第四十二話 「一歩」
百七十五



 「へぇ……トウジ、休みか……珍しいな」
 
 ケンスケが、頭を掻きながら呟く。
 
 
 
 シンジも、同感だった。



 トウジはその日、学校を休んでいた。

 誰だって、調子の悪いときはあるだろう。だが、特にトウジの場合……「病気になりそうもない」と言うよりも、「病気になっても学校に来そう」という印象を抱かせた。
 
 ……トウジにしてみれば、心外な、というところであろうが。

 「どうしたんだろうな……」

 空いた席を眺めながら、ケンスケが言う。

 シンジも、ケンスケと目をあわせて、頷いてみせた。



 ……授業は滞りなく進み、やがて、放課後になった。
 
 シンジは、このあとどうするのかを決めかねていた。

 いつもなら……トウジやケンスケと一緒にゲームセンターにでも行くか、でなければレイと一緒に帰宅するところだが……

 とにかく、トウジのいない環境というものは、なにか大事な要素が欠けているような気がして……シンジはどうにも落ち着かない気分になっていた。



 ふと気付いて、シンジは横目でヒカリを見る。

 ヒカリは、やはり心配そうに、トウジの机を見ている。

 やがて、シンジの視線に気付いて顔を上げると、少しだけ照れたように頬を染めてから、寂しそうに微笑んでみせた。



 「委員長も、大変だよな……」

 横に立っていたケンスケが言う。

 「大変って?」

 「大変だろ……これだけ心配してやって、弁当作ったりとか色々としてやってんのに、トウジは全然気がつかないしさぁ……心配し損だよな」
 
 「う〜ん……まぁ、洞木さんは、それでもいいと思ってるんだろうけど……」
 
 ケンスケの言葉に、シンジも曖昧に返事をする。



 そう……昨晩、ヒカリはそう言っていた。
 
 自分の想いに、トウジが気付かなくてもいい、と。

 もちろん、完全にそう思っているわけではあるまい。トウジに想いが通じるものならば、もちろんそうありたいと思っているはずだ。

 だが、通じればそれに越したことはないが……たとえ通じなくても、それはそれでいい……と、ヒカリは感じているようだった。
 
 
 
 「鈴原の、何がいいのかしら」
 
 少し離れたところに立っていたアスカが、憮然とした表情で呟く。
 
 「何って……聞いてみなよ、直接」
 
 振り返って、シンジが応える。
 
 アスカは、シンジに向かって演出気味に眉をしかめてみせた。
 
 「いやよ。ノロけられるだけなんだから」
 
 「……ま……そりゃ、そうか」
 
 言われてみればその通りだ、とシンジは苦笑する。
 
 
 
 「まぁ、別にヒカリが誰のこと好きでも、構わないけど」
 
 言いながら、アスカは鞄を手にとった。
 
 「二人とも、見ててイライラするのよね……シンジ達みたいにイヤんなるくらい一緒にいろとは言わないけどさ、いい加減、くっついちゃえばいいのに」
 
 「そんな簡単には行かないだろ……」
 
 「どうかしら? どっちかが踏みだせば、それで済むんじゃないの? どうせ、好きなんだからさ」
 
 言いながら、アスカはきびすを返す。
 
 「買い物して帰るわ」
 
 「ああ、うん、また晩に」
 
 背中からかけられたシンジの言葉に、振り返らずに片手を挙げて応えると、アスカは教室を出ていった。



 「……碇、このあと、どうするんだ?」

 ケンスケが、机の上に置いてあった鞄を手に取り、振り返ってシンジに声をかけた。

 「ゲーセンにでも、行くか?」

 「ああ……どうしようかなぁ……」

 シンジは呟く。


 
 「碇君……」

 ふと気付くと、横に、レイが立っていた。

 鞄を持って、シンジを見上げている。

 「あ……綾波」

 シンジが、レイに声をかける。

 

 「ああ……奥さんが来ちゃったか。仕方がない、じゃあ、今日はおいとまするかな」

 ケンスケが、楽しそうに言う。

 シンジは、赤くなってケンスケを見た。

 「や、やめてよ、ケンスケ」

 「はいはい、ごちそうさま。……じゃあな碇、また明日」

 ケンスケはシンジの言葉を取り合わず、鞄を背負うと、片手をあげて歩き出した。

   
 
 シンジは、少し赤くなった顔でその後ろ姿を見送って……それから、鞄を手に取ると、レイの方に振り返った。
 
 「……そうだね……帰ろうか、綾波」
 
 「うん」
 
 レイが頷く。
 
 
 
 ふと、シンジは、ヒカリも誘ってみようか……と思いついた。
 
 寂しそうに笑う先程の表情が、脳裏にちらついたからだ。
 
 もう、ヒカリがトウジのことを想っていることは、レイも知っている。ならば、一緒に帰って、ついでにお見舞いにでも行ったらいいのでは、と思ったのだ。
 
 そして、ヒカリの方を向いて、手を挙げようとした、その時。
 
 
 
 「!」
 
 
 
 シンジは、驚いて自分の腕とレイの顔を見た。
 
 ……レイは、挙げようとしたシンジの腕を抑えている。
 
 「……ど、どうしたの、綾波?」
 
 シンジは、戸惑ったように聞いたが……レイは、黙ってシンジを見つめていた。
 
 やがて……口を開く。
 
 「……ダメ」
 
 「……えっ?」
 
 シンジは、じっとレイのことを見つめた。レイも、目を逸らさない。
 
 
 
