第四十一話 「星空」
百六十九



 シンジは、突然目覚めた。
 
 
 
 目が冴えてしまった、と形容してもいい。いずれにせよ、先程まで深い眠りに落ちていたにもかかわらず、前触れなく目覚めてしまったのだ。
 
 こういった経験は、誰しもがあることだろうと思う。
 
 
 
 シンジは、ベッドの上で起き上がり、机の上の目覚まし時計を見る。
 
 時刻は、1時。
 
 今また眠れば、翌日、登校するまでに充分な睡眠がとれる。
 
 そう考えて、もう一度ベッドの身体を横たえたのだが、一度醒めてしまった眠りには、なかなか戻ることが出来なかった。
 
 
 
 十分後、諦めたように軽く首を振って、シンジは再び起き上がった。
 
 
 
 シンジは、ミサトを起こさないように玄関で靴を履くと、そっと扉を開けた。
 
 廊下を歩き、エレベーターホールへ行く。
 
 特に、外出する目的がある訳ではなかった。
 
 なんとなく、星空の許で、散歩を楽しみたいと思ったのだ。
 
 することもなかったし、この時間帯に出歩く経験も余りなく、新鮮な気持ちを味わいたかった。
 
 
 
 団地を出て、左に曲がった。
 
 学校へ行くのとは反対側……住宅街に向かって歩いていく。
 
 この先に、公園がある。
 
 ユニゾン訓練で飛び出したアスカを追い掛けた、あの公園だ。
 
 目的地がなかったので……偶然、頭に思い浮かんだその情景に、足を向けてみただけだ。
 
 
 
 歩道を、街灯がかすかに照らしている。
 
 自分の他に、何も動くものがない世界。
 
 ここ数日続いた熱帯夜も小康状態になり、今はそよ風が心地よい。シンジは、自分が思う以上に、その心が平穏に包まれているのを感じていた。
 
 
 
 公園の入り口付近まで来た時、シンジは家を出てから初めて、自分以外の人物の気配を感じた。
 
 道が暗くてよく分からないが、自分が歩いてきたのとは反対側……シンジが歩いている道の正面から、女性のシルエットが歩いてくる。
 
 シンジは、下手な接触を避けて、公園に足を踏み入れようと、身体の向きを変える。
 
 
 
 もう、夜遅い。少なくとも、過剰に反応するならば、女性が無防備に歩きまわれる時間帯ではない。
 
 下手な接触をして、不審感を抱かせたくなかった。
 
 
 
 シンジは視線を女性のシルエットから外し、公園の中に向けた。
 
 それは、「僕はあなたのことを気にしていない」という、言外のアピールでもあった。
 
 このまま、女性は公園を通り過ぎていくだろう。自分は、公園の中を見ている。
 
 それで終わり。
 
 そうなる筈だった。
 
 
 
 だが、女性は、シンジの姿を完全に認められる距離まで来て、足を止めた。
 
 その気配に、怪訝な印象を持つシンジ。
 
 女性は、ゆっくりと口を開く。
 
 「……碇君? こんな時間に、なにしてるの?」
 
 その声に、シンジは即、その主を理解した。
 
 驚いて、女性の方に顔を向ける。
 
 「……洞木さん? ……こんな時間に、なにしてるの?」



百七十



 シンジとヒカリは、公園のベンチに並んで腰掛けていた。
 
 この公園は、あまり大きくない。住宅街の中の公園なのだから、それが自然だろう。
 
 敷地の中央に、一本、大きめの街灯が立っており、その明かりだけが公園をかすかに照らしていた。
 
 
 
