第四十七話 「眠り」
二百



 三体のエヴァは、弐号機に限らず、そのどれもが内部電源を使い果たしていた。
 
 自力でNERVに戻ることはままならず、NERVの回収班を待つことになる。
 
 
 
 「エントリープラグ、イジェクト」
 
 シンジが独り言のように言うと、一瞬プラグの内壁が明滅し、そのあと、ゴコン……という振動とともに、プラグが後ろ側へ移動するGを感じる。
 
 少し移動したあと、ややあって固定される感覚。
 
 シンジは立ちあがると、LCLを泳いでプラグのハッチを開けた。
 
 
 
 バガン!
 
 
 
 大きな音とともに、圧着されていたハッチが外側へスライドする。
 
 バシャァアァァ……と、音を立ててLCLがあふれ出した。
 
 
 
 水面から顔を出して、シンジは肺の中に溜まったLCLを吐き出す。
 
 体に取り込んだものを無理矢理吐き出すような作業で、何度やっても嫌なものだ。
 
 だが慣れとは恐ろしいもので……最初の頃は咳き込んで胸が痛くなるほどだったが、今は気持ちの悪さが感覚としてあるに過ぎない。
 
 
 
 シンジは、濡れて額にまとわりつく前髪を掻き上げながら、辺りを見回した。
 
 
 
 そこは、クレーターの中心だった。
 
 初号機が立っている場所を中心に、地面が擂鉢のようにえぐれている。クレーターの縁は、見る限り数キロから数十キロ遠くにあり、あの一瞬に弾けたエネルギーの凄まじさを物語っていた。
 
 
 
 初号機の横には、零号機と弐号機が、同じように内部電源を使い果たして佇んでいた。
 
 
 
 シンジの見ている前で、零号機の頚堆がせりあがり、軽い空気音を響かせて後ろに反れる。
 
 開いた場所から、零号機のエントリープラグがズリッと外に飛び出した。
 
 
 
 プラグのハッチが開き、中からLCLが溢れる。
 
 
 
 水面をかき分けるように、蒼銀の髪が姿を見せた。
 
 
 
 シンジは、それをただじっと見つめていた。
 
 水面から、愛しい少女のその半身が現れる。
 
 レイの髪も、シンジのそれと同じように、水分でぴったりと額や頬、うなじに貼りついている。
 
 若干クセのあるレイの髪は、しかし、すぐにいくつかの小さな束になって、ぴん……ぴん、とはじけて滴を垂らす。
 
 レイが、犬がするように、ぶるぶるっ、と頭を振った。
 
 LCLが、小さな水滴となって、彼女の周りに散った。
 
 
 
 それは、幻想的な光景だった。
 
 使徒の爆発で雲が吹き飛び、ここ数日のうちでもとびきりの青空。
 
 その、いっぱいに降り注ぐ陽の光が、彼女の周りに浮かぶ水滴をきらめかせている。
 
 光の粉。
 
 それをまとう、美しい少女。
 
 ゆっくりと開かれるまぶたは物憂げで、どこか、違う世界を見つめているかのようだった。
 
 
 
 背景に広がる、一面のクレーター。
 
 汎用人型決戦兵器、エヴァ。
 
 レイの身を覆う、無粋なプラグスーツ。
 
 現実の世界を感じさせるそれらの物が、むしろ、逆に場違いに感じられるほど、レイ自身が大きな光を放っていた。
 
 
 
 彼女自身が、輝いて見えるほどに……。
 
 
 
 レイが、ふと、シンジの方を向く。
 
 シンジは、思わずどきりとする。
 
 
 
 シンジの姿を、その真紅の双眸に映して……レイは、咲きほころぶ花のように、ぱぁっ……と微笑みを顔一杯に浮かべた。
 
 
 
 ……なんて……かわいいんだろう……。
 
 思わず、すでに何回考えたかわからない想いが、頭に浮かぶ。
 
 
 
 碇君!
 
 レイの口が動く。
 
 とは言え、距離が離れていることと、ちょうど吹き始めた風のせいで、その声まで聞き取ることはできない。
 
 シンジは、ただ片手を上げて応える。
 
 レイも、嬉しそうに目を細めるに止まった。
 
 
 
 そう言えば、とシンジは視線を動かす。
 
 アスカが、出てこない。
 
 何をやっているのだろう?



二百一



 ほどなくして、NERVの回収班がエヴァのところまでやってきた。
 
 大型ヘリが、上空をホバリングして、ロープを垂らす。
 
 シンジは、ロープの先についた輪に体を固定すると、手首のボタンを押して信号を発信し、引き上げてもらう。
 
 
 
 ヘリの中は、向かい合わせにシートが4脚設置されている。
 
 乗り込むと、中にはミサトが待っていた。
 
 シンジがロープをほどいて椅子に腰掛けると、待っていたかのように、ミサトがシンジに飛びついた。
 
 
 
 「ミッ……ミサトさん?」
 
 戸惑うように、シンジは声を出す。
 
 ミサトは、シンジの首をぎゅっと抱き締めたまま、応えない。
 
 シンジも、どうしてよいのか分からずに固まってしまった。
 
 
 
 「……わたし」
 
 ミサトが、呟くように、声を出した。
 
 
 
 「終わった、と、思ったわ……」
 
 
 
 「………」
 
 シンジは、黙ってミサトの言葉を聞いた。
 
 自分の首筋にうずめられたミサトの口から、殆ど囁くような言葉が続いていく。
 
 
 
 「……ごめんなさい」
 
 「……ミサト……さん?」
 
 「……ごめんなさい……考えては、いけないことだわ……」
 
 「………」
 
 「あなたたちは……諦めなかった。あの瞬間……どんなに、自分が恥ずかしくて……そして……あなたたち……が……誇らしかったか……」
 
 「……そんな」
 
 「シンちゃんも……レイも、アスカも、大好きよ。
 
 あなたたちに会えて……
 
 ……よかった……」
 
 
 