 しばらくの沈黙の後、挙げようと腕に込めた力を、シンジは静かに解いた。
 
 「……わかった、綾波」
 
 「……ごめんなさい」
 
 レイは、俯いて小さく呟くと……そっと、触れるか触れないかくらいに、柔らかく……シンジの腕を撫でた。
 
 「ごめんなさい……」
 
 「いや……いいよ。さ、帰ろうか」
 
 「ええ……」
 
 シンジが促すと、レイも顔を上げて、シンジの横に並ぶ。
 
 シンジとレイは、帰路についた。



百七十六



 学校を出てから、5分ほど歩いたところで……レイは、静かに口を開いた。
 
 「碇君……」
 
 「ん……なに?」
 
 レイの声に、シンジが応える。
 
 レイは、前を向いたまま……呟いた。
 
 「……鈴原君の……ところに、行ってほしい」
 
 
 
 シンジは、少し驚いたように、レイを見た。
 
 「綾波……?」
 
 レイは、応えない。
 
 「ええと……お見舞い、かな?」
 
 ……だったら、ヒカリをやっぱり連れてきた方がよかったのではないか? と、シンジは思う。
 
 
 
 ややあって、レイは、静かに口を開いた。
 
 「鈴原君は……きっと、病気じゃないわ」
 
 「……ええと……なんで、そう思うのさ?」
 
 「……昨晩……公園に……鈴原君も、いたの」
 
 
 
 シンジは、立ち止まった。
 
 目を見開いて、レイを見ている。
 
 
 
 「じゃ……じゃぁ」
 
 シンジは、おずおずと声を出す。
 
 レイは、黙って前を見たままだ。
 
 
 
 シンジは、呆然としていた。
 
 つまり……図らずも、トウジはヒカリの気持ちを知ってしまったのだ。
 
 ヒカリにしても、こんな形でトウジに想いを伝えることは、不本意に違いない。
 
 そう思い至ってから、昨晩、レイが言った言葉を思い出した。
 
 
 
 『大丈夫……聞いていたのは、私、ひとりだけだから……』
 
 
 
 そうか……とシンジは思う。
 
 あの時、聞いていたのは、レイひとりではなかった。
 
 だが、そのことを、ヒカリに伝えることを、レイは避けたのだ。
 
 
 
 トウジは、あの時、茂みからレイと一緒には出て来なかった。
 
 そして、今日、学校を休んだ。
 
 ……トウジは、戸惑っているのだろうか。
 
 
 
 「うん……」
 
 暫くの沈黙の後……シンジは、静かに呟いた。
 
 レイは、シンジの顔を見上げる。
 
 「……トウジのところに……行ってくるよ」
 
 「……碇君」
 
 「……放ってはおけないしね」
 
 シンジは、笑う。
 
 
 
 このままにしておいても、どうにもならないというわけではないだろう。
 
 トウジは、子供ではない。今日一日……じっくりと考えて、自分なりの結論を出すかも知れない。
 
 だが、何か、手助けをしてあげたかった。
 
 少なくとも、ここまで状況を知ってしまって、何もせずに放ってはおけない、と思う。
 
 
 
 レイは、シンジの顔を見て、かすかに微笑んだ。
 
 シンジは、そんなレイの表情を見ながら、不思議な感慨にとらわれた。
 
 ……いつの間にか……こんなに……ひとを、見ている。
 
 それは、「理解しようと努める心」が、無意識にでも、自然体で起こっていることを表わしていた。
 
 分かっていたことだが……もう、前回のレイとは、完全に違う。
 
 レイは……成長している。
 
 一歩。
 
 一歩。
 
 歩いている。
 
 
 
 交差点で、シンジは、レイと別れた。
 
 シンジはレイを誘わなかったし、レイも、ついていくとは言わなかった。
 
 トウジと話すのには……シンジひとりがいいと、二人とも考えていた。



百七十七



 トウジは、自分の部屋で、床に座ってじっと天井を見つめていた。
 
 電気のついていない部屋。薄手のカーテン越しに差し込む光だけが、部屋の中をほのかに照らしていた。
 
 トウジは、いつになく、真面目な表情だ。
 
 ……だが、同時に、彼が何を考えているのか、その表情から伺い知ることは出来ない。
 
 
 
 「……お兄ちゃん、お昼、食べないの?」
 
 突然、ドアの向こうから、少女の声が聞こえる。
 
 トウジは顔をあげると、曖昧に微笑んで、声を出した。
 
 「おお……スマンなミドリ、ちょっと、腹すかへんのや……」
 
 「……大丈夫?」
 
 心配そうに、ミドリ……トウジの妹が、呟く。
 
 
 
 ミドリの言葉は、標準語のイントネーションだ。
 
 これは、ミドリがまだ幼い頃に、家族で関西を離れてしまったからである。
 
 
 
 「風邪なんか、めったにひかないのに……ホント、病院行った方がいいんじゃない?」
 
 「いや……そこまでやあらへん。寝とったら、ようなるわ」
 
 「そう……? 意地張らないで、辛くなったら言ってよ」
 
 「おお、そうするわ」
 
 
 
 ドアを隔てての会話。
 
 一拍置いて、トウジが呟くように言った。
 
 「スマンな……ミドリ」
 
 「なに、言ってんのよ……兄妹でしょ!」
 
 少女は照れたように笑い、やがて、足音が少し早足で、廊下を遠ざかっていく。
 
 
 
 部屋には、再び沈黙が訪れた。
 
 
 
 「……スマンな、ミドリ……」
 
 トウジは、もう一度、呟いた。
 
 
 