 「驚いちゃった……こんな時間に、碇君に会うなんて思わなかったから」
 
 ヒカリは、微笑んで呟いた。
 
 シンジも微笑む。
 
 「驚いたのは、僕も一緒だよ」
 
 「うん」
 
 ヒカリが、かすかに頷く。
 
 「公園の前に、誰かいるな……と思ったから、さっさと通り過ぎちゃおうと思ったんだけど。近くまで来てみたら、碇君だったから」
 
 「なんとなく、眠れなくて……散歩してたんだ」
 
 「そうだったんだ……」
 
 「洞木さんは?」
 
 「コンビニ」
 
 言って、ヒカリは軽く、手に持ったビニル袋を掲げてみせる。
 
 「こんな時間に?」
 
 「お塩が、なくなってたのよ。お弁当作るのに、どうしても必要だから……」
 
 「塩を使わない料理に変更すればよかったのに」
 
 シンジは言う。シンジのレパートリーには塩を全く使わない料理が幾つもあり、同等の料理人であるヒカリにも、同じくらいの数のレパートリーがあると思うのが自然だった。
 
 少なくとも、わざわざ、こんな深夜に出掛けなければならないようなことではないだろう。
 
 「それでもよかったんだけど……どうしても作りたい料理が、昨日買った料理の本に載ってて……塩がいるのよ」
 
 はにかむヒカリ。
 
 その表情を見て、シンジは思い至る。
 
 「……トウジの弁当?」
 
 
 
 ヒカリは、一瞬にして赤くなった。
 
 俯いてから、少しの間をおいて、小さく頷く。
 
 
 
 「すごいなぁ、洞木さん……僕も綾波やアスカの弁当を作ってるけど、そこまでがんばってないよ」
 
 シンジは微笑んで言う。
 
 それは、半分は嘘で、半分は本当だ。
 
 シンジは、弁当に手を抜いたことなど、一度もない。レイにもアスカにも、本当に美味しい料理を食べてもらいたいと、思う。
 
 だが同時に、前日の晩から準備に取り掛かるような、手間のかかる弁当を作ったことがないのも、事実だった。
 
 
 
 「それは……だって、アスカやレイさんの料理は、朝も夜も碇君が作ってるんでしょ?」
 
 「うん……まぁ」
 
 シンジが笑う。
 
 ヒカリは、微笑んで溜め息をついた。
 
 「そっちのほうが、よっぽど凄いわよ」
 
 「そうかな……」
 
 シンジが、頭を掻いて呟く。
 
 
 
 沈黙が訪れた。
 
 
 
 公園の街灯は、決して強い光ではない。
 
 二人の座る辺りは、暗闇と言うほどではないが、明るいと言うほどでもなかった。
 
 見上げると、割と多くの星を見ることができる。
 
 
 
 風にそよぐ、かすかな木々のざわめきしか聞こえない世界。
 
 星のまたたきが、静かに耳に届くような気がした。
 
 
 
 「……レイさんは、幸せね……」
 
 ヒカリが、呟くように、言った。
 
 シンジは、その言葉を、星空を見上げたままの姿勢で、聞く。
 
 「……なんで?」
 
 「……こんなに、想ってもらってるんだもの」
 
 「………」
 
 シンジは、返事をしなかった。
 
 何と答えていいか、わからなかったからだ。
 
 「……レイさんと、気持ち……通じた?」
 
 ヒカリが、静かに問う。
 
 少し、黙って……シンジは、ただ小さく、頷く。
 
 そして、それでは足りないと思ったのか、小さな声で答えた。
 
 「……うん」
 
 「そうかぁ……おめでとう」
 
 ヒカリが、小さく微笑む。
 
 「まぁ……なんだか、そうなのかな、って思ってたけど」
 
 「そうなのかな、って?」
 
 「もう、告白したのかな、って。なんだか、前よりもずっと、親密な感じがしたから」
 
 「……そうかな? ……自分じゃ、わからないよ」
 
 「うん……そうだよ」
 
 「そうかぁ……」
 
 静かに、息を吐くように、シンジは答えた。
 
 
 
 時間の流れが、非常に緩慢だった。
 
 
 
 世界中から、この公園だけが、切り離されたような錯覚を覚える。
 
 
 
 「トウジはさ……」
 
 ややあって、シンジが呟いた。
 
 突然シンジの口から出てきた人物の名前に、ヒカリはシンジの顔を見る。
 
 「……鈴原が……なに?」
 
 「……きっと、洞木さんの事、好きなんだろうな」
 
 
 