 再び、場が、静寂に包まれた。
 
 
 
 そのまま、固定……
 
 ……していたところに、レイが上がってきた。
 
 
 
 嬉しそうな微笑みを浮かべて上がってきたレイ。
 
 だが、目の前で、シンジがミサトに抱きしめられている。
 
 レイは、その様子を見るや、ビキッと表情を固まらせた。
 
 
 
 一拍置いて……ツカツカッとそばまで歩いてきたレイは、ミサトの襟を掴んで、強引に引き剥がす。
 
 「あららららら」
 
 「あ、綾波……」
 
 そのままシンジから完全にミサトを引き剥がしたレイは、ミサトを睨みつけて、ぎゅぅっとシンジを抱き締めた。
 
 
 
 「あ、あ、あやなみ……」
 
 レイの双丘に頬を押しつけられるような体勢で、顔を真っ赤にするシンジ。
 
 「………」
 
 レイは、シンジを抱き締める腕にますます力を込めながら、じぃっとミサトを睨む。
 
 
 
 ミサトは、そんなレイの顔を、むしろ楽しそうに見つめていた。
 
 「……だぁ〜いじょうぶよ、レイ。誰も、あなたのシンちゃんを取ったりしないから」
 
 
 
 レイの、このらしからぬ突然の行動は、出撃前のアスカの態度に端を発していた。
 
 シンジのことを、周りのみんなが好きになっていくのでは、という恐怖に駆られたのである。
 
 だが、ミサトは、それを楽しそうに否定した。
 
 「……だいたい、レイ一筋のシンちゃんが、他の女の子になびくわけがないじゃない」
 
 「い、いや……その」
 
 赤くなって頭を掻くシンジ。
 
 レイは、きょとんとした表情で、その言葉を聞いて、それから、抱き締めたシンジの顔を覗き込む。
 
 「碇君…………………………………………そう?」
 
 「え……やぁ、その……えぇ……まぁ……その………………ぅん」
 
 真っ赤になりながら、ぼそぼそと答えるシンジ。
 
 できれば、こういうことは、二人きりのときに聞いて欲しいものである。
 
 
 
 レイは、そのシンジの言葉を聞いて……嬉しそうに顔を綻ばせると、さらにぎゅぅっとシンジの頭を抱き抱えた。
 
 「あ、あ、あやなみ、ちょっ……ま」
 
 「あらら、あいも変わらずラブラブねぇ」
 
 慌てるシンジに、ミサトがニヤニヤしながら声をかける。
 
 「あ、今の『あいもかわらず』の『あい』は愛情の愛だから」
 
 「何を言ってるんですかぁ、ミサトさん!」
 
 
 
 「ホンッットに……相も変わらず、所かまわず……あんたら、バカじゃないの?」
 
 
 
 突然聞こえてきた声に、三人が振り返った。
 
 「アスカ!」
 
 ミサトが、声を上げる。
 
 
 
 ヘリの縁に足をかけ、長い髪を蒼天にたなびかせているのは、惣流・アスカ・ラングレーであった。
 
 
 
 ロープを離して中に入り込むと、シンジの正面……ミサトの横の座席に腰を降ろした。
 
 レイが、今度はアスカを睨む。
 
 アスカは、チラリとそんなレイを見て、頭の後ろで手を組んだ。
 
 「そんな顔で睨まなくたってね、取りゃぁしないわよ、そんなやつ」
 
 溜め息をつきながら、アスカが言う。
 
 レイは、そう言われて、初めて……少し、安堵の表情を浮かべた。
 
 そんなレイの腕を、シンジがポンポンと叩く。
 
 レイが気付いてシンジを見ると、シンジがくぐもった声で呟いた。
 
 「あの……綾波さん……ちょっと、苦しいです」
 
 
 
 バッ、と、物凄い早さでレイが腕を解く。
 
 シンジは、赤い顔をしたまま、咳ばらいをして居ずまいを正した。
 
 
 
 レイは俯いて、小さな声で呟いた。
 
 「……ごめん……なさい……碇君……」
 
 慌てて、シンジが応える。
 
 「あ、いや、そんな気にするほどじゃないよ」
 
 「むしろ、気持ちよかったんでしょ、シンジ?」
 
 「ア、ア、アスカ!」
 
 頬杖をついてフフンと笑うアスカに、大汗のシンジ。
 
 
 
 レイは、そんなアスカを不思議な視線で見つめる。
 
 そう言えば……出撃前の、あの……張りつめた印象は、どうしてしまったのだろう。
 
 今の彼女は、いつもと変わらないように見える。
 
 ……なぜだろう?
 
 
 
 ミサトはしばし、そんな騒動を目を細めて見ていた。
 
 
 
 だが、やがて一転して、表情を引き締める。
 
 ゆっくりと、口を開く。
 
 「……ところで、アスカ」
 
 ミサトに呼びかけられたアスカは、横に座るミサトの方に振り向く。
 
 「なに? ミサト」
 
 「……なぜ、スタートダッシュが遅れたの?」
 
 
 
 場が、沈黙した。
 
 
 
 ミサトが、静かに言葉を紡ぐ。
 
 「人間、誰でも失敗はあるわ。それを、悪いと決めつけるつもりはない。
 
 でも、あの時の遅れは何? 今まで、ずっと訓練してきて……どうして、あそこで失敗したの? ミスれば人類が滅亡するようなときに、なぜ気を抜いたの?」
 
 
 
 気を抜いた、とミサトが表現したのには、理由がある。
 
 あの、ダッシュ直前の、弐号機プラグ内の映像。
 
 アスカは、顔を伏せていた。音声が生きているのに、発令所からの連絡も聞いていなかった。
 
 これから人類の存亡をかけた決戦が始まるというときに、その鍵を握る人間が取る態度ではあるまい。
 
 
 