 もちろん、トウジが学校を休んだ理由は、風邪を引いたからではない。
 
 身体的に言えば、トウジの身体はすこぶる健康であった。
 
 「……綾波……やっぱり、言うたやろな……」
 
 誰に言うでもなく、ひっそりと呟くトウジ。
 
 ……つまり、自分があの場所にいたことを、レイが言っただろう、という意味である。
 
 
 
 レイが、そういった配慮をしたとは、トウジには考え難かった。
 
 レイに配慮が欠けている、とか、そういう意味ではない。
 
 レイには、あの場でそれを口にすることがどういう影響をもたらすか、よく分かっていないのではないか、と思ったのだ。
 
 
 
 ……それを聞いた時、ヒカリはどんな顔をするだろう。
 
 トウジには、想像がつかなかった。
 
 それを思うと恐ろしくて、とても学校に行ってヒカリと顔をあわせる勇気はなかった。
 
 それに、実際のところ、自分がどうしたいのか……自分自身にも見えて来なかった。
 
 
 
 ……自分らしくない、と、トウジは思っている。
 
 当然のことだが、このあと永遠に登校しないでいられるはずがない。
 
 問題を先送りにしただけだ。
 
 ……しかも、後ろ向きに。
 
 直面することを避けて、棚に上げただけに過ぎない。
 
 
 
 何事にも、ぶつかってみるのが自分の信条だと思っていた。
 
 ……いや、普段は別に、意識してそうしている訳ではない。
 
 だが、それが自分の性格であり、どんな時にもそういう態度で臨めるものだと思っていた。
 
 
 
 しかし……自分は、逃げた。
 
 それが、激しい自己嫌悪を呼び起こしている。
 
 ……では、あの場でどうすればよかったのか? あのまま、レイと一緒に、ヒカリの前に姿を見せればよかったのか?
 
 そうしたところで、どうにもならない。
 
 
 
 トウジの思考は、永遠とも思えるループに入り込んでいた。
 
 少なくとも……生まれてこの方、こういう「色恋沙汰」には完全に無縁だったトウジにとって、判断するには情報が足りなさ過ぎる。
 
 ……意外とも言えることだが……トウジには、ここに至るまで、恋をした経験がなかった。
 
 
 
 階下から、インタホンを鳴らす音がかすかに耳に届いた。
 
 ミドリが玄関を開ける音と、訪問者との間で交わすかすかな声が聞こえる。
 
 それを、トウジはまるで、別の世界からの音のように現実感なく聞いていた。
 
 
 
 やがて、駆けて来るミドリの軽い足音が聞こえてきた。
 
 ドアの前で立ち止まる。
 
 「……お兄ちゃん、碇さんが、お見舞いに来たよ」
 
 
 
 「!」
 
 
 
 トウジは、ガバッと顔を上げて、ドアの方を向く。
 
 「お兄ちゃん?」
 
 「……他に、誰が来とる?」
 
 トウジは、内心の焦りを押し殺すように言う。
 
 ……もしも、ヒカリが来ていたら……いや、見舞いに来ると言うような話になっていれば、ヒカリは必ず来るだろう。ケンスケやレイ、アスカも来ているかも知れない。
 
 ……今、会っても、何も言えない。
 
 自分の中で、何も整理がついていないのだ。
 
 
 
 「……碇さんだけだけど……」
 
 ミドリの声。
 
 トウジは、それを聞いて……思わず、ホッと肩の力を抜いた。
 
 
 
 「ああ……わかった。部屋まで連れてきてくれんか」
 
 「うん」
 
 ミドリが再び戻っていくのを聞きながら、トウジは慌てて布団の中に潜り込んだ。
 
 一応、風邪を引いていることになっているのだ。寝ていないとまずい。
 
 ……ますます、逃げとるな、ワシ……。
 
 トウジは、自嘲気味に微笑んだ。
 
 
 
 ドアが開き、シンジが部屋に入ってきた。
 
 「ありがとう、ミドリちゃん」
 
 「うふっ、どういたしまして、碇さん」
 
 照れたように微笑むと、ミドリは一礼して部屋を出ていった。
 
 
 
 ドアが閉まる。
 
 部屋の中は、トウジとシンジの二人だけになった。
 
 
 
 トウジは、布団の中で身を捩り、シンジの方を向く。
 
 シンジは、片手を上げて笑った。
 
 「やぁ、トウジ……どう?」
 
 トウジも、笑ってみせた。
 
 「おお、悪いの、シンジ……いや、たいしたことはないんや」
 
 言葉を濁す。
 
 
 
 トウジには、自分から昨日の話題を持ち出せない。
 
 ……第一、考えてみれば……レイが二人の前に出て行ったのを見たわけではないのだ。
 
 レイも、あのまま帰ったのかも知れない。そうであれば、シンジもヒカリも、何も知らない可能性があった。
 
 
 
 ……と、トウジが逡巡しているところに……シンジがゆっくりと、声をかけた。
 
 
 
 「トウジ……昨日のこと、洞木さんには知らせてない」
 
 「!」
 
 
 
 トウジは、目を見開いてシンジを見る。
 
 シンジは、ゆっくりと、繰り返すように呟いた。
 
 「綾波は……自分一人しか聞いていなかった、と言ったんだ。トウジのことは、さっき、僕だけが聞いた」
 
 トウジは、返事が出来なかった。
 
 ただ、布団から上半身を起こして……黙って、シンジの言葉を聞く。
 
 
 
