第四十四話 「何か」
百八十七



 雨は、降り続いていた。
 
 
 
 NERV、官制室。
 
 中央の大型モニタを見つめている、その場の全員の上を、重苦しい沈黙が包んでいる。

 
 
 モニタに映っているのは、地球上の風景ではないだろう。
 
 画面全体を彩る、漆黒の闇。
 
 画面下部に見える青と白のアーチ……それが、地球だ。
 
 
 
 「2分前に、突然、軌道上に出現しました」
 
 シゲルが、厳しい表情で報告する。
 
 
 
 画面の中央に、グロテスクともユーモラスともとれる物体が映っていた。
 
 使徒だ。
 
 オレンジ色の超巨大な体躯。中央の球体から、左右に長い腕のようなものを伸ばし、その両腕の先は三本の指に別れていた。
 
 左右の手の平に、目のような模様。そして中央の球体にも、宗教画を思わせる、シンボリックな目の模様を見て取れる。
 
 
 
 「なんちゅうセンス」
 
 ミサトが、半ば呆れ顔で、眉をしかめてみせた。
 
 「夢に見そうね」
 
 リツコも、モニタをじっと見つめたまま、溜め息とともに呟いた。
 
 
 
 「第6サーチ衛星、画角に入ります」
 
 キーボードを叩きながら、シゲルが言う。
 
 モニタを見ると、軌道衛星からの映像の端に、小さく衛星が映っている。NERVが打ち上げた監視衛星だ。
 
 皆の注視する中、使徒の体の外側が、太陽の光を浴びて七色に煌めく。
 
 それと同時に、衛星は何かに圧壊されるかのごとく、ひしゃげ、グズグズと崩れていった。
 
 
 
 「……ATフィールド!?」
 
 「ATフィールドの、新しい使い方ね」
 
 
 
 しかし……シンジならば、このくらいの応用はやってみせるだろう。
 
 それほど、大仰に驚くほどのことでもない。
 
 
 
 「使徒、分裂します!」
 
 マコトの声。
 
 使徒の腕の一部が、まるで水面での油膜の分離のように、妙になめらかに……非生物的に分離する。
 
 そのまま、分離した部分はゆっくりと落下していき、モニタの画角から消えた。



百八十八


 
 時間を、一時間ほど巻き戻す。
 
 NERV・控室。
 
 シンジは、いつでもプラグスーツに着替えられる状態で、長椅子に座ってじっと目を瞑っていた。
 
 
 
 シンジは、今日、第十使徒・サハクィエルが来ることを、知っていた。
 
 前回と違い、今回、はっきりと日付を特定できたのは、「ミサトの昇進祝いの翌日」というのを覚えていたからだ。
 
 
 
 シンジは、ここ数日の間、ずっと作戦について想いを巡らせていた。
 
 一度経験した情報についての知識を総動員して、最良の作戦を考える。
 
 この行為は、今や、シンジにとって欠くことのできない重要な習慣となりつつあった。
 
 
 
 ……正直なところ、この使徒に対して、明確な対処方は思いつかない。
 
 軌道上にいる敵を攻撃する方法は、今のシンジには、ない。
 
 ロンギヌスの槍を使うことくらいしか思いつかないが、槍自体が、まだない。
 
 それに、あの槍は、将来使い道がある。手の出ない所から攻撃してくる使徒は、サハクィエルだけではないのだ。
 
 
 
 ……と、なると……
 
 シンジには、今回の使徒を完全に殲滅する方法が、思いつかないのだ。
 
 
 
 「……結局のところ……今回も、『頑張って受けとめる』っていうことになっちゃうのかなぁ……」
 
 溜め息をつきながら……シンジは、椅子の上で背筋を伸ばした。
 
 
 
 前回シンジは、この時間には、まだNERVには来ていなかった。
 
 サハクィエルが分離・落下を開始して……いや、もちろんそうでなくても使徒が出現したのだから当然のこととして、NERVの非常招集がある。それを受けてからやってきたのだ。
 
 現在、まだ、チルドレンには使徒が出現した旨の連絡はきていない。
 
 そのため、本来ならば、シンジがNERVにいる必要のある時間ではなかった。
 
 
 
 早めに出撃することで、何か先回りできれば、また別なのだが……結局、使徒が落下してくるタイミングは同じだ。早めに出て、何かすることがあるわけでもない。
 
 今までの使徒と決定的に違うのは、「早めの行動が役にたたない」ということだ。
 
 実際、使徒が落下するまで、手をこまねいて見ているしかない。手の出しようが無いのだ。……せいぜい、精神集中の時間が稼げるくらいだろう。
 
 歴史を知っているというメリットは、今回、何の役にも立ちそうになかった。
 
 
 