 ヒカリは、シンジの言葉に、過剰な反応を示さなかった。
 
 自然に、高きから低きへ流れる水のように、耳の中に流れ込んできた。
 
 この、空間のせいだ……と、ヒカリは思う。
 
 まるで、ゆったりしたゼリーに包まれているような、感覚。
 
 
 
 「……そう、かな……」
 
 かすかな声で、ヒカリは呟く。
 
 「そんなこと……わからないわ」
 
 「……どうして?」
 
 「……自信が、ないのよ」
 
 呟き。
 
 「いつも……お弁当を作ってあげてる。鈴原は、それを全部食べてくれる。美味しかった、って言ってくれる。ありがとう、って言ってくれる」
 
 でも……と、ヒカリは言う。
 
 「それは、私が作ったから、ってわけじゃない。……たとえば、アスカが鈴原のお弁当を作ってきたら?」
 
 「そんなの、想像できないよ」
 
 シンジが微笑む。
 
 ヒカリも、クスリ、と笑う。
 
 「まぁ、たとえば、の話だけど……。でも、鈴原はきっと、全部食べると思うの。美味しかった、って言うと思う。ありがとう、って言うわ」
 
 
 
 それは、確かだろう、とシンジも思う。
 
 トウジは、デリカシーという言葉とはあまり近くない人間だ。
 
 だが……同時に、無意識の優しさに包まれた人間でもある。
 
 古臭い言葉で言えば、義理と人情を忘れない性格、とも言えた。
 
 
 
 「鈴原は……誰も、拒絶しないわ」
 
 ヒカリは、顔を上げて言った。
 
 その横顔を、シンジは静かに見つめる。
 
 ヒカリは、気落ちしたふうではなかった。晴れやかな表情で、星空を見上げていた。
 
 
 
 トウジは、誰も拒絶しない。
 
 その言葉を、シンジは黙って聞いていた。
 
 ……前回……そして、今回。
 
 初めてトウジと出会ったとき、トウジはシンジに激しい敵意をぶつけてきた。
 
 
 
 だがそれは、相手から逃げないという意味でもある。
 
 少なくともトウジは、前回のシンジよりは、はるかに他人との距離が近い少年だった。
 
 それは、仲間ばかりでなく、憎悪を向ける相手に対しても、そうなのだ。
 
 トウジは、不器用で……だが、その不器用さは、トウジという人間の印象を大きくプラスに傾けるものだった。
 
 
 
 「それでも、トウジは……無意識にでも、洞木さんが好きなんだと、思うけど」
 
 シンジが言う。
 
 ヒカリは、微笑む。
 
 「いいの……別に、そう言ってくれなくても。
 
 私は、鈴原が、好き。
 
 でも、それは……誰にでも優しいところが、好きなのよ。
 
 鈴原がそうじゃなかったら、好きになんか、なってないと思う」
 
 ヒカリの微笑みは、シンジの胸に響いた。
 
 純粋な、笑顔だった。



百七十一



 レイは、突然目覚めた。
 
 
 
 目が冴えてしまった、と形容してもいい。いずれにせよ、先程まで深い眠りに落ちていたにもかかわらず、前触れなく目覚めてしまったのだ。
 
 こういった経験は、誰しもがあることだろうと思う。
 
 
 
 レイは、ベッドの上で起き上がり、机の上の目覚まし時計を見る。
 
 時刻は、1時半。
 
 今また眠れば、翌日、登校するまでに充分な睡眠がとれる。
 
 そう考えて、もう一度ベッドの身体を横たえたのだが、一度醒めてしまった眠りには、なかなか戻ることが出来なかった。
 
 
 
 十分後、レイは再び起き上がった。
 
 
 
 レイは、静かに家を出た。
 
 気持ちとしては、シンジのところへ行きたかった。
 
 だが、シンジが人より疲れていることは知っている。睡眠は、彼の身体にとって、大事なことだ。
 
 邪魔したくはなかった。
 
 
 
