第四十九話 「海」
二百十



 照り付ける太陽は、ここ数日、いつもよりも更に陽射しを強めたように思う。
 
 アスファルトの上に、かげろうが揺らめく。
 
 遠くに見えるマンション群もモワッとした暑い壁の向こう側に霞んでいた。
 
 
 
 「……あっついのォ〜……」
 
 トウジが、既に何度目か分からない言葉を発する。
 
 三人しか座れないベンチを女性陣に譲り、少年達はそばの塀に寄り掛かっていた。
 
 その、背中越しに吸い付くコンクリートの壁が、じっとりとした暑さを伝えてくる。
 
 
 
 ベンチに座っていたレイが、横に立つシンジに声をかけた。
 
 「碇君……大丈夫?」
 
 ボーッと空を見上げていたシンジは、その声に我に帰ってレイを見た。
 
 レイが、心配そうにシンジを見上げている。
 
 「……ああ、大丈夫だよ、綾波。綾波こそ平気?」
 
 「私は、平気……ここは、影になっているし……」
 
 ……とは言え、レイが暑さに弱い体質であることは、想像に難くない。
 
 ……早く、バスが来ればいいのに……
 
 自分のことよりも、むしろレイの身体が心配で、シンジは道路の先を見つめた。
 
 
 
 ……そんなシンジを、同じくベンチに座っていたアスカがたしなめた。
 
 「落ち着きなさいよ、シンジ……焦ったって、待つしかないんだから」
 
 「アスカ……」
 
 シンジが振り返る。
 
 アスカは、既に別の方向を向いていた。アスカも、暑さであまり会話を交わしたくはないらしい。
 
 
 
 「でも……すごいよね、ふたりとも」
 
 レイとアスカに挟まれるようにして座るヒカリが、感慨深気に呟いた。
 
 「フタリ? なにが?」
 
 アスカが、横目でヒカリを見る。
 
 「だって……レイさんも、アスカも、こんなに暑いのに汗ひとつかいてないよ」
 
 「ああ……」
 
 アスカが応える。
 
 
 
 レイもアスカも、あまり汗をかいている様子はない。
 
 それは、おそらく生まれ付いた体質によるものだろう、とシンジは思う。
 
 
 
 「アタシも……汗、かかないでいられたらいいんだけどなぁ……」
 
 チラ、と、後ろに立つトウジの方に視線をやりながら、ヒカリは呟いた。
 
 ヒカリとしては、汗臭い姿をトウジに見せるなんて真似は避けたいのだろう。
 
 トウジの方は、ボケッとバスの来るべき道の向こうを眺めていて、会話は耳に入っていないようだ。
 
 「……それは、違うわ」
 
 レイが、静かに口を開く。
 
 え? という表情で向き直るヒカリ。
 
 レイはヒカリの方を向くと、口を開いた。
 
 
 
 「汗をかくのは……基本的に、体内の温度調節を目的としたもの。多量に汗をかくのは脱水症状などの危険があるけれど、定量の汗をかくのは人間の身体には必要なことだわ。むしろ……必要なのに、へたに汗を止めると、体温が上昇して身体に悪い」
 
 
 
 「あ……ああ……そう、ね、そうなんだけど……」
 
 ヒカリが、困ったように笑う。
 
 「?」
 
 レイが、怪訝そうな表情で首をかしげた。
 
 ヒカリの向こうで、アスカが首を竦めてみせる。
 
 「ダメダメ、ヒカリ……ファーストには、そ〜ゆ〜乙女心はわかんないんだから」
 
 「おとめごころ?」
 
 よくわからない、といった表情のレイ。
 
 アスカが、身を乗り出してレイの方に指を差した。
 
 「ファースト、アンタ……例えば、汗だくのギトギトでシンジの側にいるって状況、どう思う?」
 
 「?????」
 
 レイが、不審な視線をアスカに向ける。
 
 「……別に……どうも、しないけど……」
 
 「ホラね」
 
 アスカが、ヒカリを見て溜め息をついてみせた。
 
 ヒカリは、曖昧に微笑んでみせるしかない。
 
 ……シンジは、これまた聞いてないフリをするしかなかった。
 
 
 
 ……もっとも、汗だくのレイ、というもの自体、ちょっと想像し難い情景ではあるが。
 
 
 
 「……あっついのォ……」
 
 後ろの方で、トウジがまた呟く。
 
 さっきから、同じことしか喋っていない。
 
 「……ケンスケ……おまえ、そないに動き回って、よぅ平気やの……」
 
 力なく、呆れた口調でトウジがケンスケに声をかけた。
 
 
 
 ケンスケは、陽射しの下にいる美少女3人を、カメラに収めるのに夢中だった。
 
 機敏に動き回って、シャッターを切りながらベストショットを追い求める。
 
 トウジの言葉も、耳に入っていない。方向性が怪しいが、好意的に解釈するなら……見上げた芸術家魂というところだろう。
 
 
 