 その事実は、少なからずシンジを落胆させた。
 
 できることなら、自分の持ちうる情報と力を、最大限に発揮したかった。
 
 前回、サハクィエル戦は、必ずしも余裕で殲滅できたわけではない。
 
 まったく同じ手段しか取れないということは、失敗する危険性も、十分過ぎるほどあるということなのだ。
 
 
 
 そして、シンジを落胆させる、もう一つの理由。
 
 それは、レイとアスカを危険に晒すことを避けられない、という事実。
 
 
 
 今回のオペレーションには、二人の力を欠くことができない。
 
 最初に落下地点まで到達した機体は、もの凄いエネルギーとともに落下してきた使徒を支えるので、精一杯だ。次に到達した機体がATフィールドを中和。残りの一体が、使徒のコアを破壊する。
 
 三体で共同戦線をはることが、このオペレーションの必須事項だった。
 
 
 
 ……しかも……使徒の落下地点は、予測がつかないのである。
 
 先に行われるはずの、使徒の両腕の投下は、結局……太平洋上に落下し、本部を直撃することはない、ということは、予測がつく。前回とは違う唯一の点……シンジが逆行してきたという要素は、今回の使徒にはまったく関係がないからだ。
 
 前回太平洋に落下するほど誤差のあったものが、いきなりピタリと目標を直撃できるとは、考えがたい。
 
 本部に直撃する可能性があるのは、前回と同じく……最後に落下してくる本体だけだろう、とは思う。
 
 ただ、その本体が、前回とまったく同じ場所に落下してくるとは言い切れない。 数キロ程度の誤差は、その時々のゆらぎの誤差範囲内だろう。
 
 そうなってくると、必ずしも自分が一番最初に落下地点に辿り着けるとは限らない。……結果的に、やはりレイとアスカの存在は不可欠だった。
 
 
 
 シンジは、所在無げに立ちあがり、また椅子に座り直す。
 
 天井を見上げて、意味もなく溜め息をつく。
 
 
 
 落ち着かない。
 
 
 
 前回と今回と、つまり、違うところはまったくないのだ。前回、成功する確立は、わずか0.00001%と言われていた。結局、今回も……成功の確立は、同じ程度しかないのだ。
 
 
 
 歯痒い。
 
 
 
 シンジにとって……皆を、そして世界を救うと心に誓ったシンジにとって、それはあまりにも歯痒かった。
 
 
 
 (考えてみれば……前回は、ここまで落ち着きなくはなかったよな)
 
 シンジは、思い返す。
 
 あの時の自分は……これほどに成功の確率が低かったのにも関わらず、あまり動じた様子はなかった。
 
 だがそれは、「死んだって別にかまわない」「人類なんかどうでもいい」と、冷めた視線で見ていたからにすぎない。
 
 
 
 今回は、違うのだ。
 
 シンジは、死ぬわけにはいかない。
 
 自惚れと言われるか……あるいは自意識過剰と言われるかもしれない。だが、自分がいなければサードインパクトを防ぐことはできないし、レイを救うことも、アスカを救うこともできない、と感じていた。
 
 
 
 カチャッ。
 
 
 
 控室の扉が開いた。
 
 
 
 シンジは、無意識に、レイが来たか……それとも、ミサトがとうとう招集に来たのかと思った。
 
 そういう予測のもと、顔を上げる。
 
 
 
 「!」
 
 
 
 シンジは、虚を突かれたように……思わず間抜けな表情で、入ってきた人物を見た。
 
 「ア……アスカ?」
 
 ……それは、惣流・アスカ・ラングレーだった。



百八十九



 アスカは、椅子に座るシンジを見て、少しだけ眉を上げた。
 
 「あら……シンジ。ここ、使ってたの」
 
 ごく普通の口調で、アスカが呟く。
 
 
 
 NERVの控室は、一つや二つではない。
 
 更衣室こそ男女別に二つあるだけだが、控室は特に区別はない。
 
 だが、数が多いからこそ、自然発生的に……それぞれ、自分が毎回使う同じ部屋を決めており、待ち時間をそこで使うことが多かった。
 
 
 
 レイは、シンジと同じ控室を使いたがるはずだ……と感じる向きも多いかと思う。だが、実際には、三人は別々の控室を使用していた。
 
 その理由には、レイがシンジの邪魔をするのを避けた、と言う事情がある。
 
 訓練のときなど、数回、レイはシンジと同じ部屋にいたことがある。だが、シンジは控室にいるとき、今後の展開、これから起こる作戦の構想、世界を護るための……サ−ドインパクトを防ぐための手段について、想いを巡らせることが多かった。
 
 そのため……自然と、レイは、控室にいるシンジのことを邪魔しないように心掛けるようになっていったのである。
 
 ……寂しそうでは、あったが。
 
 
 