 シンジは、言葉を紡いだ。
 
 「トウジ……
 
 僕と綾波は、洞木さんには、本当に世話になってる。
 
 トウジのことも、かけがえのない親友だと思ってるんだ」
 
 「………」
 
 「トウジ……今日、僕がここに来たのは、もちろん、僕自身がなにか力になれればと思ってたんだけど……
 
 綾波が、行けって言ったんだよ」
 
 「……綾波が?」
 
 「……綾波が、トウジのところに行って欲しいって。
 
 トウジを助けてあげてくれって、言ったんだ」
 
 「………」
 
 
 
 トウジは、黙ってシンジを見つめた。
 
 シンジも、トウジを見ている。
 
 
 
 「僕も……トウジの力になりたいんだ。
 
 ……おせっかいかも、知れないけど……」
 
 
 
 ややあって……トウジは、ふぅ……と、溜め息をついた。
 
 「シンジ……つったっとらんと、座ったらどうや」
 
 「あ……うん」
 
 トウジに促されて、シンジは床に座る。
 
 
 
 トウジは、シンジを見て苦笑すると、天井を見上げた。
 
 「ホンマ……おせっかいやな」
 
 「……ごめん」
 
 トウジの言葉に、シンジは俯く。
 
 ……やはり、おこがましかっただろうか?
 
 
 
 「せやけど……礼は言っとくわ」
 
 トウジが、呟く。
 
 シンジは、トウジの顔を見た。
 
 
 
 トウジは、肩を竦めて、笑った。
 
 そして、口を開く。
 
 「……ホンマのこと言うと……どないしたらええか、わからんようになっとったんや」
 
 「トウジ……」
 
 「なぁ、シンジ……いいんちょは、ワシなんかのナニがええんやろな」
 
 
 
 突然投げ掛けられた質問に、シンジは、戸惑った。
 
 「え……ううんと、ええ……と……う〜ん」
 
 考え込むシンジ。
 
 トウジは苦笑する。
 
 「おいおい、考え込むなや、正直なやっちゃな」
 
 「え、あ? ……あ、ああ、いや、いろいろいいところはあるよ」
 
 「その、『イロイロ』を、もちっと具体的に言うてみんかい」
 
 「え……だから、その……ええ……」
 
 「アホやな、そういう時には、ウソでもええから『カッコイイから』とかなんとか言わんかいな」
 
 「……いやぁ、顔にホレたわけじゃあないと思うよ……」
 
 「フォローせんかいッ!」
 
 
 
 ……一瞬の沈黙の後、部屋には笑いの渦が巻き起こった。
 
 
 
 ドアを開けて、ミドリがトレーにジュースを載せて入ってくる。
 
 笑いあっている二人を見て、嬉しそうに微笑んだ。
 
 「あら、元気になったじゃない、お兄ちゃん」
 
 「あ? ……お、おお、そうみたいやな」
 
 「碇さんのおかげね。感謝しなくちゃ」
 
 「わかっとる」
 
 「ふふ。じゃ、ごゆっくり」
 
 ミドリはトレーを置くと、部屋を出ていった。
 
 
 
 トウジは、閉じたドアを見つめて、口を開いた。
 
 「ま……男は顔やない。顔にホレられてもこまるがな」
 
 そういうトウジの表情は、しかし、複雑だ。
 
 
 
 「大事なのはトウジがどう思ってるか、ってことだと思うよ」
 
 シンジは、ストローをくわえて、静かに言う。
 
 「ああ……せやなぁ……」
 
 トウジも、静かに応える。
 
 
 
 「いいんちょがワシのこと、好き……言うてくれんのは、嬉しいンや。
 
 これは多分、ホンマやと思う」
 
 「うん……」
 
 「せやけどな……したら、ワシはいいんちょのこと好きなんか、言うと……ワカランのや。……少なくとも、今まで、意識してそう思うとったわけやない」
 
 「洞木さん、いっつも、トウジの弁当作ってくれたりするじゃないか。あれは、どう思ってたのさ」
 
 「いや……親切やなぁ……とか……」
 
 「ニブいなぁ」
 
 「シンジに言われとうないワ」
 
 
 
 開いた窓から吹き込んだそよ風が、カーテンを揺らした。
 
 床に座ったシンジの前髪を、爽やかに撫でていく。
 
 
 
 「ワシは、逃げとるんや……」
 
 トウジは、独り言のように、呟いた。
 
 
 
 ……それを責める権利は自分にはない、と、シンジは静かに考える。
 
 
 
 今、シンジは、レイと向き合うことから逃げていない。
 
 それこそ、辛くても、必死に向き合っている。
 
 傍目から見れば、シンジとレイの恋愛関係は、非常に前向きに映るだろう。
 
 
 
 ……だが、シンジは一度、逃げた。
 
 それを知る者は、いま、この世に誰もいないのだが。
 
 ……前回の人生で……シンジは、レイに向き合うことが出来なかった。
 
 現実から逃げて、自分を……そしてレイを、激しく傷つけて生きていた。
 
 
 
 ……その経験が、今のシンジを、逃げずに立ち向かわせているのだ。
 
 シンジにとって、前回の自分の態度には後悔しかないが……あえて……あえて言うならば、あの経験が糧となっているとも言える。
 
 
 
 トウジは、逃げた。
 
 だが、それを責めることができるだろうか?
 
