第四十八話 「ピース」
二百六



 「……う……う〜んん……」
 
 
 
 シンジは、眠りの底から、ゆっくりと覚醒していく自分を、おぼろげに感じていた。
 
 深い海の底から、はるかな高みに煌めくわずかな光に向かって、たゆたいながら浮上していく。
 
 海の中を、魚の群が横切る。
 
 あれは、夢だ。
 
 夢と眠りを交互に感じながら、徐々に、光を体中に浴びるところまで、上がっていく。
 
 
 
 いつも、感じている情景。
 
 シンジにとって、眠りは海であり、目覚めはその海からあがるようなものだ。
 
 
 
 だが、シンジは、ぼやけた意識の中で……不可解な違和感を感じていた。
 
 いつもなら、この浮上は、シンジにとっては苦にならない行為。
 
 だが、どうも今朝は変だ。
 
 
 
 別に、意識の覚醒が阻害されるわけではない。
 
 現に今も、水面は刻一刻と近づいているし、その速度にも陰りはない。
 
 だが、どうも、体が重い。
 
 
 
 疲れているのかな……
 
 
 
 次第に霞のヴェールが取り払われていく意識で、ぼんやりとシンジは思う。
 
 
 
 まずいな……
 
 また、倒れたりしたら、綾波にも心配をかけるよ……な……
 
 
 
 すでにシンジは、自分のまぶたの裏から透ける朝の光を、知覚できる程に目覚めていた。
 
 体中が重く、お世辞にも気持ちの良い目覚めとは言えない。
 
 
 
 ……だが、安心する。
 
 
 
 なぜだろう?
 
 
 
 シンジは、ゆっくりとまぶたを開いた。



二百七



 最初にシンジの視界に現れたのは、あっちこっちにはじけた蒼い髪の毛だった。
 
 (……ねぐせ……)
 
 シンジは思う。
 
 
 
 ありゃぁ……すごいねぐせだ……。
 
 寝相はいい方なのになぁ……僕……。
 
 起きて、髪の毛を整えなくちゃ。
 
 
 
 でも……からだが重いなぁ……。
 
 ……うう〜ん
 
 ……うう〜ん
 
 ………
 
 ……動かない。
 
 まいったなぁ……。
 
 
 
 おきなきゃ……
 
 おきなきゃ……
 
 おきて、ねぐせをなおさなきゃ。
 
 
 
 でも、寝相が悪いと、こんなにきれいな色になるんだ。
 
 寝相が悪いのも悪くないなぁ……。
 
 自分の髪じゃないみたいだ。
 
 まるで、綾波の髪みたいだね。
 
 はははは。
 
 はは……
 
 ………
 
 
 
 ………
 
 
 
 急激に、シンジの脳細胞は覚醒を遂げた。
 
 目を見開いて見つめるその蒼い髪の毛は、レイみたい……ではなく、レイの髪、そのものだった。
 
 
 
 レイは、シンジの体にぎゅっとしがみついて寝息を立てていた。
 
 それこそ、両腕、両足を……昔あったビニール製のおもちゃのように、しっかりとシンジの体に巻きつけて眠っている。
 
 
 
 その光景を、シンジは茫然と見つめていた。
 
 
 
 現状をようやくと把握して……シンジは、なんとか乱れかけた思考を構築し直す。
 
 (う……動けない、はずだよ……)
 
 シンジは、焦りと溜め息がまぜこぜになったような気持ちになる。
 
 
 
 シンジは、以前、似たようなことがあったことを思い出す。
 
 あのときも、目覚めたらレイがシンジにしがみついていた。
 
 
 
 あのときと大きく違う点といえば、レイが下着姿ではないことだろう。
 
 薄いパジャマの布地ごしに、その体の柔らかさを感じ取ることができてしまうが……とりあえず、視界から惑わされることだけは避けられる。
 
 前回の、あのときほどパニックにならずに済んだのは、そのせいかも知れない。
 
 ……それとも、さすがにレイの突飛な行動にも、慣れてきたのだろうか。
 
 
 
 「あ……あ……綾波、さん?」
 
 シンジは、頬を染めながら、おずおずと声をかけた。
 
 
 
 「………」
 
 
 
 起きない。
 
 
 
 その寝顔はあどけなく、かすかに浮かんだ微笑みがいとおしかった。
 
 だが、こうしていてもどうにもならない。
 
 実を言えば、レイの寝顔を見た瞬間……思わず、思い切り抱き締めてしまいたい衝動に駆られたのだが、なにしろ完全に両手両足がホールドされていて、まったく身動きできないのである。
 
 
 
 結局シンジとしては、レイに起きてもらうより他にない。
 
 レイが目覚めない限り、寝返りだって打てやしない。
 
 最悪、朝食を待つミサトやアスカが、しびれを切らしてシンジを起こしに来る前に、この状況を打破しなければならなかった。
 
 ……と言うより、朝になってもシンジとレイの二人だけがいつまでも起きてこないという時点で、すでに怪しさ大爆発である。
 
 
 
 「あ、あの……綾波、起きて……」
 
 シンジは、体を揺すりながら、必死の思いでレイに声をかける。
 
 
 
 「………」
 
 
 
 起きない。
 
 
 
 レイは、もぞもぞ……と体を動かすと、シンジの体に頬をぴったりとくっつける。
 
 
 
 「……んぅ」
 
 
 
 そのまま、満ち足りたように、再び微笑みを浮かべて眠りに落ちる。
 
 
 
 (あ……あ……あやなみぃぃ……起きてくれよ〜……)
 
 シンジは、頭の中で、情けない声をあげた。
 
 だいたい、本当にレイを起こしたければ、無理矢理にでも立ちあがるなり揺らしまくるなり、耳許で大声を出すなりすればいい。
 
 だが、レイのこの寝顔を見ていると、シンジにはそうすることが躊躇われてしまう。
 
 
 
 「綾波さ〜んん……起きて……」
 
 シンジは、なおも小さな声でレイに呼びかけ続けるしかなかった……。
 
 
 
 ……何回、呼びかけた頃だろうか。
 
 「……ん」
 
 レイが、ようやくと、シンジの声に反応し……頭を上げて、見上げるようにシンジを見た。
 
 
 