 「あ……来たよ」
 
 シンジが、呟く。
 
 ケンスケを除く全員が、道の向こう側を見た。
 
 バスが、曲り角を曲がって、その鈍重な身体をこちらに向けているところだった。
 
 
 
 やがて辿り着いたバスに、全員が乗り込む。
 
 乗降口の扉を閉めたバスは、再び、ゆっくりと走り出した。
 
 
 
 「海水浴場」
 
 行き先のプレートが、日光の照り返しに煌めいていた。



二百十一



 海水浴に行こうと提案したのは、ケンスケだった。
 
 ……と言えば、既にその時点で、目的は非常に分かりやすい。
 
 ケンスケ曰く、
 
 「俺達は沖縄に行ったけど、碇たちは行かなかったじゃないか! 改めて、ちゃんと海に泳ぎに行こうぜ!」
 
 ……と、言うことらしい。
 
 「……つまり、綾波と惣流とシンジの水着姿を、改めてちゃんと撮らせぇ、いうことやな……」
 
 トウジが、的確に翻訳して、溜め息をついた。
 
 
 
 とにかく、いささか不純な目的があったのは確かだが……この提案は、一行には好意的に受け入れられた。
 
 アスカは、ここしばらくの訓練や出撃に、堅苦しさを感じていた。
 
 たまには羽根を伸ばしたい、と思っていたところだった。
 
 シンジは、レイを「みんなと一緒に遊びに行く」という環境に連れていってあげたかった。
 
 考えてみれば、二人きりで出かけることはあっても、あまりこういう面子で遠出することはない。
 
 レイは、シンジが行くのなら逡巡の必要さえなかった。
 
 トウジは、もともとこういうイベントが好きなタイプだ。断わる理由などない。
 
 ヒカリは、トウジが行くというこのチャンスに、自分だけ辞退するような真似をするはずがない。
 
 ケンスケは、すでにデジカメの防水加工に余念がなかったりする。
 
 
 
 久しぶりのイベントのプランに、皆は飛びついた。
 
 おかげで、大事なことはシンジしか思い出さず……仕方がないので、その晩、シンジがミサトに報告した。
 
 チルドレンという立場上、どこかに出かける場合、ミサトの許可が必要だったのだ。
 
 
 
 ミサトとしても、ここのところ子供達にかけている負担を懸念していた。
 
 中学生の子供たちにとっては、おそらく大事なイベントであるはずの修学旅行も行かせることが出来なかったのだ。
 
 沖縄はあまりにも遠すぎて駄目だったが、バスで行くような近場の海なら構うまい。
 
 護衛がつくことだし、非常召集があればヘリを飛ばせば済むことだ。
 
 そう考え、ミサトはOKを出した。
 
 
 
 そのような顛末を経て、一行は、休日のバスに揺られているのであった。
 
 
 
 二人がけの座席に、それぞれ二人ずつに別れて腰掛けていた。
 
 一番前、窓際に座るレイの横は、当然のごとく、シンジだ。
 
 その後ろ……ヒカリの横には、トウジ。
 
 その後ろ、アスカの横にはケンスケが座っている。
 
 
 
 レイは、白いワンピースを着て、小さめの麦わら帽子を被っていた。
 
 レイの身体を心配したミサトが持たせたものだ。
 
 シンジは、灰色のTシャツに、ラフな膝丈のズボンとサンダル。
 
 ヒカリはパステルオレンジのブラウスにプリーツスカート。
 
 トウジは……ジャージ……。
 
 アスカは、オーバー・ザ・レインボウで着ていたクリーム色のワンピース。
 
 ケンスケは、上こそTシャツだが、下は迷彩ズボンに軍靴だ。
 
 
 
 アスカが、頬杖をつきながら呟いた。
 
 「アンタも、鈴原も……もう少し、マシなかっこして来なさいよね……」
 
 ケンスケが、鞄の中から多種多様なレンズを取り出しながら、応える。
 
 「言いたいことはわかるよ……客観的に、自分がどう見えてるか、わからないわけじゃないしな。……トウジはどうだか知らないけど。だけど、こういうカッコが好きなんだからしょうがないだろ?」
 
 「はいはい」
 
 アスカが、溜め息をつきながら返事をして、窓の外を見る。
 
 潮の香りがする。
 
 開いた窓から吹き込む風が、夏の暑さを爽やかな気持ちに変えていく。
 
 
 
 丘の向こうに、水平線が見えた。



二百十二



 更衣室のロッカーに、荷物を放り込む。
 
 「なんや、今時、IDカードやないんかい」
 
 トウジがぶつぶつ言いながら上衣を脱ぐ。
 
 「碇、トウジ、早くしろよ」
 
 すでに、半身を更衣所の建物から出した状態で、ケンスケがいらいらしたように振り返る。
 
 
 