 
 
 そう……
 
 決して、この選択が……100%誤りだったとも、言えない。
 
 逃げた事実が……トウジに選ぶことを許す選択肢だって、あるのだ。
 
 
 
 「洞木さんは、トウジが知ってるってこと、知らないんだ。
 
 このまま、何もなかったように過すっていう手もあるよ。
 
 そして、自分の中で、整理がつくのを待つとか……」
 
 「いや、それはアカンやろ」
 
 シンジの出したアイデアを、トウジは片手を挙げて制した。
 
 シンジは、トウジの顔を見る。
 
 トウジは、真剣な表情で、じっと自分の膝を見つめている。
 
 
 
 「……それは、アカンわ、やっぱ。ワシが知っとるんを、いいんちょに隠すっちゅうのは……つまり、いいんちょにウソついてるってことやろ。
 
 ……それは、アカン。
 
 これ以上、いいんちょに背中向けて歩いとっても、しゃあないで」
 
 
 
 「……じゃあ、どうするのさ?」
 
 「……そうやな……」
 
 「このままじゃ、堂々回りだよ……言うか、言わないか、しかないんだ。隠さないってことは……洞木さんに、気持ちを伝えるの?」
 
 「………」
 
 「……整理、ついた?」
 
 「いや……つかへんな……まだ」
 
 「……う〜ん」
 
 「実際のトコ……言うか、言わへんか、ちゅうても……伝えるべき言葉がないんや。……嫌いってわけでもないのに、嫌い、言うのはヘンやろ。せやかて、ホンマにいいんちょのこと好きかどうかわからへんのに、好き、言うのも、いいんちょに失礼や」
 
 トウジは、言葉を選ぶように……呟くように、言う。
 
 
 
 いいんちょに、失礼や……。
 
 その言葉が、トウジのトウジたる所以だ、とシンジは思う。
 
 自分のことじゃない。意識していないにも関わらず、まず……相手を思いやってしまう。
 
 
 
 だが……本当に、それでいいのだろうか。
 
 大事なのは……トウジ自身の気持ちじゃないのか?
 
 
 
 「大事なのは……トウジの、気持ちだよ」
 
 だから……シンジは、思うままに、口にした。
 
 「そりゃあ……相手があってのことだとは、思うけどさ……」
 
 
 
 トウジは、じっと、シンジの顔を見て……それから、天井を見上げる。
 
 そして……息を吐き出すように……そっと、呟いた。
 
 
 
 「大事なんは……ワシの気持ち、……か」



百七十八



 トウジは、玄関先までシンジを見送った。
 
 シンジは、門扉を開けて片手を置くと、振り返って、トウジを見た。
 
 トウジは、そんなシンジを見て、笑う。
 
 「そないな顔、すんなや……心配せんと、明日は学校に行く」
 
 「! ……どうするか、決めたの?」
 
 シンジが少し目を見開いて聞くと、トウジは肩を竦めて苦笑した。
 
 「いや、なんも」
 
 「そ……そう」
 
 
 
 「でもな……これ以上、逃げてられへん。キッチリ、ケリつけたるワ」
 
 トウジは、ゆっくりと、言う。
 
 しかし、その言葉は……噛み締めるように、自分に言い聞かせるように、強く、深く、喉を通った。
 
 
 
 「何のハナシ?」
 
 ひょいっ、と、脇からミドリが顔を出す。
 
 「なんでもあらへん。こっちのハナシや」
 
 トウジが腕を組んで応え、シンジに目配せする。
 
 ミドリは、ちょっとだけ頬を膨らませた。
 
 「もう、ズッルイの」
 
 
 
 「ほな、また明日な」
 
 「うん、また明日」
 
 シンジとトウジは、手を振って別れた。
 
 
 
 玄関を閉めたところで、ミドリがトウジの顔を見て瞳を輝かせた。
 
 「ねぇねぇ、お兄ちゃん……碇さんって、碇シンジさんでしょ?」
 
 「? それが、どないしたんや?」
 
 トウジが、怪訝な表情で尋ねる。
 
 「有名だもん」
 
 ミドリが、腰の後ろで手を組んで、くるり、と回ってみせる。
 
 「ウチのクラスでも、名前、みんな知ってるよ」
 
 「ミドリの……小学校やないか。……なんでや?」
 
 腑に落ちないといった表情で、トウジが首を捻る。
 
 
 
 ミドリは、ニコニコしながら言葉を紡いだ。
 
 「だってさぁ……カッコイイ、って噂だから」
 
 
 
 「ああ……」
 
 トウジが、溜め息とともに答える。
 
 「……もう、シンジがカッコイイいう話題は、そこらじゅうで聞き飽きたワ」
 
 しかし、小学校にまで知れ渡っているとは……
 
 ……もはや、噂は独り歩きしているといったところだろうか。
 
 溜め息をついて、そのまま自分の部屋に歩いていこうとするトウジの横に立って、後ろ手に腕を組みながら、ミドリが笑う。
 
 「な〜によ、お兄ちゃん……悔しいの?」
 
 「アホ言うな。男は顔やないわい」
 
 「顔だって大事だと思うけどなぁ」
 
 ミドリは、いたずらっぽそうに笑う。
 
 
 
 「でも……まぁ……絶世の美少年だって聞いてたけど、そんなんじゃないね」
 
 言うミドリの言葉に、トウジは、うえっという顔をしてみせる。
 
 「絶世の美少年!? 冗談やないわい」
 
 「でも、確かにカッコイイわよ」
 
 横目でトウジを見ながら、ふふ、と笑う。
 
 
 