 もっとも、アスカもレイも、もともと控室を利用するほうではない。
 
 アスカは用が済んだらすぐ帰ってしまって控室にいることがほとんどないし、レイもエレベーターホールの前の長椅子に座っているほうが好きだった。
 
 ……そのため、もっぱら控室を使うのはシンジばかり、という構図になっていたのである。
 
 
 
 シンジのいる控室に、アスカが来たのは初めてだった。
 
 制服姿のまま、仁王立ちで、控室の中を見回している。
 
 やがて、アスカが口を開く。
 
 「……なぁんだ、控室って……どこもデザイン一緒なんだ。つまんないわね」
 
 「あ、あの……アスカ」
 
 「なによ?」
 
 おずおずと話しかけたシンジに、アスカが応える。
 
 「あの……どうしたのさ、急に……」
 
 「なにが?」
 
 「僕の控室にくるのなんて……初めてじゃないか」
 
 「……アンタ、バカ?」
 
 アスカが、シンジを睨みながら言う。
 
 「なんで、アタシがわざわざ、アンタの控室に行かなきゃいけないのよ。……ここが、アンタが使ってる控室だなんて、知らないわよ。偶然入ってみたら、アンタがいた。それだけ」
 
 「そ……そう……なのかな」
 
 「部屋の外に、『碇シンジ控室』とでも、書いてあるワケ!?」
 
 「い、いや」
 
 「なら、いいでしょッ」
 
 言い捨てて、アスカはプイッ、と横を向いてしまった。
 
 
 
 そのまま、沈黙が訪れる。
 
 
 
 シンジは、アスカの行動に戸惑っていた。
 
 まず第一に驚いたのは、アスカがもうNERVに来ている、と言う事実だ。
 
 
 
 今回、「早めにNERVに来てもすることがない」ということについては、割合早い段階で気付いていた。
 
 マトリエル……NERVの停電騒ぎのときも、シンジはアスカやレイを連れて、数回に渡り予定より早い時間に出頭しており、そのことについて明確な説明もできずにいた。レイは勿論のこととして、アスカもぶつぶつ言いつつもついてきてくれていたが、さすがに回数が過ぎれば不審がるだろう。
 
 今回は、非常招集を受けてから出頭しても十分間に合う。シンジは思考を整理したくて早めに来ていたが、誰にも声をかけたわけではなかった。
 
 だから、実を言えば……レイも、まだNERVには来ていないのである。
 
 
 
 にも関わらず……アスカがNERVに来ている。
 
 しかも、もともと今日は訓練日ではない。
 
 普通に考えれば、アスカは来る必要のない日なのである。
 
 
 
 そして第二に驚いたのは、アスカが控室を出ていこうとしないことだ。
 
 シンジのイメージでは、アスカはたとえ偶然でも、シンジのいる控室に入ってしまったりすれば……そこに留まろうとはせず、数度言葉を交わしてもすぐ出ていきそうな印象であった。
 
 それが、不機嫌そうにそっぽを向いているにも関わらず……部屋を出ていく気配がない。
 
 …これは、いったいどういうことなのだろう?
 
 
 
 シンジは、戸惑いを隠せないまま……しかし、今の沈黙を維持することができず、おずおずと口を開いた。
 
 「あの……アスカ……座ったらどう?」
 
 
 
 アスカは、チラ……と横目でシンジを見た後、目をつぶって、フン、と鼻を鳴らす。
 
 そして、ツカツカッと歩み寄ると、シンジの隣にドカッと腰をおろした。
 
 
 
 アスカは足を組むと、不機嫌そうな表情のまま、黙り込んでしまった。
 
 
 
 そして、再び沈黙が訪れる。
 
 
 
 シンジは、自分でああは言ったものの、やはりアスカが素直に座ると軽い驚きを覚える。
 
 シンジは、横に座るアスカを見ながら、口を開いた。
 
 「アスカ」
 
 「……なによ」
 
 「なんで……NERVに来たのさ?」
 
 「来ちゃ、悪い?」
 
 「今日は訓練も何も無いだろ」
 
 「それは、アンタも一緒ッ」
 
 「う……うん、まぁ……そうなんだけど」
 
 アスカが、横目でシンジを見る。
 
 「シンジこそ、なんでここにいんのよ?」
 
 「ああ……いや、その……」
 
 ……まさか、これから使徒が来るから、とは言えない。
 
 本来なら、シンジは知らないはずの情報だ。
 
 ……しかも、実際には、まだ使徒は現れていない。
 
 「う〜ん……なんとなく……かな」
 
 言葉を濁して、シンジは、頭を掻いた。
 
 「アタシも、なんとなくよ」
 
 アスカが短く応える。
 
 
 
 アスカは、それ以上は黙っていた。
 
 なんとなく……。
 
 しかし……実際には、NERVに来た理由は、あった。
 
 
 