 家を出たことに、深い理由はなかった。
 
 なんとなく、外を出歩いてみたくなったのだ……。
 
 その事実は、レイ自身には深い感銘を抱かせるものではなかった。だが、彼女を知る者であれば、その意外な行動理由に目を見張るだろう。
 
 彼女の変化は、ゆっくり、確実に、進んでいた。
 
 
 
 星空の下を歩くことは、レイにとって、昼間歩くことと大きな違いはなかった。
 
 またたく星を見上げる。その美しき宝石箱は、しかし、レイに特に大きな感慨を抱かせない。
 
 夜空を美しいと思う感情が無いわけではない。だがそれは、自然に湧き出る感情ではなく……「星空は美しい」という常識から紡ぎだされた、作られた感情であることを、彼女自身が理解していた。
 
 ……では、何かを見て美しいと思う感情が、レイにとって全て作られたものかと言うと、それは違う。
 
 シンジの笑顔を、美しいと思う。
 
 そのことに、嘘偽りはない。
 
 ……レイは、回想する……あの、心に刻まれた、一枚のポートレイト。
 
 あの、公園でのシーンは、今も彼女にとって……かけがえのない、大切な宝物だ。
 
 自分には、感情がある。
 
 その事実を、繰り返し最確認することが出来る、という意味でも、あのひとときの記憶は大事だった。
 
 
 
 星空に美しさを感じないことは、悪しきことだろうか?
 
 人間には、個体差がある。
 
 ロボットではないのだ。
 
 星空を美しいと感じない人間は、いないわけではあるまい。そしてそれは、その個人特有の嗜好によるだけで、それが悪いことだと言うのとは違う。
 
 そう思うかぎり……そして、側にシンジがいてくれるかぎり、自分は人間になることが出来るかも知れない……と、思う。
 
 淡い、期待。
 
 薄く……脆く……儚く。
 
 タンポポの綿毛のように、軽く。
 
 カーテンから差し込む朝日のように……微かな、期待。
 
 
 
 だが、それが、彼女を支えている。
 
 
 
 公園でのことを、考えていたからだろうか?
 
 気付くと、視界に小さく公園の入口が見えてきた。
 
 もちろん、あの公園ではない。シンジと抱きあった、お互いの体温を感じあった、あの場所とは違う。
 
 住宅街に囲まれた、小さく寂れた公園。
 
 
 
 だが、今のレイには、不思議と懐かしいような気持ちが沸き上がってくる。
 
 止まることなく、歩みは公園に向かって進む。
 
 そして……
 
 もう、あと数メートルで、公園の入口に差し掛かろうかという、その時。
 
 
 
 レイは、前方に、自分とは違う人影の存在を認めた。
 
 その人物は、正面の道を、こちらに向かって歩いてくる。
 
 
 
 レイは最初、その人物のことを、全く意に介さなかった。
 
 他人だ。
 
 レイの意識は公園に向けられており……これから自分の横を通り過ぎて再び夜の闇に消えていく人物のことなど、眼中に無かった。
 
 レイは、公園に足を踏み入れようと視線を外す。
 
 だが、その刹那、その人物が街灯のスポットライトに入り、視界の端でその顔が明らかになる。
 
 
 
 レイは、外しかけた視線を、再び戻す。
 
 
 
 歩いてきた人物は、立ち止まっていた。
 
 驚いたように、レイを見ている。
 
 
 
 「なんや……なにやっとるんや、綾波……」
 
 「……鈴原……君……」
 
 
 
 トウジの間抜けな顔を、レイは、ただじっと見つめ続けた。



百七十二



 二人が沈黙していた時間は、ほんの数秒だった。
 
 先に口を開いたのは、トウジだ。
 
 
 
 「綾波……なにやっとるんや、こんな時間に」
 
 「……散歩」
 
 「こんな……夜遅くにか?」
 
 「そう……」
 
 トウジの問いに、呟くように答える。
 
 
 