 シンジの、格好よさ。
 
 それは、意志が伴うからだ、とトウジは知っている。
 
 写真で見ても、まぁまぁね、という印象しか持たないだろう。だが、本人に会って、会話をして、その物腰と瞳の光を目の当たりにすれば……評価は、大きく上がるのだ。
 
 
 
 ミドリは、トウジの前にトットッ、と数歩出て、それからくるりと振り返ってトウジを見上げた。
 
 「ねぇねぇ、お兄ちゃん……碇さんって、フリーかな?」
 
 
 
 トウジは、立ち止まる。
 
 そのまま、ミドリの顔を正面から見ると腕を組んで身体を反らせた。
 
 「やめとけやめとけ! ……シンジにはな、おまえなんかじゃ太刀打ちできん、最高のパートナーがおるんや」
 
 「ええっ」
 
 ミドリが、ガックリ……という表情を見せる。
 
 シンジの噂が小学校まで伝わっていて……レイの噂が伝わっていないはずがない。
 
 おそらく、噂が面白く伝わっていくうちに、二人の関係については削ぎ落とされてしまったのだろう。
 
 
 
 「それになぁ」
 
 トウジは、ミドリの顔に自分の顔を突き出すと、今度は真剣な表情で、呟いた。
 
 
 
 「……シンジは、顔だけの男やない。
 
 シンジとつきあうんやったら……それこそ、中身も釣り合う器が必要なんや」
 
 
 
 それが……綾波だ。
 
 トウジは、そう思った。
 
 
 
 夕焼けに赤く染まる街並を、シンジは、ひとり家路についていた。
 
 トウジの力になれたかどうか……正直なところ、よくわからない。
 
 だが、トウジは、はっきりと「ケリをつける」と言った。
 
 あとは、トウジが、自分の意志で、道を切り開いていくだろう。……これ以上の手助けは、無意味だ。
 
 ……シンジは、当面、考えなければいけない問題を、トウジから今晩の夕食の献立にシフトしていた。
 
 
 
 角を曲がったところで、シンジは、思わず立ち止まった。
 
 夕焼けに染まる……公園のフェンス。
 
 そこに、鞄を持ったレイが、寄り掛かってじっと立っていた。
 
 
 
 「あ……綾波……」
 
 呟くように……シンジがレイの名を呼ぶ。
 
 レイは、その声に顔をあげると……パァ……ッと表情を綻ばせた。
 
 
 
 レイは、シンジのところへ駆け寄って来ると、横に立ってシンジのワイシャツをつまんだ。
 
 シンジは、驚いたように、レイを見る。
 
 「あ……綾波……もしかして、ずっと、待ってたの……?」
 
 「……ええ」
 
 シンジの言葉に、レイは小さく頷く。
 
 
 
 そして、シンジを見上げると……
 
 柔らかく、微笑んだ。
 
 
 
 「おかえりなさい……おつかれさま……碇君」
 
 
 
 気付くと、シンジはレイを抱き締めていた。
 
 レイも、されるままに、じっとしていた。
 
 ただ、夕焼けだけが、二人のシルエットを刻み込んでいた。
 
 
 
 「……綾波が……いて……よかった」
 
 耳許で、シンジが呟くように言う。
 
 レイは、その言葉を聞いて……少し目を開いた後、安心したように瞼を閉じる。
 
 
 
 「……碇君が……いて……よかった」
 
 
 
 二人は、そうしてしばらく、動かなかった。



百七十九



 翌日、約束通り、トウジは学校へ来た。
 
 教室に入ってきて、シンジに軽く手を挙げてみせ……シンジも、それに応えた。
 
 ケンスケがトウジのところへ行き、「どうしたんだよ」「風邪でな」「へぇ、トウジも風邪なんかひくんだ」「じゃかぁしわい」などという会話を交わしている。
 
 
 
 ……やがて、教室に入ってきたヒカリが、トウジの姿を認めて、慌てたように近寄った。
 
 
 
 「す、鈴原……どうしたの? 昨日、休んだでしょ」
 
 「おお、風邪でな……スマンな、弁当、ムダにしてしもうて」
 
 「そ……そんなのは、別にいいんだけど……大丈夫?」
 
 「ああ、もうバッチリやで」
 
 
 
 いつもと、変わらぬ会話。
 
 遠くで見ているシンジは、どうするつもりなんだろう……と、不安な気持ちでそれを見ていた。
 
 結局……とりあえず、静観することにしたのだろうか?
 
 
 
 そのとき、トウジが急に立ち上がった。
 
 「そや、いいんちょ……ちょっと、頼まれてほしいんやけど」
 
 「えっ? な、なに?」
 
 ヒカリは、突然のトウジの言葉に、怪訝そうな表情を見せる。
 
 「いや……ちょいと、つきあわへんか。ここじゃなんやし……すぐすむさかいに」
 
 「? いいけど……」
 
 トウジに連れられて、二人は教室を出ていった。
 
 
 
 シンジは、その後ろ姿をじっと見つめていた。
 
 トウジが、どうするつもりなのか……それは、わからない。
 
 だが、自分が口出しすることなど、勿論出来ないし、必要もない。あとは、トウジが決めることだった。
 
 
 
 「トウジから、行くとはなぁ……」
 
 急に、ケンスケが呟く。
 
 隣に立っていることに気付かなかったシンジは、驚いて振り返った。
 
 「ケ、ケンスケ……」
 
 「ん?」
 
 ケンスケが、何食わぬ顔でシンジを見る。
 
 
 
 「……気付いてた、の?」
 
 「事情は知らないよ。……でも、俺達、小学校からの付き合いだぜ。風邪で休んだんじゃないことくらいは、わかるさ」
 
 言いながら、よいしょ、と机の上に腰を降ろすケンスケ。
 
 「ケンスケ……」
 
 「まぁ……結局……なるようにしか、ならないってことかな」
 
 遠くを見つめるように……そっと、呟く。
 
 
 
 「だから、言ったでしょ」
 
 アスカが、頬杖をついて、呟いた。
 
 「どっちかが踏みだせば、簡単だって」
 
 
 
 屋上。
 
 トウジに続いて通用門を通ったヒカリは、さすがに事態がおかしいことに気付いていた。
 
 もうすぐ、授業が始まる。にもかかわらず、トウジはここまで、何も言わなかった。
 
 こんな……二人きりでなければ、言い出せないようなことなのか?
 
