第四十三話 「道」
百八十一



 急に降り出した雨は、容赦なく三人の身体に降り注いでいた。
 
 「くあ〜! こら、タマランわ」
 
 近くのパン屋の軒先に飛び込み、トウジが空を見上げて言う。
 
 「止みそうもないね」
 
 シンジが、頭の水滴を払いながら言う。
 
 「碇……土砂降りの中、自分の肩を抱きしめて立ち尽くしてくれたりすると、うれしいんだが」
 
 ケンスケがデジカメを構えながら言う。
 
 
 
 三人は、学校帰りに、いつものように商店街のゲームセンターに立ち寄っていたのだ。
 
 夕方になったので帰ろうとしたところで、急に土砂降りに見舞われたのである。
 
 
 
 シンジが、空を見上げる。
 
 灰色に、ぶ厚く敷き詰められた絨毯から、滝のように雨が降り注いでいる。
 
 ピカッ!
 
 一瞬空が光り……数拍置いて、地鳴りのような低い音と振動が、シンジの足の裏に伝わってきた。
 
 
 
 「かなわんなぁ」
 
 腕組みをして、トウジが唸る。
 
 
 
 「ウチなら、ここから近いけど……そこまで走る気があるなら、雨宿りしていく?」
 
 シンジが、二人の方を振り返って、聞く。
 
 トウジが、横目で空を見上げて、肩を竦める。
 
 「そうしたいとこやけど……微妙なとこやな。この土砂降りじゃ……」
 
 「まてまて、トウジ」
 
 トウジの言葉尻を千切るように、横からケンスケが割って入る。
 
 トウジがケンスケの顔を見ると、その瞳は、真剣な輝きで満ち溢れていた。
 
 「せっかく、碇が誘ってくれたものを、無下に断わっちゃ申し訳がないじゃないか。ここは是非、お言葉に甘えるべきだと思うんだが、いかがかな?」
 
 
 
 「……ナニを言っとるんや、ケンスケ?」
 
 怪訝な表情をするトウジ。
 
 
 
 察しの悪いトウジに、ケンスケは大仰に眉をしかめてみせた。
 
 そのまま、トウジの耳許に顔を近付けると、ヒソヒソと話す。
 
 「……ミサトさんがいるだろっ!」
 
 
 
 「ん……? ……お、おお、お〜お〜、なるほどな」
 
 ようやくと合点したトウジが、ポン、と手の平を叩く。
 
 
 
 ケンスケは、眉間を押さえて溜め息をつく。
 
 「……まったく、ミサトさんを追っ掛ける必要が無くなったとは言え……」
 
 「? なんのことや?」
 
 トウジが、不思議そうな表情でケンスケを見る。
 
 「トウジ、考えても見ろよ。ついこないだまで、おまえも俺と一緒にミサトさんを追っ掛けてたじゃないか」
 
 「おお、そうやなぁ」
 
 「そうだろ? ……それがおまえ、今日はせっかくミサトさんの待つ碇邸に行く口実が出来たというこの好機に、なんでそう普通なんだ」
 
 「……そう言われると、せやな。……なんでや?」
 
 自分で首を捻るトウジ。
 
 ちなみに、口実とかそういう話を目の前でされてもなぁ……と苦笑するシンジ。
 
 
 
 「自分で、わかんないのか? 本気か?」
 
 ケンスケが聞く。
 
 「……う〜ん」
 
 唸るトウジ。
 
 「……なんちゅうか……こない言うたらなんやけどな、なんか、変わったんや。ミサトさんは好きやで。ただ……なんちゅうたらええんかなぁ……こう、気ィが落ち着いた、ちゅうか……フツーになった、ちゅうか……」
 
 トウジは自分でも整理がつかないらしく、曖昧に言葉を紡いでいく。
 
 
 
 ケンスケは、溜め息をついて首を振る。
 
 シンジを見てから、大袈裟に肩を竦めてみせた。
 
 「なんや?」
 
 怪訝な表情をするトウジ。
 
 ケンスケは眼鏡をあげると、口を開いた。
 
 「……そんなに、悩むようなことじゃないだろ〜。トウジに彼女が出来たから、他の女性にそういう興味がなくなっただけじゃないか」
 
 
 
 「……か、彼女ォ!?」
 
 トウジが、度胆を抜くような大声を上げた。
 
 
 
 見るまに、トウジの顔が赤くなっていく。
 
 ケンスケが、心の中を覗き込むかのように、じっとトウジを見る。
 
 
 
 「……な、な、な……ちゃ、ちゃうちゃう! ちゃうで! ナニを根拠に言うてるんや!」
 
 大慌てで、ぶんぶんと首を振るトウジ。
 
 「違うのか?」
 
 「ちゃうわ!」
 
 ケンスケの問いに、即座に否定の言葉を飛ばすトウジ。
 
 「……だ、だいたい、なしてそないな、突拍子もないコト……」
 
 「そんなこと言ってもなぁ……昨日、トウジと委員長が二人で教室を出ていってさぁ、しかも、二人で授業さぼったろ? 委員長は妙に嬉しそうだし、ああ、とうとういったな、と思って当然じゃないか」
 
 「ちょ……ちょい待ち。とうとう、言うて……委員長がワシのことどう思うとるかなんて、知らへんやろ」
 
 「……あのなぁ」
 
 ケンスケが溜め息をつく。
 
 「クラス中で、委員長が誰を好きか分かってなかったのは、トウジと綾波の二人くらいだよ……おまえと委員長、ず〜っと前から、クラス的には公認なんだからな」
 
 
 
 呆然と、固まっているトウジ。
 
 
 
 「……で? つきあうことにしたんじゃないのか?」
 
 ケンスケが、ニヤリとした表情のまま、問う。
 
 
 
 トウジは、半ば呆然としたまま、言葉を紡いだ。
 
 「い……いや……ちゃうんや。つきあうとか、そういうハナシやない」
 
 素直に返事をしてしまうあたり、まだ呆然としていて、現実に戻ってきていないのかも知れない。
 
 ケンスケの表情が、怪訝なものに変わる。
 
 「彼女……じゃ、ないのか?」
 
 「せ、せや……まだ、彼女とちゃう」
 
 「……まだ?」
 
 
 