 レイの、まだ半分寝ぼけたような視線が、シンジを捉えた。
 
 
 
 「お……おはよう、綾波……」
 
 少し照れながら、シンジはほっとした面持ちでレイに微笑みかけた。
 
 
 
 レイは、そんなシンジに向かって、柔らかく微笑むと……
 
 ゆっくりと、首を伸ばした。
 
 
 
 シンジの唇に、レイの唇が触れる。
 
 
 
 「………」
 
 シンジの頭の中は、まさに真っ白だった。
 
 何も考えられない。
 
 何も浮かんでこない。
 
 
 
 ただ、感じられるのは、自分の唇に押し当てられた、柔らかさのみ……
 
 
 
 ……そのままの姿勢で、1分は経っただろうか。
 
 やがて……ゆっくりと、レイの唇が離れる。
 
 
 
 シンジは、真っ赤になったまま、身動きも取れない状態で……ただ呆然と、レイを見つめた。
 
 レイは、かすかに微笑み、再びまぶたを閉じると……
 
 
 
 「………」
 
 
 
 ……寝息を、たてはじめた。
 
 
 
 「あ、ま、ちょっとちょっと、綾波! お、起きてってば!!」
 
 再び熟睡体勢に入っていこうとするレイに、シンジが慌てて声をかけた。
 
 「……んぅ」
 
 レイが、シンジの言葉に反応して声を出す。
 
 そして、まぶたをこすりながらシンジを見た。
 
 「……い……かり……くん?」
 
 「そ、そうそう! そうだよ、綾波! もう朝だよ!」
 
 シンジが、ようやく目覚めかけたレイに、あわてて状況を認識させる。
 
 
 
 「……?」
 
 レイは、ねぼけまなこで、部屋の中を見まわした。
 
 ぼーっとした表情。
 
 どうやら、自分が今いる状況が、よくわかっていないらしい。
 
 シンジに抱きついたまま……緩慢な動きで周りを見渡し、それから、シンジの顔に視線を移した。
 
 
 
 シンジは、レイの顔を見て、どぎまぎしながら微笑んだ。
 
 なにしろ先程のキスが、シンジを動転させている。
 
 まさか、あのときレイがイキナリああいう行動に出ることなど、いったい誰に予測できるだろうか?
 
 
 
 ……と、言っても、おそらく先程のレイは寝ぼけていたのだろう。それは、さすがにわかる。
 
 だが、それでもシンジの頬は、赤くなるのを止められない。
 
 
 
 綾波の唇……柔らかかったなぁ……
 
 
 
 ……などと思って、慌てて頭を振る。
 
 「お、お、おはよう、綾波」
 
 シンジは、邪念を振り払おうと、冷や汗をかきながらも優しく微笑んだ。
 
 
 
 レイも、シンジの瞳に焦点を合わせた。
 
 とりあえず……目の前にいるのが、シンジだということは認識したのだろう。
 
 レイも、シンジに微笑みかけると、口を開いた。
 
 「……おは」
 
 言いかけて、止まった。
 
 
 
 「………」
 
 静寂が訪れる。
 
 レイが黙ったまま……続く言葉を口にしない。
 
 
 
 レイの言葉が不自然なところで止まったため、シンジは怪訝そうにレイを見る。
 
 俯いたレイの視線は、なんだかシンジの体を突き抜けて、その向こうの床に焦点があっているような感じだ。
 
 シンジが覗き込むと、その眉間に縦皺が寄っているのが、わかる。
 
 
 
 「………」
 
 そのまま、レイは無言だ。
 
 シンジは、心配になって、おずおずと声をかけた。
 
 
 
 「あの……綾波?」
 
 「………」
 
 「……ど、どうしたの?」
 
 「……あ」
 
 「え?」
 
 「……あたまいたい」
 
 
 
 レイは、それだけ告げると、シンジの胸板に、自分の額を押しつけた。
 
 
 
 「あっ……え!? あ、綾波!? ……だ、大丈夫なの!?」
 
 レイの言葉に、シンジは慌てて声をかけた。
 
 レイは応えない。
 
 ただ、いっそう強く、額をシンジに押しつけるばかりだ。
 
 「綾波! 綾波、大丈夫なの!?」
 
 「………」
 
 「綾波! ねぇ」
 
 「……ぃで……」
 
 「えっ?」
 
 「……揺らさないで……」
 
 「あっ、ごっ、ごめん」
 
 
 
 レイにそう言われて固まった後、シンジは気持ちを落ち着けた。
 
 もう一度レイを見る。
 
 額を押しつけているためにその顔は見えない。
 
 先程の様子を回想する限り、調子はあまりよくなさそうだが……寝ぼけているときは平気そうだったし、体調そのものが崩れたような様子もなかった気がする。
 
 ちょうど風邪の引き初めなのかもしれない。
 
 シンジの寝床に潜り込むような真似をしたために、夜中に寒い思いをしたのかもしれなかった。
 
 
 
 とにかく、放っておくわけにはいかない。
 
 シンジは、小さな声でレイに囁きかけた。
 
 「綾波……」
 
 「………」
 
 レイは応えない。だが、聞こえていないはずはない。
 
 「綾波……あのさ、こうしていても仕方がないし、まずその、離してくれる……かな?」
 
 「……ぃゃ」
 
 小さな声で、レイが返事をする。
 
 「い……いやって言っても」
 
 シンジは困ったように言う。
 
 「……この……まま」
 
 レイは、かすれたような声で呟いた。
 
 
 
 と、言っても……だからと言って、そのままにしておくわけにはいかない。
 
 風邪なら、引きはじめである今こそ、大事だ。
 
 このままにしておけば、体調はもっと悪化するかも知れない。逆に、今しかるべき対策を講じておけば、本当に風邪を引いてしまうより前に、元の体調に戻れるかもしれないのだ。
 
 シンジは、溜め息をつくと、諭すような口調で語る。
 
 
 
 「綾波……このままこうしていても、しかたがないよ」
 
 「………」
 
 「風邪なら、薬飲んだり、あったかくしたり、しないといけないし……」
 
 「………」
 
 「綾波……元気にならないと、何もできないよ」
 
 
 
 「綾波……僕はさ……綾波が、心配なんだよ」
 
 
 