 ジャージのズボンを脱ぎながら、トウジが呆れたように声を出した。
 
 「なんや、ケンスケ、そない張り切って……焦らんでも、海は逃げへんて」
 
 「馬鹿、海は逃げなくてもな……シャッターチャンスは逃げるんだよ〜!」
 
 「………」
 
 切羽詰まったような声に、トウジは脱力したように、肩を落として溜め息をつき……後ろに立つシンジのほうを向いて、苦笑してみせる。
 
 シンジも、思わず苦笑いで応える。
 
 
 
 「……バカにしたろ、今……」
 
 ケンスケが、恨めしそうな表情で、二人を睨む。
 
 
 
 「そ、そんなことないよ。ねぇ、トウジ?」
 
 「あ、ああ、せやな〜」
 
 「………」
 
 ケンスケは、なおも疑惑の視線を向けている。
 
 トウジは、そんなケンスケに溜め息を一つつくと……改めて、ケンスケの方を見た。
 
 「あんな、確かに、その入れ込みようは見上げたモンがあると思うがな……ケンスケかて、四六時中目を配っとる訳にもいかんやないか。そない言うたら、もう、散々シャッターチャンスを逃しとるんちゃうんか? 今だけ、そないに必死んなっても、しゃあないやないか」
 
 「アマァい!!」
 
 トウジの言葉に、ケンスケは俊敏に反応した。
 
 思わず、トウジ、そしてトウジと同意見だったシンジも、気圧されて一歩引いてしまう。
 
 ケンスケは、眼鏡を光らせて二人を見る。
 
 
 
 「俺が、ただ闇雲に、来るかどうかも分からないシャッターチャンスを狙っていると思うのか?」
 
 ケンスケの言葉に、トウジが怪訝な表情でケンスケを見る。
 
 「……違うんか?」
 
 「違う違う。全然違う」
 
 ケンスケが、おおげさに首を振ってみせる。
 
 
 
 「いいか、よく聞けよ。大体な、ただ漫然とシャッターチャンスを狙ってたって、そんなもんは来やしないんだ。目的意識を持って撮らないとな。俺だって、いつもカメラ構えてるわけじゃないだろ? 無駄な労力はかけない主義さ。
 
 今、急いでるのは、大事なシャッターチャンスだからだ。
 
 そりゃぁ、水着姿の三人は逃げやしないさ。だが、最初に海に飛び出した、その一番開放的な表情は今だけだぞ! これを撮り逃がしたらどうするんだ!」
 
 
 
 トウジとシンジは、呆然とした表情でケンスケを見た。
 
 ケンスケは、熱く語って、肩で息をしている。
 
 
 
 「……ケンスケって……すごいなぁ……」
 
 シンジが、ボソッと呟いた。
 
 
 
 トウジが、脱力して手をヒラヒラさせる。
 
 「悪かった……ケンスケ……待っとらんでええから、先に行けや」
 
 ケンスケが、腕組みをして、憮然とした表情で鼻を鳴らした。
 
 「そうするつもりなら、とっくにそうしてるよ」
 
 トウジが、怪訝な表情でケンスケを見る。
 
 「なんや? なんぞ問題でもあるんか?」
 
 「馬鹿だなぁ」
 
 「なんやとぉ〜」
 
 ケンスケは、肩を竦めて溜め息をつく。
 
 「綾波も委員長も、誰に水着姿を見せに来てると思ってるんだよ。
 
 それよりも先に、俺が見ちゃったら失礼だろ〜」
 
 「はぁ?」
 
 「だから、先に行けって言ってるんだよ、さっきから」
 
 
 
 なおも、よくわからないといった表情で首を傾げるトウジと、照れたように頭を掻くシンジ。
 
 「え、えぇと……ケンスケ……その、そんなに気にすることでも」
 
 「だから馬鹿だなって言ってるんだよ、碇。せっかく道を開けてやってるんだから、素直に行動しろよ」
 
 ケンスケが、笑いながら言った。
 
 「……ご、ごめん。その……ありがとう」
 
 「いいって」
 
 「? なんや、よぉワカランのぉ」
 
 ひとり、いまいち状況を理解していない少年。
 
 ケンスケは、腰の後ろに手を組んで、ゆっくりと、トウジの背中の方に回り込んでいく。
 
 「?」
 
 怪訝な表情で、後ろに立つケンスケを振り返るトウジ。
 
 ケンスケは、トウジに向かって、にっこりと微笑んだ。
 
 「要するに、何が言いたいかって言うとな」
 
 「おお、なんや?」
 
 
 
 ドガッ!!
 