 ケンスケは、いきなりトウジの肩をガッシと組むと、勢いよく土砂降りの中に飛び出した。
 
 「おわぁぁ! なにしよんじゃぁ!」
 
 雨の勢いに、我に返ったように叫ぶトウジ。
 
 パン屋の軒先に立ったまま、シンジは唖然と二人を見ている。
 
 
 
 「トウジ! こうなったら、是が非でもシンジの家まで行って、詳しい顛末を聞かせてもらうぜ!」
 
 「まッ、ま、待たんかい! 何も話すことなんかあらへんて!」
 
 「顔を真っ赤にしてナニを言ってんだよ!」
 
 「引っ張るなぁぁぁ!」
 
 
 
 ……肝心のシンジを置いて、どんどんと雨の中を走っていく二人。
 
 シンジは苦笑すると、鞄を頭の上に掲げ、雨の中に飛び出した。



百八十二



 三人は、ガッポガッポと靴を鳴らしながら、葛城邸の前まで来た。
 
 「ぐわぁ〜、気色ワル……」
 
 「防水仕様のデジカメでよかった……」
 
 情けない声で、トウジとケンスケが言う。
 
 
 
 シンジは、IDカードを探しながら、振り返った。
 
 「ミサトさん……昨日、遅かったから、多分まだ寝てると思うんだ」
 
 「そうなのか……そりゃ、起こしちゃ悪いな。静かにしてよう」
 
 「シンジ、なんでもいいから着るもん貸してくれんか……」
 
 「いいよ。ついでに風呂も入ったら?」
 
 「ああ、そらありがたいわ」
 
 
 
 シンジが、IDカードをスリットに通す。
 
 ガチャン、と音がして、ロックが上がる。
 
 
 
 シンジがドアを開けると、まっ先にトウジが飛び込んだ。
 
 「スマン、シンジ。もう、気色悪うてたまらんわ。風呂、借りるでっ」
 
 「ああ、いいよ。着替えは用意しておくよ」
 
 ……と、言いながら、シンジは、玄関のタタキを見る。
 
 
 
 靴が……いち、にい、さん、よん……
 
 ……ん?
 
 
 
 靴を脱いで、シンジは居間に上がり込む。
 
 ケンスケが、その後に続き……トウジは、そのまま風呂場へ飛び込んだ。
 
 
 
 居間に入ると、レイが顔を上げてシンジを見て、ぱぁっと表情を綻ばせた。
 
 「……お帰りなさい……碇君」
 
 「ただいま、綾波」
 
 言いながら、タオルをケンスケに渡す。
 
 
 
 いち……に……さん……よん……
 
 ミサトさん、綾波、トウジ……
 
 ん……?
 
 
 
 「やぁ、こんちは、綾波」
 
 頭を拭きながら、ケンスケがレイに笑いかける。
 
 「……こんにちは、相田君」
 
 レイも、ケンスケを見て、返事をする。
 
 
 
 ケンスケは、微笑んだ。
 
 「……嬉しいよなぁ。やっぱりさ……綾波から挨拶してもらえるなんて、半年前には想像できなかったもんな」
 
 
 
 レイの心は、確実に前進していた。
 
 シンジと出会うよりも、前。クラスのみなを、まったくの隔絶された他人……ことによったら、動く障害物程度にしか認識していなかった当初の頃と違い、今や、話し掛けられたら返事くらいは確実にするようになっていた。
 
 そのうえで、トウジやケンスケのことは、更に他のクラスメイトとは違うという認識を抱いているらしい。
 
 それは、シンジと一緒にいることが多いことと、とりも直さず、自分を含んだ小グループの一員であり、自分に話し掛ける回数も飛躍的に多いことが、理由としてあげられるだろう。
 
 もちろん、ヒカリやアスカには更に違った認識を抱いているし、シンジは別格だった。
 
 とにかく、そうした変化がレイに現れていることは……ケンスケやトウジにとってはもちろん、シンジにとっても嬉しかった。
 
 
 
 「綾波はいつも、碇の家にいるのか?」
 
 ケンスケがシンジに聞く。
 
 「下校して、夜まではうちにいることが多いかな。夕食とか、うちで一緒に食べるしね」
 
 「惣流は?」
 
 「夕食時になれば、来るよ」
 
 
 
 「……今日は、もう来ているわ」
 
 レイが、ボソッと呟いた。
 
 「え? あ、そう? どこに?」
 
 シンジが問う。
 
 「……今は、お風呂に入っている」
 
 「え?」
 
 
 
 ……ドガシャァァァァァァンンン!!!
 
 
 
 「おわぁぁぁぁぁッ!!」
 
 
 
 風呂場の扉がバガッと開いて、トウジが文字通り転がり出てきた。
 
 その直後を、物凄い形相のアスカが飛び出してくる。
 
 
 
 「こォォォォォォォォの……ノゾキ! スケベ! エッチ! ヘンタイ! チカン!」
 
 「まてまてまてまてまてェ! じ、事故やて、事故!」
 
 「バカ! アホ! マヌケ! ボケ! スカ!」
 
 「ちょ、ちょい待てて! ハナシ聞けやっ!」
 
 「トウジ! ケンスケ! シンジ!」
 
 「それって悪口かいッ!」
 
 
 
 ……などという騒動を、シンジは唖然として見ていた。
 
 腰布を巻いただけで床に転がっているトウジを、バスタオルを巻いたアスカが怒鳴り散らしている。
 
 
 
 「おおッ! なんという……」
 
 ケンスケは、言いながらデジカメを構える。
 
 
 
 シュカッ!
 