 レイは、応えない。
 
 
 
 だが、数秒後……シンジは、自分の背中に回された腕から、力が抜けたのを感じていた。
 
 
 
 シンジは、ようやくと自由になった腕をレイの体のすき間から抜くと、なおも甘い力でシンジの体にくっついているレイを、優しく抱き寄せた。
 
 レイも、少しだけ腕に力を込める。
 
 数秒の間そうしてから、シンジはゆっくりと起き上がった。
 
 
 
 レイは、今度は抵抗無くシンジの体を離し、そのままベッドに横たわる。
 
 (「僕のベッド」に横たわってる綾波を、ミサトさんやアスカに見られたら、それはそれでまずいよな……)
 
 と、思わなくもないシンジだが、調子の悪そうなレイを無下に起こすのは躊躇われた。
 
 「ちょっと待っててね、綾波」
 
 シンジは、レイに声をかけて立ち上がる。
 
 レイは、声を出さずに、視線だけで応えた。
 
 シンジは、毛布をそっとレイの体にかけてやる。
 
 
 
 シンジは、考える。
 
 見たところ、熱があったりというような、頭痛以外の症状の傾向は見られない。
 
 風邪かどうかはわからないが、とりあえず、痛み止めを飲んで様子を見るべきだろうか?
 
 時計を見ると、時刻はもうすぐ7時になろうかというあたりだ。アスカは自宅で目覚めているかもしれないが、ミサトは間違いなくまだ寝ている。
 
 レイが病気と言っても、イキナリ「パジャマ姿のレイがシンジの部屋のベッドで苦しんでいる」とは伝えにくい。今のうちに薬だけ取ってきて、落ち着いたらミサトが起きる前にレイを部屋まで送ろう。
 
 そのあと、改めてミサトに連絡して、今後の状況を見守ればいい。
 
 シンジはそこまで考えて、リビングに移動するために、部屋の扉を開けた。
 
 
 
 シンジは、固まってしまった。
 
 リビングの机に、ミサトとアスカが座ってこっちを見ている。
 
 「あら〜、おっはよ、シンちゃん」
 
 ミサトが、片手を上げながら言う。
 
 「あ、お、おはようございます、ミサトさん……は、は、はやい……ですね」
 
 慌てて後ろ手に扉を閉めながら、シンジがどもるように応える。
 
 
 
 ミサトは、ニコニコしながら言葉を続けた。
 
 「愛しのレイは? まだ、寝てるの〜?」
 
 
 
 ドッ。
 
 と、汗が噴き出す。
 
 「え……あ、あ……の」
 
 咄嗟に言葉が出ない。
 
 
 
 アスカが、頬杖をつきながら、呆れたような表情でシンジを見た。
 
 「なァに、焦ってんのよ」
 
 「い、いや……その、ハ、ハハ」
 
 「情けないわね」
 
 フン、と鼻を鳴らす。
 
 それから、横目でシンジを睨むように見た。
 
 「あからさまに、おおっぴらにイチャつかれても、はったおすけどねェ……ここまで仲が知れ渡ってるクセに、今更コソコソ、ビクビクしてんじゃないわよ」
 
 「え……いや、その……」
 
 「シャキッとする!」
 
 「ハ、ハイ!」
 
 アスカに叱咤されて、思わずシンジは背筋を伸ばした。
 
 
 
 それから、気づいて慌てて口を開く。
 
 「あ、いや、その……え? な、なんで、二人とも……綾波が、その……いるっ……って、知ってるの?」
 
 ミサトが、ニッコリ笑って応えた。
 
 「だって……見てたもの」
 
 
 
 「え? ……な……なにを?」
 
 「レイが、シンちゃんにシッカリ抱きついて寝てるトコ」
 
 
 
 ぱくぱくと、口だけ動かすシンジ。
 
 汗だくだ。
 
 ミサトは、楽しそうに言葉を続ける。
 
 「昨晩、シャワーから出てきたら、シンちゃんの部屋の扉が開いてたからね。覗いてみたら、布団はだけてレイが抱きついてたのが見えたのよ〜」
 
 
 
 (あぐあ……)
 
 シンジは、脱力したように肩を落とした。
 
 
 
 そ……そうか……
 
 綾波は、別に見られて恥ずかしいとか思うことがないから、扉を閉めるとかは重要じゃないんだぁ……
 
 じゃぁ……今、扉が閉まってたのは…ミサトさんが、閉めたのか……
 
 
 
 「ま、心配しなくても……夜中によからぬことをしてたとまでは思わないわよ」
 
 ミサトが続けて言う。
 
 「よ、よからぬことって……け、今朝まで、綾波がいることにも気づいてなかったんですから」
 
 大汗をかきながら弁解するシンジ。
 
 「わかってるわよ。覗いたときの様子じゃぁ、シンちゃん熟睡してて朝まで起きそうになかったし」
 
 ニコニコしながら言う。
 
 「レイは、酔っ払ってたし」
 
 
 
 「は?」
 
 
 
 シンジが、間抜けな表情でミサトを見た。
 
 ミサトは、ニコニコしたまま応えない。
 
 アスカが、溜め息をつきながら口を開いた。
 
 「……昨晩、ミサトが酒を飲ませたんだってさ」
 
 「……え……えぇええええええ!!」
 
 
 
 「あらぁ……そんなに驚かなくたっていいじゃない。ビールは、人生最高の喜びよ〜」
 
 「……そ……それは、ミサトさんだけ!!」
 
 シンジが、複雑な表情で言う。
 
 「そんなに目クジラたてること、ないじゃない」
 
 アスカが言う。
 
 シンジは、眉間を押さえながら、横目でアスカを見る。
 
 「だから……ぼくらは、未成年なんだから……」
 
 
 
 「カタいカタい」
 
 シッシッ、という手の動きで、アスカがシンジをいなす。
 
 
 
 「しかし……」
 
 シンジが、力なく後ろを振り返った。
 
 「……そうすると……アレは……もしかして、二日酔い、かなぁ……」
 
 「あら? レイ、二日酔いなの?」
 
 「ああ……いや、なんか頭が痛いって」
 
 「二日酔いには、迎え酒がキクわよ〜」
 
 「ダ・メ・で・すッ!!」
 
 「なんでよォ、ホントにキクんだから……飲まないクセに否定だけするなんてよくないわよ〜」
 
 ミサトの不満そうな抗議の声。
 
 シンジは、一拍置いて、ゆっくりと息を吸い込むと……
 
 ……口を開いた。
 
 
 