 それは……
 
 「シンジがいたから」である。
 
 
 
 これは、本当に偶然だった。
 
 学校が終わり、アスカは一人で繁華街へと足を向けていた。
 
 放課後のアスカは、一人で帰ることがそれ程珍しいわけではない。ヒカリと一緒に買い物に行くことや、あるいはシンジ達を含めたいつものグループで行動することも多かったが、都合がつかなければさっさと一人で行動してしまうタイプである。
 
 軽く、ウィンドウショッピングでもして、帰ろう。
 
 アスカは、特に深い考えもなく、そう思ってバスに乗った。
 
 
 
 その、同じバスに、シンジが乗っていたのだ。
 
 
 
 それだけならば、驚くに値しない。
 
 シンジも、学校帰りに買い物をしていくつもりなのかも知れない。
 
 あるいは、いつも行くゲームセンターにはまだ入っていないような新しいゲームをやるために、大きな繁華街の方まで足を伸ばすつもりなのかもしれない。
 
 
 
 だが……シンジは、一人だった。
 
 それは、大きな違和感を与えた。
 
 
 
 買い物に行くなら、レイと一緒だろう。
 
 ゲームセンターに行くなら、トウジやケンスケと一緒……というよりも、あの二人が行きたがってシンジが引っ張られる、という展開が自然だ。シンジが、一人でわざわざゲームをやりに行くとは思えない。
 
 
 
 アスカは、特に買いたい物があったわけではなかった。
 
 なんとなく、繁華街の方へ行ってみようか……と、思っていただけだ。
 
 そのため、彼女の好奇心は、一気にシンジに対してのそれにシフトした。
 
 
 
 繁華街に、何しに行くのだろう?
 
 大したことでもないだろう、とは思いつつも……興味を引かれて、アスカはじっと、座席に座るシンジの後頭部を盗み見ていた。
 
 
 
 バスが、繁華街についた。
 
 混みあっていた乗客の殆どが、一気に降車する。
 
 アスカも、一度は立ち上がりかけた。だが……シンジが動かない。
 
 
 
 やがて、二人を車内に残したまま、バスは扉を閉める。
 
 
 
 アスカは、驚いていた。
 
 繁華街をすぎれば……まだ、バス停は勿論幾つもあるものの、シンジの目的地は決まったも同然だった。
 
 
 
 終点・NERV本部。
 
 
 
 一気に少なくなった乗客に、アスカは身を潜めてシンジに気付かれないようにしつつ……不思議と、高揚してくるのを感じていた。
 
 シンジが、NERVに向かっている。
 
 訓練日でも何でもない日に。
 
 しかも、(おそらくは)レイの誘いを断ってまで。
 
 ……何しに行くのだろう?
 
 
 
 シンジに対して、出会った当初のような厳しい印象を抱いていないことは、アスカ自身が自覚していた。
 
 今でも、いまいましい存在だとは思う。
 
 だが、以前のような……全身全霊をかけて憎むような存在ではなくなっていた。
 
 なぜ、そのような変化が起こったのか? それは、アスカにもわからない。だが、そこまで強い憎悪は、もはや抱けなくなっていることは理解していた。
 
 
 
 ……代わりに、彼女の中に浮上した感情……
 
 ……それは、少しニュアンスが違うものの、敢えて言葉にすれば「疑惑」というようなものだった。
 
 シンジの、ある意味「人間離れ」した印象。
 
 記録を検索してもろくな情報がないため、アスカ自身はまだ、完全にはそれを理解していない。
 
 だが、レイや……ミサトやリツコ、それこそマヤやシゲルやマコトの態度でも見ていれば、シンジが今までにも何度か、そういった……何か「通常では想像しきれないこと」を披露していることは予想できた。
 
 
 
 何だというのだろう。
 
 この少年が……一体何を?
 
 
 
 アスカは、そのいろいろな出来事には、あまり遭遇する機会が無かった。
 
 だが、シンジの物腰とは、普段から接することが多い。
 
 それだけでも、十分に……シンジが「普通とは違う」と感じるだけの何かがあった。
 
 
 
 ……本当に、同い年なのだろうか?
 