 アスカは、自分の手を見つめたまま、沈黙した。
 
 そして、数瞬。
 
 ゆっくりと、口を開く。
 
 
 
 「……言えない」
 
 「……言えない? なぜ?」
 
 「……それも、言えないわ」
 
 
 
 再び、沈黙。
 
 
 
 「……悪かったと、思ってる」
 
 アスカが、小さな声で呟く。
 
 それは、一見すると、都合のいい逃げ文句のようにも聞こえるが……アスカは、真面目だった。
 
 「言い訳はしない。理由も言えない……でも、信じて。手を抜いてたわけじゃない。……必死だった」
 
 そう言うアスカの視線には、揺るぎない意志の光が感じられる。
 
 少なくとも、この場の出任せで言っている訳ではない。
 
 それを、ミサトも感じた。
 
 
 
 何より、ミサトが驚いたこと。
 
 こういったことを、そう……例えば、ミサトと二人きりの場で言ったのなら、まだわかる。
 
 だが、ここには、シンジやレイがいるのだ。
 
 ……にも関わらず、隠すでも逃げるでもなく……謝罪と、今の心境をはっきりと語ったことに、ミサトは小さな驚きを覚えていた。
 
 
 
 ……それは、シンジも、感じていた。
 
 何があったのか、わからない。
 
 ……だが、アスカは何か……大きく変わり始めている、とシンジは気付いていた。
 
 
 
 ミサトは、この件を深く追求するのをやめた。
 
 言えない、と、この瞳で言われては、おそらく本当に言わないだろう。
 
 結果的には作戦は成功したのだし……誉めるに値するデータも、あるのだ。
 
 ミサトは、座席の横に放り出してあったバインダを手に取った。
 
 「ま……反省してるようだし……その件は、このくらいにしておくわ」
 
 言いながら、ページをめくる。
 
 
 
 アスカは、少々驚いたように、そんなミサトを見ている。
 
 なにかしらの沙汰があるもの、と思っていたらしく、お咎め無しだったことに驚きを禁じ得ないのだろう。
 
 
 
 ミサトは、行きつ戻りつしながらバサバサとページをめくり、やがて、お目当ての一枚を見つけ出した。
 
 にんまりとした表情で、くるりとバインダを回すと、見開きを三人に見えるように突き出した。
 
 三人は、何事かと覗き込む。
 
 
 
 「うふふ」
 
 ミサトが、にこにこと笑みを漏らした。
 
 「今回の、作戦時での……三人の、シンクロ率のデータよぉ〜」
 
 
 
 それは、横軸に時間、縦軸にシンクロ率を数値に持った、折れ線グラフだった。青、赤、紫の三本のラインが印字されている。
 
 
 
 一番上をいくのは、紫のライン……もちろん、シンジだ。
 
 作戦開始時刻の少し前あたりから爆発的にラインが上向き、ダッシュから10秒後には、ピーク近い250%前後に到達している。
 
 
 
 二番目をいくのは、赤のライン……アスカだ。
 
 作戦開始後、数秒の間はわずか40%というシンクロ率だが、その後、突然130%までシンクロ率が引き上げられている。
 
 
 
 三番目が、青のライン……レイ。
 
 70%のあたりを作戦開始前から維持していたが、作戦開始後10秒前後でシンクロ率が急速に上昇し、最終的には110%前後まで達している。
 
 
 
 「三人とも、自己記録更新ね」
 
 ミサトが、にっこりと微笑んで、そう言った。
 
 
 
 複雑だったのは、シンジだ。
 
 いままで……アスカとのシンクロ率の差を意識して、あまり開かないようにしてきた。
 
 それが、作戦中の極限状態とはいえ、一気に引き離した形になってしまった。
 
 このことでアスカの心を頑なにしてしまうのは、避けたい。
 
 
 
 同時に、同じことを、ミサトも全く考えていないわけではなかった。
 
 シンジとの差を、アスカが普段気にしていることは、ミサトも気付いている。
 
 シンクロ率のことをアスカに言おうかどうしようか迷っていたが、アスカの態度が思いのほか柔らかかったため、言うことに決めたのだ。
 
 
 
 レイは、アスカがシンジとの差を気にしていることには、気付いていない。
 
 ただ、普段からアスカが、アスカ自身のシンクロ率に神経を尖らせていることは、理解していた。
 
 今回の結果は、今までのアスカのシンクロ率よりも大幅に良い結果だ。
 
 アスカにとっては歓迎すべきことだろう、とレイは思う。
 
 
 
 「……へぇ」
 
 アスカが、呟いた。
 
 
 
 三人は、アスカの顔を見る。
 
 
 
 アスカは、折れ線グラフをしげしげと見つめながら、感慨ぶかげに、口を開いた。
 
 「……けっこう、いいじゃない」
 
 
 
 アスカには、わかっていた。
 
 今までと……今回と。
 
 何が、違うのか。
 
 
 
 今まで、一度も感じたことのない感覚に、身を委ねていた。
 
 エヴァそのものになったような、感覚。
 
 エヴァ自身を理解し、エヴァの人格と一つに融合したような、感覚。
 
 
 
 詳しい理屈は知らない。
 
 ハーモニクスがどうこう、と言われても、知識として理解していないのだから、どうしても細かいことまではわからない。
 
 だが、アスカは肌で感じていた。
 
 ……これが、シンクロするということ。
 
 今までの、上辺のシンクロとは、違う。
 
 もっと……本質的な意味での、エヴァとのシンクロ。
 
 
 