 「ミサトさん、二日酔いが起こるメカニズムを知ってますか? アルコールを摂取すると、脳にもアルコール分が浸透します。酔って気持ち良くなるのはこのせいですから、わかりますよね。で、注射の前に腕を消毒するアルコール綿なんかでもわかりますけど、アルコールっていうのは、蒸発が早く、また蒸発する時に多量の水分を伴って失われます。スーッとするでしょう? 二日酔いが起こるのは、脳に浸透したアルコールが蒸発する際に、脳の水分が多量に失われるからです。つまり二日酔いの原因は脳の水分が足りなくなるせいですから、これを治すには水分を摂取するのが有効ですが、お酒を飲んでも頭痛が解消されます。お酒も、まぁ、水分ですから当たり前ですよね。そのために二日酔いが治ったような気がするわけですが……実際には、迎え酒もアルコールですから、これが蒸発するときに、また脳の水分が失われて元の状態に戻ってしまうんです。一時的に治った気になるだけで、解決にはなっていないんですよ」
 
 
 
 「はい……わかりました……スイマセン」
 
 ミサトが、あっけにとられたように応えた。
 
 
 
 「とにかく……じゃあ、綾波には頭痛薬かなにかを飲んでもらうのがいいのかな……」
 
 シンジが、自分の部屋の方を向きながら呟く。
 
 とりあえず……風邪とか、そういう病気じゃなくてよかった……
 
 けど……
 
 ……お酒、かぁ……
 
 シンジは、スタスタと歩いて薬箱を開け、中に入っていた頭痛薬を取り出した。
 
 ちなみに、包装にNERVのマークが入っているだけの、市販していない薬だ。
 
 NERVの医局製薬製剤部が作った薬で、よくわからないが市販のものより効きがいい。
 
 
 
 台所に行ってコップに水を注ぐと、薬を2錠持って、シンジは部屋に戻った。
 
 後ろからミサトとアスカがついてくる。
 
 
 
 扉を開けると、レイは出ていったときと同じように、扉の方に顔を向けて横になっていた。
 
 シンジの顔を見て少し表情を和らげたが、やはり、なんとなく眉間に皴が寄っている。
 
 「綾波」
 
 シンジは、レイに声をかけながら、ベッドの横に座る。
 
 なんとなくついてきたミサトとアスカも、シンジの後ろに座った。
 
 
 
 「綾波、起きられる?」
 
 シンジが、レイに言う。
 
 レイは、シンジを見て……ゆっくりと、体を起こした。
 
 「……あたま、いたいわ」
 
 「うん」
 
 シンジは、応えながら、レイの手に、持ってきた薬と水を渡した。
 
 「……なんの、クスリ?」
 
 「頭痛薬だよ」
 
 レイは、手のひらに転がるピンク色の錠剤を眺めて……口に含んで、コップの水を飲む。
 
 こくこくこく……
 
 一気に水を飲み干して、「ぷはっ」と小さく息をついた。
 
 
 
 空になったコップを見つめて……それから、シンジの方を見た。
 
 「……病気?」
 
 
 
 シンジの後ろに座っていたミサトが、シンジの代わりに応えた。
 
 「違うわよ、レイ。二日酔い」
 
 「……二日酔い……」
 
 「飲み過ぎたってコト」
 
 言って、後頭部をポリポリと掻いた。
 
 「ごめんねぇ〜、ビール5本は多かった? 大した量じゃないと思ったんだけど」
 
 「みんながミサトと同じだけ飲むわきゃないでしょ」
 
 アスカが、ボソッと言う。
 
 「ご……5本」
 
 シンジも、思わず頭を押さえる。
 
 ミサトでなくても……飲み慣れている人ならば、そんなに多いというほどでもない量だろう。だが、レイは、昨晩初めて酒を飲んだのだ。
 
 ちょっと、多すぎる。
 
 
 
 「お酒……もう、飲みません……」
 
 レイが、眉間にしわを寄せたまま、呟くように言う。
 
 「おいしくなかった?」
 
 「いえ……でも……こんなに、頭が痛いのでは……」
 
 「じゃぁ、ヘーキよ」
 
 ミサトが、笑ってウインクした。
 
 「昨日は、量を間違えただけ。加減を間違わなければ、おいしいし翌日まで引かないし、で、万々歳じゃない」
 
 「ミサトさん……だから、僕らはまだ未成年なんですってば」
 
 シンジが、体をねじってミサトの方を向き、溜め息をついて言う。
 
 ミサトは、そんなシンジの顔の前に指を立てて、舌を鳴らしながら左右に振ってみせた。
 
 
 
 「シンちゃん、ちょっと保守的よ。今どき、ハタチまで酒を飲まない若者がどこにいるの? 確かにね、飲み過ぎは体に悪いし、それを抑制するための法律は必要で、守るべきだと思うわ。
 
 でも、それは、そこまでしてやらないとわからない、馬鹿なコたちのための法律なの。
 
 シンちゃん、自分を見失うほど、お酒を飲む? そんなことないって、自分で理解できるでしょ?
 
 自分で自分を律せる人なら、お酒を飲んだって構わない。それはむしろ、体にもいいことなのよ」
 
 
 
 シンジは、思わず言葉を失ってしまった。
 
 ミサトの意見は、非常に乱暴だが的を射ている。言い返す要素は、咄嗟には出てこない。
 
 
 
 僕は、保守的、なのだろうか……?
 
 そこまで、色々と自分を縛ることはない、のだろうか。
 
 
 
 「全体的に言えることよね、シンジには……」
 
 アスカが、伸びをしながら言う。
 
 「エヴァに乗ってるときには、けっこうハチャメチャやるクセにさ。例えば、さっきのファーストとの仲を必死に隠そうとすることとか。まぁ、気持ちは理解できないわけじゃないけど」
 
 
 
 「う……うぅう〜ん……」
 
 意外とも言える評価を指摘されて、シンジは腕組みをして考え込んでしまった。
 
 ミサトとアスカ、双方から近い指摘がなされたということは、客観的にはそう見える要素があるということだろう。
 
 そんなことは考えたことが無かったが、気づいていなかっただけかも知れない。
 
 
 
 レイを大事に思っている。
 
 そのことには、自信がある。
 
 だが、それは、レイを縛っているのだろうか?
 