 トウジは、溜め息をついて、レイを見た。
 
 「あんなぁ……そういう配慮がないんは想像つくけどな、もう少し考えたほうがええで」
 
 「……そういう、って?」
 
 少し首をかしげて、怪訝そうに問い返すレイ。
 
 「夜遅くに、おなごが一人で歩き回るっちゅうことに対する配慮や」
 
 「よく、わからないわ」
 
 トウジは、もう一度、溜め息をつく。
 
 「ま、ええわ、もう……。……シンジは、一緒やないんか?」
 
 「碇君は……寝てるわ」
 
 レイが、短く答える。
 
 「ま……そら、そうやな。もう、2時や……」
 
 トウジが独り言のように呟く。
 
 
 
 再び、沈黙が舞い降りる。
 
 
 
 トウジは、目の前に立つ少女を見る。
 
 星の明かりと、ほのかな街灯の明かりに映し出された、姿。
 
 
 
 月みたいだ、と思い、トウジは自分の発想に驚いた。
 
 レイに、そんな印象を持ったことはなかった。
 
 きっと、今夜は月が出てへんからや……と、自然に思う。
 
 ジグソーパズルを埋めるピースのように……足りない要素が、埋められる。
 
 月。
 
 レイは、夜の空間に、静かにはまり込み、溶け込んでいた。
 
 
 
 視線を少しずらして、公園の中を見つめたまま、ただ立っている少女。
 
 その横顔は、光の当たる真っ白な肌と、背後に溶け込む漆黒の闇に大別される。
 
 そのコントラストは、彼女の美しさを際立たせ……まるで、一枚の絵画のように感じられた。
 
 
 
 綾波、レイ。
 
 この少女の見つめる先には、たった一人の少年の姿しかないことを、トウジは知っていた。
 
 碇、シンジ。
 
 人形に過ぎなかった少女に、翼を与えた少年。
 
 
 
 トウジは、シンジとレイの印象を、不思議な憧れと共に抱いていた。
 
 彼等は、自分にとって大事な親友であり、かけがえのないものだ。
 
 いつも、数人の仲間達と共に、楽しく過ごせる、友人。
 
 ……だが同時に、この二人は、自分たちとは決定的に違う、と感じていた。
 
 
 
 何が違うのか、説明することなど不可能だった。
 
 だが、そういう印象は、同じ仲間であるヒカリやケンスケ、そしてあのアスカでさえも、少なからず抱いているはずだ、とトウジは思う。
 
 ……この二人が抱いている、オーラのようなものだろうか?
 
 シンジは、からかいや挑発に面白いように乗るし、ひっかけを考えれば、わざとかと突っ込みたくなるほどハマる。
 
 レイは、世間知らずという言葉で説明できないほどの世間知らず。すべての常識が通用しない、言うなれば赤ん坊のような存在。
 
 
 
 ……にもかかわらず……同時に、この二人は、自分たちの何倍も永い人生を歩んできたかのような錯覚を抱かせる。
 
 何を経てこうなったのか推測することも許さない、陰。
 
 
 
 「……こんなところで、どうするつもりだったんや」
 
 トウジが、沈黙を破った。
 
 何も喋らず、ただ対峙しあう構図が、不自然に感じられたからだ。
 
 だが、それは対外的なことで、彼自身に違和感は全く無い。
 
 普段なら、綾波レイと二人きりで向かいあえば、その重い沈黙に苦しむだろう。しかし、今のこの空間には、そんなものは全く無かった。
 
 自然だった。
 
 むしろ、「自然であること」に違和感を感じた、と言ってもよい。
 
 
 
 「……公園に……行こうと思って」
 
 レイが、目だけをトウジの方に動かして答える。
 
 「公園に? こんな時間にか? ……なんぞ、あるんか?」
 
 トウジが、眉根を寄せて尋ねるが、レイは静かに首を振る。
 
 「ただ……行こうと思っただけ」
 
 「ああ……さよか」
 
 トウジも応える。
 
 いつもなら思わず呆れてしまうような答えだが、不思議と、トウジにはごく自然に聞こえた。……ただ、行きたくて。それは、今、この場では、一番ふさわしい選択肢のように感じられる。
 
 
 