 
 
 「おわッ!」
 
 デジカメのレンズを綺麗に叩き割り、ファインダーにまっすぐ歯ブラシが突き刺さっている。
 
 「撮るんじゃないッ!」
 
 投げ終えたフォームで、アスカがケンスケを睨み付ける。
 
 「おわぁぁぁぁ〜〜! レ、レ、レンズがぁぁ!」
 
 泣きそうな顔で、ケンスケは歯ブラシを掴むと、ぐいぐいと引っ張る。
 
 「おおおおお! 刺さってるぅぅぅ!」
 
 「天罰よッ!」
 
 アスカはそういうと、再びトウジの方を睨み直す。
 
 「アンタねぇ……百歩譲って、このアタシのナイスバディを覗きたいという欲求はわかるけどね、それを本当に実行するんじゃないわよ!」
 
 「だ、だから誤解やて! 惣流が入っとるなんて、思わへんかったんや!」
 
 「見りゃぁわかるでしょ! すりガラスなんだからッ!」
 
 「急いどったんや!」
 
 「何よ、そんなにガツガツ見たかったわけェ!? あ〜、もう、お嫁にいけない!」
 
 「見てへんて! ドア開けるなり、惣流に蹴り飛ばされたんやから」
 
 「ヒカリに言ってやる!」
 
 「や、や、やめてくれェ!」
 
 
 
 「……何の騒ぎ?」
 
 スラッ、と襖が開いて、ミサトが部屋から出てきた。
 
 ビシ、とNERVの制服に身を包んでいる。
 
 
 
 「おわぁ……ミサトさん……」
 
 トウジが、腰布一枚の自分の姿に、情けない表情をする。
 
 「ああっ、制服姿……くっそォォォ! デジカメがぁぁ!」
 
 ケンスケが、泣きながら刺さった歯ブラシを抜こうと力を込めている。
 
 
 
 「聞いてよ、ミサト! 鈴原ったら、アタシのシャワー姿を覗きやがったのよ!」
 
 「見てへん、言うてるやろ!」
 
 「ど〜だか! フン!」
 
 
 
 ミサトは、やれやれと腕組みをすると、肩を竦めた。
 
 「……ま、襲われたってわけじゃないんだし、諦めたら?」
 
 「惣流を襲ったら殺されますて……」
 
 トウジが、溜め息をつきながら言う。
 
 
 
 「……なぜ、鈴原君が責められているの?」
 
 
 
 レイの、声。
 
 
 
 皆は、沈黙してレイの事を見た。
 
 レイは、きょとんとした表情で皆のことを見返している。
 
 
 
 「なに、言ってんのよ、ファースト」
 
 アスカが、腰に手を当てて、眉をひそめる。
 
 「もしかして、鈴原のことをかばってるワケ?」
 
 「? 違うわ……何か、鈴原君が悪いことをしたの?」
 
 
 
 再び、沈黙。
 
 
 
 トウジが、ぎこちなく笑った。
 
 「ホ、ホラ、見てみぃ! 綾波は、今のが事故やてわかってくれてるやないか!」
 
 言うが、アスカは眉をひそめたままだ。
 
 ……ややあって、アスカが、ゆっくりと口を開く。
 
 「なんとなぁ〜く……また、ファーストが勘違いしてる気がするわ」
 
 「私も……そんな気がするわね」
 
 ミサトも、溜め息をつきながら答える。
 
 実は、シンジも、ちょっとそう思う。
 
 レイは、怪訝そうな表情を見せた。
 
 「……勘違い? ……なにか、間違っているの?」
 
 「いい、ファースト」
 
 アスカが、指を立ててみせる。
 
 「もう一度、整理するわよ……いま、アタシが入ってる風呂に、不届きな男が覗きに来た。悪いこと、してるでしょ?」
 
 「人聞きの悪いこと言うなや!」
 
 情けない声で、トウジが抗議の声を上げる。
 
 アスカ、完全無視。
 
 レイは、首を軽くかしげる。
 
 「……悪いのは……弐号機、パイロット?」
 
 
 
 全員の動きが、止まった。
 
 
 
 なぜ?
 
 どうしたら、そんな結論に?
 
 
 
 「……なァんで、アタシが悪いのよッ!」
 
 アスカが、思いきり眉間にしわを寄せながら、ズカズカッとレイの前まで歩み寄る。
 
 ちなみに、いい加減シンジは、バスタオル一枚のアスカに着替えてきて欲しいなぁ……などと思ったりする。
 
 鼻先まで突き付けられたアスカの顔を真顔で見ながら、レイはきょとんとして応える。
 
 「……裸は、他人に見せてはいけない」
 
 「それ、温泉の時にも聞いた!」
 
 アスカが、青筋を立てる。
 
 「だから、この場合は、見せたんじゃなくて見られたのよ! アンタも、あのとき『他人の裸を見たらいけない』って言ってたでしょ!」
 
 「そう……他人の裸を見たらいけない……」
 
 そこまで言って、レイは、ふと怪訝な表情をする。
 
 そして、俯いて考え込むような表情を見せた。
 
 
 
 場が、沈黙した。
 
 皆、レイが何を言いだすのか……固唾を呑んで見守っている。
 
 
 
 ちなみに、シンジはそっと辺りを見回して、「いまここに誰かが来ても、説明のしようがないなぁ」と思う。
 
 腰にタオルを巻いただけの少年と、バスタオルを体に巻いただけの美少女、デジカメに歯ブラシを突き立てて泣き笑いの少年に、特務機関NERVの制服に身を包んだ美女。
 
 (……わけわからん)
 
 
 
 やがて、レイが口を開いた。
 
 「……裸を見た……鈴原君は……悪い?」
 
 「やぁっと、わかったようね」
 
 「見てへん、言うとるやろォォ!!」
 
 勝ち誇ったようなアスカと、情けない声を上げるトウジ。
 
 「そして……裸を見せた、弐号機パイロットも、悪い……」
 
 「見せたわけじゃないッ!」
 
 一気にこめかみをひくつかせるアスカ。
 
 
 
 「………」
 
 また、考え込むレイ。
 
 
 
 そして、再び口を開く。
 
 
 
 「裸を見るのは、悪いこと……見せるのも、悪いこと……
 
 ………
 
 もしかして……裸になるのは、一人の時だけ?」
 
 
 
 全員が、あっけにとられたような顔で固まった。
 
 
 
 「だから……見られそうになれば、避けなければいけない。
 
 だから、見せそうになったら、隠さなければいけない……」
 
 
 
 レイは、シンジの方を向いて、尋ねる。
 
 「碇君……あってる?」
 
 「……ま……まぁ、合ってるよ……」
 
 シンジも、茫然としながら応える。
 
 
 
 そうか……
 
 そう言えば、よかったんだ……
 
 
 
 アスカが、あっけにとられた表情のまま、呟いた。
 
 「……当たり前じゃない……そんなの」
 
 「……ごめんなさい……知らなかったから」
 
 レイが、俯いて応える。
 
 そして、シンジの方を向いて、もう一度、謝る。
 
 「ごめんなさい……碇君」
 
 「え……なにが?」
 
 「やっと……わかったわ。なんで、碇君が怒ったか」
 
 「え?」
 
 「……ごめんなさい……何度も、裸を見せてしまった」
 
 
 