 レイには、自分で自分の道を歩いて欲しいと思っている。だが、そう言うシンジ自身が、レイの動きを制限している……?
 
 
 
 「ま、そこまで深く考えることはないわよ」
 
 考え込んでしまったシンジの肩を、ミサトが叩く。
 
 「シンジももうちょっと、気楽にやりなさいってことよ」
 
 アスカが続けて言い、立ち上がった。
 
 併せて、ミサトも立ち上がる。
 
 腰に手を当てて背筋を伸ばしてから……ミサトは、三人の方に向き直った。
 
 「さて……わたしは、これからNERVに行って、昨日の使徒戦の後始末をしなきゃ。あなたたちは学校でしょ?」
 
 「アタシはね」
 
 アスカが、パンパンと制服を払って、応える。
 
 「アタシは、って?」
 
 「ファーストがこんな調子じゃ、ファーストは休みでしょ。そしたら、シンジがほっとくわけないじゃない」
 
 「あ……なァるほど」
 
 「ちょ……ちょっとちょっと」
 
 
 
 勝手に進んでいく話に、シンジが慌てて口を挟む。
 
 「なによ、どうせそのつもりでしょ」
 
 アスカが、横目でシンジを見る。
 
 「い、いや、あのね……」
 
 シンジが言いかけたとき、自分の衣服を引っ張る感覚に気づく。
 
 
 
 シンジが見ると、レイがシンジのパジャマの裾をつまんでいた。
 
 「………」
 
 レイが、じっとシンジを見ている。
 
 「あ……綾波……」
 
 シンジも、思わずレイを見つめる。
 
 
 
 「ハイハイ」
 
 アスカが、肩を竦めて、大げさに溜め息をついた。
 
 ミサトが、手許のメモにペンを走らせる。
 
 「シンちゃんは、学校と訓練、休み、と……。学校に連絡、入れておきなさいね」
 
 「え、あの、ミサトさん」
 
 「じゃ、わたしはNERVに行くから。レイのこと、よろしくね〜」
 
 手のひらをヒラつかせて、ミサトはシンジの部屋を出ていく。
 
 
 
 あっけにとられるシンジに、アスカが声をかけた。
 
 「前言撤回するわ、シンジ」
 
 「え? ……なにが?」
 
 「ファーストとのコト。これ以上オープンになられたらむずがゆくて死にそうになるから。アンタら、これっくらいで丁度いいわよ」
 
 「え……いや、その、ハイ?」
 
 「じゃ、アタシは学校に行くから。みんなには、シッカリ『ファーストの看病してる』って言っといてあげるからね」
 
 「え! ちょ、ちょと、待……」
 
 慌てて、顔を赤くして否定しようとするシンジだが、アスカは取り合わずにきびすを返した。
 
 そのまま、スタスタと扉のところまで歩いていって……
 
 ノブに手をかけて、少しだけ振り返る。
 
 
 
 「それに……アンタも、少しは休みなさいよ」
 
 
 
 「……え?」
 
 シンジが、一瞬意味を咀嚼しかねているうちに、アスカは部屋を出ていく。
 
 扉が閉まり、レイと二人きりになった。



二百八



 その日一日、シンジはレイのそばにいて、彼女を看ていた。
 
 
 
 二日酔い、と言うのは、世間一般的に見れば「病気」の内には入るまい。
 
 「飲み過ぎ」という、飲酒者本人の過失によるものであるし、どちらにしても放っておけば治るのだ。
 
 だが、辛そうにしているレイを放っておくことなど、シンジにはできるはずもなかった。
 
 
 
 これも、過保護と表現することができるだろうか?
 
 昼食を作りながら、シンジは考える。
 
 今回の「二日酔い」という結末は、飲酒が二日酔いを引き起こすという因果関係にレイが思い至らなかったうえに、ミサトの誘いがキッカケだったとはいえ……レイ本人が引き起こしたことだ。
 
 シンジが、必要以上に世話してやる必要はないのかもしれない。
 
 だが、そうすることは、シンジにはできない。それに、シンジが突き放すことが、今のレイにとって平気かどうか、判断しかねる。
 
 そういうことを思うと、レイは、まだ成長の途上にあるのだ、と再認識させられる。
 
 普通のクラスメートにするような対応が、レイに対してするには、まだ不安が残るのだ。
 
 
 
 シンジは、焼きそばを作った。
 
 頭痛がするだけで病気でもなんでもないのだから、料理は普段作るものと変わらない。
 
 
 
 「綾波、食事だよ」
 
 シンジが部屋に呼びに行くと、ベッドに横になって天井を見ていたレイが、頷いて起き上がった。
 
 「まだ、頭いたい?」
 
 「もう……ほとんど、大丈夫」
 
 「そう、よかった」
 
 二人は、連れだってリビングに入った。
 
 
 
 レイの食事する様子を眺めるかぎり、食欲が失われているわけではないようで、シンジは軽く安堵した。
 
 レイは結局、普段シンジが用意する量と同じだけ食べた。
 
 紅茶を飲みながら、食後の胃を落ち着ける。
 
 
 
 午後の風が、カーテンを揺らして、かすかに部屋の中に流れ込んでいた。
 
 
 
 「……わたし」
 
 不意に、レイが口を開いた。
 
 シンジがレイを見ると、レイは手許のティーカップを小さくくゆらせて、中で動く水面を見ている。
 
 「え? なに?」
 
 シンジが、聞き返す。
 
 レイは、すぐには言葉を続けず……しばし、揺れる水面を見つめて……
 
 再び、口を開いた。
 
 
 
 「……きっと……碇君の言うことを、聞かなかったからこういうことになったのね……」
 
 
 
 シンジは、思わず、絶句した。
 
 深読みすればそういう因子もないとは言えないだろうが、それにしても発想が飛躍し過ぎだ。
 
 「い……いや、僕がどうのっていうわけじゃなくてね……」
 
 「……ごめんなさい」
 
 レイが、俯いて呟く。
 
 
 
 シンジは、固まってしまった。
 
 
 
 朝から、ずっと……そんなことを考えていたのだろうか。
 
 シンジは、苦しくなった。
 
 自分の取るべき道は、どこへ向いているのか?
 