 やっと……
 
 ……シンジと同じスタートラインに立ったのだ、と、唐突にアスカは思う。
 
 シンジは、ずっと以前から……いや、ことによると初めてエヴァに乗ったその時から、このことを理解していたのだ。
 
 ずっと、初号機と共に、歩いてきたのだ……。
 
 
 
 それは、いろいろな逸話を情報として聞くよりもずっと、シンジのすごさをアスカに実感させた。
 
 アスカは……テストプラグのレベルであれば、ずっと前から、エヴァに乗り続けている。
 
 毎日、訓練に訓練を重ねてきた。
 
 それでいながら……エヴァの人格の存在など、思い至ることさえなかった。
 
 
 
 シンジは、おそらく……初めから、初号機自身の心の存在に気付いていたに違いなかった。
 
 
 
 それは、チルドレンとしての才能、とは違う。
 
 本人の、「人間としての」資質のようなものを問われている気がする。
 
 ……あの、公園での時間を、アスカはゆっくりと思い出す……。
 
 もう、忌まわしい記憶ではない。もちろん、容易く受け入れられるほど、アスカの性格は分かりやすくはない。
 
 だが、先程までのような、躍起になって否定するようなものからも変化していた。
 
 ……あの、公園での、記憶……。
 
 それは、シンジという人間を、端的に示した例だった。
 
 他人のために涙を流す。
 
 それは打算でも見栄えでもなく、本当に、純粋な想いなのだ。
 
 
 
 他人の心に、いともたやすく触れる能力。
 
 
 
 それが、エヴァの心を、シンジが理解できた要因だろう、とアスカは静かに思った。



二百二



 シンジたち三人は、NERVに到着後、作戦司令室に集合していた。
 
 作戦の結果についてのブリーフィングがあるためだ。
 
 
 
 ブリーフィングがまさに始まろうとしたその時、オペレーター席に座っていたシゲルが、キーボードを叩きながら報告する。
 
 「電波障害、回復しました。総司令と無線が繋がります」
 
 言って、シゲルは後ろを見る。
 
 
 
 シゲルの報告を聞いて、コンソールのほうに向き直っていたミサトは、静かに口を開く。
 
 「……お繋ぎして」
 
 ミサトの言葉を受けて、シゲルがキーを叩く。
 
 
 
 ザザッ、と雑音がスピーカーから流れ出した。
 
 回復したといっても、まだ雑音は混ざる。
 
 
 
 『……碇だ。報告は受けた』
 
 雑音の向こう側から、ゲンドウの声が聞こえてきた。
 
 
 
 ミサトが、姿勢を正したような口調で応える。
 
 「はい。先程、使徒を殲滅。作戦は無事に終了しました」
 
 『よくやった……葛城三佐』
 
 「ありがとうございます」
 
 ミサトが頭を下げる。
 
 サウンドオンリーの会話なので頭を下げる必要はないのだが、思わずそうさせる何かが、ゲンドウという男の声にはある。
 
 
 
 『……初号機パイロットはいるか』
 
 突然、ゲンドウはシンジを呼んだ。
 
 「……はい」
 
 シンジが応える。
 
 『話は、聞いた。よくやった、シンジ』
 
 「はい……」
 
 そのまま、会話は途絶えた。
 
 
 
 父からの誉め言葉を聞くのは、これが2度目だ。
 
 
 
 だが、シンジには、未だに、父の真意が掴めない。
 
 なぜ、今まで自分に目もくれなかった父が、突然声をかける気になったのか。
 
 どういう心境だったのか、それを想像することはできなかった。
 
 
 
 通信は終了した。
 
 
 
 ゲンドウの声は、その場を妙に重くする。
 
 だが、それを全く意に介さないリツコのおかげでその場の空気は回復し、その後はなんとか、ごく普通にブリーフィングを進めることが出来た。
 
 
 
 やがて、ブリーフィングも終了し、リツコとミサトが司令室を出ていった。
 
 シンジが、軽く伸びをする。
 
 衣服に引っ掛かる感覚があり、シンジが横を見ると、レイがシンジのワイシャツの裾をつまんでいた。
 
 
 
 シンジがレイを見ると、レイもシンジを見つめ返す。
 
 思わずシンジが微笑むと、急にレイは頬を染めて、慌てたように俯いてしまった。
 
 シンジも、レイのリアクションに、思わず赤くなってしまう。
 
 
 
 そのまま、黙り込む二人。
 
 
 
 だが、レイの手は、しっかりとシンジのワイシャツの裾を握り締めていた。
 
 
 
 「……あ、あのさ……これから、どうしようか」
 
 シンジは、照れ隠しのように……頭を掻いて、頬を赤くしたまま口を開いた。
 
 「もう、時間も遅いし……どっかで遊んでいくってわけにも……」
 
 「……おなかすいた」
 
 「あ、そ、そう?」
 
 レイが俯いたままで応え、シンジもそれに返す。
 
 「じゃぁ……まっすぐ帰ろうか。夕御飯にしようよ」
 
 「うん……」
 
 「ちょぉっと待ったぁぁ!!」
 
 二人のやり取りに、突然大声で横槍が入った。
 
 
 
 その声の主は、惣流・アスカ・ラングレーだ。
 
 腰に手を当てて、ふんぞりかえるように二人を睨みつけている。
 
 シンジとレイは、驚いたように……きょとん、と、そんなアスカを見つめている。
 
 
 
 「……え? なに? アスカ」
 
 きょとんとした表情のまま、シンジが尋ねる。
 
 アスカは鼻を鳴らすと、シンジの前にずいっと顔を突き出した。
 
 「アンタら、バカ? 大事なこと忘れてんじゃないでしょぉねぇ」
 
 「……大事なこと?」
 
 シンジは、思い出せない。
 
 レイを見ると、彼女も首を傾げている。
 
 「……なにか、あったっけ?」
 
 
 
 「……ミサトに、奢ってもらうっていう話だったでしょうが!」
 
 
 