 これ以上にないくらい……その場の面々は、石と化してしまったのだった。



百八十三



 もう……毎度のことだが、シンジを責め立てるような、あるいは囃し立てるような騒動は、小一時間も続いた。
 
 ようやくと、場が集束し……アスカは、再び脱衣所に戻っていった。
 
 トウジはとりあえずシンジの服を借りて、やっと落ち着いたように椅子に座る。
 
 
 
 「シンちゃん、レイも、今晩はハーモニクスの訓練やるから、遅れないようにね」
 
 「はい」
 
 「は……い……」
 
 レイの答えと、シンジのぐったりしたような答え。
 
 それを見てから、脱衣所の方に声をかける。
 
 「アスカもね」
 
 「ハ〜イ」
 
 扉の向こうから、アスカの声。
 
 
 
 「あッ」
 
 急に、ケンスケが短く声を上げた。
 
 皆が、不思議そうにケンスケの顔を見る。
 
 ケンスケは、椅子から立ち上がって居住まいを正すと、バッとミサトに向かって頭を下げた。
 
 「葛城さん! 御昇進、おめでとうございます!」
 
 
 
 トウジは、わけも分からず、椅子に座ったまま慌てて頭を下げる。
 
 レイは、ただじっとミサトを見ている。
 
 
 
 シンジは、ミサトの襟章を、感慨深気に見ていた。
 
 襟章のラインが、一本から二本になっている。
 
 ……そうか……
 
 
 
 「……三佐になったんですね……ミサトさん」
 
 シンジが、静かに呟く。
 
 
 
 そうか……
 
 ……もう、そんな時期か。
 
 
 
 「ありがとう」
 
 ミサトは、微笑んでケンスケとトウジの方を見る。
 
 それから、横目でシンジに視線を向ける。
 
 「……ごめんね、シンちゃん」
 
 小さく、呟く。
 
 
 
 「えっ?」
 
 シンジが、ミサトの言葉の意図を掴みかねているうちに、ミサトは、玄関を開けて外へ出ていった。
 
 
 
 「……なんだったんだろ」
 
 シンジは、よくわからない表情で、ミサトの消えた玄関を見つめていた。
 
 
 
 アスカが、髪の毛を拭きながら脱衣所から姿を見せた。
 
 「ナニ? ミサト、昇進したの?」
 
 「うん」
 
 アスカの問いに、シンジが答える。
 
 「へェ……全然気付かなかった」
 
 「くぅ〜……本気かよ、二人とも……」
 
 ケンスケが、自分の頭をがしっと掴んで、大袈裟に振り回してみせる。
 
 トウジも、その後ろで、目を閉じ腕を組んで「うんうん」と頷いてみせている。
 
 
 
 「綾波、知っとったか?」
 
 トウジがレイに話を振ると、シンジの横に座っていたレイが、少しの間をおいて、小さく首を横に振る。
 
 
 
 「なんて、薄情な同居人どもだぁ……そうでなくても、中学生三人も抱えて、大変だろうに……」
 
 ケンスケのセリフに、アスカが憮然とした表情で答える。
 
 「……別に、アタシとファーストは、ここに住んでるわけじゃないわよ」
 
 「住んでるも同然なんだろ……家にいる時間の大半をここで過してるんだから」
 
 溜め息をつきながら、ケンスケが、やれやれというように肩を竦めてみせた。
 
 「食事が出るから、ラクなのよ! でなきゃ、こんな家にわざわざ……」
 
 「ま、そういうことにしといてやってもいいけどさ」
 
 ケンスケが、ただニヤッと笑って応える。
 
 アスカは、不機嫌そうな顔でしばらくケンスケを睨むと、そのまま机の上に置いてあった雑誌を持って、こちらに背中を向けたままリビングの床の上に寝転がってしまった。
 
 背中越しに、声が飛ぶ。
 
 「シンジ! 夜は訓練なんだから、とっとと食事の支度しなさいよ!」
 
 
 
 はいはい、とシンジは苦笑して立ち上がった。
 
 合わせてレイも立ち上がる。
 
 「お、そしたら、ワシら、そろそろ……」
 
 トウジが言いかけるが、シンジが振り返って口を開く。
 
 「まだ、雨、止んでないよ。せっかくだから、食べてけば?」
 
 「お……いや、せやけどな……」
 
 「結局、シャワーも浴びてないでしょ。待ってる間に、浴びてきたら?」
 
 「……そ、そうか? したら、お言葉に甘えさせてもらうわ」
 
 トウジが、一瞬の逡巡の後、笑いを浮かべてそう言った。
 
 「実は、ミドリのやつが友達ンところ泊まる言うてな……ワシ、今夜はカップラーメンのつもりだったんや」
 
 「そりゃ、いいタイミングだったね。……ケンスケは?」
 
 「俺だけ帰る理由なんてないよ」
 
 「帰ればいいのに」
 
 リビングで、背中を向けたまま、アスカが悪態をついた。



百八十四



 「ファースト、セカンド、共に汚染区域ギリギリです」
 
 マヤが、モニターを見つめながら報告する。
 
 コンソールのモニターには、レイ、シンジ、アスカの三人の顔が、並んで映っている。
 
 三人の顔の周辺には、それぞれの名前と、「TEST PLUG」の文字。
 
 
 
 ここは、NERV第7実験場。
 
 実験管制室の前には大きな水溶液のプールがあり、そこに三本のテストプラグが、半分沈んでいるのが見える。
 
 今日は、チルドレンのハーモニクス・テストなのだ。
 
 
 
 モニタの中の三人は、目を瞑っている。
 
 それは、神経を集中している表情のようにもとれるが、実際には違う。
 
 
 
 普段行われるシンクロテストでは、主にパイロットとエヴァの交感神経のシンクロを図ることが目的とされる。それにより、よりパイロットの意志をエヴァの動きに反映させることができるからだ。
 
 ハーモニクステストは、これに非常に近いが、少し違う。
 
 「エヴァにシンクロした状態」とは厳密に言えば、パイロットが「自我を持ったまま」、神経をエヴァと同一化させた状態である。シンクロ率が100%になれば、エヴァの機体をあたかも自分の身体のごとく動かすことができるが、それはあたかも「動かすことができる」というだけで、同時に、プラグに座って操縦把を握る生身の自分も知覚・認識できる状態だ。
 