 「せやかて……女一人で、よりにもよって公園か? 暗いし、物騒やないか」
 
 トウジは、思ったことを口にする。
 
 レイは、怪訝な表情を見せる。トウジの言う意味が、よく理解できないらしい。
 
 トウジは、溜め息をつくと、レイの方に歩み寄った。
 
 
 
 「しゃぁないな……ワシも、つきおうたるわ」
 
 トウジの言葉に、レイは少しだけ目を開く。
 
 「……なぜ? ……別に、いい」
 
 「そうはいかんて。これで綾波になんぞあったら、シンジに殺されるわ」
 
 苦笑するトウジの表情を、レイは不思議そうな顔で見つめ……そのまま、公園の中に足を踏み入れた。
 
 追って、あとを歩くトウジ。
 
 
 
 公園の入口から、中央の広場に抜ける茂みの手前で、レイは急に立ち止まった。
 
 後ろをついて歩いていたトウジは、急停止したレイの背中に危うくぶつかりそうになる。
 
 
 
 「な、なんや……どないした、綾波?」
 
 トウジは囁いて、レイの見つめる先を覗き見た。
 
 
 
 それは、意外な光景だった。
 
 
 
 たった一本の街灯の明かりに照らし出されたベンチ。
 
 そこに、並んで座る、一組の男女。
 
 
 
 その二人ともを、トウジは知っていた。
 
 
 
 碇シンジと……洞木ヒカリだ。
 
 
 
 トウジは、驚きで思考が止まっていた。
 
 こんな深夜に、人気の無い公園で、二人きりで過ごしている。
 
 そこから推測できる事実は、幾つもありはしない。
 
 二人の穏やかな表情は、その可能性を裏付けするかのようなものだった。
 
 
 
 トウジは、なんだかわけのわからない感覚に、自分の胸を掴まれるような感覚に襲われた。
 
 理解に苦しむ感情。
 
 かつて感じた記憶の無い感情だ。
 
 親友であるレイが、彼氏であるはずのシンジに裏切られたことについての、シンジに対する怒り?
 
 
 
 違う。
 
 
 
 それは、違う。
 
 
 
 トウジは、目を瞑りたくなった。
 
 
 
 この感覚は、なんだ。
 
 
 
 この場を離れたかった。
 
 きびすを返して、一目散に帰りたかった。
 
 だが、それを許さない何かが、自分の足首を押さえて放さない。
 
 
 
 トウジは、レイの表情を盗み見た。
 
 二人を見つめる、レイの横顔。
 
 そこから、感情を見いだすことは出来ない。
 
 ただじっと、目の前の光景を見つめている。
 
 
 
 シンジとヒカリを包む穏やかな空気が、夜の空間を伝播して自分の肌に触れるような感覚。
 
 それは、身の置きどころのないような……不快な感覚。
 
 (綾波が悲しむのを……見たくないからや)
 
 トウジは、そう結論付けた。
 
 その結論にも、違和感はある。だが、他に、何も可能性が思い付かなかったからだ。
 
 そう思い、トウジは、囁くように……かすれた声で、レイに声をかけた。
 
 「あ……綾波……ワシら、ここにおらんほうが、ええんとちゃうか……?」
 
 
 
 レイは、ゆっくりと、振り返った。
 
 「……なぜ?」
 
 短く、応える。
 
 
 
 トウジは、言葉を発することが出来なかった。
 
 完全に、固まっていた。
 
 
 
 今まで、感情を感じることが出来なかった、レイの横顔。
 
 ……それが、トウジを見る瞳の奥に、それを初めて感じることが出来た。
 
 
 
 トウジの衝撃は、絶大だった。
 
 
 
 ……レイは、一片も、シンジのことを疑っていない。
 
 
 
 それを、はっきりと、感じたのだ。
 
 
 
 根拠も何も、無かった。
 
 レイは、シンジのことを、微塵も疑っていない。
 
 それを、叩き付けられるように、全身でトウジは感じていた。
 
 
 
 そして、トウジは、レイが悲しんでいないことを確認したにもかかわらず……自分を襲うドス黒い感覚が全く軽減していないことに、驚いたのだ。
 
 
 
 これは……
 
 なんだ?
 