 ……ややあって、シンジが、ぽんと手を打った。
 
 「……そう言えば、そんなこともあったなぁ」
 
 「忘れてんじゃぁないわよ」
 
 アスカが、ぷいっとそっぽを向きながら言う。
 
 「……でも、ミサトさんが、いないわ……」
 
 レイが、ぼそっと言う。
 
 「……仕事なんじゃないのかな? 大体、使徒の殲滅の直後なんだから、暇にしてるわけが……」
 
 「甘ぁい」
 
 アスカが、言いながら携帯電話を取り出した。
 
 「約束の不履行なんて、許さないわよ! こっちが先約なんだから」
 
 「そうは言っても……」
 
 「後始末なんて、ミサトがいてもいなくても変わらないわよ」
 
 アスカが携帯の短縮ボタンを押す。
 
 「だいたい、普段は何かあったら、いっつもマヤたちに任せてんだから……今日だけ仕事だなんて言い訳、通用しないわよっ」
 
 
 
 離れたところで黙ってキーボードを叩いていたマヤ・シゲル・マコトの三人は、さめざめと涙を流した。
 
 「……ホンに……おっしゃるとおりで……」



二百三



 ミサトのルノーがけたたましいスリップ音を響かせてカーブを効かす。
 
 そのたびに、後部座席の二人……アスカとレイは、ごろごろと転がりまくる。
 
 
 
 「ミ、ミ、ミサトッ! もうちょい、ゆっくり!」
 
 珍しく、アスカが情けない声で悲鳴を上げる。
 
 あれほど高速で動作する兵器に乗っていながら、やはり自分で操作しないと恐怖を覚えるらしい。
 
 「ゆっくりぃぃ〜? これでも、まだ、八分目よぉ!」
 
 言いながら、ミサトはハンドルを切る。
 
 
 
 本人すら忘れていた奢りの話を、わざわざ携帯に呼び出されて持ち出され、ちょうどリツコにたかろうというつもりだったミサト(やはり仕事ではなかったようだ)にとっては、財布が悲鳴を上げる事態だった。
 
 思わず、ハンドルもきつく回転しようというものである。
 
 
 
 アスカは、青い顔でしっかりと座席にしがみついている。
 
 ……考えてみれば、アスカがミサトの車に乗るのは、これが初めてだ。
 
 レイは、慣性の法則に従って面白いように転がりまくっている。
 
 あっちにぶよん、こっちにぶよん。
 
 「……言っとくけど……ボケてんなら……突っ込む余裕なんて、ないわよ……」
 
 「………」
 
 もちろん、レイは大真面目だ。
 
 
 
 アクセルをふかしながら、ミサトが後部座席に声をかける。
 
 「情けないわね、ふったりとも〜! シンちゃんなんか、ぜ〜んぜぇん平気よっ」
 
 「いや……全然ってわけじゃぁ」
 
 シンジが苦笑する。
 
 
 
 何しろ、後ろの二人とは年季が違う。
 
 それこそ、シンジはこの助手席に、「一年以上」座っているのだ。
 
 さすがに、最近は慣れてきた。
 
 とはいえ、やはり苦手なのには変わりはなかったが。
 
 
 
 「とうちゃくぅ〜〜ッ!」
 
 カウンターを当てて、思い切り店の前に停車した。
 
 どがしゃしゃしゃあんっ
 
 ……という音が後部座席から聞こえてきたが、ミサトは聞かなかったことにした。
 
 
 
 ドアが開いて、中からレイとアスカが出てくる。
 
 「……うぅ」
 
 アスカは、腰砕けのようにへのへのとその場に座り込む。
 
 「……気持ち悪い」
 
 レイも、一見まっすぐ立っているようでいて、その実フラフラと足元がおぼつかない。
 
 シンジは、乗っているときはさすがにちょっと落ち着かないが、車から降りれば問題ない。これも慣れというものだろうか、と苦笑する。
 
 
 
 シンジが見上げると、それは、ちょっと洒落た感じの、小さなレストランだった。
 

 
 こじんまりとした造りで、店構えからは、さほど高級な印象は受けない。
 
 「えぇ……ここぉ?」
 
 アスファルトにしゃがみこんでいたアスカが、青い顔をしながらも不満を言う。
 
 「奢りだってのにさ……もすこし、マシなところにならなかったの?」
 
 
 
 シンジは、横目でそんなアスカを見る。
 
 
 
 シンジは知っている。
 
 言葉とは裏腹に、アスカには、ミサトにそんな高い金を払わせる気などない、ということに。
 
 前回、ミサトの懐具合を察して、ラーメン屋に連れていったのは、アスカだ。
 
 もちろん、今回だって高級な料理をせがむ気などないだろう。
 
 アスカが不満を漏らしたのは店が高級料理店ではなかったからで、言葉は表面的なものだ。
 
 もしも本当に高級レストランなどに来ていれば、アスカは入ろうとしなかったに違いなかった。
 
 
 
 ミサトは、苦笑しながらアスカの方を見る。
 
 「高級だったらいいってもんじゃないわよ、料理は。問題なのは、味でしょ、味」
 
 「……おいしいの? ここ」
 
 「おいしいわよ! あたしの、お気に入り」
 
 言って、ミサトはにこっと笑った。



二百四



 ドアを開けると、店内に涼やかなベルの音が響きわたった。
 
 
 
 店の中は、4人席の机が5つほど並べられた小さな空間だった。
 
 机も、椅子も、壁も床も天井も、すべて木だ。
 
 シャープなエッジはあまりなく、木の印象をそのまま使った家具が多い。
 
 小さな音で、アコースティックな雰囲気の音楽が流れている。棚の上や机の隅に、小さな人形やミニチュアの置物があり、店内全体を不可思議な空間に仕上げている。
 
 
 