 それに対し、ハーモニクスの示す意味は、もっと深層的、根元的なエヴァとの同一である。神経の感覚だけでなく、パイロットの身体を構成する細胞の、ひとつひとつが持つ個性……それ自体が、エヴァの細胞と同一化していく状態。
 
 ハーモニクス値が100%を示すこと……それは、つまりエヴァに「融合」してしまうことを示していた。
 
 シンクロ率を上げるのに、ハーモニクス値の向上は不可欠である。
 
 心を抜きにして、身体だけエヴァとシンクロすることなどできないからだ。
 
 
 
 アスカが、高いシンクロ率を誇っていながら、どうしてもその先に踏み込めない原因の一端は、ここにある。
 
 アスカは、エヴァの自我を認めない。
 
 そのため、「エヴァの自我」との融合を示すハーモニクス値が低く、シンクロ率を一定以上に引き上げることが出来ないでいるのだ。
 
 
 
 レイのシンクロ率が高まらないことも、ある意味、ハーモニクス値の低さが原因と言えた。
 
 零号機の自我は、非常に希薄で、かつ不安定だ。
 
 レイは、エヴァの自我とシンクロすることができないのだ……いや、正確には、レイの方からの同一化は行われるのだが、零号機の自我の振幅が大きすぎて、激しく揺らぐ零号機の自我に、常に自分の自我を重ねておくことが出来ないのである。
 
 そのため、やはりシンクロ率の上昇に足枷をつけられていた。
 
 
 
 シンジのシンクロ率が高い理由は、幾つか原因がある。
 
 そして、そのうちのひとつは、このハーモニクス値の高さだ。
 
 前回のシンジは、初号機の中に母のコアを認めていたわけではなかった。……いや、認めていたのかも知れないが、それは、意識してのこととは、違う。
 
 アスカのシンクロ率に迫り、やがて抜いていったが、もう、あの近辺で、シンクロ率の上昇としてはかなり限界だったはずだ。時折、初号機とのハーモニクスが瞬間的に高まり、突発的にシンクロ率を400%などというところまで引き上げることもあったが、それはシンジが、無意識にコアの自我を認めていたから起こった現象であり、いつでもその状態に、自発的に持っていけるわけではなかった。
 
 ……今回のシンジは、違う。
 
 はっきりと、コアたる母の存在を知り、それを受け入れている。
 
 ……シンジは、ハーモニクス値が示す専門的な情報を知らない。
 
 だが、実際には、シンジはもはや、「やろうと思えば、いつでも400%までシンクロ率を持っていける」のだ。もちろん、雑念のない、完全なハーモニクスの同化を行うためには物凄い集中が必要で、それは生半可なものではないのだが……それを理解しているシンジには、理論的には可能なのだ。
 
 
 
 「1番に余裕があるわね。もう少し、深度を下げて」
 
 リツコの言葉に、マヤが頷いてキーボードを叩く。
 
 モニター内のシンジのエリアが少しだけ下がる。
 
 シンジの表情が、少しだけ曇る。
 
 
 
 このハーモニクステストが、実際のエヴァとのハーモニクスとはどうしても懸け離れたものになってしまうことは、リツコ以外、誰もはっきりと認識できていない。
 
 テストプラグのコア……MAGIの造り上げた、疑似人格。
 
 それは、それぞれの機体のコアが持つパーソナルパターンに似せてはあったが、たとえばダミーシステムのようにレイやカヲルといった依代があるわけではなく、数値入力によって造り上げた「偽物」でしかない。
 
 それらに同一化を図っても、限界があるのだ。ハーモニクス値は、実際のエヴァとの融合にくらべれば、数割近く低い値に抑えられてしまう。
 
 
 
 だが、まさか、訓練で本物のエヴァと融合させるわけにはいかない。
 
 最良の手段ではないと知りつつ、訓練を続けなければならない難しさが、そこにはあった。
 
 
 
 「サードチルドレン、汚染区域ギリギリです」
 
 マヤが報告する。
 
 その数値は、シンクロ率・94%、ハーモニクス値・77%という、非常に良好な結果を示していた。
 
 リツコは、モニタに表示されるその数字を一瞥して、感嘆の溜め息を漏らす。
 
 「……まさに……シンジくんは、チルドレンとして、天才ね。訓練の必要すらないのかも……と思うわ」
 
 「そうですね……訓練を始めてわずか数カ月だというのに……何度見ても驚きます」
 
 マヤも、呟く。
 
 「まぁ、シンジくんは、スタートからして他の二人と違ったものね……。初搭乗で82.7%なんて、驚きを通り越して、呆れるわ」
 
 リツコが、言いながらキーボードを叩く。
 
 モニタ内の三人の顔の位置が、ぐぐっ……とスライドするようにせりあがり、同時に、三人の引き締めた表情が、心なしか和らぐ。
 
 
 
 三人が、共に目を瞑っていたのは、神経を集中していたわけではない。
 
 ハーモニクス・テスト……その、自己とコアとの距離を縮める訓練では、おのずと、意識が内側に向き合っていくのである。
 
 
 
 「安全区域まで浮上後、神経接続を切断。訓練を終了して」
 
 リツコは、マヤにそう指示を出すと、きびすを返して、後ろの壁際に立つミサトの許へと移動する。
 
 
 
 「さすがね」
 
 リツコが、ミサトに話し掛ける。
 
 「そうね……」
 
 ミサトが、じっと前面のモニタを見つめながら、応える。
 
 「シンジくんは……エヴァに乗るために、生まれて来たのかも知れないわね」
 
 そういうリツコの言葉に、ミサトは、かすかに眉根を寄せた。
 
 「いいえ……
 
 そんなこと……ないわ。
 
 それじゃぁ……哀しすぎるもの」
 
 「………」
 
 「一生、エヴァに乗り続けることなんて、できない。
 
 いつか……そう、それこそ、そんなに遠くない未来……エヴァに乗る必要が無くなる時が、来るのよ。
 
 シンちゃんが……例え、エヴァを操るのに……素晴らしい才能があったとしても……
 
 それは、エヴァに乗るため、じゃない。
 
 エヴァに乗って……やがて降りることのできる日のための力、なのよ」
 
 
 
 「……そうね」
 
 目を瞑り……リツコも、小さく応えた。
 
 
 
