……レイさん……あなたが、羨ましいと思うわ」
 
 「……うらやましい……?」
 
 「そうよ……
 
 だって……碇君が、こんなに、愛してくれているんだもの」
 
 
 
 その言葉は、レイに衝撃をもたらした。
 
 シンジの行動を、レイは、悲観的に感じ取っていた。
 
 自分を、愛してくれていないのかも知れない……と、かすかに、思い始めていた。
 
 
 
 だが……ヒカリは、シンジの行動を聞いて……自分を、愛している、と、言うのである。
 
 
 
 それは、レイには理解できなかった。
 
 だが、すがりたい言葉だった。
 
 シンジが、愛してくれている?
 
 自分を……
 
 それは、本当だろうか……?
 
 
 
 「……なぜ……なぜ」
 
 レイは……なぜ、と繰り返し、呟いた。
 
 その言葉は、抱き締めているヒカリの耳には、はっきりと届く。
 
 ヒカリは、ゆっくりと、噛み締めるように、言葉を紡いだ。
 
 「聞いて……レイさん。
 
 レイさんが、碇君に聞こうとしたこと……それを、碇君が教えてくれたら、どうするつもりだったの?」
 
 「……教えられた通りに……するわ」
 
 「そうよね……相手は、大好きな碇君だもの。
 
 きっと、そうするでしょう?
 
 でもね……
 
 碇君は、きっと、それでは駄目だと思ったのよ」
 
 レイは、かすかに首を捩り、ヒカリを見た。
 
 レイの視界からは、ヒカリの後頭部しか見えない。
 
 「……なぜ……」
 
 レイは、もう一度……今度は、はっきりと呟いた。
 
 
 
 「……大事なのは、心なのよ。
 
 それはね、ただの行動じゃないの。
 
 相手を想う……心がなせることなのよ」
 
 「……わからないわ」
 
 「いい? レイさん。
 
 例え……レイさんが何も知らなくても、その時になれば……レイさんは、自然と、その……碇君を求める、と、思うの。
 
 逆に……
 
 いま、まだ、レイさんにわからないということは……まだ、してはいけないことなのよ」
 
 「………」
 
 「碇君は、どうすればいいのか、知っているわ。
 
 でも、しなかった。
 
 その意味が、わかる?
 
 碇君は……レイさんを、誰よりも、何よりも、大事に想ってくれているのよ。
 
 碇君は……心の底から、レイさんを愛してる。それこそ、何があっても、揺るがない気持ち……。
 
 だから……何もしなかった。
 
 ……レイさんが……大事だから……しなかったのよ」
 
 
 
 正直に言えば、レイには、完全には理解することが出来なかった。
 
 その先にあるもの……その、重さ。
 
 それを、ただこう聞かされて、理解するのは難しい。
 
 
 
 だが、ヒカリの言う言葉は、レイの心を……冷たさに染まり始めたレイの心を、再び暖かく包み込んだ。
 
 信じたくて、信じたくて、たまらない、シンジのことを……
 
 ……再び、揺るぎなく……信じることができる、その礎だった。
 
 
 
 レイは、ただ……ギュッと、ヒカリを抱き締めた。
 
 もうひと粒だけ……涙が、こぼれた。
 
 でも、それは……悲しみの涙では、なかった。



二百二十六



 ようやく落ち着いたレイの、乱れた浴衣をもう一度直しながら、アスカがレイに声をかけた。
 
 「カンタンに言えば、急ぎ過ぎるなってコトよ」
 
 そう言って、笑う。
 
 
 
 レイは、アスカの顔を見て……それから、ゆっくりと、頷いた。
 
 「……わかった」
 
 その言葉を聞いて、ヒカリも、やっと安堵したように微笑んだ。
 
 
 
 「もうひとつ、教えておいてあげるわ」
 
 アスカが、人差し指を立ててレイを見た。
 
 レイが、小首を傾げてアスカを見る。
 
 「いい? アンタがそのことについて尋ねても、シンジはまだ早いと思ってるから答えられない。でも、アンタに嘘なんかつきたくはないワケ。
 
 だから、アンタに問い詰められると、どうにも返事が出来なくて、シンジは大いに困るってことよね」
 
 「………」
 
 「だからね、あんまりシンジに、そんなこと聞くんじゃないわよ。シンジが、苦しむだけだからね」
 
 
 
 レイは、じっとアスカを見て、それから、ヒカリを見た。
 
 ヒカリも、微笑んで頷いてみせる。
 
 「うん……わかった」
 
 小さな声で、レイが答える。
 
 「もちろん、他の人に聞くなんて、もっとアウトだからね」
 
 「? ……わかってる……碇君にしか、教えて欲しくない」
 
 「うん」
 
 不思議そうなレイの返事に、アスカはニカッと微笑んだ。
 
 「それさえわかってれば、いつかウマクいくわよ」



二百二十七


 バタバタあって、気付けば時刻は11時を回っていたが……アスカの強硬な意見により、結局、卓球大会は開催された。
 
 こうなると、トウジとヒカリは観客にまわるしかなく……シンジ、レイ、アスカの三人で、ぐるぐるとメンバーチェンジしていくことになった。
 
 
 
 「こらぁ……見てるだけでも、飽きんワ」
 
 空いた卓球台に腰掛けて観戦しているトウジが、ボソッと呟く。
 
 「うん……」
 
 ヒカリも、目を丸くして見ている。
 
 
 
 「でも……これ、卓球って言わないんじゃないかしら……」
 
 
 
 いつの間にか、一対一の勝負ではなく……一対一対一、つまり、三人同時対戦になっていた。
 
 しかも、同時に幾つも玉が飛んでいる。
 
 正三角形の頂点にあたる位置にそれぞれが立ち、目まぐるしく飛び交うピンポン玉を打ちあう、超高速のラリーが繰り広げられている。
 
 
 
 シンジとレイとアスカは、すでに極限まで集中力が高まっていた。
 
 周りの状況は何も見えず……ただ、ラケットが動きつづける。
 
 時折、誰かが球を落とすことはあるのだが……即座に拾ってまた打つため、勝負はいつ果てるともなく続いていくのである。
 
 
 
 「ワシ……眠くなってきたワ」
 
 欠伸をかみ殺しながら、トウジが言う。
 
 「……わたしも」
 
 瞼の落ちかけた目を、ヒカリがこすっている。
 
 
 
 すでに、時刻は12時をまわっている。しかも、高速で飛来するピンポン球を打ち合う音は、丁度、電車の走行音のように眠気を誘うのだ。
 
 
 
 「……もう……限界やぁ……」
 
 
 
 動きに無駄が多いシンジが、ようやくバテたのは、時計の長針が更に余分に半回転ほどした頃であった。
 
 シンジがギブアップしたことで、ようやく、高まっていた三人の集中力が途切れる。
 
 そうして、三人が振り返ると……そこには、ヒカリの腿の上に倒れ込んで高いびきをかくトウジと、真っ赤になったまま、石のごとく固まっているヒカリの姿があったのだった。



二百二十八



 ロビーで寝ている、ケンスケ。
 
 彼は今日、数々のシャッターチャンスを逃しまくったことを、おそらく一生知らずに過すのであろう……。
 
 
 
 ……と言うか、寝過ぎではなかろうか。