 と、疑いたくなることがある。
 
 少なくとも……同い年であるはずの、トウジやケンスケにはない「何か」が、シンジにはある。
 
 
 
 そういう印象を受けるたびに、アスカは慌てて心の中で打ち消すのだが……むしろ、シンジの印象は、トウジ達よりも、加持のそれに近いのだ。
 
 
 
 もちろん、何ごとにもボロを出さないような、加持の姿とは全く異なる。シンジは、本当にお子様だ……と思うときも、ある。
 
 だが、それでも。
 
 加持と二人で会話をしているときなど……二人の間に、差など無いような印象を受けるのだ。
 
 しかも……同じような印象を、シンジと、そして加持自身も、相手に対して持っているような気がする。
 
 
 
 自力では、調べることは出来なかった。
 
 シンジが、何者なのか。
 
 ……アスカは知らなかったが、実際には、リツコも冬月も加持も、調べても判明しなかった問題だ(当たり前だが)。
 
 アスカには、わかるわけがない。
 
 
 
 アスカのなかで、疑念が広がっていく。
 
 この、少年は……
 
 何者なのか。
 
 
 
 敵か。
 
 
 
 味方か。
 
 
 
 ……実は、アスカ自身は理解していないが、無意識下では「敵」という可能性はもはや排除していた。
 
 そういう立場である人間だとは、アスカも思っていない。
 
 
 
 バスが、NERVに到着した。
 
 
 
 シンジの後を追ってアスカは本部に入る。
 
 そこで、アスカは困ってしまった。
 
 どこに行って何をするかと思えば、シンジは、まっすぐ控室に入ってしまったのだ。
 
 閉じたドアを前にして、アスカは戸惑う。
 
 ……何をしているのだろう?
 
 ……何のために……NERVに来たのだ?
 
 一人になりたいとか言うのであれば、それこそ、どこだっていいではないか。
 
 
 
 控室の前で……実は、アスカはかなり長い時間、うろうろと途方に暮れていた。
 
 そして……散々悩んだ揚げ句……とうとう、いきなりドアのノブを握ることを選んだのだ。
 
 
 
 話を戻そう。
 
 こうして、控室の長椅子に、二人並んで座っている。
 
 しかし……そこから先が、全く進展しない。
 
 
 
 シンジは、アスカの意図を、まったく図りかねていた。
 
 何しに来たのか。何がしたいのか?
 
 さっぱり、わからない。
 
 
 
 アスカも、内心は非常に困り果てていた。
 
 不機嫌さを装っているが、実際には、何か不機嫌なわけではない。
 
 ただ、困っていただけだ。
 
 ……正直、ドアを開けるときは、心臓が高鳴った。
 
 中で、シンジが何かをしているかも知れない、と思ったからだ。
 
 だが、実際に入ってみると、シンジはただ椅子に座って、先ほどまで頬杖を突いていたような姿勢で……間抜けな顔で、入ってきたアスカを見ただけ。
 
 ……どう見ても、「何もしてませんでした」あるいは「考え事をしてました」という風情である。
 
 
 
 こうなってしまっては、アスカにも手の出しようが無かった。
 
 何か、具体的な疑いがあって追ってきたわけではない。何を突っ込めばいいのか、この状況ではどうにもならない。
 
 
 
 シンジは、この状況を変えたかった。
 
 なんだか、アスカの様子が変だ。
 
 妙に、不機嫌な気もするし……
 
 
 
 だから、シンジは、立ち上がった。
 
 
 
 急に立ち上がったシンジを、アスカが見上げる。
 
 シンジは、愛想笑いのような……困った表情で、口を開いた。
 
 「アスカ……あのさ。……ここでこうしていてもしょうがないから、食堂にでも行かないか?」
 
 アスカは、一瞬、目をパチクリさせる。
 
 「……食堂?」
 
 「うん……まぁ、何かジュースでも飲もうかなって」
 
 「オゴリね」
 
 「はい?」
 
 「決まり」
 
 言うと、アスカは立ち上がり、おしりをパッパッとはたいた。
 
 そのまま、あっけにとられるシンジの前を横切って、先にドアを開ける。
 
 「早く来なさいよ。置いてくわよ」
 
 言いながら廊下に出るアスカ。
 
 シンジは、慌てて学生鞄をつかむと、アスカの後を追った。



百九十



 NERVの食堂。
 
 入口のガラスケースの中に、料理の蝋細工が並んでいる。
 
 アスカは、吟味するようにじ〜っ……とその中を睨み付けており、後ろに立つシンジは、思わず苦笑してしまう。
 
 「う〜ん……」
 
 唸りながら、自分のあごを撫でるアスカ。
 
 
 
 先ほどまでの、よく分からないが身の置き所の無い、不思議な印象は消えていた。
 
 シンジは、我知らず胸を撫で下ろす。
 
 アスカは、本気で真剣に、ガラスケースを睨み付けて何にするか選んでいる。
 
 シンジは、こういう、普段と違う険の取れた表情……「素」とも言える表情を、かわいい、と思う。
 
 
 