 シンジは、口を開けて周りを見ていた。
 
 実際のところ、この「復興された街」では、こういった佇まいの店はほとんど見ない。
 
 新しく建て替えられるときに、機能を追求した……いわゆる、未来的なものに設計されることが多かったからだ。
 
 それは、人々の好みや、過去を切り捨てて新しく歩みだすという想い、それに……現実的に言ってしまえば、そのほうが予算が安く済むといった理由があった。
 
 
 
 ミサトを先頭に、奥の席に移動する。
 
 あまり広くはない店の、一番奥にあるその席は、少し薄暗い照明に、机の真ん中で揺らめくキャンドルの光が映えている。
 
 「どう? こういうカンジ」
 
 椅子に座りながら、ミサトがにこにこして尋ねた。
 
 「う〜ん……少女趣味?」
 
 アスカが、眉をしかめながら言う……が、口元がにやけている。アスカは、思いの他気に入ったようだ。
 
 「珍しいですよね、こういう店」
 
 シンジも、周りを見回しながら応える。シンジの好みとしては、どちらかと言えば、洗練された機能美のようなものの方が好きなのだが……こういう、雰囲気と一体になって楽しむ感じも、嫌いではない。
 
 「………」
 
 レイは、ただ黙って椅子に座った。こういう、感性によったセンスは、まだ彼女には良く分からない。
 
 
 
 ウェイターがやってきて、注文を取る。
 
 メニューに並ぶ料理そのものは庶民的なものばかりで、特に驚くような品揃えではなかった。
 
 結局、シンジはビーフシチュー、アスカはオムライス、レイはカレーを注文した。
 
 「わたしは、いつものやつね」
 
 ミサトが、にこやかにウェイターに微笑みかける。
 
 ウェイターはかしこまりました、と一礼して厨房に戻っていった。
 
 ウェイターが去った後……アスカが、怪訝な表情でミサトを見る。
 
 「いつものやつって……なによ?」
 
 「いつも頼んでるやつよ」
 
 微笑むミサト。
 
 「いっつも来てるの、ミサト?」
 
 「そぉねぇ……ま、いつもっていうホドでもないけど。仕事が遅くて、家で食べられないときとか、リツコと来ることがあるわね」
 
 ミサトが、笑いながら応えた。
 
 
 
 ほどなくして、全員の料理がそろった。
 
 ちなみに、ミサトの「いつものやつ」は……
 
 
 
 「ビィルゥゥゥ!?」
 
 アスカが、思いきり眉間にしわを寄せて抗議の声を上げた。
 
 
 
 ミサトの前に、でんと鎮座ましましているのは、大ジョッキになみなみと注がれたビールである。
 
 「ミサト、アンタねぇ! 飲み屋じゃないんだから……」
 
 アスカの声に、ミサトはニコニコして言う。
 
 「あらぁ、メニューにあるもんを頼んで、悪いことなんてないでしょ〜?」
 
 「それにしたって……ナニ!? 夕食たべにきたのに、ビールだけ!? 食事は!?」
 
 「帰ってから、シンちゃんにお願いするわよ〜」
 
 「ナニ勝手なこと言ってんのよ! 第一、ミサト、車じゃない!」
 
 「運転代行、頼むもの」
 
 「ぜ、贅沢してんじゃないわよ!」
 
 「ま・ま、せっかくの料理が冷めちゃうわよ〜。食べて食べて」
 
 アスカの言葉をまるで意に介さず、ガッとジョッキを掴むと、一気にあおった。
 
 
 
 ごくごく、と音を立ててミサトの喉が上下する。
 
 大ジョッキから一度も口を離すことなく、みるみるうちにビールが減っていく。
 
 やがて……
 
 「ッぷはァァァッ! 勝利の美酒ね〜〜!」
 
 ……タン! と机の上に置かれたジョッキは、既に空になっていた。
 
 
 
 アスカはそんな光景を、身を乗り出した体勢のまま口を開けて見ていた。
 
 ……呆れている。
 
 「ミサトさん……頼みますから、自分で運転して帰るなんて言わないで下さいね」
 
 シンジは、溜め息をつきながらスプーンを手に取った。
 
 
 
 シンジの頼んだビーフシチュー。
 
 見た目は取り立てて目を引くところはないが、その香りが食欲をそそる。
 
 アスカのオムライスも、卵と牛乳の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
 
 レイのカレーは、野菜カレーだ。先日、肉に挑戦したレイであったが、今日は肉は避けたようだ。
 
 「「「いただきます」」」
 
 シンジ・レイ・アスカの三人は、揃って一口目を口に運んだ。
 
 
 
 「………」
 
 
 
 「どぉ? なかなかおいしいでしょ?」
 
 二杯目のビールを頼みながら、ミサトが微笑む。
 
 
 
 アスカは、黙って頷いた。
 
 「……おいしい……」
 
 
 
 シンジも、じっと皿を見つめて、呟く。
 
 「確かに……とても、おいしい……」
 
 
 
 「……けど……」
 
 
 
 レイが、ボソッと呟いた。
 
 
 
 「……辛い」
 
 
 
 「……め……ツ……ちゃめちゃ、カライィィィッ!!」
 
 アスカが、突然叫んで立ち上がった。
 
 口を押さえて、厨房に向かって叫ぶ。
 
 「み! み! みず! みずみずみずッ!!」
 
 
 
 「ア……アスカ、も、もういっこ」
 
 シンジも、じっと口を押さえて脂汗を流している。
 
 
 
 「……もういっこ」
 
 レイも、無表情でカレーを見つめながら、呟いた。
 
 
 
 「えええ? そんなに辛い?」
 
 冗談ではなく、意外そうな表情でミサトが口を開く。
 
 アスカが、ウェイターの持ってきた水をひったくるように奪うと、涙目でそれを飲み干しながらミサトを睨み付けた。
 
 「ミッ……サトは、味覚が狂ってンのよ!!」
 
 「えええ? だって……リツコも平気な顔して食べてるわよ」
 
 「リ……リツコさんて……」
 
 青い顔で水を飲みながら、シンジは思わずうめく。
 
 
 
 レイは、渡された水を、こくこくと飲み干す。
 
 そして、黙ってコップを机に置く。
 
 その表情は、いつもと変わらず……いや、どちらかと言えば、無表情だ。
 
 
 
 (……綾波は……そんなに、辛くなかったのかな?)
 