 アスカは、相変わらず不機嫌だった。
 
 予想されたこととは言え……今回も、シンジのシンクロ率を超えることがなかったからだ。
 
 チルドレンに対しては、シンクロ率しか公表されない。そのため、アスカには知ることのできないことだが……アスカのシンクロ率がのびないのは、わずか28%という、ハーモニクス値の低さのせいであった。
 
 このままでは、これ以上シンクロ率はのびることがない……という、大きな壁の存在を、アスカは肌で感じていた。
 
 
 
 だが……
 
 シンジは、前回と今回との、小さな違いに気付き始めていた。
 
 アスカは、前回……この頃から、ゆるやかな下り坂に入っていったはずだ。
 
 それに気付いた焦りが、更にシンクロ率の低下を招き……それを防ごうと躍起になり、また、下がり……やがて、精神的にも疲弊していく。
 
 その、小さなスタートライン。
 
 それが、この頃の……シンジが、アスカのシンクロ率に迫っていく……という事象からひき起こされた、最初の忌むべき一歩だった。
 
 
 
 まだアスカのシンクロ率の数値自体は、前回の同時期のそれと、ほとんど違わない。
 
 前回は、ここからゆるやかな下降線をたどっていったのであり……これからそうならない、とは、シンジにも言いきることが出来ないはずだった。
 
 
 
 だが、シンジは感じる。
 
 
 
 前回とは、違う。
 
 
 
 アスカは……壁にあたりながらも、それに跳ね返るように転がり始めてはいなかった。
 
 アスカのシンクロ率は、じりじりと、現状を保ち続けている。
 
 
 
 それはやはり、シンジのシンクロ率が、最初からアスカを追い抜いていることに起因しているのだ。
 
 前回は……アスカのシンクロ率が頭打ちになっている間に、シンジのシンクロ率が、どんどんと追い付いてきていた。
 
 ひたひたと……確実に……恐怖の足音が、アスカの背後に近づいていく。
 
 焦り。
 
 焦り。
 
 焦り。
 
 ……そうして、それはやがて、破滅へのペダルを漕ぎ始める。
 
 
 
 シンジは、実際には、シンクロ率をもっと高い位置まで引き上げることができる。
 
 もちろん、それを維持しつづけることは出来ないが……瞬間的になら、今、この場でも、200%前後まで引き上げられるのだ。
 
 ……と、なると、逆に訓練でそこまで引き上げる必要など、ない。
 
 シンジは、密かに訓練の目的を変えていた。「100%前後で、いかにシンクロ率を安定させられるか」……これも、戦闘になれば、非常に大事な問題で、無駄にはならない。
 
 
 
 ……その結果……シンジが必ずしも明確に意図してのことではなかったが……表面上、アスカとシンジのシンクロ率は、一定の間隔を開け、それ以上広がらなかった。
 
 シンジのシンクロ率が、平均して95%前後で安定しているからだ。
 
 ……これが、アスカの心から、焦りを失わせていた。
 
 たとえば、同じようにシンジのほうがシンクロ率が高かったとして……
 
 アスカが足踏みしている間に、シンジがどんどん引き離していけば、どうなっただろう。
 
 ……おそらく……やはり、アスカは取り残された焦りから、同じようなカーブを描いてしまったに違いなかった。
 
 
 
 アスカは、確かに足踏みしていた。
 
 だが、それは、シンジも同じ。
 
 そうなれば、アスカの心にも、落ち着きがあった。
 
 
 
 今は、シンクロ率に差があるが……何かのきっかけでこの壁を抜ければ、シンジのそれに追い付き、もしかしたら追い抜くこともできる。
 
 そして、その試行錯誤をしている間……シンジは変わらず、少し離れた位置で待っているのである。
 
 
 
 シンジが、そのことを意識したのは、割と最近になってからだった。
 
 アスカは、不機嫌だが……前回のような、針のムシロ、と言うべき状態とは、なんだか違う。
 
 言うなれば、「追い付いてやるから、そこで待ってなさいよ」という……逆転の余裕のようなものも、わずかながら、その態度から感じることができるのだ。
 
 
 
 それを意識して以来、なおさら、シンジはシンクロ率を上昇させるのをやめた。実際のところ、100%以上のシンクロ率と言うのは、戦闘には全く必要がないのだ。
 
 こうして……結果的に、だが、アスカの心は、壊れてしまった以前と違い……すこしだけ、異なった未来にのびる道を、歩き始めていた。
 
 
 
 前回の人生。
 
 今回の人生。
 
 アスカは、少しずつ……異なった道を歩き始める。
 
 シンジは、もちろん、全く違った道を歩いている。
 
 そして、レイ……
 
 レイは、もはや、未知の世界へ入り込んでいる、と言ってもよかった。
 
 誰にも、その先を想像することの出来ない道。
 
 もはや、以前のレイからは想像することも適わないほど、はっきりと違う道を……レイは、歩いている。
 
 
 
 前回は、ゲンドウが用意した道を、レイは歩いていた。
 
 今回は、シンジと一緒に、歩く。
 
 その手を握り、指を絡ませ、その温もりを感じ続けながら……。
 
 シンジは、道を作らない。
 
 迷うレイに、助言をしてやるだけだ。
 
 
 
 そして、いつか、レイは自分で道を見つけだす。
 
 時には、レイがシンジの手を引いて、前に立って歩く日が来る。
 
 
 
 それを……
 
 シンジは、じっと、待ち続けている。
 
 
 
 ……そのために
 
 闘う。



百八十五



 葛城邸の玄関の外側に、あまり上手とは言えない字で、「葛城三佐 御昇進祝賀パーティー」と書かれた布が下がっている。
 
 そして、その重い扉を通してまで、かすかに笑い声が夜の廊下に響いていた。
 
 
 
 「お待たせ、みんな。料理できたよ」
 
 シンジが、キッチンから大きな皿を持ってリビングに入ってくる。
 
 ちなみに、その皿の上には、肉と野菜がてんこもりだ。
 
 今日は、焼肉なのである。
 
 
 
 「おお〜、焼肉なんて久しぶりやなぁ! 食うたるでぇ」
 
 喜色満面、といった表情で、トウジが網の上に、早速肉を並べていく。
 
 「トウジ、焼肉、好きなのか?」
 
 ケンスケが聞く。
 
 「あたりまえやッ! こんなウマイもん、嫌いやったらバチあたるで」
 
 力拳で答えるトウジ。
 
 ミサトは、早速2本めのビールを開けながら、肉が焼ける様を微笑んで見ている。
 
 
 