 「……よし」
 
 呟くように言うと、アスカはかがめていた腰を伸ばし、くるっと振り返った。
 
 「お金」
 
 「……やっぱり、おごるわけね……」
 
 シンジが、苦笑して言う。
 
 アスカが、フン、と言った顔で胸を張る。
 
 「あったり前でしょ。アンタが私を誘ったんだし……それにね、もっと大事な問題があるのよ」
 
 「なに?」
 
 「お金ないの」
 
 「……はぁ」
 
 シンジは、思わず肩を落としたような姿勢でアスカを見る。
 
 「だから、お金。食券買うんだから」
 
 ずいいっ、とシンジの前に、広げた右手を差し出す。
 
 シンジは、はいはい……と言った表情で、鞄から財布をとりだした。
 
 「いくら?」
 
 「1500円」
 
 「……ナニ?」
 
 「1500円」
 
 「……何……頼むの?」
 
 アスカは、フフン、と笑うと、(何故か)得意そうに、ガラスケースの中を指さした。
 
 
 
 2人掛けの机に、向かいあって腰掛ける。
 
 シンジの前には、オレンジジュース。
 
 アスカの前には……
 
 「これ、ず〜っと食べてみたかったのよね!」
 
 ニコニコしながら、アスカが言う。
 
 ……アスカの前には、巨大なパフェが鎮座していた。
 
 普通に喫茶店などで見るそれの、およそ2.5倍はある。
 
 大体、高さが40cmは間違いなくある。
 
 ちなみに、正式な料理名は「ウルトラスーパーローリングサンデー」(何がローリングなのか)という。
 
 
 
 呆れた表情で、シンジがそのパフェを見ている。
 
 「……でかい……」
 
 「この大きさがいいんじゃないの! もともとココのパフェはおいしいんだし、一度でいいから、思いっきりここのパフェを食べてみたかったのよ!」
 
 ニコニコしながら、アスカがスプーンをパフェの山に差し込む。
 
 それをすくって、口に運ぶ。
 
 「……ああ〜……シアワセ!」
 
 「はいはい」
 
 苦笑して、シンジもジュースを飲む。
 
 アスカって、こんなに甘いものが好きだっただろうか? と思うと、アスカの新たな一面を発見したような気がして、嬉しくもある。
 
 ……授業料としては、ちょっと高かったが。
 
 「だいたいさ……そんなにたくさん、食べられるの?」
 
 シンジが、素朴な疑問を口にする。
 
 アスカは、機嫌よさそうにパフェを食べながら、シンジを見て応える。
 
 「バカね〜。よく言うでしょ、甘いものははいるところが違う!ってね」
 
 「いや……しかし……」
 
 ……それにしたって、大きすぎる気はする。
 
 「もしかして、余ったら食べたいなぁ、とか思ってるワケ? おあいにくさま、ぜ〜んぶ食べるからね」
 
 「いや……そんなことは思ってないけどさぁ」
 
 またも苦笑するシンジ。
 
 
 
 しかし……嬉しそうだな。
 
 
 
 「……そんなに食べたかったんならさ……NERVにはよく来てるんだし、食べてみればよかったじゃないか」
 
 「こんな高いもの、自分で頼むわけないでしょ」
 
 「……はぁ」
 
 「あ〜、やっぱり、オゴリのパフェはおいしいわ!」
 
 ニコニコとシンジの顔を見て、ぱくっとスプーンをくわえる。
 
 シンジは、はいはい、と笑うしかない。
 
 「……それならさ……そうだ、前、加持さんがおごってくれたじゃないか。あの時は……え〜……カレー頼んだんだっけ? パフェにすればよかったのに」
 
 「加持さんに、そんなお金出してもらうわけにいかないでしょ!」
 
 「……僕ならいいのか……」
 
 「なにをブツブツ言ってるのよ」
 
 「いや……ああ、じゃぁ、ミサトさんがおごってくれたときは?」
 
 「あのときは、あれが夕食だったでしょ。まさか、夕食の代わりにパフェは食べないわよ」
 
 「……まさか……アスカ、このうえ、さらに夕食を食べるの?」
 
 「あったりまえでしょ! 一区切りついたら、帰るわよ。夕食は少し遅くてもいいわよ」
 
 「……はいはい」
 
 
 
 アスカは、どんどんパフェを食べていく。
 
 その様子を見ていると、シンジは、自分が胸焼けしているような奇妙な気分になるから不思議だ。
 
 「よく食べるなぁ……」
 
 呆れたような表情で、シンジは思う。
 
 
 
 しかし……
 
 考えてみれば、アスカとの仲も、少しはよくなったかも知れない、と思う。
 
 とにかく、どう考えても……最初の頃のアスカを食堂に誘ったって、絶対についてはこなかったはずだ。
 
 それに、こうして向かい合わせで座って食事をしていても、アスカには気負いのようなものが感じられない。
 
 ごく、普通の気分で食事をしているようだった。
 
 
 
 なにか、目立ったことを、シンジがしたつもりはない。
 
 しいて言えば……ユニゾンのときの説得くらいだろうか?
 