 ……ヒカリは、我知らず、鼓動が早まるのを感じていた。
 
 足許から……緊張がせりあがってくる。
 
 
 
 屋上の中央で、トウジは立ち止まり……ゆっくりと振り返った。
 
 その瞳を見て……ヒカリの心臓は、どくん、と跳ね上がった。
 
 
 
 誰もいない、屋上……。
 
 そこで、トウジは、ゆっくりと、口を開いた。
 
 
 
 「いいんちょ……」
 
 「……う、うん」
 
 緊張で、かすかに声が上擦る。
 
 トウジは、足許を見て、静かに切り出した。
 
 「ワシは……まず、謝らなアカン」
 
 「……えっ?」
 
 ヒカリが、驚いてトウジの顔を見る。
 
 「……おとといの、晩な……」
 
 「……えっ……」
 
 「ワシ……公園に、おったんや」
 
 「………っ………!!!」
 
 「全部……かどうかはわからんけど、聞いてしもた」
 
 
 
 ヒカリは、足のふるえを抑えることが出来なかった。
 
 心臓が、早鐘のように、鳴る。
 
 身体中から、汗が噴き出す。
 
 耳鳴が、頭の回りを飛び回っているようだ。
 
 
 
 トウジは、ただ、言葉を紡いだ。
 
 「あそこにおったんは……ホンマに、偶然や。せやけど……聞いてもうた。立ち聞きなんて、最低や……ホンマ、スマン」
 
 言って、トウジは、ヒカリに頭を下げた。
 
 
 
 「あ……う……ううん、そ、その……き、気に……しないで」
 
 ヒカリは、わけも分からずに、慌てて返事をして、身体中でかぶりを振った。
 
 実際……立ち聞きされたこと、などで、トウジを恨む気など、1ミリだって起こりはしない。
 
 ……だが、どうしていいのかわからなかった。
 
 何を言えばいいのか……何も、閃かない。
 
 
 
 トウジは、降ろした頭を、ゆっくりと上げた。
 
 ヒカリを見る。
 
 ヒカリは、トウジに見据えられて、一瞬にして固まってしまった。
 
 
 
 「……ワシは、答えな、アカンと思う」
 
 「……えっ?」
 
 「いいんちょの気持ちを知ってしもて……知らんフリして今まで通りなんて、許されん」
 
 「………」
 
 ヒカリは、応えられない。
 
 
 
 だが、トウジは、答える……と、言った。
 
 ヒカリには、かろうじて、それだけがわかった。
 
 ……ずっと、知りたかった答え。
 
 ……そして、知りたくなかった答え。
 
 それが……今、語られようとしているのだ。
 
 
 
 ヒカリの緊張は、自覚することも出来ないほど高まっていく。
 
 少なくとも、心の準備が全く出来ていない状況。
 
 ましてや、「トウジの口から」切り出されることなど、想定もしていなかったのだ。
 
 
 
 トウジの視線。
 
 トウジの息遣い。
 
 ヒカリの意識は、今、トウジのみに集約していた。
 
 
 
 ヒカリは、固着した空気の中で、ただ……天の啓示か、死刑の宣告か……その言葉を、待ち続けた。
 
 
 
 トウジは……
 
 ゆっくりと……ヒカリを見つめたまま、呟いた。
 
 
 
 「ワシには……決められん」
 
 
 
 「……えっ?」
 
 思わず、ヒカリは気の抜けた返事をしてしまった。
 
 予想していた……その、どちらとも、違う答え。
 
 
 
 トウジは、続ける。
 
 「昨日、風邪ひいた言うたんは、ウソや。
 
 ずっと……どうしたらええか、考えとった。
 
 でも……決められんかった」
 
 「……それって……」
 
 ……自分を、受け入れてくれない、と、いうことだろうか……
 
 ヒカリは、呆然と、考える。
 
 
 
 トウジは、ヒカリを見て、微笑んだ。
 
 「……言うとくけど、いいんちょがキライ、とは、一言も言うとらんで」
 
 
 
 「え?」
 
 
 
 「ワシは……時間が欲しいんや。この気持ちが……本当かどうか、確かめたいんや」
 
 「………?」
 
 「雰囲気に、流されとるだけかも知れん………冷静になったら、違ってしまうかもわからん。そんな気持ちを……いいんちょに伝えるンは、失礼やろ?」
 
 「………」
 
 「こないなこと言うたら……なんちゅう図々しいヤツやって言われるかも知れん。せやけど、じっくり……今の気持ちを……見つめたいんや」
 
 「……それ……って……」
 
 
 
 トウジは、ヒカリの顔を見た。
 
 じっとりと……トウジの身体中を、汗が伝う。
 
 表情とは裏腹に……トウジは、ヒカリに負けず劣らず、緊張していた。
 
 
 