 「そんなに好きならさぁ……」
 
 「うん?」
 
 「委員長に、今度焼肉やってもらえばいいじゃないか」
 
 ケンスケの言葉に、トウジは、ビタッ、と動きが止まる。
 
 そのまま、動かない。ケンスケは、そんなトウジをニヤニヤと見て……アスカの隣に座る人物に、声をかけた。
 
 「……トウジも、それがいいってさ。今度、作ってやったら? 委員長」
 
 
 
 ケンスケに呼び掛けられたヒカリは、既に、トウジに負けず劣らず、顔を真っ赤にしていた。
 
 「え……その……でも……」
 
 しどろもどろに、ごにょごにょと言葉を紡ぐ。
 
 横に座ったアスカも、やれやれといった微笑みで、そんなヒカリの横顔を見ている。
 
 
 
 ようやく再起動に成功したトウジが、慌ててケンスケの方に向き直った。
 
 顔を真っ赤にして、まくしたてる。
 
 「ア、ア、アホかい! 大体、焼肉なんて、どこで食うても一緒やろ、自分で焼くんやから!」
 
 「いやぁ……例えばさぁ、肉もいいのと悪いので、ずいぶん違うぜ」
 
 「それは料理と関係ないやろ!」
 
 「じゃぁ、トウジ、自分でいい肉選べるか?」
 
 「ぐっ……」
 
 「それに、焼き方っていうの? 焼肉って、けっこう奥が深いぜ」
 
 「だ、だから……そない言うても、焼くんは自分なんやから、しゃぁないやんか」
 
 「……だからさぁ、委員長に焼いてもらえ、って言ってんだよ」
 
 「……な……なァ?」
 
 「それに、焼肉っても、肉しか出ないわけじゃないだろ。……なぁ、委員長?」
 
 急にケンスケに話を振られ、固まったように硬直したヒカリは、どもりながら答えた。
 
 「あ……うん……その……ウチで、焼肉やる時には……ビビンバとか……タレも、自家製だし」
 
 「だってさ」
 
 ケンスケが、再び、トウジに振る。
 
 トウジは、油の切れたロボットのように……ギ、ギ、ギ……と身体を動かすと、赤い顔をして、ヒカリを見る。
 
 
 
 ヒカリは、赤い顔で俯きながら……上目遣いでトウジを見て、また俯き、またトウジを見て、それから口を開いた。
 
 「……じゃぁ……こんど……くる?」
 
 
 
 「あ……お……おお……」
 
 トウジも、分かったんだかなんだか分からないような感じで答え、その後、動かなくなってしまった。
 
 
 
 アスカが、あ〜あ、と言うように伸びをする。
 
 「固まってる二人は置いておくとして……ホント、ういういしいわね、コイツら」
 
 ケンスケも、頬杖をついて、動かなくなったトウジ達を一瞥する。
 
 「まぁね……小学生並だよ」
 
 「小学生並……って言えば、シンジとファーストもそうだけどさ」
 
 突然話を振られて、肉を焼いては取り分けていたシンジが、思わず噴き出す。
 
 「え、な、なにさ!?」
 
 「ま……確かに、碇達も、かなり小学生並だけどさ……こ〜ゆ〜場面は、見られないよな」
 
 シンジの声にはまったく答えず、トウジ達を親指で指差す。
 
 トウジたちは、二人とも真っ赤になったまま、石のように固まっている。
 
 「なにしろ、碇はともかく……綾波に照れってもんがないからな」
 
 
 
 自分の名前を呼ばれて、たまねぎを食べていたレイは、顔を上げた。
 
 アスカが、半目でレイを見ながら、言葉を発する。
 
 「アンタが、照れがないわねってハナシをしてんのよ」
 
 「……照れ……? わからない……」
 
 レイが、小首をかしげて呟く。
 
 ケンスケは、笑いながら言う。
 
 「いいんだよ、綾波は……照れがないのが、いい感じなんだからさ」
 
 「そう……?」
 
 小首をかしげてケンスケを見てから、シンジの方を見る。
 
 「照れ……ない?」
 
 
 
 レイに見つめられたシンジは、ちょっと赤くなりながら、鼻の頭を掻いて、微笑んだ。
 
 「ま、まぁ……いいんだよ、綾波は。照れなくても、その……かわいい、からさ」
 
 それに、照れないわけではない。
 
 二人きりの時には、時々、頬を染めて俯いたりする。
 
 そんな可愛らしい仕種を見せるレイを、とっておきたくなる気もする、不純なシンジであった。
 
 
 
 「しっかし……どっちもこっちもくっついちゃって、やぁねェ」
 
 アスカが、肉を皿に取りながら言う。
 
 ちなみに、シンジが口走った「かわいい」などという言葉には、もはやイチイチ突っ込みをいれる気もしなかったりする。
 
 ケンスケが、そんなアスカの姿を、パシャリとデジカメで撮る。
 
 「ナニ、撮ってんのよ」
 
 「焼肉食べる惣流なんて、滅多に見られないぜ。撮っておかなきゃ、後悔するからな」
 
 「アンタね〜、せめて撮影する前に断わりなさいよ」
 
 「事前に言ってたら、自然な写真がとれないだろ」
 
 「だいたい、デジカメいくつ持ってんのよ。せっかく、昨日の夕方、壊してやったってのに……」
 
 「カメラひとつしか持ってないカメラマンなんて、いないだろ?」
 
 言いながら、もう一度シャッターを切る。
 
 ついでに、ミサトやレイ、シンジの食事中の写真を撮りながら、話を続ける。
 
 「ところで惣流。おまえ、彼氏が欲しいのかよ?」
 
 「別に。メンドくさいし」
 
 「オレなんかどうだ? 一応フリーだぞ〜」
 
 「死ね!」
 
 「そうやって、毎日罵倒してくれればいいからさぁ〜」
 
 「ギャァ! ヘンタイィ!」
 
 
 
 ……という騒動はともかく、シンジは、レイの皿にカボチャを取ってやっていた。
 
 
 