 
 
 「どわッ!!」
 
 「早く行けってことだよ!」
 
 
 
 背中から、思いきりケンスケに蹴り飛ばされたトウジは、もんどりうって砂浜に転げ出した。



二百十三



 「こ……これ、どう……かな、アスカ?」
 
 ヒカリは、鞄から取り出した水着をアスカに見せる。
 
 アスカは、横目でチラリと見てから視線を戻した。
 
 「な〜に言ってンのよ、ヒカリ。着てみなくちゃ分かるわけないでしょ?」
 
 
 
 「そ……そうなのかも知れないけど……」
 
 ヒカリは水着を胸に抱えて、ぼそぼそと歯切れが悪い。
 
 
 
 レイは、黙々と服を脱いでいく。
 
 そんなレイを見て、アスカが呆れたように声をかけた。
 
 「ファースト、アンタねぇ……脱いだ服くらい、キチンと畳みなさいよ」
 
 言われて、振り返るレイ。
 
 そして、周りを見る。
 
 
 
 ワンピースやら靴下やら下着やら、もう、処構わずぐちゃぐちゃに放り出してある。
 
 
 
 レイは、キョトンとした表情でアスカを見て、首を傾げる。
 
 「……ヘン……?」
 
 「ヘンよ」
 
 呆れたような表情で、即答するアスカ。
 
 
 
 「……レイさんて……いつもこうなの?」
 
 ヒカリも、少し驚いたような顔で、辺り一面の惨状を見る。
 
 「ファーストが畳んでるトコなんて、見たことないわね」
 
 アスカが答え、
 
 「……いつもと、一緒」
 
 レイも、それを肯定した。
 
 
 
 「まぁ……NERVの更衣室で見慣れてたけどさぁ……百歩譲って、あの更衣室はアタシたち以外、誰も使わないからいいわよ。でもねぇ……こういう公共の更衣室くらい、キレイに使いなさいよ」
 
 アスカの言葉に、レイはキョトンとした表情で応える。
 
 「別に……出しっ放しにしておくわけじゃ、ないわ」
 
 「……じゃ、どうするのよ?」
 
 「ロッカーにしまうわ」
 
 言いながら、レイは脱いだワンピースを拾うと、グチャグチャっと丸めてロッカーに詰め込んだ。
 
 「そ……それじゃ、シワになっちゃうわよ、レイさん」
 
 慌てたように、ヒカリがまたワンピースを引きずり出す。
 
 
 
 ヒカリがレイのワンピースをキレイに畳んでいく様子を、レイは不思議そうに眺めている。
 
 アスカが、レイの背中に声をかけた。
 
 
 
 「シンジの前で服を脱ぐ時に、キチンと畳めって言われないの?」
 
 
 
 ブゥ! とヒカリが思わず噴き出す。
 
 レイは、平然とかぶりを振った。
 
 「碇君の前で……服を脱いだこと、ないもの」
 
 思わずぐちゃぐちゃにしてしまったワンピースを慌てて伸ばしながら、ヒカリがぎこちなく笑った。
 
 「そ、そうよね、まだ中学生だし……」
 
 「じゃぁ、どうやってシンジの前で裸になるのよ?」
 
 「……先に脱ぐ」
 
 「ブゥッ!!」
 
 再び、レイのワンピースはぐちゃぐちゃになる。
 
 
 
 「調子悪いみたいね、ヒカリ」
 
 アスカが、笑いながら、ヒカリの持つワンピースを受け取る。
 
 「あ……あの、その……」
 
 ヒカリは、顔を真っ赤にして、うまく要領を得ない。
 
 アスカは、パンパン、とレイのワンピースを伸ばすと、手際よく畳んでレイの前に差し出した。
 
 「ホラ、ファースト」
 
 「………」
 
 黙って、畳まれたワンピースを受け取るレイ。
 
 手に持ったワンピースとアスカの顔を交互に見比べて、それから小さく口を開いた。
 
 「……ありがとう」
 
 「はいはい」
 
 アスカは、それ以上何も言わずに、自分も服を脱ぎ始めた。
 
 レイも、畳まれたワンピースを丸めてロッカーに放り込む(畳んだ意味がない……)。
 
 
 
 ブラジャーを外しながら、アスカは、呆然と立ち尽くすヒカリに気付く。
 
 「どうしたのよ、ヒカリ? 早く着替えないと、陽が暮れるわよ」
 
 アスカに声をかけられて、急に現実世界に引き戻されるヒカリ。
 
 
 
 顔を赤くしたまま、しばらくオロオロとしたような表情を見せて……それから、おずおずとアスカの耳許に顔を近付けた。
 
 「あ……あの……アスカ」
 
 「ん? なに?」
 
 「あの……さ……その……」
 
 「?」
 
 「……い、碇君と、レイさんの……コトなんだけど」
 
 「……ああ」
 
 ヒカリの表情と言葉から、何を言わんとしているのか察したアスカが、ヒカリを見る。
 
 「気になる?」
 
 「い……いや、その……」
 
 「ヒカリは、どう思ってるのよ?」
 
 「……な……なにが?」
 
 「どこまでいってると、思ってるの?」
 
 
 
 「………」
 
 ヒカリは、真っ赤になって黙り込んでしまった。
 
 
 
 「ん?」
 
 ニヤニヤしながら、アスカがヒカリの顔を覗き込む。
 
 ヒカリは、上目遣いにアスカを見て……頬を染めながら、おずおずと口を開いた。
 
 
 