 結局……アスカの変化。それは、日々の積み重ねによるものだろう、とシンジは思う。
 
 
 
 日々の積み重ね。
 
 それは、今回だけに限った話ではない。
 
 
 
 前回の人生でも……特に、同居していたのだから当然だが……シンジとアスカの間には、日々の積み重ねがあった。
 
 前回だけに関して言えば、むしろレイとの間よりもたくさんの積み重ねがあっただろう。
 
 
 
 だが、それがいいことばかりだとは限らない。
 
 
 
 シンジの、妙にアスカの顔色を窺うような態度。
 
 現実から逃避してみせる弱気な姿勢。
 
 その他いろいろなものが、特に、一番近くにいたアスカには、ことのほか苦々しく感じられていたはずだった。
 
 
 
 積み重ねていくことが、関係を悪化させていく。
 
 前回の二人は、そんな感じだったのかもしれない。
 
 
 
 今回は違う、とシンジは思う。
 
 シンジは、自分が以前の自分とは違うことを自覚している。
 
 アスカから逃げていない。彼女とは、正面から向きあっているはずだ。
 
 そう思えば……こうして、毎日を過ごしていくことが、二人の間からトゲを一本ずつ取り去っていく……
 
 それが、自然なことなのかも知れない、とシンジは思った。
 
 
 
 「……うう」
 
 アスカが、呻く。
 
 
 
 「………」
 
 シンジは、溜め息をついた。
 
 
 
 「ウルトラスーパーローリングサンデー」は、3分の1ほどを残したところで止まっていた。
 
 スプーンをくわえたまま、じっとそれを睨み付けているアスカ。
 
 
 
 (やっぱり、多かったか…)
 
 
 
 しかしそれでも、3分の2を食べたというのは驚嘆に値した。
 
 どうみても、普段アスカが食べている夕食の、1.5倍は食べている。
 
 (甘いものは入る場所が違うのかぁ……)
 
 思わず、信じてしまいそうになるシンジである。
 
 
 
 アスカは、脂汗を額に浮かべながら、じっとパフェを睨み付けている。
 
 「……むぐぐ」
 
 
 
 「……食べられないだろ、やっぱり」
 
 シンジが、笑いながら声をかけた。
 
 アスカは、そう言うシンジをギン! と睨み付ける。
 
 「う、うるさいわね! これはね、食べられない……んじゃなくて、え〜……」
 
 「食べられるの?」
 
 「食べられるわよ!」
 
 「じゃ、食べれば?」
 
 「……だ、だから、その……え〜と……そ、そうそう! シンジがあんまり物欲しそうな目で見てるから、食べさせてやろうと思ってね!」
 
 「えっ?」
 
 「ホラ!」
 
 言いながら、アスカはズイッと、パフェをシンジの前まで滑らせた。
 
 「……え、食べるの? これ」
 
 「いらないっての!?」
 
 言いながら、シンジを睨み付けるアスカの表情は、妙に必死だ。
 
 シンジは、それに気付いて、苦笑しながらスプーンを受け取った。
 
 「じゃ、貰うよ」
 
 アスカは、一気に表情をほころばせる。
 
 本当に、限界だったのだろう。
 
 「アタシのおごりよっ」
 
 「……金を出したのは、僕……」
 
 苦笑しながら、シンジはパフェをすくった。
 
 
 
 シンジは、パフェを食べながら、口を開く。
 
 「大体さ……なんで、お金持ってないんだよ」
 
 「今月は苦しいのよ」
 
 「……なんで?」
 
 「服、買ったから」
 
 「……ミサトさんに買ってもらったばっかりじゃないか」
 
 しかも、チルドレンは同い年の少年達に比べれば、かなり潤沢にお金が使えるはずだ。
 
 「しょ〜がないでしょ、欲しかったんだから……別にね、財政が破綻するような使い方はしてないわよ。使える分があるうちは、有効に使う。なくなれば、使わない。サラ金に手を出すような馬鹿な大人と一緒にしないでよね」
 
 「別にそこまでは言わないって」
 
 シンジは、苦笑する。
 
 よく考えたら、シンジの口座はお金が増える一方だ。
 
 NERVの許可を得なければいけない二次予算はともかく、毎月支給される通常予算にもほとんど手を付けていないため、シンジの預金は万単位で三桁に到達していた。
 
 ……中学生の個人預金としては、ちょっと見ない金額であろう。
 
 
 
 ……趣味とか無いからかな。
 
 シンジは思う。
 
 間違いなく、ケンスケなら数々の機材に化けているところだし、アスカも服だの何だのと買うものが多い。
 
 ……使い道が無いからなぁ……。
 
 
 
 そう思ってから、ふと、シンジは自分の「趣味」を思いだした。
 
 
 
 チェロ。
 
 そうだ……
 
 チェロ。僕のチェロ……あれ、どこに置いたっけ?
 