 シンジは、次々と水をおかわりしながら、そんなレイを見ていた。
 
 自分と同じような辛さを味わっていれば、もっと表情に表れてもいいはずだ。
 
 
 
 ……と、思って見ていると。
 
 
 
 レイの目尻から、突然、涙がこぼれた。
 
 そのまま、二粒、三粒と、涙の滴がこぼれ落ちる。
 
 
 
 シンジは、仰天してレイの手を握った。
 
 「あ、綾波!? ど、どうしたの!?」
 
 
 
 アスカとミサトも、突然のレイの涙に、あっけにとられてその様を見つめている。
 
 
 
 レイは、ゆっくりと……シンジの方に、顔を向けた。
 
 涙に濡れた、瞳……
 
 
 
 そして、口を開く。
 
 
 
 「……辛いの」
 
 
 
 机に突っ伏してしまうアスカとミサト……
 
 そして、思わずレイの頭を抱きしめそうになって、慌てて必死でブレーキをかけるシンジであった。



二百五



 食事と同量に匹敵するほどの水を飲みながら、なんとか三人は自分の注文した料理をたいらげることに成功した。
 
 激烈な辛さではあるが、にも関わらず、確かに美味しい。
 
 残すには、惜しかったのだ。
 
 これだけ辛いのに、それを上回る美味しさ……というのは、実は、結構優れた料理ではないか、とシンジはちょっと思った。
 
 
 
 ちなみに、三人の中で一番辛さに強かったのはアスカで、一番弱かったのはレイだった。
 
 レイのカレーは、どうにもならなくなって最後の一部をシンジが食べたのだ。
 
 
 
 レイは、じっと両手でコップを握って離さない。
 
 もう、わんこそばの如く、横に控えたウェイターが空になったコップに水を注ぎ……それを飲んで、また注ぎ……を繰り返している。
 
 無表情だが、目が潤んで真っ赤だ。
 
 
 
 ポットの水が切れ、ウェイターは慌てて厨房へと戻っていく。
 
 手許に空になったコップだけが残されたレイは、ふと、前に座るミサトを見た。
 
 
 
 ミサトは、食事の間中、大ジョッキのビールを飲み続けていた。
 
 既に、5杯目だ。
 
 
 
 レイが、じっと自分を見ていることに気付き、ミサトがレイを見た。
 
 「ん? どうかした、レイ?」
 
 「……ミサトさん」
 
 「ん?」
 
 レイは、ついっ……と腕を上げると、ミサトの大ジョッキを指さした。
 
 
 
 「それを……ください」
 
 
 
 「だだ、だめだって、綾波!」
 
 シンジが、慌ててレイの腕を押さえた。
 
 レイが、きょとんとした表情で、シンジを見る。
 
 「……なぜ?」
 
 「な、なぜって……まだ、僕たちは中学生でしょ! 未成年は飲んじゃいけないんだよ!」
 
 レイは、少しだけ考えるように視線を動かす。
 
 そして、またシンジを見る。
 
 「……科学的には、中学生がアルコールを摂取しても、分量が許容範囲を超えないのであれば、それはいいことだと……」
 
 「い、いや、なんて言うか……」
 
 「?? ……アルコールと健康の因果関係は、証明されているわ。一日一合の日本酒を飲む人と飲まない人とでは、飲む人の方が寿命が長いと言われていて……」
 
 「あ、あのね、綾波。……と、とにかく、その、え〜……ほ、法律で禁止されてるんだよ」
 
 「………」
 
 レイは、再び考える。
 
 そして、シンジを見る。
 
 「碇君が……よせと言うのなら……」
 
 「ぼ、僕がどうのこうのって問題じゃないんだけど……まぁ……」
 
 「……わかったわ」
 
 ちょうど、ウェイターが水を持ってきたところだったため、レイは素直に頷いた。
 
 もともと、辛さを癒すための水分が欲しかっただけで、ビールが飲みたかったわけではない。
 
 
 
 ミサトが、ニヤニヤしながらシンジを見る。
 
 「……アタシは、中学の頃は飲んでたけどね〜」
 
 「や、やめて下さいってば、ミサトさん!」
 
 慌てて、両手でミサトを制するシンジ。
 
 「アタシも、ドイツにいたころは……グラス一杯くらいは、寝る前に飲んだりしたわよ」
 
 「ア、アスカァ!?」
 
 
 
 ハッと気付いて振り向くと、レイが再び顔を上げている。
 
 シンジは、慌ててレイの方に向き直った。
 
 「あ、綾波……の、飲むことないよ」
 
 「………」
 
 「……あ、綾波さん?」
 
 「……みんな、飲んでる……」
 
 「ぼ、ぼ、僕は飲んでないよ!」
 
 慌てたシンジの声に、初めてレイはシンジの顔を見て……それから、少し頬を染めて俯いた。
 
 「……碇君が……飲んでないなら……私も、別にいい」
 
 
 
 ゼェゼェと、肩で息をしながら椅子にへたり込むシンジ。
 
 「あらら、残念」
 
 ミサトは、楽しそうにそんな二人のやり取りを見ていた。
 
 「そんなの、今どき気にすることでもないのに」
 
 アスカが、頬杖を突きながら、半目で二人を見ていた。
 
 
 