 
 
 空気が、固着した。
 
 
 
 セメントの中にいるような感覚。
 
 
 
 ……その瞬間。
 
 ヒカリが、ゆっくりと、口を開く。
 
 
 
 「……私は、鈴原が、好き……」
 
 
 
 トウジは、ヒカリを見つめていた。
 
 まばたきも忘れていた。
 
 何も考えていなかった。
 
 完全な……無の空間に立ち尽くしていた。
 
 
 
 「たとえ……」
 
 ヒカリが、言葉を紡ぐ。
 
 「鈴原が……私に、何の感情も抱いていなくても、いいの。
 
 ……いえ、ホントは、よくはないわね」
 
 微笑む。
 
 「……でも、私は、鈴原が、好き。
 
 それは、本当のこと、だもの……。
 
 私の気持ちには、嘘はないの。
 
 それで……いいのよ」
 
 
 
 「……本当に?」
 
 シンジが、穏やかな口調で尋ねる。
 
 ヒカリは、小さく頷いた。
 
 「きっとね……」
 
 ゆっくり、噛みしめるように、ヒカリが口を開く。
 
 
 
 「トウジにとって、私は、友達だと思うの。
 
 それくらいは……自惚れさせて。
 
 トウジは……私のことを、大事な友達だと、考えてくれているわ……
 
 きっと……。
 
 ……でも、それ以上の感情も、ない」
 
 「そうかな……」
 
 「ええ……そうよ……きっと」
 
 だが、言葉とはうらはらに、ヒカリの表情に曇りはない。
 
 「それで……いい。
 
 それが……きっと……ベストなのよ」
 
 
 
 トウジは、ヒカリの言葉を、ただ聞いていた。
 
 トウジの思考の限界を超えていた。
 
 何も、考えられなかった。
 
 
 
 トウジにとって、ヒカリという存在は……
 
 ヒカリの言う通り、大事な友達……
 
 親友、という存在だった。
 
 
 
 今までは。
 
 
 
 ……今は、どうなのか?
 
 それを判断することは、今のトウジには不可能だった。
 
 今まで、考えたこともなかった。
 
 だが、だからといって……
 
 ヒカリの言葉を、そのまま受け入れることに、大きな抵抗を感じていた。
 
 
 
 どうしていいか、わからなくなった。
 
 何も、判断できなかった。
 
 
 
 気付くと、トウジは、一歩……また、一歩と……ゆっくり、後退する。
 
 自分の足首をつかむ何かがいなくなっていることに、今、ようやくと気付く。
 
 
 
 そして……
 
 自分の胸を押す、何か。
 
 
 
 その何かが押すままに……更に数歩後退し……
 
 トウジはやがて、きびすを返した。
 
 
 
 トウジは、
 
 初めて……
 
 
 
 逃げた。
 
 
 
 彼を巣食う黒い感情は、いつの間にか、無くなっていた。
 
 だが、それに気付かないほど……必死に、走っていった。



百七十三



 レイは、走り去るトウジの後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。
 
 そして……ゆっくりと、茂みの裏から、公園の中に足を踏みだす。
 
 
 
 「……綾波!?」
 
 最初に、レイの姿に気づいたのは、シンジだった。
 
 驚愕の表情で、レイの姿を見つめる。
 
 ヒカリも、驚きの余り、声を失っていた。
 
 
 
 レイは、二人の前まで歩み寄った。
 
 シンジは、慌てたように、弁解する。
 
 「いっ、いや、その……何だか眠れなくてさ……散歩してたら、そこで洞木さんに偶然……その、会ってね。で……その、ちょっと、お喋りを……さ……」
 
 ヒカリも、その言葉を継いだ。
 
 「そ、そうなのよ、レイさん! 決して、二人で会ってたわけじゃなくてね……」
 
 そんなことを言ったら逆効果だろう、と思わず冷や汗をかくシンジ。
 
 
 