 レイ自身の足で歩いて欲しい、と願いながら……無意識に、レイの道を選んでしまっているのだろうか?
 
 
 
 シンジは、立ち上がって、レイの横の席に移動した。
 
 レイは、シンジを見る。
 
 
 
 シンジも、レイを見る。
 
 
 
 「綾波……考えて欲しいんだ」
 
 シンジは、静かに口を開いた。
 
 
 
 「綾波……
 
 今回、確かに綾波は、僕が言ったこととは違う行動をとったよね。
 
 今まで、あまりこういうことはなかったのに……。
 
 ……でも、さ。
 
 僕は、思うんだよ。綾波……綾波は、ビールが飲んでみたかったんでしょ? ミサトさんが美味しそうに飲んでるし、アスカも飲んだことがあると言うし。どんな味がするのか、知りたかったんでしょ?
 
 ……それは……綾波。
 
 きみが、決めたことなんだ……。
 
 僕がどうこう言うことじゃ、ない」
 
 
 
 レイは、かすかに首をかしげる。
 
 シンジの言いたいことを、掴みかねているらしい。
 
 シンジにはそれがわかったが、そのまま途切れることなく話を続けた。
 
 
 
 「綾波……綾波が決めたことに、口を出す権利なんて、僕にはないよ。
 
 助言はすることがある。今回とか、今までみたいにね。
 
 でも、決めるのは綾波なんだ」
 
 「碇君の言うことには……間違いなんて、ないわ。碇君の言うことに従っていれば、それが一番正しい」
 
 「違う。それは、違うよ」
 
 シンジは、レイの言葉を否定した。
 
 内心、驚いていた。
 
 レイの中で、自分の発言がこれほどまでに影響力を持ってしまっていることは……歓迎すべきことではない。
 
 何か、間違えたのかもしれない。
 
 ここまでの道に……何か、誤りがあったのかも知れなかった。
 
 
 
 どこで間違えたのか、わからない。
 
 だが、このままにはできない。
 
 
 
 「綾波……」
 
 シンジが、レイの目を見つめたまま、言葉を発する。
 
 「……はい」
 
 レイが……静かに、応える。
 
 
 
 「……僕が、全てにおいて正しいなんて、思っちゃいけない」
 
 「………」
 
 「僕は……綾波やアスカと違わないよ。ただの人間だ。正しくありたいとは思うけど、はっきり言って自信ないよ」
 
 「……今まで……碇君は、間違ってなんか、なかった」
 
 「違う。違うよ」
 
 「………」
 
 「綾波……聞いて欲しいんだ。
 
 僕の言うことに従って生きること……
 
 何も考えずに、僕の言うことだけを信じて進むこと。
 
 それは、僕と出会う前と、何が違うの?」
 
 
 
 レイは、一瞬にして硬直した。
 
 赤い瞳を大きく見開いて、シンジの顔を凝視したまま、動かない。
 
 
 
 シンジにとって、この言葉を言うべきかどうかはわからない。
 
 だが、他にわかってもらえる方法が、思い付かなかった。
 
 慎重に……言葉を選ぶように、口を開く。
 
 
 
 「綾波……今、僕と出会う前に戻りたいと思うのかい? あのころの……何も知らなかった自分に。
 
 僕は、戻りたくない。綾波と出会ってからの僕は、昔の僕とは違う。
 
 綾波。僕は、綾波と一緒に、ここまで来たんだ。
 
 
 
 ……綾波。綾波は、どう?
 
 今、僕と出会う前の自分を、どう思ってるの?
 
 何も変わっていないのか……それとも、何か変わっているのか。
 
 僕と一緒にいた時間は……ただ、流れていただけなのかい?」
 
 
 
 レイは、激しく動揺した。
 
 それは、端から見てわかるほどの、動揺。
 
 
 
 レイは、シンジと出会う前の自分に戻りたいなどと、露ほども思わない。
 
 それは、シンジと出会って、はっきりと変わった自分がいるからだ。
 
 
 
 人の暖かさを。
 
 人を想う気持ちを。
 
 人を好きになる苦しさを。
 
 一人でいることの寂しさを。
 
 結ばれる絆の暖かさを。
 
 触れあう心の優しさを。
 
 自分に、心があることを。
 
 
 
 レイは、知っている。
 
 
 
 それは、シンジが教えてくれたのだ。
 
 
 
 何よりもかけがえの無い、大事な、宝物。
 
 
 
 それを忘れることなど、万が一にもあり得ない。
 
 それはすべて、昔の自分には、誰も教えてくれなかった……シンジだけが教えてくれた、シンジが初めて教えてくれた、心だった。
 
 
 
 「……わたし」
 
 レイが、掠れるような声で、呟く。
 
 シンジは、じっとレイを見つめている。
 
 「……わたし……」
 
 俯いて、言葉を探すレイ。
 
 言いたいことはある。伝えたい想いはある。だがそれを、言葉にすることが出来ない。
 
 
 
 シンジが、優しくレイの肩に触れた。
 
 レイの身体が震える。
 
 「綾波……」
 
 レイは、応えない。
 
 
 
 「人の言うことだけに従っていたら……それは、綾波にとって、何も考えていないことと変わらないよ。
 
 以前の、人形のような自分を覚えている?
 
 あのころ、もしも父さんに……死ね……と言われたら……綾波は、どうしたと思う?
 
 自分で、わかるだろう?
 
 そうすることに、疑問も抱かなかったんじゃないか」
 
 「………」
 
 「綾波……もしも、いま、同じことを僕が言ったら……どうするの」
 
 
 
 レイの思考は、滑り出すことすら出来なかった。
 
 完全に、固まっている。
 
 
 
 それは、選ぶことの出来ない選択だった。
 
 もしも、ゲンドウに死ねと言われれば、昔のレイならば躊躇なく死んだだろう。
 
 それは、レイにとって大事なのが「ゲンドウの命令」であり、自分自身ではなかったからだ。
 
 
 
 今は、どうだろう?
 