 今日、焼肉と言う料理にしたのは、シンジの悩みの末の決断だった。
 
 レイは、肉が食べられない。
 
 だが、みんなでワイワイやるのに、焼肉はいい料理だ。それに、ミサトやアスカはレイと食卓を囲む都合上、人よりも肉を食べる機会は自然と少なくなっていた。
 
 ……焼肉と言っても、食材は肉ばかりじゃない。
 
 たまねぎ、ニンジン、茄子、かぼちゃといったさまざまな野菜がつくのが普通だし、特製のサラダやチャーハンもある。
 
 少なくとも、肉を除いても飽きることのないだけの種類の料理が、レイひとりでは食べられないほどの量あることはわかっていた。
 
 そのため、今日はパーティーということで、あえて特にこういった料理を選んだのだ。
 
 
 
 レイは、シンジが肉を食べている様子を、じっと見ている。
 
 やがて、小さく口を開いた。
 
 
 
 「……肉」
 
 「え?」
 
 「肉……美味しい? 碇君……」
 
 レイの突然の問いに、シンジは戸惑う。
 
 「いや……まぁ……こういうのはホラ、好みだからさ……」
 
 「美味しい?」
 
 「……う……うん、まぁ……」
 
 「……血の味が、するでしょう」
 
 「いやぁ……僕にはよくわからないけど」
 
 「……昔、一度食べた時には、血の味がした」
 
 「綾波が、そういうのに敏感なのかなぁ……」
 
 「血がしたたってたし……」
 
 「ま、待った。……え? レア?」
 
 「……れあ?」
 
 「ああ、いや……あの、誰と食べたの?」
 
 「……赤木博士」
 
 「………」
 
 
 
 リツコがレアが好き、と聞いても、驚くには値しない。なんとなく、イメージにも合う。
 
 
 
 「それは……血の味がしないの?」
 
 レイが、焼肉を指差して言う。
 
 「う……う〜ん……僕には、少なくともわからないけど……綾波なら分かるかも知れないしなぁ」
 
 「………」
 
 しばらく、レイはじっと焼肉を見つめて、そのあと、パッと箸を伸ばしてそれをとった。
 
 
 
 「あ、綾波……」
 
 レイは、とった焼肉をタレにつけ、それを口に運んだ。
 
 もぐもぐ、と、口を動かす。
 
 もぐもぐ。
 
 もぐもぐ。
 
 もぐもぐ。
 
 ……こっくん。
 
 その様子を、固唾を飲んで見守っていたシンジは、やがて、おずおずと声を出した。
 
 「……ど、どう、綾波……?」
 
 レイは、飲み込んだ時のままの姿勢で、しばらく思考を巡らすように目を瞑り……やがて、シンジの方に向き直った。
 
 「……しょっぱい」
 
 がくっ、と力が抜けるシンジ。
 
 「あ、綾波、それは……タレのつけすぎ」
 
 「……そう、なの?」
 
 「……味は? ……おいしかった?」
 
 「……よく、わからない」
 
 首をかしげるレイ。
 
 「……でも、血の味はしなかった」
 
 まぁ、それはそうだろう。それだけいっぱいタレをつけていれば……。
 
 
 
 再びカボチャをかじるレイを見ながら、シンジは疑問を口にした。
 
 「なんで……急に、肉を食べようと思ったの? 今まで、あんなに避けてたのに」
 
 レイは、言われて、少し俯き……カボチャをかじりながら、小さく呟いた。
 
 「……碇君が……食べてたから」
 
 「え?」
 
 「……同じものが……食べたくなったの」
 
 
 
 同じものが食べたい。
 
 シンジと、同じものを……。
 
 
 
 シンジは、軽い驚きと共に……レイのことを見ていた。
 
 
 
 ……やがて、シンジは、レイのことを見て……そっと、口を開いた。
 
 「少しずつ……いろんなもの、食べよう」
 
 「……うん」
 
 「美味しいものが、たくさんあるよ」
 
 「うん……」
 
 そう頷いて、レイは、柔らかく微笑んだ。
 
 
 
 「よぉ、盛り上がってるか?」
 
 玄関から、加持が顔を覗かせた。
 
 「あ、もう……遅いよ、加持さん」
 
 アスカが、不満そうな声を出す。
 
 そして、その背後に立つ人物に気付いて……ウッ、と呻く。
 
 ……そこにいたのは、リツコだ。
 
 「そこで、バッタリ一緒になってね」
 
 加持が、笑いながら言う。
 
 
 
 アスカは、疑惑の目を向けてから……ミサトの方を見て、大袈裟に肩を竦めてみせる。
 
 「あ〜あ、しかし……また、カップルがひとつ増えたわ」
 
 「だ! か! らァ! アタシたちは、カップルじゃないって言ってるでしょ!」
 
 ミサトが、ギン! と、アスカを睨む。
 
 アスカは、悪びれもせず……オーバーアクション気味に、驚いてみせる。
 
 「なに言ってンのよミサト? アタシが言ってるのは、リツコと加持さんのこと」
 
 「はぇ?」
 
 アスカの言葉に、思わず気の抜けた返事をするミサト。
 
 アスカは、ニヤッと笑うと、とぼけたような表情をして、呟く。
 
 「ミサト……自意識過剰なんじゃないの? もしかして……加持さんのことが好きとかァ?」
 
 「……な! なこと、あるわけないでしょッ!」
 
 真っ赤な顔で、否定するミサト。
 
 「……説得力がないわ」
 
 溜め息をつきながら……ボソッ、とリツコが言う。
 
 加持は、ニコニコと笑ったまま。
 
 シンジは、苦笑を浮かべている。
 
 レイは、何事もなかったかのように、カボチャをかじっている。
 
 トウジとヒカリは、いまだに向き合って俯いたまま、再起動していない。
 
 ……そしてケンスケは、ミサトと加持を視界におさめたまま、例によって石のごとく固まっていた。



百八十六



 南極。
 
 その、真っ赤に染まった海面の上を、空母が一隻、ゆっくりと前進している。
 
 ……そして、その甲板上には、巨大な空母の全長をも上回る棒状の物が、シートに保護された状態で固定されていた。
 
 
 
 空母のブリッジに、ゲンドウが立つ。
 
 その後ろに、冬月。
 
 
 
 ゲンドウの見つめる海面は、死の海だ。
 
 生命の存在しない、赤い、海……。
 
 
 
 冬月が、口を開く。
 
 「コマが……またひとつ、そろったな」
 
 ゲンドウは、黙ってその言葉を聞いた後……ゆっくりと、言葉を紡いだ。
 
 
 
 「やらねばならん……我々の求める道が、全ての終わりであり、始まりなのだからな」