 「あ、あの……その、ね。
 
 もともと……前から、裸を、その……見せたことがあるとか、そんなこと言ってたし……うすうすとは……感じてたんだけど。
 
 でも、その……やっぱり、本当だとは信じられないような、気持ちもあって……その……」
 
 「つまり……ヒカリは、最後までいってると思ってるワケね」
 
 「そ、そ、そういうわけじゃぁ……」
 
 慌てて真っ赤になるヒカリ。
 
 
 
 一拍置いて、アスカは楽しそうに微笑んだ。
 
 ヒカリの背中を、トン、と軽く叩く。
 
 「バカねぇ、ヒカリ。シンジに、そんな度胸あるわきゃないでしょ?」
 
 「え? え?」
 
 「さっき、ファーストが言ってたの、聞いてた?」
 
 「……な、なにが?」
 
 「シンジの前では脱いだことない……先に脱いでる、って言ってたでしょ」
 
 言って、ヤレヤレといった表情で笑ってみせた。
 
 「目の前でファーストが服なんか脱ぎだしたら、シンジはきっと、必死に抵抗するわよ」
 
 「え!? え!? ……な、な、なんで?」
 
 「根性ナシだもの」
 
 「………」
 
 「とにかく、そういうコト」
 
 言ってから、アスカは振り返った。
 
 
 
 見ると、レイが二人の方をじっと見ていた。
 
 「何よ、ファースト?」
 
 アスカが尋ねる。
 
 レイが、呟くように言う。
 
 「……碇君の名前が、聞こえたから……」
 
 「ああ、まぁ、アンタには関係ないことよ」
 
 軽く答えてから、アスカは、ふと隣に立つヒカリに声をかけた。
 
 「なんなら、本人に直接確認してみる? アタシも、ああ勝手に思ってるだけで、実際に聞いてみたことがあるわけじゃないのよ」
 
 「え!? そ、そ、そんな、ちょ……」
 
 「ちょっと、ファースト」
 
 ヒカリの制止を無視して、アスカは一歩踏みだした。
 
 
 
 レイは、不思議そうな表情で、アスカを見ている。
 
 「……なに?」
 
 軽く、小首を傾げて言う。
 
 
 
 「アンタさぁ……シンジと、どこまで行ってんの?」
 
 
 
 「……自然公園まで」
 
 
 
 「……そ〜ゆ〜コト、聞いてんじゃないわよ」
 
 お約束のような返答に、アスカはクラクラとこめかみを押さえながら呟く。
 
 ヒカリは免疫が無いため、思わずズッコケて地面にしゃがみ込んでいた。
 
 
 
 アスカは、改めて顔を上げる。
 
 「ファースト、アンタ……シンジの前で、裸になったこと、あるんでしょ?」
 
 「……ええ」
 
 「そのとき、シンジにどうしてもらったのよ?」
 
 
 
 「……抱いて、貰ったわ」
 
 
 
 思わず絶句して、口をぱくぱくさせているヒカリに、アスカが素早く手を伸ばした。
 
 「ヒカリ、深読みしたらダメよ」
 
 「え、え?」
 
 「ファースト」
 
 アスカが、レイの方に向き直る。
 
 「……抱いてもらったって、具体的には?」
 
 
 
 レイが、怪訝そうな表情を見せる。
 
 
 
 「腕を……回して、ぎゅっと……」
 
 
 
 「その先は? 何かした?」
 
 
 
 レイが、眉間にしわを寄せる。
 
 「……その先が、あるの?」
 
 
 
 アスカが、肩を竦めてヒカリを見た。
 
 「ホラ、ね」
 
 ヒカリも、思わず赤い顔をしながら安堵の溜め息をついた。
 
 
 
 「……その先って、なに?」
 
 レイが、静かに聞く。
 
 「え? ああ、アンタは気にしなくていいの。今のままでも十分幸せでしょ」
 
 「……もっと、幸せになれる?」
 
 「……え? あ、その、ねぇ……まだ早いわよ、ファーストには」
 
 「あなたは……もう、その先を体験したの?」
 
 「え!?」
 
 
 
 思わず、固まってしまうアスカ。
 
 実際のところを言えば、アスカは、まだ「愛情をもって抱きしめてもらう」という、前段階をクリアしていないのだ。
 
 「いや、ホラ、まぁ……」
 
 急に、歯切れが悪くなるアスカ。
 
 
 
 レイは、ずいいっとアスカの前まで歩み寄ると、一気に顔を近付けた。
 
 「その先は……もっと、幸せになれるの?」
 
 「え……ま、まぁ、その……う、うるさいわね、人によるんじゃないの」
 
 しどろもどろに返事をするアスカ。アスカも、自分が経験していないことまで、咄嗟に詳しく説明することは出来ない。
 
 「どんなことをするの?」
 
 「い!?」
 
 レイの問いに、アスカの顔も、さすがに赤くなった。
 
 
 
 そんなことを詳しく説明できるような性格ではない。
 
 もともと、アスカは一見オープンなような印象を持たれ易いが、こういった分野の話題には深入りしないタイプなのだ。
 
 
 