 
 
 シンジとの絆は、何よりも代え難い。それこそ、命を差し出してでも、失うわけにはいけないもの。
 
 だが……
 
 死んだその先に、シンジとの絆があるだろうか?
 
 
 
 ゲンドウの命令は、それ自体が大事だった。それ以外の全てに意味はなかった。
 
 シンジとの絆は、違う。
 
 シンジの言葉。
 
 シンジの肌の温もり。
 
 シンジの優しいまなざし。
 
 シンジと過す時間……。
 
 
 
 その全てが、かけがえがなく、失いたくない。
 
 
 
 シンジの言うことを聞けば、その全てを失うのだ。
 
 自分の中では永遠になるのかも知れないが、同時に、何も感じられなくなる。
 
 ……もう、
 
 二度と。
 
 
 
 レイの瞳から、涙が溢れた。
 
 
 
 それは、今の彼女には、選ぶことの出来ない問題だった。
 
 
 
 シンジは、レイの身体を抱き寄せた。
 
 レイは、勢いで椅子から腰を浮かせ、そのままシンジの胸に雪崩れ込む。
 
 シンジがその頭を優しく抱えると、シャツごしにレイの涙を感じた。
 
 「……ごめん……ひどいこと言って、ごめん、綾波」
 
 「……ぅ……ぅ……」
 
 かすかに、嗚咽が漏れる。
 
 シンジは、優しく髪の毛を撫でた。
 
 
 
 「……聞いて、綾波……」
 
 シンジは、優しくその蒼い髪の毛を撫でながら、耳許で囁くように言葉を紡いだ。
 
 
 
 「綾波……なぜ、今の問題を、決められないんだと思う?」
 
 「………」
 
 「……綾波……綾波は、死んでしまうなんて、嫌だったんだろう? 昔なら、躊躇なく選べたことを、今は選べない。それは、死にたくないからだ。失いたく、ないからだよ。
 
 昔とは、もう、違うんだ」
 
 「……でも……でも……」
 
 「綾波……じゃあ、死にたくないのに、躊躇なく『死にたくない』と、言えないのは何故?」
 
 
 
 「……いかり……くん……が……
 
 しね……と……言うのなら……」
 
 
 
 シンジが、レイの頬を両手で優しく包む。
 
 抱きかかえていた姿勢から、ゆっくりとレイの顔を離し、自分の前に持ってくる。
 
 レイの、濡れた瞳……
 
 戸惑いの色が、渦巻く、紅。
 
 
 
 「そこだよ」
 
 シンジが、優しく微笑んだ。
 
 
 
 「綾波……綾波が苦しむのは、何かが間違ってる。
 
 綾波が苦しむ状態が、正しいはずがないよね?」
 
 「………」
 
 「じゃぁ……何が、間違ってるんだろう?」
 
 
 
 レイには、答えられない。
 
 シンジが、レイの目の下にこぼれていた雫をひと粒、親指で優しく拭き取った。
 
 
 
 「今の問題で……間違ってるのは、僕だよ」
 
 
 
 「……そんな、こと……ないわ!」
 
 レイが、掠れた声で抗議した。
 
 その声は、弱々しい。
 
 シンジは、言葉を紡いだ。
 
 「僕が間違っていなければ、どこか間違ってる?
 
 僕の言う言葉が間違いなら……綾波に、その……死ね、なんて言わなければ、全てが丸く収まると思わないかい?」
 
 「……そんな、こと……」
 
 「僕が間違ってるんだよ。そういうことだって、あるんだ」
 
 「……碇君は……私に、死ね……なんて……言わない……」
 
 「もちろん、言わないよ! 絶対に、言うもんか。
 
 でも、もし言ったらどうするの? 僕の言うことなら何でも信じる、じゃぁ駄目なんだ。綾波が、僕の言葉を聞いて……信じるか信じないか、自分で選ぶんだ」
 
 「……碇君を……信じない……なんて……」
 
 「綾波……人間は、万能じゃないんだよ。完璧な人間なんて、いないんだ。
 
 最後に決めるのは、他人じゃない、自分なんだ。
 
 
 
 綾波は、綾波がしたいようにするんだ。
 
 僕が、綾波がしたくないことをさせようとしたら、抵抗するんだ。
 
 僕が間違っているって、僕に教えてよ。
 
 僕らは、主従の関係じゃないだろ? 綾波が、僕を正してくれたらいい。
 
 僕が綾波に助言するように……綾波が、僕に助言をしてくれたらいいんだ」
 
 
 
 レイには、答えられなかった。
 
 シンジの言うことは、理解できるが、理解できなかった。
 
 わかるけれど、わかりたくない。
 
 
 
 黙って俯いてしまう、レイ。
 
 シンジは、その身体を、もう一度……優しく、抱いた。
 
 
 
 「綾波……ごめんよ……
 
 でも……僕を信じるなら……今の言葉を信じて欲しい。
 
 全ては……自分で、決めるんだよ」



二百九



 アスカとミサトは、夕方になって帰宅した。
 
 
 
 シンジがレイに話した言葉はレイに動揺を与えていたが、それを二人に悟られることはなかった。
 
 一見すると、普段と変わらないように見える、レイ。
 
 だが、もともと感情表現が少ないから、変化が際立たないだけだ。ミサトやアスカは何も感じていないようだが、当事者であるシンジには、レイが動揺から立ち直っていない様子が感じられた。
 
 
 
 夕食後……レイは、早々に自分の家に戻った。
 
 もともとレイは、普段ならば、最後まで葛城邸を離れたがらない。
 
 ……と言うより、シンジの側を離れたくないと言う方が、的確だろう。
 
 わがままを言わず、ある程度遅い時間になったら帰宅しているが……それでも食後の歓談の時間は楽しみにしていたはずだ。
 
 
 
 レイがとっとと自分の家に戻ってしまったことを、アスカやミサトは不思議がった。
 
 「ケンカしたの? シンちゃん」
 
 と怪訝な表情で尋ねられたが、シンジは笑って否定した。
 
 
 
 レイは、自分の中で咀嚼できずにいる、と、シンジは思った。
 
 先程の、命題を。
 
 即座に処理出来ないのだ。
 
 
 