 代行業者に運転してもらい、一行はようやくと家に帰った。
 
 「おやすみなさい……碇君」
 
 「おやすみ、シンジ」
 
 挨拶をして、レイとアスカの二人はそれぞれの家へと帰っていく。
 
 
 
 「ぼ……僕、もう、寝ますね……おやすみなさい……」
 
 リビングに戻ったシンジは、ミサトにそう言うと、そのまま自分の部屋に入って行った。閉じた扉の向こうで、ベッドに倒れ込む音が聞こえる。
 
 もともと、出撃した当日なのだ。
 
 ただでさえ疲れているところに色々起こって、シンジは疲労困憊していた。
 
 そして、ベッドに倒れ込むやいなや、そのまま深い眠りに落ちていった。
 
 
 
 「おやすみぃ〜、シンちゃ〜〜ん……」
 
 ニコニコしながら、ミサトは閉じた扉に声をかける。
 
 
 
 そして、にんまりと微笑むと、立ち上がって冷蔵庫を開け、中からエビチュを十数本近く取りだしてビニール袋に入れると、そっと玄関から外に出ていった。
 
 
 
 レイは、突然の訪問者に、パジャマ姿のままキョトンとミサトを見ていた。
 
 「おじゃまするわよン」
 
 ミサトは、靴を脱いで部屋に入ると、机の上にビールを並べてレイを椅子に座るように促す。
 
 
 
 レイは、椅子に座りながら……怪訝な表情で、ミサトを見る。
 
 
 
 「ホラ……ビール、飲みたがってたでしょ? 持ってきたから、飲んでみなさいよ」
 
 ミサトは、ニコニコしながら言う。
 
 レイは、しかし、ビールの山には手を出さない。
 
 「どしたの?」
 
 尋ねるミサト。
 
 レイが、静かに呟いた。
 
 「……碇君が……」
 
 
 
 ミサトは、柔らかく微笑むと……レイの顔を見た。
 
 レイは、その表情に、不思議そうな視線でミサトを見る。
 
 ミサトは、優しく口を開いた。
 
 
 
 「レイ……あなた、なんでもかんでもシンちゃんの言うとおりにしてるだけじゃ、ダメよ」
 
 「? ……でも」
 
 「聞きなさい、レイ」
 
 ミサトは机の上に肘を付くと、身を乗り出してウインクした。
 
 「男の言いなりの女なんて、つまんないわ。そんなの、男だって飽きちゃうわよ? いい、レイ。……女はね、男を適当に振り回してこそ、男に好かれるモンなのよ」
 
 
 
 レイは、きょとんとしてミサトを見ている。
 
 言葉の意味はわかるが、言っている意味はよくわからないらしい。
 
 ミサトは、そんなレイの顔を見て、ふっと微笑むと、レイの髪の毛を優しく撫でた。
 
 「ま、要するに、少しはシンちゃんの言うことばっかじゃなくて、したいようにしろってコト。そのほうが、シンちゃんも、もっとレイが好きになるわ」
 
 「……そう……なんですか……?」
 
 「そうよン」
 
 ミサトが微笑む。
 
 「……ビール……飲んで、みたいんでしょ?」
 
 
 
 ミサトの言葉に……レイは、しばし逡巡したあと……小さく、こくん……と、頷いた。
 
 「じゃぁ、ホラ」
 
 ミサトが、微笑んで言う。
 
 レイは、じっと……自分の前に置かれたビールの山を見つめたあと……意を決したように、その缶を手に取った。
 
 
 
 「じゃ、アタシは寝るからねぇ〜〜。ほどほどにしときなさいよ、レイ」
 
 ミサトは、家の中にそう声をかけて、玄関を出た。
 
 レイの返事は、ない。
 
 
 
 レイはと言うと、空のビールの缶を両手で持ったまま……ふわふわとした感覚で、ぼーっと天井を見つめていた。
 
 
 
 はっきり言って、あまり酒には強くないようだ。
 
 
 
 レイは、フラフラと椅子から立ち上がり……そのまま、おぼつかない足取りで、反対側の壁までまっすぐ歩いていく。
 
 ごつん。
 
 「……いたい」
 
 止まらず、頭をぶつけたらしい。
 
 
 
 ごつん。
 
 「……いたい」
 
 ごつん。
 
 「……いたい」
 
 
 
 ふらふらしたまま、レイは裸足で外に出る。
 
 
 
 葛城邸の、扉を開ける。
 
 
 
 中は、既に電気が落ちている。
 
 ミサトはシャワーを浴びているようで、奥からかすかな水音と鼻歌が聞こえてくる。
 
 
 
 レイは、ふらふらと歩きながら……
 
 ……そのまま、シンジの部屋に入っていった。
 
 
 
 シンジは、爆睡していた。
 
 珍しく、布団をぐちゃぐちゃにして眠っている。
 
 恐らく、本当に疲れているのだろう。
 
 レイは、赤い顔をしたままふらふらとベッドの側まで行くと、もぞもぞと布団の中に潜り込む。
 
 横向きになって眠るシンジの向かい側に横たわると、シンジの体に腕を回して、背中からぎゅっと抱きしめた。
 
 
 
 レイが、一瞬……驚いたように、目を開いた。
 
 シンジが、そのままレイを抱きしめ返している。
 
 ……寝ぼけているのだ。
 
 
 
 レイは、シンジを抱きしめて……シンジに抱きしめられて、心の中から、じわーっと暖かくなっていくのを感じていた。
 
 シンジの胸に、頬を付ける。
 
 あったかい……
 
 レイは、ぽやーっとした意識で、そう思う。
 
 
 
 あったかい……
 
 
 
 碇君……
 
 
 
 ……好き……
 
 
 
 そうして、二人は、満ち足りた眠りへと落ちて行くのだった。