 しかし、レイは、ゆっくりと微笑んだ。
 
 「大丈夫……わかってるから」
 
 
 
 その言葉は、本当に、愛情と温かさを滲ませていて……シンジとヒカリは、同時に、体中の力を抜いて溜め息をついた。
 
 「あ、ああ……ありがとう……ごめん」
 
 苦笑するシンジを、微笑んで見つめるレイ。
 
 
 
 そんな二人を、ヒカリは、少しだけ羨ましく見つめていた。
 
 信じあう、心……。
 
 それが、今のヒカリには、眩しかった。
 
 
 
 つぅっ……と、レイが視線をヒカリに移動させた。
 
 
 
 「ヒカリさん……鈴原君が、好きなのね」
 
 レイが言う。
 
 
 
 その言葉に、ヒカリは、一瞬にして真っ赤になった。
 
 「レッ……レイさん! き、聞いてたの!?」
 
 「ええ」
 
 頷くレイ。
 
 「ああ……どうしよう……ええと」
 
 顔を茹でダコのようにして、所在なくあたふたと視線を泳がせるヒカリ。
 
 レイは、静かに口を開く。
 
 「……とても……いいことだと思うわ」
 
 
 
 ヒカリは、レイの顔を見た。
 
 「……レイさん」
 
 「人を……好きになるのは……温かいこと。
 
 心が……満たされることよ」
 
 レイは、淡々と、言葉を紡いだ。
 
 
 
 人を好きになるのは、温かいこと。
 
 
 
 心が、満たされること……。
 
 
 
 ヒカリは、頬を染めつつ……頷いた。
 
 「私も……そう思うわ」
 
 そして、微笑む。
 
 レイも、柔らかく微笑んだ。
 
 
 
 「大丈夫……聞いていたのは、私、ひとりだけだから……」
 
 レイが言う。
 
 「あ……うん、そう……? ……うん、レイさんには、知られても構わないか……」
 
 ヒカリが、照れ臭そうに言う。
 
 シンジは、レイの言葉に違和感を抱く。
 
 ……レイが、一人で聞いていたのは、当然だろう。
 
 ……なぜ、わざわざ言い直す必要があったのか?
 
 だが、シンジはその疑問を打ち払った。
 
 大した問題ではない、と思ったからだ。
 
 
 
 レイが来たので、シンジは一緒に家に戻ることにした。
 
 公園の入口で、ヒカリは二人に手を振って、自宅の方に戻っていく。
 
 その後ろ姿を見送って、シンジとレイは、並んで家路についた。
 
 
 
 しばらく、黙って歩いていたが……やがて、レイが口を開いた。
 
 「……碇君」
 
 「……なに?」
 
 前を向いたままのレイに、前を向いたまま応えるシンジ。
 
 「ヒカリさん……」
 
 「うん」
 
 「……鈴原君」
 
 「うん……」
 
 「うまく……いくと、いいと思う」
 
 
 
 シンジは、思わず、レイの横顔を見つめた。
 
 今までのレイなら、言いそうの無いセリフだったからだ。
 
 
 
 レイは、シンジを横目で見上げた。
 
 「碇君も……そう、思うでしょう」
 
 「ああ……うん」
 
 
 
 「じゃぁ……」
 
 「え?」
 
 「鈴原君を……助けてあげて」
 
 
 
 シンジは、黙ってレイの顔を見つめていた。
 
 
 
 やがて、レイが、シンジの指に、自分の指を絡めてきた。
 
 シンジも、思わず絡め返す。
 
 レイの指が、静かに……しかし、ぎゅっと、シンジの手の平を握る。
 
 
 
 レイは、前を向いたままだ。
 
 
 
 やがて、シンジは、ゆっくりと、頷いた。
 
 「うん……」
 
 レイは、静かに、シンジの顔を見上げて……
 
 ……柔らかく、微笑んだ。



百七十四



 翌日、トウジは、学校を欠席した。
 
 ヒカリは、渡すことの出来なかった弁当箱を抱えて……
 
 心配そうに、主のいない机を見つめていた。