 手の平を、数回、軽く握り締める。
 
 
 
 トウジは、口を開く。
 
 「ワ……」
 
 上擦ってしまった。
 
 「ワ、ワシが、いいんちょのこと、好きかも知れん……ちゅう気持ちや」
 
 
 
 風が、吹いた。
 
 
 
 屋上のコンクリートの上に膝をつき、肩を震わせてヒカリは泣く。
 
 声もなく……。
 
 トウジは、思わずヒカリを抱き締めたい衝動に駆られた。
 
 あるいは、せめて肩に手を置いてやりたかった。
 
 ……だが、そのどちらも許されない、と、トウジは思っていた。
 
 告白したわけではない。
 
 ヒカリの気持ちに、まっすぐに応えてやれたわけではない。
 
 あくまで……保留、なのだ。
 
 
 
 こんなときに、恋人ヅラしたようなマネは、絶対に許されない、と、トウジは思っていた。
 
 
 
 だが、声もなく、うつむいて泣き続けるヒカリを見て、そのままにしておくことは出来なかった。
 
 ……おそらく、自分は、ヒカリを傷つけた。
 
 せめて……声だけでも、かけてやりたかった。
 
 そう思い、トウジは口を開いた。
 
 
 
 「……いいんちょ……」
 
 「………」
 
 「……スマンな……ハッキリと、応えてやれんで……」
 
 「………」
 
 「……ワシは……逃げとるんやな。キッチリする言うても、しょせんはこんなモンや……」
 
 「……ちが……う……」
 
 「……え?」
 
 
 
 ヒカリは……ゆっくりと、顔を上げた。
 
 その頬は、涙でぐしょぐしょに濡れていた。
 
 ……だが……
 
 その瞳は……唇は……喜びに、溢れていた。
 
 
 
 「すずはら……私は……うれしいのよ」
 
 「いいんちょ……」
 
 「時間……かかっても、いい……
 
 結局、その……好きじゃ……なくっても……」
 
 「いや……せやけど、それは……」
 
 「いいの!」
 
 突然、ヒカリが大きな声を出した。
 
 驚いたように、ヒカリを見る、トウジ。
 
 
 
 ヒカリは、濡れた瞳で、もう一度、微笑んだ。
 
 
 
 「いいの……いいの……。
 
 鈴原が、私のこと、考えてくれる。
 
 真剣に、考えてくれる……。
 
 ……今までと……ぜんぜん、違うわ。
 
 
 
 嬉しいの、私……嬉しいのよ」
 
 
 
 トウジは、動くことも……口を開くことも、できなかった。



百八十



 トウジとヒカリは、一時間目の授業には間に合わず……そのまま、さぼってしまった。
 
 正確には……普段、授業に真面目に出ているヒカリのことを気にして戻ろうとしたトウジを、ヒカリが「もう、間に合わないから、さぼろう」と制したのだ。
 
 トウジにとっては、それは大きな驚きだった。
 
 
 
 屋上の端に並んで腰を下ろしてお喋りをする。
 
 その間、ヒカリは、ずっと嬉しそうだった。
 
 
 
 一時間目が終わって、トウジとヒカリが教室に戻ってきた。
 
 クラスのみなは、一時間目に二人がいなかったことを察していたが、誰もその話題には触れなかった。
 
 
 
 トウジが、シンジの席に歩いてくる。
 
 シンジも、立ち上がってトウジの側によった。
 
 
 
 シンジは、トウジの前に立ち止まると、微笑んで口を開いた。
 
 「……どうだった?」
 
 「せやな……」
 
 トウジが、吹っ切れたような表情で応える。
 
 「まぁ、宣言したほど、ケリはついとらんかも知れん……せやけど、一歩、踏みだしたで……ズルいかもわからんけどな」
 
 ……昨日、トウジの部屋で見た、あの複雑な表情とは、違う。
 
 確かに、一歩、踏み出したのだ。
 
 それが、小さな一歩だとしても……
 
 前に進んだことは、間違いがなかった。
 
 
 
 その言葉に、シンジも嬉しそうに笑う。
 
 「それが……一番正しいんだよ、きっとさ……」
 
 シンジとトウジは、目配せをして笑いあった。
 
 
 
 ヒカリが自分の席に着くと、レイが立ち上がって歩み寄る。
 
 レイは、ヒカリの前の席に腰を下ろして、ヒカリの机の上に手を置いた。
 
 
 
 ヒカリは、レイの手をぎゅっと握る。
 
 かすかな震えが、レイの手に伝わってくる。
 
 
 
 「ヒカリさん……」
 
 レイが、声を出す。
 
 ヒカリは、震えながら……うつむいた顔を、あげた。
 
 泣きはらしたような、赤い、目……。
 
 「き……ん、ちょう……したぁ……」
 
 かすれた声でそう言うと、はぁあ〜……と大きく息を吐いた。
 
 「……大丈夫?」
 
 レイが、心配そうに声をかける。
 
 ヒカリは、そんなレイに、ニコッと微笑んでみせた。
 
 「大丈夫……まだ、どうもなってないけど……一歩、踏みだした気がするの。私も……鈴原も」
 
 
 
 その言葉に、レイは、優しく目を細めて……微笑んだ。
 
 「おめでとう……ヒカリさん。
 
 きっと……それが……一番、正しいと思うから……」
 
 
 
 一歩。
 
 大事なのは……
 
 ……その、一歩なのだから。
 
 
 
 ヒカリとレイは、そう呟いて、優しく微笑みあったのだった。