 「いや、その、なんちゅうの」
 
 「どんなことをするの?」
 
 「ホラ、まぁ、その、ねぇ」
 
 「どんなことをするの?」
 
 「あ〜、その、つまり……ええと」
 
 「どんなこと……」
 
 「だぁッ! う、うるさいわね! そんなに知りたきゃ、シンジに聞きなさいよ、シンジに!」
 
 
 
 「碇君に?」
 
 レイが、キョトンとした表情でアスカを見る。
 
 
 
 アスカも、なお少し赤い顔をしながら、ぶっきらぼうに言葉を続けた。
 
 「そうそう。シンジよシンジ。アイツに『教えて』って言えば、しっかり教えてくれるわよっ」
 
 「ちょ、ちょ、ちょっとアスカ……」
 
 ヒカリが、慌ててアスカの腕を掴む。
 
 アスカはヒカリの方に振り返ると、耳許に口を近付けて囁いた。
 
 「だから、シンジは根性ナシだって言ったでしょ。慌てるだけで、なんにもできやしないわよ」
 
 「……そ、それはそれで、碇君が気の毒と言う気も……」
 
 ヒカリが、曖昧に苦笑する。
 
 
 
 「……わかった、聞いてみる」
 
 レイが、小さく呟いた。
 
 
 
 「あ、待った、ファースト」
 
 アスカが、レイに声をかけた。
 
 鞄から水着を取り出していたレイは、アスカの方に視線を向ける。
 
 「一応、注意しとくわよ……せめて、他に誰もいないところで聞きなさいよ。シンジが哀れだからね」
 
 「あわれ? ……わかった」
 
 少々怪訝な表情を見せたが、レイは、黙って頷いた。
 
 
 
 「うぅ〜ん……」
 
 ヒカリが、腕組みをして唸っている。
 
 アスカも、残った下着を脱ぎながらヒカリに声をかけた。
 
 「なに、やってんのよ、ヒカリ。早く着替えなさいよ」
 
 「あ、う、うん」
 
 言われて、慌てて鞄の中を漁るヒカリ。
 
 
 
 アスカは、そんなヒカリに声をかけた。
 
 「なに、難しい顔してんのよ?」
 
 「あ……う、うん……その」
 
 ヒカリは、口籠る。
 
 アスカは、着替えを続けながら黙って横目でヒカリを見る。
 
 
 
 「その……さ」
 
 ヒカリが、おずおずと口を開いた。
 
 「やっぱり……二人きりのところで、そんなこと聞いたら……その……碇君、そ、その……」
 
 「……抑えられないんじゃないかって?」
 
 「え! ……あ、いや、その、あの……」
 
 
 
 アスカは、水着に足を通しながら、こともなげに応えた。
 
 「根性ナシだって言ったでしょ」
 
 「で、でも……その……」
 
 「それに」
 
 アスカは、言葉を続ける。
 
 
 
 「アイツは、バカなの。いろんなイミでね」
 
 パタン、とロッカーを閉じる。
 
 そして、そのまま、ヒカリを見る。
 
 ヒカリは、何を言っているのかよく理解できず、困惑した表情だ。
 
 アスカは、そのまま言葉を紡いだ。
 
 「考え過ぎんのよ、バカだから。
 
 勢いとか暴走とか、そ〜ゆ〜のと無縁よ。だから……逆に、アイツが何をしたとしても、アイツなりに考えたあげくなの。
 
 アタシらが、気にかけてやるほどのことじゃないのよ」
 
 
 
 「そう……なんだ」
 
 ヒカリは、呟く。
 
 そして、微笑んで溜め息をついた。
 
 
 
 「やっぱり……かなわないわね」
 
 
 
 「なにが?」
 
 
 
 「アスカ……レイさんや、碇君のこと、わかってるのね。一緒に住んでるんだもんね」
 
 
 
 「一緒に住んでる訳じゃないわよ」
 
 アスカが、憮然とした表情で応える。
 
 「それに、別にわかりたくもないわよ。ど〜でもいいもの、アイツらなんか」
 
 「ハイ、ハイ」
 
 「……何よそれ、ヒカリ?」
 
 「ううん、何でもないわよ」
 
 「……フン」
 
 アスカは、そっぽを向いて、不機嫌そうに口を噤んだ。
 
 ヒカリは、そんなアスカを見て、ただ黙って微笑んだ。
 
 
 
 アスカ自身、ヒカリに指摘されて初めて、彼等に対する印象が変化していることに気付いたのだ。
 
 急に変化した感覚はない。おそらく、ここ最近は、無意識に……ずっと、柔らかい物腰で接していたのかも知れない。
 
 だが、自分の変化を認識したうえで考えれば、何が契機となっているのかは容易く理解できた。
 
 ……サハクィエル。
 
 ……あの時の、レイとの口論と、エヴァとのシンクロ。
 
 あの数十分足らずの間に、アスカにとって……シンジとレイは、劇的に近しい存在として認識できるようになっていったのである。
 
 
 
 アスカは、戸惑いを覚えないわけではない。
 
 シンジに対しても、レイに対しても……最初の頃、憎しみに近い感情を抱いていた記憶がある。
 
 
 
 ……いつの間に、憎しみが失われたのだろう?
 