 自分自身が決める……イコール、シンジの言うことに必ずしも従わないこと。
 
 そのことと、シンジとの絆をかけがえなく思うことは、全くの別問題だ。
 
 だが、まだレイには、その違いが明確に感じられない。シンジの説明したように、シンジの言葉を受け入れないことがあってもよいという事実は、シンジとの絆を軽んじるような気がして受け入れ難いのだろう。
 
 
 
 後を追いたい衝動に駆られたが、あえてシンジはとどまった。
 
 今、自分が助言することは、意味がないような気がする。
 
 それこそ、自分がレールを引いてしまうことになるだけという気がする。
 
 
 
 シンジは、レイに助言した。
 
 別れ道まで、導いた。
 
 そのあと、どうするか決めるのは、レイ自身だ。
 
 先程までの問題が、まさに、早速……今、訪れているのだ。
 
 
 
 レイの選択を、待つしかない。
 
 シンジには、それが分かっていた。
 
 
 
 夜も、10時を回っていた。
 
 いつもいる面子の一人がいないことは、どことなく場の居心地を悪くさせ……
 
 ……シンジやミサトは勿論として、アスカでさえも違和感を感じているようだった。
 
 
 
 「……戻って来ないわね」
 
 テレビ画面を眺めながら……アスカが、ボソッと呟いた。
 
 主語が抜けているが、誰のことを指しているかは、この場の全員が理解していた。
 
 「……寝ちゃったんじゃ、ないかしら? ホラ……もう、夜も遅いから」
 
 ミサトも、取り繕うように声を出す。
 
 アスカが、身体を少しだけ捩って、後ろの椅子に座るミサトを見た。
 
 「眠いんなら眠いで……何も言わずに戻っちゃったりする? 少なくとも、シンジに一言あるはずだわ……ヘンよ、やっぱり」
 
 そして、シンジを見る。
 
 
 
 シンジは、黙って紅茶を飲んでいるところだった。
 
 アスカに視線を向けられて、シンジもアスカを見る。
 
 「なに? アスカ……」
 
 「……アンタたち……やっぱり、ケンカかなにか、したんじゃないの?」
 
 「してないってば」
 
 「じゃぁ……なんで、アイツのこと心配しないのよ。いつもなら、アイツの家まで見に行くクセに……なんで、今日だけ追わないの?」
 
 「……偶然だって……別に、ケンカしたわけじゃないんだから……追うことなんて、ないじゃないか」
 
 言いながら、シンジは紅茶を飲む。
 
 
 
 ……実際には、見に行きたくて見に行きたくて見に行きたくて見に行きたくてたまらないのである。
 
 心配で心配で心配で心配でたまらないのだ。
 
 
 
 だが、とにかく今晩は、見に行かない……と、決めたのだ。
 
 絶対に、邪魔はしない……と、決めて動かなかったのである。
 
 
 
 ミサトは、何も言わなかった。
 
 明らかに、シンジとレイの様子がおかしいことには勘付いているようだったが……あえて、口出しはしない、と決めているようだった。
 
 
 
 時計の針が、11時を刻み……
 
 アスカが、ゆっくりと立ち上がった。
 
 「……じゃぁ……そろそろ、帰るわ」
 
 気の抜けたような声。
 
 アスカにとって、いつの間にか……この時間帯、そこにいるレイの姿は、ぴったりとはまったパズルのピースのような存在になっていたのだ。
 
 欠けていることが、非常に不自然な心地。
 
 だが、どう埋めていいのかは、よくわからない。
 
 
 
 アスカが、のろのろと廊下を歩いて、玄関に足を踏み入れようとした、そのとき……
 
 
 
 バン!
 
 
 
 急に、玄関の扉が開いた。
 
 
 
 アスカも、シンジも、ミサトも、呆気にとられたような表情で扉を見ていた。
 
 そこに立っていたのは、レイだ。
 
 目が赤く……先程まで泣いていたことが分かった。
 
 
 
 「ア……アン、アンタ……なにをやって……」
 
 咄嗟のことに言葉が出ず、どもるように口を開くアスカ。
 
 だが、レイはそんなアスカには目もくれず……
 
 靴を脱ぐと、そのままずんずんとリビングの中に入ってくる。
 
 
 
 シンジの前に、立った。
 
 
 
 アスカもミサトも、何が起こったのか……これから何が起こるのか全くわからず、声を出すことが出来ない。
 
 シンジも、レイがどういう結論を出したのかわからず……ただ黙ってレイを見つめることしか出来なかった。
 
 
 
 一拍おいて……
 
 
 
 ぼふっ。
 
 
 
 レイは、シンジの胸にしがみついた。
 
 
 
 「……う……うっ……ぅぅっ……」
 
 そのまま、レイは涙を流した。
 
 何が何やら訳が分からない、アスカとミサト。
 
 シンジは、レイの行動に驚いたが……黙って、レイの身体を抱いた。
 
 「ごめん……苦しめて……ごめん」
 
 呟くように、シンジが言う。
 
 
 
 シンジのTシャツにしがみついたまま……
 
 レイは、くぐもった声を出した。
 
 
 
 「……碇、くん……
 
 わたし……
 
 がんばる……がんばるから……」
 
 
 
 シンジには、それだけで充分だった。
 
 割り切ることは出来なかったのかも知れない。でも、レイは理解している。
 
 そうなるべきだ、とわかっている。
 
 
 
 それで、充分だった。
 
 
 
 「いっしょに……がんばろう、綾波……」
 
 「……うん……」
 
 シンジは、呟いて、腕の力を込め……レイも、黙ってその身を任せた。
 
 
 
 ……その光景を、部屋の隅に立って見ている、ミサトとアスカ。
 
 「よくわかんないけど……めでたしめでたし、なのかしらねぇ」
 
 ミサトが、横に立つアスカに、小声で囁いた。
 
 
 
 アスカも、憮然とした表情で応えた。
 
 「まったく……結局なんだったのよ。……要するに、アタシたちは、いちゃつきを見せ付けられただけ?」
 
 
 
 だが、その口許には、かすかな微笑みが浮かんでいた。
 
 
 
 ……やっと、埋まった。
 
 ……大事な、ピース。
 
 
 
 ……こうで、なくちゃ……
 
 アスカは、穏やかにそう思った。