 
 
 考えてみれば、最後に弾いたのはかなり前だ。前回の人生で……アスカの前で弾いてみせたのが最後だろう。
 
 特に、今回時代を逆行してきてから以後は、思い出すことすらなかった。
 
 
 
 そうだ……
 
 今度、もうすこしいいチェロでも、買おうかな。
 
 
 
 シンジの預金なら、余裕で購入できるはずだった。
 
 
 
 「ま、いいでしょ。お金なんて、使わなきゃ損よ。最低限、残しておけばいいの」
 
 アスカが言い、その言葉にシンジも我に還った。
 
 「そう、だね……それがいいのかも。……でも、今月、まだ10日あるよ」
 
 「別に、なくても困らないじゃない。食事はシンジが作ってくれるし。そのお金はNERVから出てるんでしょ?」
 
 「まぁね」
 
 「買い物とかしなければ、それで十分持つわよ」
 
 「そうか……まぁ、そうかもね」
 
 「ヒカリの買い物とかにつきあっても、自分は買わなきゃいいわけよ。今日も、ウィンドウショッピングだけのつもりだったし」
 
 「あ、街に行ってきたんだ」
 
 「行こうと思ったけど、シンジがいたからさぁ」
 
 「え?」
 
 「え?」
 
 
 
 二人は、間抜けな表情で、お互いの顔を見つめあった。
 
 
 
 「え? ……あれ? アスカ……僕のあとに、ついてきたの?」
 
 「え……あ、え……えと……」
 
 ようやくと、自分が何を喋ったのか、気付く。
 
 アスカは、急に戸惑ったように、所在無げに視線を泳がせた。
 
 
 
 机の上を見る、
 
 シンジを見る、
 
 食べ掛けのパフェを見る、
 
 空のコップを見る、
 
 シンジを見る、
 
 自分の手を見る、
 
 シンジを見る……
 
 
 
 「……う、うん……まぁ」
 
 アスカが、俯いて答えた。
 
 
 
 シンジは、きょとんとした表情でアスカを見ている。
 
 
 
 「あ……そ、そう……え? えと……
 
 ……なんで?」
 
 「べ、べつに、なんでもいいでしょ」
 
 まさか、シンジの行動に疑いを持ったとは言いがたい。
 
 「う……うん、まぁ……いいけど」
 
 よくわからないという表情で、シンジは頭を掻く。
 
 「……あれ? じゃあ……僕が控室に入ってから、アスカが来るまで間があったけど……なにしてたの?」
 
 「じ、自分の控室にいたわよ」
 
 「あ、そ、そう」
 
 
 
 しかし……
 
 後を追ってきて、自分の控室に行ったんじゃ、意味がないのでは?
 
 と、思わなくもないシンジである。
 
 
 
 「あのさ……」
 
 シンジは、スプーンの先でパフェをつつきながら、口を開く。
 
 「……もしかして、何か、話があったんじゃないの?」
 
 「……なにもないわよ」
 
 
 
 そして、沈黙が訪れる。
 
 
 
 シンジも、アスカも、言葉の接ぎ穂を失ってしまった。
 
 先ほどの、控室での状態と同じだ。
 
 お互いに、どうしていいのか、わからない……。
 
 
 
 ピピピピピッ、ピピピピピッ、ピピピピピッ……
 
 
 
 急に、店内にアラームが鳴り響いた。
 
 一つは、シンジの鞄の中から。
 
 もう一つは、アスカのポケットから。
 
 
 
 アスカは、慌てて携帯電話を取りだした。
 
 液晶を見る。
 
 既に止まっている携帯には、「非常招集」と表示されていた。
 
 
 
 アスカは、顔を上げてシンジを見る。
 
 シンジは、鞄の中に携帯を戻すところだった。
 
 そのまま、シンジは鞄をもって立ち上がる。
 
 
 
 その姿は、まるで……
 
 
 
 「行こうか」
 
 シンジが、前を向いたまま……アスカに声をかけた。
 
 アスカも、慌てて立ち上がる。
 
 そして……ふと、思う。
 
 
 
 訓練日でもない。
 
 
 
 チルドレンが本部に来る必要など、ない。
 
 
 
 そんな日に…シンジは、一人でやってきた。
 
 
 
 ……そして、非常招集。
 
 
 
 シンジは、先に立って作戦司令室へと歩き始める。
 
 アスカは、そのあとを追う。
 
 アスカの前にある、学生服姿の背中。
 
 アスカから、シンジの表情は見えない。
 
 
 
 『シンジだけが持つ、何か……』
 
 
 
 アスカは、黙ってシンジの後ろを歩きながら、そんな言葉を反芻していた。