 今でも、二人と話していると、イライラさせられたりぶん殴ってやりたくなったりすることは決して少なくはない。
 
 だが……それが、決定的な憎しみには、いつの間にか結びつかなくなっている。
 
 
 
 不思議な感覚だった。
 
 それは……今までの人生で、まだ、誰に対しても抱いたことのない……謎の印象だった。
 
 言葉で、表現することが出来ない。
 
 
 
 「行きましょう、アスカ」
 
 「……そうね」
 
 ヒカリの促す声に、ややあってアスカが応じ、レイも加えた三人で、並んで歩き出した。
 
 
 
 ……と思ったところで、アスカが、レイの肩をがっしと掴む。
 
 レイが、アスカを見る。
 
 アスカは、目を瞑ったまま……低い声で、呟いた。
 
 
 
 「ファースト……ロッカーの扉くらい、閉めなさい」



二百十四



 更衣所から出てきたアスカは、呆然と口を開いた。
 
 「……ナニコレ」
 
 
 
 先程までの抜けるような青空は、一体どこへ……。
 
 
 
 どんよりと厚く垂れ込めた灰色の空に、強めの風が海の家の戸板を鳴らしている。
 
 海原にはいくつもの兔がたち、とても泳げる状態ではない。
 
 
 
 「……ナァニやっとったんじゃ、遅いのォ」
 
 
 
 背後から間の抜けた声が聞こえてきて、アスカは振り返った。
 
 
 
 見ると、男性陣三人が、すでに元の私服に着替えて砂浜に座っている。
 
 「ああッ! アンタラ……なァに着替えてんのよ!」
 
 アスカが語気を荒気る。
 
 
 
 トウジが、つまらなそうに応えた。
 
 「しゃぁないやろ……こないな天気で、泳げる思うんか?」
 
 
 
 「なんか、急に天気が崩れたみたいでさ……今夜までこんな調子だって」
 
 携帯電話に表示された天気情報を見ながら、シンジが補足する。
 
 
 
 「な・な・なんですってェ〜〜」
 
 アスカは、ワナワナと身体を震わせた。
 
 ケンスケが、水着姿のアスカをデジカメに収めながら、残念そうに呟いた。
 
 「くっそォ……やっぱ、太陽の下じゃないと魅力を最大限に引き出せないよなァ〜……」
 
 しかし、とりあえず写真は撮っておくらしい。
 
 
 
 「碇君……」
 
 レイの声が、静かにシンジの耳に届いた。
 
 声に気付いたシンジが、後ろに振り返った。
 
 
 
 そこには、レイが立っていた。
 
 真っ黒なワンピースタイプの水着で、無駄のないシャープなデザイン。胸の中央に、小さくNERVのマークが入っている。
 
 
 
 「あ、綾波……」
 
 シンジは、思わず見愡れて言葉を失ってしまった。
 
 普段、レイは黒系の服を着ることはない。
 
 だが、肌の白さを思えば、真っ白と同じくらいに、真っ黒な服もピタリとはまって見える。
 
 
 
 そのまま、見つめあうこと、数秒……。
 
 
 
 ツン、と、ケンスケがシンジの脇腹をつつく。
 
 え? と、シンジがケンスケの方に振り返った。
 
 「バカ、なに黙ってるんだよ。何か言ってやらないと駄目だろ〜」
 
 眉をしかめて、ケンスケは囁いた。
 
 
 
 言われて、慌ててシンジは、レイの方に向き直った。
 
 レイは、じっとシンジの顔を見続けている。
 
 
 
 シンジは、少し頬を染めて、ポリポリと頭を掻いた。
 
 「ええ、と……その、綾波……」
 
 「?」
 
 「……に……似合ってるよ」
 
 
 
 レイは、一瞬、キョトン、とした表情を見せて……
 
 それから、急に赤くなって俯いた。
 
 「あ……ありが、とう……碇君」
 
 
 
 そして、そのまま固まってしまう二人。
 
 
 
 ちなみに、全く同じタイミングで……
 
 
 
 「ああ、その……なんや……に、似合っとるで、いいんちょ……」
 
 「あ、あ、あ、あ、あ、ありがと……」
 
 
 
 ……こっちでも、固まっているカップルが一組……。
 
 
 
 ……ちなみに、ヒカリの水着は、オレンジ色のワンピース。パレオのような布地が、直接水着についているタイプだ。
 
 
 
 そして、アスカの水着は、赤のビキニ。
 
 
 
 両側で固まっているカップルを見比べたケンスケとアスカは、ふと、真ん中で目を合わせた。
 
 
 
 「いやぁ、惣流、似合ってるぞ〜」
 
 「ゼンッゼン、嬉しくない」
 
 デジカメのシャッターを切るケンスケを一蹴して、シンジの前に手を伸ばした。
 
 
 
 急にアスカに手を出されたシンジは、ようやく視線をレイから外してアスカを見た。
 
 「な、なに? アスカ」
 
 「携帯貸して」
 
 「携帯? ……あ、う、うん」
 
 言われて、天気情報を切って携帯を手渡す。
 
 
 
 アスカは、手早く短縮をプッシュすると、腰に手を当てて、荒れる海を見ながら、携帯電話を耳に当てた。
 
 
 
 そのまま、数秒。
 
 
 
 「……あ、ミサト?」
 
 アスカが、口を開いた。
 
 
 
 「ミサト、天気予報、見てる?
 
 ……うっさいわね! いいでしょ!
 
 それでさぁ……せっかく来たのに、これじゃ泳げないじゃない。
 
 このままおめおめと帰れないわよ。
 
 え?
 
 ああ、違う違う。溺れたらシャレになんないし。
 
 でさ、アタシら、ここで泊まってくから」
 
 
 
 会話の流れに、思わず目を見開いてアスカを見る一行。
 
 
 
 「ええ? 何言ってンのよ。
 
 だって、どうせ召集があったらヘリとばすつもりだったんでしょ?
 
 だったら、アタシらが今晩ここにいたって関係ないじゃない。
 
 必要になったら、飛ばしなさいよ、ヘリ。
 
 ……そ〜そ〜。そゆこと。
 
 ……ええ? 宿?
 
 そんなモン、NERVで何とかしてよ。
 
 ええ?
 
 できるでしょ、それくらい……
 
 ゼ〜タク言わないからさ。
 
 そうそう。
 
 お金はあるから、どうせアタシら三人が腐るほど持ってンだからさ。
 
 んじゃ、よろしくね〜」
 
 ブチッ
 
 
 
 呆然とアスカを見る一行の方に、アスカは笑いながら向き直った。
 
 
 
 「さ! 明日こそ、ぜっっったいに、泳ぐわよ!」



二百十五



 ミサトは、作戦司令室で、携帯電話を片手に頭を抱えていた。
 
 キーボードを叩いていたマコトが、怪訝そうな表情で振り返る。
 
 「どうしたんですか、葛城さん?」
 
 
 
 「……日向くん」
 
 「ハイ?」
 
 
 
 ミサトは、溜め息とともに口を開いた。
 
 
 
 「海岸通り沿いの宿泊施設の満室状況を早急にチェック。しかるのち、3人以上宿泊可能な部屋が二部屋、並んで空いている宿泊施設を洗い出して、その部屋をNERVで押さえて」
 
 
 
 「……ハイ?」
 
 
 
 「……おねがい〜」
 
 ミサトの情けない声に、マコトは慌ててキーボードを叩いた。
 
 「い、いいですけど、べつに……」
 
 「ゴメン〜……今度、ゴハンおごるからさぁ〜」
 
 「まかせてください!」
 
 急に、キーボードを叩く指の速度が、格段に上昇したりするマコトであった。



二百十六



 NERV・総司令執務室。
 
 
 
 中央のデスクに、ゲンドウがいつものポーズで座っている。
 
 
 
 横で、小さなデスクに将棋盤を置いた冬月が、詰め将棋集を片手に、パチリ、と駒を進める。
 
 
 
 「……そう言えば」
 
 冬月が、思い出したように口を開いた。
 
 
 
 「今日は、三人とも海に行っているのだったな」
 
 冬月が言う。
 
 ゲンドウは、応えない。
 
 「先ほど、葛城君から連絡が入ったが……今夜は、近くの宿に泊まるそうだぞ」
 
 
 
 「……構わん」
 
 ゲンドウが、低い声で呟いた。
 
 「……必要であれば、いつでも呼び出せる」
 
 
 
 「……まぁ、そうだな」
 
 パチリ。
 
 冬月が進める駒音だけが、広い空間にかすかに響く。
 
 
 
 「海と言えば……シンジくんは、泳げないそうだな」
 
 
 
 「………」
 
 ゲンドウは、応えない。
 
 冬月は、詰め将棋集に目を通しながら、世間話のように話を続ける。
 
 
 
 「少々、意外な感じもするな……あれだけ非凡な彼が、泳げないというのも……」
 
 
 
 「……泳げなくても、人は死なん」
 
 
 
 冬月が、視線を本からあげる。
 
 ゲンドウは、前方を見つめたままだ。
 
 冬月は、ゲンドウの方に視線を向けたまま、意外そうに口を開いた。
 
 「珍しいな……こう言ってはなんだが……碇が、シンジくんをかばうとは」
 
 
 
 「かばうつもりなどない……事実を言ったまでだ。
 
 人間は、泳げる必要など、ない」
 
 
 
 「………」
 
 
 
 「………」
 
 
 
 「……碇」
 
 
 
 「………」
 
 
 
 「……おまえ……泳げないのか?」
 
 
 
 執務室には、ただ……静寂のみが舞い降りていた。